奥陸羽古代史諸證一

秋田孝季

序に曰く

本書は、故秋田孝季翁及び故和田長三郎吉次の遺したる史書の再書なり。元本、紙虫に喰荒され修理難く、再書を以て再編せしものにて、末代に藏せしものなり。

明治卅年七月一日
和田長三郎末吉

大なる古代神之國

丑寅日本國の北西にありき大國、山靼を更にして進むる處に紅毛人國ありて、國を堺して民族各々風土を異にせり。なかんずく古代に於てはギリシア聖地オリンポスなる神山にては、十二神々をして神話の根限ありて多彩なり。古にして山靼神は丑寅日本耳にて知れるも、倭國に渉るなし。

オーデンの神・カオスの神・ラーの神・ルガルの神・ブルハンの神。その教典にはゾロアスター・マホメット・アレクサンドロス・キリストら古代オリエントなる聖者たり。その聖典に遺るは、天竺に遺れる祆教典はゾロアスターなり。エツダとはスカンディナブィアの教典にて、ギリシア聖地オリンポス十二神他、諸神はイリアスやオデユッセウスなる聖典に在り。ヘシオドス更にはヘロドトスらギリシア詩人、亦イリアス・オデユッセウスの叙事詩を著したるはホメロス、ローマなる詩人ウエルギリウス・オビデイウスになる古き教典なり。キリストになる旧約聖書教典らはベニスのマルコポーロより授かりしものなるも、その他なるブルハン神及びルガル神の教典は古きより山靼より渡り来たるものなり。

亦エジプトになるラー神の教典にては、ナイルのアメン神を傳へたる紅毛人より得たるものと曰ふ。その名はヘブライの人とだけに遺り不祥なり。
Atlas・Oronos・Haqes・Olynpian
など紅毛人になる文字多き教典なるも、惜しむらくは天明になる三春城の大火にて焼失せるぞ、やるかたなきなり。

寛政五年十月二日
秋田孝季

擴大なる山靼國

流鬼島を黒龍江に逆登り、山靼の山野は擴し。黒龍江亦激流難なく大興安嶺に至るとも、流浪淨かなり。舟走河風に委せむも斜帆一ぱいなるに、逆流も登るに速し。聖なるブルハン神の鎭む大湖は擴し。黒龍の住むる蛇背、拝したる地人の諸話多かりし。モンゴルの覇者テムジンも拝したりと曰ふ。バイカル湖と曰ふは此の湖の稱名なり。

旅歩天山に向へて、ラクダに砂原をはるかに水場寄りに歩む。天山は天池ありて、西王母の聖地なり。天池は西王母が洗足の池とて、地人の參拝に絶ゆなし。かくして、紅毛國なるオリンポスの靈山に赴く旅なり。是れ亦古代なるローマまた天竺も續きける綿の道ありて、人種多異にその商人と道に往交ふなり。ギリシアに至りてはオリンポス山參ずとも、地人に信仰を保てるなく、古き神殿の廢處跡はもの悲しき石築の古材荒芒たり。

然るにや、ギリシア神々の信仰絶ゆれども、今にして残れる言葉多し。宇宙星座の名稱及び古代オリエントの諸宗教はその根限を地人に問へば、Pandoraと曰ふなり。古代よりギリシアに競技盛んにて、是をOlympiangamesと曰ふ。

寛政五年十月一日
秋田孝季

紅毛國神と荒覇吐神

わが國の古代神はアラハバキイシカホノリガコカムイなり。その要を意趣せるは大宇宙なる天と、萬物が育みそして逝きける大地と、生命の水の一切を神とすると曰ふ意趣なり。東日流なる古代人、津保化族にて神格されしものなり。

茲にその神々ありて、日輪を産みたる神をヒュペリオンと曰ふ。日輪をラア、月をアラアと曰ふを尋ぬれば、これぞ紅毛人國なる語原なり。亦天をウラノス、地をガイア、海をポントスと名付けたる神號は古代ギリシア神そのものなり。更に北方の地はヒュペルポレオイと曰ふ、幸の國と曰ふも然なり。

是を山靼國の神々ブルハン神・西王母・東王父・女媧・伏羲らの神を併せたるは白山神にて、紅毛人國なる神を併せしは鬼神なり。それに丑寅の地神信仰なるイシカカムイ・ホノリカムイ・ガコカムイを併せしは、アラハバキカムイ卽ち荒覇吐神なり。古代丑寅日本國の神とて倭國にも渉りたるは、出雲人社に遺れる門神ぞ、大社なる元なる神なるも世襲にて今は除かれたり。

諸國に遺りきアラハバキ神は、客神・門神・門客神・客大明神・大元神・荒神・荒磯神・鬼神とて遺りぬ。陸羽に今に遺る鬼神を神楽とせる鬼剣舞・なまはげ、らぞ多し。

寛政五年十月二日
秋田孝季

山靼通商史抄

古来より山靼往来を猟虎の道と稱せり。支那にて衣の道を天山をして南路・北路に通商せし如く、亦は揚州と同かるは、わが丑寅なる猟虎の道とは千島に狩猟せる猟虎ぞ、山靼より紅毛人國までの金なる重量と同じく通商されたり。流鬼國・千島・渡島になる黒貂も亦、同價たりと曰ふ。

山靼よりはギヤマン玉・綿物・毛織物・靴物・金銀細工物ら物交たり。刃物をマキリと曰ふはアラビア語にて、タシロとは山靼の古語なりと曰ふ。とかく山靼通商にては、紅毛人國なるギリシア國・ローマ國・エジプト國・シュメール國・アラビア國との諸技ぞ傳はりぬ。

寛政五年十月二日
秋田孝季

朝幕之隠密奥州探

抑々奥州に密とせる安倍氏の幕大なる遺寶、藤原氏なる遺寶を古今に奪取せむとし、古くは田道將軍・坂上田村麻呂・僧行基及び慈覚・源賴義・源太郎義家・源賴朝・源義經・甲斐武田一族・銭賣吉次・羽柴秀吉・松尾芭蕉・髙山彦九郎・伊能忠敬・吉田松陰・大久保利通らに隠密に踏査されしも、一文たりとて見付らるなし。安倍氏の尾去澤、藤原氏の藤原街道金山は、後世に於て知らる處なり。

然るに安倍一族・藤原一族の隠納埋藏せし黄金ぞ、併て二十萬貫と曰ふ。亦、安東氏に至りては山靼金・渡島砂金・唐銭を併せてその量、幕大なりと曰ふ。藤原氏の事は知らざれども、安倍・安東一族の産金亦船交易に依りける金塊にては、明治十二年大久保通道卿が日本中央碑を埋當ん命目にて、東日流處々を埋れども當らざるなる。阿久里川に謎を解けとか、舞草の貞任所持の剣に解けとか、傳ありきも空傳にて、信じべきに依れるは衣川剣舞祭文ありと曰ふも、その古き祭文は今にして改めらるさまなり。

ただ貞任遺言に、雫くる洞は岩泉に清く、阿武隈川辺に千尋の洞泉、末代の黄金水にて救はれむと曰ふ一説ぞ、何言を意取せるにや、解くを能はざるなり。
亦賴時が遺言の一説に、

〽あらばきの黄金をまもる
  みとしろは
  あぶくま近きつぼけ山なり

かくある謎ぞ何事の意ぞ。

明治廿年八月十日
和田末吉

安倍古事録一、

凡そ安倍氏の歴傳をして、國史の要をなせり。名髙きは前九年の役にて、奥州を一挙に史を綴れるも制者讃美に遺る多し。本巻には奥州の安倍氏に史實を求めて記逑せるものなれば、旣逑史と異になせる記行なりけるも、史實なれば曲筆の行を執らざるを前逑し置くものなり。

孝季

安倍氏は阿毎氏耶靡堆王の一系なり。筑紫の佐怒王に侵領さる永戦に敗れ、東北丑寅に落着せしものなり。時なる王に蘇我郷の安日彦王あり。その舎弟に富郷の長髄彦王ありて地王たり。耶靡堆王阿毎氏の系は三輪山蘇我郷の箸香に本宮をなし、東に堺膽駒山富雄郷白谷に東宮をなし、那古に北宮、加賀三輪山に西宮を置き、南箕山に南宮をして、耶靡堆五畿の國治たりき。

阿毎氏はもとなる越の地主たりしに、木の國なる物部氏・明日香の蘇我氏に諸迎されしきに、國百七十國を併せて選抜立君せるより六十代に及ぶるなり。安倍氏の世に支那より渡人多く、薩陽に来り鐡を採鑛せるを傳へしより、筑紫國は一統王佐奴が立君し、東政王を討伐に決起し、先づ南海道・山陰・山陽を掌据し、兵を陸海に卆して難浪に攻め多くの戦殉をいだし乍らも耶靡堆を攻略せり。

東政王なる安日彦王及び長髄彦王、大挙して東國に退き、その生々糧を求めて北進し、東日流に落着し、地民を併せ丑寅日本一統に王國を建たり。是より丑寅の日本國は五政王の國治を以て、坂東以北を荒覇吐國とて一統治政せり。時に東日流にては支那晋の郡公子一族渡し、大里を拓し稻作をなし、地民は是に習へて衣食住を泰げむ。

陸羽に麁族・熟族の族長ありきも何事の抗なく併合なせるも、東日流になる都母族永く是れに抗したるも、遂には習へて従へり。子孫代々丑寅より更に渡島・流鬼島を知りて、更には山靼を知りて大國と交りぬ。亦西南に國權を擴め、越より更に出雲に至る信仰を一統せり。是ぞ、稻作に以て相渉りたるものなり。

山靼なる製鐡法、出雲採鐡層厚く採鑛せる故に、茲に荒覇吐大社の神處となれり。亦、西濱の山靼の通交船往来せる處多く相成りて、益々隆興せるは白山神・三輪山神に證遺ありて今に絶えざるなり。地の益權生じ、國分亦國ゆずりありて、出雲に九首龍王・加賀の醫王・飛騨の朝日王・越の加茂王・武藏の熊王・坂東の不二王ら先づ小國を併せたり。亦奥州の日髙見王、宇都宮を以て國分せるも鹿島王と永く雌雄を爭へむも、その決着に至らず併合す。

古来不変なるは鹿島の那珂峽以北、丑寅の日本國耳なりと曰ふ。此の國分王より天皇に卽位されたるあり。越の國よりいでたる継體天皇なり。分立せるも政失に乱れたるは國ゆずりにて、その存續を賴りたるあり、出雲はそれなり。九首龍王の出は支那にて、倭の神事にかかはる創者とも曰ふ。倭の神々はその創を天神・地神に分け、神々の國を髙天原と稱し、伊冊那岐・伊冊那美の國造りその神々の天孫の天降れる處を日向なる髙千穗山の𡶶と曰ふは、支那・山海經の一説を應用せしめたる行、似たるあり。

東征の子孫は神なる胤に通ぜる佐奴なりて、耶靡堆の國を侵領せし後天皇とて即位せしは、支那諸書よりの選抜なり。倭國は是くして造られし創國談にて、民心を惑はしむは後世の造り事なり。世に崇神天皇をして東國を征夷の創としけるは、倭國より進みたる故に、竹内宿禰なる者をして東國を探らせしより、蝦夷征伐史談に遺りぬ。その征伐將軍を日本武と曰ふはその頃にして、丑寅日本國を侵領に起てるも荒覇吐族の應戦に歯立たず退死せるを、倭は讃美にて史談とせり。時なる丑寅の日本國を語部録に讀みては、倭史とは雲泥の相違あり。丑寅の日本史はその倭史なる偽傳を突く多し。その要因にありきは孝元天皇・開化天皇の出自を作説し、安倍天皇の事々も亦然なり。亦、安日・長髄両王を賊主とて千代に汚名せしは、眞に以て赦し難きなり。

倭史は國號までも奪取し蝦夷國とて化外にせる間は、丑寅日本國にては主従富貧の差なかりける國にて厚き信仰を山靼に求め、その民心に智徳ありきも、重なる征夷の戦事に古来を失うこと今一千年になんなんとす。安倍氏の崩滅、康平五年の落に至る史談を次に逑ぶるを以て、前巻を茲に了筆す。

寛政五年十月一日
秋田孝季

安倍古事録二、

〽外の濱忘れがたみの蓑代衣
  目もくれなゐて中山に越ゆ

髙畑越中

〽疑ひば時に別れてかけまくも
  隙行く駒の草木國土

菅野左京

〽惜しまじな命は久遠にありましや
  散る身の先に梓の眞弓

安倍重任

〽蜘蛛のゐに非業の命厨川
  時に流れは逝きて歸らず

安倍行任

〽あからさまありしにかへる空蝉の
  生きてある身は筑紫にありて

安倍宗任

〽名にし負う日之本國を逝父に
  繼て五年の身の秋を知る

安倍貞任

〽いづくとも心なけれど刀執り
  陸奥に屍を安倍に捧げて

安倍家任

〽打ち覚めて目こそ闇なれ音に聞き
  黒の衣に涙したたる

安倍井殿

〽かきくらす弓馬の家に道捨て
  衣の川にいかで弓執る

安倍良照

〽十三湊立つ浪消ゆるままにして
  厨川水時を逝きける

安倍則任

〽戦場に父に倶する死出の身は
  手にたつ敵を死して討なむ

安倍千代童丸

語部に遺れるを今に示せる一族の歌集なり。
抑々前九年の役にて安倍勢の戦殉は厨川にて三千百二十人。七萬八千の總勢を四散せしめ、祖来の遺訓に背くなく貞任は果したり。源氏の死者十二萬四千八百人とあり、安倍勢をはるかに越ゆる數にして攻防十二年の戦は了れり。抑々此の戦の發端は、永承五年九月藤原登任がいらざる目安を朝庭に報じての事なり。

御屆之事

近今に安倍賴良、宇曽利の馬三千匹軍駒とて江刺に寄せ、東日流の達者なる武人を身辺に警羅せるさま、あたかも挙兵の如し。是を放置にして戒なくば、押領は白河を越え坂東に入りて、事ぞかまふれば天朝の五畿内とて危ふからんや。今にこそ、かねて奏上せし吾が御進註の征夷討伐の朝命とその御役賜りければ、少日にして安倍一族を天誅に伏して大御心を安んじ奉るなり。

茲に願くば都赴の官軍は一萬騎他、飽田なる平重成の援を仕るべく請い願ふべく、朝許の御砂太あるを千秋に待ちはびる他に、吾が六十四年の身を戦に殉じて大君の楯とならむ盡忠の志をまっとうされむ事を請願し奉る也。

永承五年六月日
陸奥守登任

右の如く屆報しけること七度、茲に朝議相成りて登任の請願を認承せり。その勅令下るや、自から飽田に赴きて平重成と謀りぬ。然るに重成、登任が急髙従下に物言ふを心よしとせぬ。重成、加減の返事にて登任を歸したるも、約したる九月二日の挙兵を起さざるなり。

知らずして登任は多賀城に兵を挙して飽田の軍を待てど一騎の来陣なく、登任は玉造郡鬼切部に飽田軍を併せる。安倍方に註報したるは出羽の清原の物見にして、賴良は軍を二手に分けて先づその一軍を一迫に進め、二軍を雄勝の湯澤に飽田軍を向い討に構へたり。永承六年四月七日、平重成が卆ゆ三千騎は急を突かれ半數の兵は湯澤に殉じ、一挙に駆け抜けたる一千騎に足らぬ飽田勢は鳴子に登任軍と併せたるも、そのあとに追討し来たる安倍の二軍は一迫に急使なし、鬼首に布陣せる官軍を半日にして全滅せしめたり。

平重成は従兵三騎にて舟形に遁げ、最上川を筏に乘り下り、家泻より海濱を飽田に着きて、髙清水を總勢挙げて安倍軍の報復に備へたり。一方、藤原登任は朝庭が遣じた官軍一萬を殉じ、京師に退ける。登任を卽座に官位を解き怒聲さながらの宮殿を去り、出家に放浪する破目と相成りぬ。

相次ぐ朝議ありて奥州への登任に変る武將を選抜し、その決したるは源賴信の嫡男賴義と議決されたり。丑寅の賊・安倍賴良を誅しべしとの勅を奉じて永承七年三月、十三万と曰ふ大軍を卆して進軍せり。十萬餘の大軍来襲すと曰ふ坂東の鹿嶋次郎直胤よりの報に、備へたる安倍軍はその先鋒を清原武則を寄せて六萬を棚倉に、五萬を白河に布陣し、賴良本軍は膽澤と磐井に六萬を集めその威勢にあったれば、官軍が坂東に入るや熊谷の倉太郎、鹿嶋の直胤ら田子の浦海辺に布陣して源軍に楯垣を構へたり。賴義の軍は富士に封ぜられ、想はざる坂東勢が阿部の加勢にありきを京師に報じたり。

坂東諸家を討つは二十萬餘騎なりとして、戦相應ぜざる旨を急使をして報せありきに、朝議は夜を通して策謀せしに何事の的案も是無く、平城京・平安京建立の負費未だに民に苛酷なる租税の尾引き現に在りきに、二十萬の官軍を募るるは能はざる處なり。何事をしても是術よく留む策ありやと思考せしに、立案せしは上東門院の被疫平癒祈願ありとて、安倍氏討伐の大赦令として官軍を解きたり。

時に安倍勢は天惠吾らに在りと悦べるも、賴義はやるかたなく引揚げたり。然るに天喜甲午二年七月六日夜、半月の左空に眞昼の日輪より尚まぶしき妖星輝き、不吉なる前兆とて卜部は賴良に告げたり。時に賴良、意を決して未だ幼き行任、一説に則任を東日流十三湊に分つ事にして、一族の者二千人を卽坐に移しめたり。源氏との戦、今に再起せば一族總滅を忍び難しとて、東日流に一年を通じて望むる者を添しめたり。

是ぞ後なる安東水軍の創祖となりぬ、代々を氏季と襲名なして臨君せし十三湊・安東は、後に藤原亦安藤と姓を改めたり。この一挙に二千人と曰ふ大移住せむ賴良は、是れも一族が世にあるべく奇策なり、と曰へり。古来より天動・地動・宇宙の起異を不吉なる前兆とせるに移住ありきは、祖来のことにて、十和田の地爆、田澤の地爆を人命に救ひし例これありて、賴良このとき旣にして戦の敗北を餘知したるものと曰ふ。

源賴義、少勢にして多賀城に陸奥守に任住せし間、事々にして賴良を忿怒せしむ作為を挑しけるも、賴良はその任期に退任あるを以て忍びけるも、天喜丙申四年その任を解れむに至りて、その送別宴を阿久利川にて催したり。岩石峽の眺望よき處に賴義を迎へて宴せる中に、賴義警護にありき藤原權守説貞その子息たる光貞と元貞ら、かねて賴義と謀り戦因ともなるべき策謀をこらしたるを知らざる厨川太夫貞任は、國府多賀城に歸るを磐井まで送行しての途中、後發の藤原説貞の行列と行會ひたり。

ときに通り過ぎざま、説貞の列より石礫が貞任の乘馬の尻に投げつけたるあり。驚激せる馬は棒立に相成り、あわや貞任落せんとしたるとき、轡持の平野重内必至の制えに貞任事無きたるも、元貞曰く、猪かと思いしに蝦夷侍の馬たるか、と。亦是に合せて光貞曰く、いやこれはしたり、吾が妹なる乘台に見とれし餘り馬を落なんとせし愚能なり、とそやしければ列侍どっと笑いけるに、流石貞任も忿怒に押へず聲一令に、かかれ、と一喝せば茲に修羅一変にして白刃打火を發する戦となりて、説貞一人遁げたるも、三百二十人ことごとく貞任軍に討たれたり。

是く起るは、かねての賴義と謀れる挑發なるも、説貞一挙にして光貞・元貞を失ふ。またその息女とて、人馬の暴動せるなかに、見るも無慘なる顔傷に自害して果たりと聞き、狂気の如く賴義に參上なして、安倍氏討伐の報復を訴求せり。時に賴義、事の不手際を怒れども、仕掛を賴みたる段、詮なく、作りき奏上書を京師に參らせり。この事状を貞任より聞こしめせて、安倍日本將軍賴良、自から國府多賀城に赴きて事の實相を尋ねきに、賴義曰く、

春には、夷國が故に春待遠しき虫までが、雪上をもかえりみじ動揺するが如く、汝の息子、よこしまに説貞の息女を色慾に惑ふて、馬乘乍ら不埒千萬なる行為に、馬驚せる。事の因は説貞になくして、討つとはもとより余を討つが目的なる行為なり、

と責めかかれり。時に賴良、卽座に曰く、

これはしたり、我等が浂を討つ魂膽なれば、説貞如きを討つに及ばざるなり。此の國は丑寅なる日本國なれば、如何ようにも汝を討つは我が掌中にあれども、國事泰平の為に、汝ら倭朝の輩を此の多賀城に進駐を認むるの識にありけるものなり。古来より、此の地は皇土に非ず。汝ら皇化の蒙むる由なし。是の如き説貞の仕掛たる行為は、かねて汝が旣存の筈なり。吾が子貞任をして、説貞息女に惑ふほどなる女渇はなし。吾が國は女人をして美形にそろふ國土なり。吾が子貞任を、春待つ啓蟄の如き蝦夷者とは何ぞや。汝こそ、發つ鳥はあとを濁さず、歸京あれかし、

と座を立って去れり。時に賴義、阿然とて言なかりけり。馬乘にある賴良を出送る賴義曰く。

あいや、日之本の君よ、暫時またれかし。御短慮は乱を兆す因となり申そうぞ、

と曰へけるに賴時馬乘にて曰く、

人の道、世にありけるは是れみな妻子の為に在り。貞任、我が子なり。父子の情を棄てて忘却を能はず。罪ありとひとたび刑に伏せば、吾その悲しみになんぞ忍びんや。貞任の説貞勢を討てるは、説貞の仕組めし挑發行為なり。まして汝が國府を去り難き一念にてかかる乱を起し、再任あるべく魂膽は汝が影なり。この度なる發端は總て汝が胸に在りける仕業なり。

と曰せば、賴義曰く。

越言無禮の段は悔ゆるなり。されば汝、この後とも我等が天朝に忠誓の所存ありや。今にして誓ふれば、道も開け給ふに如何がか、否や。

と曰ふ。賴良答へて曰ふ。

吾が丑寅の日本國は、古来より吾が祖君の治めし召せる國なり。吾れは、その系に在りて継ぐるものなりて、古事より傳統授継ぎし吾は、今なる日本將軍なり。汝が仕ふる倭王に、かかはりなき國土なり。依て、汝が歸京に目安を奏上し、前なる征夷の軍にて再度罷り来たるとも、吾は國を賣り心を賣らざるなり。以て吾を朝敵とせば、以上の問答無益なり。今日より關を閉し、汝は君なる勅許なくして、吾を攻むとも叶ふまい。卽座に陸奥を去り、誠に以ての和睦なれば、吾れ自から日本の道を開かん。

と曰して賴義の返答を背に、衣川に戻りき。衣川柵に迎ふる貞任、事の首尾を尋ぬれば賴良曰く。

去る年になる妖星の凶兆ぞ、今になる源氏の挑戦なり。我は今日より名を賴時と改め、この凶兆に楯とならん。

とて一族の老人・女子・童を遠野亦は生保内に移しめて、衣川に關を閉したり。賴義、國府多賀城を拔け、急ぎて坂東の鎌倉に縁者を集めたり。再任のなきまま兵を募り、安倍氏を討つべく房總の千葉氏・里見氏他、坂東源氏を二十七人の武將に援を受けにして、その數十六萬の、歩騎輜重兵合わせたる數なり。

天喜四年八月、猛暑を突きて坂東を白河關にかかるとき、突如として鹿嶋勢・熊谷勢の併軍に不意を突かれ、輜重車・武具車の後續軍がことごとく誅滅され、奪取され、白河越えては夜営を襲はれ、軍馬六千頭が霞の如く消え失せたり。後續の輜重兵もなく、残れる兵量も十日に未足らざれば、兵の逐電相次ぎて、栗原一迫に至りて前に進むを能はざるなり。

是を、味方に間諜ありとて、先づ以て平永衡及び藤原經淸が衆臣の目安に挙げられたり。平永衡をして先んじて捕えたのは永衡家臣四人にて、拷問し責めければ苦しさに白状せり。然るに事實、永衡が間諜せしは知るべきもなけれど、賴義は、敵將賴時の娘を妻にして間諜なきはなしとて、永衡を漬刃の差料にて自刃せしめたり。

ときに、藤原經淸とて賴時の息女を妻しけるに、永衡如き自刃もまぬがれるはなしとて、密かに永衡の家来を併せなし、護兵だけなる多賀城に赴きて、賴義が留守居にある多賀城を圍みて、官軍將士の女子を捕えて人質とし、己れは衣川の賴時に走れり。

源賴義は次なる經淸を責めんとて、經清を捕はしむに彼の陣営に向かはしむに、もぬけの空にて、平永衡の家来も一人だに残らず經淸に従って逐電せる耳ならず、多賀城は炎上し、留守居の女子等ことごとく連れ去られしあとにて、賴義の軍は此の日より一日の兵糧なく軍馬を殺して喰う兵を軍律の統治ならず。

賴義自身もまた反徒に暗殺の憂い生ぜり。詮なく九月一日、賴義は坂東に軍を退かしめ、再起せんとせるも、そのもとに集まるは五萬にも足らず、まして賴義が無役とては一俵の兵糧も寄進せるものはなかりき。

安倍古事録 三、

賴義、坂東に再起をなさんとて、退きしあとを金為時に委ねたり。然るに、金氏は為時以外の親族はみなながら安倍方なり。金為行・金經永・金則・金依方・金師道らは、賴時左右を委す猛將なり。賴義坂東にありて奥州の倭人は追放さるる間、金為時は小松柵なる安倍良照を攻めたるも、敗北して自城の気仙に退きたり。

朝庭に於ては、賴義退官のあとに藤原良綱を陸奥守に任じたるも、良綱卽座に以て是を辭任しければ、源賴義に再任され若干の軍資を賜りたり。依て賴義、勅令とて坂東に兵を募りたり。集むる兵馬は十八萬人にて、貧農漁民はその半數以上なり。天喜四年の暮れゆく十二月、金為時は坂東に源賴義を訪れたるとき、この募りたる兵馬の武威の底質なるを進言せり。

戦に數のみを以て當戦するとも、闘魂なき者耳の挙兵は烏合の衆にて、一羽の逐電あらば千羽の羽及におよぼしぬ。依てかかる烏合の衆を説得に時は無かりける故に、解きて屈强の人馬を選拔せでは、前挙の恥に事更なる上塗なり。安倍一族を崩すは先づ以て、彼の味方に反忠を策して謀りきは上策なり。拙者の見當せし安倍方の反忠に動ける者は、宇曽利太郎大夫・安倍富忠、出羽なる淸原武則らを反忠に拔きては此の戦勝利に速やかなり。

と言上せば、賴義曰く。

宇曽利富忠、出羽武則の軍を併せむ數は六萬餘騎を越ゆ數なり。如何して反忠を誘う手段ありや。

と問へば為時、座を詰めて曰す。

宇曽利氏は安倍氏の外腹なる系にて、常にして所領を西領に望むるも果されず。出羽殿は都の士風を好めり。此の両者の渇せるものを惜しみなく与ふれば出羽藏王、宇曽利の恐山とて動くべし

とて天喜五年一月、寒雪を突きて仮の勅許・大枚なる黄金を以て両者を誘得せり。その約になる要とは富忠に桃生領を与へ官位に權守を約せる勅許及び軍資一萬両。武則に約せしは陸奥鎭守府將軍・少納言と軍資二萬五千両なり。賴義はその證とて、武則に官軍への參陣挙兵を、富忠に安倍賴時暗殺を遂げて朝と認むるの念書、両者より受取りて見事に策謀果したり。

宇曽利富忠は六千の兵馬を荷止呂志越えに安代に至り、日髙河添へに金ヶ崎江刺郷に陣営したるは七月二十五日にして、その翌日六日の昼飯どき賴時と對面せる手配に及べり。この日に淸原武則もまた橘貞賴・古彦秀武ら二萬八千騎を賴義のもとに派遣せり。安倍日本將軍賴時の悲運はこの日起りたり。

賴時暗殺の刺客とて平貞新を富忠のもとに賴義の遣はしたるは、弓の名人にて百箭的中の岐ありき。かゝる罠ありとは知る由もなく、賴時は二千騎の手勢を倶ふて富忠と對面に赴くとき、近臣の川辺左衛門に將軍自からの對面を請て来たる富忠を、不審とみて出向くをとどめたれど、賴時はためらいもなく鳥海の柵を江刺に出向いたり。夏天の暑きに賴時、暫時木下に冷をとりしとき、何處よりか矢羽音ありて、不覚なりや、賴時が側腹深く箭を射られたり。

居並ぶ家臣、身を楯に八方に眼配りて、射手を見當らぬまま急挙鳥海の柵に返して、厚く手當を施せど、賴時重態にて生死の間をさまよう如くして、貞任・宗任・重任・家任らの見添ふ床に、それぞれ遺言を遺して入寂せり。

一方、阿修羅の如く忿怒に燃えて江刺に富忠軍に突進せる川辺左衛門正胤は、馳寄る安倍良照の軍と併せて一萬騎、富忠退却を追って猿石川辺に追詰めてことごとく討取りしも、富忠を見當らず。猟師の報に、人首に山越ゆ富忠を圍みて、討殺したり。

安倍一族の悲遇に悦ぶ源氏の將士は、各々陣中に喊聲あがり、賴義は安倍氏を降すは年の内と算段せり。一方、安倍方にては和賀の極楽寺にて賴時の仮葬をなし、その式場にて安倍貞任が日本將軍の継君を相續し、宣言せり。一方、源賴義の再任期は仮任故に、一年たる期を越えたれば、賴義が獨断に安倍氏に征討の權限はなかりきに依て、再參に渡りて正任の申請せども、その勅許は下賜されぬままこの年は過ぎ逝きたり。

安倍一族は此の間をして要處に柵を築き、皆兵の宣布を領内に渉らしめたり。天喜五年十一月、陸奥は白き冬將軍が訪れるも、賴義は征夷の勅許を多賀城にて待つも通達なきに、獨断にて挙兵し、總勢六萬四千人を卆いて磐井郡川崎に軍を進めたり。貞任はこれを金為行に四萬の兵を与へて河崎柵に籠らしめたり。河崎柵は、日髙川に千厩川・砂鐡川の落合に在り、その州丘に出砦を築き、源軍は吹雪を突いて黄海砦に寄せ攻めたり。武運は安倍方に有利にて、吹雪の風を背に源軍は向へ討つ天運に、源軍は視界を閉す。

向風に攻むれば、是を手に執る如く箭射にとらえて、一挙に弓箭は追風に力乘して、源軍を將棋倒しに兵馬を射殺したり。射手三段に、敵箭を一矢も垣楯に受けぬまま、敵は屍の山を築き、詮なく退却の令ありて四散に遁ぐるを、金為行は騎馬軍に追はせ、一騎も遁さずと討倒したり。途端、雪と血にまみれて、金為時の屍を為行は馬蹄にかけて、気に留めたる敵將賴義とその子息八幡太郎義家の姿は見當らず、追手を返したり。

時に、腰までの深雪を漕ぐようにして源賴義、子息の義家、その家来藤原景通・大宅光任・淸原貞廣・藤原範季・藤原則廣ら併せて七名にて、その脱路に命懸けの逃亡行たり。黄海の合戦にては源軍の全滅にて、年は明けて康平元年と曰ふ改號となりにける。面目を潰し、都に命からがら還りたる賴義は、參朝して苦しい辨解をなしけるさま、哀れなりと四衆は曰へり。

安倍古事録 四、

勅許なる討伐行ならずとも、源軍皆滅の報は朝庭に於る諸卿衆の膽を拔く如く、安倍一族の將軍賴時の報復に怖れたり。朝庭が急挙諸國より兵糧及び飼馬・兵士を徴發し官等にて官軍は募られり。亦、陸羽への役目も解任され、源斉賴を後任に命じたり。

安倍貞任は陸羽に存在する倭の郷倉を解きて地民の糧とし民の信を得たるも、淸原氏の反忠を知らずに、淸原一族反命を拾ひたり。源軍に倶ならずば、淸原氏の軍など安倍氏の敵では一蹴に伏される。貞任の勢は坂東堺・越州に達したり。康平元年の秋、淸原氏は、平泉の中尊寺以前に存在したる安倍氏の菩提寺とも曰ふべく佛頂寺薬師堂に、源氏より得たる黄金二萬五千貫を奉寄し、事露見時の自衛手段とせり。

是を貞任は、和賀の極樂寺修復、荷薩體の淨法寺、閉伊なる西法寺、多賀城の荒覇吐神社及び塩竈の荒覇吐神社に奉寄せり。康平三年八月、貞任は生保内より庄内を巡り、倭人にあるべく者を追放なし、武家にある者を刑殺せり。亦、倭朝に進駐せし者も刑に伏し、淸原武則に令し彼の領内に遁住せし者を貞任が立合にて、その刑に伏さしめたり。淸原氏も亦、倭人を己が賴義との約を念書せしめたる知者を殺して、急場を過しけるも、武則は何れ事露見を怖れたり。

然るに朝庭の討伐行は座折せるまま、源氏は再任のなかるままにて年は逝きける。康平四年十二月に朝廷は源氏を退けて、髙階經重を陸奥守に任じて安倍氏との和睦を謀りて、その使者を衣川に遣したるも、貞任は賛否のないまゝ康平五年に年を越せり。髙階經重が、貞任の返事なきに依りて、十萬騎を挙兵し陸奥に軍列行と相成り、長蛇の如く發進せり。然るに、坂東の泰野にて軍を退きて歸れり。その由は、鎌倉にて源賴義が七萬騎を得て朝庭の任官を待はびたると曰ふ賴義への配慮なりと曰ふ。

朝庭に於ては詮なく經重を退けて、康平五年六月賴義を征夷大將軍に任じ、茲に至って淸原一族は七月に挙兵し、八月九日栗原一迫に源軍と兵を併せ、今までの怖感を去りける。征夷軍の陣立は、淸原武貞・橘貞賴・古彦秀武・橘賴貞・源賴義・淸原武則・吉美侯武忠・淸原武道ら七陣にて、白河より伊津沼に安倍の先鋒を押突く如く抜き、玉造より磐井に進軍し萩荘の小松柵にて大いなる攻防が夜を徹して激戦せり。

此の戦にては安倍軍の戦殉一人もいださず、官の死傷者は續出し、その中に深江是則・大伴員季・平眞平・菅原行基らの官軍武將が討死せり。安倍兵法としては、小松柵は敵總勢を結するに在り、その囮戦にて敗れたりと見せて要害の地へ誘ふ戦法なり。然るに、源軍總結までに防ぐ能はず、安倍軍は髙梨宿に退きて囮軍を本陣と見せ、實軍は征夷軍の後方に夜をして行軍し輜重の敵を討って兵糧・武具を奪取し、日髙見河を衣川に水運し了る頃、髙梨本陣はもぬけの空なり。時に、賴義地たんだ踏んで怒るも、先の戦の如く兵糧・武具は安倍軍に奪取され、進軍も髙梨に釘付けらる如く、ただ全軍の警に気を配したり。

安倍軍は川崎柵に官軍の来襲を備ふれども、三日を過しとも来らず、物見をして探らしむれば、髙梨の地は兵馬十萬に集めて出羽よりの兵糧を入れて士気𨄌々たりと聞きて、安倍良照は無念やるかたなく、昨年に淸原氏を討つべきなるを彼の黄金奉寄にためらったは不覚なり、と曰ふを宗任曰く、

淸原氏は源氏と通じたるは、兄上をして彼の時旣承し居る事と聞く。討たざるは、武運を天に委ぬるとて今日に至り居るところなり。此の戦は吾等武運なく敗北せしとも、陸羽の民を私恨にして巻添ふを忍びてのこと。亦、吾が領域にても、敵に難遇を受けざる移住にも多忙たる故なり。

とて戒む。良照笑いて曰く、

敵の輜重は我が軍なるものぞ。一両日内に奪取を企つなり。気に留む勿れ、

とて軍策にこらしたり。官軍は一波二波の戦法を改め、一挙總勢攻に決し、髙梨を發てり。山野川辺道に溢る如く輜重の車音、地を震はし萬馬の蹄音、耳底を突く大軍の来襲は、川崎柵を護る術なく、安倍軍は關の内に集し衣川柵に雌雄を決せんとて、髙舘・鷹巣・國見山・前澤に陣をなしたり。官軍七隊にして、長蛇進軍とせず、山野の要害ありとも横帶の進軍として、衣川に迫れり。

是れには安倍軍も彼の寄手に合せて應戦に兵を配すを能はず、敵前途にある山野に灾り。秋の落葉は油の如く燃えたぎり、敵進たづろぐ處を討攻むも、多勢の前には徒らに戦殉をいだし耳と相成り、八十六間柵も破られ、千間柵も破られ、髙舘は炎上し佛頂寺も被災して燃ゆ。貞任は自ら馬を駆て、八幡太郎の陣に突進して敵視を引き、宗任は衣の舘に火を放つ。鷹巣舘も燃やして、膽澤に退きたり。

貞任是れにおくれまづと浅處を渡らんとせしとき、後方より大音聲にて貞任を呼びたり。白き馬にまたがりて満月の如く弓に箭をして射んとし、口にて唱ふ如く曰す。おもむろな聲にて、

〽衣の舘はほころびにけり

貞任、暫時駒をとどめて、義家に扇を振り振り、

〽歳を經し糸の乱れの苦しさに

とて返しければ、義家つがいたる箭をゆるべて、貞任が砂塵に消ゆを見送りて、兵を留めたりと曰ふ。かかる様を見つる衆は、貝を吹き掌を打って武情の誉れを讃美せり。是くして戦を厨川に固めたる安倍氏に、武運ありや。

安倍古事録 五、

衣の舘は康平五年九月五日をして灰と消ゆも、官軍の行手には鳥海柵、膽澤の磐井柵驛、白鳥驛、磐基驛らあり。前澤切通し、大麻生野柵、瀬原柵が衣川出城なり。是らの攻防にては、平孝忠・金師道・安倍時任・安倍貞行・金依方ら、安倍軍の將士が討死せり。

黒澤尻柵・鶴脛柵・比與鳥柵・蔦木柵にては官軍に走りし淸原軍五千人が、安倍良照の戦謀にかかりて死したり。九月十日、紫波柵・矢巾柵にて源賴義、流箭に腕を傷負たり。この二柵はことのほか建固にて、五日間の攻防を經したる間、厨川柵にては安倍貞任が重臣の髙橋越中・菅野左京ら三千餘騎を三手に分けなして、東日流に子息髙星丸を警護せしめ、後世に再興あるべきを賴みて落しめたり。

時に高星丸三歳にして、三手に落つゆく。女人多き怒間久内道をして姫神山麓・浪打峠を名久井山麓を經て糠部に至り、怒干怒布より舟にて神田にたどり、十三湊に鍋越山を經て赴りたりと曰ふなり。次なる落方は、東日流街道を鹿野に至り、矢楯峠を平川になるもの。次なる落方にては、仙岩峠を生保内に越え、飽田にいでて怒代に至り、鷹巣にたどり大舘より矢楯峠を越え平川に至る武士ら二千騎なり。

その落方、落着の頃にして厨川柵・嫗子柵・里舘二股柵らに安倍軍は竉城し、兵術すべてをつくして官軍を多く討たしむも、その攻防九月十四日より十月七日に至って落城の兆見えざれば、義家是を思案に徴せり。厨川嫗戸の要害は兵を圍みて時を過ぐれば、冬に至りて勝算是無く、兵を攻めては徒らに殉ずる耳なり。

依て義家、とある夜に民家火事に起りて焼くるを見て、南無八幡見えたり、と家来に四辺の民家を壊しその材を厨川柵要なる處に積めり。その積まれき髙さ廿尺を越え、厨川柵内を見降し程なる、民家壊材一千三百六十戸と曰ふ。十月十六日と曰ふが九月十六日の両説ありきも、十六日義家自から石火を打ってこの山なせる材山に火を放てり。

折よき風はその火をたつまちにして紅蓮の炎となり、火龍が空を飛ぶ如く、厨川柵なる立木・城棟ことごとく焼き移り、その火炎のなかにて安倍貞任は千代童丸と對座なし、自刃して果たり。柵内に多くの城兵居住ありと思いきや、主を併せて少か三百人に足らず、それ老兵のみにて、いつ頃に城を抜けたるや賴義及び義家は阿然たり。

十萬に越ゆ大軍をして少か三百人の老兵を今にして討つもならず、火炎の中より官軍は貞任及び千代童丸の遺骸をいだしたり。矢楯にある貞任の首を斬落し桶に塩漬し、千代童丸をも斬首せんを義家はとどめたり。死者を取るは武門の恥なる故も、さり乍ら、朝廷への證に貞任の首級だけなるを以て、千代童丸及び貞任の胴骸を老兵の田口仁左衛門に渡したり。

この骸を田口仁左衛門は涙乍に玉山に運び、湧湯にて洗い淸めて火葬し、東日流に旅立てり。埋葬は石塔山なり。

〽歸依佛の君に仕へん中山に
  神のしめゆふ密嚴淨土

田口仁左衛門 七十才

〽日の本の久しき代々をつぎ櫻
  花になれにし散る身を砕く

川辺左衛門 八十二才

〽御首なきやませの墓に君ありて
  いつぞ歸らむ賜首と御魂を

生保内淸人 七十六才

〽代々の君千代に安らぐ石塔山
  岩に打つ鳴くかじか泣きさし

菊地小五郎 六十八才

貞任・千代童丸父子の遺骸を葬りし老臣の遺歌なり。
厨川にては安倍重任・藤原經淸・平孝忠・藤原重久・物部継正・藤原經光・藤原正綱・藤原正元らは淸原武則の進言にて打首とさるるも、安倍宗任・安倍家任・安倍為元・金為行・金則行・金經永・藤原業近・藤原賴久・藤原遠久・安倍正任・安倍良照らは宗任の請願にて死罪を赦さるとも、宗任を除きては放浪かまえなしとて、思ふに委せて四散せり。

安倍氏に反忠せる淸原武則は、仮勅許通り陸奥鎭守府將軍となりけるも、後三年の役に崩滅せる運命に、知る由もなかりけり。宗任は伊予に渡りし後、筑紫松浦に移りて後世子孫は松浦水軍たり。

以上、安倍古事録全文なり。原文は漢文なるも、三春火災にて焼失せり。本巻は東日流語部・帶川傳次郎談を聞書せしものなるも、實史に相違なく證し置く者也。

寛政五年十月二日
秋田孝季

外濱史證

東日流外濱は宇曽利半島の外浦安泻より龍飛岬迄の間を曰ふ。此の間、多宇・井梯・合浦・烏頭・上磯・龍飛ら、往古に津保化族・阿曽部族ら領堺地也。

外濱に東日流大里より至れるは中山切通し、戸川切通し、内摩部切通し、神田切通を以て相通ぜる往来道也。此の切通しの中に中山切通し耳古来安東一族が關を設し、潮方・中澤・眞板・佐比内・中目らに舘をなしたるは文治六年二月大河兼任が多宇未井の険に拠り安東一族との闘爭せしより設したるものなり。

蒼海西濱史證

古来西濱は蒼海・西浦・安東浦とも稱され、七里長濱を有澗濱亦は羽後往来濱・上磯濱とも稱されたり。濱尻に十三湊あり。濱先に舞濤湊あり。羽後堺に金井湊・吹浦湊ありき。

中村・赤石・追羅瀬・笹内らに古代人の住家跡あり。安東一族が砦塁址を今に遺す金井砦・折曽砦・吹浦砦・巌湖砦・茶臼砦ら是みな安東氏の砦跡也。

東日流大里史證

大里は平川・汗石川・相馬川・巌鬼川・十川・山田川落合の本流を往来川と稱し、下磯と古稱せるは大里なり。古き世に西山根なるを阿曽辺、南山根を阿闍羅、東山根を中山と稱し、大里なるは華倭・稻加・平川と内三郡とし、宇澗・璤瑠澗・奥法を外三郡と稱したり。

古代より大里に稻作拓け、𨦟稻・毬稻らの耕ありて、古代神アラハバキイシカホノリガコカムイの發祥なせる地なりき。六郡の道に荒吐道・下切道・十三往来道・嶽道・中野道・大飛鳥道。往来川を水路とせり。古人をして西を阿曽部、東を津保化とて古史證地跡多し。

寛政五年十月三日
秋田孝季

衣川鷹巣舘之事

堀連なる衣川柵は古きこと白雉壬子三年に安倍國東の日本髙倉を置し處にして、日髙見河を水路とし、南を金華往来とし、北を玉山往来とせり。衣川に集むる地産物ぞ猿石舟より産鐡、名和賀舟より産金、二股舟より産馬、牡鹿舟より海産を交して陸奥なる北都とせり。

神佛を入れて國見山に荘院をなし、その麓辺に寶塔堂・大日堂・十三堂・經堂・五重塔・極樂寺・戒壇堂・講堂・三間堂・毘沙門堂・釋迦堂・醫王堂・白山神社・荒吐神社・三輪山大神堂ら建立なし、衣川にては平泉中尊寺、前世の佛頂寺・舞草堂・鬼神堂ありてその栄をなせる處なり。

鷹巣は堀立なれど古代遺習にして、安倍氏が代々になせる造建法なり。依て廢處となりにしても楚石の遺るなし。古来より山靼に遺習し國主とて大墳を造らず、地点に遺る倭風なる土墳は倭人のものにして、日本王代々に一墳もなし。古来にして人を以て滅後を飾らざるは荒覇吐神信仰にして佛法を入れたれども佛法にて葬儀なせるなし。屍は天然に歸せるものとし永墓の造るは魂を閉し世に甦りをさまたぐるものとて古王にては肉他溶捨骨埋葬と古書に遺りき。

人の生々を尊び、老逝きてもその生命を重護せるを孝とし、國を護るは人の生命を護る意にして、是を忠義とせり。信仰は生々の為に存し、滅後にては生前なる遺業を省みる想追の儀を為せる冥想なり。依て安倍一族の多くは屍の肉去りき三年をして洗骨なし焼骨・砕粉にして大海亦は大河に流し、亦は髙き山𡶶にまくを常とせり。是ぞ死せる屍を新生に甦す無上の法なりとせり。

佛法渉りてより因果業報・追善供養、富める者は百年乃至幾百年にも祖代供養す。是れ人心に渉りて久しく、今にして造墓供養になせるは安倍氏の祖代に無かりける事なり。安倍氏の家紋は鷹羽なり。依て鷹なる地稱ぞ古きに遺りける。衣川なる鷹巣・飽田なる鷹巣他、多賀城は鷹城にて、髙島は鷹島なり。亦髙石・髙岡・髙尾・髙梨・髙隈・髙州・髙萩・髙崎・髙遠・髙富・髙瀬・髙根・髙鍋・髙濱・髙栖・髙砂・髙槻・髙取・髙縄・髙原・髙松・髙見・髙森・髙磯らなる地名は陸羽に存せるも、その頭字は鷹たりと曰ふ。

依て衣川なる鷹巣は衣川なる地稱の前稱なり。剣舞なる頭冠も古きは鶏羽に非ず、鷹羽たり。

寛政五年十月三日
秋田孝季

東日流藤崎邑之事

丑寅なる日本の北端は古稱フンチャギ邑ありて、地語にして古人はフンチャシなり。その意趣は川辺の城と意味せり。此の地は古来阿曽辺族・津保化の川堺にして葦の野火止めたる平川・汗石川にて、古き狩法なる野焼追ふ阿曽辺族の狩場たり。

然るに鹿及び熊なるは河を渡泳し来たるを阿曽辺族また漕ぎ渡るありて、常にして津保化族と相爭ふ地堺なり。初春、枯葦の焼狩りに獲物の爭奪をして人また堺權にして爭闘したる故に、フンチャシを構ふる始なり。依てこの地を故人はフンチャシと曰ふに加へて淵崎と稱しける。安東氏の城築以来、古語なるフンチャシの末字一字をギと改してフンチャギとなれり。淵崎も藤崎と改字にして今世に通じて定着せり。

日本將軍・厨川太夫・安倍貞任嫡男、幼君にして安倍家臣五千人の家族を此の地に移しめたる故は十三湊に安倍白鳥八郎氏季、先住せる故たり。氏季こと一説には則任、二説には行任とせる傳ありきも定かなるは今に知る由もなかりける。古書多くは則任あり、行任は少なし。十三湊と相通ぜしは行丘より下切道あり。亦、岩木川を行来川とて水路に便利せり。是は今なる舟場を發着にして、永保壬戌年、初代領主安東髙星を以て築きたる白鳥舘に創まれる城町とて、藩政に至りても市場をなせる盛々津輕五大の一つに數えられたり。

藤崎邑とて過却にては十三湊なる藤原秀直、藤崎を一統なして征せんとする城攻めありて、是を萩野臺合戦と曰ふ。亦、藤崎城宗家・十三湊福島城本家をめぐる一族の内訌洪河の変、南部守行の侵攻にて起れる應永の変にて應永丙午の卅三年より永亨壬子四年に至る間、藤崎城主安東次郎教季自から手火を放って十三湊に領民一人も遺さず捨領せるあと、行丘北畠氏の司治にありて泰平たるも、大浦為信にて一統されしより現代に至るなり。かかる藤崎邑なる歴史の深層にや、幾千年に苔香を今に古跡をなしける。

寛政五年十月三日
秋田孝季