北斗抄 廿六


(明治写本)

注言

此の書は門外不出、他見無用と心得べし。史篇は倭史に反する多くして、科の及ぶありぬ。

六年孟春
長三郎吉次

諸翁聞取帳 一、

東日流に遺る歴史の證は、書多く焼失され、遺物多く他藩に流失す。依て少かに残るは、秘になる石塔山の遺跡遺品なり。東日流中山近郷に孫内・奥内・三内・入内・天田内ら古邑ありて、古き石鏃及び土器片・石珠のもの多く鍬にぞ掘らるあり。完全なるは古物の商人に買れ、現に残るものなし。古老にその出でくる多き古遺跡を尋ぬれば、東日流外三郡・内三郡・上磯・外濱・合浦・奴干奴布・宇曽利・糠部・秋田・火内・鹿角・岩手・下閉伊・荷薩體・都母らより、同系の遺物ぞ出土せり。多くはアラハバキ神の祭具に用いしもの及び石神・素焼神像らあり。その數、無盡藏の如し。

日本國たるの王國誕生地なれば、是の如きは當然ありて、不可思義ならざるところなり。なかんずく珍らしきは神器五種にして、神社に祭らる古鏡・勾珠・銅剣・金冠なり。山靼渡来のもの多く、渡島の民は何れも所持せり。是ら多くは江戸に賣られ、かんざしの類に加工さる多し。前九年の役以来、倭人の住駐にありて先住の民は住地を追れ、その數を失ふは倭人の進注故なり。東北及び渡島に住むる者は蝦夷とて、古今に家寶たるをだまし取り亦は強奪せり。渡島にては倭人をシヤモンと曰ふ。

古く倭朝に於ては化外の地・蝦夷とて民種を異に、何事の慈悲もなく圧し来たるなれば、信仰までも倭神に改め、その貢とて散財せしむなり。かくして丑寅日本國の歴史は失ふとも、太古なる地下にあるべく遺物ぞ古代の歴史を物語りぬ。東日流中山石塔山なるは太古なるヌササンの跡にして、世に知らるを秘とし、和田一族にて今に太古の苔に埋むるまゝ今に崇拝護持されたる處なり。此の聖地には西の宮跡・東の宮跡あり。十和田神社・荒覇吐神社・金胎山小角院ありて、是を今にては大山祇神とて總稱しける。是く改むるも歴史の實相を密せんがためなり。安東一族に護られたるまゝに今にあるは秘洞の故に安全たり。

大正三年七月一日
和田長三郎末吉

二、

語部録に曰く、古代西山靼より来たる渡民の、東日流に来るは男六十二人・女五十八人・童十六人たりと曰ふ。故地に戦ありて、安住の天地を求めて黒瀧江を降り樺太・渡島を經て東日流紅毛崎邑にたどりたりと曰ふ。百ママ十六人の大勢なる民に、紅毛青眼の者ありて十三浦に入りて陸住せる。此の地を紅毛崎と稱せるは、この故なりと曰ふ。地民と混縁し、東日流に永く青眼の子孫遺りたり。語印を傳ふは此の渡民にて、その子孫代々に用いたり。

ジエムデトナスル・バビロニア・アツシリア・フイニキア・エジプト・クレタらの國に通用せる語印なり。東日流語印は六種あるは、この故なりと曰ふ。更にして東日流先住民の石置・砂書の事傳へと混じ、語部文字と相成り、更に晋民の漂着以来、語部文字七種と相成りぬ。全四十文字にて通用すと曰ふなり。今も遺りきあり。二戸地方なる、めくら暦にぞその名残りありぬ。安東一族にして密なる書状は、語部文字を能く用ひたりと曰ふ。依て世襲にはばかれる史書ぞ、今に用ふるは當然たりぬ。

寛政二年四月廿日
浪岡小太郎

三、

五大明王とは東方・降三世明王、西方・大威徳明王、南方・軍荼利夜叉明王、北方・金剛夜叉明王、中央・大日大聖不動明王を祀りて祈るを、修験道とせば中央に金剛不壊摩訶如来・東方に金剛藏王權現・西方に法起大菩薩・南方に孔雀明王・北方に荒覇吐大神を祈りて祀るは、役小角が遺言を以て弟子・唐小摩にその全能法力として遺したる修験宗の正傳なり。今はただ東日流石塔山に修法さる耳にして、和田神職に秘傳さる耳なり。東日流十三湊の名付たるは役小角なり。此の地は十三千坊と申すも、誠の意趣は一佛成道土砂山河草木皆悉得阿耨多羅三藐三菩提の偈文より引き、土砂と書くを正とす。

更には、飛島山の飛島宮・大坊の大光院・梵珠山の梵場寺・石塔山の両界堂ら遺りぬ。役小角は大寶辛丑の年、此の地に赴き、垂地・金剛藏王權現の本地・金剛不壊摩訶如来を感得せり。役小角が石塔山に入滅して修験宗の法灯、東日流より出でざるも、今に消えざるは安東一族の護持にありてこそなり。世襲は倭侵に敗北せし前九年の役より、東日流の縁れるところすべからく世に秘を固くして復せず。今上に至るるも古なる歴史の實相を今に遺せるも、勝者の權圧にその出芽を欠る世情なりせばいつ世に末を隔つとも實相は不滅なりせば、いつ世か出でむときやあらん。今はたゞ遺跡を護り、我らに遇ふる世襲の至るまで護りなん。

南無金剛不壊摩訶如来
南無金剛藏王權現
南無法喜大菩薩
南無荒覇吐大神

護り給へとこそ。

文化二年七月十日
長三郎

四、

古来安東一族は秘を以て一族の財を築き、密を以てその生産す。依て一族の契強くして世の權に障らず、黙として丑寅日本の覇に君臨し来たりぬ。安東の祖は安倍にして、耶靡堆王の流胤なり。耶靡堆王の旧住の地は加賀犀川の三輪山にて、荒覇吐神を崇拝し、倭の國に居を移し蘇我の郷にありき三輪山に王居を築き、耶靡堆氏を號して成れるを始祖とせり。耶靡堆氏加賀に在りし頃阿毎氏と稱し、三輪氏とも號したり。蘇我に移りてより耶靡堆氏または安倍氏とも稱し、その代々永く君坐に在りて安東氏・秋田氏となりて今上に至りぬ。

寛政七年九月三日
秋田孝季

五、

吾がみちのくの古代に歴史をたどりては、幽幻の彼方にありて證を掴み難し。古きより農に以て國開きて國主を定め、日本國とて國名を號す。太古にして阿蘇辺族・津保化族・麁族・熟族・久理留族ありて、丑寅日本國の人祖より累代す。東海・西海・北海に幸あり。衣食住に富めり。東海の彼方より渡来せる津保化族、北海より渡来せし久理流族、西海より渡来せし阿蘇辺族、先住民なる鹿族・熟族らを以て國民とす。

東日流を日本中央とし、北斗に渡島・千島・樺太島。更に山靼あり。その地住民みな日本國に従す。山靼よりの往来、太古より交り深し。依て、西山靼の端指國に至るまで商域の人と交り、また歸化をも相互とせり。抑々山靼は古語にして、商を易すの意なり。五十餘の多民、古より商に往来せるものを襲はざる掟あり。クリルタイの律にて、各々是を護りたり。

享保二年五月一日
物部土佐

古にして川石・海濱石の水に刻り、圓面石を立柱・礎列に置並べ、輪状一重二重三重に施設せるを、イシカカムイホノリカムイガコカムイとぞ、神祀のヌササンたり。是、三輪大神とも曰ふ。卽ち、天と地と水の神を鎭め給ふ聖地たり。古き世の聖地・上磯外濱の石運可能たる底山にその跡ぞ今に遺りけるなり。圓列一重なれば天、二重なれば地、三重なれば水を意趣して天地水の一切を崇拝せる神事の場にして、渡島より奥州地に分布の跡ぞ多し。

寛政五年十月廿日
秋田孝季

七、

古人は神の相を石に祀る多し。海濱の奇岩、山の奇岩、天然・自然に備はれるもの、人衆に依りて築かれしもの、みなながら巨大なるもの亦列せるもの、群立せるもの、古人なる神事のヌササンたり。渡島・千島・樺太島・東日流・宇曽利・津保・糠部・火内・鹿角・飽田・荷薩體・閉伊に渡りて分布せる多し。何れも人の多住せるコタンの辺に在りぬ。コタンとは邑の意なり。コタンに東西南北を方位して髙樓を築き、是をチャシと曰ふ。

コタンチャシとは城を意趣し、クケ卽ち濠を堀りて更にカッチョ卽ち柵をも巡らせり。依て是をポロカッチヨチャシと曰ふ。髙樓の始めなるは天なる神の靈を招く聖殿にして、是をハララヤチセと稱しエカシ卽ち地主長老やオテナ卽ち國主の居住せし處なり。髙樓は北天の極星に髙窓のヌササンを一定す。髙きは五十尺至髙として立柱堀立せり。亦、コタンチセ各々の神處なるヌササンも是に習ひて施築せり。

寛政七年二月五日
安保隆重

八、

天に億萬の星あれど、不動なるは北斗の極星なり。萬年に通ぜる語部録に遺れる暦々にも、是なるを説書て遺れり。神を北天に指して祀るは、是の如き意趣にて明細す。イシカムイ・ホノリカムイ・ガコカムイの天地水の神を總じて稱ふるは荒覇吐神なり。古来より丑寅日本國の國神たる一統信仰の神なり。その神なる發祥の地こそ、古代シュメイル國の民カルデア人及びその國王グデアの神として世にいでしものなり。初めアラ神ハバキ神、雌雄にして説きたるも、一尊と修成せるは安日彦王なり。

寛政五年二月七日
秋田孝季

九、

ヌササン配石図 語部録


三重配石


二重配石


一重配石

寛政七年八月廿日
帯川佐太郎

十、

陸奧徳丹荒覇吐神社之日輪稻田、是如植付。


迎水口、東水口、出水門、西水口

江釣子古陵之葬室

埋葬土盛、中之棺室也。玉石以長方型積石。

元禄二年八月十三日
小野寺金造

十一、

荒覇吐神の神像は、石神の他に素焼土形ありて、久しく神と祀る多し。亦やわきあま岩を用いて造られり。その種多類にして次の如くなり。

紅色施工もありける。

是奧州山野至處、鍬先當埋堀出。

寬政六年九月一日
小野寺誠悟

十二、

古代なる歴史の證を土中に秘める丑寅日本國の實在になる品々。拓田の鍬先にかゝりて多くいでにしも、誰とて是を古史のあるべく證と見ざるは、倭史に學びたる放縁にして、たゞたゞ蝦夷意識に以て永代の權圧に、その深層に丑寅日本史の實相ぞ、ただ世襲の妨げとて明らむときぞなし。

倭史に反るあらば、如何なる文献なりとも焼却さる實相。未だに出目のなきは、忿怒やるかたもなき片見なり。丑寅日本史はかくあるが故に、秘を旨として本書の如く遺し、後世の為に秘藏されたり。丑寅日本國の實在は支那史書及び語部録に明記ありぬ。必ず以て世浴にあらんや。

文政五年七月二日
福井藤造

十三、

渡島の宗谷にたどりて北方に望む島影ぞ、地語にしてサガリイと曰ふ大島なり。是を樺太と稱す。山靼に航す水路、黒龍江の水戸口に對位し古きより往来す。流れゆるきが故にモンゴルに往来を可能せしむ。舟往来ぞ岸野に人の無なる河岸に狩家あり、旅人を宿しめり。その一宿なるチタと稱す處に、安東船の船人が名付し地名ぞこぞりて多し。モンゴル及びブルハン神のバイカル湖にては神秘の感を授くなり。

是よりトルコ・ギリシア・シユメイル・シナイ・エジプトら西山靼に至る諸人種の國たり。天山の天池・トルコのアララト山・ギリシアのオリンポス山・シュメイルのヅグラト・シナイのシナイ山・エジプトの金字塔。ナイル河岸の古代遺跡をめぐる巡禮の旅は、丑寅日本の継君せる者のクリルタイにぞ定められた誓たり。山靼を知らざればその交易も閉すが故に、是の如き巡禮の路程を代々に果しを掟とせり。

井中蛙は大海を知らずと曰ふ。依て、丑寅日本の國主たるの山靼巡禮は古代よりの務めたり。太古より開けたる丑寅日本の地に遺りき荒覇吐神もかしこなり。

文化二年八月二日
土岐兼光

十四、

みちのく歌草紙 第二

全歌よみ人知らず

〽しばふるに
  のぼりての世を
   かげろふに
  想ひうちより
   夢か現か

〽下り月
  こもる心は
   老隠る
  山の彼方に
   名残灯ほろゝ

〽まどろめば
  月やあらぬに
   和光の影
  燭を背向けて
   われとは知らず

〽惜まじな
  谷の水音
   𡶶の風
  思へば鐘の
   露告げの聲

〽無常なり
  花に嵐の
   隔てなし
  色香に染むる
   春の霞は

〽ゆゝしくも
  散らぬさきにと
   旅思ひ
  朝立ち添ふる
   道芝の露

〽夜もすがら
  木がくれ鳥の
   佛法僧
  月冴ゆほどに
   相啼き渡る

〽夕暮の
  山又山は
   目かれせず
  のどけき心
   誰れに問はまむ

〽東北の
  日髙見川に
   沐浴し
  わすれがたみの
   麻衣洗ひむ

〽夏たつて
  末引きしをる
   呼子鳥
  いかにいはんや
   うとうやすかた

〽あれはとも
  目もくれなゐに
   中山の
  昇る旭日は
   千代に八千代に

〽春心
  時に別れて
   八雲立つ
  隙行く駒の
   四手神垣

〽千早振る
  荒覇吐神
   すじしめの
  宵にきはだつ
   北斗の星ぞ

〽さなきだに
  親しきだにも
   心よせ
  思いの空に
   人は白玉

〽同じ世に
  駐まりがたし
   輪廻身の
  假の命は
   二つも非らず

〽わけ迷ふ
  祈りにこめて
   かねことの
  果しき事に
   立ち盡し繪は

〽心得ず
  云ひもあへねば
   あからさま
  世の空蝉に
   ありしにかへり

〽神の嶺
  石塔山の
   靈感に
  それわが山は
   日の本の神

〽奥道の
  旅にであひの
   山々は
  昔ながらに
   在りてこそあり

〽草衣
  生きてある身は
   月も日も
  尚しをりつる
   うらさび渡り

十五、

外濱の大濱に千古の歴史を香はせる史跡の多きは奥内・孫内・三内・入内の古名になる地なり。語部に傳ふるは、古人祖なる津保化族の名に取りて、名付たるあり。ツボの郡・ツボケ山・ツボケ澤ら今に遺りていかに深山とても、神の聖地ありて遺りぬ。聖地の東西に今も遺りきは、古代人の住跡多くその靈場在りき。また宇曽利の半島と東日流の半島は古来、渡島往来・山靼往来を可能としてその歸化民にて邑起りたるあり。内幌別と曰ふ付名の名稱ありて、能く地中より古人の諸土器片出づるなり。老人の傳ふるに聞きぬれば、この名にあるは渡島にぞ多き地名たりと曰ふなり。渡島住民の同じかる着衣・器の遺るは宇曽利に多く存在す。世襲にて、倭侵の人に住居を奪はれるまま渡島に移りし者多けれども、彼の付名たるは今に遺りぬ。

語部に曰く、外濱を東西にして東日流阿蘇部族と睦みて民族を併せしは、岩木山・八甲田山の相互なる噴火に依れり。古に渡りき稻作もこれに依りて移りぬ。人の安住地に移るも、なりゆき當然たり。今にして原野たる處とて、古にして人の多住せるは明白なり。外濱の辺より移りきは鹿角・火内・馬別・荷薩體・閉伊なり。今にして荒芒たる原野なれど王居の跡たるもありて、いつ世か歴史に甦るを神に祈りつ。

寛政八年二月一日
其田貞重

和田末吉