北斗抄 廿五


(明治写本)

注言

此の書は他見無用、門外不出と心得べき旨、戒め置くものなり。

寛政五年六月一日
秋田孝季

諸翁聞取帳

我が國の君主にあらせらる安倍の君に来歴せる明細諸書は天明の大火事にて、城文庫焼落てことごとく失ふ。依て歴史の復篇を六十餘州の縁りの旧家に巡訪し、一切の故事を記㝍仕りきも、難たるは渡島・千島諸島・樺太島の他、山靼諸處にまつはる歴史の事に當惑せり。依て老中田沼意次の特なる北領探訪の役目とて秋田孝季殿にその任を許されり。總て事隠密事にして松前藩、事の渡航仕度一切をまかなふる。時にオロシヤ船北領を犯す事暫々たれば、幕朝是を憂ひて公に避て是をはしたの者とて許したり。幕府公金三千両、秋田三春藩に賜り、是を秋田孝季殿に下預したり。

依て秋田孝季、東日流の和田長三郎倶に江戸にまかりて田沼意次の密命を三日に渡る密議をこらし、北探の旅に赴きたる年。田沼氏、失脚せり。秋田氏を湊ある地領より三春の山地に國替を謀りたる松平重任の失策は、今にして北方日本領を輕んじ、たゞ秋田氏の安東船封策に、伊達氏と秋田氏の完船になるサンバプチシタ號の以来になる幕府の小心極まる神の報復たり。安倍髙星以来、北方領は千島諸島及び神威茶塚・樺太島・山靼に通商をなし、渡島を日本國クリルタイの場にして元國の攻めもなく通商を以て和睦せしは、マルコポーロの仲介なり。依て北方は日本領とてフビライハンも軍を不可侵とせる耳ならず、クリルタイの盟約を譲り、丑寅日本の飢えたる年に大量なる衣食を安東氏に賜り、東北日本の餓死せる者はなかりき。依て、今に祀らるはフビライハンとベニスマルコポーロの像ぞ寺社に遺れり。

倭國にては朝幕挙げて國難とて元寇を怖れたるも、北日本國にては元を救済の主とて祀りぬ。かくある事より北方を侵魔の鬼門國とて、朝幕倶に安倍氏の主胤たる秋田氏を生かさず殺さずの策を以て、先づ秋田初代藩主を関ヶ原合戦への不參加とて、家康滅後を期に秋田實季を伊勢朝熊の地に蟄居せしめ、その子息を大名と繼がしむるも、秋田俊季は秋田の地より宍戸及び三春へと轉封され現に至らしむは徳川三家の要人松平重任の策たり。今にして北方領を秋田氏より地住民より隔たらしめ旧信に復すもならず、松前・南部・秋田の藩主挙げて北領に旧復の信を得んとせるも、ふくすいぼんにかえらず。幕府今にして三春藩の浪人・秋田孝季を認めたるも、孝季こと橘隆末たるの長崎在任のとき、和蘭陀船にてマカオに渡りイギリス人學者との學得たるの科に解任され、秋田土崎に浪人せるも、母・久世の秋田家再縁に依り今度の任に至らしめたりと曰ふ。

文政六年十月二日
和田長三郎吉次

二、

みちのく歌草紙 第一

全歌よみ人知らず。


此の歌草紙なるは古今に丑寅日本國に住むる住民の遺したる歌なり。定りにて、詠人の無く歌耳を今に遺したるは、ゆかしきなり。

〽厨川
  あはれ昔の
   悲しきは
  城の跡なる
   川瀬水音

〽穗に出でて
  秋田は黄金の
   秋盛り
  大河二つの
   安東様よ

〽目に見えぬ
  鬼の造りし
   岩手石
  手型のあとは
   苔も生えねば

〽涙雨
  衣の川に
   溢れよと
  昔想へば
   月も泣ける

〽さりともと
  生保内城の
   見る度に
  命あらばや
   人を人とし

〽打つ引くは
  たづきは敵ぞ
   雨矢先
  我が手に城を
   焼くも策なり

〽和賀山の
  猿澤しぐれ
   どぶさ音
  なづとも盡きぬ
   聲のあやなす

〽仙北の
  乙女愛しや
   草枕
  こともおろそか
   松の下露

〽あへなくも
  跡のしるしに
   埋め墓の
  上に石置く
   いくさとむらふ

〽やみやみと
  のぶかに負ふる
   賴良の
  疵の手當も
   空しく逝けり

〽良照の
  教あまたに
   仙巌の
  峠に遺る
   法の窟跡

〽生保内の
  巌に吠ける
   狼も
  旭日あびては
   狐と変り

〽巌神を
  龍とし祀る
   生保内の
  悲しき傳へ
   姫塚の盛

〽鍋越の
  安日柵跡に
   秘密あり
  どんびら山に
   旭日當らば

〽安日山の
  神なす石の
   ある限り
  わが日の本の
   太古は朽ちず

〽わだつみを
  船征く路と
   𩗗風帆に
  山靼めざし
   潮けたつ船

〽果知らぬ
  山靼旅の
   砂漠月
  かりねいぶせく
   夜明けまたるゝ

〽さながらに
  ゆひかひなくも
   大陸の
  旅に馴れ越す
   異土のしるべは

〽故郷を出で
  數への月日
   幾歳ぞ
  山靼旅の
   だもひ道々

〽澄む空の
  秋や通ふらし
   白鳥は
  子を添へ来たる
   伊治沼の朝

〽方丈に
  心なけれど
   ふりにける
  つゝましとぞは
   思はざりける

〽朧月
  あるべき住まひ
   おきふして
  弓矢のさたも
   覚つくもなし

〽かりそめに
  とてもの憂き身
   まぼろしの
  けしたる人と
   よしなかりける

〽神託を
  石塔山に
   かけまくも
  われわくらばに
   覚むる心は

〽心せよ
  人倫誠に
   専なりて
  しかるべくとは
   六時不断に

〽いづくにか
  歸るさ知らぬ
   末もなく
  顯し衣
   気力無うして

〽思寝に
  露を添へにし
   草枕
  いづちも人の
   心空なり

〽濡れて干す
  世にありがつの
   しきたりも
  今生冥途
   色滅の秋

三、

歌には六義あり。類して一には風、二には賦、三には比、四には興、五には雅、六には頌なり。六道には一に天上、二に人間、三に修羅、四に餓鬼、五に畜生、六に地獄なり。是を六趣とも曰ふ。是れ一切有情を業因に従って赴く處と曰ふ。歌に六義あるは六道の巷に準へて六種の變化を見するものといへるなり。更には意趣髙らむるため、長歌・短歌・旋頭・混本の類に歌體を為せるあり。
長歌は五七調を重ね、後を五七七の句に結ぶなり。
短歌は通常の三十一字の句なり。
旋頭は五七七を重ねし句なり。
混本は五七五七の四句なり。
是の如き歌體をして古今に於て、みちのくにては名を添はしめず流行し、事ある毎に歌に綴りて遺したり。

寛政五年十月二日
秋田孝季

四、

一、長歌 五七・五七・五七七

〽みちのくの
  弓馬の家に
 宿かりて
  さしも畏き
 飼馬の
  譜代の武士に
   馴れてこそ成り

二、短歌 五七五・七七

〽きさらぎの
  雪のしのゝめ
   冥加なく
  金剛杖は
   雪道に鳴る

三、旋頭 五七七・五七七

〽とこしなヘ
  八千代にこめし
   金胎両の
 阿吽とは
  九會の曼荼羅
   廬遮那佛ぞ

四、混本 五七・五七

〽名にめでて
  よし知る人の
 苔衣
  みちのくを行く

是の如く、みちのくの人に歌の覚りありてこそ、古今にして歌の數々ぞ遺りけるなり。

文政二年七月一日
和田長三郎

五、

わが郷の離れて久しく夢現つに想ひ出づらむは、岩手山・日髙見河の景に今頃は如何にとぞ望郷の一念、尚心にせかしむる此の頃。訪れゆくもならざる身の感、ひとしほなりき。吾が一族の東日流に住める再復の速きに人の便りあり。筑紫の地にて北斗の星を仰ぎ、今は亡き父上・兄上・弟らの面影を愢びてぞ暮し居りぬ。余も老うれば此の地に生める子息らに汝れを想はしむなり。

十三湊の開きしは卆事乍ら祝申なり。安倍氏改め安東とは、故に日本將軍安東將軍と累系に在り、誠に以てあっぱれなる英断。吾れ何事の申添御坐なく。一族の安住ありて君ありぬれば、先々永代の久運あれかしと祈り奉る。

髙星よ。汝こそ北斗の王者たれ。平泉なる榮華に事をまね給ふべからず。費を常に控へて、一族安泰の道に精進せよ。必ずや榮華は枯るゝあり。藤原道長の例是ありぬ。誘ふるとも乘ぜず、唯商易に心せよ。汝れ國まで倭人の犯しべく非ずとは、吾しかと聞き及び皇家の砂太も及ばざるなり。汝れ平泉氏とは従弟たりとて、彼の權にあるは京師なり。依て、誘水に柄をかむあり。心して當るべし。かしこ。

承暦丁巳年月日
安倍筑紫太夫
宗任華押

右は原漢書を譯したり。是を宗任状二信と曰ふ。

寛政五年十月七日
秋田孝季

六、

安倍一族にして能をして傳古書ありぬ。多冊なりせば、その題目耳ぞ記し置きける。

右の書は中に東北にかかはる法式ありて重要たり。能の今に傳ふる白山神社を正傳とせし一派は藤原氏なり。

天明三年八月一日
物部光忠

七、

奥羽・奥陸に、白山神・白神・白鳥・白衣の白字の名付くる地名及び社の多きは、古き代の傳統に依りける故縁なり。尋ぬるに白山信仰の故縁は、支那大白山に發し髙麗の白頭山・大白山になる西王母東王父の信仰に縁るなり。韓國より加賀にぞ渡りし白山信仰の今に遺る信仰にて、九首龍・饕餮の神護になる大白山神なり。白山神の天降る處天池のある仙𡶶にして、山地に湖また沼の在りき處に白山神を祀る多し。

白山神の別稱あり、三輪の神なり。大物主神を以て祀る天龍・白龍・黒龍の龍神信仰に發祥せる支那に創れる古代信仰なり。白山神とは天女にして、韓國にては八天女。吾が國にては白鳥・白衣・天一・天女。支那にては西王母神・女媧にて祀る。天山の天池ぞ聖地なり。白山姫神と祀るは後世の創信にて信じるに足らん。韓國より渡りきは九龍また九首龍の地名遺りて、その祀處は山濱にて白山・三輪山の名遺りぬ。依て、陸奥に渡島に白神山・三輪の神處ありきは、太古なる渡来古信仰の證なり。

寛政六年七月一日
物部藏人

八、

丑寅日本の古事を知るべくの鍵ありき。古代なる千惠の多くは山靼より渡れる多し。東日流にては上磯。宇曽利にては國末なり。古にして驚くべくは人の渡り、馬の渡りあり。東海の彼方、波濤萬里を渡り来たる北アメリカンインディアン族ありきは、遺物にて明白たり。その鏃造法・馬骨のあるべくは東海濱に延々たり。山靼よりの渡来人の古くは人祖の創より此の國に来るも、ゆるぎなき證ぞ今に遺るは西海濱に延々たり。

東日流にては東海渡りの民を津保化族と稱し、西濱に渡り来るを阿蘇辺族と稱して今に遺りぬ。依て、東と西に分布せる古蹟に相違せる出土品、及び人の遺傳にも相違生々今に遺しぬ。古を知るべく要はその地に埋る古器に判断して、明白たるは石鏃にても判断を可能とせるなり。

例へば・・是ぞ北アメリカンインディアン族のものなり。・・・是れなる型にあるは、山靼渡来人の用ふるものなり。此の他、土器にては尚明白たり。

明治十五年七月二日
安藤重治

九、

人の住にける太古の丑寅日本國にその遺跡を探りては、青森・飽田・巌手・山方・多賀・吹島の處々に多し。今にして縣名にて青森・秋田・岩手・山形・宮城・福島と相成きも、もとなる丑寅日本國なり。今にして世評にては、白川以北一山百文とぞ辺境に見末ふるとも、是の如くせるは倭侵の故なり。古にして日本國は丑寅のもとなる國號なり。康平五年の前九年の役以来、丑寅の歴史は抹消され、たゞ蝦夷とて倭の化外に、利ある總てを奪取しその弾圧ぞ明治の代初に至るとも征夷大將軍の朝庭に在りきは、やるかたなき民族差別意識たり。

かくある丑寅日本の故事にあるべくの史は、倭國をはるかに越ゆる深層に在りぬ。今にして東北出自の歴史に世襲の風は冷々たるも、史實にある實證ぞ末代に必ず世浴に當らむを念じてやまざるなり。吾等東北に祖先より住にして、未だ辺境に置き却れるまゝ西との差別大にして、國家の要を掴むは征東に加勢せる輩の掌据さるゝまゝ。自由民權の三春に起りきも、今年十五年にして弾圧されたるは忿怒やるかたもなかりき。

明治十五年十二月廿日
川越忠吉

十、

北斗抄。あと二巻にして筆了に近きも、我は老たり。世は討幕以来、文明開化に鎖國におくれし國勢を世界に比肩せんとせるあせりに、幕政より尚過酷なる税を負しむる政相に。民はあくまで下敷とさるのみならず、天皇を萬世一系の神代よりの神孫と奉るさま、尋常ならざる世相と相成りぬ。世に無かりき神代を、古事記及び日本書紀に基きて公史となし、是れに異論も赦されず天皇を活神と奉るは、たゞ皇國の觀念なる狂気の沙汰なり。

我れ憂ふるは、自由民權の弾圧・廢佛毀釋・國民徴兵令・華族令・集會條令・言論の弾圧・異國侵兵の今に續くは、是ぞ吾が國の外國先進の國に、やがては崩滅せるの憂なりき。心せよ。吾れ今なる言の必ず至る日は遠からず。武力日本の崩滅せるは明白なり。國を興すは古事に證せる安東船の異土交易商法なり。生産大ならしめ民を富しめ、貧民皆滅に國運を向上し、世界に和を以て通商を旨とせば國勢隆興せんに、ただ武を國勢とせしは幕政より尚、國を危ふせるものなり。吾が今なる餘言ぞ、必ず訪れる日本國の運命なりと記し置もの也。

大正元年二月一日
和田末吉

和田末吉