北斗抄 廿二
(明治写本)
前九年之役諸話
一話
抑々奥州三十八年戦より事に変なく諸處に泰平。民の平安保たるは世の無上なる吉兆是ありきに、いわれなかりける天下爭乱の火兆降りぞありぬ。奥州は荒覇吐神の國にて十萬年過却に民の孫累ありて栄ゆ。山靼の交り尚睦みける桃源境たり。北都は東日流に創りて金銀銅鐡の産採鑛大いに民の食生を安じたり。
代々をして山靼交易を興産なさしめ、その船寄を渡島の余市・松尾澗内・宇津化志。東日流は十三・吹浦。飽田は北浦に創りぬ。常にして山靼とクリルタイを集い、黒龍江を道としモンゴル・シキタイ・ペルシヤ・オスマン・ギリシヤ・シュメイル・エジプトまでも商隊の交流ありき。亦人の渉りありて代々その益となせり。これぞ、あらはばきに縁る信仰の故なり。モンゴルより馬を入れ、ナアダムの練磨盛んたるもこの故なり。丑寅日本國の風土は遠きシユメイルのカルデア民になる傳統あり。王統の政はグデア王・ギルガメシユ王になるアラハバキ神に縁りを深くせり。
古きより巡禮の旅あり。黒龍江を道としモンゴルのブルハン・天山の西王母・天竺のシブア・オスマンのアララト山・ギリシアのオリンポス山・シュメイルの瀝青の丘・エジプトのナイル河聖跡に幾年にもかけて巡禮せるは、荒覇吐王たるの丑寅日本國に君臨せる累代の大務たり。丑寅日本國の古史に倭史を以て當つる不可。深き歴史の光明ぞ北より發起せるは、不動なる北斗の星なる如し。
元禄十三年八月一日
物部房景
二話
丑寅日本は流鬼・渡島・千島・東日流・閉伊・飽田・砂泻・伊治・亘理・坂東・能戸・犀川に至る國なり。依てその傳統ぞ今に遺ることぞ多し。五王を以て治政の要とし、民を以て大事を司りぬ。君主にして國なく、民にして國拓くを國治とせるは古代荒覇吐王の累代なる治政なり。丑寅日本國に國主を為せる創りは耶靡堆の王安日彦・長髄彦が北落にして地民一統の實を挙げたるに創まれり。安日彦王の落着は荷薩體なる奴碑羅川落合に鍋越崎を柵に築きて住むるは今に遺れる安日柵なり。柵より望む山を安日山と號けたるは後世なるも、倭臣の後は安比山と改めぬ。亦安日柵の所在をして無に秘とせり。もとより仮城にして二年の在住とせる安日彦王は東日流に移りきより、地の豪・多嶋彦の居城たり。
安日彦王、東日流に入りては外濱なる津保に居を定め、耶靡堆城を築きて住ける處まだ所在不知。後にては巌鬼山麓・三輪郷に住ける。此の地に荒覇吐神大巌石を神鎭まし祀りき跡ぞ今に遺り、地に拓田せる跡も跡田近在に拓跡を今に見ゆかしむなり。安日彦王その舎弟なる長髄彦の陵は三轉し、今なる鮎内の地に眠りき。陵を御世頭と號け、神なる盛とて今に祀りき。亦、赤浦に陵せる長髄彦王の御遺體も水害に破墳せるより、此の地に移せりと語部に傳ふなり。此の陵を今にオセドウと地民に仰がれむなり。
〽あなかしこ
神にし君の
ねぶる陵
わが日の本を
國な建つてそ
詠人知らねど、地民は奉拝に詠ぜむ習へあり。視浦の磯香かんばせぬ。
元禄十二年八月一日
亘理玄三郎
三話
いと昔なりせば語るも忘るありけむに依り一筆遺し置きぬ。安日彦王をして祖を尋ぬれば安毎氏なり。もとなるは賀州之三輪山氏にて、白山神を氏神とて支那・髙麗の交りありて白山神・九首龍神・饕餮神・西王母・女媧・伏羲神を信仰せり。安毎氏となりて耶靡堆に移り、蘇我氏・物部氏を庶家とし難波及び木の國に政配せり。是ぞ倭朝の先なる世の事なり。倭史の綴るを讀つるに、奥州は化外地にして住むる民はまつろわざる蝦夷とて、下賤の反賊とのみ片そばぞかしむ記に作り成せり。倭史の記逑さながら倭讃のものにして、平等たるに見つれば、紫式部が物語の書頭に記せるが如く日本紀などは片そばぞかしとぞ逑ぶる當然なる讚美、倭史の綴りたり。
倭史の古史ぞ語部の作り成せる章多くして、世にありき史實を倭讃のみに古史を神代に作り、天皇を神なる直系に作りきは信じるに足らん。奥州の史は元来になる日本國史にして、國號そのものぞ日本國なり。永き歴史の傳統に遺るを抹消しけるも、眞實にある遺證を皆滅せるは叶ふべくもなし。丑寅日本國の民は倭人の先つ代に王國たり。王國たるべきの條は、國あり住民ありて生々の掟あり。民族相互の交りに流通あり。商工の物産に定を律し、人の罪惡・住民安住の政處を司とる國主・長老・縣主・郡主・邑主相立法のもとに、國を護るを一統の律にある民族の住むる國を王國と曰ふなり。心の安らぎとて信仰あり。睦ありて生々を保つは、民なる生々泰平にして是を侵すは國挙に以て護國せしは王國たるの古き代の創たり。
元禄十二年八月一日
亘理玄三郎
五 話
抑々丑寅日本國は山靼との交りあり。その民族百八十餘に通じたり。國土の最北たる流鬼國より黒龍江水戸に近く海峽を渡りて山海地産の品を物交に商しぬ。山靼より得るは馬。獣肉なるほるつと云ふ干肉及び毛皮。弓矢と馬具。衣織物なり。飾玉・履物・刃物・皮鎧・山靼船等、多採なり。更に丑寅日本國に歸化を望むる鑛師・諸職人、それにともなふる女人ら多し。眼の青き紅毛人ありきも、古きより人の種を異にせざるは丑寅日本の民心なれば、睦みて縁ぜり。信仰またわが國神をして強信をせず。自在たるはモンゴルの如し。
國神たる荒覇吐神の信仰たるは山靼より渡来せしものなれば、その信仰に要を異なるなかりき。もとよりわが國は王統治世の以前より宇宙一切の神イシカ・大地の一切なるホノリ・水の一切なるガコを以て神とせしは萬年に渡る國神たれど、遠き國・西山靼のシュメイル國よりカルデア人の傳へきアラハバキ神の信仰大要に同じかる故に併せて吾が國の國神を荒覇吐神とぞ稱したり。爾来その信仰、民心に能く定りて一統信仰と相成りぬ。抑々荒覇吐神とはカルデア民の宇宙の星座に日輪の黄道・赤道に定むる十二星座に感應してなれる神なり。アラは獅子・ハバキは地母なる蛇神なりと曰ふ。
六千年前この國に王國成りてグデア王・ギルガメシユ王と相渡りて、シュメイル國の國神たらしむもツグリス川・ユウフラテスの河畔に血肉相喰むるが如き闘爭起り、カルデア民の多くは四散しトルコ・ペルシヤ・シキタイ・ギリシア・ナイルに天地安住を求めたり。その一群たるはシキタイよりモンゴルを經て吾が國に歸化せし者より、荒覇吐神とて地神と併せて流布し、茲に一統信仰と相成りぬ。その故地なるシュメイル國にては國神ルガル神を祭司せりと曰ふ。
元禄二年八月一日
亘理玄三郎
六話
安日彦王・長髄彦王の後、飽田・荷薩體・被威・和賀・伊治・来朝・白河・武藏・安倍川へと五王の政をなしけり。倭の境とて安倍川より糸魚川に至横断しその東北を日本國とし、その西南を倭國とせり。安日彦王の代より凡そ一千年にして日本國たる國領のあらましなり。代々の累代王は秋田上系図に明細遺りきなり。
享保元年十二月三日
物部總宮太夫
七話
安倍日本將軍とは安日彦王の一系なる継主にして、今になる秋田三春藩主にぞ至れり。三輪・耶靡堆・安毎・安倍・安東・秋田とぞ改姓に渡るも、その一世とて欠くるなかりき。
〽千代八千代
日之本君と
とことはに
國の神なる
荒覇吐神
國を日本國と號け、聖王を中央に、國領の四方に四王を配し縣主・郡主・防人を以て國の護りを補せり。道開き架橋し、如何なる邑にも通ぜむ交りをなせる故に國治能く渉りぬ。海辺・浦濱を以て海産を採漁し、原野に駒の戸をなせり。水利の地に拓田し稻作を耕せり。畑に蕎麦・豆・麦・芋・黍等、越冬に保てるを耕作す。亦、鹽採・造酒・干食物を盛にし、山靼への商易となせり。職に部あり。部の民とて鍛治・玉造・織部・馬飼等四十八部あり。各々五王の配に屬せりと曰ふ。
倭史に曰ふは、まつろわざる夷人の化外地とて、倭朝挙げて侵略を代々に捉し征夷大將軍たるの非理を以て丑寅日本國を賊國とて、今に征夷大將軍なる官位を朝令とし、國號を倭國の國稱に奪いたり。然にや、丑寅日本國に日本將軍・安東將軍とて今に遺りき。秋田一族を以て累代なせるかたわら荒覇吐神の法灯を絶ゆなし。
元禄十二年七月二日
藤井伊予
八話
みちのく歌枕百集に曰くを謹㝍仕る。何れも詠人知らざるなり。古来みちのくの歌に、在名を遺すは非ざるなり。
〽北斗の
いづくはあれど
年ふれば
くやしからまし
春も侘しき
〽風仆る
朽にし櫻
埋れ木の
うつらふ影も
名残をしほや
〽のぼりての
歴史知らばや
老隠る
かげろふ如く
このもかのもも
〽年身には
よろぼさぞらひ
逝き近し
思ひうちより
われを心し
〽春宵の
花にうつらふ
一刻も
想ひ入るさの
われとは知らず
〽露の身は
散らぬ先にと
名にし負ふ
我昔諸行
時ものに書く
〽われもまた
はてはありける
逝つ日の
年ふる毎に
心苦しき
〽わが生を
いかにいはんや
かけよかし
しゝむらさけぶ
雪に吠えけん
〽生れては
時に別れて
わだつみの
眞砂と砕け
濱の巌も
〽天ぎりて
八雲に隠る
日輪の
光り抜きさし
みちのくの秋
〽永き冬
隙行く駒の
千早振る
春遠からず
雪を窓見ぬ
〽手に取れば
泥をいでこし
蓮華にも
いしくも髙き
香をぞ鼻突く
〽傾ける
日は嶺の端に
逝き沈み
人はうたかた
流命の常
〽蓮葉しる
人は白玉
われからも
獨り来ぬ世に
獨り逝くなむ
〽惜めども
かなはぬ命
わけ迷ふ
あだし浮世に
云ひもあへねば
〽宇曽利山
三世の輪廻
六道の
ありしにかへる
前世の因果
〽うろくづも
それを餌とせる
あしたづも
生死の連鎖
神な掟てむ
〽駒岳の
湯湧く生保内
萬病を
癒す湯治の
安らぎの里
〽栗駒の
髙嶺をくだる
ましみずは
衣の舘の
命永らむ
〽ただら唄
掘採る黄金
みちのくの
君たる安倍の
民安かれむ
〽白百合の
飽田に似合ふ
おばこ肌
妹背ならむと
仙北かよふ
〽松島を
思いいづらむ
象泻の
島の若松
枝ぞ栄へむ
〽鳥海の
嶽に雪解く
湧清水
稻を稔らし
黄金波立つ
〽藏王山
氷の神は
冬立て
いと尊しや
荒覇吐神
〽泰平山
飽田に聳ゆ
靈峰を
安日彦祀る
マタギのカムイ
〽登りては
風もうつろふ
國見山
法のしるしや
補陀洛の坂
〽阿陀多羅の
岩もる水は
苔となり
よるべをもくむ
淀なからむに
〽旅時雨
いづくはあれど
よるべなく
うらさび渡る
みちのくの道
〽巌手山
風もくれゆく
夕されば
寂莫たるや
陸奥の青月
〽幾山河
とふにつらさも
宿にては
さゝの一夜に
たまさかに酔ふ
〽汗匂ふ
戦に着替ふ
いとまなく
川に洗ひて
着干常なり
〽かねことも
破りき源氏
夜もすがら
たづきに攻むる
黄海の打つ引き
〽くれはとり
伊治の中宿
夜をこめて
燈も背く
若く物なし
〽下り月
まだ夜をこめて
ほととぎす
あめはゝこぎに
なづとも啼きつ
〽影廻る
こともおろそか
あやをなす
忍ぶもぢずり
ゆらぐ水月
〽あへなくも
跡のしるしに
碑を建ぬ
衣の戦
ゆかる者ども
〽犬死と
ゆひかひなきは
草經の
乃至十念
埋む屍を
〽すなどりの
うろくづおどる
寄せ網の
鱗にあびる
渡島わだつみ
〽そなた風
夢路も添へて
行くへをも
教あまたに
道芝露辺
〽いぶせくも
捨つ世の風
わびさびを
尚ぞ追へ寄る
たづくものらめ
〽愚痴者に
教への道も
あきらめず
救ひ給へき
荒覇吐神
〽陸みてそ
山靼國は
聖土たれ
もとこそ祖累
いでこしの國
〽あわれとも
思はざりける
源の
六道修羅に
落てはかなむ
〽北斗の
海は道なり
山靼の
往来船を
迎へてぞ益む
〽あだ浪の
とてもの憂き身
ありがひに
よしなかりけり
すゞしめの聲
〽わくらはに
しば鳴く鳥の
寂しきに
憂きに心は
東日流への夢
〽草木まで
けしたる世末
手飼虎
放つる陸奥の
西吹く嵐
〽片しくや
倭史に心を
賣なせる
實なき古史の
こつじきは夢
〽歴史への
清光無きは
實ぞなき
蝦夷とぞあだし
世に造りては
〽さがなきは
あふさきるさの
明もなく
鬼界に暗き
道も見えでは
〽行きやらで
よるべの水も
やごとなき
老を隔てそ
〽のならひに
月日の算を
謀るとも
みちのく人は
邪をば裂く
〽衣川
よしや草葉の
露と消え
有りつる歴史
添ふて消えなむ
〽黒衣
暗に染むれど
明りには
閉ぎて隠す
西は黒雲
〽いづくにも
千度百夜の
日毎立て
國を安むる
思ひ更りて
〽春なきぬ
野もせにすだく
鳥さえに
馬蹄蹴りゆく
戦うらめし
〽しののめの
なびく嵐を
もんだはず
生死長夜の
一期の浮枕
〽ねむりける
虎の尾を踏む
倭の挙ぐる
みちのく侵す
もてあつかふて
〽とこしなへ
とかく申すに
よしぞなく
奥陸は化外の
蝦夷な住む國
〽けしからず
蝦夷と首かせ
あだ夢の
いふこそ程も
たゝみ重ねて
〽羽黒山
苔に露けき
山伏の
歩みも積る
時は虎伏す
〽東日流なる
舊里出でし
戦場に
かけずたまらず
乘りて直らん
〽なかなかに
心にかかる
みちのくの
永き戦に
かつさきそむる
〽みちのくは
荒覇吐神
かんなぎの
神のしめゆふ
けふはいつより
〽秋の風
きりはたりちよう
さればにや
風に任する
落葉舞こそ
〽年の矢も
春を心の
しらま弓
老いて
箙矢込て
〽天つ風
心に寒く
道せばき
やはらやはらに
敵を攻め寄す
〽人の世
をいそぢに計り
老ならく
花になれこし
しのぶの草衣
〽いささかも
変らぬ色は
青天の
時めく花は
さてしも非ず
〽露の身は
紅葉かつ散り
かたしくも
ものはかなしや
秋の衰へ
〽咲く花も
葉末の露と
散りにしを
心つくさせ
瑜伽の法水
〽みちのくの
やまほととぎす
霞立つ
海潮騒に
善知鳥鳴きける
〽北海の
八重の潮路に
うろづくを
波越す船は
安東船方
〽ためしなき
山靼旅の
巡禮は
みるものすべて
ただ珍しき
〽野に香る
菜の花いきれ
みちのくの
心にくしや
道にはてなく
〽舟こぞり
潮の流れを
かまひてぞ
大事の渡り
馴れ染めてこそ
〽船
千里を行くも
船座して
波に浮寝の
海渡りける
〽もどかしや
こりのなく音に
ときこめて
うたての人は
まさうずるかな
〽わがことの
明かしかねたる
夜もすがら
夢の占
かかる思に
〽うたかたの
あはれと消えつ
北上の
流れを見つる
老婆淋しき
〽きのふすぎ
苫にござあれ
うきながら
廬火もぬくき
舟待の人
〽たゝねなり
戦馴れたる
防人の
少しなりとも
ねむりありとは
〽さも思ひ
あたら櫻の
花もうし
霞と見しは
われのみあらず
〽よしありて
おほどか狩りに
馴れつ鷹
雪の吹くても
翼ゆるめず
〽亡き影の
父母に想へて
墓もうで
幼き頃の
思い出づらむ
〽めじらしき
鯨の群を
見つる目は
すなどりやむる
海人たのもし
〽うす櫻
老木若木も
うちつけに
たなびく霞
いと添へ渡る
〽藤の花
老木を飾る
あさぼらけ
猴が手渡る
こゝに来てだに
〽神さびて
苔も香をなす
石塔山
安倍の墓なす
巌神の境
〽子を臥して
衣縫ふ母の
面影を
老いても夢む
盆月の宵
〽きりぎりす
秋日の草に
盛り鳴く
聞くや聞かじや
人はのらゆく
〽いづくにか
歸るさ知らぬ
迷ヘ兒を
糸もてつなぐ
親の想は
〽あだし身を
三界いづくも
所なく
東日流に望み
旅は早立つ
〽虎と見て
石に立つ矢の
理りを
やたけの心
激するよそほひ
右以てみちのく歌枕百選なり。
元禄十二年八月七日
物部總宮太夫
九話
古今集眞字序に曰く、
愛及人代此風大起、長歌短歌旋歌旋頭混本之類、雑體非一源、流漸繁。
とあり、
長歌は五十七調を重ね、最後を五七七の句にて結びたる歌體なり。
短歌は通常なる三十一字の歌にて、
旋頭は五七七・五七七、短歌の下三句を重ねし歌體、
混本は五七五七の四句より成る歌體なり。わがみちのくにては平安の頃安倍一族に流り、大いに民の興となりぬ。然るに何れも作歌に名を為す事ぞなかりけり。茲に長歌に遺るを、次順に施頭・混本を書写仕りぬ。
長歌
〽へりぬりを
頭にかぶり
秋風に
心もとなや
みちのくの
衣の舘は
千早ぶるかな
〽駒勇む
戦に駆けつ
ますらおの
たつか弓とる
黄海の丘
敵ぞ皆滅
このいさおしを
〽舘隠す
衣の関は
杉松の
蒼たる柵ぞ
楯なめて
虎伏す安倍の
鬱に膽抜く
〽白百合の
夜露にぬるる
かれんさを
わが日の本の
嫁として
気髙き子孫
育む國がら
〽蝦夷と呼ぶ
倭人の侵魔
ゆるしまず
無賴の漢に
手束弓
忿怒の火箭
的ぞ外れず
〽逆茂木と
更に楯なめ
衣舘
寄せにし敵も
馬ずさり
心もどかし
引揚ぐもがな
〽厨川
流れのもとは
安日山の
湯あみして
吾は日の本
護る健兒ぞ
〽日の本は
國はみちのく
祖来より
何をか言はむ
蝦夷人と
浂れこそ異端
侵魔の輩
〽江刺舘
四丑につなぐ
東西の
安倍の速馬
馬市に
秋の子別れ
いななきぞかし
〽羽衣の
飛び舞ふ流れ
衣川
げにや日の本
君おはす
陸奥の要に
ありてぞとあり
施頭
〽日の本は
もとより陸奥ぞ
日いづる國の
神なるは
荒覇吐神
輝き添ふる
北斗の
極星軸たり
朝早き國
日辺なる
民は豊けき
幸の御國ぞ
〽山王の
三猴たとひ
耳目口ふさぎ
民草を
蝦夷と化外ふる
断効永く
みちのくの
安らぎ奪ふ
征夷を常日に
歴史込む
蝦夷は蝦夷なと
倭史に添はしむ
〽逝し父母
今愢びても
戒めて叱かる
聲あらず
悔を語るも
ひとつ答へも
なかりける
いよわれ老ふ
子をもて知るは
わが昔
なじとも自業
自得なりける
〽叶はずと
獨り悩むる
浮世の渡り
諦らむは
得ることがたき
生ざまあわれ
はかなしな
苦に遁ぐ勿れ
日に隠れまず
われはしも
神なる力
命ありけむ
〽そことしも
とうにつらさも
過却のつなみ
枕ゆふ
いづくはあれど
千里も同じ
思ひたつ
年を忘れて
あはれ昔の
恋しきは
匂はぬ花の
片想ひかな
〽打つ引くは
たづきの敵に
企て謀り
あたらむは
突猪の戦
犬死ぬ空し
身程知れ
重ねて問はば
人命大事
あへなくも
無謀自奮
起つこと勿れ
〽すぎ間吹く
冬こそ知るや
寒垣閉ざし
あしびきの
雪のかりがね
廻りあふべき
伊治沼の
あまた水鳥
共にあくがれ
うつろひて
春を待つらん
月やあらぬに
〽鍬かつぎ
朝は朝星
夕べの星を
仰ぎつゝ
稻田通への
あたりを問へば
冬来たり
ひもじからめや
老觀童子
育めやも
備へてあれば
うろたひもなし
〽極楽の
天女の相も
五衰あり
羽衣の
裳裾をはへて
紫雲虹橋
生者必衰
會者定却
理りの
誰に告げなん
散華の舞を
〽生死輪
生とし生ける
みなながら逝く
生は絶え
死は至れども
おくれ先發つ
世の習ひ
子孫は遺る
萬物絶ゆる
事ぞなく
産まし遺れる
轉生とはに
混本
〽蟻道を
何處と知らず
生れきて
人は往き交ふ
〽傾くは
日の落つ嶺の
くれなひに
我を思へば
〽逝く春の
思ひの櫻
散りそめん
嵐も却らむ
〽故里の
藁屋今なく
父母も
苔に埋りむ
〽定めなく
望立にし
若き日も
遠のき却りぬ
〽志し
弓馬の騒ぎ
我はしも
老ふ程空し
是の如く遺りけるみちのくの歌ありけるも、秀愚を問はず、六義の風・賦・比・興・雅・頌をわきまへり。何事ありも當時の詠なり。
元禄十二年十月四日
飽田火内之住
浅利清彦
十話
世に前九年の役と倭史に遺れども、事の實なるはなかりき。凡そ倭朝の無きより日本國は丑寅に王國を建國して、民をしろしめせる先進の國たり。山靼の化を入れ、更に古代オリエントの信仰までも入れにしは國令に非ず。民心の信仰自在たるの故縁なり。モンゴルとて然なり。民の心を大事とし、その心を制ふるはなかりき。この故なる根本は、アラハバキなる神よりいでこせる眞理の故なり。
安倍氏に添ふるは物部氏にて、荒覇吐神を以て根本とせる由因は天地水の理りに迷信のなからむが故なり。安日彦王を國祖とせるは飽田なるマタギ衆なり。その昔モンゴルの狩猟を習ひてより、飽田に傳はれる行事多し。イシカを祭る灯明祭・ホノリを祭るボンテン祭・ガコを祭れるカマクラ祭りあり。古習今に傳へき多く、産金また信仰に依りて山靼の化を蒙りぬ。
元禄十一年十月一日
磯野正之
安倍氏考
東日流なる中山とて外濱の西に連峯せるありて、是を東日流中山千坊と曰ふ。梵珠山なる梵場寺・石塔山なる荒覇吐神社ありて秘なる古代の歴史あり。安倍一族をして前九年の役以来、此の山中に秘を以て閉し、今をして千古の苔に埋りぬ。參道を造らず、ただ石塔のみ千古の感を傳ふ。此の靈地を庇護せるは飯積邑なる和田氏にして、世視をはばかり秘拝を累代に及びぬ。
安倍一族のかかはりにては日本將軍安倍頻良が、祖なる安日彦王・長髄彦王の立君せし荒覇吐神の聖地なれば、この古跡を再興なし、神佛の混合道場とて飯積なる大光院の秘行道場とせり。石塔あり。古き世に地のエカシに依りて築きたるイシカホノリガコカムイを祀りし處なれば、丑寅日本國の六千年に渡る最古なる神處なり。前九年の役をして世視を閉せども、安東一族にてその秘を永代極秘とされたり。依て世史に覆し、今に至りぬ。
大光院文書に曰く、
安倍氏之明細帳
覚
安倍氏祖、耶靡堆蘇我郡三輪之國主安毎氏。安日彦王難波膽駒富雄之國主長髓彦王之累代也。東日流上磯記曰、安倍氏有耶靡堆西國地、地漢之乱敗應戦、落北辰至東日流。茲併地族日本國建國、為再興荒羅吐五王之政、坂東越羽州陸奧為國領。亦晋之流民歸化赦國住、拓福田以農耕田𤰹得豊饒富民、自山靼諸法誘致、産馬採鑛得岐振大労、牧金銀銅鐡、諸具為用途。安毎氏改安倍氏姓代々稱日本將軍為國主、亦信仰為修成荒覇吐神一統為國神。諸處流布建荒覇吐神社至國領都々浦、立社季委毎祭禮催春夏秋冬、更渡山靼訪聖地往来、數年旅程諸、世界民族交欠事不非也。
荒覇吐神之事
西山靼國趣命流國加流出亞民依信仰發起、宇宙之一切地之一切水之一切為神、號荒覇吐大神。山靼全土相渡給也。自蒙古渡吾國五千年前也。世界遺聖地在各國、義梨舎國加乎須神御梨昨保須山之十二神止流乎國之亞羅羅堆山惠保波神、辺流舎阿羅亞神、那伊流之亞免羅亞神、是總趣命流國自荒覇吐神創起諸世界信仰源也。更以天竺之志無亞神、支那之西王母、蒙古之武流波无神也。我國重神祖號荒覇吐神至現也。
正平三年八月二日
大光院法印 瑞雲坊
右、寛政五年六月廿日 秋田孝季㝍
陸奥行状記
春雨にけぶる東日流街道を安日嶽峠を鹿角に越して矢楯峠に越えにしていよ津輕に至る。阿闍羅三千坊に屬せる大圓寺に至りて中尊を拝し、津輕佛跡の法場にめぐりぬ。大光寺・薬師寺・三世寺・不動寺・飛鳥寺・梵場寺・大光院に至り、下の切街道十三湊に至りて、十三千坊の禅林寺・長谷寺・春日龍興寺・三井寺・山王十三宗寺・壇臨寺らを上磯に巡禮し安倍一族の佛跡を了り、阿吽寺にて津輕巡禮の佛印をいただきて藤崎に至り、萬藏寺亦の名を平等教院にて巡了の佛印をいただきぬ。
是ぞ東日流三千坊なる阿闍羅・中山・十三各千坊巡禮の要たり。何れの佛場も安東氏に依りて建立なせる古寺なりき。津輕にては三千坊。秋田にては補陀落三十三寺巡禮あり。羽黒山にて巡了す。亦、陸州にては淨法寺・西光寺・極楽寺・佛頂寺らを以て三十三寺ありて巡禮す。何れも安倍氏に縁れる寺跡なり。今に寺院の廢跡多く亦改宗にありて世襲の跡浮草の如し。ただ荒覇吐神社のみの崇拝ぞ絶むなく、その境内の遺る多し。
文化元年十二月一日
木村又十郎
直進之佛緣
磐城國三春より陸奥津輕の中山石塔山に至るを天眺せば、一直にして通ぜり。その標望にたどりては三春より藏王山・神室山・森吉山・大日影山・中山石塔山へと北進の直に線をなせり。依て三春にては舞鶴城の天守より北斗の極星を拝し、石塔山の荒覇吐神を遥拝せる藩主の行事ありきは九月十九日なり。
文政二年九月十九日
松本賴繁
奥州奇談
古なる世の事なり。耶靡堆國より世襲に敗れ落北せる安毎氏の一族あり。その頭を安日彦と曰ふ。その舎弟なる長髄彦ありて、深き傷を負ひ落北の道中、引柴に乘りて坂東更にみちのくへとの道中さながら陸州鬼切部に至りて湯浴せり。生死をさまよふる矢傷にて、しばらくの湯治とせり。従卆の者二千人の老若男女にしてその衣食住、地にて用達せり。地産に狩猟あり。その東西に走りて山幸・海幸を得たり。
なかんずく奥州にしてその用達速やかなれば、安日彦その旅程に北移に豊に更に北進を志し、遂にして東日流に至る落着を決したり。東日流にたどりては三方に海あり。地湧の湯泉かしこに在りて、此の地を以て日本國東日流とぞ建國の再挙を果せり。依て茲に耶靡堆の地稱を名付け、擴く道を通し橋を架け渡し、更に渡島に渡りて國領の擴きに驚きぬ。東日流上磯の濱に晋の流船漂着し、その一族と併せ地の長老を集ひて、立主の神事を石塔山にて挙行せり。
〽日の本の
海なす陸なす
みなながら
是れ我が民の
ものなればなり
〽闇破る
旭日のぼる
國なれば
幸の御園に
荒覇吐神
〽百々千代に
國を護らん
北斗の
地軸不動に
魁ぞ坐すなん
〽住む民の
國の主たる
安倍の君
わが日の本の
ほこりなりける
〽山海の
幸ある國ぞ
丑寅に
征く程擴し
大陸千島
〽睦き民
集いて交す
幾千里
開化の流れ
世のとこしない
〽日辺より
西大陸は
續くなり
天地水なる
荒覇吐神
〽往来の
道を断たずや
日の本を
山靼擴く
民いやさかに
是の如く古来より國神荒覇吐神に舞唄を奉納せる習ひぞ、今にぞ遺りけるを忘れまず保ためや。
享保二年五月二日
小野寺政時
陸奧史護持抄
坂東より陸羽・渡島・流鬼・山靼にぞ至る國ぞ丑寅日本國領なりと、日本將軍安倍氏之文に遺れり。倭の奸計不断に突きて康平元年に敗るとも、日本國たるの證跡の絶むなし。日本國神たる荒覇吐神、世界に渡り古證を照し給ふ。
カオスの聖火宇宙を創り、日輪の光熱地水に萬物を造り、その造化より人の世となれる理趣に説きたるを信仰に以て荒覇吐神と號けたるは、人の古になりける感得なり。吾が國の古人は是を崇拝して迷信なかりき信仰に一統せり。荒覇神に奉じて唱ふるは、古語にして次の如し。
ホーイシャホ
(三禮四拍一禮)
アラハバキカムイノミ
カムイイナウヌササン
イシカカムイホノリ
カムイガコカムイ
ホーイシヤホー
(三禮四拍一禮)
是く唱へしあとに弓の舞・剣の舞を長老エカシなるは奉納せしあと、女人の舞唄ぞ夜通しに踊らるなり。焚火消ゆなく旭日を迎へて了りぬ。神たる神像ぞ大巌神にして塔を築くを最良とし、女人はツセカムイとて土に造りし神像を己がチセに祀る。チセとは家にして神棚に安ずる多し。靈媒のイタコ・神祈祷のゴミソ・神占のオシラありてコタンの衆集めてなせる神事ぞ常なり。
明暦二年八月十五日
生田良俊
羽州潜洞之怪事
羽州黒股澤に潜洞あり。入口水中なれば知る人ぞなく永代せり。小吉なる人あり。この淵に鮎を差網てその洞穴を知り、水に潜りて入りにける。水中殿を七尺に泳ぎ、登りては深奥き洞穴たり。支洞數々在りて何處よりか風通を覚ふるに気味惡し。灯りなき故に一時歸りて壷に油を入れなし、二度び洞穴に入りぬ。火打にて灯を携え奥深きに至りては通洞より廣きあり。岩柱多くして天井を支えし處ありき。それなる正面に神殿ありて、池水湧くるあり。深きこと三尺にて清水たり。碑石ありて、文字あり。不死若甦之神泉と記に讀みて五十に過ぎたる小吉、試みに入泳せり。途端にして身體は自在を失ひてただ泉に浮くことしばし。活気もどりて、急ぎ泉水をあがりければ、水に映りし己が姿ぞ別人なる如く十五歳の美少年たり。小吉悦び勇みて歸らむとせば、年若き女人あらはれて小吉を呼びとどめたり。
そこな人、暫し待ちあれ。此の神な泉に入りし者、千年の寿命に授くるも、再度び人間の俗界に歸るを赦しまず。浂は仙境の主たれ、
と曰ひて消え去りぬ。小吉、素早く洞を抜け家に歸りきも、誰とて小吉に気付くなし。その小吉ぞ、今に尚生にして深き白神山に住居りぬ。小吉にしてあと幾百年の寿命ありや。十五歳の童顔にして変らず。とき折りこの潜洞に来りて老人に延命を授くと曰ふ。
元和二年六月十日
本田勝之介
神傳不可思議之事
那須獄・吾妻山・藏王山・船形山・荒雄山・栗駒獄・焼石山・眞昼山・和賀嶽・駒ヶ嶽・茶臼山・乘鞍獄に連峯せる嶽々に神傳今に遺りぬ。この連嶺は奥州金山の標山にて、金銀銅なる鑛を秘埋せるところなり。亦、陸羽の境嶺にて東西に峠を板谷・二井宿・笹谷・鍋越・鬼首・仙岩・矢立の、人歩の他あらず他道にあれば山賊等の害に被る多し。
道祖神とは倭神なれども、この峠道に大葦彦・大葦女とて道祖神あり。これをただら神・またぎ神とて今に祀りけんも、安日彦を神とて祀らる付名たり。この連峯に安日山・安日川をして國祖神たるは上つ世なれど、安倍一族厨川に康平元年に亡じて以来、この各山の神々、荒覇吐神とてしばし山神とて遺りけるも、今にして廢處となる多し。
文化元年七月三日
河田豊太郎
山靼往来之事
わが日之本國は創國以来、山靼國五十八民族の交りをなせり。クリルタイ及びナアダムの集ひに大古より往来す。黒龍江を登りモンゴル・アルタイを經てトルコ・ギリシア・ペルシア・エジプト更にメソポタミアに至る巡禮の旅。以てエカシたるの大務めたれば、往来五年の月日を旅に死を賭けにして果せり。依て、丑寅日本は擴く世界の諸事を知り、國事に推挙せども、民を憂むはなかりき。國王にして民を下敷にせるは亡國の憂ありと、民心君主の治政に戒めぬ。地之長老とは民住む邑長にして、國主と治政にその任に當るは丑寅日本の仕組なり。
安日彦王の代より戦事を好まず、その因たる挑發を制へ来たりきは一千年の泰平を護りたり。睦を一義と山靼との交易ぞ、民の産物を振興し、亦異土の智識を入れて學びたるは馬産・採鑛の岐なり。毛皮を細工し衣に用ふより舟をも造りぬ。漁撈・狩猟・馬具の一切以て山靼の傳来なり。日本刀たるの創めにては鐡産多き閉伊に鍛治さるより舞草の剣、世に用ふるは倭人の侵略より振りたり。刀工刃入の工程ぞ、山靼の騎馬民より岐を傳授されたりと曰ふ。
元禄三年七月十日
金賴久
北辰大學
久しくして幕府の密令に依りて北に國調を謀りしは田沼意次なり。奥州より北に地理の覚明なく、安倍氏に遺れる古文書また天明の三春城の焼失にて灰となりぬ。依て諸國に縁の者を探訪なし、古事の記逑あるを集写に志したるは秋田孝季なり。その尋労は三十五年に及ぶ旅にして、山靼よりオリエントの地に巡脚せりと曰ふ。
林子平・髙山彦九郎・菅江眞澄・間宮林藏・最上徳内ら是に立志せしも、渡島より山靼に土民との交りなければ、老中田沼の密たる企画にて秋田孝季にその大旅程を賴みたり。オロシヤ、北國の海に探策しきりにて、かかる世情知るべきも亦田沼殿の意趣ありぬ。世に是を北辰大學とて稱したりとも、もとより空處たるものなりと曰ふ。
寛政二年一月二日
栗田眞覚
奥州諸談
世に實ある史は遺り難し。實なりせば、支障ある者にしては目の上なるこぶなり。依て祐筆の者に讃美の曲折に書改むるは通例の事なり。故に史實なき作書に遺り、後世にしてその偽りも眞實の如く世にはびこるなり。吾が丑寅日本國に遺れる實史は、倭人の祐筆者に曲折を以て遺されたるものなりせば信じるに足らんや。能く心しべきなり。古代なる丑寅日本の實在せし崇髙なる歴史の史實こそ神代に優るる實相なり。
東日流語部録に曰く、クリルタイに知れる諸事にこそ古事を知るべく史書にして、古代より集いしナアダムの催せる山靼にいでむこそ丑寅日本の古事を知る處なりと曰ふ。古代シュメイルに起りしグデア王・ギルガメシユ王にして信仰の世に生れし哲理より、アラハバキ神は成れり。ギリシヤ・ミノワ・トルコ・ペルシヤ・ナイル・エスライル・天竺・支那・シキタイ・モンゴルを渉りて吾が國の國神・荒覇吐神はなれり。
文化二年五月二日
伊沼元藏
日髙見流史
分水嶺・安日獄に源せるは米代川・馬淵川・日髙見川なり。丑寅日本國を南に國土の中央を流るる流域になる古史の盛衰ぞ、證跡多し。安日山をしてカムイの嶺とせしは古き世に地の住人に依りて古稱されし山なり。天地水の神に備はる嶺とし陸羽の嶽ぞ集ふる聖地とて、八方の絶景に𡶶を渡る巡拝の群なせる古事に、荒覇吐の神を山頂に祀りて朝夕の遥拝に山宿せる地湧ける湯泉こそ人の萬病を湯治せり。
なかんずくその温泉郷にこもる多きにて生保内郷・乳頭郷・玉川郷に山宿多きは今昔変らざる延命の地なり。前九年の役にては、安倍一族が密として生保内城を築き、北浦六郎が叔父良照より城を引継ぎて、戦に傷せる者を癒せる秘湯の郷たり。衣川より厨川に至る戦役に安倍軍の傷兵、此の地に来る數二萬に達すと曰ふ。
〽修羅をいで
戦の傷を
癒す郷
生保内柵の
ありがたきかな
〽荒覇吐
頂く森の
郭公に
聲ぞ谺む
生保内の城
城柵は戦に用ふるものなれど、いとも泰平に傷病の兵を安らぐるは前代未聞なれど、戦なき人命を護れる城柵ぞ、生保内にただ一城備ふるは日之本將軍が人命大事とせる一義の大慈悲なり。此の城ありとは永く世に知られざるもまた史實の欠なりと曰ふ。
享保元年十一月一日
生保内邑住
笹本胤季
生保内城鑑
- 城築
- 寬徳乙酉年起工
永承丙戌年八月落慶 - 築城主
- 安倍日積寺入道良照
抑々生保内城之起工發起、古来乳頭湯之地湧、連峯兵馬湯治備、不断日本將軍安倍頻良之發願也。
- 築城繩張
- 本城 生保内川崖丘
- 見付 抱返、仙岩、鎧𤰹、大覚野
- 見告 山伏峠、五番森
- 道橋
- 赤淵道 仙北道 花輪道 阿仁合道 和賀道
- 戸
- 駒岳平原 常在 千頭
- 民家
- 沿川二十二軒
生保内六十七軒
山瀬十七軒
社邑六十軒 - 城住諸人
- 六舎 五百六人
是如以為生保内城之總閣七棟、階基圍柵、空掘澤濠、川流之自然要害利施工也。
寬永二年八月廿日
前田賴母
武具之事
安倍一族之用ふる弓箭は蒙古弓・鹿角弓・丸木弓・伏竹滋藤巻弓あり。箭なるは泻竹を以て造り鷹羽根・鷲羽根・比内鶏羽根を矢尾とせり。射程は蒙古流射法なり。討物は長刀・熊手・鎌槍にして、太刀は舞草鍛治なる二尺四寸五分を用ふ。腰刀は一尺三寸にして陣旗・持楯らを通常とせり。
寛水二年八月廿日
前田賴母
安倍攻防陣取
本陣を以て兵馬の配を菱形にして為す。弓箭を三列にかまえて横隊し前陣とし、その後陣に徒討物隊横列し、弓箭退きて前進す。騎馬先陣に駆くるあとに續くも囮兵の報に待てり。本陣をして逆茂木・桓楯・木仆の害を造るは地援の者にて迫・落石・落木・道穴を以て寄手を討てり。
寛水二年八月廿日
前田賴母
安倍軍謀
退路に害あり。囮兵を以て惑はしむ。敵、是に乘じては皆滅なり。交戦激しきも敵の兵糧を掠む。後援の武具を奪ふは不断の事なり。夜討は風強き日・雨降る日を以て行なふなり。敵侵の地に住民殘さず。糧となるも無とす。依て戦あらむ地民を隠郷に移しむは一義の軍謀たり。不断にしてかくある為に郷藏を造りて民の餌を隠れ郷に旣設す。勝計あり勝算七分の利に進軍し、利の計なくば退きぬ。これ安倍軍の人命一義とせる不断の示合にして、古来の舊積せる黄金の財も平泉なる藤原氏の如く費失なく、今も陸羽の山隠に藏眠せり。前九年の役にて東日流に落着せし安東一族の再興速きはこの故なり。亦、秋田氏と移りても然なりと曰ふ。
寛水二年八月廿日
前田賴母
北都之計覚
古来より安倍一族の計に、海を道とし交易なる利計を實成せむと東日流に十三湊・飽田に土崎湊を開きぬ。一族の庶家にある者を遣したるは寛仁三年己未年にして、永承三年戊子年なり。山靼にてはモンゴルを經にしてギリシア・トルコの衆商、東方の猟虎を欲し彼の國なる商品を以て黒龍江に集ふを、安倍の船たどりて是を商ふたり。渡島マツオマナイに集むる渡島の産物、常に備ありて大いに山靼商易ぞ振ひり。流鬼島は安倍氏の治安にありて日本國領たれば、この往来夏の風物たり。これをアムルタイと稱す。
享保元年十二月一日
磯野儀兵衛
在北光衣川
日之本將軍安倍之郷衣川。此の地は安倍一族が舘を構えし要害の地也。舘を造りて住むるは二十五年にして居を移し、永代に遺れる邸を為す事なかりき。柱掘立にして柵を二重に。柵住の留退を一義とし、衣川左右の居に自在たり。部の民、常に常在し君主の移動に添ふたり。戦時に至りては先づ女人・童・老人を安住の地に移しむを先としける。城柵質素にして、世襲に危急ありては先づ以て脱遁を先とせり。衣川に十二遁處あり。玄武・白虎・朱雀・青龍の遁道ありて、主君の命脈に障りなし。衣川の陣営はさるほどに祖来に累習せり。
安倍日本將軍を奉じてその挙兵に應ぜるは不断の約にして民心一統す。前九年の役にては祖来の掟を拒むあり。宇曽利富忠・最上武則ら、その果を為せり。安倍一族を脱すは神なる荒覇吐神に背く事にて、一族の怨靈その者に天誅の降る事、速にして顯ると曰ふ。幾千年の丑寅日本國なる國神なるは、倭神の神代より先なる神なりせば、久遠のあるべからざる神通力相違これありぬ。荒覇吐神ぞ、その上に宇宙をカオスの聖火に誕生せしめ、日輪を造り、地水を造りて、生々萬物を造りぬ。宇宙の創造より今に至る。古代にして神より世の創造を、神より感得せしはカルデア民なり。彼の民は宇宙の運行を日輪の赤道・黄道に宇宙に地軸ありと北斗の極星を感得し、その地軸に十二星座を結びて、是れ荒覇吐神と感得し天地水の化合を以て萬物の生誕を覚りぬ。
その教理ぞ直にして吾が日本國に傳はりて、此の國の國神と相成れり。もとより渡来を前にして天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコの神を祀りきは日本古住民なり。信仰の一致なせる荒覇吐神ぞ山靼より入るは、易きたり。荒覇山神の傳来を授けたるは安倍日之本將軍にして、衣川安倍舘なる女石・男石の二神に祀らるを今に遺せり。衣川とは関の二股・月山の瀬・前川の瀬・女石の瀬、支流を併せし川なり。是ぞ極楽天女にも五衰の相ありきとや、その理りを以て衣川と稱したり。是ぞ古き世の名付にて、大寶元年に役優婆塞の付名と曰ふも、定かなるは羽黒神社の鏡池に刻れし銘文なりとも曰ふ。鏡池に投ぜられし古鏡に銘あるはまれなるも、是くある刻銘ありては、世聞に遺りきは當然たり。
役小角は大寶元年、伊豆の配流を赦され、唐に渡らむとして肥前松浦より船出せるも、玄海にて海嵐その航流を漂舶せしめたり。若狹に漂着し、陸路出羽なる羽黒山に放浪し、陸州衣川の行者・理覚に親聞してその願を鏡に刻みて鏡池に投ぜりと曰ふ。此の傳より安倍一族の信仰に神佛混合の理趣、一族に渉りぬと曰ふ。倭寺の弘布にありき佛法とは金剛界・胎藏界曼陀羅の根本理趣を佛道とせるも、役小角は本地垂跡論を以て神佛混合の理趣を衆に説けり。依て役小角が感得せし佛像に本地尊とて金剛不壊摩訶如来、垂地尊とて金剛藏王權現を顯はしぬ。その法主を法喜菩薩とて、何れも渡来佛法になかるべき尊像たり。然るにや奥州にありては荒覇吐神と能く混合し、安倍一族をして入れたり。是ぞ奥州佛法の創拝信仰となりぬ。
寶永二年七月一日
稻光山良顯
北斗之軸星
北斗七星の内なる小熊座なる尾にぞ當るるを北斗の軸星と曰ふ。古来この星座を巴星の芯と春夏秋冬の天運を以て不動たる星とて、神星とせり。十二星座より四十八星座に結ぶるギリシア天文にも軸星をもとに宇宙図を造りぬ。宇宙に神を想定し、宇宙の創になる神をカオスと曰ふ。暗と冷なる無の宇宙に星々を誕生せしは、カオスの聖爆にて宇宙誕生す。
ギリシアなる神の創をカオスと曰ふはカルデア民の神創叙事詩より得たるものなりと曰ふ。世に是れグデア叙事詩と曰ふは古代シュメイルに創まれるものなり。無になる宇宙の始めに一点の起爆ぞ、カオスの聖火と曰ふ。無限に擴む宇宙の星界も亦生死ありて成れり。生る星・消ゆる星の宇宙の構造を、人想にも難く神耳ぞ掌中に知るべき處なりける。天喜の世に月の彼方に大星光あり。卜部は是を星の死ぞと曰ふなり。安倍一族の盛衰は卜部の曰ふが如く敗北せるは是の如くなればなり。
元禄十年五月一日
物部尚之
頻良立君之事
日本將軍安倍頻良。亦の名を和賀太郎と曰ふ。舘、江刺に築き是を岩谷柵と稱し、産金の實を挙げたり。物見山に道造り、人首に山関を為し餘人の往来を断て江刺川を道とせり。古きより黄金の出づる山と世風にありきも、その鑛にぞ當りし者なく、頻良をして得たり。この産金に依りて江刺をして市をなせる。馬産の隆殖また實を挙げたり。職人住はせ、鍛治・鞍造・具足師を以て六郡に産物を流通せしめ頻良、居を金崎川中島に舘築きたり。日髙見川を川舟に石巻湊に往来し、その商益を得たれば桃生に舘を築き、江合川往来を鳴子に至る川舟の産物を益したり。
依て多賀城にてはこれをよしとせず、防人常にして鹿島台に砦を築きて威勢を張りつるも、何事の退目無かりき。依て涌谷に川関をなせば、安倍頻良軍を六千を挙兵し、桃生に駐留せしめたり。依て多賀城の防人、川関を解きその往来自在たり。頻良の子・賴良、父立君の後に産まれしも、弟・道照亦の名を良照と倶に奥州六郡の支配に及ぶるは、江刺太夫頻良の勢威に依れるものなり。頻良の屬下に羽州清原氏・陸前の鳴瀬氏・磐城の朝日氏等、頻良に従卆せりと曰ふ。
寛永二年八月一日
前田賴母
樺太記
とかく北日本を蝦夷と曰ふは、通稱にせるは倭史なり。然してその北なる渡島・樺太に及ぶは知るもせず、林子平が記せし三國通覽図説を以ても樺太とは山靼なる半島とぞ見ゆ図説なり。渡島の北にサガリインたる島を画きけるも、渡島をはるけく渡島とて、ただ北に長き島・千島をして緯度なき架空の作画たり。然るに安東船になる北國の図ぞまさしくその正しき海里と東西南北の緯度に相乘せる正図たり。樺太島は渡島の宗谷より海峽を渡り、シラヌシ・ナヨロ・クシユシナイ・マアヌイ・ノテトラツカ・ナニオオの人住むる邑ありて、渡島住民と異ならざるなり。
山靼とはせまき海峽あり。黒龍江の流水、流氷となりて海上を閉ぐ。冬期ぞ往来ぞ叶はざるなり。冬期の久しければ海草の干物、山菜の漬菜、魚貝・陸獣・海獣の肉を糧とせり。樺太なる住民の衣食住は皮衣・魚皮衣。住居は木切かぶを基石の代とし木組あぜくらに造り髙床の住居たり。丸太を皮彫りてアラハバキカムイを祀り、柵に安じて神像となせり。山靼にはデレンと曰ふ邑ありて、諸民族の商益あり。古代より丑寅日本に通商を能くせり。安東船を朝幕の公船とせざる故に、北方図を知らず今に至る。
寛政五年四月二日
秋田孝季
安東船之事
十三湊廻船録に曰く、山靼交易船をデレン船ともサガリイン船とも曰ふ。渡島マツオマナイよりソウヤの北國末より樺太シラヌシに渡り、更にナニオオに至り、山靼サガリインを海峽せる對岸黒龍江のデレンケに至りて、諸國世界の商品を物交に往来するを安東船とて、十三湊にありける。
寛政五年四月二日
秋田孝季
山靼旅状記
抑々山靼に赴くは、黒龍江を登り愛輝萬州里を經にして蒙古に入るを常とす。蒙古よりアルタイ・ペルシアに經てメソポタミアに入りてエスラエル・エジプト・ギリシヤに至りて了り歸途す。凡そ三年半な長旅にて是、死境への旅と稱したり。この旅なる要はアラハバキ聖地への巡禮にして、命を懸けたる旅程なり。
古来よりこの巡禮に挑む者多く、都度毎世界の知識を覚りきは丑寅日本の来歴たり。古代シュメイルに創りしアラハバキ神・ルガル神。此の神より渡りて成れるエジプトのアメンラア神・ペルシヤのアラー神・ギリシヤのカオス神他、オリンポス山の十二神・モンゴルのブルハン神と國毎に崇拝の意趣に異なせるも、わが國のみはアラハバキ神とて原語にあやまらざるなり。
寛政五年四月二日
秋田孝季
北光とはに
安日山の靈峯に久遠なる北斗の魁光を歴史の光りに仰ぎ、日本國の國創りぬ。日本將軍とて代々に君臨し奉り、榮ある日辺の國と山海の幸ある國益を以て安倍一族のいやさかも、時の侵魔に犯され天喜・康平の十幾年。その攻防、宇宙に奇星光りたる不吉の天運と倶に、安倍な國主の世は去りぬらん。
九死の一生を遁がれし厨川太夫貞任の遺兒髙星丸。東日流平河なる藤崎の地に安東氏とて氏姓を改め、敗者の臣を集めて再興し、日本將軍とて継ぎにける。渡島・千島・樺太島・神威茶塚・角陽國・夜虹國・山祖國に船を廻船し安東一族、十三湊より諸國の國を往来し益を挙げたり。陸奥は藤原氏を以て牛耳らる少か百年・三代を以て灰盡と相成りぬ。少かに殘光遺す平泉なる中尊寺の光堂。遺しき栄枯の移りを今に落涙す。西光法師の訪れむ櫻川の景や、今に愢ぶなり。
〽春雨の
櫻にけぶる
櫻川
生れ消えつゝ
うつゝ見ゆらん
元禄の頃、松尾の遺せる名ありき。
〽夏草や
つわものどもが
夢の跡
北斗の光りを幽閉するは倭の侵魔。その奸計に奥州は歴史を失ひり。然れども荒覇吐神、久遠に歴史の法灯を絶やしまず。蝦夷化外のまつろわぬ伏賊の汚名にもめげるなく、今に遺れり。生々流轉の人の世は、世襲を改む眞實一路の途ぞいつ日にか訪れむ。奥州は、もとより日本國なる國號に創まれる倭の及ばざる歴實は、唐書に遺り證ありける。
寛政五年六月一日
東日流之住
和田長三郎
東日流中山抄
外濱と下磯を背になせる郡堺の峯・梵珠山より飛龍に嶺なせるを中山と稱す。この峯々に遺れる異稱に中山千坊・十三千坊とて、下切街道を山辺道とて今に往来す。古歌遺りぬるは梵珠山より創りぬ。
〽光り降る
梵珠山の
夏宵に
三千坊の
歴史をこめて
〽魔の獄の
嶺を渡るる
白霞
散華紅なふ
山吹の色
〽霞立つ
石塔山の
苔の巌
萬古の歴史
今も證さむ
〽空沼の
青龍くだる
傳説を
やませにのぼる
龍巻を見ゆ
〽大藏の
嶺を幽むる
春霞
繁む千古の
ひばぞ山神
〽木無山
十三の湊を
裾はきて
渡島に嶺を
雲つ渡しむ
〽荒潮の
立浪寄せむ
飛龍崎
渡島の影を
しぶきぬらして
宇曽利と岬けむ丑寅日之本の國末なる東日流岬に、紅き夕日を大島・小島の方に仰ぎつゝ今日も暮なむ。
文化二年五月七日
堺屋仁太郎
相内山王抄
古きは御世堂の宮に墳なせる大祖安日彦王・長髄彦王。両君祖を崇めその主従にありき者の眠れる墳舘の古跡あまたに遺り、海士の湊十三湊に以て栄ゆ城處なり。入淵城・白鳥城・福島城・羽黒舘・唐川城・鏡舘・青山舘と世襲に遺跡をなせり。佛閣跡また多く、山王坊を十三宗寺・阿吽寺・長谷寺・禅林寺・龍興寺・三井寺・春品堂・壇臨寺らありき。神神をして濱明神・御世堂・山王日邑神社・三熊野神社・荒覇吐神社・入淵(璤瑠澗)神社あり。往時を愢ぶに、その跡々ぞ多かりき。十三湊なる北都の栄枯。今に愢ぶもうつなれど、その遺跡に多きに呆然たり。
文政二年八月二日
秋月昌成
蝦夷史觀抄
神代をして倭史の開闢國の創とせるは、伽の傳なり。古き世を神代とせる世界諸國に例多きも、歴史と結ぶは少なし。わが丑寅日本國の古史なる傳は、山靼傳来をして人の先つ世を遺しき。信仰とて亦然なり。歴史の常は人の世に實在せる歳の流れにたどる綴りにて、それを追求せるも人の心なり。とかく歴史は同じかるを異ならしむに人は耳を傾け易きも、證なきは背かむるなり。依てその證を偽造し盗み取りて、木に竹を継ぐが如く作為す。抑々、勢者讃美に史書は遺りぬ。
然るにや眞實を抜くは難く、いつしか破れむの至るあるは世襲の流れ、世にある事の事實なり。いかに取潰せども、眞實をなせる證には何事の偽證も風前の灯にして、暗に人る當然のきわみなり。吾が丑寅日本の古事をなせるを抹消せしも、民心祖来の遺傳總てを消滅せるは至難なり。荒覇吐神の例、是なり。丑寅日本國は倭史に曰はしむる限りにつきるは化外の蝦夷民とて常にその蜂起を恐れ、征夷大將軍なる丑寅日本國を賊國とせる官位を以て世襲の權者に賜り、世々の制圧を長じたり。奥州はかかる謀策に翻弄し、住民を蝦夷とて人の類にせず奴隷の輩とぞ賤しみ、その古なる一切の貴風傳統を生々貧の底に復起を制へたり。
丑寅日本國の古事ぞ倭をはるけくして歴史の古事に優りければ、是を消滅せるに、その生々常なく代々に圧せり。依て倭人の神に信を改む貢税に従はしめむる倭侵の常たり。然るに日本國は北方に擴く、その不自在を北天に求めて移るあり。渡島の南領ぞ丑寅日本國旧民の居住、歳毎に満ぬ。地の先民と睦みければ、山靼の品を入れにして絹を身に装ふは倭人にては、大宮人ならでは衆に叶はざる事なり。前九年の役を以て奥州の栄はつきると見えにしも、安倍一族は不死鳥の如く東日流に再興せしは、倭朝の爭乱を外にして海を道なして益を富たるは十三湊にして證遺りぬ。茲に丑寅日本史を遺し置くは、私為ならず。眞なる日本史の實を證せる故の記なり。
寛政五年七月三日
秋田孝季
和田末吉