北斗抄 廿ママ

支那紙に付き破れ易く、開書注意せよ。


(明治写本<冊子本>、表紙と裏表紙)

東日流修験宗

中山千坊を一堂にして三身卽一身道場とて飯積大坊に大光院あり。その奥院・深山に入りて、石塔山照覚院あり。衆の入山を禁ぜし密行道場は古代なる神の聖地にして、荒覇吐神の鎭むる處なり。天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコ神なるカムイと稱せるは古来なる傳行、異ならざる處なり。神とは怖れ敬ふものなれば天地水の動化は萬物を造り育てしも、亦破壊せるも天地水の動化なり。神と祀るの人心に起りたるは生々のなかに山は火を噴じ、地は割れ山を崩し、海に津浪を起す。地震また驚怖にして人の心に神とて祀る起りなり。

天にしてまた然なるところにして、天候一変すれば四季をも狂はし、寒暖に起る草木の生害・飢餓を招く兆となり、人多く飢死す。暴風雨に起る洪水・異常旱魃に起る火事・落雷・龍巻・大積雪・寒冷。いづれも吉凶の自然動化なり。天を望むれば、宇宙の星・暑き日輪の光熱・冷光な月光の満欠も神秘なり。依て、天を神とて崇むも然なり。海をして水平の彼方より昇没する日輪。朝夕の赤き雲暁を鏡の如く映す水面。風立つては怒涛に鳴り岩をも砕くが如く荒るる海水を逆巻く龍巻。海上に陸の幻影を見ゆなど、海辺に異體の知れざる生者亦は死屍の見ゆ驚きぞ。

神なるものとて祀りきは、古代なる信仰なり。世の進むるに依りて神なる相を像となせるは、海の彼方より漂着せし流民の傳へにて、未知を覚りて交ふるは信仰の改信なり。その信仰、多くは利益を先とせる人の暮しに叶ふと叶はざるに依りて隆興せるも、住地を侵されその權者に依りて異神信仰を崇拝に強要さるるは今なる一統の信仰にして、民族祖来なる原に非ざるなり。幸いなる哉、東日流にては侵略の化外に在りて、古代なる原教今にして傳へ遺れるものに靈謀なるイタコ・占なるゴミソ・祈りなるオシラありきも、佛化・倭神化は白染に歸るなし。

荒覇吐族が自から信仰を併せしものは大寶辛丑年に役小角が自ら布教せし修験宗こそ古代併合の信仰と相成り、崇拝に最勝の智覚を得たり。修験宗と稱號せしは寛弘丁未年、唐僧款徹の賜號なれども、是を役小角が號けたる法隆山照覚堂とて永きに相渡りぬ。神佛混合なれば修験宗僧者、安倍・安東・和田一族も秋田よりこの山に祖先遺骸を移したる墓所を設して久しきなり。然るに嘉吉癸亥年、安東一族が南部氏の侵略・長期戦に故地を放棄なしけるより、石塔山和田一族に護持されきも、天正の乱にて津輕藩の崩壊に今ぞ見らるる限りなり。

依て大光院、眞言宗に改宗なりてより石塔山荒廢す。諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅為楽。神佛をしてかく心の侵略ぞ一族久遠の恨靈となりぬ。藩政ぞ實に以て、是を誅滅せんや。神佛をして呪ふ耳なり。

寬政五年 石塔山にて。
秋田孝季

修験宗大要

神佛なる信仰道は己が心の修道にして、その道に身心を以て験す。神佛への悟道は心を空にして身を無我の境に置くは、人界を離れ仙境の域に入りて叶ふは久しからずといふなり。天なる無辺境に續く大なる宇宙。萬物を育む地水の化に生々せる一切の精気。みなながら耐得る生生のものに與へらる不滅の魂なり。以て修験と號く是の荒行ぞ、次な己が魂の甦りを人身たれと、今生のうちに他生への輪廻生を制しこの身をして世に會ふ得難き人身を得るが為なり。

修験とは、心身相伴はざる信仰は後生の為に無益なりと説き、神佛を大伽藍に像を金銀玉寶に造りても尚利益に成就の兆あるべからずと戒め、信仰道は己が心に自ら發願成せる發起に心轉倒あらざれば無上道に到るなりと説く。その求道に通ずるの道は大伽藍造像の禮拝も無用にして、大藏經も無要にして總て無我の境地に心身を置きて天地水の原理に求道の眞理を求めたるとき、神に求め佛に求めたりとて、その悟れる處はひとつなり。己が覚行なきに、金銭を寺僧に施して無上戒名を戴くとも神佛の利益あるべからず。神佛をして冒讀せる法罰ある耳なり。亦、生あるに己が墓を己が築くる者、いかなる財にあれども奈落に堕なん。

もとより人の定むる金銭ぞ、生ありて便なるも、死して神佛に一文の用途なさざるを覚つべし。神佛への通ぜるは、生々あるとき身心を修験の道に歩まずして末代に畜生・野獣・鳥虫・魚貝・草木・苔藻の類の生を神佛に魂を移されるさばきぞ降さるる必如の非道に迷ふべからず、と修験宗は金剛藏王權現を垂地としその本地を金剛不壊摩訶如来とし、茲にイシカなる大宇宙を天神とし、ホノリを大地として、水をガコと稱したる荒覇吐神を併せて崇むこそ修験の本願たれと曰ふなり。くわしくは東日流中山石塔山にこもりて天地水の神佛に會ふべし。

寛政五年八月二日
和田長三郎吉次

修験之道

支那永平丁卯十年に白馬寺を建つる明帝の佛法發願に依りて、三藏法師が天竺に釋迦牟尼の聖地・佛陀加耶を訪れたとき、旣にして釋迦牟尼が成道せし金剛寶座砂に埋もりて、佛道の教理ぞ證跡もなけむと曰ふ。而るに佛法支那に渡りて盛を極め、長安なる都に弘福寺の建立なりて廣く弘法相渡りぬ。朝鮮にやがて渡り、百済の清淨たる信仰に、聖明王が欽明天皇の十三年に日本國に献上せしにや、日本國神を崇む物部氏、新しき佛法に崇拝せし蘇我氏の向原寺建立と相成りては、その崇拝をめぐりて相爭ふるも上宮太子の攝政に依りて物部氏誅に伏せしより法隆寺の建立相成り、飛鳥の都、支那・朝鮮に習ふこと今日に佛法を遺したり。而るに佛法民草に渡ることなく、貴族本願に赦さるの他その佛寺大伽藍に民の税・民の労を責制なし、國政は上なるものの權にあり。民なるものは貧告そのものなり。

ときに大和國葛城上郡茅原郷に役小角出世なし、かかる神佛をして崇拝に殺伐を抜けにしては民の税労奉仕の貧苦は神佛の道に非ずと、天竺・支那・朝鮮を渡りたる佛の道は尊けれど、小角是を吾が國の神と併せし神佛の感得を求め、倭の神山を巡りたり。然るに心叶ふる眞理の求道、何れの神山にも得られず。無神山・未踏の大峰山に入りて天竺・支那・朝鮮の佛典に習はず。𡸴岨なる山頂に居をなし、大地の精気に身心を無我の境に瞑想せしこと六十日。満願をして天はさけ、地割るる如き雷鳴の彼方に現れたるは、金剛藏王權現なり。遂にして小角、わが國なる風土・民心に併せたる神佛混合の相を感得せしも、金剛藏王權現御相は忿怒にしてその本地を求め更に諸山の𡶶に巡りて瞑想せるが感得に到らず。八宗の僧侶に役小角は邪法に修道せしとの訴上に依りて、朝庭は小角を捕へて伊豆に流罪せり。

大寶辛丑年。役小角赦されしも、求道の場を支那に求め肥前平戸松浦より渡航せしも、玄界灘にて遭難し若狹の小濱に漂着せしとき。夢に阿羅羅迦羅摩仙人顯れ、浂北辰東日流に赴くべし。然らば本地に會はんとて、夢覚めたり。役小角、老令盡せども陸海相互に渡りて東日流に到りて見渡すや東日流中山石塔山に眼は走り、荒覇吐五王津刈丸の道行にて石塔山に入𡶶せるや、八日の行願にて山頂に五色の光明あり。金剛藏王權現の本地尊・金剛不壊摩訶如来、紫雲に乘りて顯はれたり。小角、茲に於て本地を感得せしは荒覇吐神の神通力とて、倭の國神を抜き給ひて荒覇吐神を本地垂地の根本神とて教典に綴りたり。卽ち、修験の道とはかくして今に中山石塔山に遺りきものにて、是の感得尊は日本佛道に異なれる求衆導法なりと曰ふなり。

寛政五年八月二日
秋田孝季

耶馬台王耶馬止彦之箸墓

倭國三輪山郷に古き箸墓と稱す陵あり。是れぞ耶馬台國なる初代王耶馬止彦の墓にて、古代は是を箸塚と稱したり。その由来さだかなるは、耶馬台族常にして手掴みなる食方なるを、支那に習へて箸を用ゆことを民に布し、茲に官民倶々箸を用ゆことと相成り、耶馬止彦王崩じてこの墓を箸墓とぞ稱したるなりと曰ふ。

寛政七年十月七日
箸墓にて記す
秋田孝季

耶馬台國三輪山神爾

宵の焚灯を点し古代からなる磯城の舞を大神に奉納せる秘なる神山をして入𡶶を禁じ、一木なりとて伐するを許さず。山そのものを神となし、神殿を造らず。山への聖境三つ鳥居より入山を得ざるは、そこより神なる域なればなり。古代より欠くる事なく朝拝なし朝御饌を捧げ、山海幸を供ふ。開化天皇が勅を以て三輪を天社とせしも、耶馬台國たりし頃天地水の三神を祀りたる由来、今も尚三つ鳥居に遺りき。石神とて全山に石を神とす。


天=杉玉、地=杉山、水=杉海(亦は杉波)

祭日にては杉葉を神山より拝授し奉り杉玉・杉山・杉波を竹籠に差込みて造り三つ鳥居にかかぐ。更に珠を造り石神なる磐座に捧ぐるも古代なる神爾なり。是を山神祭祀と曰ふ。


鳥・石造、鷲・貝造、獸鳥・貝造、水鳥・木造

更には子孫を栄ゆしむ神への捧供物に神鳥卵とて、鳥型に欲しき子數を刻なし、神のもとに捧げなす産神祭祀あり。依てこの地に玉造りの工師ぞ多く住めりと曰ふ。耶馬台國が日向族に侵領せられしより、東日流に落着せし耶馬台族の荒覇吐ぞ、今に稱號ぞ改むるも、その原なす故事ぞ三輪山にぞありき。荒覇吐神の崇旨は、人ぞ死するを怖れ心轉倒なし外道に或ふが故に、三輪を示す。その由は、生老死の移りなり。總て生あるものに悠久なるはなく、是の三輪を一刻なりとて駐むなく日輪の如く明暗を往来す。死とは衣の古きを脱ぐ如く老にし肉體を脱ぐ故のものなればなり。

三輪とは、その一の輪を生とし、二の輪を老とし、死を三の輪とせり。是の輪なる輪轉ぞ、一刻の間も駐まらず輪廻なし世に生々を絶することなき不滅の輪なり。宇宙誕生より地界誕生に到るも神秘なる適當の運就にして、地界に生命誕生せしより生命體の成長進化ぞ、生老死の三輪を通じて萬物のなかより智識なる人間顯はれたるも、幾萬辺と生老死の三輪を通じて得られたるものなればなり。依て是の輪轉はその大古より今尚回轉し生々は絶えざるなり。依て肉體は一生にして滅ぶるも、肉體を着用せし魂は常に生老死の肉體を着替ふ不滅のものなれば、死を怖れ徒らに外道の諸行諸法に惑ふべからず、と曰ふは三輪山大神の神爾なり。

寬政七年八月七日
秋田孝季

北膽駒山大神神社由来

倭國北膽駒山白谷の郷に大神神社ありきも、北畠顯家に焼却されたり。建武の親政相成りしも、足利尊氏の反朝に崩れ、帝は笠置山に入りてより奥州の武家を募り、一度びは筑紫に遁たる尊氏は、元寇に戦功せしも無縁にある武家衆や建武の中興に軍功ありし筑紫の武家に於て何事の賜賞もなき武家衆を起した尊氏、嵐の如く襲ふて建武の中興を成就に妨げたり。ときに北畠顯家、奥州の兵を卆いて伊勢より難波山道を進軍なし、途中この白谷の郷に軍をやすむるとき、安日彦・長髄彦此の地にありて神武天皇に對戦なしける地にして是所に祀らる北膽駒山大神神社はかかる國賊にゆかる神社とて、灾けり。

然るにそのとき天上にわかに曇り大稻妻走り、北畠軍和泉にて全軍足利勢に誅滅されたるは膽駒山大神神社のたたりとぞ、世人は神社跡に安日彦・長髄彦を祀れり。大神神社とは地水神を祀り、富川神社とも稱され更には無格社とも相成ぬる世襲に遭遇しきは古事記なる史書に神武天皇の敵なれと遺りき故なり。而るに北膽駒山の白谷に住むる郷人ぞ安日彦・長髄彦を神とて祀るは、絶えたるはなし。

寛政七年八月七日
秋田孝季

熊野宮由来

邪馬台が倭國の國號たりし頃、荒覇吐神なる天地水神を祀りし處は、三輪山を天社となし膽駒山を地社とし、是の熊野宮を水社とせり。陸なる農耕・海なる魚漁に水神を鎭むるは古代なる信仰の創めにて、熊野信仰ぞその要にありて、栄ゆむ神域とて石垣・土垣をめぐらして古代耶馬台國王耶馬止彦は築きたり。この長蛇の如き石垣を號けて長磐座と稱し、天の川とぞ號したりとも曰ふ。

〽補陀洛や
  めぐみも深き
   御熊野の
  流れの末を
   淨む瀧津瀬

かく唄はれし熊野宮をして神佛混合信仰に併せしかば、荒覇吐神の天地水なる三神を祀りし東海に日の出づる國の中央なれば、神域を永世に護持せんが為に古代王國な耶馬台族は挙げて石垣・土垣を施工せりと、今ぞ東日流に傳はりき。

寛政七年八月七日
秋田孝季


倭の三輪山/倭の箸墓


倭の白谷郷/倭の膽駒山


倭の熊野宮大瀧/倭の大神神社


倭の金剛山/倭の熟速日神社


坂東の荒覇吐王宮跡・駿河安倍川在郷/倭の古代王宮跡・三輪里


東日流中山石塔山遺跡/東日流王宮跡・櫻庭里・即位石

右は史跡巡脚の砌り筆影せしものにて、安東一族にゆかるもの巡拝を請ふ者也。

寛政七年八月十日
秋田孝季

荒覇吐王國之盛亡抄

倭國、故國稱を邪馬台國と曰ふ。初なる王を邪馬止彦王と號し、荒覇吐神を信仰す。國能く治まり、従ふ小國百八十あり。信仰の一統なりて、天地水の三神を全能神とて崇拝せり。安日彦王・長髄彦副王卽位の四年。筑紫日向國に髙砂族の侵攻に敗れたる熊襲族王・猿田彦を誅伏なしたる髙砂族は佐怒を王となし、民族を併せ日向髙千穂𡶶に卽位の式をなせり。然る後、筑紫を一統なし更にして日下本州を一統せんとし、兵を進めたり。

依て是に邪馬台國を護るは三輪の安日彦王・膽駒山の長髄彦王にて、五年の戦にて故地を放棄なし、日髙見國に天地安住を求め、傷付し弟長髄彦を會津にて治し、更に奥州東日流に落着せり。先住なる阿曽辺族・津保化族らを農耕を以て併せ、茲に荒覇吐族とて新王國を誕生せしめ、安日彦一世と相成りぬ。

天明二年八月十八日
和州富川村白谷里
磯城甚右衛門

筑紫豊之國耶馬壱王

豊州宇佐に耶馬壱王ありて、熊襲族王古代より國治す。日向王猿田族王猿田彦、海渡民・髙砂族に侵略されしより、筑紫九國の王國みな一統さる。依て筑紫五王の耶馬壱王、宇佐の合戦にて佐怒に敗れ、耶馬壱國亡ぶ。王代六十二代と曰ふ。

享保二年七月十一日
耶馬湲邑 三光秀季

熊野神域石土垣図

熊野山中十五里之石垣


荒覇吐王分倉図/荒覇吐王髙倉図


荒覇吐コウリハララヤ図/荒覇吐アガタハララヤ図


荒覇吐オテナコタン図
立脈上、大目屋、立脈下、小目屋、風カッチョ柏

右図は荒覇吐王政の治事にて茲に傳ふる聞取図なり。亦その證とて遺れる璤瑠摩明神帳より㝍せり。

寶暦元年十月一日
尾崎道惠

荒覇吐卽位之神器


寶珠三種 天珠 地珠 水珠/結界剣/天之逆鉾/地薙之鎌/水澄之鉢/雌雄之精種/天地水神誅釼/水鏡 香煙 神酒


頭金 掌捧 石造 木造 位装 腰〆 弓箭 火付器 織器 日鏡 松汁灯 塩入

右図は荒覇吐王卽位の神事に用ふものにして、初代より受継ぎける荒覇吐王之御印なりと秘藏す。

寿永元年四月七日
安倍太郎尭季

荒覇吐神根本本願祭旨

あらはばきとは全能であり、無窮であり、不滅なり。萬物をして形相異なれど眼に見ゆ限りにて、その魂を見ること難し。人身をして智にありとも己が心さえ見ること難し。まして他人をや。神なる相ぞ亦是の如し。萬物、生とし生けるものみなながら歸らざる老の光陰を渡り、死への間生れくる己がために子孫を遺す。依て亦、世に體を遺したる己が種縁に生を甦す。

是を古語にして、あらはばきと曰ふ。而るに魂なる死界は無相なれば、生をその魂に依りて己が好む好まざるにかかはらず、人魂にありしものとてその魂を人身をして再度び世に甦えるとは限らざるなり。己が生々の砌り、心を邪に惡に善に、總ての生生に心得たる心意に依りて己が魂を草木・苔藻・鳥獣・虫魚・貝菌・人の何れかに肉體を甦誕す。その故に、人身をして生を甦すために荒覇吐神を心に通じしめて魂を練ふは末代の為なり。

是を一心に修むるの法は無我。常に四衆の業報を断って一心不乱なる行を求道し、己が心を正道に乘ぜしむために惑を抜き誘に迷はず、色香味に好まず栄誉におごらず、言語にて敵を造らず、萬物生々のもの殺生せず、己が生々の糧として己が育生のものにて保つべし。盗むべからず。常に覚ふるを本願とし、心淨かに瞑想し、心に不轉倒到るまで修心に心を練り、身に荒行を以て祈るべし。

建暦二年八月十九日
日下將軍 安倍國東

石塔山悠久なる心を導く

歴史に重なる侵略。更に断圧を民族に降し、未だ蝦夷たる化外の差に置かれける日下國は、白河以北は一山百文たる貧土の地位とし、國乱に民を狩りつれて戦の楯とせる皇幕の制は、いつしか奥州の恨靈に崩さるるときぞ到らん。わが東日流の民より北にあらむ渡島の民・流鬼國の民・クリル島の民・神威茶塚國の民を未だ貧境の域に追ふ西國の神佛ぞ何事の救済あらんや。

信仰に銭を先となし、死して尚上下の戒名を説きて民心を洗脳せしむ神佛もまた崩ぶるは近し。茲に餘言す。神佛をして衆を惑はしむの信仰を、今生のうちに捨てよ。總ては世の救世主自らの心身なり。神佛を語り施をむさぼる論師・佛僧・神職の言に惑ふべからず。己が身心を無我境地石塔山の靈跡に魂を練り身を清むべきを書遺し、後世なる衆を導かん。

文久元年九月十九日
和田長三郎權七

誠の道を求めよ

國を護るは吾が子孫のために身心を盡くすべし。外道の權に心折るべからず。忍びて衆に説き、降伏のために起て。神佛は衆生を貪からむに非らず。國を司るもの亦然なり。民ありて國あり。民なくして國王たるはなかりけり。民挙げて欲するものを政とし、民の心を反くなかれ。明治の治世ぞ帝をして誓文せし、廣く會議を起し萬機公論に決すべしとは、繪なる餅とすべからず。

自由民權は民の心を水平に政治を司ることよけれ。然るに今、露國との戦役。第八師団・七師団のみ満州に兵役とし、人命を國の為とや皇官のいけにえになれるさま、夷國の民を民とせざるの軍策に忿怒やるかたなし。誠の道は、いまだ遠し。然るに自放自棄に心を惑はすべからず。能く學に長じ、誠の國政到るときに起よ。

明治卅八年
本巻再書者、記す。
和田長三郎末吉

倭銭之創


和同開珎
石塔山奉納銭百枚 武藏國 秩父郡 銅山銭

東日流中山より倭にあるべき銭、地中より出づるあり。東日流に何故ありての和銅銭ぞ。未だ知る由もなし。なれど支那銭以て流通あるも荒覇吐族、倭銭貨を好まざる故に中山に捨てたるものとて、地民の曰ふは、倭人商は親近せんも、支那人より信に到らざる故なりと曰ふ。

寛政七年七月日
油川邑 銀藏

中山之秘跡

津輕半島を背骨の如く南北に連嶺せる中山を、梵珠千坊・十三千坊と曰ふ史跡の在處を謎とし、ときをり山崩跡・湲流土砂に混じて古き器片・古銭ら、山菜採りや炭焼杣夫らに見付けられ寺社に奉寄せらること暫々なり。村は大勢なしてその史跡を探せども古代なる秘は固く、たれ獨り探り當たるものなし。

應永三十三年より嘉吉三年に至る安東對南部の長期戦にて、津輕領放棄と決し十三湊・藤崎に永代に秘藏せし莫大なる遺寶を渡島・秋田に移しめきも、運れざるを中山仙境に秘藏せしや。世に知る人もなかりき。一族の掟また固く、その傳へは秘と謎にて、巨萬両に財なす遺寶は地底に眠れり。一族をしてこの財を費したるは田村郡三春藩の天明大火と飢餓に領民を救済なし、舞鶴城再建に費したる史實。亦、若狹國羽賀寺再建に費したる史實ある耳なり。亦、上磯海辺・宇曽利に秘藏せしも、その鍵なるしるべは本巻の他に非ざるなり。

依て子孫に、この秘を護り一族の危急の変に備へこの秘を探るべし。是れ末代の為なり。以て次に古傳之図を写し置ものにて、本圖は石塔山弥勒菩薩像・胎内秘巻に求て究むべし。

嘉吉二年七月之図説/安倍安東祖来遺物埋處控

極秘之事、安東太郎義季


正中山梵場/木無岳深澤


魔岳津保化澤/鍋越山楓澤


外濱鉢巻山/大藏岳耶馬台城跡


外濱飛鳥山/源八山曲師澤


大童子氷石澤/白神山楢木澤


小泊三龍龍/追羅瀨入身澤


大藏山大洞

右圖は安東一族が未だ津輕に置埋たる未掘の秘跡なり。

寬政五年六月
秋田孝季
和田壱岐

安倍安東秋田抄 一

耶馬台國の起これるは、わが日下の國百八十國に國造れる民を併せたる大耶馬止彦を以て一世とせるは、倭史なる神武天皇卽位よりはるか三千年の古代有史に昇りぬ。支那流通の路にては北辰路とて、東日流・渡島・流鬼の三國を經て黒龍江を満達國に到るは北辰路なり。次に不知火路とて、耶馬台國・出雲國・筑紫より朝鮮國に渡り満達國に到るを不知火路と稱せり。代經てより支那・朝鮮に海交せるは、吾が國より支那・朝鮮の民族舶来多し。依て彼の國より農耕渡来し、黒米なる稻種ホコネ・白米なる稻種イガトウなる田畑耕作、農を営むるに相成れり。次に草木の皮より糸をつむぎ、織器渡りて衣をまとうは岐をなし、蠶を飼い桑木山野に伐すを禁じたり。次には牛馬の渡来より、道橋を諸國に通ぜしめ、邪馬台國五幾道成れり。船を用ふる海交、支那・朝鮮に造法習ひたり。銅なる器の造る石を物交にて造りし。銅器にては鈴を鋳し今に遺れるは、時を告ぐる銅鈴かしこに堀りいださるなり。この銅鈴國中に流らざるは、後に日針影計の器法渡り刻を知るに到りて止造せり。


銅鈴 三輪山著墓郷御物


日針影計 輕重天秤計 薬計 下□計箱

穀物の量を計るは、人の慾心を淨むるものとて天秤にて計り、能く用いられたり。何れなるも支那よりの傳法なり。耶馬台國の併國にては、人の殺生あらざるなり。新らしき暮しの傳法耳にて國を併せ、民また従へたりと曰ふ。かく支那の業渡らざる前にして耶馬台國王成りけるは、信仰にありて鮮卑族の傳へし伏羲・西王母・女媧の三神信仰に加へて、耶馬台族が古代より崇めたる日輪・月輪・星輪の三輪神なり。


西王母、天池、女媧、伏羲

是を併せて大神とて、天地水を神なる相とて祀り、やがて耶馬台國滅亡せるときの王、安日彦王・長髄彦副王の代まで受継がれたり。是れ卽ち安倍一族の大祖なる故縁にして、太古にして支那より渡り来たる民族故に是の信仰や今にして倭に遺りき。絶ゆるなけれども祀り神なる神をオオモノヌシノカミとや出雲の神に寄稱せしも、元なる神は是の如し。亦、耶馬台國古来なる神は、その神なる相を國土そのもの・天なる宇宙そのもの・山海萬物みなながら三ツの輪に結界せりとせり。世に生老死も三界に過却し、未来またその過却を世襲して續く。荒き神の覇に吐き消され逝くとて、是を荒覇吐神と稱せしは、安日彦王自ら號けりと今に傳へらるなり。

安日彦王及び長髄彦王が日向族の佐怒王に侵領され、長期戦に敗れたるはすべて長髄彦妹なる婚王・日向族王系のニギハヤヒコに裏切られたる故にして、長髄彦が彼の矢に半死の傷を負たるとき、妹なる振辺媛は膽駒山の富雄川の水にて矢傷を洗いしより、死を脱して生返りたりと曰ふ。依てこの富雄川郷に眞癒まゆ身神を祀り、振辺媛の神鈴を一二三四五六七八九十ひふみよいむなやことと振りければ死人も甦えるほどに靈験ありきと、長く地民に祀られきに、世襲は是を除き、社の跡は長弓寺に、振辺媛はニギハヤヒ神に替神さるるも、今にいささかなる古史の習へぞ遺りける。耶馬台族が故地を棄て奥州に落つゆとき會津にて地湧の湯あり。地民是を湯澤とて疫を湯治せるとて、長髄彦暫しとどまりて湯治せしより身體強健なりて、東日流にぞ落にけり。

元禄十年十月日
藤井伊予

安倍安東秋田抄 二、

西に火を噴く巌鬼山。東に火噴く八頭山。幾度の地震にて安東浦なる入海、潮却りて東日流大里となりにける。一族大挙なして来たる耶馬台族。東日流大里に人住みなきを悦び、是を稻架里とて稻田を拓し、畑を拓したり。稻は稔り、農耕以て地民なる阿蘇辺族・津保化族その暮しを併せければ、茲に荒覇吐族とて結し一族の王を安日彦とし、その副王を長隋彦とぞ卽位なしける。頃同じくして支那國より晋の群公子王之一族漂着し、その主老より秀蘭・芳蘭の姉妹媛を王妃とせしに、茲に日下王國とて地族の聖地・東日流石塔山カムイノもりにて卽位の式を挙げたり。語部に傳ふるは、この卽位に參ずるもの千人と曰ふ。今に遺れる古石塔ぞその遺跡なりと、これぞ東日流語部録に遺りぬ。

ふることのよに、あらはばきのきみ、なかやまつぼけのホノリにくらいつみてきみとなれるや、あとにのこりけるいしのとうや、もろひとせんにん石はこびてそなえなせるものなり。あそべのおてな・つぼけのおてな・あらのおてな・にぎのおてな、とおくつかけくつどいきね、石つみ山を抜きかむいどころつくるこそよけれ。たかくら・わけのくら・あがたぬし・こうりのぬし・こたんのおてな、みないやさかまつらふ。

右は永初辛酉年八月、語板にて語部かせむと曰ふものの傳なり。石塔山に遺れる石神に祀らうるは天座・地座・水座・火座・光座・暗座・雲座・風座・東座・西座・南座・北座・中座らの神石あり。亦、石塔十二神を數ふなり。爾来、支那の船人ら十三港に寄りては、賽銭を奉ぜしと曰ふに支那古代銭、神石の辺に見つくもの次の如し。


鍬銭・表、刀銭


時不順ニ記ス 貝銭 造石銭 銅粒

是の如き數千貫の銭貨ぞ、古代日下將軍代々に渡りて崇むる石塔山跡々に見ゆ。石神信仰ぞ續きたるは、日本史古事紀より忠實に證せし處なり。


御位石坐、十二尺


石塔山に遺る安倍昔墳/立君石塔、十六尺

此の山に永眠せし安倍・安東・秋田一族の安かれと祈るは、吾れ亦一族に血を系ずる故耳ならざるなり。

寛永二年五月一日
藤井賴母

東日流海涛誌

今にして南部・津輕を異にせども、安東一族をして一領の史に古代史を結ばざれならざるなり。糠部に新羅氏入らざる前にして安東一族の鮫湊築工に於ては、天永庚寅年に安東成季が淨法寺修築の檜を十三湊より陸揚る故の策なり。亦、塩釜湊に塩の積船、澗淵川鮭の塩漬用に要たり。馬産に海路を以て東に積荷せるも要にして、築湊なれり。然るに諸國の商船、東風を怖れて寄船なければ振はざるなり。

亦、元仁甲申年の大津浪にして皆廢し、安東氏の開湊なかりけり。内海なる宇涛湊にては、興國の津浪より後にて安東政季が築湊せしものなり。應水三十三年。藤崎城落しより水軍を砂泻より募りて是を安泻組・後泻組と稱し、若狹西廻り、東は鎌倉に商益す。

安東鷲羽水軍旗

元禄十年八月二日
藤井伊予

東日流古代農耕

東日流に農耕の創めは古く、山林を伐して畑を拓き葦刈りて田を拓きけるは、内三郡に流るる温き用水の水利故なり。水田は南に底く日光永く當たれる處を上田とし、北に底くければ下とせり。亦、四周に山迫り澤水の冷水にかかれる田地も然なり。水温むる田地とて古代より拓田せし東日流六郡の域は稻架郡なり。安日彦王が農に精をいだしたるは二千年前にて、ホコネ亦はイガトウの種を東日流住民に分つれば、たちまちに奥州は農耕の民とて併せられたるは日下國なり。民多く従へたれば國強し。亦、國富ぬ。

王舎は南に移り農國の拓くる彼方は坂東に到り越を併せ、茲に故地耶馬台國を奪回なし、日下國一統の大君ぞ成れり。孝元天皇とは荒覇吐日下將軍にて、吾が國を無敵なる王國に築きしはその皇子なる開化天皇なり。葦原を拓き瑞穂の國とて古事記神話に遺りける神詔ぞ、開化天皇の宣ふ言葉なり。而るに稻作ぞ南ほどに栄ゆほどに、北辰の民王政に反くありければ、奥州中央領に宮城を置きけるより國亦分かれたるは日髙見國にて、天皇政下に化外の民となりけるを蝦夷と曰はるる創めなりける。

依て日下將軍は故地を倭國と稱し、亦日本國と號したり。日出づる國とて、伊勢の國に日神の社・稻の社を建立なし、神處とせるは今なる伊勢神宮の起こりなり。と曰ふも代々天皇をして神旨を改め、荒覇吐國北辰にありければその信仰も異にし、復た西南諸國の地崇の神を併せむに造られしは日本國神八百萬神と相成りぬ。依て神話農國とて天神の勅とて民心を洗脳なし倭の國は成れりしも、はたまた北辰の荒覇吐王ぞその上祖なりければ、國を坂東を境とて南北東西に横断なし、ふたつなる王國と相成りけると曰ふ。稻作ぞかくして國を作りたるに、倭神とてもとなるは荒覇吐なる神にて髙天原神國は非らざるなりと覚つべし。

寛水二年八月日
藤井賴母

奥州宮城之事

来朝の髙倉・宮澤髙倉・宮城大和の髙倉・多賀の髙倉。奥州日下國の中央なりせば、荒覇吐王この地に永く治世なし奥州を治めたり。宮城とはかくて號けらるる地稱なり。伊達政宗は是の史實を覚り、神佛を尊びたる故縁は彼の身心にみなぎらる血潮ぞ荒覇吐王なる縁りにあり。領内に古代なる荒覇吐神を法度せることなし。他藩にては上を怖れ神號を改へたれど、政宗のみは自からも崇め、東方に水神塩釜神社、役小角を瑞巌寺に祀り、松島の島々を祖なる神佛とて崇むこそ、他藩に比なき名君なり。

伊達家代々をして廣く外海の國交を望むれど、幕府の虎視に制へらるるにも、法度破りて西洋に望みたり。千台城とは耶馬台城とて初め號せしも、家臣・和田氏是を公聞に害しわざわいをもたらしてはなんの益ありやとて、千台城とて號けたり。伊達家は祖に和田義盛の系に縁る故に、家紋は三つ引なり。


伊達家、清原、安達/和田家、三浦/安倍家、安東、安藤、秋田

秋田家にては檜扇交タカ羽紋に改めたれど、もとなるは三ツ引なり。卽ち三ツ引は、天地水を顯す荒覇吐神の故縁なり。

慶安元年六月日
原田源三郎基信

渡島地史抄

倭に知られざる渡島大島國は、荒覇吐王國の幸なる園たり。渡島と曰ふは後稱にして、日髙國と曰ふは正號なり。先住の民に二系あり。北に住みけるを流鬼族。南に住みけるを日髙族と稱せり。大國なれば小民族かしこに先在し、是を一統せるオテナにカシマインありて、その次代なるピリカシマオテナ、安倍氏季と國を併せたり。是れ永長丙子年にして、彼の國しるべにてクリル諸島・カムイチヤツカ・流鬼國を知れり。氏季、是を藤崎なる安東髙垣に通達せしめ、倶に渡島をめぐりその國廣きに驚きたり。

地民は鶴を日の神なる神鳥とし、白鳥を水なる精鳥となし、大鷲を大地なる神の神鳥と崇む。神の生贄として、天に捧ぐ梟・地の神に捧ぐ熊・水の神に捧ぐ鮭をイオマンテに供ふ。神なる相をイナオ神木にて祀り、オテナは是を神司せり。神聖なガコ卽ち聖水を神事に用い、またイチヤルバの祖靈に對す崇拝にも用ふなり。是をアイヌ亦は蝦夷とせしは倭人のみにて、安倍一族は日髙の民とて睦み、また民間婚ずるをも赦したり。依て東日流に渡りくるメノコや若者、渡島に渡り彼のコタンに永住せるもの多し。依て日髙國なるその地位を明細に知るを得たり。

寛政五年九月日
秋田孝季

あらばき奥州名景十八図


海神之松島


龍神之陸州潮吹岩/水神之追羅瀬


靈界神之宇蘇利山/護國神之神岩群


川神之不動之瀧/嶽神之岩𨦟


大地神之地眼岩/天候神之氷凍瀧


木神之千年櫻/山神之地底宮


運勢神之貢馬郷/裁神之岩神湲


疫治之神湯岩神/財神之産金山


荒覇吐神之白神山/睦神之太平山


死神之大氷樹

津輕史談

嘉吉三年十二月一日。安東義季が自から唐川舘に灾けり。小泊なる柴崎城にかまえるとみせ折戸の𡸴に布陣なして、南部勢を貝を鳴らしめて誘い、その間をして墳舘に一時唐川舘より忍ぶ。義季將軍、山澤を小泊に難なく入りて津輕退去の令を柴崎城に報じ、一兵遺らず六艘の安東船に乘せたり。はるかに沖いでたる頃、仕掛たる火硝に火は点じられ柴崎城、天地をゆさぶる大爆と火柱が夜半の空を紅蓮に焼く。更に小泊湊民家も、住民一人だに残らず安東船に乘りて新天地な渡島及び飽田に脱却せしあとは南部勢の戦利にある品、一品とて残らず、ただ炎に焼落つぬ。西風は未だ雪を見ぬ北國にめずらしき冬期の枯原の草木に火移り延々と山火に相成り、津輕國土全焼せん風勢に五日間の山火、渡島よりも望みたりと曰ふ。

南部義政、津輕より安東一族を放遂せしのみにて、その略領せし外三郡の地は福島落城以来、住民の多く渡島・秋田の地に移り、松前には大舘・秋田には檜山城旣に築かれ、安東一族は戦の常なる城を枕と討死せん無益なる戦法は、南部氏の侵領以来、策とせざるところなり。依て南部義政が津輕を攻めてなんの益もなく、地を治むるも領民無住にして田畑は長期の耕作なくただ荒芒たる原野のみにて、幾多の殉者軍費をなして得たるも、残るは安東一族の恨念と安東氏に依りて施領受にし行丘城の北畠氏。飯積の朝日氏の髙き門閥と南部氏をよしとせざる南面の落武者、みな行丘の袖下にあり。義政茲に、占領の地を幕府得宗領を遺しのみにして、あとはことごとく行丘北畠氏・飯積髙楯城主朝日氏に棄領を告げたり。ときに文安甲子年の春と曰ふ。

難なく小泊柴崎城を脱出せし安東一族は、文安丙寅年、安東義季が父康季とともに安東兼季の建立せし秋田能代檜山城に迎へられ、兼季は茶臼舘に移る。ときに義季は父を檜山城に置き、外濱潮泻政季の尻八城に赴き、宇曽利の蠣崎藏人をも招き南部一族に報復せんと謀りたり。南部氏討伐の挙兵を、一挙に義季は狼倉に所領ある金澤家信の長子右京祐金澤幸信と倶に狼倉に籠り行丘の北畠氏・飯積の朝日氏らと連軍し、南部氏討伐の兵を挙げ、その期に乘じて潮泻政季は一挙に蠣崎藏人と倶に糠部を突く。その期日を亨徳癸酉年六月三十日と密約せり。依て各々その戦備なし、津輕狼倉に兵馬を集めたる義季は金澤右京祐が密かに南部方へ間謀し反忠にあるを知らざれば、挙兵の十一日前に金澤右京祐、種里郷に兵を募ると稱し一族を皆引連れて却ったあと、六月十九日不意に南部勢が狼倉髙舘を攻め来たり。

金澤氏の反忠と知る安東義季は潮泻政季に急使を飛脚し、同じく行丘・飯積にも急使を發したるも、旣にして多勢に無勢の戦差は決し、やむなく義季は山渓を越え秋田に落たり。義季は金澤氏の反忠を怒り、秋田に所領せる金澤城を攻め金澤家信を生害せしめたり。六月二十七日、南部氏は行丘北畠氏・髙楯城主朝日氏と和睦し、尻八城に潮泻政季を攻め二日に渡る激戦に政季は敗れ、不覚にも南部勢に捕れたり。ときに蠣崎藏人、浅虫切通しにて政季を糠部に捕送の途中を襲い、政季を救奪なして宇曽利に籠りたり。康正丙子年に到る蠣崎氏の兵備はオロシヤ船と通商なしホテレス卽ち大砲及び地雷火の煙硝を入手し、水軍の將を政季とし藏人は騎將となりて糠部攻めを八月七日の襲撃とぞ軍策せり。

その前夜、出陣の宴を川内柵に盃をめぐらせしとき、かがり火の火粉が煙硝箱に引火なし天地割れん大爆音とともに陣中の兵馬は半數餘を爆砕する大參事起こり、一刻にして糠部攻めは宙に爆烈せし打上げ花火の如く空しき空砲に了れり。南部勢は一族を總挙なし宇曽利を攻めくる前に、蠣崎藏人は安東政季と倶に松前に落ちたり。義季は秋田にて事の一切を知り、今更に己が不覚から起りし事の不運を神佛に悔いたり。亦義季に子無ければ、松前より政季を迎へて檜山城に一族の健固なる政事をなしけるも、常にして土崎に安東鹿季是を併せむとて政季の秋田入りを反論しければ、土崎方・檜山方とて一族の權謀術數ぞ風雲急を告げなん世襲ぞ重苦しき。

寛政五年三月一日
秋田孝季

津輕六郡誌考

東日流故地を放棄せし安東一族。日下將軍大納言安東盛季は老令乍ら前十三湊阿吽寺を松前に建立なし、長禄丁丑年入寂せり。時に寿令百七歳といふ長命にて渡島の地に一生を終へたるも、遺言ありて遺骸を火葬となし津輕石塔山に埋葬せり。亦藤崎城主安東教季も文明庚寅年、上國禅奄に入寂し八十六歳の生を終へたり。遺言に依り火葬、遺骸を石塔山に埋葬しける。教季の子義景は、藤崎城に歸りて舘を築き行丘北畠氏の下領をあづかりて住めりと曰ふ。

寬政五年八月
秋田孝季

安東一族之墓

安倍一族の墓をめぐりて先に以て知るべきは、何れも秘に存して深山幽湲の仙境に何者にも侵されざる處に存在せるは安東一族の代々に渡る秘とす。古来に習ふ子孫はなく秋田に移りてより佛道にて主葬し、亦宗を異にして檜山方・土崎方に相對する一族の爭ふさま、三春に於て亦然なる處なり。依て諸々に菩提寺、宗を異にして墓遺りけるも世襲の極みなり。

依安倍安東秋田姓異、各々墓唯古代悠久定處、東日流中山石塔山大光院境内在、日下將軍安倍一族主代々。

多く三百に渡りて埋墓を存す。延元元年に祖安倍賴義殿より安倍・安東の主筋なるはみなこの山に眠りき。依て祖なる荒覇吐の神・金剛二尊の靈山こそ安倍・安東に正系ある聖處とて、子孫代々崇なし法灯ぞ絶する勿れと要遺す。

寬政五年十月日
和田壱岐

詫言

老いたり。眼能く見えざる故に乱字・脱字、謹んで詫び仕つる。

長三郎末吉

文政二年記より明治四十年再筆
和田家 華押