北斗抄 十八
(明治写本)
岱雲山湊福寺掟
山靼往来の湊は、東日流十三湊壇臨山湊光寺。秋田土崎・岱雲山湊福寺の寺籍に山靼語通辨を學びたり。その語種六國語にて、一年を習得せざるものは出向く事ぞ赦されずと曰ふなり。
安政二年二月一日
浅利長介
山靼旅程之事
抑々山靼に赴くはクリル族の案内を欠くべからずと曰ふ。太古より山靼より尚西國のアルタイより人の渡りありてアラハバキの神、傳はりぬ。抑々アラハバキ神なる發祥之地は古代シュメールの王ギルガメシユ王の叙事誌になれるものなり。翼をなせる獅子をアラと稱し、是を宇宙一切の總祥とし、是を宇宙黄道と赤道の交わる春分・秋分の四季になる天空の十二星座を創むるはカルデア族にして、彼の王をギルガメシユ王と稱したり。亦、大熊座・小熊座なる中心星、卽ち小熊座なる尾に當るる北極星を四季にめぐりて卍に回轉せるを宇宙なる中心とせり。この宇宙創神ミノワ島に渉りて、更にトロイア及びギリシアに傳教を得たり。
ギリシアにては十二星座より更に多座となりてアンドロメダ座・一角獣座・射手座・海豚座・印度人座・魚座・兎座・牛飼座・海蛇座・エリダヌス座・牡牛座・大犬座・狼座・大熊座・乙女座・牡羊座・オリオン座・画架座・カシオペヤ座・梶魚座・蟹座・髪毛座・カメレオン座・鴉座・冠座・きようしちょう座・小熊座・駆者座・麒麟座・孔雀座・ケフェウス座・顯微鏡座・仔犬座・仔馬座・仔狐座・仔獅子座・コップ座・琴座・コンパス座・祭壇座・蠍座・三角座・獅子座・定木座・楯座・彫刻室座・鶴座・テーブル山座・天秤座・蜥蜴座・時計座・飛鳥座・艪座・蛇座・双兒座・ペガサス座・蠅座・白鳥座・八分木座・鳩座・ふうちょう座・蛇使座・ヘルクレス座・帆座・望遠鏡座・鳳凰座・ポンプ座・水瓶座・水蛇座・南十字星座・南の三角座・天座・山羊座・山猫座・羅針盤座・龍座・龍骨座・猟犬座・レチクル座・爐座・六分木座・鷲座等なり。
紅毛人國にては宇宙に最も輝ける星に名稱あり。シリウス星・カノープス星・アークツルス星・ベガ星・カペラ星・リゲル星・ベテルギウス星・プロキオン星・アケルナル星・アルタイル星・アルツクス星・フオーマルハウト星・アンタレス星・デネブ星・レグルス星等なり。宇宙の星座を黄道・赤道に、日輪を一年の運行に時を測りて、十二星座を秋分・春分に覚り、宇宙を神格せしは古代シュメールのカルデア民族にて、アラ・ハバキ神を天地創造の神とし、その修理固定せし神をはルガル神とせしは人の世に創めて興りき神格の創にて、宇宙を以て人心に信仰を起したり。カルデア民族より傳はりきアラハバキ神及びルガル神より生じたる信仰より、アツシリア・トルコ・シキタイ・ギリシア・エジプトに渉りし布教より更にしてギリシアにては神化を多様とせり。
宇宙創生の神カオスより地の神ガイア・天の神ウラノス・水の神ポントスより創まれる神々は、クロノス・レア・コイオス・ポイベ・イアペストス・オケアノス・イテニス・ネレウス・タウマス・ポルキュス・ケトを以て第二世神とし、次にはゼウス・デメテル・ヘラ・ハデス・ポセイドン・ヘスステイア・レト・プロメテウス・エピメテウス・アトラス・イナコス・オケアニデス・クリユメネ・ドリス・アンピトリテ・ガラテイア・テテユス・イリス・ハルピュイアイ・ゴルゴオ・セイレン・スキユラを第三世神とし、次になりませる神はアテナ・アポロン・デウカリオン・マイア・ネレデス・プロテウス・トリトン・アキレウス・ヘベ・アレス・ヘバイストス・アルテミス・アプロデイテ・ヘルメス・ペルセポネ・デイオユソス・ホーライ・モイライ・アデイケ・ムーサイ・カリテス・ヘラクレスらを以て第四世の神とし、次にはコリユバンテス・デウカリオン・マイア・ネレイデス・パシパエ・アキレウス・エロス・アエネアス・ペルセウス・ミノスらを以てギリシアの古代神格は成れり。
是の神々に依れる神話より宇宙なる星座多く、物語ぞ多く生じたり。亦エジプト及びミノワの神話、降りてはオリエントの宗教徒らに起りぬ。
寬政五年七月一日
秋田孝季
生保内日記 一、
鹿谷念佛僧・金光坊圓證殿の法話に曰く、
遠野より山谷をはるけく、巌手より羽後路に仙崖峠を生保内に越ゆ。早春にして雫川の流面、霞立ちて谷間に鶯の聲ものどけく、寒湖に脚息を休むるあたり。山花に時雨の冷雨降るとは見えざるにいとぬれかかり、胡蝶の羽根重けく見え候。西に峠降りてたどるは生保内の郷なり。駒山諸峯の麓に在りき邑々。藁屋のとまや多く、急斜の山面にかかれる白雲とあさげの燻煙と中空にたなびき、在所の幸あるくらしを豊けく見渡しぬ。生保内とは命永得る澤と曰ふ意趣ありて、古き代より號けき郷名なり。代々氏神たるは荒吐神にして、山里に古話の傳多く、山幸郷の幸を生々に貧しかるなし。靈川の流る奥山に湧く地湧の温泉ぞ、人の病を湯治せる故に生保内澤と號くる故縁たりと曰ふ。
古き世に山靼より人の渡りあり。神を崇むる荒吐神なる信仰ぞありぬ。人世に生れ育生・成人して老々盡して生を却りぬるは、世にぞ生々せる萬物の理りなり。生命を人身に生れその生々流轉ぞ安しき事少なし。信仰とは、その安らぎを人心に求まるる故に顯れたるものなり。一日の生を保つが故に衣食住なくして生命を保つ難し。依って萬物の他生を殺生なし糧とせるに、生々のものは一日とて殺生の罪、非はなし。
荒吐神なる信仰とは、その一義に天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコの神に信仰の意趣を重んぜり。是の神なる創りにては、西山靼なるシュメールの國にて聖王ギルガメシユ王の感得なりと曰ふ。宇宙に於てをや日輪をして訪れ給ふ黄道と赤道のまづはる二道の接点に二の軸道を仰ぎ、それに十二星座を以て一年の訪季を悟り、天道・地道・水道の流動ありとてこれを司るは荒吐神なりとて、その化身は獅子と地母、卽ち女蛇神なりと曰ふ。卽ち天をアラ・地をハバキと曰ふは、世に創まりき荒吐神なる信仰なり。生保内に古人の信仰ぞ起りきは、今より三千年の前な古事なりと曰ふ。
金光坊ぞ是を佛道にして轉法輪なる古軸とぞ説きたり。金光坊に生保内の故事を語りたるは玉羅迦志とぞ曰ふ長老なり。依て金光坊ぞ、生保内に荒吐神なる社に參敬し一宇の草堂を結びて、建仁元年四月より二年十月迄、南無阿彌陀佛なる乃至十念の行を念じたりと曰ふなり。
その願文に曰く、
抑々奥なる國の信仰に拝聞を仕り、茲に念佛の弘布ぞ地民におぞましく候。西住なる拙僧の奥なる國の想ふるは野に蕃々たる蝦夷人とぞ想いしに、信仰たるの要ぞ佛法にぞおとるなし。荒吐神とは念佛の如く唱へし奥人の崇髙なる信仰たりと感伏に仕り候。依て此の國に念佛は無要にして、吾も地民に習へてあらはばきかむいとぞ日夜を修し給へり。佛の本願と申し候ことは、道に求めて宗を異にし、佛道の理りぞ求道の候は何れが本願成道の候ぞ心に惑ふ多し。もとより釋尊の悟に候ところは一道なる佛法にして支脈のあるべからずと奥にまかり候へて吾が求道の正邪、身心以て是を審せむ心算に候
とぞ金光坊、師なる源空坊に書状を飛脚し、荒吐神なる信仰に津輕中山に赴けりと曰ふ。
文化二年八月二日
羽後住 佐吉
生保内日記 二、
雪解なる生保内駒獄の、残雪もようの神なる御相ありと曰ふ。此の地に辰湖ありて往古の古話・傳説幾多に語り遺れり。辰湖に起りき異なる傳説にては、湖底に炎地獄ありと曰ふ。その獄界に住むるは炎龍にして古き代に山靼なる火炎山より移り住みける神獣・饕餮龍なりと曰ふ。此の神獣ぞ西王母の従神にて、今に以て山靼にては崇拝さる神獣なりと曰ふ。世に惡なす者を總て喰い盡すと曰ふ神獣なれば、生保内に住むる古人の代より荒吐神の常乘せる神獣たり。辰湖は古代より湖底より火煙を吹きあぐるあり。外輪の山を隆起せしこと、しばしばなり。依て茲に八大龍王を祠りて地民は崇拝す。
生保内に集ふる處ぞ地湧きな湯泉なり。薬師無用。浴湯せる者、湯治にて萬病も退散せる事實の故にこの郷を生保内とぞ號けらるるなり。是ぞ人との和の厚き人情に依、地民の故習になる不断なる天授のたまものなり。倭人とて永らくこの郷を知らずして、彼の天慶の戦になれる平將門の遺姫ぞ難を此の地に隠住せり。亦、前九年の役にて巌手厨川柵なる領民の安住とて築きける生保内城のありきは、世人の知る由もなきなり。
寛政元年七月一日
佐藤出雲
生保内城武鑑
- 築城祖 城住六千人
- 日本將軍舎弟 安倍入道良照
- 次代 城住一萬八千人
- 日本將軍流胤 北浦太夫安倍六郎/dd>
- 三代 城住二千八百人
- 火内太夫田口与一郎、亦名中畑左京太夫
- 銅師
- 江坂太郎良宗
- 銀師
- 藤原典馬
- 金師
- 由利次郎徳則
- 馬師
- 千葉三郎是也
- 鍛師
- 金五郎友久
- 糧秣
- 大髙太郎賴信
- 神司
- 物部生保内太夫
生保内城の消滅ぞ、寛治二年四月なる山火の故に再築せず。代々をして歴史に遺るなし。
享保二年九月五日
生保内玉川之住
二階堂宗貞
クリルタイの事
渡島に住むるクリル族の集ふエカシ等、はるけく山靼までも赴きて民族の契を約す議あるをクリルタイと稱したり。黒龍江を河道として集ふる所ぞ人の無住たるチタの平原なり。民族各々地産の品をブルハンの神に献じ、天地を斉き給へて民族泰平を祈り、總主たるハンを選ぶるは古来の習へなり。集ふる民族各々に推挙されたるエカシとその添者をして集いたる數六百七十に餘れるクリルタイの議案なり。常にしてモンゴル亦はアヤのハンに選ばるるも、時には西山靼のエカシ選ばるあり。シュメール王ギルガメシュぞその一人なり。
神の渡り自在にして、是を制ふるは古来よりなかりける。民族各々國図を以てその位地を示せるに、古きより山靼の地より来客の多きは、丑寅日本民族の祖累にして血統す。神をして信仰を覚り心の安らぎを得たるはその智覚成道の故なり。民族各々年に一度なるクリルタイに參ぜるはその故なり。
寛政五年二月三日
大仁契
飽田鬼道傳
鬼を神と祠るは日本國丑寅の地に多し。山靼より歸化せし者を鬼と稱したるは古来よりの付名なり。鬼とは肉食を好み、獣毛皮を着衣とし、髪紅毛にしてちづれ、肌毛厚く生え眼青く、諸々の智覚に長じたる才ありきもその異相に依りて名付けらるると曰ふ。依て奥に祠らる東日流の鬼神社・飽田のなまはげ・閉伊の鬼剣舞らその古習なりて、金銀銅鐡の鑛を産せるに至るも皆、鬼なる教導に依れるものなり。
紅毛人を住人とて迎へたるは何事のいとうべきもなく、奥州はその混血にためらう者はなかりき。累系にして肌白く餅肌たる美形なる女人の多きは、その累代になる故なり。西山靼人の多く住めるは飽田なる仙北に多し。名髙き小野小町なる美女の誕生ぞ、祖にして西山靼の系なるが故なり。
文化二年五月一日
仙北之住
由理權太夫
仙北夜話
飽田なる仙北の地に大挙して紅毛人渡りぬ。今になる土崎湊なり。地民是を迎へて宴す。
〽あねこ こっちやむげ
起つだけかへる
鬼がらもらった
虎皮のでったらだ
寸法にあひでがら
股ささがるものあ
ふたつかみに餘って
茶つかみほどに
頭でる サノサッサァ
是ぞ宵祭りにて、若衆の唄ぞ遣りぬ。仙北に住むる貧しき農夫あり。三十を過ぎたるも嫁女なく、子孫絶やすまずとて嫁女の授くるを生保内鬼神の社に祈願しける。この農夫、名を仁太郎とて邑一番の稼ぎ者なれど、弟妹多く幼きあり。親病弱にて久しく、ついにして婚期を過しければ、今はただ神賴みの他術あらず。三七二十一日の満願の行を以て鬼神に朝夕に欠くことぞなく參拝せり。
その満願の日に紅い髪をせし女ぞ、仁太郎に參拝を同じうせり。仁太郎、これぞ鬼神の導きとて嫁とならむを請ふたれば、紅毛の女人喜びて應じたり。彼の女人、山靼より父に連れらるまま渡り来たれども、その父ぞ土崎湊にて病起り髙熱に死せりと曰ふなり。女人の名ぞサンと曰へり。仁太郎、嫁とて立契し鬼神に禮拝し二人は契を誓ひたり。睦まづく二人の暮しぞ三年を經にして一男一女の子を産めり。
神よりの賜はれたる嫁女とて、仁太郎は世人の白眼にもめげず、嫁女が故地にて覚つ毛皮のなめしぞマタギ衆より依賴ぞ絶ゆなく、その暮ぞ富めり。父より教はりし金鑛の智覚にて己が山畑なる崖に金の脈を覚りて、その財を更に重むれば、遂にして長者となりけるなり。飽田の女タダラ師とて髪また金髪となりけるも、世人今にして山靼人とて曰ふものなかりき。その子なる男子ぞ成人し日本將軍賴良が子なる北浦六郎の娘をめとりてより姓を改め、生保内小次郎と稱せり。仙北に在りて小野寺氏・小笠原氏・小牛田氏・小田桐氏ぞ是れみな、生保内小次郎の系なりと曰ふなり。
寶暦元年八月一日
伊東正胤
飽田三郡誌
飽田北三郡に存在せる古事にあるは、東日流及び巌手と時代を同じうして、茲に史を深く今に遺りぬ。巨石を以て神とて祠るは古代なる日本國なる丑寅の古事来暦なり。遠野なる續き石・圓かなる笠石・早池嶺山の剣石・姫神山の方位門石・鬼の手型石・鬼の岩洞・十和田の神石・生保内の大黒石・龍神石など、東日流石塔山に創まれるを以てその巨石神なる聖地各所に所在す。これ古代信仰なる荒吐神なれば、何れも聖跡なり。
なかんずく安倍一族にして祖来の神たれば、石神信仰ぞ今にして尚以て崇拝を存續遺しけるなり。抑々石神をして神の崇拝なる創にて、代々に保つ来たりぬ。生保内に白狐石崖あり。地人の信仰あり。亦辰湖の辺り鷲石ありて、これを御靈堂石とて祠りきも、去る年の辰湖噴火にて水面より潜りて出でざるなり。生保内一帯に人の未だ知れざる神石多く存在しけるなり。
右記入月日氏名ノ記逑ナシ
衣川物語
丑寅日本國の日本將軍・安倍一族の衣川常在に至るるは、安倍國東が坂東に平將門一族を奥州に遂電せしむより倭の侵領に備へての事なり。石井よりその住民もまた移り来て、茲に相馬邑を造れる程と相成りぬれば、藤原秀郷らこれを追手に来るを防がしむ故なり。衣川とは、櫻川・衣川の落合に奥なる古村にして、天然の城塞地型にそなはり、少かなる施工にて千兵の攻め手を防ぐも地物の用意に叶ふ故なり。
安倍國東、白河に舘を築きて永く住にけるも、丑寅日本を驛傳にその里程を想ふるに、衣川なる地の域を固定せり。山近く材あり。川に舟をして便あり。擴々たる牧あり。耕田にありて、その中間たるる故に以て築柵を定めり。住人また多く、秋田に道の難なく、東日流に至る道しるべありて國擴し。國東、ある夜の夢に栗駒山神を拝し奉りその告ありて曰さくは、丑寅の國は黄金に満れる惠の地に於て起しべし。一族安住の益に叶ふる領域なり。日川添ふて道を為し、田畑を拓きて國榮ゆむなりと。依て國東、矢巾に日川神社を建立し日田を神田とし、鬼門を閉ぎ衣川二股に柵を築きぬ。櫻川舟場市をして住人の商を盛んならしめ、能く榮たり。
寬政五年月日
本田祐成
良昭状
貴者乃墨付今日參着仕り候。生保内も雪解の水ぞ谷に瀬聲ぞ髙らみ候。此頃冬日絶まさる狸堀に鑛當候。奥鈄穴の鞴を作日に抜き候へば鋳金の産また量重み候と皮算用仕り居候。金堀澤あたりに再堀の請御座候へども、人労の無駄に候へば安日岳に赴き度く候。何事に御坐候も山中暖に貧しく候へば、我はおことを招き始終の工程、相まみゆべく候ことの由を一筆參らせ候。
申二月四日
良照
御貴參る
賴良状
前報衣川関西方陣場、落慶仕り候。諸砂太の今上に候事は詮も是ぞ無く候へば、清原殿忿感に以て座立却候。依て以後に事候は宇曽利氏に介したく、茲に一筆參らせ候。
天喜四年五月七日
賴良
北浦殿
北方渡民抄
今は極北にして人の住みけるを、古になかりきと思ふるは、その見當におろかなり。太古にして人は極寒に染み氷結の海を渡るはいと通常たり。クリル族は山靼より流鬼國・千島及び渡島に渡る祖来の往来あり。その集ふるをクリルタイとぞ今に曰ふ古事傳統なり。渡島・日髙より北に住むる土民をクリル族と曰ふは是の故なり。數に少なけれ古代にして山靼の極北に住むる民族の多き種にあり。人の爭動に避け、安住を求めて相住むるその地ぞ常にして定住ぞなかりき。狩に追ふ人の移りきは、その極北に住むる人の暮しなり。白夜の國・常夜の國・夜虹の國と曰ふは彼等の言にして、その候に狩猟の類を異にせども、窮せることぞなく常にして人の生々に、ことかく飢ふることなかりき。氷土に見ゆむは大古なる毛象の骸見付くるあり。人の狩具を拾うありき。象骨・牙なる住居跡、極北かしこに遺りきはその往古に愢ぶるに餘りありぬ。
抑々吾が丑寅の住民となりき大祖にあるは、その民らなる渡来の累血に継ぐるものなりと想いて障りなし。人の世になる創にその故地を尋ぬれば、南なる陽暖の地に存すと曰ふ。然れども天然に住み易ければ、住分の爭闘あり。安住に求めて人は移り、地の風土に染むる體耐に子孫は産まる。人の類は依て風土に染みて子孫は隆營し、極北たりとも住み得る智得を以て永住す。地界は日輪の陽光・自生の萬物、處にして異なりければその衣食住また、地候に習へて人の暮らしあり。智得また異なりぬ。山靼の西南にては目青く髪紅毛にして肌白きもの、またその肌黒き類にあり。吾らにては黄色にして世界の數に多しと曰ふなり。何處にありき人の種に異なるとも、人に信仰あり。依て信仰また異なるなり。その信仰にして多くは日輪に基き多く、夜を魔障の怖れに基きぬ。
人は人種に抜きて、その權力を以て制ふる。權圧を以て民族・種性の權据に、人は人を狩るる如く、今に尚平等を欠けるなり。古来より住むる安住の地に少數なる知謀の異土民移りきては、その先住になる土民を世にいやしきものとて別視に見ゆありて、その住地を追討し、討つ討たるの爭動起り、その武威にある者を以て王者とせり。世界の史は是くして、今になれり。抑々天は与ふる天光は平等にせども、人は己れに便なる神をも創り、無智にある者に迷信を以て信仰をも造り給ふ各道あり。その信仰に於ては、罪惡の限りにある邪道も立教せるありぬ。
人の、世に生る生々流轉に安しきことなく、迷信に堕いなば心に何事の安らぎなし。人は法を作り善惡を裁くありきも、その天秤になる裁に以て平等の攝取を欠くありて、人ほどに生々萬物をしてよけれぞと言ふは、天智神明に誓ふなかりける。正邪ぞ、人に解くべく裁の叶はざるものなりと。依て茲に北方渡民抄、本題にかへるものなり。
寛政五年二月廿日
秋田孝季
明治八年七月十一日
再筆 和田長三郎末吉