北斗抄 十七
(明治写本)
注言
此の書は他見無用・門外不出と心得べし。丑寅日本國の實史なれば、これを失ふべからず。
孝季
諸翁聞取帳 一、
吾が東日流の國は三方に海濤を湛え、波水平の彼方に山靼。近くは波島影・渡島を臨みぬ。此の島なる彼方に流鬼島ありて、更には千島・神威茶塚國ありて人の住むなき北國の限り無く、北の東西に大國土を為す。此の地に住むる者は群れる海獣。陸にては牛・鹿の大群自然に馳せり。住民是を獲て生々す。極北の地は常夜白夜の國なりせば、民の暮らしまた異なりぬ。吾が丑寅日本國は、是の如き北斗の位置に在りて、歴史の古き國なり。倭史に傳ふが如き神代なぞ歴史の筆頭とせず。民族一義に以て記を為せり。
茲に山靼に續く西奥の紅毛人に至るまで、その歴史を以て、人の遺傳に相應してその流説に成實をたどりなば、見えざるは見ゆかしむ。事實の遭遇に相まみえん。とかく奥州の史は永く倭史のもとに從卆さるまゝに權圧さるゝ通稱なり。然るに丑寅日本國の名を以て成るは、倭史を抜きて唐書に記證あり。その國とは日本國にして、倭國と異にせる艮の國なりと明記に遺りぬ。然るに倭史にては一行の記行なく、唯蝦夷國とてその實史に隠滅を謀り、化外地とて征夷のみなる記行に盡せり。依て奥州は倭の賊國たるに史傳は遺りぬ。奥州討伐史ぞ、古くは上毛野田道・阿部比羅夫・坂上田村麻呂・源賴義・源賴朝とて史談に遺りきも、唯征者讃美にぞ相遺りぬ。奥州に永き戦、三十年戦・十二年戦の長期戦あり。倭の軍大いに討死せしありぬ。
奥州陸羽の國は東西に地位を太区して、
- 東日流(泉氏)
- 宇曽利(土肥氏)
- 火内(川山氏)
- 荷薩體(津村氏)
- 都母(黒石氏)
- 糠部(伊川氏)
- 閉伊(光村氏)
- 岩手(大田氏)
- 紫波(藤原氏)
- 北浦(藤井氏)
- 鹿角(津島氏)
- 河辺(金田氏)
- 仙北(大庭氏)
- 和賀(土屋氏)
- 稗抜(尾野氏)
- 平鹿(浅利氏)
- 由利(和田氏)
- 江刺(安倍氏)
- 気仙(白銀氏)
- 本吉(清水氏)
- 磐井(津賀氏)
- 膽澤(幸田氏)
- 雄勝(神谷氏)
- 飽海(村田氏)
- 最上 (中路氏)
- 玉造(鴨居氏)
- 栗原(千倉氏)
- 登米(阿曽氏)
- 桃生(江田氏)
- 牡鹿(鬼頭氏)
- 遠田(越村氏)
- 志田 (松田氏)
- 賀美(田原氏)
- 村山(木村氏)
- 田川(相馬氏)
- 石船(中村氏)
- 置賜(中川氏)
- 黒川(太田氏)
- 宮城(江原氏)
- 名取(成井氏)
- 柴田(白鳥氏)
- 亘理(藁釜氏)
- 伊具(賀川氏)
- 刈田(伊東氏)
- 宇田(眞村氏)
- 行方(片岡氏)
- 楢葉(爪詰氏)
- 田村(今氏)
- 安達 (神氏)
- 安積 (本宮氏)
- 耶麻(髙田氏)
- 河沼(橋本氏)
- 大沼(天内氏)
- 蒲原(野宮氏)
- 會津(飯田氏)
- 岩瀬(西田氏)
- 白河(近東氏)
- 石川(尾崎氏)
- 白川(笹川氏)
- 磐城(佐治氏)
- 磐前 (木下氏)
- 菊田(久米氏)
- 多賀(俵氏)
- 久慈(伊治氏)
- 那須(金氏)
- 瀘谷(田川氏)
- 河内(細川氏)
- 魚沼(寺内氏)
- 利根(天藤氏)
- 都賀(松江氏)
- 芳賀(豊田氏)
- 吾妻(宇部氏)
- 群馬(賀茂氏)
- 勢田(小野寺氏)
- 山田(米内山氏)
- 安蘇(久保氏)
- 梁田 (金田一氏)
- 足利(津田氏)
- 新田(倉本氏)
- 佐波(小川氏)
- 多湖(奥田氏)
- 碓氷(原氏)
- 甘薬(神氏)
- 那波(熊谷氏)
- 邑樂(本田氏)
- 結城(蒔田氏)
- 眞壁(和井内氏)
- 新沼 (小山内氏)
- 埼玉(白川氏)
- 豊田(吉田氏)
- 筑波(稻川氏)
- 行方(多々羅代)
- 鹿島(元江氏)
- 援島(平氏)
に至る地領にて、安倍日本將軍の采配は成れり。是れ安倍軍艦に依れる處なり。氏主亦然なり。
寛政五年七月一日
木田兵衛
二、
日之本將軍安倍氏、以累代為継主、其居城二十五年毎移新城、添日髙見河畔、厨川栅最北登米追波浦、更白河利根武藏至坂東、在居城跡遺今、大祖安日彦王其稻城跡、在安日山川鍋越川落合崎、稱是安日柵地人也、云々。
古来、安倍一族は城地を永代に保つことなかりき。二十五年を一期にして居城を移すは祖例なり。礎石また石垣を用ふることなく、天然の要害に縄張りし河辺を好みて築城す。國治の費は山担交易・産金産馬の益にて、民産の税ぞ皆無たり。依て民に困窮・貧差、是無く安泰す。城を移する世襲に依りける選地にして、武藏に在りきこと永しと曰ふ。兵を挙ぐる國防の大事は民皆兵にして強し。兵術は騎馬を以て總てモンゴル戦法なり。囮軍を用いて勧誘し、能く敵の輪卆を襲ふて兵糧を掠むるも策なり。戦に民を護りて安住地に移すも第一義の策にして、これを速やかに行ふは常たり。
安倍一族の軍策は和を先とせるも、破られてはその應戦に備あり。太田の関柵・櫻川関・衣の関・夕山関。是を破るは幾千騎の兵馬も屍を山なせる建固たり。源氏、若も清原氏が安倍氏への反忠なくば、衣の舘は難攻不落たり。衣川になる陣営にては前澤・北股関・袋鴻巣・深澤・豊淵・川西・四股川・髙陣場・鷹巣・川崖・川濠らに砦ありぬ。舘は関舘・川原舘・本舘あり。總兵備一萬二千六百騎を備ふは常にして、杣農を不断とせり。城處、口外法度にして密とし馬産の殖を牧に、産金を諸郡に探鑛せり。祖より渡島住民と交りて、更には山靼に赴くこと暫々たり。
亦山靼人の歸化を認住せしめ、世界の岐を入れたり。民に税を科す事無ける有益の策なり。海産・陸羽及び北海の幸あり。諸湊に舟師を振興せり。依て諸郡、都々浦々に道橋を通して往来を能くせり。今にジョジョ道とは魚運の道、ベコ道とは牧への道なり。渡島との往来を二手とし、宇曽利佐井より志海苔、東日流十三より松前に通航し是を玄武船と曰ふ。玄武渡りとは是れなり。依て安倍氏は東日流及び宇曽利を重んじて、その群衆に屈強を配したり。渡島とは玄武島とも稱し、地住の民はオショロと曰ふ。
寛政六年八月一日
田口貞作
三、
トルコ・ギリシアの地に古代なる神にアルテミスと曰ふ神あり。この神ぞ女神にして人を育生せる神とて仰ぎたるるも、キリストが教えなるエホバの神に信徒を失ふなり。信仰に理なかりける故なり。アルテミス神とはギリシアなる女神アテナの如く、信仰に頂たりしも、説ける論師に依りてその信仰を欠くありぬ。ギリシア神ミノワ神とてこの外神に占されたり。信仰は時の襲に隆起し、旧来なるは崩壊す。信仰を持續せるは導師のなくして得ること難し。
古代オリエントの信仰に基せるはシュメイル信仰に創りて流布され、それより地に依る風土條件が相加はりて神々の多神を生ぜり。彼のロオマ國とて古代なる信仰ぞ、アルテミスなり。キリスト教の傳導に依りてなる改宗に依りてアルテミスの神は葬むられたり。キリストの教理ぞ吾が丑寅日本國糠部の戸来に渡りきあり。その信仰ぞ今になれるも、荒覇吐神を越ゆるに至らざりけり。
寬政六年八月十五日
苫別萬作
四、
享保の改政より寛政の改政とて、世襲の変革を以て民を圧す。海の外なる國と通商を断じ、渡島の地に来たるオロシヤ船、松前藩が獨り是を拒みぬ。諸國に藩校を開き國防の兵學をなせども、世界に盲目なれば山靼に明るき秋田孝季を召してオロシヤを探らむとて、三春藩に申入れぬ。時に秋田孝季と曰ふ者、秋田に浪人したれば、召し寄せて江戸城に赴むかしめ老中田沼意次に會したれども、その役目總て密にあり口外法度たり。天明元年、幕費を以て山靼に赴きたるは、孝季二度目なる異國行たり。同行二十一人にして渡島・サハリイ・モンゴルへと渡るるも、オロシヤ人一人だに見受くなかりき。佐野六左衛以下その旨を報ぜべく、歸國せしむ。
その状に曰く、
一筆啓上仕る。申付通りサハリイより黒龍江に添ふる山靼にオロシア人住み候處是れなく候。地民に曰さくを聞候へば、十六人連なるオロシヤ人、作年河岸を測り候由。吾が國に候も速急にぞ千島・渡島・サハリイに住人を募り候へて國標を建つるべくを申請仕り候。
壬寅年七月一日
田沼殿机下
秋田孝季
是の書状屆くるも、此の年飢饉にて何事もならず。更にして浅間の大爆噴・奥州の飢饉と相重なりて、北領に人の募るべくもなく、田沼氏坐折せり。伊達藩これに當らんと申請せども、強く却下を蒙りぬ。
文政二年七月二日
小野寺与介
六 、
〽奥なれば
鳥も通はぬ
蝦夷の地と
倭人の曰く
鬼の良
前九年の役以来、奥州を掌据せし倭人の駐留・往来自在たり。安倍氏に変れる藤原氏。その血累を安倍氏に継ぎ乍らも、源家の策略にて成れる平泉鎭守府に雅たる黄金の浪費。安倍一族が遺せし鑛山を堀り盡せしも、尚以て東日流にありき安倍貞任の遺兒髙星丸に日本將軍の遺寶六千萬貫蓄積の處在を求めたり。然るに髙星丸、姓を安東と稱し東日流六郡の主たれば如何なる召誘にも應ぜることなかりき。十三湊をして倭人の侵駐を赦さず。その柵を平川郡藤崎に置き、要湊十三湊の要害福島城を築きぬ。もとより安倍則任が築城せし白鳥城、璤瑠澗に在りて今なる寒村十三村全域に渉りて北都たりぬ。
白鳥太夫安倍則任・子息氏季に遺兒ぞなく、平泉より藤原權守秀榮を養子とて迎へけるよりこの秀榮、安東姓を拒す。自稱にして藤原十三左衛門秀榮と名乘り、氏季以来の遺産を平泉に劣らずと、神社・佛閣の建造にその費を誇らしめたるも、秀寿・秀元・秀直に至りて遂には藤崎宗家に内訌す。宇曽利・糠部・外濱より勢を集め藤崎城を圍めり。時同じゆうして平泉にては二十萬騎の源勢に平泉は灰土と化したるなり。何事の因果ぞや。東日流にてもその縁りにあるべく秀直の軍に圍まるも、荻野臺の合戦にて戦運は藤崎勢に利あり、秀直降りぬ。藤崎城主安東貞季、秀直を渡島に流し、十三湊を全權に掌据せり。
右書写。
寛政五年二月廿日
白江秀雄
藩密書。平等教院萬藏寺、院歴帳第六巻より。
七、
〽岩木川
水戸口洪河
水鳥の
葦州のねぐら
戦夢跡
世に傳ふ洪河の乱ぞ東日流に起りてぞ茲に鎌倉幕府の威勢の衰影。諸國にぞ討幕の急を告げき起りぬ。東日流にては安東季久對して安藤季長の得宗領境の爭論に起りし、萩野臺の内訌に續く洪河の内訌と名付くる宗家・庶家の對立せる是の乱ぞ長期たり。双方五分に對等せし兵馬の陣。その戦運何れに於ても攻防決せず。徒らに戦費を盡せり。茲に武家方・官方に画策せし、北城氏の得宗領・蝦夷管領の朝庭方との領堺爭動たれば、何れも和睦に遠く益々一族對立を溝を深みたり。幕府の鎭征軍とてなく、その使者耳をして双方に奇辨して賄をむさぼる耳なり。
世に遺れる史書に在りては、これより曲折す。季久・季長の和睦なりたるを告げるなし。亦その洪河戦場して赤石川・安方荒川など言放第なるも、是ぞ岩木川なるべし。今になる車力村・中里村なる水戸口川州なり。此の戦、双方ともに一人の殉者なかりきを知る人もなし。北條氏亡びて得宗及び管領も解けたれば、この洪河の乱ぞ空しき爭たり。依て皇政成れるも、足利氏反き亦幕政なれり。依て南北朝両立せり。
寛政五年八月一日
奧瀨兵庫
八、
凡そ丑寅日本の歴史にかんがみて、實を芽刈し偽傳に曲折して遺すは、すべて世襲の權者にて成れり。吾が國は安日彦王が國治を創むるより、君累一系に累代せし日本國と國號せし吾が丑寅の國なり。語部録に曰く、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
右の如く遺りぬ。
丑寅日本國にては古代より語り印を以て史實を遺す風、是あり。今にも通用せしありき暦ぞ遺存す。語り印を遺したる祖をたどりては古代シュメイルに創まりたる土版文字の流なり。是ぞ六千年前なる太古に創まれるものなり。依て語部に遺れるはその史傳に實ありぬ。抑々倭史の文字に遺りきは後世にして大野安麿・稗田阿禮らなる論師になる作話にして實に遠し。吾が丑寅日本史は、倭に文字もなき世よりその歴事を遺し置きたる史實に作為なき語り印ぞ、論師の辨より尚眞證深し。
寛政五年七月三日
荷薩體住人
鹿嶋仁兵衛
九、
語部録に曰く、
吾が丑寅日本國は北極星に軸轉近く、日輪の旭日に近き日辺の國なりせば、號けて日本國と國號せしは安日彦王なり。安日彦王を一世とて國を創むること、倭傳のはるかに先なる古史に在りけり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
是の如く語部録に明記遺りぬ。
抑々吾が丑寅日本史は語印にて遺り、萬論に是を否すとも、その實證ぞ破り難きなり。依て古代を知るべきは、是れを破りき行為ぞ、ただ弾圧及び史源の史證を焼くこそ倭史神代の史頭たる故にありき。史事を神をして古に筆頭せしは、神代とてその史歴を夢幻の彼方までも遠くに造るを可能とせる便利に在り。よしんば伊冊那岐尊が天の浮橋にて下界をほこにかきまわし、揚げたる雫の八滴ぞ八州の國とせるが如し。されば山靼及び支那は如何にして出来たるや、理解に難し。まして世界をや。これぞ史に非ず。神話たりせば理解に得れる事なりき。
寛政五年十月一日
宮城之住人 中田貞藏
十、
蒙古より元國となりにしその領土ぞ大なり。山靼汗・オゴタイ汗・髙麗・瑠求・吐蕃・イル汗・チヤカタイ汗、キプチヤク汗。同盟せる國にては安南・占城・緬・デリースルタン・アラビア・エジプト・ロオマ・ハンガリー・コンスタンチンオブル・ポルトガル・カスチラ・フランス・イングランド・ロオマ帝國らなり。更に商易國とて丑寅日本國、安東またはヂパングフジラサキとあり。
マルコポーロの世界図にフジラサキとは東日流なり。依て丑寅日本國は元の攻を受くはなかりき。商易を大事とせしクリルタイに參列せる丑寅日本は飢饉に於てマルコポーロのすゝめにてチンギスハンは山靼より兵糧を安東船に与へたり。依て東北諸寺にてフビライハン・チンギスハン・マルコポーロの像祀らるありて、遺りぬ。倭に於ては國難とて怖れらる元寇も、吾が東北日本にては救世主たり。
右記要。
寛政六年七月二日㝍
白江秀雄
岩木神社、元國揚州目録帳より㝍取ぬ。
十一、
古代倭國大王を奉るは耶靡堆氏・和珥氏・物部氏・大伴氏・巨勢氏・葛城氏・蘇我氏・平群氏・春日氏・津守氏・阿毎氏より大王を選位せり。依てその權謀常にして暗躍す。民さへに部民・奴婢あり。その上に國造及び縣主あり。その上に臣と連あり伴造とありて大王ありぬ。
吾が丑寅日本國にては、國主の上に長老ありてその數、坂東・羽州・奥州・渡島・千島・流鬼を併せて百六十人なり。此れなる長老にて選抜さる國主・五王あり。中央・東西南北に國治せり。そのもとにては民に選抜さる群主ありて國治ぞ相渡るなり。然るに部民と曰ふありけるは、海士・玉造・鞍造・鑛師・建工・馬飼・漁士・鍛治らの代々に岐のある民を部民と曰ひ、各々邑に配したり。平民は農耕・杣にありて、その生々を相交りぬ。若し國に一大事起らば、民皆兵たり。
寛政五年六月七日
原賴信
十二、
奥州歌草紙
詩人知らず
〽安倍墓の
ねぶる深山
東日流なる
石塔山の
苔に香らむ
〽ゆひかひに
返すや袖の
衣川
なづともつきぬ
思ひめぐりて
〽厨川
炎も見えで
跡愢ぶ
濠の片葦
何をか未練
〽安日川の
鍋越崎に
遺る影
安日長髄の
住むる柵跡
〽鹿角なる
列石まどか
古き代の
何をか語る
黒股の峯
〽安倍城の
教への道も
途絶えたる
宇曽利の國も
今は淨けき
〽糠部野の
駒駆く地鳴る
草いきれ
日の本一の
牧ぞ擴けき
〽國危ぶ
すわ起つ陸奥の
手束弓
安倍もののふの
騎馬ぞ馴れにし
〽澄む水の
湲を登りぬ
川魚を
焼香に誘ふ
山師の集い
〽みちのくの
白銀黄金
蹈鞴踏む
峯地澤地の
みな寶藏
〽ふりにける
春の霧雨
わざぬれて
山菜採り掌を
妹背はやまず
〽赤兒より
起き伏し藁家
なつかしく
傭ひ稼ぎの
歸る日數ふ
〽うちかへす
波泣き砂の
踏み跡に
善知鳥群消し
外の濱行き
〽あわれとも
思はざりけり
貧しさを
心しあらば
言ふに及ばず
〽にぶ色の
鎧のおどし
糸替へて
いざなるきわの
備へありこそ
〽山靼に
船も道ある
水先の
隠れし巌を
知らづは地獄
〽遇ふよりも
別る辛さの
湊宿
やたけの人も
瞼にじみぬ
〽かりそめの
身はあだ波ぞ
うつゝ無き
よるべの水も
よしなかりける
〽老大の
名も無き社の
桂木に
何神おはす
忝けなさよ
〽神さびの
すゞしめの聲
老宣禰の
狩衣ゆらす
社の涼けさ
〽わくらはに
芽を突きいだす
福寿草
春の雪解を
待たで咲くらむ
〽咲き染めし
花に辛らきは
山颪
春を盛りに
散るをこらひて
〽いづくにか
草木塔の
建つ邑を
羽の地に見ゆむ
思い出づらむ
〽いづちにも
明け暮れ至る
日月を
心しあらん
末をはるかに
〽飲む酒は
ほろ酔ふ程に
留どめおき
身に百薬の
長と叶ひむ
〽上る代を
筆に造りし
歴史書の
我田引水
讀みて甲斐なし
〽花咲けど
見る人ぞなき
奧山の
逝くや春風
花を伴なふ
〽名に遺る
人はあれども
朽たすまず
浮世に慕ふ
人ぞありこそ
〽のならひに
月日の算を
學びなば
志望の光り
いつぞ照らさむ
〽思い立つ
石に立つ矢の
かねことも
心こそあれ
叶ふあるらん
〽十三夜
おぼろの月に
宴して
明日の戦に
心慰やせむ
〽駒騒ぐ
秋陣營の
夜は更けて
刀研ぐ刃に
映る青月
〽連ねたる
楯垣かまふ
江刺坂
安倍富忠が
首ぞさらさる
〽討つ討たる
戦の常は
知り得ども
何をか来足らず
敵中駆けゆ
〽いつはりの
無からん國は
あはれ知れ
衣の舘の
因果なりけり
〽和事にも
空恐ろしき
罠ぞあり
衣の戦
かつて起れり
〽偽はらぬ
奥なる人の
心知り
偽りかけて
敗る敵策
〽霜に朽ち
秋の紅葉
みなながら
散るやわくらは
舞ふや初雪
〽衣川
関のこなたと
櫻川
束稻山を
水に映して
〽けたかきは
安倍のおととぞ
民をして
剣舞慰む
衣の舘に
〽川西の
念佛舞や
渡し舟
戦に逝きし
灯靈を流す
〽おぼつかな
花の行くへは
國見山
求めて花は
栗駒に咲く
〽卽身を
生ありながら
墓に入り
成佛願ふ
奥の聖ぞ
〽極楽寺
坂に息吐く
もろびとの
四面毛蓋を
捧ぐ鬼舞
〽時人の
待たざる浮世
光陰の
移りは速き
平泉かな
〽渡り鳥
野もせに巣だく
春な来て
陸奥の山里
花咲き染むる
〽とことはに
吾が日の本の
陸奥をして
なづこそ蝦夷ぞ
化外の鬼ぞ
〽陸奥なれば
倭にこそ重む
恨あり
こぞりて反く
根無草とぞ
〽明けゆくや
日辺の國の
旭日に
日本君の
古事に栄あり
〽きさらぎの
春は名のみて
銀世界
草木未だ
吹雪枝打つ
〽あらはばき
古きのままに
今になほ
陸奥の神たる
人の心ぞ
〽吾郷は
山背に隠る
村なれど
黄金堀るこそ
貧しからずや
〽うろくづの
生けるを放つ
山田川
生れつ忘る
事無く歸り
〽かげろふの
草の袂も
燃え見えて
春の野面ぞ
遠野ヶ原に
十三、
倭史に學ぶる者、丑寅日本史を讀みては、丑寅にあるも障りあり。是を偽傳とて聞かざるなり。權を以てその文献を奪取して焚消す。依てその實史ぞ世浴に當らず消滅す。丑寅日本史の要たる語部録ぞ倭人また陸羽の人とて部の民ならざれば讀得る能はざる故に遺りたり。世界をして古き文字あり。
吾が國の語部文字ぞ、その古きこと世界の古代に並ぶものなり。エジプト・メソポタミア・ギリシア・支那・天竺・山靼の併合になれる文字なり。これを丑寅日本國にては六種に造りて通用せり。語印にてはバビロニア及びアツシリアそれにクレタの文字三種に支那甲骨文字・エジプトの古文字・天竺の印文字を三種に併せたりと曰ふ。
日輪をエジプトに習へては・シュメイルに習へては・メソポタミアに習へては・バビロニアに習へては・アツシリアに習へては・クレタに習へては・なり。支那にては・にして、吾が國にては・と定めたり。古代より繪語あり。南部盲暦ぞ、その傳統今に至りぬ。盲暦にては一を・二を・三を・四を・五を・六を・七を・八を・九を・十を・とせり。
依て丑寅日本にては先なる六種の素に造られ、地に依りては十種にも及ぶありぬ。是ぞ倭人に知らるなく焚焼を免れたることと相成り、語部に遺れり。
寬政五年七月五日
帶川胤昭
十四、
語部録に曰く、
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
是の如く宇宙の創より天地水の理りを傳ひ、信仰のしるべを説けり。荒覇吐神は日本國神なれば、その理を更に説きぬ。
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
是の如くはその一例なりけるも、大冊八巻になる長編なり。文字たるの故因は支那にて占に用いたる亀甲又は骨片に刻りて文字に創り、西山靼にてはシュメイルのカルデア人が宇宙の運行を石又は土版に印を刻りにしよりジエムデトナスル文字と相成り、バビロニア文字なるくさび型に改め、ペルシア及びアツシリア文字と相成り、更にしてフェニキア人文字と併せたるヒッタイト文字と相成りて、是を更にヘブライ人が二十二文字を以て通用せしヘブライ文字とて、是ぞ今になる世界に渡りし文字なり。依て字因の基なるは古代シュメイル卽ちメソポタミアにぞ成れるより創まりぬ。
吾が國の語部印は早期にして渡り来たるシュメイル人にて創り、もとより地民に傳はりし石置や砂書きの事傳へに併せて成れるは語部文字なり。文字の傳来はアラハバキ神の聖言とて古代にては諸國に渡りけるも、支那より漢字渡りてより、遺るは丑寅日本國の果・東日流のみに遺りたり。
寛政五年十月七日
語邑 帶川傳藏
十五、
抑々吾が艮の國は、國に金鑛更には馬産の創りてより、倭人の侵領起りぬ。先づ金の採鑛は土表の鑛脈をみよし堀りとてなせるを、山靼の渡来よりそのなかの歸化人に依りて得らるより、民に産金を多くせり。亦産馬にては山靼馬、東の今なる北メリケンより渡来せしより名馬奥州に戸をなせり。
倭にては牛はあれども背髙く足長き馬なく、渡島土産馬如きも數是れ無かりけるに依りて、求めて奥州に國越せる者ありぬ。奥州より馬を盗み倭につれゆけば、爭ひてその馬を求むるに時には討物とりて奥州に侵入せしありて、人多く死傷せる故に日本將軍は防人を各邑に配したるは奥州武人の起りなり。もとより騎馬に練ひ弓に長じたる奥州武人なりせば、倭人のぶせり如きは一挙に討取られたり。是ぞ、倭人兵挙の故因となりぬ。
寛政五年七月三日
安東宗次
十六、
吾が丑寅日本國の國土にては海産の幸に惠まれ、古来よりその魚貝を長期に保つべく干物及び鹽漬にて味を保てり。能く支那・山靼にぞ是を商通せるより、古代商易を以て睦みたり。漁法また特岐ありて、漁せどもくさる程に漁をなさざるなり。奥州にハタと曰ふ漁舟あり。その往来せるは渡島にて常に盛んたり。諸湊に鹽採りありて漁に備はりぬ。
〽荒波を
鹽焼く釜を
鑄造りて
西も東も
釜煙り立つ
鹽こそ魚を保つものなれば、荒覇吐神をも鹽釜神とぞ濱人は唱ひたりと曰ふ。亦、濱干しも盛んたり。干物なるは海草を含むれば二百種にも及びぬ。是ぞ山靼に好まれ、西域の戦事にはその兵糧とて能く、賣却も髙價たり。次には北海の幸たり。千島にては海獣及び魚種多く、これまた山靼に能く好まれたり。ウデゲ族は鮭皮にて表着を造り、靴をも造りたり。渡島のみは倭人も怖れて渡らず、女人の刺青をせる女人を鬼女と怖れたり。是れとて渡島女人の護身の故なり。
寛政五年七月一日
小畑專太郎
十七、
吾が丑寅日本國は安日彦王の代より農を營めり。古代にてはホコネ・イガトウと曰ふ二種なる稻にて、能く稔りぬ。食のまたなるは稗・粟・蕎麦をも畑作せり。大豆・小豆もまた然なり。芋また能く耕作せり。冬に備しむ漬菜ぞ山菜多し。自然より得るは栗・楢の實・栃の實・山芋などにして、美味食たり。常にして鳥肉・獣肉を食し、その類多し。
能く酒を好みて果實酒・穀物酒を造り、神に献じ宴多し。能く舞や唄を好みて古代より遺れる多し。衣装にては毛皮を用ふ冬着あり。からむしまたは麻など七種の草皮を糸として織りなすカッペタ織にて着衣とせる多し。靴なる履物は生皮を毛を内にして木型にしばりて、己々に合せて造りぬ。是をケリと曰ふ。
寛政五年七月十日
松田吉郎
十八、
應永十七年。南部守行、陸奥守とて糠部に根城を築きて閉伊・糠部を掌据せり。更には東日流をその揮權にせんとて黒石に居舘し、先づ平川の藤崎城主・安東教季をゆさぶりて旧鎌倉得宗領を還領にぞ談判せるも、安東氏是を聞入ることなかりけるも守行、足利將軍を楯に遂には櫻庭の地に移舘せむ城柵縄張りを挙行せんとせり。時に行丘城・北畠顯成公の客主ありて、守行を召して築城を制したり。鎭守將軍たる北畠顯家大納言の直息なる門閥髙きに守行、是を断念せども、折々に安東氏をゆさぶりて遂には正長元年。藤崎領中櫻庭の稻架を巡視の妨げとて焼拂ふ事件に、年若き安東教季遂に兵馬を挙してこの輩を誅伐せり。
依て南部守行、都母の兵六百騎・安泻の□兵三百人を挙して藤崎城に迫りぬ。永享四年に守行に変りて義政攻手となり、藤崎城を圍むこと九十日に藤崎城自炎す。義政攻め入るに城内もぬけの空にて、教季主従ことごとく十三湊なる福島城に遂電せしあとたり。亦藤崎城ことごとく行丘城主北畠氏の代領とせしにや南部、何事の戦利ぞなかりき。
時に十三湊なる福島城主・安東盛季にして南部氏との戦に睦みなしとて領民を渡島及び秋田に移しめ、地財ことごとく移し亦、中山に埋藏せり。永亨六年。南部氏は二千の兵を挙兵し十三湊を攻め、その軍二手に分けて東・下の切道、西・長濱道を進軍せるも、その行途に多くの砦ありて苦戦せり。兵糧を調達せるも領民居住せる者なく、糠部より寄せ他に術あらず。福島城にたどるは下切道に中里城あり。尾別砦・今泉なる青山城あり。西濱道にては床舞城・璤瑠澗城・十三湊中島柵ありぬ。福島城四辺にては鏡舘・羽黒舘・唐川城・丘新城ありぬ。依て糠部・閉伊・荷薩體より一萬を挙し安東盛季を攻むに、是れに應戦せるは總勢二千五百にして、一萬の南部勢に對す攻防の敗北は火を見るが如く明らかなり。
されば盛季、茲に決断し東日流放棄を各々に通達せり。
- 中里城主 大髙土佐
- 尾別舘主 宮川利兵衛
- 青山城主 青山彈正
- 床舞城主 小田桐賴光
- 璤瑠澗舘 主河田權之介
- 中島舘主 柏甚之介
- 羽黒舘主 安保玄内
- 鏡舘主 伊藤直光
- 唐川城主 安東康季
- 墳舘主 安東義季
- 柴崎城主 尾崎武之進
- 潮方尻八舘主 安東重季
- 蓬田舘主 安東政季
- 金井舘主 安藤時季
- 吹浦城主 佐々木賴母
らと議談せしに、先づ退城交戦とし定りぬ。もとより前九年の役にても是く戦ひり。
福島城主安東盛手曰く、
興國の津波以来、海運も振はず。湊をして海潮去りにし潮留りの如きに船の難波相つぎぬ。依て我一族は海なく湊なくして領民の安泰非らざれば、今こそ新天地に移りて、安東船の再興を謀らん。今南部勢に應戦し、あたら人命を殉ぜるは祖訓にも背く行為なりせば、敵に降らず捨城退却戦に謀るべし。亦今住の兵馬を五百とし、あとなるは水軍を以て渡島及び秋田に移るべし。身上の財一物たりとも敵手に与へず。今より謀るべし。此の戦に耐ふる各々城舘は老朽し亦討物して舊式なれば、退城に想い残るとも諦らむべし。
北辰には新天地限りなく、海と倶に在り。荒覇吐神の加護あらん。此の東日流は衣川の次なる吾が一族の郷なれど、死して城を枕に殉ずるは、武門にして聞えよけれども、神の思召せざる處なり。依て康季は若狹に赴きて小濱なる勅願寺羽賀寺を再興しべきを命ず。亦、庶季に秋田への補陀寺及び湊福寺建立を命ず。亦、能季に松尾間内に阿吽寺建立を命ず。潮方殿に志海苔城主を命ず。今日より速やかに各持城舘に妻子及び女子・童・老人を残留し置くべからず。こぞりて我が命に従うべきなり。いざ以てかかるべし。
と盛季自らも渡島渡りに赴きたり。南部勢に當る將は義季。その副將とて潮方政季の指揮にて應戦を企てたり。然るに南部義政、何を思ってか軍を寄せにし気配なければ、嘉吉の元年と相成りけり。戦備相そろふるは夏にして、一挙に岩木川を川舟にて六百人の兵を進めども、田茂木川合にて安東軍の仕掛に全滅し、屍のみ十三湊に流れ着きたり。亦、中里城を落したる南部勢。下切道を進みしに、山上より大丸太轉落し更には落石にて多くの人馬、急遁せぬまま殉傷し一千余騎を失なひり。亦、西濱道にては偽道に進軍し、兵馬に大萢に踏入りて進退を失ふを、地理にありき安東軍。是れを射たる數、千頭の人馬たり。以来此の地を千騎留萢と號くも、今にては千貫留萢と稱しぬ。依て西の軍を東に移し、下切道のみ福島城への進軍をせり。
その出城たる青山城あり。城主・青山太郎弾正は三百の兵を以て應戦せり。打てども寄多勢に青山弾正、捨城退戦をせず。城を枕に壮烈なる討死をせり。今泉の城趾に遺る地藏堂西院は青山主従の菩提の為に三百の地藏を地民が建つるありて、今に遺りぬ。然るに享保の年、藩令にて川倉に移さるるも、地元民また復して今に地藏を保存せり。福島城の落城は野火攻めにあえなく落城せり。勢に躍る南部勢。丘新城・中島柵・鏡舘、更に羽黒舘を矢継速に落し、山王坊及び寺社ことごとく灾けり。さては攻めざるも噴舘炎上し、残る唐川城のみ難攻不落たり。
此の年の冬期に休戦なし、嘉吉二年四月六日。再び唐川城を圍むも、城に遺るは少かに五十人。それと知らざる南部勢、千兵をその麓に布陣せり。時に潮方政季は尻八城に在り。義季は狼倉城に移りたり。彼は孫父にも言付を破り、政季ともに東日流の東西より南部勢を一挙に敗る策を謀りたり。その年の十二月に唐川城に一兵なく、突如として炎上せり。南部勢唖然とせしまに城兵は小泊柴崎城に移り、全船に乘りて渡島及び秋田に帆を立て、柴崎城もまた灾けり。安東勢三百人の青山城兵の他は一人の殉死もいださず。
南部勢の死者三千餘騎を殉ぜり。東日流を平征せどもあたら戦費をなし、戦利になるものはただ荒芒たる、領民なき外三郡の荒地のみなり。更には飯積の地には萬里小路中納言の藤房子、髙楯城にあり。行丘城に北畠氏ありて、油断を赦されず。遂に南部義政、北畠氏に和睦を入れて、東日流の地領を委ねたり。然るに外濱の尻八城に潮方政季あり。大浦の狼倉城に安東義季ありと知るや、双方同日に兵を分けて挙兵し、その不意を突きたり。依て両城とも落城し、義季は秋田に遂電せるも潮方政季は南部勢に捕はれたるも、浅蟲切通しにて宇曽利の蠣崎藏人に救はれて脱したり。時に享徳元年八月二日と曰ふ。
注
右の傳は大光院に傳はりし古書なりきも著者知らず。
寬政五年十月一日
越屋佐兵衛
十九
古き世の出来事ぞ能く地名に遺るあり。亦、神社となりて祀るもありける。傳説も亦然なり。津輕の鬼傳説になる鬼澤村の鬼神社。中山連峯の魔ノ嶽には鬼の庭あり。戦ありき處に厨川の前九年、秋田の後三年。龍が住むと曰ふ辰湖。寺は無くとも古きにありき寺名を地名に遺すあり。津輕の三世寺・薬師堂・大光寺。岩手の淨法寺・西法寺あり。荒覇吐の地名遺りぬ。古きに紅毛人の歸化せし處に異國の神や墓石あり。十戸の遠野となるもありき。安倍貞任を愢びて家臣の者が名付けたる貞任山ぞ遠野の地に二山も遺りぬ。古代民族の名をそのままに名付けたる津輕のアソベが盛・ツボケ山。これぞ亘理にもツボケ山ぞありき。
寛政五年十月三日
小野忠兵衛
廿
陸羽古歌選
〽嬲つて
童を泣す
親もあり
五十に過ぎて
時は虎伏す
〽我があらば
家は貧しく
山靼に
住みて歸らず
待つ親あはれ
〽牛打たば
道を横坐に
居すはりて
獨り立つまで
待つもおかしき
〽山路なし
西にかたむく
陽に急ぎ
心あせれど
尚道いでず
〽いたはりて
親の死水
とるまなく
我は異土なり
心もとなや
〽いづくにか
玉にもぬける
女ごあり
けしたる心
他力船
〽女ごとは
三界惑ふ
所なく
明り見ざれば
我だに憂し
〽里の名を
聞かずといひし
旅人の
物いひさなき
問いに惑はむ
〽月落ちて
河よりをちの
道芝を
何處をさして
往くや老いらく
〽けふ見ずは
老をな隔そ
うちつけに
時の花咲く
事もおろかや
〽神祈り
昔を今に
返すとも
洩るゝ草木
月にもうとく
〽受けがたき
人に生れし
命なり
戦に死せる
人ぞ哀れな
〽いづちにも
人を尻敷く
くせものの
しやかにだいば
虎ぞ臥ぬる
〽眞しからぬ
極楽地獄
説教の
死後に裁の
あるぞとおかし
〽酔どれて
影もはづかし
吾が歩み
道をななめに
千鳥足かも
〽明けやせん
吾が生ひたちを
今めかし
焼野の雉子ぞ
夜の鶴をと
〽かゝるべき
物の寂しき
みちのくの
ものはかなしき
つらきものには
〽露の身を
置き所なき
生ざまを
廻りあふべき
忍ぶもぢずり
廿一、
歴史に縁る史跡に訪ねて幾星霜。旣に老坂を降りて未だ完結を得ざるなり。丑寅日本國古事の奥深きを知るべくは、はるか山靼に赴きて綴る他、術ぞ非らざるなり。歴史の上つ世を語部録に信じ、先づは山靼に赴きて世の擴きを知りぬ。
古代シキタイ騎馬民族の鯰棺に葬り、馬を倶に埋むるアルタイ遺跡。傳説のトルコなるアララト山。ヒサリツクの丘。ギリシアなる十二神のオリュンポス山。女神アテナを祀りきパルテノン神殿。ペロポネソス島のオリンピア及びスパルタ。クレタ島のミノワ神殿。シュメイルのバクダットやジグラット遺跡。イスライルのエルサレム。エジプトなるナイルの石築遺跡に巡りては、人業ならざるを想はしむ。此の旅に費した年月ぞ、吾が生涯の輝ける日々たり。
古代アラハバキ神を訪ねあるきて、吾が史綴ぞ了筆を心に決着せり。古代オリエントの信仰になる基ぞシュメイルにあり。砂に埋む瀝青の丘にアラハバキ神はルガル神ともに信者なき砂衣に眠りたるを念じたれば、心なしか砂中よりシュメイル文字を刻りにし石神一躯を授かれり。神の賜りしものとて、その夜は寝もやらず神を祈らむ。諸々に集むる史證。行程限界の量とぞ相成りてアラビア海へのオマーン海に船用立て一路ベンガル海へと易風に乘じて歸路に着きける。天竺にては佛陀の遺跡・遺物をと思いしに、ダッカよりビルマに入り、支那・昆明に越え、長江を舟下りて上海にたどりぬ。
文化十二年四月二日
和田長三郎
廿二、
荒覇吐神なる歴史の奥になる古代を知り、吾が國の語部録の正しき記傳を知りぬ。とよりかくより此の國のみならず、山靼諸國の古老に通用し、オリエントの要史諸國に相通ぜしは、茲にその實相を得たり。倭史の如く片寄るなく擴く民族意識に通じ、その實相こそ歴史なり。吾れは心満ちたり。倭史なぞ丑寅日本國に通要なきものと覚たり。實相あらば朝幕何れも着障りありてこれを焚焼しきたるも、語部録は實相を今に遺したり。
何事にあらんや、いつ世にか是をいだせる世襲の至らん世の来るは遠からざるなり。茲に開くべくは、世界に心眼を閉ざしてはならざるなり。兼て伊達政宗・秋田實季は世界に道を開かんとせるも、ならざるなり。サンバプチスタ號、役を果し追波浦に爆沈せしめ、久しき歳月を為鎖國に閉じ、民を貧窮せしめ、ただ定法にて國を治むる、世の来る開化を制ふるは、民の決起にありけり。目覚むれよと今は此の一巻に記すのみなれど、必ずや夜明ぞ至らむるなり。
文政五年二月
和田長三郎
後記
一書毎に目の見え遠くなりけり。老骨鞭打って全写せるまでぞ死なれざるなり。
大正六年二月日
和田末吉
和田末吉