北斗抄 十五


(明治写本)

注言

此の書は他見無用、門外不出と心得よ。一書の欠書、失ふべからず。能く保つべし。

己未年
秋田孝季

諸翁聞取帳 一

宇宙創造之ときカオスの光熱起りて無辺の暗を焼爆せしめ、星となるべく星雲を造り、星雲の粉塵宇宙重に依りて濃縮し、星と誕生す。燃ゆる星・岩質星、更に雲集星・水星・氷星・砕數遊星・暗黒星。この星闇に漂よふ星雲ありて、是れまた見えざる暗黒塵及び白煙の如く見ゆあり。宇宙の擴きこと、それに生滅せる星の數こそ億兆なり。吾らの住めるは地球星にして、日輪の圓週を廻る惑星なり。その類星に土星・金星・火星・水星・木星他ありぬ。

宇宙にては、生れる星・滅せる星をくりかえし各々星團をなせるは、宇宙の誕生せるより宇宙を擴げ、今にしも續きてやむことなかりき。吾等の生息せる地球星は宇宙より見つるとせば、大海に漂ふ小豆程のものなり。宇宙の成れるは幾百億や幾兆の先なるや計り難し。抑々宇宙の無きは時空の無き、物質たる何ものも無きことを曰ふなり。あるものは暗と寒冷にして重輕もなき混沌たる無のなかに、暗と冷の度合に比重起りて摩擦起りその一瞬に針先程の起爆起り、煙硝に点火せる如くその暗冷に誘爆して、忽ちにして光と熱の計り知れなき誘爆が果もなく擴まり、その暗冷は續く限り燃え渡りぬ。光りと熱に依りて宇宙は誕生せる瞬間より時は創り、その光熱の去りし跡に冷却と襲暗に至るも宇宙塵はこの爆烈に遺りし物質を残しぬ。是れぞ星雲にして宇宙には輕重の動力ぞ生じ、星雲を濃縮せし動力ぞかしこに起りて、星を誕生せるに至る。

ギリシアにては、かゝる宇宙の誕生をカオスの聖火とて、神の誕生と結びたるなり。依て神の神祖をカオスと號けたり。古代シュメールにては宇宙の誕生を陰と陽に区を分けにして、アラハバキ神の誕生と曰ふなり。卽ち暗は陰、光熱は陽として宇宙の創め・神の誕生とて、古代カルデア人は大王グデア王及びギルガメシユ王の叙事詩とて、宇宙の創論を遺したり。

寛政五年八月一日
秋田孝季

二、

地球星の誕生とは日輪の誕生後にして、岩質なる諸惑星の激突に、大なる成長集合になれる惑星。これ地球星なり。月星は地球星を廻る衛星にして、木星・土星にも存在せると曰ふ。地球星は日輪との距離に適當し、その光熱を授けて水を保てる星となりける。依て地球星に於て光りと熱、陸と海に化成して誕生せるは生物なり。誕生時は海中なれども、陸海の浮沈及び生物の耐生進化に依りて陸生進化を遂げ、その種は萬物に類せり。

吾等人類も耐生の進化に依りて現在ありぬ。我等、太陽系とて銀河宇宙に属し、銀河宇宙廻轉しその一回轉ぞ二億數千萬年を經て一回轉す。それにとものふて外銀河の重力に影響さるるあり。圓軌道から楕圓軌道に異変せるあり。更には地軸異変・緯度の異変・流星群の大衝突・寒暖の極差などの起るあり。その地球星気候にぞ耐生進化を得たるもの耳遺りけるなり。今に亡き生物骸の化石となりにしを見當るはその故なり。

寛政五年八月一日
秋田孝季

ダウエン論説より

三、

宇宙は神秘なり。依て古代人は天文の塔を築く多し。世界王國の遺跡にぞその跡ぞ遺しけるは西に東にその築跡を今に存在する處多し。なかんずく一萬年乃至五千年前の天體運行を觀測せしその傳統、今に遺しきありぬ。日輪・月輪・星々の運行にて暦を知りたり。日蝕・月蝕・彗星の飛来。是等、暦に依りて知れるところなり。潮の干満・季節の日没・月の満欠らは古代よりの宇宙神秘に求めてやまざる執念たり。古代ギリシアにては神々を宇宙の星座に神話を造りて、神の信仰は失せども數々の神話を今に遺しぬ。宇宙を神話にせるは世界諸國の信仰に入れざるはなかりけり。

カオスの聖火に依りて宇宙の暗を爆焼し、時を造り、物質を造り、銀河系より猶外銀河に觀測を究むる人類の英智こそ今も猶とどまることなかりき。地球星を宇宙の中心たる盲想も解き、太陽系なる第三惑星とて地球星を科學天文に觀測を改むるより、宇宙の猶擴きを智るも人智の然らしむ處なり。地球星の限られたる陸海の惑星意識を以て世界図を造るも人智なり。更には宇宙構図も造られよふとて、限りなくその究明にありけるなり。

寛政五年八月一日
秋田孝季

四、

凡そ古代を思ふるに、支那の長城・エジプトの金字塔・倭國の古陵を見つるに一人の大王に依りて多くの民は駆使重勞に築かれしものなるに、是れを故大王の遺徳と思ふは愚考なり。猶古き世の古人にして、かゝる築跡はなかりき。爭ふなくまた人を駆使せるもなかりき。人は國を造り大王を奉じてより爭ひ起り、民を下敷きにその階を以て大王を奉るは戦にあれ常にあれ、ただ民耳への駆使に止むことなかりき。

今に遺る壮大なる築造遺跡を、古き民の遺勞の遺跡と考學に歴史を思ふべし。吾が丑寅日本國の民は荒覇吐神を一統信仰として爭ふを戒しめ、大王とて我為以て民を駆使せる事なかりき。依て倭の如き、民を駆使なせる築跡などなかりき。民に各々英智ありて睦みと人命尊重を一義とせり。人との和を信仰にて結束し、言語一言にも和を欠かざるに心せり。常に盡きるなき宇宙の神秘に語りて、迷信に堕ゆなく智識を山靼に求めたり。倭人は山靼人を赤蝦夷とて卑しむも、丑寅日本國にては新しき智識の導師たり。

宇宙の創りはカオスの聖火にて、星雲物質ぞ遺り、それより億兆の星ぞ誕生せりと曰ふ説を傳へたるも山靼人なり。古代オリエントの歴史及び荒覇吐神の信仰を傳へたるも然なり。商をなせる物交の市に參列を奨めたるも、山靼人なくして丑寅日本國の産金・馬産ぞなかりきなり。産金にては山靼人の歸化せる者にて得たるも、産馬にては保食肉に渡来せしを人の駆使となせり。語り印を以て相通知せるを教ふるも然なり。依て我等、古き代の古事を知るを得たり。古代カルデア民の渡来にて、丑寅日本の進化ぞ大いに進展せり。人の往来ありて成れる古代丑寅日本國の古事ほどに人ぞ泰平たり。

寛政五年八月一日
秋田孝季

五、

コペルニクスの地動説を以て世界人の宇宙感・定説の改むるが如く、學びの道はその果てしなき深層に在りて完結は學問に限りなかりき。如何なる先人の學問書に成れる論理にてもいつかは無用と相成けると思ふべからず。過却の學も無駄なるはなかりき。かく先人ありてこそ今に在りき學恩に報じべし。語印その効をなし、吾ら丑寅日本古代史を知るを得たり。

是れぞ、幾千年前なる古代人が學の遺し置きたるたまものなり。盲暦とてまた然なり。若し是れ倭人に讀まれなば、久遠に日本國と曰ふ丑寅の歴史は世にあるべきもなし。まさに○△―のに護られたる奇蹟なり。未だ世襲に至らざれども、これぞ必ずや古代丑寅日本國の歴史證處と相成らんや。

寬政五年八月一日
秋田孝季

六、

特報

・・・・・・・・・・・・カール・シュバルツシルトがゲッチンゲン大學天文臺に教授とて宇宙を見つめ・・・・・・大正甲寅年、アインシュタインの發表せる法式を・・・・・・と説き、宇宙に密む大重力を説きぬ。

是ぞ、ドイツアカデミー學界にアインシュタイン氏が自らカール・シュバルツシルト氏の法式と表し、登録得てくれたりと曰ふ。かく天文學も日進月歩、解明に進歩しつゝありぬ。
(朝日科學誌より)

大正七年三月七日
和田末吉

七、

カオスの聖火にて宇宙は創れりと曰ふ。ギリシアなるオリンポス十二神の神話とて、現代科學に見捨つものならず。何事をも集縮して考ずべく要ありぬ。古代人の感覚とて科學に縁遠きに非らざるなり。宇宙の無き前に、物質も時も空間もなきよりカオスの聖火起りきと曰ふは、あるべく確率是を科學的に曰ふなれば陽子と電子、密度無限のあらゆる科學法則も成得なき特異なる一点に陽子と電子の衝突あるいは摩擦に依りて起爆せる可能もあり得ると曰ふ科學者もあるとぞ曰ふ。

アインシュタインの相對法式論の正しけれと曰ふなれば、その確率ぞなきにしも非らずとも曰ふ。宇宙は今もその誕生時より膨脹してやまざる廣がりを今猶も續け、準星觀測にぞ見らると曰ふなり。是ぞ宇宙誕生時なる膨脹の餘力とぞ曰ふも、世界科學は休むなく是を追究解明に天文は兆みて止まざるなり。

大正七年三月七日
和田末吉

八、

寛政の改革とて成れるは、丑寅日本國の渡島・千島・サハリイらの開拓に計画せる田沼意次の失脚に追詰めたるは、天明の大飢饉にして百姓一揆各處に起りたる故に田沼氏の失脚たり。是れに継ぐる松平定信の改革とは。歸農令・朱子外の異學禁止・圍米制・質素倹約令・棄損令・外船来舶への防備ら、民の自在を束縛せる法の圧制たり。依て、山靼往来ならず。彼の地に永住せる者ぞ丑寅日本各藩に多く、故地を去る者多し。更には北メリケンに渡るもありぬ。

ロックの聲明・フランスの人權宣言・メリケンのリンカーン獨立宣言なるは自由平等・生命資産・奴隷解放・人民主義に世界は世襲を改ひつゝありぬ。田沼意次の意趣も─the government of the people, by the people, for the people─メリケンのリンカー演説の如く、貧民の皆無たるの國造り・人造りに山靼交易の自由を心に秘めて、秋田孝季・和田長三郎の山靼派遣を密に鎖國令中特許とせり。寛永十年以来なる國禁を解きて、公金千五百両を出だしたるは平賀源内・杉田玄白・髙山彦九郎らの進言に依れるものなり。田沼意次の同意に急がしめたるは、オロシア船の渡島来船や松前藩への通商に迫りきに、山靼を知るべくの密偵の要ありてこそなりき。

寛政五年六月十七日
伊東米祐

九、

エレキテルとは科學と曰ふ發明のたまものなり。これを追進せば、世の實と相成れり。是の如く平賀源内は曰ふ。されば西山靼にては旣にしてその理論をなせる者ありぬ。笑止千萬なるは是を魔術とて、科學とは赤蝦夷の魔術になれるものなりと源内を手鎖りに科しありぬ。

寛政五年七月二日
伊東米祐

十、

三春は小藩と雖も、藩皆學に長じて他藩に仕官せる次男坊多し。依て天明の大火にて藩書庫の失せにし書籍を各藩より孝季のもとに屆けられたり。然るに語部録の焼失は他にも是無く、八方に手を盡し南部藩より數巻を見付得たるも、物の用ならず。

東日流語邑にて得たりしも秋田土崎の日和見山の灾りありて焼失せるも、控ありて幸たり。是を判讀せる仁あり。物部藏人と曰ふなり。物部氏は難波の羽曳の物部にして古系なり。神佛崇拝をして蘇我氏と爭ふ。以来、子孫、羽後飽田に住す。

寛政五年五月十一日
河田廣守

十一、

寛政の代至り、奥州の地に世襲を民の手に得んとせる動き追日に活力をいだしぬ仁顯れたり。貝の如く國を封ぜんとせる松平定信、脆くも十一年足らずに崩れたり。著書の統制・朱子學外の講義禁止及び文武の奨励は振はず。御家人の借金取消を棄損令とせしは、幕府への信賴度を庶民は露とも感ぜず。徒らに倹約令を強制せしを安心立命なきものとて、金銭の流れは商人に占められ、貧富の差を開き一揆の起る兆を見えたり。

〽世の中に蚊ほどうるさきものはなし
  文武といふて夜もねられず

〽白河の清きに魚すみかねて
  もとの濁りの田沼こいしき

是の如き歌ぞ流りぬ。
林子平著なる海國談義及び海國兵談にては、版木ともに召上られ、本人さえも江戸に幽閉されたり。本居宣長も奥州東日流までも巡察して究めんとせるも、幕令の許ならず屈せり。古事記傳を世にいだせるも、魏志倭人傳如きは信ずるに足らんと一蹴して心もとを隠したり。秘本・玉くしげに曰く、

百姓・町人の強訴及び勢を組て乱暴に及ぶは、上にある者の惡行政に依るものにて、民に惡心なきよりその兆を起すものなり。依て民に慈悲なくば、治り難き暴動の兆を速しむ。

と曰ふ意を記せり。是の如く天明七年に紀州藩に意見書とて逑べありぬ一書なり。陸奥をして起つは未だ機至らずとて、諸國の尋史亦山靼史を秘中になせるも秋田千季の判断にて、孝季も是の目録耳を献上申したり。

覚之事

右十一項の古事内容を長三郎に秘藏を賴めり。然るにその成書一千八百二十巻受けとらざるに、自邸灾られ灰となりきは惜しみても餘りあり。残るもの控書耳なり。

寛政六年八月四日
和田長三郎

十二、

伊達政宗、密にして三春藩秋田俊季殿と謀り、蟄居となりし伊勢朝熊に松平忠輝・秋田實季を熊野尾崎邸に密議せり。然るに徳川隠密・服部半藏、常に伊達・秋田両氏の藩中に草入せしめ、その密議になる情報を得んとて秀なる忍者を入れども、三春にては瀧櫻の宴及び田村氏の菩提を縁の寺に法要せるの情報耳にて、その内情を知ること能はざるなり。

依て若州羽賀寺に隠密を入れ、更には松島瑞巌寺にも入れて探りたるも、是れみな政宗が黒脛黨と曰ふ忍に誅滅され、江戸城評定に三春藩・伊達藩の詮議相成りぬ。時に服部半藏・松平重任ら是に白黒になれる證なく、政宗大いに怒り反論に及びける。
政宗曰く、

我、奥州に在り。三河之百姓の西軍に背きて東軍に関ヶ原參陣。以来大坂の両陣・朝幕の大任、露もなほざりにせず。藩挙にして従屬欠かざるに、何事の故ありての評定ぞや。三春殿倶に不審やるかたなかりき。天下泰平に治りて、故君の條に背き復た戦國を兆す仕掛の程は、いわれなき言がかりなり。若し我れ朝熊にまかり忠輝殿また秋田實季殿に會ふとも、何事の不審ありや。皆過却の縁りにある故事の慰問なり。かくあるを何者か探り付くありて誅滅せるあるは、武家法度何れに禁ありや。とくと返答あるべし。その返答次第に狼藉あらば、政宗老いたりとて奥州にありては連藩挙げて對せん。

と詰め寄りぬ。時に居候者皆黙し、三春・伊達藩評定の事不問とせり。爾来隠密、奥州に入れたるなしと曰ふも伊達藩、黒脛黨を解かずと曰ふ。

寛政六年十月二日
伊具實政

十三、

三春大元神社こそ古来、天地水の三神を祀る荒覇吐神の元社なり。由来一切秘にありて今に在りぬ。三春城下にては事の大事起るときぞ此の社に集いて事を決するは、古来の習はしなり。三禮四拍一禮の古習は今はなけれども、秋田氏代々の參詣訪禮のみ古式にて荒覇吐神なる正祭をなせり。

田村家社證

此の大元神社の鎭座の由来に曰す。
安倍日本將軍の祖・安日彦大王の累代、日本將軍・安倍國東。筑紫豊州大元神社に磐井大王に招ぜられしとき、此の神を丑寅に鎭ませて東西の鎭護を祈念せり。その證とて、此の岬を國東と號けたり。大元神社の神爾系を尋ぬれば、出雲大社・宇佐宮の故縁に在りて、倭の女大王卑弥乎なる守尊たりと曰ふ。神事の三禮四拍一禮の儀を今になせるは、荒覇吐神なる大古神と曰ふ。

此の神の由来に曰す。
西大陸をはるかに萬里越ゆはるかなる國・趣冥流と曰ふあり。民皆信仰深く荒覇吐神を祀りぬ。四辺に乱起り民、神を奉じて亞流臺國・志騎隊族の國に遁がれしも、民皆騎馬野盗にて、此の國を東方に脱し満達國に至りて、土族に追るまま北寒の地に至り、安住の地を求め氷凍の海を渡りて赴き國ぞ日本國にして、地人能く迎へ入れたれば、正念の地と定めて住みぬ。子孫この國の西海を南に移るあり。

住着く處、何れにも荒覇吐神を祀りぬ。古にして荒覇吐神改神之令あり。外神とせるあり。門神または門客神・客大明神と多稱さるるありきも、地民是を改めざるもありぬは武藏に多し。
祭文に曰く、

〽あらはばき
  いしか
   ほのり
    がこかむい

たゞこれだけのくりかえしなり。
祭事の神語あり。祭壇をヌササン、幣をイナウ、神火をカムイノミと曰ふなり。祭司はエカシにして、満月より五日の間神を迎へるなり。先づは天の神・地の神・水の神・山神・海神を奉請せり。神を鎭座せしめて舞の奉納あり。贄を捧ぐ神の座、三股の神木にして、供物は山海の人手を加へざるものを供へ奉り、酒・水・鹽・金銀銅鐡の荒鋳を供ふなり。更に弓箭・刀剣・鉾・斧・土像を供ヘ、チセの神と次なる祭に至る間の家神となせり云々。

寬政六年七月七日
田村秀徳

十四、

古代オリエントの神々。エジプトのエスシ神・アヌピス神・アメン神・ラア神・ホルス神他、神々を造りしは何れも獣頭・鳥頭に造り、身體耳を人體にせし異形たり。亦人體に造りても、オリエントにてはアルテミスの如き化形に造るあり。世にあるべきもなき異形に造る神とせしは世の東西に存在す。多面多手・獣體併成・鳥獣併成・化體を造りて神とせる多し。

是れ如何なる宗教にも用ひし奇想幻覚のものたり。然るに古代シュメールの神アラハバキをして、その信仰に化身のものはなかりき。吾が丑寅日本國にてアラハバキ神の神像のあらざるは天地水その自然そのものを神とせし故なるも、吾國の古代になる女人ら、天に仰ぎ地に伏し水に沐浴して神の相を土形に造りたり。

信仰深き女人ら是を神像とせしより、諸國に流りぬ。荒覇吐神の崇一統信仰となれるは、是の如き女人の授ありて成れり。然らばシュメールのカルデア民にて發祥せしアラハバキ神に像なきか、とて是を尋ぬるにアラ神・ハバキ女神とて男神・女神の二尊になりけるなり。アラは宇宙の陰陽を司どり、ハバキは地水を司どる神とて二尊に造りたり。アラ神は獅子座にハバキ神は蛇座に造りぬ。

是の如く二尊に造像されジグラートに祀られき。依て吾が國にても二尊を祀りき處多けり。亦一躯を前後をして雌雄に造れるも見ゆなり。

寛政五年六月二日
物部藏人

十五、

安永戊戌年。オロシア艦蝦夷地を偵察し、松前殿よりその訴状度々政断あるべく催促是在り候。卒爾乍ら御貴殿、長崎に在りて平戸和蘭陀商舘に通譯の砌りオロシア語達辨なりとて、平賀源内より聞及び候に付き、伏してこの田沼が此の度び願ひの儀、是在り。
是状を三春殿に委ね仕り候。寛水癸酉年以来鎖國令解かざるも、貴殿を幕許にて山靼諸國の地情巡廻に役目を任じ候も、諸藩に密たるの隠密使行為に候。今上夏七月、取急ぎ江戸城大番頭に登城あるべく申付候。
右之意趣如件。

安水戊戌年六月二日
田沼意次華押

秋田孝季殿


寛政六年
浪岡仁左右衛門

十六、

寛政壬子年近藤重藏千島を巡検し、同庚申年伊能忠敬渡島を測量し、文化戊辰年間宮林藏樺太巡検せり。然るにこのはるかなる以前に、日本將軍安倍安國が中元甲午年、千島・神威茶塚・流鬼・渡を日本國領とて、その地稱を號くありぬ。以来、安東船は領域標を建立せり。支那及び山靼への産物を得る為なる幸を求めたる領權たりと曰ふ。倭史の知られざる古事なりき。

安東船の千島往来・樺太往来を果せるは、朝幕の及ばざる東日流にて十三湊ありてこそ成れり。是れにはやくも気付きたるは伊達政宗・田沼意次なり。伊達政宗はノビスパンヤにサンパブチシタ號を安東船構図を以て造船しその航海に實を挙げたり。然るに幕府にてはこれを良とせず、政宗の世界に開く石巻湊・鹽竈湊を國際港とせん夢ぞ破れたり。田沼意次とて秋田孝季等を山靼及び中央亞細亞に派遣せしも、歸りて何事の功なく田沼氏失脚と相成れり。また秋田氏への北方海図を、伊能忠敬や間宮林藏をして都度の請借をせども、先度の理由に依りて固く閉したる心の返答ぞなかりけり。依て三春藩をして松平定信の書状して請ふるも、その答は「吾が藩は海湊無く、東日流安東代・秋田知行代の一切は焚却仕りて一紙の文献も御坐なく候云々」是く返答ある耳たり。

北方領土をしてオロシアの侵領しきりにて、ロシア使節ラクスマン根室に来航せるは寛政四年にして、レザノフ使節長崎に来航せるは文化元年なるも、幕府との協議ぞ物別れと相成りぬ。更には長崎にイギリス船フェートン號、侵入して騒動起りぬ。まさに封建政の崩れるは世襲の渦に、幕府はようやくにして北方領を重視せり。近藤重藏、千島・エトロフに標柱を建て、伊能忠敬渡島の測量、間宮林藏らの樺太探検など、せはしく赴きたり。然るに鎖國を解かず、文政八年に外國船打拂令を發せり。安東船時代と異なり、北前船如きに留まる船の改新なきは、海来る異國船に對應なく永き鎖國の付ぞ、今に幕府をゆさぶりぬ。

天保元年七月二日
大田善九郎

十七、

〽年ふれば
  夢幻の一睡
   ひとり猶
  極楽世界
   佛あるまじ

秋田孝季の歌なり。以下同人作なり。

〽はるけずは
  一念隨喜
   露の身を
  散らぬ先にと
   山靼を征く

〽我が命
  果はありける
   笠蓑に
  いつまで包む
   旅の野末に

〽手に取れば
  遺跡を埋むる
   砂は泣く
  萬里の城も
   砂下に消ゆ

〽グリフイン
  シキタイ神の
   猶ありき
  騎馬とも埋むる
   アルタイの墓

〽寄せ返す
  ブルハン神の
   バイカル湖
  澄にし水を
   手に汲み拝む

〽天山の
  北路に續く
   アララトの
  山にのぼりて
   雲つ箱船

〽シユメール
  赴りて拝む
   ジツグラト
  砂に埋盛る
   アラハバキ神

〽金字塔
  王家の墓も
   砂に消ゆ
  ナイルの河に
   遺跡めぐりて

〽シナイ山
  暗にのぼりて
   旭日見る
  戒の賜はる
   モーゼ足跡

〽オリンポス
  のぼる山路も
   みなながら
  十二の神の
   聲と相にと

〽パルテノン
  アゴラに立って
   見上ぐれば
  アクロポリスは
   みな遺跡かな

〽スパルタの
  日輪髙く
   オリンピア
  歴史の跡ぞ
   たゞ拝がまるゝ

〽よく来たる
  西の果つる
   國めぐり
  船と駱駝の
   旅の明け暮れ

〽久しきや
  蒙古の野辺の
   パオ宿り
  馬乳の酒も
   酔心地よし

〽だもいとて
  オロシヤ人の
   船乘りに
  ナニオに別れ
   吾れは歸りぬ

〽東日流おば
  久しき見ゆむ
   中山の
  とよりかくより
   荒覇吐神

〽朽たしまじ
  石塔山の
   神々を
  事もおろかに
   神を世継に

〽おぼつかな
  生ありながら
   いたづらに
  天に浮める
   なからん跡を

〽思い山は
  山靼旅の
   野もせ月
  駱駝の群に
   ありにし吾を

〽もんだはず
  天魔鬼神の
   言葉には
  あしくも心
   得ぬと存ぜり

〽とてしなえ
  変らぬ社に
   苔踏みて
  浮世の塵を
   瀧に祓ひむ

〽中山の
  いづちも生ゆる
   あしなろや
  千歳に秘て
   神ぞ鎭まむ

十八、

北領の國ほど幸の多かりし千島・樺太の國を捨て来たる倭人どもに何事も語るべくの資格なし。元寇さえ彼のサガリイに上陸せしを無戦にして却らしめたる安東船の功績も知らず、今にしてうろたゆは笑止千萬たり。何事も秋田氏を湊に遠除きて三春に移せむ報ぞと知るべし。安東船の頃はふたたび来たるなし。西に押されし丑寅日本國は朝幕の故に落す。北領にも猶以て西領を進め、國號までも奪取す。その報復ぞ、必ずや致るなり。

世界は國を挙げて亞細亞に侵駐し、植民地を擴げむ世襲ぞ、必ずやこの朝幕に被らむなり。能く心得てかゝる世襲を泰平ならしむは朝幕の責務なり。外を封ぜば内乱れ、幕藩の前途に光りなし。速やかに鎖國を解き、異土と交易して西洋文化を入れ、民の自由たる民權に解放せずば國は亡ぶるの憂ありぬ。國を安らぐは武に非らず。民に産業一義とせずば、元の木阿彌とならん。武を挙げて為せば、武に依りて報復さる。盟約を以て為せば、睦なり。商益を振興して海を道とせば、昔安東船が商航せし如く利益至らん。

舊閥を解きて民の生々安住ありてこそ國富むるなり。國政に刀は無用なり。武を興せば武威起り、民は下敷となりて多く殉ぜん。武敗れては民權起りて文化の光りを招かん。人平等なれば學を向上せしめ文盲なし。依て幼にして教育の義務とせば文盲なし。心して維新にぞ邁進せよ。文化・文明に惡なすは人の浪楽なり。依て人造りを以て立法し國の律とせよ。

明治己巳年正月一日
北屋名兵衛

山靼流鬼國図/安東船水先、サガリイ、ナニオ、ラッカ、ノテト、クシェンナイ、ナヨロ、シラヌシ、マヌイ、シレトコ、デレン、チタ、黒竜江、安東貞季、流鬼国、山靼國

三国通覧図説/サガリイ、エトロフ、クナシリ、シレトコ、ノサプ、ノシヤップ、レブン、リシリ、樺太、千島、林子平

後記

右図は古きとて、安東船に依れる北方図の正しきを知るべく要に不可欠なり。安東一族を蝦夷と除外しけるは、かくの如くありて今に遺りぬ。若し秋田氏・伊達氏のとき鎖國の兆なくば、此の國は富たり。過にし暦は歸らず。いざこれからなる明治の世ぞ何處にさして開化の國益を得むや。期近きに一大事崩壊を招くや。余感常に夢覚しぬ。

二月十五日
和田末吉

和田末吉