北斗抄 十三
(明治写本)
注言一逑
此之書は多見無用にして門外不出と心得よ。一紙一書の失巻あるべからず。右戒之事如件。
秋田孝季
諸翁聞取帳 一、
此の物語りは古き世の事様なり。木の國・河の國・海の國・山の國・草の國・砂の國・岩の國。この七國を併せし國を山靼と曰ふなり。住むる種族の多く少なるを併せて百八十なるを數ふなり。國と國とを交す商あり。列隊をなして旅商せる多し。國と住人の地産商なり。夜は北斗の極星、昼は日輪を旅標として荷を駱駝・皮舟を積、交ふる各々の区を限界に交易。信を第一義として如何なる遠國までも相渡りけり。
三年一度びの集ふありて、これをナアダム・クリルタイと稱す。吾が丑寅日本國よりも赴きぬ。是を催す當番主をカアンと稱し、諸國山靼の中央なるブルハン湖辺に催さる多し。亦クリルタイとて黒龍湖なるチタと曰ふ無住民の地に催さるも在りぬ。商の品をして金物・陶器・薬物・衣類・皮物・味素・食品・穀物・香料・家畜・武具・寶石・金・銀、その加工品數多し。言語一統なく七語に分つれば、七語皆得の商人良商す。
依て吾が丑寅日本國より才ある者渡りて、彼の國辨その語印・算法を覚得してより國交益したり。北海の幸、魚干物・海草干物・海獣毛皮・鯨油ら良く好まれ、開市瞬にして品を盡せり。山靼より物交せしは綿・絹・金・銀・寶石・家畜・穀物ら多し。好みて黒龍江を船路とせしは倭冠の故なり。
漢は代々にして王朝を変裂し、前漢・後漢を經て一挙に魏・蜀・呉に裂朝しける。魏・蜀亡びて西晋興り、呉亡びて北魏興りぬ。西晋亡びて東晋興り、東晋亡びて宋興りぬ。宋亡びて斉興り、斉亡びて梁興り、北魏亡びて西魏・東魏両立す。梁亡びて陳興りぬ。西魏・東魏亡びて北斉・北周起り、遂には陳・北周・北斉亡びて隨朝興るも、唐興りぬ。唐國亡びて後梁・契丹興り、後梁亡びて後唐興りき。後晋・後漢・後周・北宋興るも、金興りて契丹亡び、北宋亡びて南宋興り、蒙古興りて元と改むや金及び南宋亡びぬ。
かくある支那にあるとき、倭冠と元冠起りき世なり。
吾が丑寅日本にては安東船興り、千島・流鬼・渡島・山靼・揚州を廻船せり。時に揚州廻船の安東船、能く倭冠に襲はるありて遂には討物・船武者を同乘せしむに到りぬ。元冠を起せし因をなせるは倭冠の故なるを、倭史に一行の記なかりける。丑寅日本國にては凶作の援助に山靼軍兵糧を戴きて救済さるる證とては寺社佛閣にチンギスハン及びマルコポーロの像、今に遺りたる事實なり。倭史にして是を秘せども史實なり。
寛政五年八月二日
磯野仁兵衛
右、山靼廻船史より㝍す。
二、
安東船を以て北海を廻りたるは千島・常白夜國・佐賀利伊島・山靼國・髙麗・支那揚州なり。山靼・髙麗・支那の國は元國と相成りてフビライハンに掌据されぬ。黄河の次なる大河長江の揚州にてはローマベニスの商人マルコポオロ知事と相成りて安東船を特なる交易に許したり。黄河に續く運河さえも通行を許したり。
安東船廻船目録に曰く、
奥州十三湊造船場
夫奧州十三湊造船場、在州崎前泻。十三湊明神通・濱梨小路・倉通。板橋艀繫五處、在造船場、船鍛治・木挽職、船大工・綱屋・桶屋・帆織・炭屋・油屋・鎧師・研師・呉服屋・米屋、為軒連、云々。
安東船の造船にては平川なる藤崎にてもその工跡ありぬ。木挽・舟場・掘割など地名に遺るはその故なり。基本なる安東船造法は船底箱型・半圓型・圓角型・翼型四種になるは船大工土崎図帳に遺れり。
寛政六年七月一日
秋田屋清吉
三、
修験道にては三身卽一身と曰ふ意趣を山と曰ふ字に説きぬ。卽ち三立を川と書き、その底を一に結ぶるに三立の中央を天と説き、その左右を地水に説きぬ。佛法に曰はしむる三身とは法・報・應之三身にして、これを修験道の始祖役小角は摩訶または金剛と説きぬ。
倭國にては物部氏の國神・蘇我氏の佛法その崇拝を巡りて、朝庭は勢政權謀術數以て爭ふこと久しく、物部氏の滅勢は上宮太子の宣断に敗るゝも、尚以てその神佛を挙してやまず。茲に倭葛城上郡茅原郷の行者役小角、世に神佛は本地垂迹にして信仰の意趣に変らずと渡来佛教の因果を断って、神道の盲信をも改め茲に金剛藏王權現の忿怒尊を感得なさしめたり。生死輪廻の三界も天地水の理りに何事の信行に異りぞなかりき。是、法報應三身は卽一身の故なり。神佛は人の安心立命を導く信仰の救導。自からの求道に神佛ありけるも、徒らに諸行諸法あり。何れもその正法なる本地垂跡・陰と陽・生と死・若と老・雌と雄・色と空・右と左・上と下・貧と富、人の生涯・四門の運命ぞ同じかるなし。生れ育み老て死す生涯のしるべは、生々に知る由もなき運命なり。
古代外濱なる大濱の郷に、安日彦王宮殿を築きて日本國を開き、中山石塔山にて王位を荒覇吐神に誓して卽位なさしめたる世より、役小角が此の國に来るを餘言せる宣言ありぬ。
降りての世に此の地に聖者来りぬ。萬里の山海を越え山靼の地より、亦倭の國より来るは會者定離の理りを衆に説きける聖者なり。吾らが子孫、是れに化度されし大悟を得んや、
と遺せし言の葉を宮殿の髙棲に立って衆に告げたりと曰ふ。その宮跡ぞ外濱なる大濱にて、地語にては山内または入内とも稱すなり。東日流にて宮跡ぞ多く大根子・三輪・神丘・璤瑠澗・巌鬼山・相内・山内・入内・梵場山・阿闍羅山・石塔山・石神らにその跡ぞ、今に遺りぬ。
寛政二年八月一日
蠣崎甚悟
四、
荒覇吐五王の一人、四丑之阿弖流為あり。日本將軍・安倍國東の四天王たり。延暦二年。安倍國東、國領を武藏に擴めその住居を移したり。依て膽澤の住居を四丑之阿弖流為に留守居に任じ、その知行を委せたり。陸奥の擴領を委せたるは阿弖流為の他、磐井母禮・飽田鬼振・閉伊悟理貴・庄内勘太・黒川賴貴・磐城松蟲等なり。是を束ねたるは阿弖流為なり。常にして坂東にありき日本將軍安倍國東のもと、荒覇吐王たるの指揮に依りて知行せり。依て安倍氏とのかゝはり多く存在す。
阿弖流為を今に祀るは坂東及び奥州の鹿島神社・香取神社・荒覇吐神社に祀祭さる由は、倭朝の奸計に依りて、坂上田村麻呂をして朝賜ありとて京に上洛をすゝめ、その郎黨五百八十六人。主なる阿弖流為及び母禮を宮中參召とて郎黨より離しめ捕へて斬首し、河内の社山に殘りし郎黨もことごとく討取り朝威を衆に示したる非道に、阿修羅の恨靈とぞなりて京に疫病流り、かゝる画策をせし公郷の者多く死せるより、この恨靈を鎭ませる祈願の神を卜部に鹿島・香取・荒覇吐の三社に首像を造りて鎭めたりと曰ふ。日本將軍・安倍國東、怒りて奥州に在りき倭人を追放し、國領を安倍川より糸魚川までに堺を復してかまえたり。
倭史に記行一切、是の史實を非し、記行一切を秘したるは康平五年の後にして安倍一族亡びての後なりと曰ふ。古事記・日本書紀なる元本なかりけるは、是の故なり。倭史に曰ふ巣伏の戦にて田村麻呂に降りたる史實は、なかりけるなり。亦田村麻呂の奥州にての合戦ぞ、露もなかりき。
元禄六年二月七日
膽澤玄之介
五、
〽田村麻呂
阿弖流為母禮を
京に召し
非道誅滅
恨みは不滅
〽社山の
討たれし數は
素手向ふ
死になるまでも
降る者なし
倭朝の奸策に殺されたる阿弖流為の従卆三百人、母禮の従卆二百八十六人。ことごとく殉ぜり。阿弖流為・母禮もまた捕はれて斬首され、百度び生を世に甦えして此の恨みを倭朝に報復せんと天に叫びたり。時に荒覇吐神それに答ふるが如く雷音稻妻を以て降りぬ。
寛政二年八月七日
及川清三郎
六、
倭史に曰く、倭將・古佐美、延暦八年倭軍五萬三千人、膽澤に於て阿弖流為に敗滅せるとは夷反作説なり。征夷大將軍たる坂上田村麻呂の奥州に進駐せるは、佛法の弘布とて坂東武藏に在りし日本將軍安倍國治(東とも書く)への屆に許在るべくを四丑阿弖流為より請在りて、國治是を許しと語部録に記在りぬ。田村麻呂、奥州に入りたるに討物挙しては坂東にて日本將軍の許に在らず。強行せば坂東にて應戦免がるゝなし。
田村麻呂、奥州に在住せる倭人の伴ふ者は寺大工及び佛師・僧侶・織部・鍛治・薬師・卜部らのたぐいにて、防人少かに五百人たり。その駐留を多賀に許しその驛駐とて奥州・羽州に駐宿の建物を許たる處ぞ築柵とて、さも蝦夷征伐なるが如く倭史に遺りぬ。安倍氏との留期の約限至りて田村麻呂、膽澤にて阿弖流為及び母禮と宴し冠十二階の賜使を進むれば、世に和睦程大事なるはなしと坂東の日本將軍安倍氏の許を得て上洛せり。萬一の変を警護とて阿弖流為配下三百人・母禮配下二百八十六人を従へたり。
時に延暦二十二年夏上洛せり。田村麻呂、阿弖流為を先づ以て河内の社山に駐宿せしめ十日の間を美味地走し、阿弖流為・母禮の信を得たり。朝宮參上に警護あるべくは禮儀に反くとてさとしたれば、社山より京に入りぬ。田村麻呂、倶に神社・佛寺を遊脚に見巡り、京に入りて一宿をせしむ夜半に倭の防人は討物挙げて阿弖流為及び母禮を捕縄し、京に生さらし倭人の見物とせし後斬首せり。同期にして討手三千を挙し、河内の社山に殘りし配下を不意に襲ふて皆殺せし非道に。九死に一生を得て脱走せし磐井無津加里と稱せる阿弖流為の臣他三人、京師にさらさる阿弖流為及び母禮の首級を奪ひて急挙坂東に走りて、鹿鳥神社に在りき日本將軍・安倍國治に屆け告げたり。
かかる事の由を聞きて大いに怒り、その首級を鹿島神社に葬むりて、奥州に在りき倭人をことごとく追放し、日本領を更に東に西に押詰めて東・安倍川より西・糸魚川に至る地峽を日本領とて堺をなせり。倭朝奸策に怒れるは安倍氏耳ならず。田村麻呂も亦怒りて官位を辭したり。坂東及び奥州より貢なき倭朝、大いに貧しかると曰ふ。依て倭朝代々に坂東を押領しけるも、將門の乱・前九年之役と奥に侵乱せり。
寶永二年二月一日
大伴國繁
七、
河内國社山の慘事に殉ぜし陸奥人之候は、倭朝こぞりて奸策せし事に決し候者也。その報復怖れて、坂上田村麻呂を再任候へて陸奥に赴かしむを詔を以て召せども、田村麻呂是を辭し候。和睦之條を破り候耳ならず、荒覇吐五王たるを討し候事は、倭に依りて罪無きを誅せられ候事實なりせば、坂東の日本將軍覚へて安倍川より越の糸魚川に長蛇の陣にその要處に楯垣・逆茂木を施し候。亦北湊の軍船、鹿島及び砂泻の津に集い候。今、倭朝挙げて應戦に覚へ候も對して叶はざる挙兵に候也。依て今暫し日本將軍に忿怒を招く兆を禁じ候者也、と朝議之候是の如し。
應永二年正月二日
物部幽斉
八、
阿弖流為及母禮之祖は山靼人なり。彼の祖は興安嶺満達に候へて騎馬首領たり。日本將軍・安倍安國に依りて歸化相成り一族百四十人・老若男女、羽に渡り陸奧人と相成り候。爾来、安倍氏の臣とて騎馬軍師たり。
元和元年七月一日
成田義一
九、
阿弖流為軍鑑
- 櫻河磐具驛 磐井土基
- 羽田大萬柵巣丑 大公多岐志利
- 田茂亞吐呂井 阿弖流為
- 男女川七清水 伊治公津加奴
- 北鵜貴大林范台 金車流奴
- 江刺巌堂柵丑寅 母禮髙丸
- 膽澤川羽黒台四丑 大貴利大髙丸
- 日髙見川澤尻 森加美彦
- 衣川江刺子柵 安倍継重
- 米澤内牛子 清原吐部
- 江尻子和賀丘 津奴多美
- 伊津沼太媛迫 及川多民奴
- 伊具津保化山 玄武東日流丸
- 飽多髙清水 尾野津部奴
- 生保内石津 小鴉津化丸
- 荷薩體安日山鍋越 大津奴彦
- 閉伊魹崎十二神 荒覇吐丸
右者阿弖流為幕下諸將也。挙兵相成都度皆勇猛其數併二萬三千人也。
正平二年五月廿日
成瀨權藏
十
古き世に外濱なる大濱・山内の郷ありて津母化族集落あり。山海の幸に安住たり。荒覇吐神を信仰に渡らしめたる山靼の化度あり。上磯十三湊・神威丘と倶に栄營たり。糠部にては是川に大集落あり。倶に往来せり。怒干怒布濱より善知鳥濱に至るを津母と稱したり。依て住むる民を津母化族と稱し、東日流下磯に住むる者を阿曽部族と稱すは岩木山の古稱・阿曽部山なる故に付名さるものなり。古きより渡くる山靼の化によりて、奥陸より西南に人移り住みて満てり。信仰にては荒覇吐神そ唯一に統一せり。
寶暦二年四月七日
江羅要介
十一
泰平なる奥州を防人を卆ひて侵略せるは倭軍の常にして、その進軍になる道筋になる民家の財を掠め、女人を犯し、反きし者を慘殺し、依て應戦のやむなく倭軍を討って、夷反とて征夷の口實と相成りぬ。奥州三十八年の乱とてかくして起りたるも、官軍常に東日流を犯したることなきは、阿部比羅夫なる船師に敗れたる無く再度の攻めも敗退せる故因にありぬ。倭史にても東日流の夷蝦は勢あり屈強たりとて記逑に遺りぬ。
寛政五年七月十日
飯田正文
十二、
奥州に遺るゝ世々の暦史の實をさまたげ、倭史に記の多く遺るは、化外のまつろわざる蝦夷とて下賤に記逑ある耳なり。古よりの國號までも奪稱せる日本國たるは、もとより吾等が丑寅の國號なり。倭國は奥州の泰平を侵犯せし國盗の輩とて過言のあるまず。犯略に防ぎけるを夷蝦の反乱とて、その罪を正統に理曲せる征夷たるの行為ぞ忿怒やるかたなき遺恨なり。敵はざれば、奸策に討つ。夷蝦は夷蝦を以て討つとの謀策。その權謀術數の奸計ぞ阿弖流為及び母禮の如く、亦出羽の清原一族の日本將軍安倍賴良に反忠せる過却あり。
是を正統たる讃美に史談を作偽して遺したるは、倭史の本来なる奥州への今に至るる史傳たり。永らへば偽も正傳たるの末代になるを断ぜんとて、奥州に遺りき語部録ありてその古事、秘に遺りたり。語部録とは古代に於て吾が丑寅日本國に通用せし文字にて、山靼諸國の渡来傳法たり。今に用ふるめくら暦と稱さるはその名残なれども、古来なる語部文字なるはなかりけり。語部文字の書法に五行ありて、その總てを覚らざれば事の解讀は難し。
寛永十年八月一日
奧寺早苗
十三、
宇曽利の玄武に波洗の奇岩あり。古より是を海神とて秘境たり。宇曽利山を靈場とせし圓仁坊、是に尋ねて奥坊とし神佛のなりませる聖地とて詠ぜり。
〽洗磯の
岩立つ北に
立つ波の
神と佛は
おはしますける
天然の造り給ひる奇岩の相や、神とも佛とも見ゆ數々の巨巌に見取れて、夏の涼に地人はあらはばきかむいとて訪れる聖地なれば世に知る人もなく、濱の辺におおよの巨魚住泳せるを見る。北極星の冴えて見ゆ北斗の靈地にて渡島・東日流に通ふ舟のしきりなり。安倍富忠と曰ふ地領主ありき世に、是處に八幡太郎を招じて宴せるとき、玄武の海峽に龍巻上り襲い来るを八幡太郎手束弓とりて箭を射たれば彼の龍巻、霧と消えたりと曰ふ。今に遺る箭射の邑は、かくして名付たる處なりと曰ふ。
文久二年十月二日
川越豊太郎
十四、
宇曽利は地湧湯多き郷なり。猿・鹿の群、人を怖れず。古きより是を狩るなく、宇曽利山の神の使者と大事とせり。死して魂のたどる宇曽利山は恐山とも稱し、圓仁坊が地藏の西院堂を建立してより人の參拝しきりにて、今に尚盛んなる夏の風物詩たり。イタコと稱す靈媒、死者の言葉を傳ふる習へ是あり。人はこぞりて亡き人の靈告を聞きて、涙乍らにイタコの靈媒に泣く。イタコの發祥は東日流にて、十三千坊の唐崎に古来す。享保の頃、川倉に移りて今に遺りぬ。
寛政二年七月十三日
青山太郎
十五、
糠部の是川・上曽の宇鐡・中山の石塔山・大濱の三内・璤瑠澗の神丘・十腰内の石神・鼻輪の大森及び三輪・平架の大根子。古代なる人住の跡なり。その跡ぞ地中より古なる器片多く今に鍬に當りて掘らるありぬ。古に栄ある歴史の證なるを知るべし。
天明二年五月二日
蠣崎覧興
十六
糠部より宇曽利・東日流下磯より上磯・合浦より外濱。古人の人跡なる遺跡ぞ多し。地語・地稱にて知らるは下磯・大森・三輪・大浦・稻架・汗石・忿茶木・板之木・平加。上磯にては十腰内・神威丘・石化美・十三・相内・尾別ぞ要たり。合浦外濱にては宇鐡・今別・後泻・大濱・奥内・三内・入内・孫内・安泻・宇濤・髙森・内萬部ら要たり。糠部にては名久井・多南部・怒干怒布・相内・是皮・戸来・澗別。宇曽利にては大間・佐江・皮内ら。古代なる人跡ぞかしこに存在せるなり。神を祀りき跡ありきも、是ぞ特にて人住に離れき處に築き、神なるは石神亦は大樹にスササンを設したり。
東日流にては火の神ホゴチ。水の神ガコ・シガマ・イガリ・シラシゲら水の一切を四神にて、木の神ホゲ・ジンタヅ・ヌイ・ジヤラ・カポシの五神たり。天の神イシカ・地の神ホノリは一稱たり。イシカの神を祀る人住の處にては大柱を髙樓に築きて神司せり。ホノリの神を祀るは海辺に長圓の石を圓裂建立なしてヌササンとせり。ヌササンとは祭壇と曰ふ意趣なり。聖地に建立されたるは日輪門・七星石・北極星石の石神築き、更にして塔石築きぬ。
語部録に記ありて左図の如し。
享保二年六月一日
帶川祐介
十七
東日流中山の東西に續く山海の古代なる歴史に説くは、まさに筆舌に難し。倭史に在りき丑寅の史傳に於ては無史の史除にありきも、丑寅日本國こそ太古の有史に實在す。人の史は進化に過却し智惠を得たり。宇宙創造のカオスの聖爆より日・月・星の誕生相成れり。その一星なる地球星に生々萬物海に生を發祥し、陸に生域を擴め、萬物の中より人と進化せし各々民族その居住を擴めたり。吾が寅日本國ぞ海よりいでたる國なり。
依てその證なるは鯨骨、貝殼の山に出づるを見つるありぬ。古人の住むる處ぞ海辺・河辺・山中湖辺と水の在りき處に住めり。人の住みける處に神處あり。ポロチャシあり。榮枯の住替ありぬ。常にして天変地異あり。人の移住、新天地への安住に萬里も越ゆなり。人の智惠なるは宇宙の運行に極め暦を知り、衣・糧・住を改良し、以て衆をなしてはその安住に長久せり。東日流・糠部の地にその古期を知るべくの史實證をその遺跡に存在す。丑寅日本の國は倭國を超越せる歴史の深き國土なり。
語部録に曰く、
寛永二年五月廿日
帶川祐ヱ門
十八、
丑寅日本國は東日流を日本中央とせるは玄武の方に國ありて渡島・千島・樺太・山靼と續く大國ありて古代より往来を能くす。山靼の民族多種なれども、こぞりてクリルタイ及びナアダムの集ありて世情を知り民族商流せり。西に進みたる國々あり。スキタイ・トルコ・ギリシア・エスライル・アラビア・メソポタミア・エジプトらありぬ。是をオリエントと曰ふ。信仰にては古代なる神々の傳多きも、今にして一人の信者ぞなかりき。吾が國への道はアルタイ・モンゴル・黒龍江・樺太・渡島を經て来たるなり。古来より商易、山靼各商人の来たるるは倭史の知る處に非ず。ただ化外の蝦夷とて無史、非人の愚民たるの記行ある耳にて、ただ征夷の作説にありぬ。
抑々丑寅日本國はもとより倭國とは國の創より年代の古きに先進す。日本國たるの國號の發祥たり。語部録に傳へて遺るは、坂東より丑寅の國は日本國にて、安倍川境より西にあるべくは倭國なり。三禮四拍一禮の拝禮に祀らるは丑寅日本國の國神。荒覇吐神を以て信仰の一統とし、代々その心得たる王國たりぬ。阿蘇部族・津保化族・熟族・麁族・耶靡堆族の五族を以て成れる丑寅日本國の古族の歴史にかんがみては古になる事、七萬年に及ぶと曰ふなり。
文政二年八月廿日
堺屋十兵衛
十九、
奥州日之本之國は太古より國を開き、山靼王國に習ひて民の睦を以て安住を長久ならしめたり。民をして衣食住の安泰に、國主自からも信仰に於て民と倶に在り荒覇吐神を崇拝し、一汁一菜も分つ民の睦を常とし狩猟に漁撈に糧を流通せしめ、山靼との商易に海を道とせり。古代より船師あり。日本中央に湊を開き、その流通と海産に富を得る一義とて干物加工に極め、保存の長久あるべく商品に相工夫せるを以て萬里の山靼に通商を叶ふたり。なかんずく海獣の毛皮・鷲羽根・鷹羽根・産金・産馬にて自ら益を得たり。古代より阿蘇部族・津保化族・熟族・麁族・耶靡堆族の併合にて一統民族となりしかば、その信仰に於ても崇拝は倭に越えて擴まりぬ。
抑々荒覇吐神なる信仰に發祥せるは古代西山靼のシュメイル國先住民たるカルデア民族なる信仰にて起れるものなれば、渡来萬里を經て来たるものなり。天竺にてはシブア・支那にては饕餮・ギリシアにてはカオス・エジプトにてはアメンラア・モンゴルにてはブルハン・吾が國にてはイシカホノリガコカムイなり。アラとは宇宙にして、ハバキとは地水なり。依て是、陰陽神とも男神女神とも説く。是を世に遺したるは古代シュメイルの先住民の王たるグデア。次なるはメソポタミア王ギルガメシュにして、アラハバキルガルと世に傳へしものなり。
享保二年七月三日
物部豊彦
二十、
津保化族のヌササンは海辺の潮洗なる玉石を圓に列石し一重尚二重・三重までも輪置す。その中央にイシカ。二重にホノリ。三重にガコのカムイを祀りぬ。亦巨石を四方角に刻りて三神石神とせるもあり。亦神型を造りてカムイノミにて焼きつ神像をチセの神とせり。唱ふるは一向にしてアラハバキイシカホノリガコカムイとくりかえしたり。
仰ぎて神秘なる宇宙の日月星。その運行にて起る四季の訪れ。風雲・寒暖の雨雪を陰陽にして起れる候の風土として大地にもたらせるはイシカにして、地水に起る津浪・龍巻・洪水や地震・噴火の怖れをホノリガコにしてカムイと崇拝し、ヌササンを造りてイオマンテのカムイノミを焚き、神を鎭ませるは太古よりの傳統なり。加へてゴミソ・オシラ・イタコの靈媒と占を以て神事ありき。常にチセに集いて行ず。神信仰は睦にして和なり。
寛政三年六月廿日
伊東四郎
廿一、
みちのく歌集
全歌よみ人知らず
〽くれなゐに
山みな染むる
みちのくの
はてはありける
東日流の上磯
〽夜もすがら
白河越ゆる
夏旅の
暑きを避くる
人の道行き
〽松風に
神明佛陀
聲と聞き
我が老暮れの
山路に分つ
〽外の濱
中山雲に
浮べつゝ
いかにいはんや
末引きしをる
〽あれはとも
八雲をさきとし
千早振る
草木國土
常はさむらふ
〽山のかひ
ゆくへも知らぬ
雲満てり
面もふらずに
心そらなる
〽花すかず
紫染むる
山草の
げにも盡きぬは
因果は見えず
〽むつかしや
つれづれもなき
雨あしべ
隠れて住める
世にある様を
〽わたつみの
濱の眞砂は
洗はるゝ
上磯の十三に
船待つ妹背
〽中山の
神立つ石を
苔落し
げにや祈りつ
荒覇吐神
〽夜のとばり
しばし枕に
寝もやらず
かねこと想ふ
云ひもあへねば
〽あからさま
殘花を亂す
山颪
春は逝きける
をちこちの里
〽うきながら
罪には沈む
世々毎の
生きてある身は
常に首枷
〽名にし負ふ
衣の舘の
關さゝで
夕映えとばる
月山の峯
〽風逐つて
眼晴破る
白刃の
骨をも砕く
長刀の轉
〽くつばみを
ゆるべて引きて
矢叫びを
當りに避ける
安倍の騎馬武者
〽朧月
波も音なき
外ヶ濱
東日流中山
風もうつろふ
〽水鳥の
早くも知るや
發ぬ日を
水に羽討つて
北空に飛ぶ
〽日髙河
螢に亂る
岸咲きの
白百合幽か
うらさび灯る
〽いづくあれ
鹽竈浦の
昇の月
風もくれゆく
海の波影
〽汐曇り
安東船の
征くてには
潮路にはるけき
追風に速し
〽安日山の
あらかね髙嶺
猿澤の
祀りき神は
荒覇吐神
〽みちのくの
弓馬の騒ぎ
年ふれば
實に隠して
歴史造らる
〽渡島海
すなどり船の
いさり灯に
うろくづ大漁
漕手たくまし
〽八重の潮
海道走る
安東の
船に印の
荒覇吐神
〽日之本の
𩗗風敷波
こりもせで
安東船は
十三に帆あぐる
〽鳴る神の
肝膽砕く
海の荒れ
魍魎も怖れぬ
安東船師
〽愚痴者は
山靼行も
除外なり
萬里にたゆる
心身ならず
〽我力には
十惡八邪
破れずと
石塔山に
懸けて積つゝ
〽さかしとも
罪に除つる
法力の
めでたき處
東日流中山
〽こつじきは
神代を造り
目こそ闇
日之本名つき
雲居飾らむ
〽打物に
日之本國を
討つ重ね
倭國の歴史
實に相無き
〽おぼつかな
陸奥紙に書かる
事をみな
焼きて失くせる
賴義あわれ
右何れも詠人知らざる歌に集したり。
寛文二年一月一日
木村義治
廿二、
北極星の不動なる週を貧狼・巨文・禄存・文曲・康貞・武曲・破軍の七星卽ち北斗星を神として祀るは荒覇吐神信仰の一義なり。併せて日輪をめぐる木火土金水の五星。是れに月・計都・羅喉・地球を加へ、曜星を祀るは古来の習なり。是れ總てをイシカカムイと曰ふ。大地の神とてホノリカムイあり。大地にある一切を神とし、水なるガコカムイと倶に生々萬物生命の尊重を以て信仰を要とせり。一日の生命を保つは他生の生命を糧とせずして保たるなかりき。
生々萬物一切は大地を母體とし、その胎なる水なくして生命ぞなかりき。依て父なる日輪の光熱にて萬物は成長しける。その生命みな乍ら天地水卽ちイシカホノリガコカムイに依りて成れるものなれば、その生命を糧として生きる己が生々に萬物の犠牲あるを朝な夕なに瞑想し、神への惠に感應して拝しべし。荒覇吐神への信仰とは是の如く生命の理りをわきまふるを要とし、生命を尊重せる眞理に求道して成れる信仰なり。
寛政五年一月一日
和田壱岐
廿三、
東日流中山とは宇曽利と倶に北斗に角を突く本州の國末なり。いてつく冬の寒きにも野猿の群・馬の群に視らる幸の國たり。太古なる史跡の多く、日本國たる開闢の發祥地たり。阿蘇部族・津保化族の居住せる太古より、遠けく山靼と往来し茲にその遺光を遺し子々孫々に歴史を傳ふるも、西に倭國興りてより丑寅に侵犯して古事傳統も彼の勢風に汚されたり。かゝる歴史の曲折を實なる傳稱に遺すは、丑寅日本國に居住せる民の責務なり。蝦夷とは何事ぞ。倭勢侵犯の付名なり。丑寅日本の國こそ誠の日本國にして、蝦夷とはいわれなき汚名なり。
文政二年四月七日
奥田勘介
廿四、
我老たりとて諸事を諦むものは、尚生命の理りに反くものなり。人の一生、命脈の限り人生を尊重し尚以て精進せるこそ、人とて生れたるの生方なり。もとより生命は神より預かりしものにして、魂の衣なるは身體なり。魂は眠りても身體は常に脈をやむ事なし。かゝる生命の尊ときを我がまゝに生々し、神への感謝是無きものは、魂の再来その生を異にして来世に生ると曰ふは古来より傳らる理りなり。人の一生様々にあれども、死は必至なり。生々の間、富にあれ・權にあれ・貧にあれ・學にあれ、死しては何事も伴ふなし。
世に生々せるは安からず。常にして他生の者と、善生・惡生に障りありぬ。人生に於てその交りに欠くことならず。己れのまゝならざるも、人生なり。生々若きにては明日ありと望みに満れども、老ては死への怖れあり。救済を神佛に巡りて心を慰やしとも、死の際に一刻と近く、離るはなし。人生とは己が慾望に尚限りなく、他人をおとしめて下敷とせるは三世に盡るなし。人生をさとせる神佛を以て職とせる者でさえその極りて外るなし。依て能く心を磨くべし。
大正六年七月一日
和田末吉
廿五、
北斗抄は先代より手書されたる帳面より写せるものなり。加へては新聞・諸書・聞書にて、本巻は成れり。失なはれゆく諸傳を遺すは、祖父来の遺言たる故なり。
年毎に眼は遠く、字書の勞もまゝならず。灯明・紙代に費に、貧しては尚亦心に暗けれども、人の情また是あり。古帳の寄附あり。我を訪れて古話を傳ふものあり。一日とて筆の執らざるなし。有難し、實に有難し。近頃にして食も美味に感じ、健康にして筆とりぬ。久しくして東京に赴き、秋田様及び崩友に生ある内に遇ふる心算なり。先代より、代々に世襲の科に遁じ公史に圧せられたる眞實の丑寅日本史を諸處に訪れ、今に綴り、數ふるに一千八百六十巻に成れり。是れを子孫に賴みける他なく、他見に及しては罪科に問はるあり。
林子平の二の前に成るは必如なり。依て我が死後に於ては、石塔山洞または家天井に秘藏を申付たり。更に用心し戸籍をも迷宮にして和田一族の系譜も明治の以前を散々にせしも、策たり。松島の和田・中里の和田・秋田の和田家。本来の一切を迷宮にせしも、官罰免がる策なり。和田姓を嶋谷勝太郎に赦したるも、是くなる由にありぬ。然るにや、勝太郎に野心あり。要戒しべし。何事も秘を探られず石塔山洞に古なる遺品を藏し、宗家を以外に明しべからざるを、茲に我が遺言とて書置くものなり。
大正六年七月一日
和田家四十六代
和田末吉
和田末吉