北斗抄 十一


(明治写本)

注言

此の書は他見無用、門外不出と心得よ。世襲至らば、必らず要を為す大事たる書導と成らん。一巻の失書なく大事に藏しべし。

秋田孝季

諸翁聞取帳 一、

日進月歩。海の外なる國なる進歩は鎖國の朝幕政を越えにして、開化の差を隔て是の舊政改めなくば、世界列國におくる耳ならず先進の國に奪國の憂を招きぬ。今に民の暴起あらんは、朝幕政を以ての定法耳にして制へ難き世とならん。民の目・耳・口を閉ぎただ従政に自由なくば、尚以て革命の期速すは明らかなり。

北にオロシヤ、東海にメリケン。南海にイギリス・フランスの黒船の接近。此の國なる開港・北方領土の境を侵しなん危急にありなんは、尚國乱を招きぬ。今ぞ舊来の陋習を改革し、世界の進歩に睦み、文明の挙革國策、世界先進の列國に等しく追進を要す政事ぞ挙國一致に謀るべき時なり。亦、造史の國史を以て民を洗脳し、神代を史頭とせしにや。

吾が東北にありきを蝦夷と稱し、國を化外とて、住むる民をまつろわぬ蝦夷民と、征夷の官位、未だ朝廷の官式とて時の幕府將軍に賜授あるは、まさに吾等東北民をして忿怒やるかたもなし。日本國とは古代東北の國號なり。亦、荒覇吐神を國神とせし國主の存せる國たりぬ。

古代より山靼及びオリエントの商易を交はり、クリルタイの參列國たり。康平五年を一期に日本將軍は丑寅に消ゆれども、不死身なる鷹の子孫にありけるぞめでたけれ。世界を知らざる井の蛙、いつまで續くぞ。今日も黒船煙り吐く。

嘉永六年十月一日
本田佐市郎

二、

東日流に安東氏あり。前九年の役にて討死せし、日本將軍厨川太夫安倍貞任の子息。安倍氏改め、安東髙星丸なり。康平五年、貞任の遺言に依りて、臣髙畑越中・菅野左京ら乳兒たる幼君を護りて東日流に落着し、藤崎城を築きて東日流六郡に君臨せり。外三郡上磯に十三湊を開き、天然に備はる此の湊に、渡島のエカシ・タユカエンと曰ふ水先に案内さるゝ唐船及び山靼船来船以来、異土への商易を創むれば大いに利益せり。

もとよりこの湊に異土船来たれるも、この地に先住せし白鳥八郎あり。商易を好まざる故に振はざるなり。白鳥八郎こと安東髙星丸の叔父たるも、年少かに六才に離る安倍白鳥八郎則任の事なり。安倍安國の代より此の奏をして山靼及び支那・髙麗・金國との交易ありせば、延暦の頃より開湊たり。此の地にてクリルタイをなせる、北方民族商易の古事にあり。支那にては古書にも知れるところなり。

依て唐書には、此の國を日本國と記行ありて遺り、倭國は別國とせり。
亦、語部録にても、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

是の如く明記せり。
かくある十三湊の隆興を起したるは安東髙星丸が長じてより成れり。唐船は揚州船多く、泉州船・廣州船・瑠求船の来舶もありき。市場せる品々には陶器多く織物も多し。亦、酒類多く、古き佛像あり。玉寶及びギヤマン珠あり、漢薬亦多し。白米、菜物漬。鍛治物にては百種に及べり。毛皮着亦多く、珍しきは虎皮・豹皮ありてこれ敷物に造りたり。

吾が國より積むるは干物多く、昆布・するめ・干物ほや・なまこ・ほたて・あわび・わかめ・鮭・鰊・鮫のひれ・らっこ毛皮・海産鹽漬物など量に多し。かくあるなかに往来の多きは山靼船の船團、常に来舶あり。髙麗船またその往来を多くせり。依て十三湊にては唐崎・紅毛崎ありて、留船宿をなせり。

十三湊に住むる人六萬人にしてそれをまかなふるは、岩木川を往来し川湊ぞ市とて、かしこに設したり。田茂木・鳴戸・髙瀬・湊・板野木・藤崎、六堤にして、平底なる川舟なり。平川の舟場、藤崎城外にありて日に二往復を十三湊より往来せり。依て岩木川を往来川とも稱したり。

寛政五年四月十一日
加藤義治

三、

奥州は古来より日本國たるの國號を倭國に奪はれ、蝦夷と曰ふ下賎の名に貶しめられるまゝ今に至る、尚以ての蝦夷國なり。諸々の栄ある歴史もその實證を抹消され、古より遺るるものは書證を焼き遺跡は破壊され、遺寶は掠め奪はらるること康平五年より今に續きたり。代々以て浮ぶるせもなき貢税に、民は貧困のきわみ未だに安らぎぞなし。

歴史は屈折され化外のまつろわざる蝦夷とて、征夷大將軍挙てその官位は今に受継がる朝幕の仕組なり。何を怖れてか北辰を窮貧無能に制ふる。才學の者を断じ、國論も速坐に出芽を欠きて弾圧す。然るに奥州は耐えて愢ぶるも、やがてはかゝる世襲も打砕かん世の當来に起ん日の近きを知りぬ。倭史に習ふる夢幻の想定なる神代なぞ信じるに足らん。神をして歴史の實證とせるは、竹に木を継ぐが如し。

茲に奥州の史を以て、倭史の屈折を破らん。抑々吾が丑寅日本國の創りは、倭をはるかに越ゆる上にありぬ。人の渡来・衣食住の進歩・石刃より鐡刃になるる採鑛になるは倭國の及ばざる開化に先んぜり。西北山靼の地より入れたる古代の生々ぞ、荒覇吐の神に奉ぜる信仰に安心立命し民平等に睦みたり。

人命を一義に重じその睦を重じたる故に、正意を突き誠を裏切り偽を以て為せる倭人の策略と奸計に侵略せる手段とて蝦夷は蝦夷を以て討つ征夷の戦謀に、永き丑寅日本國の傳統は破られたり。然るに如何なる手段に丑寅日本國を侵占に為せども、子孫の血に累代せるはその心底までは如何に洗脳せども是を掌据は難きなり。

慶應元年七月五日
木村良善

四、

語部録譯文

艮日本國王、民を重んじて傾國を思ひ、學聖を求む。御宇、多年に及ぶるも得られず、自ら以て渡島・流鬼・山靼に巡りぬ。極寒の至らざるに、水精ブルハン湖にまかりぬ。アルタイ草原に廣きシキタイ民の馬群に暮せる草追の民、騎馬民たり。

古き世に山靼北方にその威をなせる勇猛にして無敵たる騎馬民にて、オリエントに起れる戦遁の難民を援け東方に安住を導きたり。原民シュメイル人を吾が丑寅日本國に導きたるも、彼のシキタイ民たり。是れなる道路を、荒覇吐道とぞ曰ふ。道とて無かりけるも、方位にして山川を目印したる耳を古代に道と曰ひり。彼の國を巡りたる吾が國の王を大根子彦と曰ふ。

倶になる者百五十人、開化の國を求め先づ以て裏海よりバグタランに至り、バクダットに至りぬ。この國こそ荒覇吐神發祥地たり。更にエスラエルエルサレムに至り、エジプトカイロに至り、ギリシアアテネ・オリンポス山を拝し、海路ウスクダルより黒海を經にしてシキタイ民國に入りアルタイに入りて、吾が國に歸りたり。凡そ二十年間なる旅にて、一人の死者なく歸りけるこそ、神の加護とて建つるは三輪邑石神なり。

右、語部録第六巻の一説なるも、地稱ぞ今稱に改むものなり。

天保二年十二月一日
大田傳七郎

〽いにしへも
  かくやあらむと
    枕ゆふ
  我がまだ知らぬ
   語部の史に

吾が丑寅日本の東日流のみに古き代より遺りける語部文字になる歴史の事は、いかでか代々の語部のみに傳へらる秘文字なり。その起元は古き古代先進國たるシュメイルの土版文字を加成ならしめたるものなり。

その筆法數種に及び、語部が各々累代に遺したるものなり。依て、語部録記逑にも幾種に分説の文字の異を見ゆなり。山靼人は何人たるや。その譯は紅毛人國に及ぶ壮大なるものなり。その由は語部六人が彼の國に同行なし、その記録に依れる秘傳たり。

以上五家を語氏と曰ふ。寛永十二年に語人を廢止とせしも、語りの記逑その譯を知らず召上るを免じたり。依て奥州の史になる實相ぞ、今に傳へ遺されたり。是ぞ幸にして諸史の大要と相成るこそよけれ。

寛政六年八月二日
帶川兵三郎

六、

上磯歌集

〽忘れ水
  十三の砂原
   はまなすの
  香るぞござれ
   海なぎに

〽砂山に
  濱昼顔の
   根は深く
  花のしがらみ
   風よぎて吹く

〽白波の
  七里長濱
   まさごなく
  霞む岩木の
   まだら雪見ゆ

〽見うずるに
  西の日和見
   みしはせの
  船を征かしむ
   聲な水先

〽鳥山に
  漕ぎ寄す投網
   銀鱗の
  船に溢れん
   鰊大漁

〽住みつかれ
  金井の里も
   濱つたえ
  安倍の城山
   古碑の群れ

〽鯵ヶ澤
  大和田崎の
   濱波を
  三十五反の
   帆張海征く

〽吹浦の
  濱添ふ奇岩
   洗い波
  夏はてん草
   冬は海苔採る

〽小泊の
  城に見あぐる
   めがね岩
  渚にもずく
   採るや苫舟

〽磯松の
  濱に拾ふは
   にしき石
  波の造れる
   寶珠なれ

〽飛ぶ鳥も
  翼打つ風
   強ければ
  龍飛の荒波
   唸りて荒ぶ

〽紅石の
  雨に流れて
   土も染む
  砂架の盛に
   べんがら採りぬ

七、

外濱歌集

〽蓬田の
  阿弥陀の川に
   流れきぬ
  金光坊は
   佛授かむ

〽尻八の
  城に秘めたる
   ものがたり
  吹くや濱風
   古宮の松

〽中山の
  靈峯通ふ
   切通し
  神のおはせる
   石塔懸に

〽油川
  泻を埋むる
   流れ土
  古々より野面
   今は稻田と

〽外濱に
  かけまく社も
   なけれども
  何をかおはす
   つぼの石文

外濱は上磯とも曰ふ。然るに昔より外濱と曰ふは通稱なり。此の濱に飛鳥山あり、耶馬臺城ありと曰ふ。大倉の麓に石垣の遺る史跡たり。かかる耶馬臺城亦飛鳥の地名遺れるは、外濱に何をかあらんや。

寛政七年十月廿日
相馬將之

八、

世の史書にも遺らざる密に閉ざされたる重要なる史實ありて、故意に抹消せしありぬ。奥陸羽にして長き三十年に相渡る戦あり。是を、ただ蝦夷の反乱とて記逑ある耳なり。蝦夷の反乱は反乱に非らず。いわれなき貢税を掠むが故の生々の護りなり。地を皇土とし、その税なりとて權威を討物にかけて民心を威すが故に起つるを、反乱と曰ふ。まして凶作に飢ゆときにてはこぞりて對しぬ。目には目を、歯には歯を。不断の弾圧、一挙に一揆す。民の、死を賭けたる生々ヘの訌なり。

丑寅の地は一年一作の農耕なれば保食、次年の種を残さずば飢餓に死ある耳なり。それを掠む如きあらば、討物には討物執りて護るは人心の常なり。丑寅日本にては皇土たるの化に従ふるなく、古代より日本將軍の他、主なかりきと心不動たり。まして東日流の地にては、安倍のあと安東氏を奉じて主とせり。國凶作なれば船商にて山靼及び支那の穀物を入れて飢えをまかなふるは常とせり。依て不断にして金銀を蓄積せり。民を一人とて餓死にせるなく、安日彦王の代より都々浦々に能く治政、相渡りぬ。

〽奥道の
  矢楯越ゆれば
   命なし
  東日流蝦夷は
   交り難し

かく古歌の遺れる東日流にては康平五年の後、安倍一族の滅亡より安東髙星丸が再興を果したり。日本將軍は不死鳥なりと十三湊に安東水軍を興し、北海の海王とて山靼との交りを能くし、一族の泰平は保たれり。

諸文書に遺れるは次の如くなり。

商にして信なくば益なし。常に信を欠くべからず。異土に交るは尚以て商法を要す。賣髙く買安けるは理想たるも、商人何れもかくありぬ。依て産者に品絶をなさざるの約を固く為すべきなり。産者の暮しを済して先づは信を得るべし。必ず約束事は果し、相互の實を挙ぐべし。

安東庶季

造船は朽木・古材を用ふべからず。船二重仕切りて沈没を防ぐべし。依て中仕切十二としべし。能く唐船に修得し構造究むべし。海航図を造り進路・隠巌・潮流を注しべし。

安東能季

山靼に交はるは毛皮を商して利益あり。物交にして尚良しとす。商の信を得るはクリルタイ亦はナアダムに招かれよ。施主と會はば禮を盡して貢を忘るべからず。欲する物を商ふべし。

安東尭季

流鬼島は吾が領島なり。依て住むる民をその生々に護るべし。地住民この島をサハリイと稱すも、以後以て樺太島と號し安東湊を以て山靼商人を招くべし。黒龍江を道として満達・モンゴルに商ふべし。西山靼に商ふるは来商と商ふべし。吾が商の市は、チタより西に往くべからず。道程に多費し、益なし。
右言付の事如件。

安東重秀

諸書是の如く遺りきに安東船なる商を知り得たり。茲に四度にも渉るモンゴル王支那を掌中にせるとき、サハリイに征軍行も安東領とて不可侵せるは、商易の故なり。

安東愛季

九、

地殻に戦無ければその泰平と見ゆむなかに權謀術數の見えざる闘爭ありて、復び戦乱を兆す。是れ歴史の餘多に占むる史實なり。人満れば生々窮し、戦起りぬ。生々安心立命にして、泰平たり。一國の主、己が愚断にて國を亡し民多く殉ぜしむ例ありせば、まさに一人の人間にて亡國殉民をいだし事ぞ、神への反きなり。亦、好みて戦端を起す輩も然りなりき。

人命は永き代々を以て累代せしものなれば、これを輕んずるは赦し難き生命の敵なり。非理法權天とは、かく為の戒めなり。能く心得て生々天寿を全うすべきは、神の御心に叶ふ一義なり。

寛政六年五月一日
戸田清賢

十、

文治五年七月十九日。鎌倉より二十萬騎、源賴朝の指揮のもと中山道・東海道・北陸道三軍に分けて奥州平泉討伐の兵を挙たり。一説にこの總勢、二十八萬八千騎とも曰はれる大軍にして八月七日より八日に阿津賀志山に陣を布し、藤原國衡がこれに應戦せり。然るに戦運、多勢に利あり。

國衡、平泉に退きたるも泰衡、事速く柳舘・猫淵舘・髙舘・衣川舘・寺社佛閣を己が手火にて灾けり。騒々たる民の遁走。紅蓮の炎に自から修羅地獄を画きたる藤原一族の断末魔。鎌倉勢の至るとき、旣にして平泉は焼土と化したる跡にしてその戦利、何物の得ることなかりき。

寛政五年七月二日
和田長三郎

十一、

奥州平泉の役にては世に傳ふ史實、まったく作為なり。満達國平泉記に依りては、

金國章宗帝・泰和甲子四年、日本平泉主藤原泰衡、此地入寂。蒙古世租帝中統壬戌年、源九郎義經、此地入寂せり。

と記逑ありぬ。卽ち是れぞ、義經傳説に渡島御神威崎より満達に渡るとの生存説に更に藤原泰衡の附したる生存説なり。

寛政六年十一月□日
遠野之住
工藤右京之介

十二、

生々萬物も久遠なる子孫の遺るは難し。宇宙の運行はときに寒冷暖暑をもたらし、地界の候を異変せるあり。此の候、耐生得難き生物は久遠に甦ることなかりき。依て萬物のなかに、獣にありながら空飛ぶもの、鳥にありながら翼なきものの體生進化ありぬ。海より陸に生長せし鯨の如きは、獣より魚型に歸海生息せしもその故なり。生々萬物常に同く見えども、年々體の仕組を天地水の候に合せて変化をせしは人體をしても同じなり。

天地創造より水生に一種の生物菌生じその風土に併せて適生進化をせしは、その地に適生せる生物を風土の異なる域に移しとも生を絶ふるはその故なり。地球の南北なる地軸は寒冷にして、東西は日輪の赤道・黄道をして候を訪れむ。卽ち、春夏秋冬はこの故に生じぬ。

抑々宇宙の創りは無にして、暗と冷になる物質なき無時元より、一点の起爆あり。これをカオスの聖火と曰ふ。聖火、暗を焼き、諸々の日月星を造り、果てなく宇宙を擴げたり。然るに暗冷残り、それなる暗黒より星をまた造りぬ。是をカオスの復生と曰ふ。星は暗黒を母體として生るなり。星にも生死あり。巨光を放って宇宙雲と消し暗黒界に葬じ、然して亦生るなり。是れをカオスの轉生と曰ふなり。

宇宙も亦同じく見えて同じからず。永きに渡りて星坐の間を擴むあり。星の類に恒星・惑星・衛星・流星・慧星・準星・星雲・暗黒星ありぬ。日輪の如き星ぞ宇宙をして限りなく存在せり。ただその距離に隔てるが故なり。地球は日輪と距離に適當して、水陸の表面さながら生物を生ましめたり。なかんずく生々萬物の中に人間を進化成長せしめたるは、天地水の合成に誕生せしめたるものなり。

然るに人間とて何時まで生々累代を保つかは宇宙の運行に掌据されたるを知るべし。神をして成れるものと信じるは愚考なり。人をして如何なる智能にして究むるも、宇宙を自在にならざるなり。亦生々萬物をしても、その生死を自在ならず。かかる苦悩より、人は神を宇宙に求めて信仰を發起して、安心立命を祈りて心の安らぎとし、生老病死の苦脳を生死の轉生とて悟りぬ。依て信仰に迷信する勿れ、過信する勿れ。神は心に依りて求道せる安心立命の哲理なり。

寛政五年四月十日
秋田孝季

十三、

荒覇吐神信仰に基なせるは、宇宙の運行なり。古代カルデア民族にて觀測されにし十二星座にかかわる黄道・赤道に北極星をしてその軸星より星座を定めたるものなり。古代シュメイルに於てアラ神・ハバキ女神・ルガル神を天地水の神とて崇むより創りたる信仰は、卽速に古代オリエント各地にその基より各々信仰に神々を誕生せしむ。

エジプト・ギリシア・ミノワ・トルコ・シキタイ・モンゴルと相渡りぬ。その故に吾が丑寅日本國に渡来せるは居住人祖の頃、旣に信仰を得たるは荒覇吐神なり。古神荒覇吐神を祀る行事は舞と稱名にて次の如く唱へたり。

アラハバキイシカホノリガコカムイ

是をくりかえしたり。神の印とては三本のイナウに○△―の印を施して神とせり。

寛政五年七月二十日
浅利京之介

十四、

宗季状

心からに、をかしとこそは、東日流のうつらふ影も濱風に積れる砂山に西日あかねさすこの頃なり。のぼりての世は名残をし、ほこのもかのもしばふる人も老隠るとやと思ひうちより吾れは尚かげろふ人なり。思の藁家、𡶶の嵐や谷の水音。見降せる十三湊に朝立つ添ふる霞ゆかしく、木がくれの郭公鳴きける景色に目かれせず、のどけき心をやはかいかにいはんや。しゝむら老いしわずかなる人界に千代八千代に願ふるは安倍一族の末に老木も若緑立つや。東日流に道の直なる隙行く駒の一刻に筆留置きぬ。

人はみな疑ひ彼の草木國に住みたれば、泥を出でし蓮華を佛の御臺とさながらに敬って申す。さなきだに山賤・海賤の蝦夷と心空なる倭人のかごつに忿怒ぞ覚ふるも、空ざまに内にこめ肝膽砕きて今さらさこそと自らを慰む。あまつさへ受けがたき人界を猶ありがほの立ちまふはむつかし。此の國はのぼりての世に日本國とぞ號けしに、倭武せりに掠まれたり。東日流上磯の眞砂は鬼神をもわたつみの往来利益と睦みあからさま心得たり。

生きてある身は行人征馬、月も日もかかる浮世の理はりぬ。いづくはあれど諸白髪に老たれば忘れて年を流轉生死老少不定偕老同穴。吾はいつしか目もくれ心消え逝かん。おことは年若ければ、我がまだ知らぬ世を見ん。心せよ、世は非理法權天なるを。

天養甲子年月日

安東太郎貞季殿

十五、

貞季状

便の時は又承る事も候へ。さる程に渡島の更なる艮・流鬼、蒙古王の御安堵に許され候段、おことに傳へ申候。祖より累候へて荒覇吐神の加護に候ぞと、常日に神の稱名を唱奉候。兼ての上磯三湊堤張候事、船も安着に候へば、御越あらば幸に存じ候。

しりへき・けんか島の件、相睦候に付き御安度あるべく候。新城之築落ぞ未だ慶におくれ候へば、工者五十人を援奉り度候。唐船今朝来湊し、唐物土産添へ奉り、御納受下され度候。秋冷日毎に加はり候へば、御身大事と御祈り申上候。

久安丙寅年十月日

御老主 安東宗季殿

十六

泰衡状

鎌倉殿の風雲急を告げ候。見密の報に候へば、坂東諸州の勢二十八萬八千騎の由、實に手に余り候。不断に何事の交なく候も祖縁に候へば、東日流・飽田の貴勢をまかり候へば三十萬騎と相成り候事の由、藁をも掴むる心地にて相賴候。
右以て如件。

國衡状

今上に願ひ仕り候。縁故にしがり候へて貴勢の援を請奉り候。貴勢の宇曽利方・糠部方・飽田火内方・北浦方・上磯方・下方、併せて十五萬騎の援あり候はば此の戦、抜き申候。茲に伏して御願ひの儀、請申候事如件。

文治己酉年六月廿日

安東堯季殿

十七、

浮草隠居士 漢文譯

命つれなく心もとなや。思には死なれざりけり。佛法に釋迦は遺り常なる法燈ありけるも、吾れは煩悩のきづな不増不滅にして十惡八邪心なけれど破壊もなかりけり。吾れを見向きてけしたる人と往来後耳に聞こへむ。わくらばや道のべに片しく草枕に露を添寝の幾度びか。

所狭く起臥して世捨の旅も、物いひさがなき世の人に返らぬは、元の水うたかたの顯れ消ゆままうちらふは事もおろかや。人はあだなり。我が庵りは東日流の中山石塔山にして、とかく申すによしぞなき常着の苔衣。一人せかせ給へきか。もし夢ならば、常住えめぐるも、よどれば三界の首かせ、いづちも同じかるなり。かがみ見れば地獄道。淨玻璃の鏡、奈落の景をさまよふ。吾が黄泉のあだ夢に、はねつ起きつるもあり。何故以ての事由ぞ。

正直捨方便の誓、吾は志を立て、唯有一實相・唯一金剛を金剛胎藏両界曼荼羅に見悟せんと、この方丈に起臥しぬ。六趣の轉生、四生に出でそめしきの花はけふの夢。われ人のため唱ふは一聲、曩謨三曼荼囀日羅赦と合掌し、聴我説者得大智慧と伍佛の本願に結迦す。神は非體を受け給はず。天長地久にして祈る修羅太鼓弘誓深如海歴劫不思議、みなながら朝夕の祈りたり。

〽石塔山
  神のしるしや
   石神の
  夢幻の一睡
   神を見ゆらん

仁和乙巳年猛春
安倍安國

十八、

支那漢字の基なるは骨刻・亀甲刻文字なり。古代にしてシュメイルの土石版刻なる楔文字を基とて成れるはジエムデトナスル文字よりバビロニア文字・アツシリア文字となり、是れにフェニキア文字・クレタ文字・ヒエログリフ文字の混合になれる文字は二十二を以てヘブライ文字とせしは世界に布せり。

亦、吾が國の語部文字はその基を楔文字に由来せり。古代シュメイル人の渡来を證するはその遺物、古層より出でくるありぬ。なかんづく多くいでこしは荷薩體の地なり。

〽荷薩體
  山靼人の
   住むるには
  西も東も
   黄銀ありこそ

祖國に覚ひたる金鑛見付くる業のたつ者に、奥州の地はそれに答へたり。宇曽利・飽田・奥州平野の都々浦々に探鑛しその成果を得たり。奥州の産金・産馬の向上せしは何れも山靼の歸化人に依れるものなりと曰ふ。安倍一族・藤原一族の産金の内、未だ知られざるは安倍一族の蓄積の金ぞ陸羽の秘處に眠りけりと曰ふ。

寛政五年十月一日
小野寺忠邦

十九、

菅江眞澄・髙山彦九郎・林子平・和田長三郎・秋田孝季は尋史の志を倶にせり。共に浪々し諸國の山野に起臥してその成果を得たり。吾が國は元よりの國號を日本國と稱したり。康平五年にして日本將軍とて覇をなせる國主の滅亡にて、倭人の侵入に為すがままに相成りき。古代傳統なるは年追ふ毎に亡びて、その成せる代統は倭人の許に成れるものなり。かかる洗脳の改新に今に遺る諸事に、日本將軍代なるものの遺るなし。

天明の三春城の焼失にて古き世の史證になるもの全て焼失し、その故に諸國に安倍・安東・秋田氏を訪れ、古證を集史に綴り茲に大成を志したり。その史證に求めて山靼巡訪に回を重ね擴く古代丑寅日本の國史に實證を得たり。丑寅日本史を探る古代の基せる處ぞはるかなる亞細亞の地にその證を探るは、砂中の金を得るが如し。亦、國中にても奥州の史を探るは諸藩の定法に妨げられて集史ままならず、今以て尚奔走やまざるなり。然るに公に障りては科あり。今に密とせるは是の如し。

寬政六年七月五日
佐藤栄吉

二十、

御定法にては、國を異土に渡るは國禁を犯す事なれど、田沼殿に許を得て國を出でむ。オロシヤなる亞細亞への押領を密察の幕令たり。 依て長期の間にぞ絶えたる山靼への旅程を得たり。赴く國々はモンゴルよりメソポタミヤ・エスライル・エジプト・ギリシア・トルコ・シキタイにして、荒覇吐神なる渡来道及び古代オリエントの古信仰探究たり。

アラハバキとは古代シュメイルのグデア王及びギルガメシユ王の叙事詩になれる信仰なり。アラとは獅子、ハバキとは蛇にして、両神は雄神・女神なり。此の地はチグリス・ユウフラテスの河畔にジグラトを築きて都をなせし古代王國になる古跡のありき處なり。アラ神・ハバキ女神それに水の神ルガルを祀り、これを國神とて崇む創めなる國ぞシュメイルなり。この神より辺國に信仰創り、王統の移るバビロニア・アッシリア・エジプト・エスラエル・トルコ・ギリシア・シキタイ・モンゴルへと渡りぬ。

吾が國に渡るは、古代カルデア民が故土の戦乱を避けて、はるかなる吾が國に来りぬ。依てその信仰も、そのままに渡来せるなり。かかるアラハバキ神なる渡来せる實相の、訪巡に綴りたる史書の得たるを悦びぬ。亦諸々の史證遺品を持ちきたるも、感無量なり。

寬政六年八月一日
由利友賴

廿一、

安東衆と曰ふ武士を文武両道に精進せしは、京師管領・安東太郎貞季なり。平等教院は寺院なれど、領中の若き者、平等に讀書算を士農工商を問はず平等に教學せしむ處たり。藤崎の地にその學舎を施せるは、丑寅日本國土の初なる學舎たり。

右の師に依りて習ふる者多し。
安藤太郎貞季曰く、

學は人を成らしむる覚仁の要なり。人は、生家に依りて賢愚なかりき。學びては、その仁徳相加りて學才に達す。吾が一族をして、人の上に人を造らず、亦、人の下に人を造るなし。學びては成れる平等の學得なり。

平等教院永く學舎たるを以て、智得の者多く得たり。山靼通譯・海路水先・古史學得・算學達成を得たる者、十三湊よりその交易に役立てたる一族商益の要をなせり。

寛政五年二月廿日
日和山住人
秋田孝季

廿二、

吾が國は艮にあれば、倭人是を忌みて鬼門の國とて、諸事に於て惡しく譯したり。依て北辰に祀らる神、鬼神・魔神のたぐいとてこれを除き倭神の鎭ませるを謀りて、元なる艮日本國神・荒覇吐社の神を外に出だし門神または門客神とて境外に祀りきは、諸處に見ゆらむ。

然るにその信仰深く、地民は倭人の視留なき深山に祀る例もこれありぬ。古代荒覇吐社の分布は倭國にも至り、その存在及び社跡ぞ遺りぬ。名髙きは出雲大社・筑紫の宇佐宮・豊州の大元宮なり。荒覇吐神の由来は異國遠きシュメイルに發せり。宇宙一切の神アラ・大地の一切を神とせるハバキの地母神・水の一切ルガル神を併せ、是をアラハバキ神と稱したり。その明細になるはギルガメシュ叙事詩、古きはグデア王の民カルデア民に創りき神なり。

寛政六年二月一日
小野寺利祐

廿三、

陸羽古歌集

〽つゞき石
  遠野の山に
   踏み鳴りき
  片懸りなり
   神の門石

〽早池嶺の
  神のまる船
   神の剣
  石にて置かる
   神のかたみに

〽鬼手型
  石に遺れる
   巌手石
  不可思儀なりや
   苔も除け生ゆ

〽姫神の
  石門頂に
   聳え立つ
  北斗の星を
   さしまねくかな

〽いかにせん
  樹氷に化しぬ
   藏王山
  冬なればこそ
   神の相と

〽栗駒の
  雪解に見ゆむ
   白神の
  消えざる前の
   登山人群れ

〽駒ヶ嶽
  青天髙く
   さゆるとき
  あなかしこにも
   立つや湯けむり

〽鳥海山
  神なる嶺と
   仰ぎつゝ
  陸や海より
   人ぞあがめぬ

〽うつろひば
  昔の事も
   わするれど
  夢に出でこし
   思い出づらむ

〽また春の
  見るを叶ふや
   老たけて
  今年の櫻
   いと惜むらん

〽北上の
  川瀬の葦や
   芯強し
  冬をも越して
   尚立つるらん

〽喜多方の
  磐梯山を
   檜原湖に
  映して見ゆむ
   春立つ朝に

〽宇曽利山
  地吐くるにほふ
   黄泉湖
  地獄渡りの
   人はわななく

〽岩木山
  登山ばやしに
   大里を
  鳴鼓に群れる
   秋のひととき

〽外の濱
  寄せつ返えせる
   淨波の
  朝霞晴れて
   見えつ中山

〽和田湖の
  奥入瀬川に
   人群れの
  辰神祀る
   今日の宵宮

〽八甲田
  大岳峯の
   雲晴れて
  四方の景色ぞ
   如何に言はんや

〽糠部野に
  駒ぞいななき
   朝ぼらけ
  牧童笛吹き
   地鳴り立ちける

〽荷薩體
  安日山幽む
   入梅の
  萌えつ若草
   日の本の國

〽白神の
  嶺つ峯より
   鹿の鳴く
  春を盛りに
   山木谺立つ

〽男鹿の崎
  なまはげ唸る
   村里の
  童かくるる
   親のたもとに

〽大泻の
  八郎傳を
   夜話しに
  琴のはたごに
   酒肴よし

〽生保内の
  將門ゆかる
   姫塚に
  白蛇は今も
   幽かあらはる

〽辰湖には
  底に龍宮
   あり鎭む
  祈りて願ふ
   事は叶ふる

〽仙北の
  おばこ嫁とり
   妹背には
  睦き仲よき
   末福神

〽江釣子の
  いにしの墓に
   骸はなく
  ただ石組の
   跡ぞ遺らむ

〽瀧澤の
  牧なる牛馬
   肥えにして
  厨の柵の
   昔想ほゆ

〽紫波の柵
  川に失せにし
   古戦場
  安倍の一族
   今も靈立つ

〽宮古には
  奥に入瀬の
   湊あり
  海なる嵐
   屆き至らず

〽釜石の
  鍛ふる鐡は
   南北の
  人に渡りて
   寶なりける

廿四、

渡島古歌集

〽天の川
  檜山に城なす
   上の國
  安倍の名残を
   今にとどめて

〽惠山には
  古きの人の
   名残りあり
  エカシは語る
   コタン由来を

〽膽振湖の
  古き傳への
   物語り
  三湖に遺る
   神はいまなほ

〽後志は
  余市の濱を
   湊して
  山靼船を
   商なふ市場

〽石狩の
  川に鑛とる
   寶國
  空知の山に
   燃ゆる石あり

〽日髙には
  いづくも昆布
   濱寄せて
  襟裳岬の
   潮ぞ荒なむ

〽十勝には
  黄銀の掘し
   隠し山
  安倍の藏とて
   今も語らむ

〽湖の
  カムイの掟
   今もなほ
  釧路に遺る
   物語かな

〽霧深き
  根室の濱に
   人群れて
  波の際にて
   漁な欠くなき

〽網走の
  北見の海に
   渡り来る
  尾白の鷲を
   カムイの鳥と

〽最北の
  宗谷に遺る
   住みつ人
  昔乍らに
    流鬼の往来

〽上川は
  何處も黄金
   堀り當る
  大雪山の
   カムイますまし

〽留萌には
  沖つ漁火
   風物の
  海原なぎて
   數を増ぬる

〽サハリイに
  渡りて狩るる
   けだものの
  商なふ船は
   十三より来たる

〽氷に閉づ
  北見の海の
   氷り吠え
  底に群なす
   鱈のひびきと

〽大貝の
  ほたての鍋に
   舌ずつむ
  北見の濱ぞ
   夏はたのしき

〽荒しくも
  利尻の山は
   海印し
  山靼通ふ
   船も寄どこ

〽遠からず
  山靼國は
   果知らぬ
  西に續くる
   大地ぞ擴し

廿五、

安東盛季状

睦に回を重ね候も、和に欠く難題を負はしむる南部殿の心意に候は、吾が逑趣に遠く、叶ふるの一條とて是れ無く候。依て茲に、一族相謀り候へて十三の朽城に應戦を試み候も、勝算謀るは難く候。福島舘を柵修に朽域多く、討入る敵を楯強き處御坐無く、濠亦浅く、長年堀替のなかりきままに候。中島・羽黒・鏡の三舘尚以て敵に防ぎ難く、徒らに兵をかまふるも殉者犬死と出だし耳に候。應戦企つあらばや、丘新城・唐川城に以て敵は攻難く御坐候に付き、主勢是に楯垣を布しべく候。

潮方殿

廿六、

重季状

御状屆見仕り候。南部氏の侵領尋常ならざれば、應戦もやむを得ざる處に御坐候。藤崎城旣落に候へば、睦も欠きて、復しべくに候はず。戦以て對す他に術御坐無く候。先づ以て急速に為べく候は渡島・檜山・飽田に領民を移しべく候。

東日流放棄を心得て徒らに人馬を殉ぜる事勿れと請申候。應戦の儀に候は、退城應戦の祖・安倍貞任の戦法にして敵多く討つ可く候を請申候。小泊より兵馬・領民・諸財を移し可くを急挙に候へば、外濱の船、昨夜にして移し置候。先は返報後日に推參仕り候。

盛季殿

廿七

康季状

東日流の風雲急を告ぐ最中に候へば、吾れ耳若狹に赴くは後髪相引かる想に御坐候。勅願寺修工落慶に急候へて勅宣賜らば此の戦了り候。依て一年の和睦相謀り候へて、身共の還郷に保つ可し。若し為らざれば、やむ得ざる可く候。

東日流放棄に候も、敵侵の半上を誘伐に討候武運に、吾れはただ羽賀寺にて祈り居り候。御門より日本將軍と賜り候は目出度けれど、東日流の今上を案じ候へば夜も眠を妨ぐ想ひに候。義季よ、死す勿れ。檜山に霞城ありせば教季倶に住候事を望候。渡島の事は政季に與ふ可く申付候。又、盛季儀は飽田補陀寺に隠居を仕るべく請申候。

五月十日 書

義季殿

廿八、

義季状

祖来より戦にありて唯利ありて討つ、不利と見て退くの吾が一族の戦にかかりての習。敵の知る處なりせば、吾れは舊来の陋習を破りて死をも覚悟に此の戦に臨まん。睦のなかるる南部氏になにおか目にぞ物見せん。

唐川城は難攻不落にして早や三年を保つなんに、敵攻未だ外柵までもたどらんに多く討死のみ出だし、ただ圍みに陣せども攻手なし。御書の通り福島舘は朽柵、野火に焼かれ、青山砦にては惜むらく青山弾正をして皆討死せしは不覚たり。鏡舘・羽黒舘・丘新城にては灾りて退きたれば、殉者これなかりける。落舘に勇みて、唐川城攻めにては火箭も屆かず、ただ我等が心意かく乱す為に禪林寺・長谷寺・山王坊・春品寺・龍興寺を灾けりて喊聲挙ぐるも、吾ら唐川城にては何事の障なかりき。

孫父は旣にして渡島に渡り、まつおまないに大舘・小舘を築き、更には阿吽寺をも建立せりと便りありける。兵糧のある限り唐川城に吾れは駐まり、一人たりとて多く南部勢を討たん。亦、南部氏の背後を突く鼻和の狼倉及び髙舘も築き、更には外濱なる潮方城・尻八城もあと數日以て落慶なり。さあれ、近く唐川城を退き灾りて、柴崎城にて敵との一戦あるやも、未だその戦端に至らざるなり。東日流の事は安心あれ。何事ありとも、父君にては勅願寺羽賀法場の落慶ぞ精進あるべし。

吾が一族に援者あり。宇曽利の蠣崎藏人なり。今安倍城にありて、オロシヤ人より得たるホテレスあり。これぞ一騎當千。戦端怖るるに足らん。安東庶季及び能季、飽田にあり。檜山の兼季、倶に霞城を落慶せり。二城あり。二の城を靄城と號けり。父上の居城とて築きぬ。更に飽田土崎湊に日和見山城・土崎城を落慶し建固たり。何事も勅願寺の再興落慶耳に御精進あれ。

此の戦も近けく了らん。在役の間、御身大事に。右以て如件。

八月六日

父上殿

廿九、

蠣崎藏人状

一筆啓上仕る。貴報の御状とくと讀み置き候。
余の儀、兼て南部氏の横暴赦し難く候も、宇曽利にてはいかにせん賴める豪士のなかりきに、折りよくホテレス火の薬を得たりて候。然るにその用途に全うせで困惑に候。もとよりオロシアの人に狩猟に用ひしものにして、是をあつかふるは未だ數人に候。亦騎馬に不足し、そのくめんに候は甚々因難なりて候。

東日流の急に挙兵の儀に流れ候も、シヤモの業為ぞ赦すを叶ふるは無き候。守行・義政の源家縁りに安倍氏に縁る者の因果ぞ、前の業報なれば詮も無きに候も、我をして手束弓を執りて表に出で候事叶はざるなり。依て今はその急にぞ起つ候段、吾が一族の挙兵は宇曽利に仕り、南部氏の背後を突き候。右以て急報如件。

十月二日

東日流義季殿

卅、

安東一族の東日流放棄の決断にては福島舘の落城前に決せられたりしも、唐川城に移りてその護り、天然の要害に三年の間、護城す。旣にして永々と築きける山王日吉神社の境内にありき十三宗寺も焼失し、民家残らず。兵火に免がれし残家非ず。十三湊に寄る船も非ざるなり。

嘉吉二年十二月、根雪と積りし早朝、一兵遺らず柴崎城に退きて、自城を灾り。突如の事に、南部勢ただ亞然と眺むに、安東一族は柴崎城に達せり。南部勢總挙して柴崎城に迫りけるも、旣にして安東勢は海上にあり。灾られし柴崎城の炎上ぞ眺め居れり。時に嘉吉二年十二月廿三日なり。
船上にて義季曰く、

東日流の吾が領は、安倍髙星以来この地を治世し京役の管領とて世襲に習ひ来たりしも、今日を以て此の地を離るは断腸の想ひなり。

と涙す。

寛政五年四月七日
越野勇作

卅一、

山靼のモンゴルに、久しく古代より今に傳統せるナアダムとクリルタイと曰ふありき。民族の祭りと集ひなり。擴大なる大陸亞細亞諸民族の商易市場とも曰ふべく、この祭りと集ひになるは民族を異にして、己々故國になる出来事を相報じ、世の世襲を知るは商人の利益に相通ずるが故の大事たり。山靼の民族相互に商易にて生々せる者多し。

戦起りてなる國には武具を、泰平なる國には装飾・玉寶・香油を賣買せり。依てナアダム及びクリルタイに相集ふなり。紅毛人及び人種族諸々にしてその商語相通ぜるも、その古習にして相睦を欠くなし。盗賊も商隊を襲ふなきは武にも優る故なり。商隊に二種あり。海交、次に陸走なり。トルコ語にて商語とし、その益ぞ利徳多し。

吾が出演日本國にて是れに相加ふるは、古代よりなるものなり。是ぞ倭人にして知られざる歴史の事實なり。かく山靼に商易ありて、古代なる丑寅日本の栄ありきたるを信じベくの證は、東日流語部に明細ありぬ。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・

是の如く傳へて記逑遺りぬ。是ぞ、倭人に知るべきもなかりけり。

寛政六年八月十日
本田貞作

卅二、

奥州古歌集

〽かた糸の
  四つのをりから
   空さまに
  一樹の宿り
   髪はおどろに

〽いづくにも
  世を捨て隠る
   人はあれ
  雨もる藁家
   気もせで住むる

〽常乍ら
  剣を添へ寝の
   落身には
  夢の一睡
   落葉にも覚む

〽夜もすがら
  月夜に渡る
   かりがねの
  飛群乱れず
   陸奥空をゆく

〽世のなかに
  五濁の塵と
   暮す身は
  月待つ程の
   悟り覚えず

〽さまされし
  戦の跡の
   郷あはれ
  家も失せにし
   人は貧しき

〽波しぶき
  外の濱風
   立つ岩を
  いやさ洗ふる
   春の海潮

〽曲もなく
  おどるつわもの
   勝祝ふ
  戦の常は
   樹下の宿にて

〽あなうらを
  刃踏み分け
   血にあびぬ
  戦のあとの
   風生臭さし

〽おことには
  妻子ある身ぞ
   死に避けよ
  手に立つ敵は
   斬鎚地獄

〽戀草の
  わずかに住むる
   若き身に
  何を憂かれと
   いづち行きなむ

〽常なれば
  花を踏まねど
   戦ばに
  はしたの者も
   勇み踏みゆく

〽夜をこめて
  刃研ぐ音に
   寝もやらず
  分け切る術を
   思ひさぞらふ

〽長じては
  かわのおどしも
   ちぎれ落つ
  駒の矢傷も
   いやすひまなき

〽引きかへて
  おつとり込めば
   敵ならず
  おびゆる人の
   遁げき音なり

〽黒皮の
  おどしに血染む
   鎧脱ぎ
  汗にしからだ
   川に浴びぬる

〽肌寒き
  秋陣營の
   霜踏みて
  足をもためず
   駒に鞍置く

〽川風も
  何をか語る
   せせらぎの
  淀みに浮かぶ
   消えつうたかた

〽はし鷹の
  矢羽は唸る
   右左り
  矢楯の垣も
   敵矢に立つて

〽虎の伏す
  竹林分けて
   敵情を
  見み入る者の
   後髪立つ

〽すわこそに
  草むらはねて
   突撃の
  草摺り音に
   戦激しぬ

〽亡き人の
  夢に出でこし
   夜覚には
  何事あらん
   心いら立つ

〽かしづくは
  わが子ありける
   心うき
  親のしげきに
   よしなやかりき

〽まどろめば
  採なき夢に
   見えつ母
  我を案ぜむ
   いつまで草に

〽言はずとも
  心に通ふ
   妹背には
  偽り云ふも
   速見破ぶられ

〽かんなぎの
  神のしめゆふ
   社の宮
  忝けなさに
   たゞかしこみぬ

〽春を待つ
  雪下の蕗は
   雪分けて
  黄金の華を
   解雪に追ふて

〽しらま弓
  定なの命
   もののふの
  今ある身には
   とよりかくより

〽名に負ふは
  陸奥にあらめや
   舞草刀
  骨をも斬りて
   毛もそり落す

〽身の露の
  さだめかなしや
   わりなくも
  また絶え絶えの
   つらきものには

〽両界の
  瑜伽の法水
   中尊に
  葉末の露と
   吾を得導

〽ひたすらに
  心つくさせ
   導きの
  大事の渡り
   神と人との

〽自からに
  教の道を
   歩まずば
  髙き彼方の
   人とはなれず

〽神なみの
  水上清し
   仙境に
  心修むる
   吾が身老てそ

〽ぬれてよし
  降る春雨や
   うちかづき
  言の葉ぐさも
   花をし思ふ

〽あだ波を
  かぶりて散らす
   北浦の
  巌に似たる
   吾を心に

卅三

荒覇吐神信仰の渡るる國は、倭國も諸處に現存す。全能なる神とて今も遺るは、古代に於て日本將軍の一統になりける證なり。稻作の渡りとて、北より渡るあり。鑛術また然なり。國をして民安かれと祈るこそ國主なり。民を憂はしむるは王ならず、修羅王なり。吾が丑寅日本國は、治世能く泰平を保たれり。荒覇吐神の迷信なきは、その基をぞ大事とせるが故に在り。その導きぞ眞理に叶ふるが故なり。何事も語部録に證す。

寛政六年三月一日
増田鐡心

卅四、

平泉滅亡のあとになる奥州は南北朝を經ては鎌倉武家の土着多かりし□□と相成りぬ。菊田氏・大須賀氏・結城氏・二階堂氏・田村氏・三浦氏・相馬氏・安達氏・亘理氏・佐藤氏・千葉氏・小山氏・石川氏・伊達氏・名取氏・熊野氏・芝田氏・伊澤氏・大江氏・熊谷氏・葛西氏・武藤氏・畠山氏らなるも、北辰深く入らざるなり。安東氏ありとは聞え髙くその域を侵すことなきも、東日流をはるかに隔てたり。此の諸氏ら各々居城を築きて地豪と睦み、戦國の世にその威勢を賭けて攻防し、後世に藩大名とて遺るは少し。

寛政六年七月一日
柴田兼由

卅五、

世の中に人を貶め、然も執拗に己れ耳なる狐疑にて他人に布せる者ありぬ。己れの思考にて世間に何事もまかり通るとぞ、自粛なき惡才なる者なり。宇曽利富忠・清原武則ぞその者にて、武人たるの信義・報恩のなき者にて、權の者目安あぐしれものなり。先づ宇曽利富忠こと安倍富忠と曰ふなり。日本將軍安倍頻義の女子婿聟なり。富忠、金氏の出なれど安倍氏に入りて宇曽利の知行を委られたるに、折しあらばや日髙見川辺に出でむとて虎視眈々たり。糠部駒を密かに清原氏に譲り、清原氏それを源氏に賣却し大利益せり。

糠部なる仁止呂志に駒市あり。安倍氏の直設なるも、富忠謀りて清原武則と相通じ、年毎に駒を掠めたり。その行為いつしかに賴良に達したれば、厨川貞任をして富忠を捕ひて吟味せり。亦、食客にある是れ武則も捕はれ同じく吟味に伏せり。古より馬盗は討首なるも、賴良の情に依りて赦さるる故恩にあり乍ら、悔もせで源氏に味方し、賴良を暗殺せる富忠。速かに遁途せるも、貞任是を閉ぎ討ちたるるなり。武則また一族挙げて安倍氏に反忠せり。まさに何れも獅子身中の蟲たる奸物たり。若し仁止呂志にて両者斬首にあらば、彼の前九年の役ぞ起らず奥州は日本將軍の國とて永續在りやもと、安東髙星常に憂ひたり。

寛政六年五月一日
白取兵九郎

卅六、

國護り民を安かれと侵魔掠奪鬼と對抗せるを、倭人は國賊と曰ふなり。されば貧しき者より税科せるを何賊と稱すなんや。吾が東北の地は東北風、都度たれば凶作にして飢ふる耳なり。依て日本將軍治政に在りては、郷藏を諸郡に設くるありて飢餓に備蓄せしたるに飢ふるなかりきも、厨川柵を末期に滅亡以来、奥州は貧苦たり。華麗なる平泉の雅たるは、地民の勞々に涙汗を下敷きて、源賴朝の奸策に灰とせしにや、空しかりける。後に科せらる地頭の貢税、尚民を苦しめり。

時に東日流にては、民への貢税なき安心立命の地にありぬ。安東髙星以来地産の商とし、山靼・髙麗・支那に商航しその船團たるを安東水軍と稱せり。倭寇船とてこれに兆み怖れたりと曰ふ。支那、元國となりしも、吾が安東船のみは揚州に商易の往来をせり。元寇ありて倭人は怖れおのゝくも、吾が丑寅日本國にては山靼より元軍、流鬼に至るるも、安東船をして攻むるなきは、揚州知事なるマルコポーロの商易證にて流鬼を去りぬ。吾が奥州の凶作を救済せるもマルコポーロにて、陸奥にては寺社に彼の像、今に遺りぬ。

寛政五年七月廿日
古舘甚三郎

卅七、

北斗の宇宙に不動たる星、是を北極星と曰ふ。古代なる人の、神たる神秘を覚らしむ。宇宙を仰ぎ見るは神を心に想定し、暦を知り、時を知りぬ。日輪の赤道を南北に寄りつる黄道に季節を知り、その星座に仰ぎて人は神話を造り、語り遺して成れる神は今に信仰のあらねど、尚神話今に遺りぬ。人の世襲は常にして革新に生々を求む。信仰また然なり。

世にある人をして、その住地を血に染めて掠むあり。無住の地に移りて拓くあり。その道跡をたぐりては至らざる地はなかりきなり。人は住みける地にて、その風土になる候に馴れ染めたり。信仰また然なり。世界の陸海風土、條件同じかるなし。然るに、住みては馴るる人のくらしなり。衣食住また異りぬ。吾が國の人祖、何れより来たるかは祖来の傳統にて究むらるなり。山靼は陸に續くこと、紅毛人・黒肌人國までも續きけりと曰ふ。

古人は水に木の浮くを見て舟を造り、風を帆に受けにして潮路を速進せり。智能を啓發してくらしを便じて農をなせるも化度なり。病に薬を、寒きに衣を用ふるも人の智惠にして、末代に益々究むるも人間なればこそなり。未来にては人は大空を飛び、大洋に潜り、宇宙をもめぐりぬ進化に達せるも近し。神の業にぞ近く智能に達せるは人間の他に非らざるなり。ただ歴史の實相に、世襲勝者は遺り、敗者の史は抹消す。

寛政六年五月三日
瀧本心海

卅八、

安東教季状

吾が愚断にて藤崎の舘は落にけり。馬に兵にまた領民に殉者無きのみ幸なり。散々、行丘・飯積に北畠殿・朝日殿に遁脱せしむも、残るるは往来川を降り十三湊に落しめり。依て以後の萬端よろしきに御賴み申添へ奉る。

盛季殿

卅九、

安倍貞任の次男・安東髙星に依りて再興せし東日流平川藤崎城にては、城邸に舟場を設施せり。十三湊に至る往来を以てその商易を安東船に依りて海の外なる國に往来し、更に渡島・千島・流鬼の濱湊に海産物を得てぞ、茲に山靼・髙麗・支那への商易品とせり。物交になるは米・大豆等五穀にして、郷藏に蓄積し常にやませ吹く凶作に備へたり。東日流を六郡とし宇曽利を三郡としたるは、人住の平治をなせる故たり。

更には海濱を三磯三濱にして、郡と治政を異にせり。上磯・中磯・下磯・北濱・外濱・東濱を、東日流宇曽利の三磯三濱と曰ふ。また宇曽利・都母・糠部を東三郡とし、宇澗・璤瑠澗・奥法を東日流外三郡とし、稻架・三輪・平川を内三郡とせり。安東一族にては是に土着の道・橋を施して、人の往来を便せり。道にては山辺道・切通・濱道・林道。川舟往来舟渡し、下切と稱せる道の交差・郡堺切通を以て能く流通せり。

品を銭にて賣買せるは、安東髙垣の代より支那銭を入れて通貨とせり。依て支那にてその古銭を萬貫にも入れ、その貨價を定め産物を賣買せるも、是れ流行せず物交にても自在たり。安倍祖来の蓄積の金を密とせしは、世界に新天地を求めて渡るいざなるときに備はるものにて、祖来そのまま保存せり。吾が國の歴史に以てその故に史證を密とし、一族安泰の商易を以て富めり。安東船にては北辰船・玄武船・青龍船・白虎船・朱雀船とその造りを異にせり。

松・檜を材とせる安東船は、飽田なる地湧油を塗りて黒し。二柱の帆、前後の船出架帆にして速し。古きには船胴に竹を束して付し、箱型より安東船に至る施工は山靼の紅毛人モゼフにて完造されたりと語部録に傳はるなり。海道図また然なり。安東船の秘は固く、諸國造船に譲る事ぞなかりき。倭人に對してシヤモ定法を越して過信せず。渡島に渡りて密住せし倭人を断罪とせるも、護商の故なりと曰ふ。

寛政六年八月三日
磯野勘兵衛

四十、

古来より陸羽の人は信義を重んぜるが故に騙さるなり。その故に被害心身に蒙るを防がんにも、人の心見えざれば倭人の辨に乘せらる。吾が故主日本將軍とて然なり。奸計・謀策を以て治政せる倭人と異り、越冬の故に一年一作なる穀物を大事とし民のくらしを安泰せしむが故に部の民を多くせり。鍛治・採鑛・産馬・海士の特技にては、何れも山靼人の歸化にて傳はりぬ。

古き世に紅毛人多く歸化しけるあり、諸方法傳はりぬ。シュメイルのマデイフとは葦家なり。とかく陸羽に遺る言語に於ては渡来語多し。吾が丑寅日本國の祖来の國神アラハバキ神とて、シュメイルそのままになる神の稱名たり。代々にしてその傳統を能く護るも日本將軍の治世、民をして重じたる故因なり。恨むべくは前九年の役にして、倭人の多く侵駐せしに依りてその傳統多く廢絶されたり。然るに、子々孫々の累魂に遺るは日本魂にして欠くるなし。

寛政六年八月一日
津村豊造

終筆之言

本巻北斗抄に諸翁聞取帳を以てなせるは、諸處に巡り古事を知る古老の諸氏より聞書または文献等にて綴りたるものなり。陸奥東日流にては今に遺れる古事語部録ありて諸事實を知れり。
目録にては次の如くなり。

右の題なるを語部録七巻の事實記にて、羊皮に遺れる古事録なり。依て是を大事とせしも、飽田に焼失せるは無念なるも、㝍書ありて幸いたり。丑寅日本國之古事を知るに於ては、是ぞ不可欠たり。

寛政十二年二月七日
秋田孝季

愚言

書㝍に益々苦し。忘字甚々しく誠に迷惑至極なり。残るは山なせども、若きの如く相成らざるなり。

末吉

和田末吉