北斗抄 十
(明治写本)
注言一句
此の書は門外不出、他見無用なり。古傳を永世に遺を心得て失ふべからず。
孝季
長三郎
諸翁聞取帳
一、
奥州の諸邑に遺る傳説に古人を想ふ、時襲の喜憂ありぬ。邑に筆なす者少なければ同傳の語りに異りもありきに、實を外れるなかりき。邑をして忘れ得ざる故事の人々にまつはる語傳に、悦あり悲あり苦脳ありきを物語る書綴なくして忘却に消滅し、唯空しく墓石耳ぞ遺りける。戦のありき衣川・厨川尋ねて何事の遺るなかりき。敗れし者の史跡ぞ尚更なりき。茲に忘却せざるは、前九年の役なる史實なり。
古来永世に丑寅日本將軍の名を遺しも倭傳になる多く、倭傳なればこそ信價ありとは全く笑止千萬なり。丑寅日本の史は實にあり、文飾加様なし。抑々、吾が國はもとより日本國なりせば、倭史の史策、吾が國を蝦夷とぞ稱しは日本國なる國號を奪いたる代價なり。住人をまつろわざる化外民とせしは、ただ祖先を想いば念怒やるかたなかりきなり。古代なれば何事を記しても民は皆文盲の世に史の編纂をきわめて障害もなく成り得たるは倭史なり。
大野安麿・稗田阿禮の如きは今になる講釋師にして、もとより古来なる記逑の書あるべくもなく、支那及び朝鮮の古史に何事の對肩なかりき。四千年の紀元に二千年の上代を割りて倭史の紀元ありける。先つ代を神代とせるは、本来空なるを有史に招く夢幻創作、自在にその證に苦しからざる故也。神代とは年歴なき、語り放第なる記逑。年表に當らざるも、古事無限にさかのぼらしむ方便とて、神代を歴頭にせるは倭史のみならざれども、神武の紀元に卽して後なる空白を埋むる天皇長寿の在位につなぐ、百歳を越ゆる連立以て史となせるに創れるは、史實のなかりきを覚つ證たり。
それにくらぶれば丑寅の日本史になるは、人祖の渡りを山靼に史實を為し、信仰のみに神事の代を歴史に離したるは、日本史卽ち丑寅の語部録なり。倭史にてあらざる代の語印ありて證すなり。山靼を通じその往来ぞ永きは、倭史の神代時なり。依て歴史のあゆみぞ、何事の空白ぞなかりき。丑寅の日本史はかくして今に遺りきも、誰ぞその信を倭史にかたむくは、日本將軍ぞ天喜及び康平に相次ぐ討死の以来なり。
二
蝦夷と曰ふ古来永續の因習は久しく、今に尚以て、白川以北を無史未踏の國なる如く、史實を出芽あらば欠く國學因習の壁ぞ固し。いかで北日本をかく敵意に民の向上を制ふるや。是れぞ固持に末代萬乘に民信を得るや。その圧制ぞ一挙に民心の爆裂を誘發せんや。遠きに非ず。自業の自得、一据の權者に萬死を蒙らしむ民への圧制、近くして崩れんことを餘言に仕る也。奥州・羽州ともにその期におくるるとも、倭になる内輪の外れに騒動起りぬ。朝幕をして、先づ幕政の崩壊ならんや。次に天皇の續くるありとも、いつしか終位の至るは時運時襲に遠からずと予言仕るなり。
やがて光りは北より古事歴史に實證を輝やかさん日の當来ぞ近からん。俗に曰ふは、王命に地住の民ある國を、唯發見とて地住の民を侵犯降伏せしめたるの報復は、必ず至るを知るべきなり。土民とてその生々を己利に圧すは、復恨幾千年に過ぐるとも、子孫に甦る輪廻の報ありぬ。大國王とて民を皆滅して王權を保つ難く、奴隷とて人と想はざれば、その報復の蒙るありぬ。武威以て國を満すとも、國飢ふれば討物、糧とならず。民を殺生せるとも無き糧は生ぜず。北日本民とて、蝦夷と賎しむ勿れ。
三、
サンファンパプチスタ遣歐船とは、仙臺伊達政宗が安東船なる山靼往来船を秋田實季殿より、大阪城陣中にて聞入れてより、海を越えたる交易を掌据せんと志も數度に渉りて、紅毛人ソテロらに面接を試みたり。幕許を可能ならしむため徳川家康に直談し、六男忠輝殿に己が息女五六八姫を縁組し、遣歐使節派遣船の造船許可を黙認せるより、その造船構造を秋田實季を仙臺に招き、安東船の船工を三十人、牡鹿硯石邑に留宿せん事を請ふたれど、秋田氏の返答仲々に警言あり。再參の接談にてようよう容認さるや、その造船に實を挙したり。
慶長十八年八月に進水を得たるこの黒船ぞ、横五間半・長十八間・髙十四間一尺五寸・帆柱十六間三尺・彌帆柱九間一尺・砲窓左右十六門・船階三段に造りぬ。是を見みえし
慶長十八年九月十五日、月浦より出航相成り。此の船に秋田藩士浅利玄藏・由利賴母・小野寺喜兵衛ら及び船大工二十八人乘組たり。仙臺藩にては山口与一以下藩士百十人、加へて南蕃人ソテロ以下四十人たり。是の如く速造せしは、家康の気心轉ぜざるに急ぎたりと曰ふ。伊達政宗の心中に躍るは、世界なる窓口は總てロオマにありと心得、山口与一にその親書を預けたり。
世界に認識さるは、徳川氏の天下に伊達の制あれば、秋田實季もまた安東船復航を夢見たり。慶長元年より絶えたる安東船は、辛くも元和元年に大坂再討に武具・兵糧を堺に航して以来、航許されず、全船を明國に賣却せり。さて月浦をいでたるサンファンパプチスタ號、東洋海の暴風にも何事破損是れなく、メリケン大陸メンドシノ岬に着し、更に地峽アカプルコの湊に入港し、新イスパニア人の歡迎を得たり。時に慶長十八年十二月十九日なり。
征濤九十日、揚今東異大陸地峽湊、吾胸躍異人歓呼。
是く記せしは、由利賴母の日記なり。然し乍ら、望みたるロマオへの更なる同航は許されず。茲に誓破の七年を待つぬ。地峽サンファンデウルフに秋田藩士・仙臺藩士山口与一他廿六名の選抜にて、あとは残され、慶長十九年五月三日、山口与一一行サンファンデウルフ港をロウマに向け、新イスパニア船にて出航せり。残る者の内、秋田藩士は地の古跡を巡る地峽探査にぞ志し、船工を倶に巡り、その旅程三度に相渉り、地の民に案内を得て巡脚せり。古代人摩耶族の遺跡なり。
浅利玄藏記に曰く、
はろばろ仙臺を發て六年を異土にて寝食す。此の地は古代民族をして古跡あり。その人の種なるや山靼人を想はしむ。肌黄色にして、農を営みその肥は河泥を以て畑作と為し、その産するもの總て吾が國の作物と異にせり。彼等の神ぞ多様にして日輪を拝し、その信仰のさまたるや慘たる跡を今に遺せり。大森林の中に石築の塔あり。巨萬の人夫を要せるものにて、神殿に石像ありて築塔みなながら彫を施しぬ。沼川に城跡あり。摩耶族は石粉を焼きて右林在林中に石材をつくて塔を築けり。エジプトなる金字塔の如し。
亦、小野寺喜兵衛日記は左の如し。
吾れ松前にありし頃、山靼に巡禮せるありて諸國の風景相見ゆれども、この國なる信仰にあきれ、亦慘たる生贄の跡とて案内の土民より聞けり。チヤクモオルの持つ器に人間の生きたる心臓を献げる習し、クイクルコにその建物を見ゆ。此の地の民をアステカ族と曰ふ。火の神ウエウエテオトルを祀る遺跡なり。次にテオティワカンの遺跡をめぐりては、その信仰傳あり。世の創より日輪が今に至りて、五度に生まれたるものと曰ふ。その一番に誕生せし日輪は水の太陽、次に豹の太陽、次に雨の太陽、次に風の太陽。次の太陽は現在にして動く太陽と曰ふ。トラロックと曰ふ雨の神、ケツアルコアトルと曰ふ生命の神、そして太陽の墓・月の墓を金字塔に築き、その通りなるを死者の道と曰ふ。
宮殿をケツアルパパロトルと曰ふ石彫になる建造なりて、驚くべく大遺跡なり。更にはエルタヒン遺跡あり。この遺跡に、死の神ミクトランテクウトリと曰ふありぬ。亦、火の神シウテクウトリあり。その神殿は石壁窓の金字塔なり。次には誰ぞ知らざる遺跡とて、カカシュトラに巡脚す。
更にメヨチカルロ遺跡にはケツアルコアトルの金字塔トウウラ及びその地に祀る巨大な戦士の像ありぬ。此の遺跡トルテカ族の古代になる遺跡なり。テノチティトランは地王の都なりと曰ふ。テノチテイトランの大神殿に祀るはコヨルシャウキ卽ち月の神、火の蛇神シウコアトル、大地の神コアトリクエありと記し置きたり。
更に、由利賴母の日記に曰く、
吾等が巡る此の地は、北及南になれる大陸の迫なり。その遺跡を巡り、テオティワカン、テノチティトラン、更に地峽の南パレンケ・コパン、チチエンイツア・テイカルコパンをめぐりぬ。蒼芒たる樹木のなかに古代そのままに遺れる遺跡は、ただ驚膽を抜く大遺跡なり。山口与一らを待て、世は元和三年六月。突如と伊達藩士横澤將監より、山口氏ロオマより歸るとの報あり。一同大いに悦べり。急ぎ歸途の船備一日にして了り、山口与一氏迎ふるやサンファンパプチスタ號、次の日六月二日セビリアを出航せり。歸航路はマニラなるロカピラに入港せるも、一大事凶報を得たり。徳川家康の死去・徳川忠輝改易・政宗息女五六八姫歸城離縁、と家康の死後に伊達藩風雲急を告ぐはおぞましける。
由利賴母の記は以下空白とならむ。山口与一、ジェノバ以来マラリア病に侵され、マニラにて闘病に苦しみ、詮なくサンファンパプチスタ號に惜別す。仙臺藩士・秋田藩士ら歸國せり。時、四年四月二十八日なり。
四、
元和四年八月十一日、サンファンパプチスタ號乘組一同、伊達藩御用船に鹿島灘沖に水先され、追波湾に寄せられしまま、乘組の者上陸せし後、サンファンパプチスタ號に大量の火薬を積ましめ、大銃を撃て大爆沈せしめたり。 秋田藩士らその濱に迎へたる北上船にて盛岡に逆帆登り、秋田に至れり。山口与一が仙臺に歸るは元和六年八月廿六日にして、堺の商船ルソン往来船にて歸郷せるも、身體復せず。
二年を經て元和八年七月一日、遂に五十二歳にして死却せり。幕府に於ては、かかる渡航船ロオマへの當達せしめたる伊達藩への怖れ、亦造船の渡航岐實践ぞ、朝幕の怖れを尚、濃惑せしめたり。やがて秋田實季を伊勢朝熊に蟄居せしめ、その子息を宍戸より三春へと知行を封ぜられたり。
依て秋田氏は、海のなき地領に。その藩主のみは取潰すなく、今に至りぬ。然るに秋田家を八方閉ぎけるに依りて井中の蛙となりけるは、いずれ世におくるること百年の差位にあり。交易の船は蒸気船の世と移りぬ。秋田氏も以来浮くなき貧藩に累代せり。亦、政宗も然りなり。智識を世界にぞ求めたるロオマへの派遣も空しく座折し、政宗は寛永十三年五月、七十歳にして没せり。
五、三春藩秋田乙之介の曰く。
我が祖を蝦夷とぞ曰ふ、諸史に見ゆるも、その蝦夷にして大名たる故因は如何にぞ問はん。現に三春なる貧境にあれども、祖に仰ぎては耶靡堆の主、亦丑寅日本國の主。日本將軍とぞ相賜りたるは支那北魏の明元帝の賜授にして、その儀を認めたるは倭の御門。安東康季が羽賀寺の勅願所再建にして遺せる御辰筆に、日本將軍と認賜し奉り給へき。我藩祖を伊勢に蟄居せしは家康公に非ず。松平重任の計なり。
我が祖先におもんみれば、安日彦王にて日本國を誕生せしめ、その累代をして太平たるに、倭侵の重なる障害、遂にして前九年の役たる討伐行にて丑寅日本國を掌据しけるも、朝化の想ふにならず。後三年の役・平泉の乱ぞと相次ぐ討伐行ぞ日本將軍安倍要臣の反忠に計りて、功のなせる者さえも誅滅せり。然るにや、東日流に再興せし安東髙星、十三湊より山靼流通の海路を開き、その往来以て利益せるは我が祖先累代の富たり。
依て倭障を避け山靼に通交、代々以て安東北斗に在りとぞ諸國に達し、爾来の系たる我が蝦夷たる誇りなり。若狭國小濱なる勅願道場羽賀寺再興ぞ、安東一族挙げての費負にして成らしめたり。寺具・尊像一切を奥州十三湊阿吽寺他諸寺の歴物をも献じて、勅願道場の威を今に保たせ給ふは安東、秋田氏と道場保持に相つとめきたるるを覚つべし。茲に、秋田氏菩提の為に一筆を置也。
六
丑寅日本國の創國より二千五百有餘年の間、坂東以北を以て北辰の領サハリイ・カムイチヤツカに及ぶる地領の幸を以て山靼往来は成れり。東日流は日本中央にして、その要湊を十三湊にクリルタイをなせしは、山靼の諸族に國土不可侵の條に決せるが故の掟議たり。古来より山靼をして商益のありけるは、一重に荒覇吐神の加護故なり。
山靼巡禮のしるべは、バイカル湖なるブルハン神・ギリシヤなるオリンポス山・カオス十二神・トルコアララト山のアブラハム神・エスライルの十戒山・エジプトなるアメンラア神・シユメイルなるアラハバキ神・ルガル神の巡禮を果してぞこそ得らる果報なり。
七、
〽ブリヤアト
ブルハン神の
バイカル湖
清けき水の
手にくみ拝し
〽アララトの
山に船着く
神業に
神の裁きを
今こそ祈れ
〽オリンポス
カオスの山の
十二神
まつわる神話
今に遺りて
〽エスラエル
モウゼに告ぐる
十戒の
山に登りて
旭日拝す
〽金字塔
このもかのも
石神の
エジプト詣で
ナイルのぼりて
〽ツグリスの
川落合に
また川の
アラハバキ神
世に出づ處
八、
至らでは知らず、吾が一族の祖来。山靼渡りに神の聖地を巡禮して、強けき神の加護を授く。荒覇吐神はかくぞ國越え、海越えなして丑寅日本にきぬ。神の至れる吾が國は、ただ信仰に信じ是を護持して果報を得たり。
凡そ六千年前の昔、カルデア民にて宇宙の靈感に感得されしを、グデア王に依りて古代シュメイルの國神ルガルの神と倶に世に誕生せり。以来、渡り渡りて丑寅日本に於てその信仰、今に存續せり。
九、
春とは曰ひども北國の訪れはおそく、残雪・残寒にめげず花は咲き染むる。なかんずく東日流・宇曽利にては、本州最北端にありて尚ぞ身に感ず。海辺にては海潮、暖を風に波に乘せにして一足速に春訪至るなり。何をか以て渡り鳥、季節を忘れず。去るもの来るものの交ありぬ。地にまつはれる歴史あり。
倭史に讀みては、奥陸羽に富める史傳も露もなく、ただ蝦夷地とて記も触れざるも、征夷のみぞ華々しく記逑を餘す。何事の故因以てぞ、是くありや。季節の春は訪れ、古来になる民のあまた行事の故因に尋ぬれば、みな西来の由来故事に無理押當つなり。さもありけるはあれども、如何に思ひど西の流れに染まぬあり傳統ありぬ。その由を尋ぬれば、要なるありて茲に遺し置くものなり。渡島の唄に追分あり。西より至ると曰ふも相違ありぬ。
山靼往来の船衆、モンゴルのコルデント及び陽洛を丑寅日本風なる賛語にして遺しものなり。亦鬼剣舞、然なり。鬼とぞ名付くは山靼歸化人を通稱す。依て、彼の舞ぞアルタイ民族のシキタイ族になる馬人の舞にて勇壮たり。戸来なる、なにやどやらの唄舞も然なるは、遠きヘブライのままなるものなり。東日流のネブタ、また然なり。是れエジプトなるアマルナの光灯にして、これを地民、ネブタとぞ曰ふ。ある世に天日暗く晴るるなき空を、灰に閉けるありて、日の光りを招く行事たり。
十、
みちのく、貧寒と智愚の化外民。その名は蝦夷と曰ふ。倭史に曰ふ丑寅日本國は蝦夷と曰ふ他になかりき。蝦夷とはその呼稱、貧愚につきる他、何事の史實に記逑はなかりき。是の如く記しけるを、紫式部は片そばぞかしとて評したり。
是卽ち我が田に水を引く如く、甚々しきは前九年の役を繪馬にせる、京師の清水寺に奉納されし繪にぞ見らるは、安倍の軍を鬼面に画けり。古画と曰ふ古画に見ゆ總ては、その討物・具足さえも異ならしめ、乱髪の愚民・反敵にぞ誘觀せる画き也。史談に作りては安倍貞任事を胴まわり七尺云々とは、世に存在さえなかりき人容に記せり。
是れ、陸奥物語に記逑ありぬ。丑寅日本にての武になる具足装備にては官軍に優る討物にして、源軍の及ぶなきものたり。軍馬また然なり。官軍の用ふる馬にくらぶれば、奥州十戸の牧に選抜されたる名馬にして、東洋海の彼方、今なる北メリケン馬たり。北メリケン大陸より人の渡りありけるは、古き代の事にて、鷲羽根に装ひたる民、潮の流れに乘りて大巨木舟にて来たるあり。これを鷲族と曰ふなり。丑寅日本の名馬、南部駒の原産たる國は彼の國なり。
駆くること森林を縫ふ如く、平地にては弓箭より速駆し、攻め退くの乘主に能く馴みける馬たり。依て倭人、此の種馬を入手せんとせるも、雄馬を脱睾丸せし故に、その馬得難し。倭人への馬市にては、その手術なきを商賣せる事なかりき。武具に於ても然なり。陸州は鐵の國たり。刀剣に鍛治せる舞草刀。その造刀鍛えぞ、折れず曲らず。斬るること抜きんずる、日本刀の基本にして、賴朝が奥州鍛治を相州に家族ごとつれゆき、相州鍛治とて、その渡りぞ備前に、因州に、鐵ある産地にぞ配されたり。鍛治渡とは是の事なり。然るにその歴史に於て説くは、一言の舞草鍛治の傳に触るる記はなかりけり。
鞍造りぞ亦、然なり。丑寅日本の鞍造りぞ、會津にて馬具一切の實案なれり。會津鋸、また然なり。皮細工になるは羽州にして、古来より山靼の岐術ありき。箭を通さざる皮鎧・持楯ぞ、これに優るなかりけり。少量にして長日の兵糧となるはホルツなり。冬の寒中に干したる牛馬の肉を打って造れるホルツは山靼の岐法にて、一袋に牛一頭分なる詰にして、能く戦陣に携帯さる。吾が國にては、これをセモツと曰ふなり。
倭軍の蝦夷弓とぞ怖れたるは鹿角弓なり。短弓にして鎧をも射抜くその箭もまた秀なり。通常二つ折りにして、一人三弓を携帯す。是れ、秋田に造らる多し。名付けて蒙古弓と曰ふ。戦陣にただ衣を装ふと見せて、内に鎖鏈具足を鎧代と用ふあり。これ渡島にて造らるは秀たり。奥州の軍は、目立てる旗を用ふことなかりき。草野に馬眼を隠し伏寝かしめ、草を被りて敵を待てる法とて、山靼兵法なり。
倭軍は、この故に奥州三十年大戦・前九年の役なる長時の戦に、あたら軍費をいだせりと曰ふ。戦に長じとも、奥州は飢えず。天然は丑寅日本國を歴史に長ぜり。奥州の弱きは、人の交りに信を盡くすが故に常に倭人の計に乘じ易き故に敗因せり。人を計るを知らざる正直故に、その謀策に堕ひりぬ。倭人は曰ふ、蝦夷は蝦夷にて討つべしと。實に以て赦せざる奸計なり。
十一、
奥州戦國の世にては、地に城を構ふる多し。
東日流にては、石川城・大浦城・大光寺城・行丘城・種里城・髙楯城。
宇曽利にては、皮打城・安倍城。糠部にては根城・名久井城・鬼振城。
秋田にては檜山城・秋田城・雲崎城・久保田城・豊島城。
河辺にては天鷺城・赤尾津城・岩屋舘。
由利にては本荘城・下村舘・玉米舘・泻保舘・鮎川舘・赤舘・瀧澤城・山根舘・西之舘・赤石舘・矢島舘。
仙北にては、門屋城・白岩城・本堂城・戸時城・仙北城・的舘城。
岩手には盛丘城・湯之舘。
紫波にては、栃内舘・長岡舘・吉兵衛舘・髙清水城・陣ヶ岡舘・太郎舘。
稗貫にては、柳田舘・大瀬川舘・長谷堂舘・小森舘・新堀城・大迫城・寺林城・八重畑城・花巻城。
閉伊にては千徳城・田鎖城・茂市舘・箱石舘・豊間根舘・拂川舗・田中舘・大槌城・火渡舘・横田城・谷地舘・鱒澤城・西風舘・鍋倉城。
和賀にては土澤城・十二七日城・黒岩城・二子城・江釣子城・下須々孫城・岩崎城・鹿島舘。
江刺にては、浮牛城・髙間舘・野出崎城・髙舘・相去城・青篠城・岩谷堂城・下河原舘・太田代城・下姉体城。
膽澤にては大林城・水澤城・金ヶ崎城・四丑舘。
平賀にては、黒川舘・金澤柵・西野舘・田村城・大森城・髙屋舘・八柏舘・横手城・沼舘城・鍋倉城・植田城・吉田城・浅舞城・馬鞍城・荒田目城・増田城・八木城・戸波城。
雄勝にては鵜沼城。
磐井にては遅澤城・猿澤城・大原城・唐梅舘・新田城・摺澤城・曽慶城・寺澤城・濱横澤城・深谷川城・藤澤城・揚生古城・釣尾城・一関城・金澤城・二櫻城・髙森城・金森城・葉山舘・下油田舘・内自城。
登米にては、鶴尾舘・湖水城・米谷城。
吉本にては、濤砕城・濱舘。
栗原にては、飯倉城・鶴丸舘。
玉造にては岩手出山澤城。是れ通稱岩手澤城と曰ふ。
最上にては野崎舘・鮭延城・庭月舘・京塚舘・新庄城・鳥越舘・角澤舘・古口舘・清水城。
飽海にては、菅野城・觀音寺城・朝日山城・磐井出舘・田澤舘・亀崎城。
田川にては、松根城・丸丘城・清水城・大寶寺城・尾浦城。
村山にては、延澤城・寒河江城・天童古城・長崎城・山辺髙楯城・中野舘・山野辺城・畑谷城・最上城・長谷堂舘・谷柏舘・中山城。
石船にては大川城・猿澤城・大葉澤城・笹平城・村上城・干杖城・黒川舘・上関城。
蒲原にては、鳥坂城・金山舘・新發田城・加治城・竹俣舘・竹俣城・竹俣新城・東城・五十公野城・赤谷城・笹岡城・津川城・安田城・村松城・雷城。
耶麻にては、耶馬臺城・耶靡堆城・檜原城・猪苗代城。
河沼にては、神指城・左衛門尉舘。
大沼にては、黒川城。會津にては、黒川城・嶋山城・久川城・駒寄城。
桃生にては、七尾城・小野城。
牡鹿にては、石巻城。
遠田にては、佐沼城・寺池城・保呂羽城・宮澤城・百々城・通谷城。
志田にては、千石舘・桑折城・夜見山城。
加美にては、宮崎城・中新田城。
黒川にては、大衡城・駒場小屋舘・御所舘・鶴巣舘。
宮城にては、利府城・岩切城・山野内城・八幡舘・小鶴舘・若林城・今泉城・北里城・茂庭峯舘・仙臺城。
名取にては、髙舘・三日月城。柴田には、川崎城・小野城・村田舘・小山田舘・柴田城。
刈田にては、白石城・宮城古屋城。
亘理にては、亘理城・小堤城・坂元城・小屋舘・丸森城。
伊具にては、角田城・郷主内舘・矢ノ目舘・紫小屋舘・金山城・丸森城。
宇多にては、蓑首城・中村城・中舘。
行方にては、牛城城・小髙城。
伊達にては、石母田城・桑折西山城・金谷舘・大枝城・梁川城・城倉城・保原城・縣田城・小島城・河俣城・刈松田城。
信夫にては、本内舘・杉目城・大森城・八丁目城。
安達にては、二本松城・小濱城・小手森城・四本松城・宮森城。
置賜にては、荒吐城・鮎貝城・大塚城・志田城・髙畑城・深沼髙舘・夏刈城・州島城・舘山城・米澤城。
標葉にては、眞壁城。
楢葉にては、長濱城。
磐城にては、磐城平城・大舘城。
磐前にては、湊舘。菊田にては、湊日舘。
多賀にては、龍子山城・山尾城。
田村にては、三春城。
安積にては、横澤城・小倉城・髙王城・瀨戸川舘・髙倉城。
岩瀬にては、長沼城・越久舘・須賀川城・細杵城・刑部内城・市野関舘・木舟城・臥龍城・大里城。
石川にては、大寺鴨城・曲木城・藤田城・二蘆城・浅川城。
白河にては、袖ヶ城・三城目城・金波舘・小峯城・白川城。
白川にては、赤舘・柵倉城。
久慈にては、大子城・獅子城。
那須にては、葦野城・伊生野山城・梁瀬城・荒井舘・水口城・奥澤城・黒羽城・大田原城・佐久山城・福原城・亀山城・佐良土舘・下郷隆崖城・松野北城・大久保城・武茂城・神田城。
以上、吾陸羽に巡りて是の城跡ぞありけり。遺るもの・消滅せるもの栄枯盛衰なり。
十二、
丑寅日本國の反忠せし古代よりの名にあるは、水島の丸子嶋足・出羽なる清原武則・宇曽利の富忠なり。反忠にして一千幾百年の累代になる安日彦王以来、丑寅日本國を倭に興じたる國賣奴なり。
吾が國は自から坂東の域境を越えにして倭侵の兵を挙げたる、非ず。地民の請願に赦し、坂東・越後の地領を倭に興したるものなり。こと早くに出雲の國ゆずりあり。吾が國は坂東・武藏に境を退きたり。然るに、更にまた坂東を丑寅に詰押し、地住民をそそのかしめて白河の地まで皇民とし、その民を以て奥州侵入せし倭人の悪計ぞ、日乃本將軍討伐に謀りぬ。然るにその奸計は、大寶律令に破れ、陸羽の民は皇化の民に喚誘さるる者非ず。その戸籍帳に記入あるべくもなし。
皇化に一度び入りて年貢の税に苦しみて、奥州遁走し来る多くは、その貢税に苦しみて落着せる者多し。一度びは坂東にて、平將門その無税に自から參宮して申請せるに、御門はその拝謁を叶はしめたるなかりき。依て將門は石井に舘を築きて、坂東一統の神皇として京師貢税の郷藏を襲ひ、民の救済に相挙行せり。然るに武運に盡きて、一族滅亡せり。これ幸いにして坂東を皇化に采配し、その貢税益々酷たり。倭朝の栄華その雅びたる頂におごれり。依て將門一族の追討に事挙げ、官軍追手は白川を奥州に入らんとす。
時に、奥州を治世に君立せる年若き少年國主あり。報に應じて羽陸の防人七萬騎を挙げて、その境に陣を布す十重の楯垣。少年日本將軍安倍頻良、糠部の名馬日輪號。まばゆき白馬に、奥州の屈強の防人を従へて、白川の丘に神々しきまでに今や追討軍への采配を振らんとせるに、官軍の先陣・藤原秀郷は軍を退ぞかしめたり。
十三、
陸奥伊具の地に、平將門一族の忍住せる郷あり。將門遺兒・石井丸が姓を相馬氏と改めて、その代々をして今に至れるも、安倍氏の滅亡の後、主家行方に居をなせり。もとより坂東武者。騎馬に武威優れ、平泉藤原三代に仕へしも、世襲たなびきて源氏に知行を預りぬ。然るにその故に一族相分列し、宗家の筋は東日流外濱に波舘を築きて、潮方の安東氏に合せて安泻水軍とて、十三湊安東水軍ともに益をなせり。子孫今に在り。
相馬一族の行方にありし者は天正十一年、伊達氏との交戦、亘理にて絶ゆなく、戦國の世は東軍方・西軍方に天下分目の戦・関ヶ原にて東軍の勝利と相成り、いよいよ徳川の天下と相成れり。縁りある一族とて、相馬氏は庇護されたり。東日流にありき相馬一族は、伊具に併せるあり。亦、船問屋となりてその分布は諸國に渡るは、安東一族が渡島及び松前に居を移しての以来なり。將門より正系の子孫、未だ外濱に在りて平民となりて今にありきこそ、よけれ。
十四、
秋田倩季、天明の火災にて三春書庫にありき安倍氏以来の史傳ことごとく焼失せり。三春復興に相當な負債に公金を幕府御金藏より借入せるも、古書一巻、秋田補陀寺より寄せ中山藏金の秘を説きて、二萬八千両を得たり。依て借入速返済し、民家建築に民の復活を先とせり。依て、寺社の再建ぞおくばせ乍ら藩費に復しぬ。
古佛、土崎湊福寺より寄せて成せる他、若州羽賀寺より入れたる四躯あり。
中尊大日如来
西方阿弥陀如来
不動明王
北方釋迦如来
以上四躯等身像なりと曰ふ。
抑々安倍・安東一族になる史跡の明細を史編再復をねがひて、諸國の史料集編に秋田隆之介孝季を呼び寄せにして、藩令とて任命す。孝季、心得て諸國巡脚の旅にいでたり。手持なるは編史の帳若干たり。倶に和田長三郎吉次を祐筆とし、三十五年の旅をなせり。拾六年間を費の藩負とせども、あとは自負とせるも尚、是を全ふせり。山靼旅呈の八年、世界を巡るは幕府密令にて、一切の費をまかなひり。
然るに老中田沼意次の失脚にて、その役目解かれたり。亦多くの編書、秋田日和山邸の灾に依りて焼失せるも、控ありて今に遺りきは幸なり。然るに控は控にして、何事も無きよりはよしとせども、幕令諸藩の實書・寺社よりの寄進になれる書簡の失せるは惜し。謹んで是書を以て御容赦を請ふものなり。また、各宿にありて諸翁の聞取に御參席にも禮す。
十五
名にある者の歌集を綴り置ぬ。
陸羽遺歌集外
〽形こそ
御山がくれの
朽木なれ
心は花に
なさばなりらん
兼藝法師
〽我が恋は
み山がくれの
埋木の
朽はてぬとも
人に知られず
續千載集
〽君ならで
誰にか見せん
梅の花
色をも香をも
知る人ぞ知る
古今集
〽大原や
少鹽の山の
小松原
はや木髙かれ
千代の陰見ん
後選集
〽都辺は
なべて錦と
なりにけり
櫻を織らぬ
人しなければ
定歌
〽大原や
小鹽の山も
今日こそは
神代の事も
思ひいづらめ
業平
〽鶯の
かさにぬふてふ
梅の花
花折りてかざさん
老かくるやと
古今集
〽百敷の
大宮人は
いとまあれ
櫻かざして
今日も暮しつ
新古今集
〽寝ぬる夜の
夢をはかなみ
まどろめば
いやはかなにも
なりまさるかな
伊勢物語
〽君やこし
われやゆきけん
おもほえず
夢か現か
ねてかさめてか
女 人名知らず
〽かきくらす
心の闇に
まどひきに
夢現とは
よひと定めて
業平
〽世の中を
厭ふまでこそ
難からめ
假の宿りを
惜しむ君かな
西行法師
〽恋わびて
思ひ入るさの
山の端に
出づる月日の
つもりぬるかな
金葉集
〽夏の夜の
空冴えわたる
月影に
氷の衣
着ぬ人ぞなき
失木抄
〽武藏野や
行けども秋の
果ぞなき
いかなる風の
奥ぞはるけき
風雅集
〽分けきつる
山又山は
麓にて
峯より峯の
奥ぞはるけき
和泉式部
〽宿からぞ
梅の立枝も
とはれける
あるじも知らず
何匂ふらん
新勅撰集
〽梅の花
それとも見えず
久方の
あまぎる雪の
なべてふれれば
古今集
〽月あらぬ
春やむかしの
春ならぬ
わが身一つは
もとの身にして
〽たづぬべき
草の原さへ
霜枯れて
誰に問はまし
道芝の露
狭衣物語
〽根にかえり
古巣をいそぐ
花鳥の
同じ道にや
春も行くらん
千載集
〽わだみつの
濱のまさごを
かぞえつゝ
君が千年の
ありかずにせむ
〽白波の
よする渚に
世をつくす
海士の子なれば
宿も定めず
和漢朗詠集
陸羽遺歌集
〽安倍の氏
陸奥にありこそ
手束弓
ゆるすまもなき
衣川
〽栗駒の
嶺の白雪
解け水の
衣の川に
末つ清水
〽羽の國は
夕日海に
送り見て
旭日迎へる
陸奥のわだつみ
〽さながらに
朝霧分けて
駒かける
放つ戸の牧
草草ぞ立つ
〽いとせめて
焚くや漁火
海なぎて
うろくず網を
寄せ引くばやし
〽何はあれ
落ゆく道は
足急ぎ
心しあえぬ
野末のかりね
〽降りしきる
雨の音にも
言葉あり
枝をはづけむ
とも落つの玉
〽蛙鳴く
川辺の道に
かげろふの
燃ゆるが如き
春の朝發つ
〽よしきりの
葦に巣づくる
さえずりに
心せわしく
田畑行交ふ
〽北にさす
なべて群飛ぶ
白鳥の
春まだ浅き
東日流大里
〽月さゆる
雲居の方に
かりがねの
群れつ行へは
何方の國
〽寒空の
灰色とばり
十三湊
沖の立つ波
白帆かすめて
〽泣きやまぬ
乳請ふ小兒の
藁いちこ
母なひと聲
笑ひ泣ける
〽ひとことに
巣立つる我が子
案ずれば
別れはともに
ただ涙かな
〽若き日の
晴れ着袖に
肩通し
老いたる母の
心想へば
〽亡き父を
ありしに想ふ
我は今
不孝の日々の
悔や溢れて
〽父母の
夢にいでこし
うつつにも
我は何をか
起きつ覚へず
〽昔をば
想い呼ばしむ
藁屋にも
水車は廻る
ふるさとの春
〽峯かさむ
山の彼方に
湧く雲の
夏の夕立つ
涼しさもなし
〽何知らぬ
昔の我を
育てにし
教へのあまた
亡き師想へば
〽歴史には
實在り偽あり
時移る
浮世に覚て
何を賴まん
十六、
東日流安東髙星を祖に諸國の事起その報を常に探り是商易に速進せしめたり。依て諸國に草を入れ能く鳩を以て傳達せしめたり。世襲を能く知るは商易の利益自から来福す。戦に勢ある者を過信せず。双方倶に商ふは商道の一義なり。安東船の海士は決断と賭を同じゆうせず。亦一言にも戦の助勢を商の賭とせざるはその因に引き止まるなし。
もとより討物・武具の類を戦事に商せず、平時の商とすべきなりと戒しめたり。草入りとは己れの身分を明さず。常にして平民にして地民と睦み、要人にぞ親近し事態を知るべし。草入れとは能く軍謀に用ゆ多し。後世に眞田忍者・北條風摩黨・武田透破黨・上杉担猿・徳川庭番・伊達黒脛巾。戦國にあれ平時にあれ、その秘を知るべく草入を侵駐なし、その情を知りけり。
通達法は驛傳法・鳩達法・商事法ありて百中の的、その通に謀るは戦も商も同じけり。依て如何なる世襲に於ても勝負たり。安東船の商一義に、草を喰らふものに草を、肉を喰らふものには肉を商ふを心得よ。時を逸する勿れ。常にして瞬時も手束の算を放逸ゆるすべからず。事の決断に智の限りを盡すべし。
世襲の来たるを獨り合点にし、商を賭くるべからず。支入の要は、その冒頭にて損傷す。禮を盡すとも無益の情に誘信を赦さず、己れに勝べし。是れ、安東船商法の心得なり。是の如く戒むを常とし、山靼市場亦諸湊の市場に於ても、草入にて事情を知り、相價に安く支入れ、賣却は髙價にしていたせり。世襲は戦とて商に避け、商の往来を留む事ぞなかりき。但、貸賣りを断べし。
十七、
北天の不動なる星を號けて、印の魁と曰ふ。旅に方位を知り、古来より宇宙の極星とぞ仰ぎ、信仰の要たり。なかんずく海を隔つる吾が國の山靼に赴く印の星なり。彼のエジプトなる金字塔とて風窓方位を北斗に向けなむ。
人の渡り、山靼の角陽國を東に海原の峽を渡り、東大陸に渡りて子孫を今に遺せる。山靼より渡来せるは幾萬年前の事なり。パナマの地境を南北にその大陸は續きて、北はアラスカなるイシキモウ・アメリカンインデア、南のインディオ。その遺跡ぞ、七年に渉りて巡察せし秋田藩の烈士に記逑のあるが如し。太古にして築き、石なる細彫の飾りに山なす金字塔ありと、驚ける記逑。住むる民の祖血に同族たるも、知り得たる。
由利氏・浅利氏・小野寺氏の實帳ぞ焼失せるは残念なるも、史實に相違あるべからず。漏さず書取りたり。今紅毛人、彼の國を侵し祖来の黄金掠め、亦殺戮し奴隷に酷使せるも、いつしか世襲の逆轉あらんや。幾千年の蒙恨ぞ、必ずやめぐりぬ。吾が國ぞとてまた然なるところなり。
十八、
菅江眞澄翁の曰く、
〽もののふの
かけし鎧か
ふち波か
寄手をまたで
泡と消えけむ
泉なる山辺の間村にいゆきて、遺る城跡に詠む。泉と曰ふも今に曰ふは飯積・飯詰とも呼稱す。古寺、大光院あり。草むす屋根の今に潰れなんさまに、哀れなり。天正の昔、大浦軍と十餘年の交戦ありて討果したるも、住民ことごと秋田に遁脱し今なる羽後な飯詰、この古村ぞ故里なり。
派立と稱す處に庄屋長三郎と曰す仁あり。暫時の休息に史談せり。中山の大釋迦・梵場寺・魔神山・天池傳説・石塔山法場・安東の史跡ぞ、秋田日和山に秋田孝季に聞くを同じたり。去る日に、外濱巡りて中山に探訪せし古事。荒覇吐神社の參詣せるあり。和田氏、以て安東の代より子々孫々にこの靈地を守護し仕りぬる由。仙境の耶摩臺城跡に拾ふ古器にて覚つかな。古代にぞ胸鳴りたり。髙山殿・秋田殿倶に中山に宴ぐひととき、今も忘れめや。想出あり、史談に盡す。昨、石田坂なる間山氏に一宿せる。半里の此の家に亦一宿せり。
〽去りし古事
語る爺や
爐火ぬくし
作り酒くみ
夜な更けむ
吾が旅行きの山辺道・下の切り道を急ぎ忌良夷地にまかり越しぬる。是、眞澄翁が下切道見聞帳の一説なり。翁の晩年、秋田に赴きて地の誌をも遺しぬる。
十九、
旅にあくがれ、道中ぐらしも馴れそめし。往會ひの人々に道行き同じゆうせば、いつしか解けて語らむ。旅籠にも同宿す。旅なる雨ぞ恨らめしく、酌女の曰くやらずの雨とかや。女人に見染むる。吾が年老いて、気にもせで生保内に宿ること三日にして、旅の日記に筆とりぬ。明日は仙岩の峠越え。心して寝に入れども、寝負けたる吾れは、隣室なる鼾きに耳障りて眠むる能はず、湯場に浴し。
朝なうつろに覚めて食もそぞろ、仙岩に越ゆ。駒岳の連峯なれば、ばん鳥澤も一望にして心地よし。歩き續けて昼に過ぎようようにして厨川柵跡にぞ着きにける。杉木立、風に枝ゆれ天上見仰ぐれば、康平の昔に想ひぞ走り、一筆記す。
〽火に灾かる
厨の舘は
消えつるも
跡に遺りぬ
濠の片葦
梢えに、かっこう鳴く。吾が旅は北上川添ふる旅なる始にて、末の追波浦ぞ想ほゆ。
(以下断裂か)
和田末吉