北斗抄 八
(明治写本)
非理法權天
此の書は他見無用・門外不出と心得よ。一巻とて失なふべからず。能く保護すべし。
寛政五年
秋田孝季
諸翁聞取帳
一、
昔、正中山の梵場寺に正覚と曰ふ修験者住めり。寺とは曰ふも、深山にして誰とて參詣せる者なく常にして此の行者、山に生ゆる薬草を採りて、里に降りて米及び干魚・鹽などと物交して暮し居りぬ。
此の寺に祀らる本尊は釋迦牟尼佛にして他はなく、是を北斗の釋迦とし祀りきは、有澗武と曰ふ長老なり。此の長老の武勇傳あり。阿倍の比羅夫と曰ふ者、舟師百八十艘を卒ひて飽田沿岸の地民の財を掠め、東日流吹浦に上陸せんとするを有澗武、是を向撃てり。比羅夫降伏し、舟五十艘・掠物を返上し、積船の品々有澗武に献じて赦されたり。
梵場寺に住むる行者、有澗武の子孫なり。幼少にして佛道に望みて、出羽にて法名を授け此の山に住居せり。その行者いつとなく山を去り、出羽の羽黒山に宙を飛びて行くを見たる人ありとて人々、此の山に登りければ天より珠の光りぞ雨の如く降り、地上を螢の如く浮遊して消ゆるなり。人々是を正覚の靈とて、梵珠山とこの山を號けたり。この光珠の降るは毎年にして日を異に、此の山に連峯する魔ノ岳及び石塔山にも見ゆこと叶ふなり。
寛政六年七月十三日
大光院照覚
二、
役小角、東日流に遺したる修験の要法ぞ、従来になる佛法と異にせるあり。先づ以て金剛藏王權現の感得なり。此の尊像は權現にて、垂地なり。依て本地の感得よりその以前になるものなり。役小角、本地尊の感得を求めて大峯に全能法力を以てその示現を求めども、至らず。訴人ありて科を蒙り伊豆に流さるも、大寶辛丑の年許されしも、復た權現の本地を求めて唐に渡らんとせるも、玄海灘にて嵐に遭遇し若狹の小濱に漂着し、陸路犀川に至りて三輪山に登り、本地示現の修法せし夜。役小角、夢に阿羅々迦羅靡仙人いでこして告げり。我、浂と丑寅にぞ會はん。とて夢覚めたり。
役小角、十人の門弟を倶に大白山・立山・羽黒三山・鳥海山を經て、その都度に本地の示現を修せど現るなく、更に丑寅北辰に進めり。ようやくにして本州の果つ國なる東日流に至りて、その半島なる中山に梵珠連峯を一見にして、悦こべり。彼の夢にいでこしたる丑寅の山なる石塔山に入峯し、本地尊感得に日夜の行法をなせる九月十九日の朝まだき。大石台に金剛藏王權現尊が先づ示顯して、消えがた次に顯れたるは金剛不壊摩訶如来なり。
印相施無依にして半跏趺坐なり。蓮臺四天の肩になし、臺坐下に獅子・象・龍・虎の外陣。その内陣に大日・阿閦・阿弥陀・薬師・釋迦等伍佛の臺座ありて、金剛不壊摩訶如来を支ふるその像相たり。役小角、三拝九拝行なし、筆とりて御相を画き了るや、紫雲となりて宙に消え、石臺に一片の衣と舎利ぞ遺したるありぬ。これぞ金剛不壊摩訶如来の賜りし法の寶なりとて、卽日にして金剛不壊摩訶如来を彫り、その胎内に納めたり。
役小角、門弟に曰く、
吾が修せる法は法報應の三身卽一身にして、山と云ふ字に説きぬ。是れ過去・現在・未来の三界にも意趣し、亦信仰の三要・佛法僧の歸依に當るなり。此の感得せし石塔山は荒覇吐神の鎭靈せる處にて、古より人々の信仰に深き山なり。荒覇吐神とは天竺をはるかに西にまかりて至る國にて、趣命留國と稱せる國より躯出亞民の信仰なる天地水の三神を卽一身にせしを、荒覇吐神とて成らしめたる神なり。
此の神に垂尊ありて、留迦流神と曰ふなり。此の國は四方に他王國ありて常に攻伐し攻防常なれば、躯出亞民、北辰に安住の地を求めて子孫に越え吾が國の東日流に来着せしは四千年の前なることにして、此の神を新天地に祀り、先住地民倶に崇拝せしものと古老の曰ふ、石塔山の由来なり。依て神道に於ても亦、天地水の三寶なり。
神佛は一如なり。何事も宇宙の法則に三界は在りて眞理あり、哲理ありて法則より越ゆこと能はざるなり。吾は茲に宣す、金剛不壊摩訶如来、金剛藏王大權現、發願引導法喜菩薩。右三尊を以て修験宗と立宗せん。此の法は吾が感得なせる無上の求道に至る、生死の衆生を導く安心立命なる法門と為す。
是の如く役小角、世に宣言して往生せりと曰ふなり。
寛政六年九月十九日
和田長三郎
三、
金剛不壊摩訶如来
金剛藏王大權現
法喜大菩薩
右三尊は役小角行者に依る感得尊にして、日本及び倭、亦韓・支那・天竺に尋ぬるもあるべくもなし。
役小角が生涯をして佛に神に諸行を盡し、老寂の寸期に本地を感得せしものなれば、なかんずく金剛藏王權現の本地尊・金剛不壊摩訶如来の存在、知るべくもなかりけり。
救済經
如是法衆生求道最勝道也。至求生死三界安心立命、是為不轉倒、本地全能大神通力金剛不壞摩訶如来、攝取不捨安心立命引導尊也。無諸々三界安事、魔障靈障恨障惡障貧障苦障病障人障、是生々七障也。除是金剛藏王大權現也。降魔忿怒以全能神通、是調伏護信仰入道者若是輕笑為惡者、卽滅轉生八相、不人體得、墮餓鬼畜生道、受長時不娑婆往来甦永久也。法喜菩薩、修驗宗求道者信仰者諸厄受、代衆生救済引道能發願可、云々。
是の如き經なるは役小角自からなる法典にして、南無を付せざるは神佛混合の修験道故なり。浂等一度び石塔山に詣で能く發願し厄除に己を安じ可。
寛政六年九月十九日
和田長三郎
四、
無常は憑み難し。今の世の世に業報を明らめず善惡を辨まえざる邪見の黨侶に群すべからず。徒らにして光陰空しく渡るべからず。無常は忽ちに到るなり。生れしは父母の授けあれども、死は唯獨り黄泉に趣く耳なり。生々に惡を造りながら、惡に非らずと思ふ心ぞ、惡の報復を受く多し。
信仰はかゝる人心の迷惑に懺悔を感得をならしめる求道なり。たとい過却の惡業を重ねたる者とて、善人と等しく衆苦を解脱せん。信仰は心の良薬なり。その發心こそ神の浂を招きたる靈告なり。己れの知覚のみにて神事・佛事の法に獨行せるは、憐れむべき愚行なり。
正法知りて正法に外れる因となるは、是の如き者を曰ふなり。日々の生命を等閑にせず、光陰迅かなれば身命また露より脆し。心して石塔山の救済道に己を求道せよ。
寛政六年九月十九日
和田長三郎
五、
釈迦は人生に唯一の法を遺したり。
〽諸行無常
是生滅法
生滅々己
寂滅為樂
譯せば、諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅を滅し己り、寂滅を楽と為すと云ふ意趣なり。彼の役小角もまた是を好みて誦したり。
修験金剛本垂陀羅尼經に曰く、
のうまく さんまんだ
そろばや はらそろ
はらぼた さとばん
じんばら まにそばら
まかぼだら さんまんだ
ぎやたり まかそもこ
きやらや さんばら
そろばや あびらうんけんそわか
ぼうじはらばり
べろしやな まかまにうん
ぼうじしつた ぼだはだ
まかあら たんのうこんごうまかによらいあばえん
唵金剛不壞摩訶如
来本地唵金剛不壞
藏王權現垂地唵法
喜菩薩安心立命
引導尊諸行無常
是生滅法生滅々己
寂滅為楽
是誦法修験密
教奥義三昧諷誦
右の如く役小角の遺經にも加誦ありぬ。
石塔山荒覇吐神社
歷代社主當主
和田長三郎吉次
六、
石塔山修験宗大要
宗祖 耶靡堆國葛城上郡茅原郷之住人
父 髙加茂役公
母 須惠
俗名 役小角 法名 役優婆塞
天皇賜號 神変大菩薩
門弟 唐小摩坊
大祥坊 小祥坊
空梅坊 導念坊
修導坊 大覚坊
三輪坊 蘇我坊
大峯坊 熊野坊
葛城坊 以上
右之代以下、日本將軍安倍一族の庇護たり。
寬政六年九月十九日
和田長三郎吉次
七、
奥州東日流中山に耶馬苔城ありぬ。またの名を耶靡堆城、亦は耶馬臺城と曰ふ。此の城邸、東西の堺に石垣を施し、上磯の海を一望す。五澤相落合ふ程に星型なる城邸たり。
是ぞ倭人の築城なるも長く保たざる城跡にして、津保化族の攻めにて城住の者皆、大倉山の大穴に投ぜられしに、地人この地を、兄落し、叔父落しと曰ふなり。石垣、今に現存し星型見ゆるも、木立葉枝の頃は見付け難く、秘境たり。
寛政六年八月一日
土屋仁三郎
八、
いわれなきを宣布し罪科もどきに堕しめん、とする輩あり。そして己れを世に知らしむる愚者のあるはいつ世にもありき。役小角の門弟・韓廣足と曰ふありて、常に朝宮に役小角を目安せり。笑止とて、その聞を聞き流しけるに遂に捕手の者、小角を召捕りぬ。
然るに如何に捕ふるも小角、自在に己が住居に往来しければ、是を断罪とて斬首の刑に處するも、その刑場に雷急襲し、刑手の太刀を三段に折りたる奇想天外なる奇蹟ぞ起りぬ。依て小角を打たず、母の須惠を斬首しその生首を小角に屆けしに流石、小角も伊豆配流の罪訴に従獄し、母の骨を鐡鉢に納め、日夜獄中にてその菩提を修しける。
獄中記に曰く、
神よ佛よ、我罪の犯さざるに何故我を獄吏に圧し、復さざれば母を代刑に處するは、神佛の裁ぞ何處に失せにしや。世は神佛の末法に至りしや。神佛の裁ける天秤の魔障に呪はしや。答へあれ。我れ七轉八倒の心苦に念怒あり。母を我を是の如きに責苦に至らしむ者、一人とて赦さじ我が神通力に於て裁かん。
役小角、獄中にて金剛藏王を呪念しければ、天は黒雲に満ち雷音・稻妻宙を走りて、役小角を貶めたる者、皆この雷光に誅死され、あはや御門の御所に落雷して灾焼し、小角を訴人せる八宗の僧侶ことごとく変死せり。
依て是ぞ、小角を無實に獄しその母を處刑せし祟りとて、大寶辛丑年春、天皇自ら勅令して小角の配罪を解き、國中自在に修験の法布教に何事の科非らずとせり。
寛政六年七月十日
大光院忍海
九、
おんぼうほていりぎや
たりたたぎやたやの
うまくさんまんだ
ばんかん喝・
役小角が獄中にて常に是の如き眞言を唱えたりと曰ふ。この剣印は必殺の呪印なりと曰ふなり。
剣印、調伏、必殺、狂死、剣印、護摩焚祈の呪也、呪場
呪文、呪詛形、打釘七寸
右、語印にて記す。
寛政六年七月一日
大光院忍海
十、
金剛藏王の靈力は求道の者を護ること金剛不壊なれば、佛道に神道にある僧侶・神司にて如何なる拝祈にも不動にして、忿怒に呪祈されて解くる術もなし。
是の役小角が金剛藏王權現を感得せしは、金剛山にて八十八日の願行にて感得を為らしめたるものに、その靈光は不動たる北斗星より天降れりと云ふなり。
天空に聲ありて曰す、
浂之請願天聖達、諸神選金剛藏王權現、浂之主尊為、求導依浂救衆生、是主尊本地感得、浂本願成道為、菩薩能勤本願、云々。
まさに小角耳にして宙に双掌して拝す。
寬政六年八月五日
大光院忍海
十一、
役小角は葛城宮・三輪大神・膽駒宮に神道の本願に求道せども、その眞理得道せず。難波の堀江に唐僧小摩坊と出合ふて佛法の意趣を學びたるも、その宗に數多くして一法なるはなかりき。
大日宗・倶舎宗・律宗・法相宗・念佛宗・禪宗・眞言宗・天臺宗、何れも宗旨相違し求道の正法に遭遇難しとて、獨り仙境に入りて求道せり。唐小摩、常に小角に倶をしその修法に導くも、何れも小角に得道なかりき。遂にして金剛藏王權現を感得に至りては、小角衆に説く、
抑々、我仙境に入りて神と佛道の意趣を究せど、眞の理趣に叶ふ非ず。我れ茲に獨明せし金剛藏王權現こそ、今なる神佛をして爭ふ衆生の迷信を砕き、正法に大乘せるの根本を得たり。今五濁の世襲なれば、金剛藏王權現の救済に心身を以て本願を請ふて叶はざる多し。
我は行者にして僧に非ず。唯一向に眞の哲理を信仰に求て得たり。安心立命は上に下になく平等なり。八宗をして佛寺をなし大佛を安置せるとも、是ぞ理趣に求道とせども何事の法果非ざる也。信仰は修験なり。依て吾れは、その奥義を得たり。来たれ、正法は浂等のものにして、位あるは外道の教なり、
と衆に説きては群をなして小角のもとに參拝す。金剛藏王權現の布教ぞ、八宗の信徒も抜けにして小角のもとに集れるを八宗の僧ら、是を邪教とて朝に提訴せり。
寛政六年五月七日
大光院忍海
十二、
役小角仙人、奥州東日流中山石塔山に入寂す。ときに大寶辛丑年十二月十一日なり。
日本將軍安倍國治・五十六郡の長老皆、石塔山に集りて葬儀せり。門弟十二人大いに悲しみ、故役小角が感得せし金剛不壊摩訶如をば小角の等身に像彫せりと今に傳ふ。
寛政五年七月五日
和田長三郎
後記
此の書は役小角及び梵珠山石塔の傳説を集したり。現存せる石塔山役小角墓ぞ、八尺の盛塚にて圓墳陵なり。
入寂日冬十二月なれば、九月十九日なる石塔山大祭を以て追善を今に祭せり。茲に謹んで祖師の菩提を追善し奉るものなり。
寛政六年十二月一日
和田長三郎
和田末吉