北斗抄 七
(明治写本)
注言
此之書は門外不出、他見を無用とす。子孫を以て代々大事と心得て、時節當来を待つべし。
寛政六年七月一日
秋田孝季
陸奧郡誌序
倭史諸書に歴史の事を記しあり。吾が北日本の古き事をも記す行、是ありける。然るにや、何れな行文とて實相に當るは皆無なり。抑々丑寅日本國を蝦夷とぞ賎名し、化外なるまつろわざる反民とて記録を要とせるは甚々尋常なるざる行為にして、ただ國賊のたぐい征夷の意趣にて、挙兵扇動に用ゆる一方、得誘に記されたるものに他非らざる也。依て倭書を以て吾が丑寅の實史を知る事、能はざるなり。
まして神代之事あるべくも無く、代々天皇の古史傳記の事ぞ世にあるべきはなかる可き架空造話にて、天皇在位百歳を越ゆなど亦、天皇三代に仕へたると曰ふ三百年歳の竹内宿禰の如きは叶はざるおとぎ童話に等しき。まして吾が丑寅の日本國史など萬に十ありや、千に三つありや。否、全空なり。神代を以て古代久遠に綴りて史頭とせるより、天皇を天孫と奉り皇紀を二千數百年に創國とせしは、丑寅日本國が山靼と交わりき六千年の下史に在りけるなり。抑々吾が丑寅日本史は語部なる語印にぞ記し遺されたる古代民の直傳に依りて史證さるるものなり。
丑寅日本と國號せるは支那になる旧唐書・新唐書に冒頭なる記行ありて、倭國を別したるは明白にして、焼失せると曰ふ倭の國記・天皇記にその證を記せり。いみずくも此の両記は蘇我氏より坂東の荒覇吐神社に奉納に保たれ後世なる平將門、是を大事と保護し奉り安倍日本將軍に委ねられたるものなり。依て本書は此の両記のみ全參考に入れて語部語印になる歴史を併せて構成し、茲に北斗抄と號く全廿六巻を以て畢んぬ。
文久二年八月十五日
物部康祐
陸奥郡誌
一
吾が國を西にまかりて幾千里の隔つ國ありて國の名をシュメイルと曰ふ。住人をカルデア民と稱し、一萬年前より宇宙の運行を仰ぎ、日輪に廻る大地に赤道ありその南北をして黄道ありと覚いたり。黄道とは日輪が赤道を北寄り南寄りけるに春夏秋冬の候をもたらすとて赤道・黄道にかかれる星を視線し十二星座を定め、一年を三百六十五回の日輪なる明暮れありと覚りたり。その明けにかかれる時を夜十二・昼十二の割合を十二割る六の時を計り、その一時を六十分とし、六十の一を秒とて、一分を六十秒と積算せり。
月の満欠を輪廻せる干満の海潮を覚りたるは、一万年前なるカルデア民になれる則定なり。亦古代なるシュメイルに於て成れるは餌となる草の耕作なり。チグリス・ユウフラテスの川辺に引水し穀物を収したるは、世界人種いずれより先端を抜きける農耕を創む國たり。依つて暮しに富み、人集りて茲地上初なる都作りをなせり。泥版に文字を押當て、國民皆文盲なかりき。民は國主を選びてギルガメシユ王を第一世とせしは六千年前の史實なり。
ときに吾が丑寅日本國にては、山靼擴く人の住むに定住なく大毛牛・大毛象・大毛犀・大角鹿・野馬・熊・狼・虎・豹・山羊などを狩猟し移る民あり。常に獲物を追ふて大廣野を極北の果までも渡る民あり。その歴史に於ては十萬年乃至三十萬年の古きにあり。世界に子々孫を遺せり。狩猟の處地はモンゴルにて、アルタイの果つる原野を渡りて住みにける。吾が國に渡来せし初祖はこの民にして、先住たり。クリル・アソベ・ツボケらの民族。倭書にては麁蝦夷・熟蝦夷と記あるは是れに當らず。降りて荒覇吐族たる民族一統の世なり。既にして稻作ありしも、蝦夷は肉を喰い血を呑めりと賎稱しけるなり。丑寅日本國に大事たるは荒覇吐神の一統信仰なり。
これぞ古代シュメイル國の神にしてカルデア民の宇宙への信仰に創り、トルコ・ギリシア・エジプトに渡りたる信仰の源たり。シュメイルにルガル、トルコやギリシアにはカオスより多神にしてゼウス・アテナ、エジプトにてはアメン・ラアの神の他多神たり。戦乱にてカルデア民は四散し、天竺に渡りし民はシブア、支那に渡りし民は西王母、アルタイ及びモンゴルに渡りし民はブルハン、そして吾が國に渡来せる民はアラハバキとて先民の神と併せて信仰を一統せしものなりき。
カルデア民の故地に遺したる信仰の法典はギルガメシュ王の叙事詩とて遺り、キリストがアブラハム・エホバの神を想定せるものとなり、聖ノアの洪水傳説は古代シュメイルの神話に出づる話源なり。ギリシア神話・天竺のラマヤアナ・モンゴルのブルハン神話に至るすべてに及ぶなり。その要は破壊と創造を恐れ敬ふるに信仰を導くも、地に傳来せし神々を併せるが故に多神を加ふる故に、後世に修成さる多し。
吾が國耳は源にある大要を重じ、是なるはなかりける。今にしてアラハバキと稱名せるはその證なりと曰ふ。古来丑寅日本に渡来せる山靼人に人の種族多かりし。紅毛人ありきも、その居住をして衣食住の異にせるさま、道具にては鋸を鍛冶して造り、鐡を川砂に集むるなどとの岐法に、地民これに習ふ。紅毛人をして鬼と言ふは、鐡をただらせるを言ふ。依て紅毛人とて居住を嫌はざるなり。彼等の信仰もまた授け入りて、丑寅日本に荒覇吐神の流布せる故縁たり。
紅毛人に依りて知るは、彼の國なる諸々の古事及びそのくらしにて、野草のなかに集植せるより農耕を知りける。更に薬となるもの、毒たるものの覚得、漁網・舟造りを習ふる數々に地民の暮しぞ大いに改む豊けきを得たり。語部の語印とは彼等より習得せしものなり。丑寅日本の先民は山靼より祖血を継ぎて今日ありぬを知るべし。
文久三年八月十五日
物部康祐
二、
吾が國の古代を知るべくの要は、樺太をルキ・渡島をオショロ・千島をカムイケシ。本州に入りては
されば吾が丑寅日本國にモンゴルより馬渡りけるより牧の自然に備はる地は糠部より荷薩體・閉伊・飽田・伊治・三春・庄内の地位なり。古語に曰ふならく、地稱とは古稱に遺るはまれなり。然るに人の生息を知るは地に器片ありて、耕作の田畑より鍬にかかれる出土ありてその作に見て明白なり。丑寅日本國とは倭の境を、坂東の安倍川より越の糸魚に断帯せる地溝を横断し、東西の海に盡きる以北を日本國領とし、その西南は倭國とてもとより國を別とせり。
倭書に如何に記せども、古代歴史の實相に當て眞の記逑はなかりけり。倭史になる奥州の記は降世に聞書せる多くして、倭の出来事に併せたるも相違を併すこと叶はず、權者に依り作説されたるものなり。倭史にいでくる蝦夷たるの名に當るは五王に非らず、エカシたるたぐいなりて、次の如し。
嶋津神・國津神・足振辺・大羽振辺・遠津闇男辺・綾糟・恩荷・沙荷・宇婆佐・馬武・青蒜・膽鹿嶋・兎穂名・伊髙岐那・脂利吉・麻呂・鐡折・道信・自得・八釣魚・伊奈理武志・邑良志別君宇蘇弥奈・須賀君吉麻比留・遠田君雄人・和我君計安壘・宇漢米公宇屆波字・吉弥候部伊佐西古・伊冶公砦麻呂・志良須・宇奈古・伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代・阿弖流為・膽澤公阿奴志己・爾散南公阿波蘇・宇漢米公隠賀・吉弥候部眞麻呂・大伴部宿奈麻呂・吉弥部荒嶋・吉弥候部田刈女・吉弥候部留志女・大墓公阿弖利為・盤具公母禮・浦田臣史閫儺・去返公嶋子・伊加古・宇漢米公色男・爾散南公獨伎・置井出公砦麻呂・竹城公金弓・遠膽澤公母志・都和利別公阿比登・物部斯波連宇賀奴・道公宇衣古・道公宇奈岐・宇賀古秋野・尺漢公手纏・玉造字奈麿。
右の如きは倭史にいでくる蝦夷の長たるの連名なり。是の中になる日本將軍の下臣なく、造名とおぼしき耳なり。とかく蝦夷名にては倭人の覚ざる處にて、何れも築紫郷になる豪族長の名に等しきなり。陸奥をして當たる古話とて、倭のかしこになる古話を當たる多きは、倭史の得意とせる處にして笑止千萬なり。丑寅日本の史は要に日本將軍の記行、亦安倍氏なる記逑なくして史書とは實史に當らざるなり。
文久二年八月十五日
物部康祐
荒覇吐神傳記
諸國にアラハバキ亦、客神・客大明神・門神・門客神とて今に遺れる神こそ、古代より日本の國神にして荒覇吐大神と稱して正しけれ。語部録に曰く、荒覇吐神の祀りき處にありき地領に必ず以て日本將軍の政處ありき處なり。荒覇吐神信仰こそ丑寅日本國の民に一統信仰に治政の次に重んぜられきものにして、茲に五十六郡挙げて社をなせり。
神像を以てせる祀法に非ず。頂満に森林繁り、髙き峯を以て能く祀られたり。天地水三要を以て神とせる信仰なるも石神亦、降世に於ては像を安置せるもあり。是を掟に禁ぜるは、古今になかりきなり。カムイノミを焚き三股の神木ありき社を無上とせり。社に流れあり亦、湧泉ありてよろしきなり。ヌササンを設するに、祭處は渡島の熊祭イヨマンテを知るが如く、女人は踊り、男は刀弓身に舞ふるなり。是をクリルナアダムと曰ふ。カムイノミに此の祭日に造り置きたる土形を干たるを持寄りてカムイノミに素焼し、神の御魂をエカシに依りて火入さるなり。
焼入にして破せるものはカムイノミの火爐に埋め、完全たるを神とてコタンに祭祀さるるを常とせり。神に奉ぜられし供物になるは山海のものにして、類を異にせざるなり。イオマンテクリルの渡島の民は古来の傳統を正傳し、今に祭るは唯一向に祖来の忠實に護るを旨とせる。他に何事の無上なる神は非ずと曰ふ、執命になるものなり。古代シュメイル國のチグリス・ユウフラテスの大河にアデフウに住居せしカルデア民になる發祥アラハバキ神こそ、元なる民の戦乱脱難に依りてトルコ・アラビアを越え、アルタイ大平原をモンゴルを經て、黒龍江を降り流鬼に至り、渡島に渡り更に東日流に渡来を得たるゝはるかなる故地を放棄し、カルデア民の新天地に安住を賭けたる脚跡ぞ六千年前の古事になる執念、今世の民に得ざる業績なり。
古老に曰はしむれば、吾が國に初なる渡来人は十萬年乃至三十萬年を以て歴史を遺せりと曰ふ。アラハバキ神の以前には、天なる神をイシカ・地なる神をホノリ・水なる神をガコとて既神ありと曰ふなり。卽ちアラハバキ神と意趣を同じゆうせる信仰のありきに奇遇せるを以て一統信仰を速したり。
明和乙酉年六月吉日
浅利兵庫
東陸日迎之海記
吾が國は倭國より早く山靼より佛法渡来す。古来、荒覇吐神一統信仰の故に佛法の意趣、民心に染まざれば閉伊の東海に西法寺を建立して安置せる月氏渡来の佛陀像あり。地民知らずして、是を荒覇吐神とて祀りて拝す。その西法寺ぞ、今は邑名に耳遺りき。
淨法寺の建立はその後にして、今は天台寺と改號しけるなり。西法寺の山田泻に移るは永保元年にして、安倍正任の起願に叶ふも、是を佛法に非ずアラハバキとて宮居に建立しけれ。今にして地名をもアラハバキと遺りけり。正平六年に豊間根太郎睦任と稱す者、此の像アラハバキ神にぞ非ずとて瀧澤の報恩寺に移しけると曰ふも、その寺跡ぞなし。
文久二年五月三日
髙橋導念
厨川夜話
承久庚寅年に安倍賴良の舘・衣川二股に本陣あり。その八方に要柵を築きたり。日髙川を便とせるに、その水戸口なる追浪舘・築舘・鳶巣舘・鳴子舘・伊治舘・来朝舘・迫舘・安達舘・米澤舘らを南に築き、厨川に到る要處に十二舘を建立しければときの國司たる藤原説貞、大いに驚きて是を上奏し奉りぬ。
依て防人三百人を多賀城に派遣せり。その報を得て説貞挙兵せるも、都より援軍来たらず、先駆けて賴良を攻むれども手痛く敗れたり。おくれて官軍来るも、倭朝より和睦の令ありて挙兵を解きぬ。天喜の年、突如として宇宙に欠月の光に優る光りを東空に見えたり。占師曰く、日本將軍の一大事なる前兆なりと、騒々たり。
是ぞ星の大爆裂光なりとて、天文卜部告げたる由も、衆はただ不吉の襲来とてイタコ・オシラ・ゴミソの住居に溢れたり。ときに厨川に仙人あり。安倍一族あと七年にして滅亡すと曰ふを流聞、賴良に屆きぬ。依て良策を考じ、八男則任を東日流上磯に、家来二千人を添へて移しめたり。是ぞ、十三湊江流間城の建立たり。急築なるが故に、天喜三年に冬嵐に崩壊し急挙、白鳥城を東丘に再築せるは福島城の初なる創城たり。その以前、上磯なる磯松に墳舘を築きしは安倍頻良にして、もとより十三湊一帯に築城をなし、マツオマナイに船を往来せしめたる處なり。
十三湊は江流間城・白鳥舘・墳舘・唐川城・鏡舘・福島城・新城・青山城・柴崎城・中里城を世襲に遺したり。羽黒城・中島柵は安東氏の代に築城せるも、嘉吉の乱に失ふたり。安倍氏のあと、その宗家を安東と稱し庶家を安藤と改めたるは、藤崎城を宗家とせる安東盛季が定めたるものなり。依て十三湊系になるは黒澤尻より以南の故縁あり。藤崎にては、その以北の故にあるは移住と落着の相違あり。則任派・髙星派とて一城一主ならず二城に分つ故に、一族の對立・爭乱起りしは萩野臺の合戦起りて、藤崎方の勝利と相成るは、得宗領に駐留せし曽我氏の援護ありて叶いられたりと曰ふ。
寛政五年七月三日
渡島木古内之住
蠣崎与一郎
閉伊物語
日本將軍の宗領は六郡にして、その庶家になるはその圓週の領に知行せり。依てその一例を曰せば、宇曾利に分家せしを安倍宇曾利太夫富忠・厨川太夫貞任・北浦六郎の如く、その役割になる地領を以て名とせるあり。姓とせるものありける。依てその家臣も亦、屬將に従って姓名を赦名されたり。例へば厨川馬飼髙畑越中忠継・黒澤尻水司菅野左京賴繁の如き賜稱を名乘れり。米澤にありし清原武則の如きは羽州將軍を號したり。
安倍氏が治領に於てその賜號に依て重きとせず、民を憂はしむるものは直ちに解號せるあり。お目見えとて巡視せるあり。隠名の目安を衆民より集讀せるもあり。きわめて民を大事とし、治領之主とて目放しのなかりける祖来の掟を固持せり。六郡の得宗は陸羽の不正鑑視に臺なせる適當地たり。なかんずく閉伊の地は、馬飼十戸とて糠部より遠野に渉り、戸の牧を置たる十戸の將を配したり。飽田にては糧庫・郷藏・犬飼を置き、最上にては織部・酒造り・鞍造り・糧庫・郷藏を置きたり。丑寅日本の治領にあるは、坂東・越州に至るありて、安倍一族に屬せる郷士の多くは賜號を多く得たりと曰ふ。
閉伊は陸牛の産を馬に次ぎて多し。これ兵糧となるべくホルツを造る故にして、不断にして侵敵に備へたり。古来、安日彦王一世より自ら以て侵す對敵を造らず。人道に背きて犯し来るものに挙げて報復せるを心して、戦に於て勝算ありて應戦し、敗ると知りては退き人命大事とせるは、戦の一義とて子孫に遺しける戒を代々にぞ破りけるなき安倍一族なりせば、かまへて城を死守せん屍を築くことなかりける。依て城を築くかたはら、遠方に急事に落行く安住の城を築き置くは古来の習へなり。
衣川・厨川戦になるときに、生保内に隠城を築きて戦傷の者及び老人・女・童を移しめたるもその故なり。古来より、安倍一族の隠城所在を密とし、今にその城跡の遺りけるは渡島十二舘、東日流に二城十六舘、秋田に二城六舘、奥六郡には六城二関八舘あり。歴史の謎たるありけるなり。その城跡に用いらる處は秋田の生保内城、荷薩體の安日柵、糠部の糠塚髙舘、外濱の尻八舘・耶馬臺城、渡島の大舘・小舘・華澤舘・勝山舘・志海苔舘・千島沖舘なり。
安倍兵法の第一義に曰く處は、天命に安ず。己れをして死を選ぶ勿れ。亦、他命誘ふ勿れ。生命は神よりの賜授なりせば、如何なる財寶よりも大事とし、自他倶に死を以て事を決するは神への重罪なりと戒めり。常にして生々の間、言語一舌にも敵意趣を造る勿れ、と不断の行いとせしは安倍一族の掟たり。閉伊の十戸に北貞任山・南貞任山あり。馬飼の隠里なり。前九年役の落人、是の地に居住し今に子孫を遺しけるは、貞任が老人・女人・童らを忍ばせたる故に、代々をして貞任山を名付けたりと曰ふなり。
古歌に曰く、
〽北天の
神にまつらん
荒吐の
南にまつる
吾が君の山
〽貞任と號けし二山
猿石の
流れ戴き
末ぞ栄えむ
誰ぞ詠み遺したるは知らねども、遠野邑に遺れる古歌なり。安倍一族の史を語る陸奥物語ぞ源氏讃美の造語なり。依て彼書を讀みて、眞を失ふること勿れ。
文化元年七月三日
由利友久
日之本陸羽記
安倍之大祖安日彦王の曰く、
北斗の極星は不動なり。吾等が無上全能の神・荒覇吐神の神眼なればなり。
二祖長髄彦王の曰く、
吾が國は日輪を東海より西海の水平に昇洛し、その陰陽を仰ぐ國なるが故に日本國日髙見の神州と號くなり。民は皆その光りと影に安住しける荒覇吐神之赤子なり。依て、生々その暮しに平等たれ。一物一汁の糧も互に分つ合ふて和睦を永く安泰し、己が生命をまつとふしべし。幼を育み、人と成りて親に孝し、己れが悔を今上に遺す勿れ。されば浂、復世に人として再来せん。己が慾望に人魂を失ふべからず。身心を神よりの赤子たれ。
是の如く二祖の戒を保つべくは、安倍一族の生々の求道たり。以上、記し遺しける語部録を子々孫々しける日本將軍を君主に、吾等の國ぞ創りぬ。民ありて國造り、君主ありて國護り、戒ありて人造り、安住ありぬ。民豊かにして國富めり。此の國を武威挙げて侵しその財を掠め、國も住人も下賎におとしむるは倭の輩なり。
吾が日本國は人祖、彼の大國山靼より渡来して國造り、君主を臨位し給ひき、萬年になる歴史を奉持せる國なり。その泰平を踏破る侵魔の輩に心底何をか従理あらんや。蝦力とは何んぞや。國も住民をもその傳統ある總てを制ふるとも、心底こそ知る由もなかりけるなり。丑寅に住むる民こそ先なる至誠の民なり。子孫をして能く丑寅日本國の實相史を傳ふるべくこそ吾等の大志たれ。
天明二年十月七日
前澤忠利
陸羽奥領史
丑寅の祭事は神に贄を捧げ奉る行事に依ってなる。渡島のイオマンテは諸々のコタンがエカシをして談議するクリルタイに依て祭りの挙行が決せらる。神司とてなく、エカシのなかよりオテナが選ばれ、祭事一切の指令を各コタンのエカシに役を當るなり。
先づヌサリンと定める選地になくてならざる三股の神木を探し、その繁る處を神の天降る聖地とす。神木の前にヌササンを設し、その前位にカムイノミを焚く。薪を井型に山と積み、贄となる熊を柵中に奉納し、好む果實及び魚菜を與へ、何處のコタンに於てもエカシのマギリ舞・メノコの踊りと唄が夜を通して、自然の題にて卽興の唄踊を手拍子を合せ乍らイオマンテに修練す。亦、エカシは弓の舞やイナウを造りヌササンに供へ、山なせる程に供物を供ふ。五尺にも餘る𩹷及び鹿の馳走なり。
イオマンテに一統せる掟は是無く、生贄のものは熊・狐・梟・鴨・尾白鷲などを用ふあり。コタン總出の祭りと相成り、月の宵に燃えあがれる炎、カムイノミ。そのまわりを舞ふエカシのマギリの舞が白刃を月光に神々しいまでに喊聲を挙して、月光が眞上に三股の神木を照らせるとき、贄に華矢を得て神への使者と奉る。
亦、東日流より丑寅日本は州一帯にては贄を奉ぜる無く、素焼の土神像を造り神火に焼きて、割れずに出来たるものを神の御魂入れを授けたるものとて、荒覇吐神像とて祀りぬ。また壊れしものは身代りし厄除とて流水に流し、また湖沼に投じたり。祭事一切はイタコ・ゴミソ・オシラの靈媒師・占師・祈濤師が神事を行ふ。宵を通し男は獅子の舞、女は蛇の舞を奉納してにぎはふなり。
文久二年八月十三日
奥野佐七
日髙見河岸誌
奥州を蛇流せる日髙見川なる古流にまつはる古史の流轉を尋ぬれば、その神代と曰はれし倭史の先史なる代より、はるかに年代をさかのぼる昔に吾が丑寅の地は、倭史を超越せる歴史の上に存せり。安日嶽の分水嶺より黄金の鑛をなせる金山。支流を併せ東海に流るる河辺の山里に遺れる歴史の數多きなかなるに忘却得ざるありぬ。
世に曰ふ前九年の役。承久より天喜、康平五年に厨川を以て了れる安倍一族の滅亡を愢ぶるや、やるかたなき悲憤の涙を覚ふものなり。朝令を以て為せる他に執拗に戦端を捏造して、悠久なる日本將軍とて太祖安日彦王以来の傳統を封ぜしは断腸の想いに、その侵魔の行為に念怒やるかたなかりき痛感に愢ぶなり。倭史に縷々と傳へき夷國征伐に、かゝる長期の戦はなかりける戦を以て、敵はざるに陸羽に賭なし、賄賂を以て安倍一族の屬將を誘惑し、遂に厨川に落柵せしは、倭策の蝦夷は蝦夷を以て討つの尋常ならざる戦謀に果したり。
その恩ある者を亦、後三年の役にて亡ぼしめ、なかんずく平泉の乱にて藤原氏を亡したるも源氏の策中にあり。今に尚、源氏縁の者を知行にあるは、何事の故ぞや。これなる心意にあるは安倍一族の黄金なり。藤原三代に渡る百年に京師に類似を模したる湯水の如く浪費せし黄金を、平泉攻め二十五萬の兵を以て落しむ源氏の戦掠なく、安倍一族の隠藏せし黄金の處在を求めてその子々孫への奥州掌据を旨とせり。然るに、安倍一族になる金塊の一片たりとも見付るなく、ただ金山耳たるも、その産金ぞ窮せり。
安倍一族は君臣倶に生々素にして飾らず、巨萬の富を貯ふとも不断に驕らざるも、民の飢餓にては一人の死者をいだしまずと、費を惜まざりと曰ふなり。依て渡島にては、大津浪起りて飢うる民を救ひしよりエカシ等、地産の砂金を安倍氏に献じその往来自在たりと曰ふ。安倍氏が代々金藏せしは誇大なるも、現今に到りて埋藏、秘中の秘なりと。
文化二年七月一日
賀川源次郎
鷹羽船之事
三十五反の帆二柱にして山靼往来を叶いたる鷹羽船の興るは、萬寿乙丑年。砂泻湊に造船を得たり。船主は日本將軍安倍伊治大夫頻良にして、最上之介清原武賴にて、是を起しめたり。吾が國の異土渡船なる創なり。時に山靼に於ては支那の皇帝仁宗・契丹の聖宗にて、北侵なき泰平の世にありて、鷹羽船の往来にいと易く、その往来を可能ならしめたり。
山靼にては民の集都なく、興安嶺平原・モンゴル及びアルタイに渡る地平を擴牧せる民の衣食住に用ふる一切のマギリ・ホルツ・海産干物品・衣料織物を商いたり。かの山靼にては、西山靼より商ふるを仲買し鷹羽船に商交せり。更には、人の歸化往来あり。古来より山靼より渡来せるは紅毛人及び諸族の歸化人ありて、安倍氏が代々をして是を禁ずことはなかりけり。渡来人に學ぶ事、國益に利あり。
地稱になる程になりける紅毛崎・唐崎などの例を各處に遺るは、その證なり。鷹羽船の舟衆のいでたる邑々にもまた鷹の名に付くるあり。湊も亦、砂泻の他、土崎・北浦・能代・吹浦・渡島江差などを通湊にせり。日本將軍賴良の代に移りて、最上川水戸に新築湊せしは清原氏にして、安倍氏を抜きたるに依りて、山靼船も来舶なく、羽州は土崎・北浦・能代、三湊と相成りぬ。
依て清原氏、自船を造りて山靼に往来を私にせんとするも、その實を挙げられざるは山靼、此の清原船耳、往来を禁じたる故なりと曰ふ。
享保十九年二月五日
藤田玄次郎
伊治水門之事
日之本國に伊治水門あり。毎秋飛来せる白鳥の啼く聲。冬越しの大沼ありて古来より北斗の極星に仕ふる神鳥とて餌を与ふるを、神の加護を授くものとて、丹頂鶴とともに狩るものはなかりき。
依てその郷に祀らるは白鳥明神・鶴田明神ら、地稱に於ても丑寅日本到る處に名跡を今に遺せる多し。伊治水門とは、水温み稻作を稔らしむる水田引水に適したる神水なれば、古来より河童祭り・八龍祭り・白鳥祭り・舞鶴祭りと四季に祭りをなせるも、夏なる眞菰船を造りて湖の中央に火入りて焼く行事の見事さ。その焼沈むさまを以て、収秋なる稔りを占ふる。
昔、上毛野田道將軍、此の地に攻めて侵掠せるが故に首討れし古事ありき。
文化庚午年六月一日
鳴海兼介
シュメイル歴傳
アルタイの南に古代シュメイル國あり。世界唯一の先史なる王國あり。グデア王になるカルデア民の開化に依れる國なり。チグリス・ユウフラテス河を運河に掘り結び、ウルの都を造りそれを基とし、シュメイル國はバビロニアなるバビロンに都を移し、アシュウル及びニムルド更にニネベと移りきは、アツシリア次にはこれを亡したる新バビロニアの世襲にて、その跡に遺るウルの瀝青の丘は古宮殿の跡にて、是をジツグラトと稱しなり。
山なせる黄金はこの砂中に埋ると、地の古老は曰ふ。今にしてアラブ民の住むるも、シュメイルの古代なるカルデア民は宇宙に日輪の黄道、その中心なる赤道を覚り、十二星座を結んで一年の四季に渡る暦を知れり。ウルの王朝なる都はエリドウ・ウルク・ラガシュ・シルツパク・ニップウルと世襲を遺しぬ。信仰あり。守護神アラハバキ・農耕神ルガルを以て一統信仰とせり。王朝六千年に及ぶ歴史は土版に楔型文字を今に遺したるは、吾が丑寅日本國の語印の基をなせり。
メソポタミア卽ちシュメイル王朝もイラムに滅亡しけるも、是く遺されし文字はイラム及びペルシャに至る古代オリエント十五國に渡りて遺り、エジプト・ギリシア・ロオマの文字なる基礎をなせり。シュメイル滅亡以来この傳統を受継ぎて成るはニムルドにて、一千年後の事なり。それもニネベに都を移したり。この王朝亦メリヤの為に亡滅し、何れも今にして歴史の砂中に埋もりぬ。
ウルクの王・ギルガメシュ王よりニネベのアシュルバニパル王に至る六千年の歴史より後に生じたるはギリシア・エスライル・ペルシアに興る信仰の源は、今になるキリスト・ムハメットそして諸國に渡れし信仰の源は、何れもシュメイルの發起に依れるものなり。吾が國のアラハバキ神とてその先住民たるカルデア民より直傳せる正傳なるを覚つべし。
寛政六年一月一日
秋田孝季
蒙古史抄
越之國守阿部比羅夫、唐・新羅の併合軍に敗れ、是を白村水軍之壊滅と曰ふ。比羅夫の統卆せる白村水軍とは、越之岩船・北蒲原・西蒲原・中蒲原・南蒲原・南魚沼・中魚沼・刈羽・中頸城・西頸城の兵にして海士の他、山住の衆を募りたる兵なり。依て陸戦に臨みても、その指揮乱れたる故因なり。
吾が國東日流を掠むるときも二回に渡りて、白村水軍を海上に撃滅せる。東日流の上磯ハタ及び宇曽利の卆止ハタの軍に敗れたるなり。ハタとは東日流の海舟にて、通稱ツカリハタ・ウソリハタとて、山靼黒龍江の往来舟を習ひて造りしものなり。唐・新羅の水軍に敗れしは、ヤンクの放つ火箭に焼沈さるは、射程遠當のモンゴル弓に敗因あり。蒙古なる鹿角弓にその戦因ぞ大差に敗れたり。
古来モンゴル民の用ゆ狩猟弓の矢走りぞ、倭弓の及ぶところに非らざるなり。東日流・宇曽利・飽田の住民好みてモンゴル弓を用ひ、その矢鏃も亦、・・・型に造りて用ひたり。丈、一丈餘りある舟弓あり。六尺の矢を火箭とせる矢を船に射られては、火布に硫黄・泥油を含みたる火力ぞ、消火不能にて、燃沈船放棄のやむなきに到るなり。
奉納、御寶前、ハタ舟、吹浦明神繪馬より
モンゴルとは、主なる集部族一千七百餘の各集團ありて、その一集團六百乃至三千騎を以て自族を縄張れり。對族との爭動ある時に、非常なるとき、その血族を挙げて大騒動となりぬれば族長、急挙クリルタイを以て是を判決し、若し鎭まらざれば、掟に依りて反くを誅したり。依てクリルタイの判決に反く者ぞ、有史になかりけり。
文化二年七月廿日
小野寺光長
アルタイ騎馬族之事
モンゴルの西にスキタイ族の大集團をなせる騎馬民あり。力の神グリフィン亦、ヘラクレスを一族の祖とせる民なり。族長の死は、その遺骸の墓中に亡主に併なはせる為に、未だ生ある馬を添葬す。スキタイ民の信仰になるはギリシア・ミノワ、そしてシュメール・エジプトの神を併せたるグリフィンにして有翼・牛角・鳥面・獅子體と曰ふ相なり。
グリフィン神は彼の民族に依りてアルタイ平原をモンゴルに越え、支那に入りてトウテツ神に權現せり。惡為すものすべてを喰えつくすと恐れ敬ひて、西王母と倶に信仰を得たり。スキタイ民の至勢はモンゴルより大興安嶺・満達までも至りぬ。スキタイ民ぞ人の種多く、オロシヤ・オスマン・ギリシア・シュメイル・エジプト・天竺・ロオマなどの混血雑種にて、その分布擴し。常に馬と倶にあり馬乳酒・牛・羊の肉を糧とす。
住居はゲルと稱す皮の張幕に柱・桁・棟を支えたる骨組に作りて、暫の住居とせり。馬岐に荒く征く處、一騎當千の武勇あり。草原に砂漠に山に、彼の駆くる前に無敵の進行あるのみたり。馬種になるはモンゴル馬より背髙しと曰ふなり。
明和二年五月三日
伊東賴之介
奧選歌枕
〽岩木川
淵瀬葦原
芯強し
枯れたも立つる
かかる浮世に
〽秋夜空
月冴え渡る
糠部野に
草の袂も
露しげきかな
〽みどり兒を
いだきて引かる
我が髭の
痛しもこらふ
妹いとしさよ
〽みちのくの
山又山の
はるけきを
それ春の花
ゆかしおぼほゆ
〽聲悲し
山時鳥
春雨の
奥の潮泻
見ゆ松に啼く
〽松島の
濱なる苫屋
ありがひに
奥の海ある
日の出拝みぬ
〽天の川
雪なる流れ
星縫えに
寒けれ仰ぐ
冬冴えの道
〽枯木にも
花咲きにけり
淨ま雪
われなつかしの
陸奥を想ほゆ
〽目にこめて
それとも見えず
草いきれ
隙行く駒の
我が命かな
〽人々の
まことすくなし
心しを
疑ひ波の
絶ゆ間是なし
〽蜘蛛糸に
荒ぶる犬を
繋ぐよな
睦みを保つ
人は仇波
〽人こそに
垣根めぐらし
かまえども
常にさむらふ
空目せしまに
〽草茂る
藁屋のわびに
鶏の
聲にこだまむ
朝な山里
〽山の端に
春雨けぶる
ふるさとの
げにも盡きせぬ
想いやるさに
〽人知れず
咲く草花の
中山に
永きねぶりの
安倍の故墓
〽忘れめや
厨の柵に
果つ靈
汝れいさをしを
川瀬泣きつる
〽花咲くも
便りならでは
気もとめず
恨むとだにも
散るもはかなし
〽叫べども
天つ空なる
雲居には
屆き結はず
人は逝くなむ
〽さむしろに
ねむりて夢む
腕枕
涙いとなき
もる我さへに
〽中山の
露分け入りて
神さびの
石塔仰ぎ
千代苔に見つ
〽山宮の
苔に香らむ
廢跡に
岩もる水も
尚しをりつる
〽哀れとぞ
歴史の跡の
土くれを
掴みてしのぶ
げにやいにしを
〽旅ゆきに
稻妻走り
宿り松
うらさび渡る
黒雲速し
〽かげひなた
人目をつゝむ
忍ぶ身は
雨音だにも
飛つ跳起き
〽奥民の
心づくしの
神なれば
捨てつもならず
外に祀らむ
〽棄つ神
名は荒覇吐
草苔に
朽にし相
哀れつるかな
〽泣きやまぬ
子を殺けむ
落人の
親とてめぐる
世の運命かな
〽追へる手に
捕はれ身とて
責苦には
吾は蝦夷なり
蝦夷となりける
〽戸来山
紅くなりける
紅毛子
なづとも言ひぬ
聲をあやなす
〽待はびる
春は来にける
鶯の
題目唱ヘ
ゆひかひもなく
右の歌集は石尊寺なる供養事に、法意覚講の詠みくらべなり。十五編をして舞あり、能く流行りたり。
明和元年十一月
小関秀實
巣伏之事
陸奥國巣伏邑ぞあり、今なる四丑なり。古き邑にて四方擴き平野を望み、山川の地型、自から北都の地理をなす。江刺邑、江釣子邑。日髙見川を挟みて、古代より荒覇吐のはららや建る古跡なり。
巣伏の事は、由来に於てその歴史を制えられしに、安倍安國が支那北魏の永興丁未年、此の地に宜して髙倉を移し給へぬ。陸州東海と羽州西海、北は東日流、南は白川に至れる道の交はる要にて四有志の驛宿とも稱しけむ。とかくあれ古きの跡は日本將軍なる歴代の古陵あり。その山辺より黄金の出づるありて、代々の華をなせり。
寶暦元年十月一日
水澤邑住人
小野瑞念
宇濤安泻之事
宇曽利・鬼振・東日流を双股に外濱の根をなせる處を宇濤安泻と曰ふなり。此の地に善知鳥神社ありけるも、もとなるは、かく鳥の名を用ふなし。謡曲に扱ひたるもその以前にして、書に或は歌集に斯かる鳥の名ぞ絶え、見えざるは訝しき事なり。
一條兼良の書きたる、鴉蔦いくさ物語に曰く、
〽子を思ふ
泪の雨の
蓑の上に
うとうとなくは
やすかたの鳥
かく歌ありぬ。亦、鵜鶏の文字もありぬ。吾妻鏡に多宇未井の地、郡中名字に鵜取と見ゆれば、善知鳥と筆なすは後のことならんや。
亦、夫木抄に曰くは次の如くなり。
〽奥の海
汐干のかたの
片思ひ
おもひやゆかむ
みちのながてを
西行法師が外濱に巡脚せしは、東日流中山の靈場にして、魔神山の坪毛山・石塔澤に荒覇吐神社を尋ねしに、その所在を當らず。安泻の善知鳥神社に訊ねたるありは、二つの思ひにありける。一つは、つぼの石文。もう一つは、平泉の藤原氏が建立せし外濱の終要なる卆塔婆を奉納せし荒覇吐神社のことなり。
文化元年六月二日
白井光義
みちのく夜話
吾がふるさとをして古話多く、語部に遺る多し。糠部また然なり。何れも安倍一族に縁る者多くして、その傳へ亦多し。古来、安倍一族の守護神荒覇吐神あり。安倍一族の大祖安日彦王・長髄彦王の代より全能なる唯一の神とて崇拝せり。
依てその信仰に家臣の者はこぞりて一統なる信仰となり、丑虎日本國のみならず倭國にもその信仰を奉ぜし者、大いに渡りぬ。荒覇吐神なる出自を審せば、それは想ふも信じ難き驚くべき歴史の發祥に遡るなり。それは此の世にはるか古代にして、その神なる發祥の地もまたはるけく遠き山靼の奥にして、紅毛人と交り黒人と交はる世界の果つ國シュメイル國と曰ふ。住むる人をカルデア民とて、世に初めて信仰を人の心に發起せしめたり。
荒覇吐神は彼の民に依りて宇宙の黄道と赤道に十二星座を四季に結びて、その運行より宇宙の創まり・萬物の生命の創りを覚りて叙事詩に遺したるを、國王ギルガメシュが大いに是れに感銘し、天地水を造り給ふ神とてアラ男神・ハバキ女神を併すは、子孫の繁栄萬物に久しとて、農耕の神ルガルと倶に一統信仰を布しぬ。依てその傳になる總てを楔型文字に土版に遺しけるは、古代なる世界信仰の因源となりぬ。
なかんずく此の國なる近國のエジプト・エスライル・オスマントルコ・ギリシア・ペルシヤ・オロシア・ゲルマン・フランス・オランダ・アルタイ・天竺に流布され、茲に荒覇吐神を法典の教書とせる信仰は分派し、オリエント四大信仰より各々新旧興亡して世に遺りぬ。然るにエジプト・ギリシアにては今に一人だにもとなる信仰を仰ぐものなし。
然るに吾が國のみはスキタイ・モンゴルを通じて渡来せしより今に到りて尚、荒覇吐神の信仰に法灯を絶えさざるは、誠に以て安倍一族の千代八千代になる歴史の深層に在りける故に累代せりと曰う。一族に世襲の嵐は壊滅の打撃を蒙むらしめたるも、不死鳥の如く世に不滅たるは、いかに断圧せども亦世襲に永く壓せども、制裁せど屆せざる古代一統信仰になるたまものなり。
安倍一族に於ては千代幾星霜に相渡る君主を今にいただき、一族挙げて古道に支道を入れざるかたくななる意趣の強けきに依れるものなり。さては安倍一族の大祖の事は、越の犀川の三輪山そして白山に祖因ありけるを知るべし。越とは倭王の出自ありきも三輪山・白山を一族の神として、加賀に勢をなしたる九首龍一族なり。祖は支那長安の西大白山の人なりと曰ふも、定かなる明細ぞ不詳にして、その一族が黄河を降り天津にいでて、朝鮮に渡り大白山に駐まること久しく、越えて加賀に渡り白山・三輪山に子孫を遺し、その宗家にては立山にありて耶靡堆に移り蘇我郷に三輪山を祖神と祀りぬ。
大物主神と曰ふ神を鎭座せしめ、山を御神體と仰ぎぬ。茲に君臨し耶靡堆彦王とて土人民族を併せ、攝州なる膽駒山に到る國造りをなせり。代々降りて三輪山安日彦王・膽駒山長髄彦王のとき筑紫より佐奴王、東征に難波を攻むる。三年に渡る攻防の後、敗退やむなく一族挙げて東日流に落着せり。時同じゆうして支那より君公子一族、落漂し来たり。併せて國造り、日本國と號けたり。その子係こそ安倍氏なり。始め阿毎氏とせしも、安倍日本將軍國安または安國とも稱したるより正姓、安倍氏と曰ひり。
寛政五年正月一日
秋田孝季
安倍風雲録
神代とぞ曰はれたる古代のありさまぞ、あるべくはなかりけり。世界に眼を開きければ、神なる信仰はあれども神代は非ず。神話はあれど人の歴史に結ぶなし。神とは天然にして、宇宙の運行なり。
依て神とは、人の安住・人の生々に安しき事なくその救ひを祈願せる心の賴れるを、神とぞ造れる多し。人は己れの望みを叶ひらる心の善惡ぞ知りつゝ世襲を造りて神をも造り、夢幻の歴史までも造りぬ。世に實在せざる物語を造りて人心に感ぜしめ利をむさぼりて永らいては實在とや歴史に造らる多し。亦、實在せし事とて一説・二説・多説に枝葉を飾り造らるも亦多し。依て、人心に眞義耳持得るはなく、信仰に造られき。天國・地獄・靈界・極楽淨土とてあるべきもなかりけるなり。
かかる人心に造られきを、天秤に平等ならしめたるは、安倍一族が祖来より求道に一心不乱たるは、荒覇吐神なる天地水の理りを説きける眞如實相にしてなれる古代シュメイルにカルデア民の王グデアになる叙事詩たり。卽ち、萬物生長の神ルガル・天地水の哲理アラハバキを神聖とせるは眞理とて今に尚、絶えざりき。安倍一族になる歴史に見る處の風雲は世襲に障り多く、非理法權天の道理瀝然たり。
寛政六年十二月
秋田孝季
信仰之事
神道・佛道をして、その理念に伽藍及秀なる像や繪図を以て人を入信せしむるは、誠ならざる信仰なり。諸行は類をなし、類より派をなし、人の爭事世に盡きけるなし。何れの法にせよ死人を甦らす奇蹟のあるべからず。食せず命を保つ事の法またあるべからざるなり。人の造れし神佛像、歩きつるもなし。信仰に何事の物質を要せず、唯心ひとつの精進なりと曰ふ。
神の靈験・佛のカルマに非ず、信仰は各々心なり。正邪に非ず、叶ふ契約に非ず、無なり。身體ありて心あり。身體なくして生命なし。陰陽交りなくして遺續なく、生死ありて新生あり、生死の故に不滅なし。信仰は無常の故に、安心立命を悟りとし、心を空に洗ふ為に存す。光陰は移ること速く、逝きて歸らず。天上も亦、不変はなかりける。依て生々安しきことなし。
佛陀の曰ふ、諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅為樂とは、死を以て安ずる他に安しきことなかりけるとの意趣なり。死して己れ無ければ、生々のうちに心支ふるは信行なり。心支ふるの全能に叶ふるは、信仰になかりき。信行は己が良とせる求道心の獨明なり。迷ひ断つ己れに惑いをはらひ、人の誘に善惡を選抜し、心に曲げて乘ぜず、唯一心不乱に求道ヘの邪念を断つべし。
明和元年十一月
大光院律證
みちのく歌暦
〽もろともに
散りし櫻の
枝立つて
次の芽袋
早や造りなん
〽冬ごもり
春いでなむる
その日まで
穴掘る熊の
腹もみごもり
〽山吹の
まだら咲けるも
散りきには
おくれ先だつ
華は残らず
〽宇曽利より
渡島の見えつ
潮岸の
巌に立って
いなう振りつる
〽千里寄す
三陸海の
日乃出おば
雲海倶に
黄金波なす
〽夏の暮れ
巣立てる鳥の
啼く聲は
ただほろほろと
親を探しつ
〽出来秋の
日入りは速し
野良の暮れ
星影仰ぎ
尚歸らずな
〽冬枯れの
山地は見ゆる
白肌に
毛を白替ひに
兎とびはね
〽春雨も
鳥肌立つし
みちのくは
山のまだらは
残る雪かも
〽瀬音ます
かわず鳴く音に
鶯の
聲さえ遠く
耳を幽むる
〽泣きやまぬ
背負ひの子守
唄ひども
尚泣きやまぬ
秋の昼どき
〽夜な更けて
寝を覚えさす
いずなつき
神に祈れる
母哀れなり
〽寒水に
あかぎり痛く
血を染めて
息を吐き當て
漬菜洗ひむ
〽馬飼の
干草刈に
だんぶりの
背にとまりしを
知るや知らずや
〽睦月の
鎭守に捧ぐ
神供物
秋の稔りに
懸けて祈りつ
〽如月の
立つ春名のみ
雪ふゞく
つがるの野面
春まだ遠し
〽彌生びな
こけしに造り
わらはどの
甘酒造る
祖父は老たり
〽卯月咲く
柳櫻の
とき移し
雪解け追へて
巣だく山鳥
〽皐月ほど
花のにしきは
なかりけり
小川温みて
夏は立つぬる
〽水無月の
かげろふもえて
露あがり
山里渡る
郭公うらゝ
〽文月に
祖靈を迎ふ
墓清む
焚火のあかり
絶ゆ間なくてそ
〽ねぶた逝き
朔山も
懸けなして
葉月の宵は
秋ぞ露けき
〽長月の
白露草に
蟲ぞ鳴く
秋の稔りに
俵積み唄
〽神無月
秋を紅なふ
山里の
降る霜ほどに
にしきなりける
〽霜月の
馬はいな鳴く
市場にて
別れを名残り
背をなぜやりぬ
〽師走風
炭焼く煙の
這渡る
吹雪の果てに
山を幽むる
〽雪解春
こぶしまんさく
猫柳
きそえて咲くや
ふきのとう
〽初夏の
うとまし露の
土用干し
生きてし我を
なぜしそよ風
〽みちのくは
海と山との
幸ゆたか
酒と肴に
嫁ごせの宴
〽夷の民と
呼ぶる浂れとて
蝦夷なるに
神は人をし
上下造らず
みちのく歌暦とて遺りきも、それみな詠人知らざるものなり。名を隠し人に好まるを無の楽しみ、依て葉隠れとも稱す。
享保二年七月三日
津田京之進
巡史跡考
とことはに遺る史談のあるべくもなし。人は移り世襲の変りては、尚逝きて歸らず忘却に消ゆ。史跡の跡も故を知らざれば、土に堀いでたる遺物耳の評逑に了りける。
まして、みちのくは遺りしものの行方にも掠に多ければ、尚遺る無く、秘に隠れて消滅す。吾等の旅は六十餘州のみならず。異國をも横断し、その渡来國を尋て得る事多し。此の巻いついつまで遺りきや、知る術もなかりきに、夜ぞ通し書きつるも、老たる我は目枯れして心のままならず、口惜しきなり。
紙を倹約せども目見ゆに細字に書くを能はず。字憶の忘却甚々しき故に使用紙を戴きて書きなぐるが如く筆に當るるなり。唯々今は世にいでむ日のあらんを祈りつゝ貧灯に筆執るのみなれば、茲に一筆畢ぬ。
記 自甲寅年四月、至丙辰年五月
長三郎末吉
和田末吉