北斗抄 參


(明治写本)

此之書之覚

本巻は他見無用・門外不出也。一書たりとも失ふべからず。

秋田孝季

諸爺衆寄書

一、

歴史の事は偽傳耳世にはびこり、實史は世襲に葬らるゝ多し。依て諸爺衆に、如何なる隠史にあるをも集め綴り、永世に遺さむと志し、茲に記逑を書留置けるものなり。

寛政五年一月一日
秋田孝季

ママ

慶長十八年九月十五日、伊達藩建造サン・ファン・パプチスタ號と稱す黒船、月の浦を出帆しける。乘船の者は山口与一、イスパニア人セバスチャン・ビスカイノ及びベアトルイス・ソテロ、百八十六人の藩士と曰ふも此の乘員内に秋田藩士の三十人同乘せるは密たり。

この船を構造せるは伊達藩大工の他、秋田藩能代土岐の船大工の施工あり。その船體なるは横六間半・長十八間四尺・髙十四間一尺五寸あり。帆柱十六間五尺・彌帆柱十間、安東船のひな型に造られり。外型のみイスパニア船に相似せけるも、船速は速進おとるなかりけるは、その實航に證せり。

安東船とは世聞になけれども、北辰海の鯱とて船速、他船を抜きけり。安東船の誕生たるは十三湊にして永保壬戌年なり。

文政二年五月七日
藤田多作

四、

〽松島や
  あゝ松島や
   松島や

奥州の絶景・松島に島々を廻遊せるやかた舟ありぬ。物々しくその四辺に武家衆の舟、警護す。その屋型舟中には伊達政宗、對せるは秋田實季の宴たり。密議の故に、海に屋型舟くりだしての宴たり。

政宗曰く、

大坂殿の逝きけるに知遇吾れにありけるも、今は東方に台頭、徳川殿に在りて如何な石田とてまゝならざる昨今。ようやくにして今年の正月廿日、徳川殿六男・忠輝殿に余が娘五郎八を嫁がしむより家康奴、たばかりおって何事ありても相談あるべくと、千代城に再築あるべくせしにや青葉山・榴ヶ丘・野手口のうち青葉山に申付ありきは、余の議に非らずしも、関ヶ原にありて余の軍あっての勝因なるに、あの狸奴がなかなかにしたたか者じやで、少かに二万石の加増のみで御坐る。

實季曰く、

関ヶ原に出陣の際に當りては、拙領の騒動治まらず一兵の出陣も加戦に及ばざるは、恥入るなり。

政宗曰く、

我が藩中のかしこにぞ荒覇吐神を祀るあり。尋ぬるに御貴祖安倍氏縁りの神とぞ聞き及び、何事もかまへなくして御坐る。

實季曰く、

久し昔の事なりて、それを庇護あるべくは有り難き。

政宗曰く、

されば御身を寄せ召したるは、その安東代にかゝはる事にて、御援あづかりたく。

實季曰く、

それは如何なる仕細にて。

政宗曰く、

昨今江戸にまかり余の侍女、病を犯し余が侍醫に診療は治らず。浅草キリシタン療養所にブルギリヨと申す異人醫に全治せり。依てフランシスコ寺院のルイスソテロ僧と他三僧に、吾が城下にキリスト教なる布教を赦しその居住を許したり。余は彼等より聞き得たるイスパニア及びローマの事を知りにければ、擴く世界の流通を望みしに、御貴祖にては鎌倉御所の代より、いやその以前に以て海異の國と流通あるとの風聞に接しけるは安東船の事なり。

實季曰く、

安東船とはまた古き代の事なれば。

政宗曰く、

此の國は東西をして權謀術數絶ゆなく、吾れもまた獨眼故に世の半を見ざりしが、世界は日毎に相進みけるに、此の國は異土にくらぶれば銃と弓の相違、是ありぬ。依て、大海横断海交し世界の流通を謀りたく、貴殿の千惠を得たく伏して願ひ仕る次第に御坐る。

實季曰く、

身共も東軍方にあり乍ら関ヶ原に參陣叶はざるに依り、いつかは何事かの砂太の蒙るは必如なり。伊達殿の余に願ひの筋とは如何に。

政宗曰く、

井の蛙は大海を知らず。余、家康如き狸心にあらず。天かける龍、海征く巨鯨とならんや。智識を世に求めんとて領中の治水、奥州東西の河運・水路・水戸口・湊築きし策はその世界に南船北馬の流通を開き、奥州列國の復古になさん故。安倍氏が日本將軍たるの念願に御座る。戦はずしてなせる泰平。安東船を以て治領せし貴殿が故祖代々に余はあやかりたし。

實季曰く、

吾が祖は安日彦大王以来、丑寅日之本國を創國して永き泰平を以て民を安かれとこそ一義とせしにや。天下に爭乱の兆を招く如きは容赦あるべし。伊達殿の為さん外蕃への交りとは如何なる所為に御坐る。

政宗曰く、

船で御座る。貴藩の能代及び北浦・土崎、三湊にありき船大工が所望で御坐る。先に申せし如く、余は下臣山口与一をローマ教皇に使節を遣して擴く世界の先進に此の日之本を國際に交じりたいもので御坐る。

實季曰く、

それは余も心のみは同意なれども、事の成るやいささか疑問に御坐る。その第一に徳川殿の御容認が難障に在り。第二はその巨費にかかり、ローマ教王への推參仕るヘブライ文字に依る親書のあり方も皆目の覚なきは案ぜらる所意、如何以て果さるや。

政宗曰く、

御安堵あるべし。家康の容認は受けて御坐る。亦、松平忠輝が費の援助を大久保長安に命じて御坐る。如何がで御座る。余に御同意あるまずや。

實季曰く、

これはしたり。浅墓に御座った。御容赦あれ。されば御同意仕る。

松島での密議、かくして成れり。

寛政五年九月二日
山口賴一

五、

安東船は、支那揚州の戎克と曰ふ船を構造に基して造りたる船なり。大洋を航し暗礁に突し破船あるをも、支切幾重にも施して急沈するなし。十三湊に来るは、一千年前にして漂着し唐人、地の木を伐し船を造りて歸りたるを地民、是を型礎として造船したるが創りなり。依て倭船とはその構造にては全く相違せるものなり。

船胴支切細工して、例へ暗礁に突して破船せるありとも、支切に侵水を防せがしむれば急沈せるなし。帆柱三立にして船速また快速たり。代を降るに揚州に来たる地中海船オーマンと曰ふ商船の構造を入れて尚、對航快速に帆張船型を改造しければ更に快速と構造巨船に造りたり。
(原漢書)

寛政五年七月廿日
南原祐作

六、安東船造方控

木挽衆 板割邑
一、網師 一、板挽 六十人
一、大工 一、曲挽 十五人
一、水先 一、鋸師 五人
鍛治衆 十三邑
一、塗師 一、錨鍛治
一、油師 一、銷鍛治
一、帆師 一、釘鍛治
船造御用林
一、大鍋越山大澤
一、木無嶽右股

右は十三湊砂堤築船進水場職人注文控帳なり。十三湊に船造るその船類は、
岩木川往来船、葦積船、漁舟、山靼船、水軍船、商航船、艀船、戦舟、傳馬船、磯舟、安東船等なり。

寬政五年七月一日
加賀泰介

七、

労々五十年、人生唯夢の如しと曰ふ。吾が丑寅の國は常に泰平を破られて都度に民、難遇し蝦夷たるの汚名に制圧され来たり。以てその命脈も輕んぜらるまゝ今に尚以て貧窮の生々に在りぬ。

民挙げての楽土たる安倍日本將軍の古き世を愢びては、古き習ひの神事にかけまく他、安心立命の前途なかりき。荒覇吐神こそ祖来の傳統にして、民の心を安じ望を與ヘける全能の神たり。丑寅日本の古唄に遺りきは、次の如く神前に奉る舞唄ぞ今に遺りき。

〽月落て
  昴も消えて
   朝日はのぼる
 死して産まるは
   代々の足跡
  猛きもの
  弱きものとて
   さながらに
 世に會ふものゝ
   魂はありてそ
 嵐にも
  日和の日々も
   生らへて
 生死を廻り
  絶ゆもなかりき
 世のすべて
  荒覇吐神
   われあがむ
 すべては神ぞ
  吾ひたすらに
神に屆けよ 吾が祈り
授け給へよ 吾がくらし
救ひ給へよ 吾がこゝろ
荒覇吐神 一心に
吾れ救はれぬ とこしえに

文政二年八月七日
櫻庭小太郎

八、

荒覇吐神に國をしてその神稱異なりぬ。モンゴルにてはブルハン、トルコにてはアルテミス、ギリシアにてはカオス、エジプトにてはラー、ペルシアにてはアラー、印度にてはシブア、支那にては西王母、後代メソポタミアにてはルガル、エスライルにてはエホバとアブラハム。

何れも古代カルデア民のアラとハバキの神より傳はるるものなり。

文政二年八月七日
櫻庭小太郎

九、

凡そ我が國を日本國たるの國號を奪掠し、倭國たるの舊稱を改めたるは、國土を犯したるのみならず丑寅日本國を國號まで犯しけるを知るべし。古代より我が國の祖人は此の國を蝦夷と自國を國號にせるなし。古き創國より日本國と山靼諸國に知れり。

依て支那の古書なる旧唐書または新唐書に、日辺の國日本國と明記し、倭の國とは異なるる國家なりと意趣ある記逑に遺りぬ。更には安東大將軍の讃大王・珍大王・斉大王・興大王・武大王を倭の大王とせんは天皇系図に當るものなし。安東とは日の出づる東の國を安ずる大王たるを意取せるものなり。安東とは日本將軍にして、倭の大王を將軍たるはなかりきなり。坂東は乃至安東にして、坂東より奥州は日本將軍の國たるを知るべし。

此の國は日本・日髙見・安東・坂東・朝日の稱號にありきは語部古事録に證あり明細たり。
〽のぼりての
  支那方士あり
   日の本を
  常世の國と
   我がまだ知らず

年ふれば世にあるものはみな絶えて、新らたなるものの世と相成りぬ。宗書にありき安東大將軍五王とは、讃大王・珍大王・斉大王・興大王・武大王とは、吾が國の日本將軍に讃日彦王・珍日糠彦王・斉日稻彦王・興日海彦王・武日宇彦王ありて、是れ坂東五王または安東大將軍とは支那年號と相應なり。
北魏東海書に曰く、

(前略)
東在汐路以鑑至常世國、稱艮日本國、號大王將軍、在王宮坂東、貢武帝賜安東大將軍受、五度訪亡宗、斉王断是。云々。

是の如く傳ありせば、吾が丑寅日本國の大王、坂東より宗に往来せしを知りぬ。

寛政六年一月一日
物部秀繼

十、陸奥歌水月抄 一

全歌詠人不知

〽あかねさす
  鳥海山の
   隔てなく
  山の錦の
   秋ぞいくばく

〽住み馴れし
  山みな染むる
   秋の紅
  華無き木々の
   目かれ覚ひず

〽木がくれの
  佛法僧鳴く
   中山に
  霞をばこめて
   苔岩根張る

〽朝明(アサアケ)の
  炊焚く煙り
   のどかなる
  鳴くやにはとり
   昇る朝日に

〽八雲さし
  朝日の光り
   幾線の
  天上髙く
   あゝ陸奥の國

〽西の端に
  夕べの残晴
   うち渡す
ゆくへも知らぬ
   鴉群れ飛ぶ

〽面もふらず
  心空なる
   夢ならば
  そことも知らぬ
   人は白玉

〽鳴る神の
  降る稻妻の
   通り雨
天開け地固を
   陸奥にまみえむ

〽惡しかれと
  今さらさこそ
   からまいて
  云ひもあへねば
   ありしにかへる

〽神佛の
  それわが山は
   いにしより
  荒覇吐神
   鎭みまひらせ

〽陸奥さゝで
  天ぎる雪を
   翁さび
  風もうつろふ
   とふにつらさも

〽心を盡し
  鷲は髙嶺に
   巣造るも
  聲をあやなす
   こともおろそか

〽うつゝ無き
  よしなかりける
   あだ波の
  けしたる人の
   しかるべくとは

〽かしましく
  盲目は杖を
   探しきに
  立居苦しく
   手にとりやりぬ

〽泣きさして
  男子守は
   辛きもの
  やたけの者は
   事もおろかや

〽暫ふりて
  ゆかりに似たり
   おことみる
  月日の算を
   あけてくやしき

〽門なくて
  訪れ入りぬ
   藁家には
  いつ逝きつるか
   骨骸を見る

注 以下蟲喰記ならん。

十一、

凡そ歴史と相まみゆるは神話の混入なり。信仰また然なるも、能く是を見うずるに、混合を可能ならしむる類似の誘点ありぬ。神話とてなる年代は定むるなく宇宙創造、國の開闢を無盡に古くにさかのぼること自在にして、祐筆者想定のままなりき。歴史となりて暦の年月日に至るまで求め究む耳ならず、代々の出来事を記せるも一説・二説耳ならず多説にあるもありぬ。

依て公史とて定むるもそれそのものも欠点の生ぜるありて、世襲の權に記逑左右を曲折され来たるは日本史なり否、倭史なり。日本國は蝦夷と名を背負され、その國號は倭に移しめたる如く、そのあとに蝦夷と名付くるに至るを秘とせるも、史實は異土に遺りて實を證しぬ。依て吾が奥州を無能の賎民と作為を要したり。征夷に千人を殉じるとも自負を密として勝因のみを記逑せるも、溢れんばかりの誇大に枝葉を加ふ多し。

丑寅日本國を永代に國賊視を以て目的とし、衆の頭脳に神話を用ひて誘染しきたるは倭史なり。奥陸に起りし倭人との闘爭三十八年餘に長期とせるあり。如何に古事記・日本書紀を正統とせども、奥州は前九年の役に至るまで倭の皇土たるはなく、租税の献貢はなかりきを知るべし。
語部録に曰く、

是の如く記逑ありぬ。更に國造り・人造りにては、神と信仰を以て心の安らぎとせり。

是の如く説き、安心立命の一義は睦を第一義とせり。

文政六年七月七日
幸田久光

十二、

吾が國は人祖を山靼に受け六千年の歴史に由来す。山靼にブルハンの神を祀る神湖ありてシキタイ・モンゴル民の聖域にて、太古よりブルハンの神を祀りて民、集ふ所なり。三萬年前、此の地に小耳毛象、群をなし狩猟民の多く、毛犀・大角牛・大鹿の群なし馬の大群、狩猟民を育みぬ。

此の民の、獣を追ふて東北黒龍江を両岸にその河口に至り、サハリイを渡島に渡り、東日流に渡来せしは吾等が祖人なり。先なるはアソベ族、後なるはツボケ族なり。これより尚古き先住民もありしかど、絶えたりと曰ふ。
語部録に曰ふは、

とあり、十萬年乃至三十萬年前の年輪とぞ曰ふなり。人の渡りは是の如く古きにありぬ。是、山靼にも同傳に在りぬ。

寛政五年七月二日
秋田之住
物部藏人

十一ママ、陸奥歌水月抄 二、

全歌詠人不知

〽久方に
  さゝの一夜は
   啼く蟲の
  奏でる楽を
   肴に添へし

〽かりそめに
  二本鬱たる
   三輪の杉
  神蛇のやどる
   杉靈の杉

〽おほどかに
  鷹を馴して
   ほのめかし
  またぎの里は
   聞くやいかにと

〽渚寄る
  ぶりこひろひの
   おばこには
  こぼれるほどの
   艶ぞありける

〽行きやらで
  同じ流れの
   淀みには
  暫し留めん
   うたかたの影

〽やごとなき
  五穀成就の
   祈りなる
  たゞ三禮四拍
   荒覇吐神

〽うちつけに
  けふ見ざれば
   花もなし
  明日の嵐は
   雲途に兆す

〽山吹の
  山を染める
   華にさへ
  天狗だふしの
   吹かぬものかは

〽手向草
  冥闇救ふ
   荒覇吐
  我れ人のため
   祈りますまし

〽苔を踏む
  八目の草鞋
   履き替て
  一期の浮沈
   未だなくれそ

〽虹走る
  鳴る瀧水に
   願かけて
  虎の尾踏みし
   過却を絶ちぬ

〽貧しさに
  月見る程の
   ひまもなく
  つれなう身には
   さまされもなし

〽名にめでゝ
 とかく申すに
  よしぞなき
  思ひ外濱
   都母の石文

〽かけまくも
  無常の虎は
   襲ひくる
  往事思へば
   心惑ひむ

〽解けとこそ
  手櫛もまゝに
   かみしきも
  まゝにならざる
   我は老たり

〽神を上げ
  神のしめゆふ
   かんなぎは
  けふはいつより
   気色あらはに

〽ものいはず
  やどるか袖の
   こぬか雨
  春はいくばく
   いざ逝くものを

〽月の浦
  發征く船の
   髙白帆
  日に向へてそ
   果はありつる

〽天つ風
  うつろふものは
   世の中の
  時ふり逝きぬ
   身もがな二つ

〽我が旅は
  そことしもなき
   山靼の
  擴きに在りて
   我が國を憂う

〽報の罪
  世にぞ隠すも
   我れは知る
  自業自得の
   思ひうちあり

〽身を知るも
  かかるべきとは
   心得ず
  よしわれのみか
   いしくものさげ

〽いさみても
  浪こゝもとに
   さえかえる
  来る冬の矢の
   東日流西濱

〽中んづく
  名は人めきて
   さなきだに
  心そらなる
   我の今なり

〽朝ぼらけ
  猶ありがほの
   あしたづは
  餌もやらぬに
   我れに馴こし

〽惜しまじな
  猫に小判の
   たとえあり
  燭に背けて
   浂れ夜もすがら

〽あれはとも
  所作足らねば
   追鳥の
  雪に古る枝は
   保つ難けれ

〽うろずくを
  釣りにし流れ
   立つ廻り
  かゝれど放す
   川涼みかな

〽松風や
  忍ぶ今宵の
   よばひおば
  なぜもて吹かぬ
   蛟にぞかゆかし

〽蜘蛛の巣に
  拂ひて探す
   神窟
  石塔山の
   秘めし宮社

寬政六年二月
江留間之住
境屋仁太郎

十二、

吾が丑寅日本國と築紫との往来ありき。築紫にては磐井一族ありて、築後一帯に覇をなせる大王たり。髙麗と能く交りて、山靼とも交りぬ。依て吾が國にも往来し、歸化せるもの多し。陸奥に磐井郡のありきはその故なり。磐井の民来たり、創めて墳墓の築工流りぬ。北上川山辺に築かれし古代なる墳陵の存在しきは、その故なりき。

築紫にヒミカと曰ふ靈媒師あり。幼にして伊川に生るを知りて、父母を尋ね宇佐に暮らし、靈媒を天授し衆を寄せ大元に移り、八女及び山門を巡脚し、更に末盧・伊都・奴に巡り千人の信徒を従ふ。信仰の神は西王母にして亀堂金母・東王父を祀りぬ。さればヒミカの神たる西王母とは、支那傳説の仙女たり。武帝内傳・漢武故事亦は列仙傳・博物誌等漢籍に出づ。

是に據りては西王母、一に亀堂金母と稱し、姓は𦃺また揚にも作り、諱は回字にて婉姈または大虚と曰ふ。西方至妙の気に化して伊川に生れたるより西王母と名付け、東王父の妻たり。漢武帝、仙道を好みて神仙を求めたるに、元封元年七月七日。王母、數多の侍女を随へて帝宮に降り、仙桃は世の常のものに非らず三千年にして一たび實る桃實なりと申す。かくてやがて歌舞を奏して帝の壽福を祝ひたりと曰ふ。
倭史にては次の如し。

前略
主基則慶山之上栽恒春樹、樹上泛五色慶雲、雲上有霞、霞中掛主基、備中四字、且其山上有西王母獻益、地図及倫王母仙桃、童子鸞鳳麒麟等像、其下鶴立矣。

と見え唐物語に傳の大要を傳へたり。されどもこれらは、穆天子傳に群玉山の神仙西王母が周の穆と宴し楽舞を奏したりと見ゆるに出たるものにて、漢以後に及び仙桃の事を附托せしものゝ如し。
また、山海經には王母の姿を記して曰く、

其状如人、豹尾虎歯、而善嘯蓮髪載勝、是司天之厲及五殘

と曰ふ。郭撲の西王母讃・司馬相如の大人賦にぞ同記たり。これを西王母が園の桃と作れるは、源平盛衰記にも見ゆ。築紫のヒミカは己が住居を耶靡堆と稱し、築紫は磐井山門とせる招殿たり。招殿之主磐井大王にて、加志牟の妻たりと曰ふ。依て是を耶馬壹と稱し、耶靡堆を耶馬臺と稱し、魏の倭人傳に記逑ありぬ。磐井大王、ヒミカを耶靡堆に歸さゞるに依りて倭勢、築紫に攻め磐井大王を討取り、ヒミカを探せど行方知れずと曰ふ。
東日流語部録に曰く、

・・・・・・
自築紫来靈媒師、其名稱卑弥呼、盲目女也。以語印曰
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

と云ふ。

寛政六年七月一日
物部藏人

十三、

語部古事録に曰く、

是の如く往古の事は解きける。古き世にある事の出来事を記しきは、丑寅の記のみなり。語りき辨の程は七語に異なれども、語部なれば讀得たり。是の故に倭人の知る事も是なく、歴史の實を保たれり。天に仰ぎ地に伏して、是れ荒覇吐神の加護と崇拝奉る。

荒覇吐神なる信仰は、古代に於ては是の如く語印にて通じ、此の國に歴史を今に語りぬ。アラハバキイシカホノリガコカムイ是が古代の證なり。よろしく仰ぐべし。

寛政六年八月
物部藏人

十四、陸奥歌水月抄 三

全歌詠人不知

〽見上ぐれば
  荒れたる家根の
   忍ぶ草
  ままよ取らずば
   華も咲くらん

〽さなきだに
  夏の盛りは
   山入りて
  涼けき木の間
   それわが山は

〽まくり切り
  蜘蛛手十文字ともじ
   骨砕く
  若きの頃は
   われも荒武者

〽よしさらば
  命のみこそ
   あきらむは
  涙いとなき
   出でむ戦に

〽矢は叫び
  草摺鳴りて
   馬爪の
  大地をゆする
   衣の戦

〽楯あたる
  征箭立つ數の
   多ければ
  こゝも修羅場と
   なるはけふとて

〽極楽寺
  補陀洛山の
   霧間見ゆ
  和賀の山なみ
   雲に閉ざして

〽渦巻くる
  紅蓮の炎
   舘包む
  厨の柵は
   雲に舞逝く

〽楯なめて
  しのぎを削り
   猶攻めて
  川崎舘は
   屍山なす

〽多賀にある
  神と人との
   荒覇吐
  未猶固き
   誓ありてそ

〽一つ世の
  暮しに責めて
   人買は
  別れ泣きつる
   娘引きつれ

〽あからさま
  馬上に祈り
   荒覇吐
  陸の爭ひ
   弓と弓とを

〽つゝましや
  あるべき住まひ
   思はずも
  今はかうよと
   思はざりける

〽うちかへす
  衣の関は
   叫喚の
  骨肉砕く
   修羅地獄なれ

〽八邪なれ
  十惡五逆
   我からに
  犯して進む
   戦ぞ哀れ

〽越天楽
  心も共に
   舞納め
  納むる太刀は
   荒覇吐神

〽四意三の
  煩悩きづな
   我深く
  神に祈らむ
   心しありて

〽桐の華
  青紫あほしにほへど
   うたてやな
  妙なる一乘
   見る目もならで

〽𩗗風帆に
  船は波きる
   空晴れて
  安東船は
   千島沖ゆく

〽ゆひかひも
  草徑もなき
   山の墓
  光の陰を
   今にぞ秘めて

〽おろそかな
  あめはゝこぎて
   久方に
  心の背き
   まだ夜をこめて

〽みとしろの
  心を盡し
   わぎも子が
  うつる夢こそ
   一方ならず

〽世は常に
  見えぬ惡魔の
   伏しどころ
  かまひて心
   隙を与まず

〽影青き
  風も暮れゆく
   夕されば
  月のみ満てる
   中山の峯

〽思い憂つ
  いづくはあれど
   朽ち果てね
  尚しをりつる
   身のおきどころ

〽まれ人と
  さゝくむ宵の
   あねこもさ
  駒嶽颪
   もる我さへに

〽汝れをして
  逢ふは別れの
   こととなり
  云ひもあへねば
   想ひ残りぬ

陸奥歌水月抄は、誰ぞ詠たるかは知るを能はず。古きは平安より遺りきものなり。能無しとて陸奥人を化外の蝦夷と片しく云ふ勿れ。かくも歌心ありて遺しきも、作名せず。ただ歌を楽しむるは大事たる歴史の遺産たれ。

寛政六年二月
江留間之住
境屋仁太郎

十五、

歴史の要は論より實在の傳統。その存續事實の文書と遺跡と遺物等々、證に不動なるを要す。吾が國はその證に満たせる寶庫たり。

太古稻作の古田跡・留池跡あり。金鑛の跡ときをり地より出づる古代遺物も多量なり。城跡・湊など、沈船傳説もまた見當りてその實を證しぬ。

上磯之遺跡

宇鐡 砂ケ森
蓬田 後泻
飛鳥 大濱
宇涛 安泻
小泊 下前
磯松 鮎内
十三湊 長濱
金井 舞涛
鰺ヶ澤 赤石
吹浦 大森
白神 黄金崎
追良瀬 巌崎

右は上磯遺跡ある地なり。

下磯遺跡

亀丘 石神
中里 忌良市
藤枝 小里
木作 木腰内
鬼澤 三輪
板之木 藤崎
大浦 行丘
飯詰 稻架
三世寺 大光寺
石川 薬師
倉舘 阿闍羅
大森 梵珠
中山 廣田
大原 川湊

右は大里遺跡なり。
遺跡、各處にあり、その實證ありぬ。何れも安日彦大王創國以来、安倍日本將軍の遺跡多し。然るに是を明さば、抹消さるるの憂あり。密とせざるを得ず。世襲の改新ある日まで、草むすまゝなればなり。陸羽の國は誠の日本國になるを心に鐡則とすベし。

寛政五年六月一日
佐藤宇之吉

十六、陸奥道草

浮し世を散らぬ先にと思ひ立つ日を吉日とて、あてどなかりき旅に出づ。
春とは名のみにて、あらあらと冷雨降りければ、しばし無住の地藏堂に休むも、そぞろふしどと決めて一夜を越し起きぬ。

〽露の夜に
  鳴くふくろうの
   聲太し

朝立添ふる道芝の露履きて、岩手山見ゆ渋民村に藤原の權九郎を訪れむ。家藁屋にして百姓たれども古系にして安倍の一族たれば、奥板間座敷に床間あり。太刀・大鎧を飾り置き、安倍良照の筆なる軸かゝり居りぬ。

祈陸奥泰平祓
侵魔輩開武運
 乙未三年 僧昭道

是の如く記逑ありける。
主と一夜の宴亦楽しく、翌朝發ぬ。また草の露けく足しめらし、盛岡城下に入りて報恩寺に參拝す。羅漢堂ありて、異なるを見ゆ。寺僧に尋ぬれば、由来知らざれども是れマルコポーロとフビライハンなる像と曰ふなり。

〽あからさま
  見るこそ得たり
   異人像

此の寺に一宿し、次日安倍の戦跡・厨川に赴きて(以下蟲喰不記)

寛政六年八月一日
髙橋良雄

十七、

天正十七年六月五日、磐梯山麓摺上原にて三浦義廣・改姓芦名氏、伊達政宗に敗れる。亦、足利氏一門の最上氏は斯波氏にして一族内訌にて元和八年改易となりぬ。佐竹氏は源義家の弟・新羅三郎義光の裔なりと曰ふ。

陸羽に徳川の大名とて遺りしは大浦氏・南部氏・佐竹氏・岩城氏・六郷氏・酒井氏・戸澤氏・伊達氏・松平氏・土岐氏・相馬氏・上杉氏・秋田氏・丹羽氏・保科氏・溝口氏・堀氏・牧野氏・本多氏・内藤氏らなり。

寛政五年二月一日
山田玄造

十八、

宇曽利の地に恐山ありて人、參拝す。
此の山、太古より死靈の山とて、死してはその靈此の山に来たると曰ふあり。子に死なる者また、親に死なるものの遺族にありきはこの山に来たりて靈媒イタコをして亡き靈と對話を得るなり。

東日流にては川倉地藏ありて、靈媒イタコの集ふありぬ。今は宇曽利も東日流も佛道になせるも、その元なるははるかに古代なる世の人の名にイタコ・ゴミソ・オシラの神司ありて、人のくらしに靈媒師イタコありぬ。

この他ゴミソ及びオシラあり。何れも神司なりて元なるは人の名なり。東日流にては今に尚、これを神職なせるありぬ。古代にては神のスササン・にイナウ・を建て、エカシ・がカムイ・にカムイノミ・を焚き神司のとき、ゴミソ・イタコ・オシラはエカシに代りて民にそれぞれに神の占・告・祈の代りとて神に民それぞれにその願望を叶ふてやりぬを、是の始はこの三師に依りて創まれり。

寛政五年七月七日
物部藏人

十八ママ

祖来の系図を書換え候儀に付き戒言仕り候。
吾が大祖に當る安日彦大王・長髄彦大王事の候は耶靡堆大王たりしも、築紫の侵敵に敗北仕り候へて、故地を退き候。爾来、奥州に居住仕り候乍ら日本國を創國仕り候段、先住民長老ら相議重ね候砌り、選に決し候へて安日彦王を以て大王と卽位仕り候。

長髄彦王その副王と相成り候へて、東日流石塔山の古来聖地に於て大王卽位の式を挙宣仕り候事の由は、語部古事録に明細仕り候處、明白なる史實に御座候也。耶靡堆大王より日本國大王と相成り候はまさに荒覇吐神の靈道に仕り候。晋より稻を賜り候へて蒼芒たる葦原を拓き候より、こぞり大里を稻田と拓き候より飽田・巌手と延耕仕り候も、猶以て越・坂東に渡り候は吾が國神、荒覇吐神の社跡今に遺りて在り候大事を覚つ候べし。

中祖・安倍安國大王の代に大王を廢し日本將軍と改め候。代々にして山靼と交易仕り候へば、西大國の事情に覚つ候ところ、日本國たるは支那古史に證記是れ在り候。代々都度にして倭人の侵領是在り候も撃退に及ぼし候も、康平五年を末期に厨川にて敗れ候も、一族の反忠にて候。時に辛くも難を脱し給ふは、厨川太夫貞任の二児髙星丸にて候。二千の家臣・領民に譲られ幸なる哉、奥陸東日流平川なる藤崎に落着仕り候。

此の國は太古に安日彦大王の卽位の地にましませて候へば東日流大里こと安東浦とて稱しけるに髙星丸、長じ候て自から姓を安東と改姓仕り候。東日流六郡・宇曽利・糠部・都母の三郡を領に掌据仕り候。猶又、渡島・千島・流鬼島に及び候は、爾来の子孫に十三湊をして山靼交易に益し候。然るにや興國元年の津浪起り候て十三湊は皆滅し、死者十萬を數え候。折しも庶家起り、内訌また起候へて、京役管領に宗家を爭ふより安東氏・安藤氏の姓を異に候へて長期の内訌も由なきに候。庶家、宗家を重んぜず己が所領に孤立仕り候。

北條氏、鎌倉に亡びて候後、倭國は南北朝に相分れ候も、世は戦國に相乱れ候。安東氏、東日流に在りて京役管領たれば南面武士、矢継速に落来り候へてそれを追ふが如く南部守行、安東氏をゆさぶり候。遂にして永享二年藤崎城落ち候より、十三湊の合戦また天運非らざれば時の安東大納言盛季、飽田及び渡島に新天地を開き候。依て是れ東日流故地放棄の策に御座候。嘉吉二年、遂に決行仕り候云々。
依實季記。

南部氏に應戦のさなか、日本將軍安倍大納言盛季は天皇御自からの勅令に授けて若狹の小濱に勅願道場羽賀寺再興の奉行を任せられ、子息安東康季が赴きたり。盛季は一族と謀り、領民ことごとく藤崎城落舘以来、鯵ヶ澤湊・十三湊・小泊湊より安東船百三十艘を挙げて、渡島及び飽田淳代・北浦・土崎へと移住せしめ、既に民家及び城・神社・佛閣までも建立し、拓田に稻の稔る新天地は備はりたる風情たり。

一、渡島渡り
尻岸内 十七軒
茅部 二十一軒
鹿部 二十七軒
上磯 二十八軒
木古内 四十五軒
知内 十八軒
松尾間内 二百二十三軒
白神 十七軒
江良 二十七軒
上ノ國 百十八軒
江差 五十一軒
乙部 二十一軒
利別 二十三軒
岩内 十七軒
余市 四十七軒
石狩 二十八軒
二、飽田渡り
八森 五十七軒
淳代 七十八軒
鷹巣 五十八軒
阿仁 四十六軒
北浦 六十八軒
檜山 八十二軒
土崎 二百十軒
河辺 七十二軒
旭川 百軒
仙北 百八軒
三、寺社之移建
渡島
荒覇吐神社 十六社
阿吽寺分堂 十八堂
飽田
荒覇吐神社 十一社
阿吽寺分堂 十五堂
四、船場之設置
渡島築湊
豊浦 八雲
森 鹿部
茅部 戸井
宇都岸 木古内
松尾間内 上ノ國
余市 岩内
飽田築湊
八森 淳代
北浦 土崎
五、城柵築設
渡島城邸
松尾間内、大舘、他渡島十二舘
飽田城邸
檜山城、他六砦
土崎城、他七舘三砦
北浦城、他二舘二見告

右、安東氏之移城築設如件。

六、遺歌集

〽いとどしく
  文のひぬまに
   めでたけれ
  しのぎを削り
   吾が城ぞ建つ

安東義季

〽誰そよう
  日之本中に
   あくがれの
  玄武朱鳥
   城ぞ成りける

安東政季

〽羽賀寺の
  伽藍成りけり
   勅願の
  大義を果し
   言も無かりき

安東康季

〽移りきて
  故地の陸景
   隔て波
  吾れはいくばく
   沖の漁火

日本將軍安倍大納言盛季

〽空仰ぐ
  雲の流は
   移れども
  いさや月影
   こゝにも至る

安藤庶季

〽怨みても
  餘りあるなり
   東日流での
  敵に踏れし
   故地を思ひば

安東兼季

〽ためしなき
  戦のそよや
   藤崎の
  今一かへり
   不覚の涙

安東教季

〽唐川の
  城に似たるゝ
   檜山城
  松風語る
   心隠して

安藤能季

〽心許なく
  時は虎伏し
   地獄道
  すわこそあれや
   宇曽利を夢む

蝸崎藏人

〽えめぐるは
  夢幻の
   一睡に
  機ばりもなき身
   生ありながら

安東鹿季

〽おぼつかな
  外の濱風
   尻八の
  舘を幽むる
   夢に覚めけり

安東重季

〽十三湊
  思ひば涙
   白髪の
  浪に消えにし
   人ぞ目うずる

潮方四郎重季

右歌の主は東日流放棄の一族にして、今に遺りき古歌なり。是の通り諸書に遺りきを歴史にぞ順次せるこゝろみたり。此の書は浪岡殿の所持せしものなり。

(原漢書)

寛政六年八月一日
行丘之住
長谷川義信

十九、

寛政の年こそ吾が國挙げて北方に心し、オロシヤの征領をとどむ策の要にありきも、幕府にても亦朝廷にても何事の策なきに憂ひたるは林子平・菅江眞澄・髙山彦九郎・秋田孝季・和田長三郎らなり。幕藩は何事も世界の事情を知らず、國の外に出づる者、亦外書を讀し者、亦その先進國の譯本を版せる者は獄投または死罪の刑を被りたり。依て界外におくる進歩に於て雲泥の相違是ありぬ。

是を世に報じ、衆を賛動せし者は國賣奴とて捕手の至る處と相成り、身は捕縄にその科は妻子・親族に至るまで罰せらるは常なりき。幸いなる哉、吾等密なれど田沼意次の幕命に依りて山靼の巡禮とてモンゴルのクリルタイ・ナアダムに參列と稱し、オロシヤの北方進出を密視とて探りその報告をなせる條件にて、天明二年山靼に赴きたり。

擴大なる亞細亞大陸横断を果し、古代荒覇吐發祥地よりその渡りを得て歸りきに永き年月にかゝりぬ。然るにその収、大にして能く古代オリエント廿國の遺跡地図を入手仕りて、オロシヤの亞細亞侵度を察知せり。アルタイ・興安嶺・シベリアをナアダムに集ふ諸民族、聞書せること十七巻となりて持ち来たれり。然るに幕府の北方政策何も是なく、ただ間宮林藏の探険あるのみなり。

文政六年一月二日
木村英治

廿、

永きに渡り石塔山の遺寶を秘に藏し、祖来その隠密に生々せる吾が家の生ざまに我もまた引継て、三春を訪れしこと數へ難き程の往来たり。然るに大火前より猶歴史の要を得たり。されば是を世襲の至るまで復た隠密とせるもおぞましく、ただ史書保護にぞつとめ參るもなかなかにそらおそろしき心地なり。何をとりても世に障れる記事なれば、常に心そぞろなり。

心に決めて是を遺し置くは、必ず至る世襲の自由あるべく日を念じて、未だ尋史の労を休むるなし。ただ願ふる處には民の平等・自由を天下る日を願ふ耳なり。此の書は實證にして倭史の如き曲折造史に非ず。能く保つ事を念じつゝ。

明治七年春
末吉

廿一、

福澤殿、五榜の掲示を拝し奉りて世の明けを感じ、慶應義塾を創立し學文の進めを一般民衆に説きて兒童教育に立脚せり。世未だ徳川の幕臣・各藩臣の各々、尊皇討幕なる修羅抗爭治まらず、會津の乱・函舘の乱を經て明治の維新相成れり。江戸は東京と相成り東京遷都、版籍奉還。遂にして明治五年、學制發布と相成りぬ。

小學校各所に設置さるるも、公にて成れるなく私設多く、授業料納めざる者は通學を差留められたり。まさに寺子屋教育と相変らず、ようやくにして教課書の出づるは明治七年なるも、各縣に於て無く、渡らざるもありぬ。教師また士族多く、平民に苗字許されたるも平等ならず。學校にて教育に障る兒童を鞭打つて負傷または致死に至らしむありても、平民の學童を學ばしむ親にして何事の訴言も許されるべくなし。

依て自由民權、奥州は三春に西國は土佐に運動展開さるに至りぬ。されば是を抗演し、自由それは民に人權を與ふべく平等の精神なり。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らざる、學問のすすめなる筆頭文ぞ能く演題に引用されたり。もとよりかかる意趣は安倍・安東・秋田氏に傳はる銘訓の一説なり。

學制發布より世の移る程に教課多く出でるは後なれど、學校の無きよりは人の智者藩政代より多く、平民も士族を越ゆるに至れり。依て教師も平民より出でたる者は學童に好まれ、能く學び得たり。平民より秀才の出づるは士族にとって恥たる意識去らず。

教育にその政權派閥がその教科を牛耳るに至りて、皇國史觀の教題をして國權・軍國主義が浮上し、自由民權は彈圧され消滅せり。秋田氏の藩に起りける民主の國家、誕生為らず。

和田長三郎末吉氏に福澤氏より文部省小學讀本屆けらる。明治七年四月二日なり。
(※ここに読本の添付跡あり)
右使用、和田長作。

和田末吉