日之本史探證 二、
(明治写本)
序言
本巻は丑寅なる日本國の史傳諸件誌なり。誰かが遺すべきと諸氏に當れども便無く、茲に諸件文献に浴したれば、かく長文に綴られたるを得たり。然に本巻は世襲に染る史書とならず、茲に末代の為に遺したり。必ず以て門外不出・他見無用とせよ。
寛政六年二月七日
秋田孝季
始祖之衣食住
古語にしてトナリとは獣皮なり。卽ち水袋
次にセモツとは食物を意味なせる古語なり。
次にはパオと曰ふ持歩く家、葦にて造れる家をマデフと曰ふ。風を防ぐ柵をカッチョと稱し、焚火するところをシボドと曰ふ。雪深き地の家をガゴと稱し、地を三尺ほどに堀りなし圓穴を施しその蓋をせる如くして木皮または萱にて屋根とする。その圓週を堀り水抜せるをクケと曰ふ濠を施したり。いづれなる家造にても外光と煙出し口を施し是をハッポと曰ふなり。今にのこれる古語にしてはカッチョ・シボド・ハッポなり。かくして古代衣食住の頃より相通ぜるは歴史の重けき大古を愢ぶに足りるなり。
次には信仰にして古代の神々は是の如く多採たり。海の神ウジャメ、その祭りをウンジャミと曰ふ。山の神をホノリカムイと稱し、その祭をウンビシと曰く。是の信仰をもたらせしは吾が丑寅の日本國に十萬年前より住み着きたるアソベ族にて、山靼より移り来る民なりと語部に傳ふなり。
時久しく降りて来たる民ありて是をツボケ族と曰ふ。彼等は智能も向上し狩猟にカメ卽ち犬を飼いガンジョ卽ち馬に乘りて駆け馬と俱に暮せる民なり。衣は草木の皮をつむぎてカッペタと曰ふ織物を造りそれを着衣とし更に毛皮をなめして冬着とせり。糸をあみなして漁をし銛を造りて鯨をも仕留め潮を煮詰めて塩を採り、山椒また山葵などを味付け、定住の民にて食を保存せる故に冬越せるに飢ゆなく、住居また葦・萱にて屋根また家週を風断し蔀をなして窓とし常に火をも保てり。
ツボケ族の古語は次の如きなり。寝具=ネゴ、手袋=テケシ、草作りの履物=ノッペ、刃物=マギリ、そり=バヅ、綱の浮木=ダバ、竹籠=ド、織物=カッペタ、肉=シト、塩=イラダ、網=ニナ、爐=シヅギ、辨當=セモツ、家=トマ、父=アヤ、母=アパ、子=ビッキ、女=メンタ、男=テモギ、犬=カメ、馬=ガンジョ、狩=マダギ、漁=ドサグ、火=ホゴジ、天=イシカ、地=ホノリ、水=ガロ、氷=シガマ、凍=ミミル、寒=シバレ、日=シ、夜=バゲ、病人=アオダ、傷=アメジ、火起=シタグベ、邑主=オテナ、長老=エカシ、神=カムイ、祭=マンテ、死=ダミ、産=ムシケル、墓=ヤントラ、汝=ナ、我=ワ、友=ケヤグ、親族=オヤグ、娘=オバコ、美女=アネコ、老父=ヅッコ、老母=ヒミコ、盲=イダコ、占=ゴミソ、祈=オシラ、沼=タナゲ、泉=シチコ、化物=モッコ、敵=アレド、武具=ボグド、怒=キマゲ、強=キチ、弱=マネ、太い=グワダリ、痩せ=カガリ、是の如く津保化族の古語にして今、用通多きは時代近きが故なり。
亦丑寅に耶靡堆族の住てより彼の古語多く用いられたり。
更には山靼語・紅毛人國の古語・支那・朝鮮語の混語ありて認識さる多きなり。仮へばタンポは鉾のさやにて支那語にて、テイヒとは桶にて朝鮮語なり。是を記しては限りなく用いらるは吾が丑寅の日本語なり。古代人の通行・流交には掟なく、物交に赴ける品のあとを赴りては驚可哉、はるか琉球島・八丈島にも至りける。
寬政五年十一月一日
和田長三郎吉次
紅毛人國語典抄
oracleは祈り、oratorsは語る人語部也。oratoriesは祈る所、oracleは神の告る人卽ちゴミソなり。oraculerは神の仰せなり。prometneusは餘言者にて神の如く先を覚る人卽ちオシラなりとぞ思ふ。
次には、proにて無限を意趣せるものにて、prometniumは宇宙の創めに到る創造の元素に致るを意趣せり。次に大要なるものにてolympusにてギリシアの聖地オリンポス山を意趣せる言葉なり。
次には武業を競ふをolympianoanesと日ふなり。次にpantneonとは神卽ちtneos全能の神たるを意趣せり。神なるギリシア國オリンポスの十二神、古代吾が國の入れたるを知らざるが故に件起りぬ。
寛政六年三月一日
和田長三郎
安倍氏之求學
安倍一族は常に武と文術に求道せり。衣川に佛頂寺を建立せるは死者菩提の為ならず、一族學得になる為のものなればなり。
然るに康平五年の乱にて一族は離散しけるもその求道にては、安東星堯卽ち良照の子にて仙北の地にて芽吹きせり。大舘塾學堂なりては先づ以て讀書算護心護身道とて心の一統集中を學び、次には身體錬磨なりて大舘塾は常に徒衆に溢れたり。
正應庚寅年正月
長谷部堯祐
陸羽求學之跡
古代より山靼より渡せる山師より金銀銅鐡の採鑛を得る為なる地調鑛帯を測す學道をenclopediaと曰ふ。
更にcyclotronと曰ふギリシアの學を傳へたる紅毛人らを神の如く導師とせしに、源賴光ら人をして是を誘へ丹後の由良川奥なる大江山に金を探鑛せしに地人、紅毛人を一見に驚きて大江山に鬼棲めりとて大騒動となりにしを賴光、是を酒天童子とて退治せる作説、急ぎ陸奥に歸しめたるを地に物語る賴光鬼退治の古話に遺りぬ。
紅毛人をこの時より倭領にぞいだしむなきは安倍頻良なり。是の紅毛人、後志にて探鑛せし跡を余市の大江とぞ稱し、彼の紅毛人をタイタンの使者とて陸羽の地より鑛山を當たる多し。東日流なる鬼神社を鐡之神とて祀らるはタイタンがことなり。
此の神に供ふるは昔より大蒜及び葫なりと曰ふは、彼れ故國よりもちきたるものなりとも曰ふ。東日流にてはケフ・ケリなど紅毛人なる遺語ぞ多しと曰ふなり。
右、鬼澤邑甚吉説
行丘城要史
行丘城なる城設の創めは承暦庚申年八月、菅野左京にて築城されきを創初とす。永保丙申年九月藤崎城落慶せる後、安東氏季十三湊入澗城主の命にて下切下磯の守城とせしは、先づ東山根を行丘を要所と選びたる由なり。卽ち、藤崎城を主城とせる青龍の砦なり。
亦、白虎の方に狼倉、朱鳥に岩楯に續き築り玄武十三湊ありきも、飯積の地に玄武砦を築きけるは中山に石塔山聖地あるが故なり。此の行丘城築城にては、今に位地ある處にぞ非らず、天狗平なり。
行丘に成れる北畠一族にて今なる地に移城せりと曰ふは、安東氏より施領されしものにて、北畠氏を以て創者と歴史に想ふべからず。若し北畠氏を創主とせる史證は混沌なり。
津輕記・浪岡系図・浪岡系譜・應仁武鑑・三春浪岡系譜・天童丸系図・靈山記・津輕古系譜・奥州落穂集・津輕古今雑類纂・長山家記・南部世譜附録・伊達行朝勤王事歴・巡守録迫加・南朝公卿補任・細々要記・氏族志・津輕郡中名字・津輕一統志・永慶軍記・大日本史・南部文書ら俱して一通解明を得ること難く、當の永禄日記また立證欠くる多し。
行丘城なる歴史の實相を探るべきは藤崎城主安東宗季に依れる於領施譲覚書に史實明白なり。
右陣場之吉町次郎太説
行丘城誌
陸奥國奥法郡下磯郷下切發驛要所行丘邑、平川郡藤崎城主安東十郎髙星丸之支城也。城代管野左京基信一世之自代其子孫累代仕所也。亦領堺玄武舘、依髙烟越中忠継累代、以同行丘役趣也。
行丘天狗平築城、委要害自然三重柵施城圍以林道孫内戸門外濱宇濤安泻大濱至上磯砂ヶ盛、亦中途施中山魔岳切通加奈岐切通神田鍋越切通交下切道、叶十三湊往来亦中山千坊十三千坊為巡禮、加之千坊古事正中山梵場寺石塔山中山道場、後泻荒吐宮飛鳥寺為法場是稱中山千坊、更十三湊山王社阿吽寺長谷寺禪林寺三井寺春日内龍興寺濱明神壇臨寺璤瑠澗明神相通巡是稱十三千坊也。
湊城築福島城唐川城鏡舘羽黒舘中島船場權現城青山城、警護行来河船往来至藤崎舟場十川往来為行丘水路、是藤崎城支配行丘下切權曰也。
文明辛丑天猛春
葛野村住
天内義仁
興國被浪志
世に興國の津浪ほどに慘たるはなかりける。かく程に天害希なる津浪なるを津輕史傳になかりけるは嘉吉三年十二月、安東一族ことごとく津輕を放棄せるが故に遺らざるなり。
然るに唐崎に數千體になる地藏は死者十萬をいだしたる被害災の殉靈に供養せし證なりけるも、享保の年に川倉に移せむは何事の理由にや、津輕寺社奉行ならではその政謀知る由もなかりけり。
茲に古老の綴りなる東日流諸翁聞取帳に基きてかいまみるその慘たるは次の如くなりける。上磯下磯に起り地震ありてその波震三度に及び、津輕大里に在邑せる各處に水噴起り、ある處にては墓地に噴水起りて骨骸宇に吹上りて地散せるあり。田畑に噴水せる水穴ぞ沼をなせる處續起す。依て漸時の間淨黙せし後、潮鳴起り數丈の髙波一挙に上磯濱に激突し、川を逆浪し巷なる邑々を一呑にせり。十三湊より逆流る大津浪は大里の邑々を浪破に崩し、田畑も一挙にて満水の内海如き慘景なせり。死者十萬・牛馬二萬八千頭・崩壊せし家棟一萬四千八百六十二軒に及べり。
上磯濱にあるべく船一艘たりとも残るなく、福島城・唐川城牧に潮呑され溺死せる馬骸潮退きては丈餘の老木なる太枝にかかれるを見る。津浪の被潮なる末留は板野木邑・行丘邑に達せり。稻田皆無作に被浪し十三湊は流留む流材、牛馬人骸の流泥に湊の深きを埋め、名湊十三湊は一挙に浅瀬遠浅なる水留り廢湊と相成りぬ。
依て安東船になるは郷湊に歸らず諸國の三津七湊に居住をよぎなしとせり。時、興國庚辰年の八月十一日の慘事なり。
弘治丙辰年二月一日
小田桐甚兵衛
曽我氏之事
曽我氏、東日流に着住せし唯一の出事に曰く、平泉討伐の挙兵二十五萬七千騎、北主藤原泰衡を討つべくの理由にては、九郎義經を入れ更に十三湊なる安東氏季義継の養子たる藤原秀栄次男秀基の子秀直、しきりに平泉を訪れ不なる画策ありと銭賣吉次なる間諜に賴朝意を決したる挙兵なり。
二十五萬餘を挙したるは、東日流の安東一族が是に便乘しければ、朝廷また義經を征夷大將軍の宣令ありこそ、茲に賴朝が座主明雲大僧正に仕組まれき法往寺殿を追放されし学師明雲の教えに戒しまれたる如く、京師朝謀のもと義仲に次ぐる空功の賊徒と為らんを、大江殿に注告されて挙たるものなり。
奥州藤原三代なる栄は丑寅の都主たるの覇にあり。是に義經の指揮ありなば、賴朝が鎌倉に武家政事の革新に志せる望計も水泡とならん決意に天下分目を賭けたる挙兵は、怒濤の如く奥州阿津加志山及栗原一の迫に激突せり。是に應じたる平泉勢脆くも崩れて敗走し、磐井に十重の陣をかまえ東日流なる藤原秀直の援軍をあるものとて待つたるも遂に到らざりき。是れ泰衡の人委せなる失策なり。
自らの重臣大川兼任とて義經と謀りて髙舘に動かざれば、泰衡遂に平泉三代の遺都に手火放って獨り羽後に遁す。賴朝茲に大川兼任の反忠になる功を賞でず、尚肉親なる義經との奥州平定企画隠謀の誓をも敗りて、是を逆賊とて追討せり。かかる賴朝の計を旣察して動かざるは安東貞秀にして、平泉に走らんとせる十三湊勢を水戸口に閉ぎ亦、一卆たりとも着鎧を赦さざりしを秀直恨めり。
ときに賴朝軍を退き五萬騎を遺したる十將の中に曽我小五郎直光ありて、東日流安東氏の察偵に、宇佐美氏と羽後廻りにて伊迦流ヶ關前に陣営を楯垣にかまえたり。時に大川兼任、飽田に主君を迎へんとて贄柵に赴けるも、時おそく泰衡は城主河田氏に首級を挙られ、平泉なる警護の和田義盛に對面、主を討たる不義者とて討れし後日なり。亦、義經とてその主従は秀直の手引にて渡島に渡り、後志の余市に遁行せり。
兼任、念怒し平泉遁兵を結し、賴朝方進駐の將を右横左横に討伐し、不加勢たる安東一族を討つために文治六年に外濱多宇未井に本陣をかまえ火内にありき宇佐美氏を血祭りにその勢、激したり。ときに安東貞秀、總挙して大川兼任を攻め討って宇多未井を抜きたり。
是を怒りたる十三湊秀直は、遂に文治丁未年五月二日挙兵して藤崎城を圍み、萩野臺に本陣を置きたるを、その背後を突きたるは曽我小五郎眞光にて、鷹巣駐留の二階堂氏と軍を併せ秀直本陣を襲ふれば藤崎方安東勢また攻めいでたれば十三勢脆くも敗れ、秀直補はれて断罪打首の刑を、貞秀是を免じ渡島に流したり。
曽我氏の功に賞で安東貞秀は岩楯領大光寺櫻庭の三領を与へ、曽我氏是の地に永住す。
その系図左の如くなり。
検校曾我時廣、小五郎眞光、太郎兵衛助光、太郎入道性、左衛門太郎重經、太郎貞光、小次郎惟重、弥次郎光廣、弥次郎泰光、余一光賴、次郎光髙、乙房丸資光
右の通り本庶系に遺す。
享和壬申年六月
舘田加門正賴
工藤氏之事
飯野社建武元年記に曰く、
陸奥國岩代郡好島庄西方御家人伊賀式部次郎光俊、差進代官小河又次郎時長、相伴總領伊賀守三郎盛光、去八月六日罷立府中。同二十一日馳著被持寄城種々數合戦上、九月二十三日竭忠云々。
開城繹史に曰く、
建武元年七月、髙信余賊名越時如安髙景、據津輕持寄城、顯家發兵討之。廿一日賊兵出戦、九月二十三日二十四日連戦、十一月十九日官軍復攻城、時如髙景束手出陣云々。
南部文書師行獻書に曰く、
被留置津輕降人交名事
工藤左近二郎子息孫二郎義継同孫三郎祐継他、若黨分矢部彦五郎弥彦平三郎四方田彦三郎髙橋三郎右衛門入道光心長尾孫七景継長尾平三入道萩原七郎山梨子弥六入道気多孫太郎賴親同子息三郎重親新關又二郎乙部地小三郎光季泰五郎是季野迈左衛門五郎、十一月廿三日死去了。野内弥九郎光兼惠蘇弥五郎死去了。以上十七人安藤又太郎預之。
曽我弥五郎入道鄕房光同小阿弥二郎入道預之。内河三郎二郎同又三郎石眞両人瀧瀨彦二郎入道預之、工藤治部右衛門二郎貞景死去、安保弥五郎入道道預之、同舎弟孫次郎經光安藤五郎次郎預之、気多二郎太郎員親大沼又五郎預之、小國弥三郎泰經結城七郎左衛門尉預之、當參工藤左衛門次郎義村和賀右衛門五郎預之、吉良弥三郎貞郷都築彦四郎入道預之、工藤六郎入道道光同三郎二郎維資中務右衛門尉両人預之、金平別當宗祐弟子智道両人武石上總守介代預之、曽我左衛門太郎重經十二月一日死去了、子息彦三郎浅利六郎四郎預之、曽我太郎兵衛入道道性同兵衛太郎両人彈正左衛門尉預之、殖松彦三郎助吉倉光孫三郎預之、相馬入道子息法師丸毘沙門堂式部阿闍梨預之、小河六郎三郎小河二郎預之、笹原彦四郎宗清同四郎長清両人二宮治夫左衛門太郎預之、工藤四郎二郎中村弥三郎入道預、村上孫三郎政基同八郎眞元入道朝坂掃部助入道理顯内紀七郎入道妙覚道正房、以上五人安藤孫二郎預之。
工藤又三郎工藤六郎預之、在富八郎宗廣十一月廿三日死去、小出左衛門尉十一月廿一日死去、子息太郎髙下供住置之、小松中務入道同供住置之、當參曽我孫二郎貞光同子息与三貞綱置之。右粗降人等各々交名注進如件。建武元年十二月十四日。
工藤氏之継累は東日流浅瀬石六郷黒石を知行せしも、一息女を南部信政に腰入なせる後、東日流自領を南部氏に委領したるは男子無く己れの終生を南部にて了せしも胤絶に非ず、血累は南部氏に累代せり。依て黒石は飛地南部也。
寬政六年二月一日
和田長三郎
安倍氏諸草紙
花にうつらふ國見山に遺るる極樂寺こそ孫父國東な發願にて成れり。此の國は丑寅に成りませる日本國なり。
侵す他、策あらざる倭國と生々總てに異なりける故國日本國ぞ北斗なる宇宙の靈星を仰ぎ、人の無上なる生々を心に保ける粗来のとこしなへとし、八千代をこめし幸園を戦の馬蹄に荒しまずと西に打向ひける幾多なる過却に史をなせしき子に臥し、九牛が一毛の泰平を神懸けしに、生靈死靈の間になる三界人のためつらければ、
從是西方十萬億土有世界名曰極樂以尚南無西方極樂世界三十六萬億一十六萬九千五百同名同號念阿弥陀佛
しむ心に以て總領の民は西に佛頂寺、南に極樂寺、北に淨法寺、東に日照寺を建立せしも、天喜二年の大巨星光り失せ逝くほど、わが一族は倭軍の十二年に重むる國土を血に塗りけるは神な降罰、佛の戒に墮なん耳なりき。
必ず以て源氏の崩滅反忠清原氏の天誅被らんをば、荒覇吐の神かけて日夜の満行に報復ならんやとて逝きしは厨川貞任の悲願たり。かまへて吾ら念には念を次世を造りなん。
髙星
衣川しるべ
- 大河落合
- 舘内
- 荒柵掘建
- 百十二間
- 河口
- 六十二間
- 河袋地
- 四十間
- 目通
- 十間
- 矢楯柵
- 七百八十二間
- 鷹巣渡
- 五十間
- 大澤口
- 不詳
- 寺澤口
- 不詳
- 國見道
- 不詳
- 伊治沼道
- 不詳
- 太刀洗柵
- 不詳
- 騎返柵
- 不詳
- 安國坂
- 不詳
- 宴原
- 不詳
- 東日流道
- 奥州東山道之事
- 羽後越
- 飢饉に越ゆ山道なり
- 鏡泉
- 此の泉に顔映しなば、天下無双の美女に叶ふ
- 不死湧水
- 一吞十年延命水
- 衣柵
- 本舘とも稱す
- 夜越道
- 别稱柵抜......以下不詳
是惜可以下文字汚滅不記 - 隠岩洞
- 右同 不詳
- 舟場落合
- 右同 不詳
- 阿久里河口
- 右同 不詳
- 昆砂門坂
- 右同 不詳
- 薬師平
- 右同 不詳
- 日本御所
- 右同 不詳
- 奥衣舘
- 右同 不詳
永禄二年六月五日
小田川玄藏
奥のしるべ
一、
酒天之宮酔宴の御言葉
丑寅を奥と稱し、道を細しとは何事ぞ、亦、古き世にては化なる外、住むる民を蝦夷とし、世にはばかる下賤の民いやその下民とて永きに渉らむ、何をか以て夷の國なるや。何が故なる蝦夷なるや。
古代なる何をもかも唯國賊とて衣食住の下敷に制したる倭人こそ人なりや。わが祖は此の國を日本國と號けしを國號までも奪ふる倭の輩は、人をして人に非ず。諸神の戒行を破る耳の征々の阿修羅なり。
文明十二年八月 記
天眞名井
二、
古にして人の渡りきたる丑寅なる日本國の人に成る歴史の創あり。住人に成るる脚跡を愢べり。はるけき歴史の上に密たるものの實態、奥なる程に出づるなり。
封内風土記に曰く、
四月壬午、為民部卿兼春宮大夫藤原惠美朝臣獦。孝德帝天平寶字四年正月癸未、為陸國按察使兼鎭守府將軍授正五位下、同月丙寅授從五位下、同五年十月癸酉為二部卿陸奥出羽按察使如故、同六年十一月丁酉為東海東山節度使、十二月己已為參議。又曰歌枕作壺石文、或作碑風土記残編、作坪碑壺苦本切音悃爾雅宮中、御郭璞曰御閣間道詩大雅其類維何室家之壺又居也、俗作壺碑非也、壺洪狐切音胡酒器、坪蒲明切音平地平處、按察使所見按斯碑也、以往時在城中舘底而名壺碑者也、想天或達境内反命干京師、告逆賊蜂起干隣國、或募兵集徒之切急遽倉卒之忙預致其備所以量遠近孝多寡定曰子計来往而擇緩急遅速之設也。風土記残編曰坪碑在鴻之池為故鎭守門碑、惠美朝獦立之見雲眞人書也、記異域東都之行程令旅人不為迷塗觀迹聞老志曰壺石在于我東奥也。
久然累世無人識其神妙者空蕉没于古城草奔之中者幾千年、水戸黃門君請其文字于吾大守綱村君、令儒臣田辺氏雙鉤以遺焉未及石刻尤可、惜矣元祿十二年、興江定守及亡方義方經此地以義方術而打之去、閱其文字筆勢髙古字體寬閑殆非尋常書考之中華則蘇長公趙松雪之上、而陶弘景顏魯公之亞也。未嘗見日本之字態於是切怪我朝有此鳥跡而未嘗以此傳其妙遺其名于後世矣。仍告之平信女是亦驚其妙手時編本朝書史乃収之篇中予亦屢示好事之徒説之談本朝希有之書、爾後州人略知其奇跡也。正德甲午春、當大守君命僕雙釣以進之質筆者姓命而得其左證于風土記残編中、始知見雲眞人筆痕可謂得其時而顯者也、希文按水戸黃門君乃水戸候光國卿也、田辺氏乃僕父希賢也、江定守成田市十郎大江定守而善書義方佐久間洞巌子也、平信如本鄉今兵衛平信如而善書頗有文戈。
正德甲午中御門帝正次甲子、按察使兼鎭守府將軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置也。天平寶字六年歲次壬寅、參議東海東山節度使徒四位上仁部省卿兼按察使鎭守府將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也。有城壘古址遺礎古瓦往往有之、好事者採以為之視足用文房具也。始稱多賀柵見天平九年後記、多賀城見寶亀十一年東鑑呼、多賀國府見文治五年、按號多賀城者乃岩切河北也、觀迹聞老志曰多賀國府或曰髙森、多賀國府相同且髙多賀訓同國府謂其總名森指其他實同地也。稱多賀國府也、今市以北岩切山陰古舘是也、本號髙森後遷市川多賀城于此爾来呼利府曰多賀國府。一説曰文治六年三月十五日賴朝令伊澤左近將監家景、主當國来居宮城郡髙森、仍家景以髙森為氏、時俗又謂之留守殿者居舘、雖在髙森其任以主多賀城也、據此説則文治中以呼髙森也。賴朝次軍之地今市川多賀城也、是乃往昔治府仍稱國府者不可疑焉、希文按風土記残篇載有多賀莊今不詳何處之地、想夫謂多賀國府乎。
壺碑在多賀城址、自碑首至石根六尺五分、石圍九尺六寸八分、石基九尺三寸七分、碑後石形三稜石而平而上題西字濶二尺六寸四分、自上至下四尺五分四方為畫其中記曰、多賀城去京一千五百里、蝦夷國堺四百廿里、常陸國堺百十二里、去下野國堺百七十四里、去靺鞨國堺三千里、此城神亀元年歲次甲子按察使兼鎭守府將軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置也。天平寶字六年十二月一日。
觀迹聞老志曰、按神亀元年甲子廼丁聖武帝元年天平寶字六年壬寅丁廢帝四年、續日本紀大野東人聖武帝神亀元年為按察使陸奥守鎭守府將軍授從四位上勲四等天平十一年四月也。鴻池今崩壞無其形清泉僅存有偏葉蘆川、一土人呼之曰市川源出自利府鄕關而未流會八幡川堤。一土人曰之市川大堤長十一町餘橋一土橋長十二間半濶二間浮島村戸口凡廿七。多賀神社傳曰、古昔多賀城主觀請江州多神社希文。風土記残編曰、多賀神社祭伊弉諾尊也、雄略帝五年奉圭田加神禮乃謂此社乎。觀迹聞老志名跡志共載浮島神曰、多賀城東鹽竈西南往昔海潮来其下者考古人之所詠而可知焉、今変為野田、田上有一丘、丘上有神祠是乃浮島明神也、不詳祭何神指此社乎。大臣社傳曰、塩竈一宮末社而所祭源融大臣也。
佛宇一觀音堂不詳何時創建、寺一浮島山法性院曹洞宗仙臺府下八塚龍川院末寺、傳曰武山和尚開山、不詳何時創建寺年月、古壘一、傳曰古昔浮島大夫者所居、髙崎邑戸口凡二十一、神社凡三神明宮、不詳何時勧請、二渡權現社同上熊野三所權現社傳曰古昔多賀城主析國家安全而所勧請也。寺一髙崎山化度寺曹洞寺宗仙臺府下八塚大林寺末寺、不詳何時何人開山、大林寺末寺雪橋和尚中興、不傳何時旧跡、凡二七堂迦藍遺址、傳曰古昔多賀城主祈國家安栄勧請熊野神社造営七堂伽藍、一切經寶堂太子堂、其遺礎今猶存、義經馬蹄石在、多賀城址大石而有馬蹄痕、不詳其所以然也。
留谷邑戸口凡廿七、神社凡二、神明宮不詳何時勧請、天神宮同上、佛宇一聖德太子堂不詳何時創建、荒廢惟存遺址。寺一留谷山向泉寺、臨済宗本郡松島瑞巌寺傳末寺曰本尊聖觀音行基其像作開山行基也。二木木明神社、不詳勧請何神其神邸、有白藤古来稱是。二渡明神社同上、鳥井明神社同上、今荒廢惟存遺址。佛宇一、四谷原觀音堂傳曰、本尊十一面觀音多湖浦島。觀迹聞老死名跡志名跡志其曰鄕俗作田子今據藻塩草同名多駿河為田児越中為多祐共出萬葉集、福田以北俗曰田子邑以産好芋而一國稱之蓋以地名而考之則江浦島嶼之地乎、今惟見野田邑落而巳相濶、賴朝東征之日、次軍于茲、東鑑遂日記宿次而不及其地、尤可疑川一田子川冠川之末流也。橋凡四、各土橋其一長二十五間濶二間、其二濶二間、其三長九間濶二間、其四長八間濶二間。
市川邑戸口凡四十七。神社凡三、奏社明神社傳曰、塩竈神社末社。阿良波波岐明神社、創建古代曰耳他不詳。亦鹽竈神、神元稱荒覇吐神社也。自古代此系在改神社、栗原邑荒雄河神社、荒雄神社、在多賀城神為荒鎺權現社也、此他陸羽多占自太古荒脛巾客神門神客大明神荒磯神荒神存各處。
右の如く坪碑ぞ糠部なる日本中央碑石より降世なりけるも、倭史の洗改にて蒙むれど、今に遺りき賴しき。右筆了す。
文化二年八月六日
大鷹權八
明治卅三年五月一日
和田末吉 写
正史立證文
丑寅日本國の正史を立證せむは第一義にして、山靼史他紅毛人國之諸國に渡る古史・古傳に基きて顯る多し。第二義にして倭傳に併せず渡島・千島・流鬼國・山靼黒龍江河畔の諸族史に究極ありぬ。神なる信仰・人祖の渡り・流通往来の今古は倭史にて究む事難し。
抑々丑寅日本史は古事語部にて遺さる多く遺物亦多し。千島十七島他になる諸島に遺るる住民遺物・クリル族なる歴史・流鬼國の民と渡島の民になる歴史の諸古事は東日流に於て五千年前なる来歴を語部に綴られたり。依て是亦、倭史をして顯るなし。坂東より丑寅になる國史をして倭史に云々とせるは、木に竹を継ぐ如くして油水の断にあり。交りき古事ぞ一行の記逑も成難し。成るべからざる壁に在けるなり。衣食住・風土をして異り、信仰また異りては倭のよるべなき處なり。
亦人の心理異る故に生死の觀念亦異りぬ。農を以て為せる歴史に於て倭の創めに遅れるなく、産畜・産鑛の技また先進なり。金を溶鑛せしは倭に非ず奥州なり。亦馬を山靼より入れたる、然なり。糠部古話に言はしむれば東海の鷹族、筏に駒を連れ来たると傳はりぬ。産鐡亦、陸奥をして溶鑛し舞草刀の鍛冶法、古代に倭を抜きたり。
丑寅をして造れる船造は古代なるほどに造法、北海の怒濤を潮走に耐え得る組板造りぞ今になる支那揚州の邪无俱船に相似たり。北魁星を航針とし亦、日輪を四季に計って暦を造りたるもまた陸奥をし為したる創なり。薬を収して薬とせしもまた然なり。何事も是れ山靼の授傳なりて今に傳ふ方法なり。
北に奥して幸多く山靼より紅毛人多く渡り来たる故は、北海の幸なり。丑寅に在りて古代にして討物をして民族の爭動なきは何事も衆をして山に狩り、海に漁し、山に熊、海に鯨を狩にして一人の力にならざるを覚りかく人の睦ぞ今に遺りぬ。
人をして上下のひだたりを造らず、一族皆親族とて子孫に訓ぜるは吾が一族の神示に於て、神は人の上に人を造らず亦人の下に人を造るなしとて民心に能く渉れり。
寛政五年五月一日
和田長三郎吉次
丑寅の魁星痕
言語異なる北土の民と睦びて智得を交し、衣食住をして代々を氷雪に生抜くる民、丑寅の日本國にして爭ふは無けるに代々をして蝦夷と人を践しめき倭の侵略を未だに改むるなく曲折なる史談を正統とせるはいつかは民族賛在意識となりて丑寅に報復の炎の起つや、神の御心耳知る事ならんや。
人が人を襲ふる世の人ぞ造りき裁ぞ、神の平秤に計りて平等なるはなかりきなり。平等なるは神御意趣にて、人が人を裁くる法ぞ世襲の權にあるものの私法にて、神なる判断の天秤に非らざるなり。眞はいかなる世にあるともひとつなり。人の法なりせば人を裁くるにも時には世襲をして人の殺生にも正統なるあり。苦しむるは民なり。
國主ほしいままにして民を下敷きにしるを當然なるとするは古今の通例なり。倭の國にては孝より忠を先とせる國習なりしも、丑寅の國の習は異なりぬ。人命を一義に大事とし古今に通じて王たるとも獨りに定むなく裁くなし。古より王たるは廣く衆に及し衆決にて判決す。長老は衆選ばれ、王は長老に選ばるは古代よりの不可欠な第一義也。初王たる安日彦王の宣に曰く、人は人を裁く勿れ、吾が一族は睦みを以て無上とし、罪人を罰するより先んじて罪を造りざる不断なる人の生きざまたるべしと遺したり。
萬物生々の類にして人の好むと好まれざるにありきも、萬物は人のため耳に生あるなく、生々は子孫に種を護る故に萬物各々人に害ある生物とて世に存せり。如何なるものとて世に人と生れし者に誅滅してよろしきはなく、人の一生を私にする神の意趣ぞあるべからず。常に生々にありては他生を喰はずして己が生々あるべからず。生々の者にして殺生罪のなかりけるはなし。
丑寅に倭人の犯したる痕跡を悔ずして尚以て蝦夷とて不断の仮敵と心得るは言語道断なり。如何なる特權にあるものとて時到りては死するなり。屍を大事とし大墳を造りきともその威は時に忘れなまず、遺體を豪葬せる故にあばかるなる。石築にして末代久遠に念ずるとも、時なる風に砂と崩れ逝くは物たるの埋りなり。
然るにや、わが丑寅にては王たるとて人を奴隷とし大墳のあるべきもなかりけり。亦生々に大殿樓も造るなし。國に敵侵の急ありては自からも甲冑を擐き、民亦皆兵となりて是に應戦せるは丑寅日本國の不断の心得なり。國建てより山川國土より尚、人命を大事とせるに依りて民亡ぶなし。是ぞ祖来の日本國なる信念なり。亦、民族の存續也。
寬政五年十二月一日
和田長三郎吉次
諸説多傳之事
丑寅日本國史の諸國に遺りきを収集せども、一致をなせる記逑のなけるに戸惑ふなり。安倍一族が厨川にて敗北の後史にありては、新井白石の藩翰譜に宗任の一説ありぬ。卽ち、
筑紫下松浦と申すは平戸松浦と申すなり。是ぞ陸奥六郡の押領使安倍賴時が男、宗任法師が後胤なり。宗任、源賴義に降りて死罪一等を宥められ肥前の國に流さる。その子孫續いて平戸と曰ふ處に往し、下松浦と申せしなり。是れ肥前守の先祖たりと曰ふ。
鎭西事記したる古記傳ふる處、皆是の如し。
下松浦は安倍氏にて上松浦は嵯峨源氏の流れなり云々。
松浦十風土記に曰く、
松浦平戸城之松浦黨は安倍常陸介忠賴の嫡男安倍大夫賴時の男鳥海三郎大夫安倍宗任、松浦に来住し、是を養子とす云々。
鎭西要略に曰く、
奥州之夷安倍貞任の弟宗任・則任を俘となし、宗任を松浦の小鹿島に配し、則任を筑後に配す。宗任の子孫を松浦氏と稱す。則任の子孫は筑後川崎氏・宮部氏・黒木氏なり云々。
百練抄及び扶桑略記・朝野群載らに曰く、
康平六年二月十六日貞任・重任・經清らの生首、京師西獄門にさらす。翌年三月二十九日、賴義は宗任・正任・家任等相具して凱施せり。朝廷はこれらを京に入れず、速に宗任らを伊予に良照を大宰府に流す。宗任は本國へ逃亡せる計ありとて風評あり。治暦三年大宰府に流す。
流人官符に曰く、
俘囚安倍宗任・同正任・同家任・沙弥良僧等五人。
明細官符に曰く、
宗任従類大男七人・正任従類大男八人小男六人女六人・貞任従類大男一人・家任従類大男一人小男一人・沙弥良僧従類大男一人也。
右なる官符に不審ありきは貞任、首にて京師西獄門にさらされしにあるを、捕はれし仲間にありきは官書たりとて是れぞでたらめなり。依て前九年の役なる陸奥話史とて後書の如く信ずるに足らん。
寛政五年六月十三日
和田長三郎吉次
宗任轉末史
〽夜な想ふ東日流中山石の塔
父ぞ安かれ夢む大宰府
宗任が想いの一歌なり。松浦記に曰く、
丑寅の土人安倍宗任一人を大島に再流しあとなるは何處に住ふると勝手たるべし、とて解放つぬ。宗任、生涯大島にありきとは世聞にして、島女を室とし三人の子を得たり。長子は松浦満任とて松浦水軍の黨主と相成りぬ。次男は隼人之介實任とて薩摩に豪士たり。三男は島三郎季任とて父のもとに在り、やがては支那揚州に渡りて海學に秀たり、
とありぬ。東日流十三湊に水軍起るも此の頃なり。西の松浦黨、丑寅の安東水軍の接湊は肥前平戸松浦にして瀬戸内なる水軍、塩飽・村上・池田・内海・大島の海賊を先んじて起りたる海國の民とぞ世に怖れられたる八幡船は、朝廷の北宗・契舟・金國らの交りを左右せり。
宗任は大島に入滅し、東日流に芽生えし兄者貞任の遺児・安東髙星丸に都度の便りを通達せしめたりと曰ふ。
寛政五年十一月一日
和田長三郎吉次
宗任状
陸奥を去して候間久しく候へども、われ汝を見給ふは乳兒面候他、覚へ候はず。筑紫の國に、汝を父母何方相似て候ぞ、海月に眺居候。東日流の候は、余未踏にて覚へ候はず。汝が成身の相、幾程にも想い廻らし居候。恨らめしく候へども、厨川の事の候を忘れまず。父様・孫父様な菩提を賴置き候。
世は倭朝も末非ず、武家にて握る世の候ぞ、近く覚へ候。依て一族密に海に通じ候へば、末に道々の明らけく覚へ候。丑寅日本國は不死鳥に候へば、余は汝を興し事に夢懸居候。一族無敵の計は海に候事ぞ。以後の要と奉るべし。六人船大工を遣したる程に能く習候へて、余老逝ならざるに船造り候へて大島に汝相を見さしめ給へとこそ急筆の本報を仕り候。卆爾乍老婆心一状以て如件。
天永辛卯年二月十日
八十三歳翁
三郎宗任
藤崎大夫髙星殿
安東水軍起抄
永久甲午年夏七月三日、陸奥國下磯東日流廣田湊川中州に安東船を造りける。飯積山より大材を伐し木挽きて幅三間半・縦十二間・三柱帆張り、筑紫型なる大船成れり。是れ天永二年、大島より宗任が遣したる船大工の手に成れる大船なり。
同年四月、雪解の大水に岩木川に水入れたれば、その雄姿に見つるる者涙悦せり。安東船、初なる誕生なり。この地ぞ、今なる五所邑湊なり。
此の船、八月七日西海沿を筑紫國大島に至るるも宗任旣に他界し、髙星その菩前に涙せり。依て船名付を季任に賴みて是を日之本丸と號けり。
寛文二年五月二日
猪方光弘
安東船改造之事
保安辛丑年、安東船潮走を速むため、船底平磐造りを改め船底尖造りに改造す。依て水深にあるべく戸狹の水戸口に船を改移して造れり。戸狹とは今なる十三湊なり。
改船六種に造りて、揚州邪无俱型に決船なし、三倍の船速を得たり。更にして船胴を細め斜帆をなし加速なし、直柱・斜柱をして風向き走船に可能ならしめたり。是を山靼黒龍江に逆流航行に適したれば紅毛人是れに驚きて試乘せりと曰ふ。
安東船船中仕切に二重張るにて、外胴若し破しとも水侵是れなく、揚州邪无俱船の工程亦、輕き羅漢柏なれば山靼沿海の買受盛んたり。船秀なりせば安東船南海は天竺を更に越えアラビア・ギリシア・エジプト・カイロの商人との商ありとも傳ふなり。然るに南海を好まずあいて黒龍江を大興安嶺深流までも道とせるはその要細なる傳は不詳なり。
寛政六年五月廿日
秋田孝季
以上終巻す。
和田家藏書