丑寅日本紀 第十

注言

此の書巻は禁断の法度に障ると曰ふ、朝幕藩政の掟を自ら破りて綴りたる記行なり。依て、門外不出・他見無用とぞ心得ふべし。

右、寛政六年十月記
秋田孝季

丑寅日本國史大要

夫れ丑寅日本國は坂東より丑寅方の國土を日本國と國號す。基より倭國とは古事来歴を異にして、人祖の發祥を山靼國に故系累す。

抑々、吾等が累血は山靼の故地にありて渡来せるは吾等が祖先なり。流鬼國・日髙渡島國・東日流そして丑寅の西海・東海・日髙見川を南西に人の渡りて成れるは吾が丑寅の日本國に祖原せる民族を以て先住し、筑紫・薩陽より更に琉球に至る人の渡りにて、その歴年を數ふるに十五萬年乃至三十五萬年に及ぶるの星霜に秘むものなり。

丑寅なる日本の北辰には極寒冬の國なれど千島國・神威津耶津加國・夜虹國・山靼の未開國あり。その山海になる幸ぞ民、殖ゆるとも飢えざる天惠の大國ぞ掌中にありて久遠にゆるぎなし。依て東日流及び糠部の線境南北にして日本中央と定むなりとせしは安倍安國なり。依て外濱都母の地にその境碑を建立せしは遺れるなり。

宇蘇利及び東日流の國は、古語にして宇蘇利をカルと稱し東日流をカリと稱したり。この意趣は鐡のいでる國と曰ふ同意趣なり。是を併せて稱しけるはヂパング亦はチパンなり。

丑寅の國は金銀銅鐡の鑛土石ありて山靼より歸化永住せし紅毛人らにて採鑛されたる黄金に日本國は異土の流通を古代より黒龍の大河を商道とせり。此の河をイベヌ族に曰はしむれば古語にしてアムールなり。卽ち大河の意趣なりと曰ふ。

此の河旅は人の無住なるチタ及びヒロクにて終り、蒙古國に入りてアルダンブラクにて紅毛人との物交商易せり。古来より此の商道をクリールタイと稱したるはクリール語にて通商辨とせる故なり。古代にして吾らが人祖の渡り来る路ぞ是なり。依てブリヤートモンゴールとぞ曰ふ地語にありきは、吾等が丑寅日本民の累祖なり。

寬政五年十一月一日
秋田孝季

紅毛人國之記史抄

丑寅日本國との流通になる山靼道の近道の開けたるは蒙古王バトウに依りて、紅毛人國への道ぞ蒙古民そのものの商業路程になりて、人住なき處とて旅休の宿邑開きて便となせり。

バトウ王の征軍ぞポーランドまでに至る進撃に於ても、路途にある市場を襲ふことなかりきは古代にアレクサンダ王の征軍ぞその手本たり。紅毛人國になる國々は何れも石築の都をなせども、古代より戦略の史に綴られたり。

紅毛人國になるその戦亂史は次の如く歴順ありぬ。凡そ三千五百年前のメキドの戦より記に遺れるは、

カデイシュの戦・オロンテイス河畔戦・トロイ戦・アッシリア戦・ペルシア戦はマラントン戦・サラミス戦とに續けり。次にはペロポネソス戦にてアルキダモス戦・デケレイア戦・次にはクナクサ戦・スパルタ對ペルシア戦・コリント戦・神聖戦・サムニウム戦・カイロネイア戦・アレクサンドロスの征戦はグラニコス河畔戦・イッソス戦・ガウガメラ戦

次にはイブソス戦・ポイニ戦・第二次ポイニ戦・トレビア河畔戦・カンナエ戦・ザマ戦・第二次マケドニア戦・次にはシリア戦のテルモビュライ戦・次にマグネシア戦・第三次マケドニア戦・次にはユダヤ戦にてはマカベア戦・第三次ポイニ戦・第四次マケドニア戦

次にはユグルタ戦・アクエセクステエ戦・ブエルケレー戦・同盟都市戦・ミドリダテス戦・ガリア戦・パルティア戦・カルラエ戦・ローマ内戦・フアロサロス戦・タブスス戦・フィリッピ戦・アクティウム戦・ローマエジプト征戦・トイトブルク戦・アドリアノーブル戦・カタラウヌム戦・ソワソン戦・ニネブェ戦・イスラム聖戦・レコンキスタ戦・トウール・ポアテイエ戦・タラス戦・フランク對サクソン戦・パロセロナ戦・ヘイステイングス戦・マンジケルト戦・叙任權爭動・カノッサ爭動・サグラハス戦・第一次十字軍遠征・ウクレース戦・第二次十字軍遠征・レニヤノ戦・第三次十字軍遠征・アルコス戦・第四次十字軍遠征・ラス・ナバス・デ・ラ・トローサ戦・モンゴル遠征・ブーブイーヌ戦

第五次十字軍遠征・リーグッツ戦・第六次十字軍遠征・バクダット戦・南宗戦・第七次十字軍遠征・サラード海戦・百年戦・スロイス戦・クレレー戦・ポアテイエ戦・ラ・ロシェル戦・クリコブオ戦・ニコポリス戦・アンカラ戦・タンネンベルグ戦・アザンクール戦・フス戦・ブアルナ戦・フオミー二戦・コンスタンティノーブル戦・ポランド對ドイツ戦・バラ戦・ムルテン・ナンシー戦・イタリア戦・メキンコ戦・ドイツ民戦・第一次バーニーバット戦・モハツチ戦・インカ戦・プレブエザ戦・シュマルカルデン戦・第二次バーニーバット戦・ユグノー戦・オランダ戦・レバント戦・ライデン戦・ガンブルー戦・アルマダ海戦・三十年戦・ルッテル戦・ブライテンフェルト戦・レヒ河畔戦・ネジビー戦・第一次オランダ・イギリス戦・サン・ゴタルド戦・第二次オランダ・イギリス戦・フランドル戦・第三次オランダ・イギリス戦・アウグスプルグ戦・英佛植民戦・ラ・オーグ戦・スペイン戦・北方戦・ナルブア戦

アン女王戦・ムガル戦・レスナヤ戦・ポルタブア戦・ジャワ戦・ポーランド戦・トルコ・ロシア・オーストリア戦・ジエンキンス戦・トルコ・イラン戦・オーストリア戦・第一次カーナティック戦・第二次カーナティック戦・七年戦・プラッシー戦・ツオルンドルフ戦・第三次カーナティック戦・クネルスドルフ戦・リーグニッツ戦・第三次バーニーパット戦・ブクサール戦・第一次マイソール戦・第一次ロシア對トルコ戦・メリケン戦・レキシントン戦

第一次マラータ戦・トレントン戦・サラトガ戦・バイエルン戦・第二次マイソール戦・ギリフォード戦・コートハウス戦・ヨークタウン戦・第二次ロシア・トルコ戦・ロシア・スウェーデン戦・第三次マイソール戦・アブキール戦・第四次マイソール戦・ナポレオン戦・マレゴン戦・第二次マララータ戦・トラフアルガル戦・アウステルリッチ戦・イベリア戦・中南米戦・ネパール戦・ワーテルロー戦・第三次マララータ戦・カラボーポ戦

らにして今になる文政五年、ギリシアにては獨立を戦ひて挙すと傳へらるなり。

文政甲申年六月廿日
和田長三郎吉次
史傳者 エドワードルイス

丑寅日本國鑑

序言

永々と蝦夷と人の外に種を異にし、従労の血税を賦貢とて強奪せる律令に試みて得られず、權謀術數にて丑寅に住むる民を血に染めなして討伐をくりかえし、往古なる丑寅日本國の王系證なす總てを抹消せしは、朝幕藩の政事になる圧制の主旨なり。

大益になる海易を世界に閉し、自得自営になる島國魂性を以て舊来の因習を保つは、世未来の進展に却りて未開の國となりて世界の開化におくる耳なり。亦古来より丑寅を制ふるの政事は北方になる広大なる領土を放棄し、今にしてオロシアの權土と相成れり。まさに、福神に投石なる行為にして世界の文明に背をなせる西南人に占らるる幕政藩政ぞなげかはしき愚政なり。

抑々丑寅日本國は古代より山靼流通を以て西なる諸進の化縁を受け、産金貢馬の益、北辰海産の益を以て唐・天竺までも潮路をけたてたり。此の國は富みて民安かり主は泰平を護りたりき。日本將軍時代を今に復古せむは、吾らが安倍・安東・秋田氏に縁る者の悲願なり。

幕藩の世は末代に光明あらず、失脚せむは近く、士農工商の逆位になれる世の来るは間近に聞ゆなり。

文政庚辰五月廿日
仙臺之住 伊達兵部

一章に曰く

古今に於て丑寅日本國は倭國より先なる人の渡来にありて、傳はるは海漁造船の工法にて、擴く諸業の修得を以て富めるも、今世にしてその業に法度あり。業益商益も藩許の笠に預る者耳、甘汁吸得るなり。

士農工商の正しきは是れ無く、役職に袖賄常にまかり通りきに、法度諸掟の功力なければ、貧に免れず。百姓平民は娘の身賣り、子の間引、凶状を犯す無宿の科を造るは幕藩政なり。人の生々にありて階級のあるべからず。地風土の候にて田畑の収を西方・東北に等しからざるを計るべし。

古代より丑寅の農耕に一年一作の産に得る他になければ尚、貧しかるべし。茲に丑寅各藩にありて北方領の主權と海交の自在たる許容亦、造船の自在たる造許にあるべくを諸願せるものなり。昔に安東水軍の異土往来を自在たらしめたる鎌倉方・京方の如く山靼及び支那揚州への交易を開くべきは、丑寅地に住むる暮しの願望なり。

二章に曰く、

抑々羽陸の諸藩になる古事の歴證ぞ抹消する勿れ。歴史は鏡にして眞如實相を遺しべきなり。西耳に片そばき歴史の作説なる神話ぞ、實相に甚々夢幻に等しきものなり。實を隠し作説を飾りきは歴史に非ず、講談誌なり。

丑寅にありき神社佛寺、古きにあるはなく幕に訴ありき改神佛の押拝になるものにして、古き世のものを取り潰し、西従の洗脳にて世々をして古来なる丑寅の古き聖跡は消滅し逝く耳なり。

抑々古来なるは陸羽より歴史の彼方に去りゆくも、かくある報復ぞ子孫の血に潜伏して百年千年に過ぐとも、かかる因障ぞ顯れなむ。余は断言し置くは、やがては幕府藩政は消滅せん。

天朝また然なり。末代になるは平等にして、人たる權利の貧かるなき相互の世に至らむことを。安倍一族の祖訓に曰く、我が一族なる血累にある者は人の上に人を造らず亦、人の下に人を造り給ふなし、と曰へ遺せり。

三章に曰く

丑寅日本國の末代の代々に久しく現になる權力・權制に依れる非道政は残れども末代永々たるこそなけん。

世にありき世界にあり大王とて神たる位に自讃に權の限りを自在とせる王墓とて、死しては骸になる臨葬の寶を盗らるるまま何事の罰にや當らざる如く、彼の護神たるも古物置物に異教の徒に賣買さるる耳なり。かかる空しき信仰に、多數なる人の労々事故死・税の強奪らに造られし恨念の遺物なりき。

丑寅にあるべきはかかる金字塔の如き墓ぞなく亦、巨なる神佛殿などありきは、古き程々西南に遺りぬ。辛じて遺りける丑寅の神社佛閣も、重なる西南の討伐行に皆滅の一隅に遺るるは、何れも後なる再興のものにて、元なるは少なし。

天平になる國分寺ぞ名跡耳にして伽藍に遺るは荷薩體の淨法寺耳にて、あとになるは遺佛耳なるも、多くは征者の利品に持去られきに地名耳遺りき。

文政庚辰年五月十日
仙臺浪人 伊達兵部

安倍累代之資藏

長暦丁丑年日本將軍安倍栗駒太夫頻良、和賀山に大金鑛を探掘し、茲に露天の金鑛を鎔鋳せり。長久癸未に至る産金二千八百六十貫にして、己が本舘栗駒洞に秘藏せり。

一族の末代に急あるときになりける救済の資とて洞口を六十日を施労なして閉ぎける跡に、けふかづらを殖しめて山面を隠遁し、今にして堀り處ぞ不詳なり。天喜己丑年、後継なる賴良是を軍資と費さんため四十日をかけにして探せども處に當らず空しけり。

然るに賴良の當つる迫川水原なる花山の二股澤に堀らる金鑛ぞ、その質量とも父頻良の秘藏金を倍に越ゆ産金たり。是を己が本陣たる衣川鷹巣舘にて子息に分ち、己が取得を不老洞の泉に秘藏せりと曰ふなり。これも亦、在所不詳にして未だ見當らずと曰ふなり。

〽鷹の巣を落してたもな護り鳥
  黄金目を突く衣荻原

賴良の遺せし謎かしむる歌に判断あるべし。

嘉保甲戌年二月一日
田口伊紀之介