丑寅日本紀 第八
注言
此書、他見無用・門外不出、心得可。
寛政六年七月四日
和田長三郎吉次 花押
興丑寅日本國史
抑々古代に尋ぬれば非理法權天の世襲に興亡す。人の渉れる歴史に太古を求むるために先聖著書を手本とせしにや、凡そ世襲に習ふる多く、眞實に背せる文極に同意なして、實相に加筆を以て覆せる多し。
依て茲に丑寅日本史の根源に基きて世に出ださば、倭史先著の作説に障るが故に、禁論に以て眞實を葬らしめ、權閥自讃の偽傳耳ぞ、眞評に洗脳なして遺り久しく深層に續せば、倭帝ぞ天界なる髙天原より天臨の神孫たる神話夢想に民を惑はしむなり。
依て倭史の上古に於てをや、夢幻なる神話をさながら眞相に釋して文を飾りて無知なる民心に不退の信を侵し不動とせるが故に、益々古習ぞ民心を隷とせり。古くは麻草の干草せしめたるを神祭にいぶし、人の身心に神なる従信を惑はしむは、是ぞその干草いぶさむ煙、魔の薬法にて神なる神通力そ露もなかりけり。その因習の名残りぞ、今尚神事に用ゆ麻糸なり。
卽ち無知なる民に智謀せる王權服従への惡策なりき。倭史にありきは異土の智覚を以て、東攻侵征せし手段たり。天孫降臨とて天皇を萬世一系を神に継かしむる倭史倭神の類ぞ信じべきに非ざるなり。能く正しく心に覚めて惑ふ不可。
寬保壬戌年六月廿日
秋田山王住人
神職 物部出雲
古代耶靡堆五畿王
- 浪速國潮太之王
- 大堺泉彦
- 膽駒獄白谷之王
- 富長髓彦
- 耶馬臺國孔舎衛坂王
- 磯城大彦
- 河内國草香津王
- 大和珥彦
- 耶靡堆國多草之王
- 戸畔大彦
- 耶靡堆國菟田之王
- 津奴大猾
- 耶靡堆國古野王
- 八十梟師
- 耶靡堆國國見黒坂王
- 大兄磯彦
- 耶靡堆國蘇我之王
- 安日彦
- 山城國鴨之王
- 大鳥翶翔彦
- 山城國宇津之王
- 頭八咫鴉日子
- 浪速國波多岬之王
- 和珥坂彦
- 浪速國臍見岬之王
- 春日彦
- 三河國髙尾張之王
- 長手足彥
- 邪馬臺畝傍明日香王
- 美眞手彦
- 耶靡堆國三輪獄之王
- 阿毎彦
- 加賀國犀川之王
- 多利思此孤
- 加賀國白山獄之王
- 阿輩雞彌
- 越國糸魚津之王
- 箸香媛子
右天皇記自第二巻
治暦丁未年一月廿日
日川神社傳書
寛政五年六月一日 写
稗貫之住
鈴木惣太郎
丑寅日本古考
倭史之世にある事の歴書は古人諸々に遺りき地の神話を綴りたる總集にして成れるものなり。依て倭史にあるべく歴頭になる神代とぞ世に露無ける古人の童話なり。
今昔にして童を育つる善道の教えとて、代々をして遺るる古話を以て童心を善に育むるは、人の睦むる無上の導きなり。幼心に育む親の古話に童は自から人世の善惡を悟らむ。生長への基なるを、古人は古話を以て教へたり。是の話中に在るべく諸々の奇々怪々になる語り亦、忿怒非情そして讀書算の修得にも古話に以て童の求心をさまたげず教ふるは、太古よりの傳導なり。
人心は總て冒頭にして豪慾なり。依て世代をして善惡相對す。古人は依て、神なる救ひを發心して世人相睦ぶるを以て世代の美風とせり。丑寅の日本は寒雪の國なれば、人の睦みなくして生々相保たれる事非ず、今に以て交りぬ。語部は常にして人の住む邑を巡りて古事を語る。依て衆は諸學に通じたり。是れ何れも山靼傳なりと曰ふ。
その古語にありけるはシュメールなるルガル神話・エジプトなるラアアメン神話・ギリシアなるカオス神話・アラビアなるアラア神話・オロシアなるオーデン神話・蒙古なるブルハン神話・支那なる西王母神話・天竺なるシブア神話、山靼をして渡りきたる丑寅日本國に歸化永住せし祖人の語話多し。亦、生々に於て河海の魚漁・山野の狩猟・食なる草木の種根になる保糧、亦言傳をなせる語印・諸道具の造法ぞ是く語部に習ふるに流布せり。大事たるは病に用ふ薬法然る處なり。
言語ぞ今になるクリル族語多く渉れり。依て諸處に遺れる地名をして今に遺れるなり。ポロチャシとは城にして、カッチョとは柵なり。ビッキとは童にしてカムイとは神なり。ナイとは澤にしてベツとは大河なり。ケシとは海濱にしてマンテとは祭りなり。
寬政六年十月五日
コタンマツオマナイ住
倭國天皇記國記之事
倭國天皇記及び國記の編纂を大臣蘇我氏にて推古天皇の二十八年に上宮太子・嶋大臣謀りて録す。書記人に語部とて巨勢氏・平群氏・紀氏・葛城氏・蘇我氏・鴨氏・春日氏を要言とし、伊奈氏・伊理氏・差保氏・保武氏・阿毎氏・箸香氏・二地氏ら補言に編集せしに天皇記成れり。
然るに國記に於てをや。倭國境を東海の安倍川より西海の糸魚川に地帯せるを堺とし、丑寅方を日本國とて荒覇吐王を以て為せる國とせり。依てその證を唐書に基かしめたり。是ぞ倭國之國記成れるも、越・坂東を押領に筆加ふる要言派、是を否せる補言派とに論を激し、茲に大伴氏・物部氏・竹内氏・橘氏・藤氏を審とて補言派の論勝に決せり。
時に丑寅日本國にては荒覇吐王居武藏大宮に在りて、此の域を安東と稱し、宗帝よりの賜號とせり。坂東に位せる安東將軍は五代に相継ぎて讃美彦・珍美糠彦・斉糠彦・興美彦・武波日彦と曰ふ。
天皇記・國記は蘇我氏の管主たりしも、是を皇宮藏管とせし中大兄皇子、船史惠尺ら甘橿丘の蘇我蝦夷を攻め火箭にて灾り不意なる攻めに天皇記・國記を石川麻呂にたくし蝦夷は自刃せり。その後になる壬申の亂にて左大臣蘇我赤兄亡びたるも、天皇記及び國記は石川麻呂に依りて遠けき坂東の武藏國和銅釜萢邑なる荒脛巾神社に秘藏し、倭朝の手に入らざりき。故に此の乱にて流刑となりき。
蘇我氏滅亡以来、天皇記及び國記の行方知れざるに大化乙巳の亂に焼失せりと、以来風聞にもその所在、天慶の乱に平將門が鎭護の眼にも留らず亦、將門を討にし藤原秀郷この大事たるも知らじして將門の遺姫が居住せし飽田生保内に住むる楓姫に屆けらる。
後世に此の書入箱、平泉なる白山神に奉納さるるも開箱されぬままにして、十三左衛門尉藤原秀栄に賜はれしを、開箱なきままにして石塔山荒覇吐神社に奉寄されたるものなり。
慶長丁酉八月廿一日
飯積之住人
和田左馬之介
丑寅日本史の深層
倭史を諸書に讀みて丑寅日本史の記行のありける行文を探るは砂中の金を求むが如く皆無にぞ等しきなり。表紙に日本書紀とあれども記行は倭史に満々たり。國號日本國とは丑寅の坂東以北なり。
古く山靼と流通し産金・飼馬の益たる國にて、住居は蒙古式なるパオに等しけれど移動携帯ならず葦葺になる屋根、堀建になり木組なり。冬に暖を夏に涼を求め、地中圓堀に土を抜き、地表に根葺ける家宅なり。抑々古祖より故地の風に習へたる名残りなり。土を練り型造りて素焼ける器また然なり。獣物の皮を水袋とせるも然り。
毛皮靴を冬に毛抜靴は夏なる用途とし、犬を飼ふるも然なり。異なるは海に魚漁の特岐にて、古代は永く人の暮しとせり。日本國に駒、居らざるに後世に山靼より入れたるより日本馬、丑寅に産馬を殖せり。今になる名馬、八幡駒・南部駒・三春駒をして東海辺に生殖多し。
山靼に習ふる産鐡、鍛冶法なり。鐡鑛より餅鐡の鎔法、そのただらになる岐法、是れ丑寅日本國特岐にて、舞草刀の刀工ぞ日本鍛冶の草分なり。
倭にある者はかかる岐にある者をさらう侵賊しきりにて、遂にして領防の護りに起つを倭朝にては是を蝦夷の反乱とぞ兵を挙げて丑寅日本國土を犯す。常にして造話作説の史を以て丑寅日本國を化外民蝦夷とて征夷の常敵とせるは實相なり。
寛政六年十月一日
加川甚三郎
先古之民荒覇吐族
鮮卑書に曰く、
東の内海に日本國在り、その州起ゆ東海ぞ日出づる大洋ありて巨鯨潮吹ける果つる海濤の國なり。
と記行あり。四方に海を以て護らる國、東王父の鎭む國とて西王母の桃實を海辺に供ふる行をなせる山靼の信仰多し。紅毛人國の他になる山靼族の信仰にては西王母。その守護神とて九首龍・饕餮を祀る多し。
抑々丑寅日本國に渡来せる信仰に、山靼より傳はるは白山神ありて西海濱を渡島に到る古信仰流布せり。先古民なる信仰はイシカホノリガコカムイなるも、次なるはメゴ・デゴと曰ふ狩人のマタギの山にて卽作せる木削りの人形なり。是ぞ
古代信仰に於ては自然なる天地水の景勝を神とて崇むるに、女人の創作にて諸々の神々ぞ素焼像に作られり。神に靈媒をなせるイタコ、占いをなせるゴミソ、子孫繁栄・産物豊収を祈るオシラの三祈禱師ぞ皆女人なりき。
語印を以て意趣通ぜしも女人にて遺せり。語印に六種あり。宇曽利津保化族印・糠部津保化族・卆吐志利辺志の津保化族・阿蘇部族・火内族・閉伊族をして六種印なり。山靼より傳はりしは石置・砂書・印彫等四種を併せて十種なり。是の故に古事なる歴史ぞ今に覚らるなり。
寬政六年八月十日
櫻田元四郎
蝦夷名之由来
大化乙巳年蘇我蝦夷、天皇記及び國記を隠滅してより風説にして丑寅の日本國に渡りたるとて、その地に住むる者を蝦夷と呼稱せりと曰ふ説ありき。とかく蝦夷とは支那にて創まれる卑しき民を意趣せし言語なり。
亦、天皇記・國記を蘇我舘の炎上より船史惠尺の焼失せるの報せも諸人に疑はれたり。天皇記、衆に露見せば須く天皇の累系民の信を欠くるの大事なり。依て坂東より丑寅の民をば、まつろはざる蝦夷と曰いり。
まさに易々乍ら蝦夷と號けらる事ぞ、如權邪稱なりきと老衆の未だに語らる處なり。
寬政六年九月七日
秋田孝季