丑寅日本紀 第六
孝季
錯誤作為之丑寅史
日本國とは丑寅の國なり。依て西は安倍川より糸魚川地溝をして古代からなる倭國との域境たり。日本と倭との歴史構造に於て萬年に及ぶ國造りの相違あり。人祖は丑寅日本國に於て構成されたるものなるを錯誤すべからざるを覚つべし。
津保化族が六千年前に築きたる東日流石塔山の石塔は、旣にして山靼を尚越えたるシュメールのギルガメシュ王の神・アラハバキ神を入れて崇拝せる根源たる史實、シキタイの騎馬法・馬飼の史實は尚丑寅日本國の實證に明らかなり。亦山靼より造器道具の造法、然り。
神々の鎭むるカムイ丘に出づる古代神像と器はイシカカムイ丘も尚、古きになる地中遺物なり。父なる巌鬼山・母なる東日流大河は肥地を潮に押して生れし東日流大里に依て上磯・下磯の区を併せ、外三郡・内三郡とて古人は住分せり。國造りの創めにて宇曽利も是れに習へたり。
卽ち宇曽利・都母・糠部、東西をして西南に國を擴め、エカシを長老と曰ふ國主に立てつるは荒覇吐王國の創世期たり。民族相睦み産物をバグロして商ふ物資相易なし、是れ山靼國諸民族にも相渡りぬ。人の種を嫌はず紅毛人とて異にせず、彼の渡来岐法に能く習へて丑寅日本は榮へたり。
その岐になるは船造・探鑛・鎔鋳・魚漁・馬飼・犬飼・語部・信仰などに及ぼして今に傳統残る多し。太古ほどにして割石器、紅毛人國に造岐を同じく、その古代流通を知るべきなり。太古より宇宙の運行を神とし、自然の推移を神とせる信仰の根源に迷信なるはなかりけり。
抑々丑寅日本國たる國號の根源にあるは吾れらが祖國なり。倭國の朝幕政にて、その隠謀画策たる術數にて國權耳ならず國號までも略奪せし古事の史實に、吾等を蝦夷たらしめ、國を化外とせしにや。一仟幾百年に及ぶるとも仇敵報復の意識は子孫百代に渉るとも潜在し、必ずやその報復の實を挙ぐる時ぞ至らん。
依て山靼及び紅毛人國との流通を今に保つが故にアラハバキカムイなる信仰の灯を絶やしまず。心して倭人の魔道に同心し、子孫への脳髄にしかと傳へ置くべし。右心得如件。
寛政六年十月廿日
秋田乙之介
侵入不可侵之東日流
荒覇吐王の發祥せし東日流及び宇曽利の國は、津保化王の一萬年前より應永十七年に至る間、倭領直治のなかりける民族自治の國たり。是の地に耶靡堆より落来たる安日彦王一族を始めとせる落人多く、その智聖を遺したるは、造誘作説の倭史に記さる偽史なり。
吾が日本國は一統信仰になる國治安泰を永代せし國なり。倭人の如何なる智謀も東日流・宇曽利には通ぜず、以て侵入不可侵の國土たり。吾が國より倭國の天皇となりしは大根子彦にして、世に是を孝元天皇と曰ふなり。その誕生せる地に大根子神社のありきは、今に遺りけり。
吾が國は豊葦原の國にて稻作を耕作せし二千三百餘年の史實あり。西に三輪・東に稻架郷に創まりぬ。依て稻作を稔らせし諸岐ぞ倭國より入れたるものならず。晋民の漂着にて傳はりたるものなり。
古代より民に掟あり。山靼を通じて進みたる紅毛人の律に習へて造りたる國なり。武道また然なり。失なく歴史を傳へたるはシュメールに習ふる語印にて、信仰の縁源亦、然なり。
依て倭史に學ぶる者に丑寅日本國の古史に云々とせるは何れも一毛の史實に當るは無かりけり。倭史を以て成る史傳を覆えすは天皇記及び國記に明細たり。はからずや是を吾等に傳へしは蘇我氏にて、日本書紀・古事記の上記になる偽と實との相違を吾らは掌据しける。是ぞいつ代にか衆に説きなば、天皇代に廢さる憂に追究を免がれざる要史なり。
依て是を奪はしむに蘇我氏を誅せども、旣にして荒覇吐王の掌据さるまま今に遺りぬ。征夷の至らぬ東日流に是ありきとは世襲至らば顯れん。
寬政六年十月廿日
秋田乙之介
圧制民之政事
終生労々にして衣食住に窮さむるは朝幕の政なり。民を下敷きたる圧制の滅ぶるは、神なる裁きにていつ日か報復を蒙るなり。
理を圧するは法にして、法を圧するは權なり。權また天に誅され、平等は天秤にて測らるなり。民を苦しむはその崩壊を招く火付木なり。衆怒は無理無法無權にして、怒挙せば是を反乱とて制ふるは天の裁のみなり。
依て政事を司る者、能く民を泰平ならしむべし。亦、世にも無き神代・無位の天皇・無實の史を造りて民を惑はすこと勿れと戒むなり。然るに是を續くる執政ならば、武より誅され、武また主權たれば民に誅滅されん。
神に親きは民心なり。能くぞ國治を想いて民を憂しむこと勿れと戒言す。
寛政五年二月五日
行丘為衛門
非理由之征夷史
倭人の奥州入りは極めて容易たる古代たるも、住民の財を掠めて遂電せる者、女人を誘し者多くなりけるより、領入に難ければ官權に和睦を請願して入るとも前例に変らざる行為しきりなり。
倭人を誅伐せるは倭官にあれどもきわめて重罪も輕科なれば、荒覇吐科舎に捕へて吟味せるに、倭人こぞりて住居に柵造り、住民を犯しては柵中に遁し、是れを追詰むれば蝦夷反乱とて討物とりて邑を灾けり。
依て軍挙し、この惡倭人を討伐に強けく騎馬を用い、殺生には殺生にて報復し、柵に遁げ入るとも科人を引渡すまでも圍みければ倭官の者、是を反乱とて倭朝に報じ、大挙して奥州に入るとも、多くは四散し遂電す。和睦とみせて不意を突くとも、荒覇吐の防人はその謀伐に乘ぜず、逆轉の謀策にかかりて捕ふる多し。罪ある者は倭に歸しなく終世鑛労に科し、遁して果し者はなかりけり。
依て倭朝にては萬勢を以て討伐を挙行せども、坂東にて半勢を失せる多く、以来何事の理由無く征夷の官軍を幾度か寄せたるも、征行途は途中にて敗滅さる。倭史になる蝦夷征伐行なる記行ぞ實に非らざる作談にて、奥州に柵なせるは征討叶いたる領域の如く記逑せども、倭柵の四辺にありき荒覇吐五王の圍にありては柵外に出づるとも自在ならざるなり。
倭人の柵は丑寅に築くとも、事起りては一夜の護りも難く、遁ぜとも逃げ失せし者なきなり。柵に入りて奥州に駐せし者は道造り・架橋の労々にして、その飯場を柵とて遺りきを、倭軍なる略領の地とぞ史に記せる倭史の事實は奥州事の語部録に一行も記逑ぞなかりけるなり。
寛政六年十月廿日
秋田乙之介
語部古史録
前逑
年代對照せるに以て支那年號を用いて記逑す。
荒覇吐政所移之事
- 惠帝の丙巳年
- 東日流洪水に依りて王居を都母に移しぬ。
- 文帝の乙丑年
- 山靼より馬飼族渡し都母に馬飼邑を開きて馬を殖せり。
- 支那年號後元庚辰年
- 王居を飽田世祢志呂に移しぬ。
- 中元甲午年
- 飽田火内郷拓田なりけるも、洪水にて無作なれば仙北郷に王居を移し、建元壬申年大豊作成る。
- 元光庚戌年
- 王居を摩訶郷に移し、安日山に荒覇吐神王位八代を征和庚寅年に至らしめ、此の地を八代郷と號く。
- 地節甲寅年
- 居住民を住分なし、陸羽に拓邑し、荒覇吐五王を更に補佐王を以て地破泻に宣布の式を挙し、此の地を稻城五城と稱したり。
- 建昭甲申年
- 王居を厨郷に移し、日川辺拓田せり。
- 元延辛亥年
- 王居を志和郷に移し、海王十人を宣任せり。地住の長老を以て任じ、流鬼島に二王、渡島に四王、西海に二王、東海に二王を居す。
- 建平丁巳年
- 山靼歸化人を工師とて大船を造り、吾が國を總じて日本國と號す。
- 地皇辛巳年
- 王居を庄内郷に移し、越に西王を移しぬ。
- 建武庚子年
- 庄内拓田大いに振ふ。
- 同甲寅年
- 王居を宮澤郷に移し、始めて防人を以て治安を挙行し、来朝に兵所を置く。
- 永平壬戌年
- 會津郷に居住民を住分し、王居を白河に移す。
- 元和丙戌年
- 支那より白馬寺の順顯と申す剃髪の導師、越に漂着し佛陀教を布せんとせるも振はず、海民にて追放さる。
- 永元丙申年
- 王居を武藏郷に移し、降神山に荒覇吐神を祀り、地住民に信仰を深くせり。
- 延光甲子年
- 山靼より大挙して飽田に流民漂着す。
- 陽嘉甲戌年
- 王居を富士郷に移し、南王を濃州に押領し、南王補佐六人を任ぜり。
- 和平庚寅年
- 王居を君津郷に移しぬ。
- 熹平甲寅年
- 王居を鹿島に移し、四辺の郷に拓田を宣す。
- 建安甲午年
- 王居を陸州黒川に移し、拓田を宣す。
右は、東日流語部になる語部録なり。右語印釋を記逑して古史の年代を覚つべし。
上古代之巻了。
元禄壬申年八月日
帯川忠繁
有史之創暦
後漢の延康庚子年を以て、支那にては三國立帝相立君す。
魏國文帝は黄初を年號とし、此の年立君し、次年の年に蜀國昭烈帝立君し年號を章武辛丑年とせり。亦、次年に呉國大帝立君し年號を黄武壬寅年とせり。吾が國にては王居を宮澤に復し、長きに渡るも支那よりの難民多く西海濱に漂着し、支那十八族になる民の流着あり。是皆王朝興亡の難民たり。
先づ蜀が炎興癸巳年に亡び、魏は咸熙乙酉年に亡びたり。次いで呉は天紀辛丑年亡び、世は西晋國の世たりしも、建興丙子年を末期に東晋と相成り、これも大元乙酉年に北魏興り両立す。
東晋は元煕己未年に亡びて宗國立って能く吾が國に使者を遣し、西王是に當りぬ。宗國とは文帝・孝武帝に献貢の往来せり。宗國にては吾が日本國を安東とし荒覇吐五王を安東將軍としけるも、安倍安國は初めて日本將軍とて改め、以来丑寅日本國の主は日本將軍と改めて君臨を代々す。
元禄十年八月六日
藤井伊予