丑寅日本紀 第四
孝季
語部笑話
わせ、死んだぢっこば、うがベね、永平寺の本山參りね、行ったきゃせ、わのさべるごと、なもわがらねど、なぼげりさべても、ぼんぢどあ、にへらにへらど、ただわらてるだねな、あれど笑らるだば、津輕辨で笑らるども、さべてるごとあ、わもわがらねし、寺のながさ、はていったきゃ、びっきおぼってるあっぱいで、津輕辨で泣いでるびきさ、何がさべてばて、なんもわがらね言葉だべ、あれだば、びっきあわがらねもの、津輕辨で泣くのもむりあねでばな。
ほどけさまばおがんで、おにゃさで出だきゃ、あろほどいだてらどあ、泣ぐど笑らるだば、みんた津輕辨で、あどあなもわがらねごとばれさべてるじゃ。腹へってきたはで、店のこもへさ立ってしとぎ賣ってらはで、しとぎけへじゃてさべたきゃ、店のおぐさ、あぐどめねぐなるほどはけで、あやばよばねいただべょん。
鉢巻したあやでできて、手さ卵形した、なも焼がねしとねだばれの餅もてきて、わさ、べろっとのベだはで、焼くもしね餅けば、ほのごさねごものでるはで、わ、いらねじゃ、てしたきゃ、それや、粢てしもんで神様さあげるもんだど、ま、こんきわがるまで、づんぶさべたぢゃ。わ、しとぎてした餅あせ、つきがえしてしもんだどや。
こんだだば、いがねじゃ、よつもどねどごさ行っても、でんぶでも、ひぼづけでも、もつきりこも、口さはねで、しこたまはらへてまて、水ばれのんできたぢゃ、なも、行ぐてらばて、わだば、こりみでまたぢゃ。
明和四年五月二日
語邑百姓 佐平談
東日流語部と語印之事
雪降る永き越冬のとき、語部は邑々を巡りて東日流の古事亦は笑いを語りて、大人や童を慰むるは古来より受継がれき風土誌なり。神の話・歴史の話・世間の話・種々雑多にて、唄をも聞かすは語部なり。
古来よりの語印を用い、歴史に於ては萬が一つに誤らざる。亦、年中なる出来事の大事を記し置く事、古代より一年とて欠くるなかりき。
寛政五年八月廿日
和田長三郎吉次
信仰抄
丑寅信仰の一義は宇宙を信仰にて解くあり。卽ち宇宙未だなけるとき、暗と冷との時空もなき素粒たる物質もなかりけるに物質ならざる重力・無重力とに漂ふ無なるより、重力交差にて生じたる縮圧の一点が大爆裂して微粒の物質はその光熱にて生じ、今になる日月星に固まれりと曰ふ。
その過却にて物質の化合変化起り、光と熱と冷にて成れる異種の物質ぞ生じ互に触合しけるとき起れる光りと熱、それを吸呑せる暗と冷にて宇宙は擴大し、星の生死は星を生みなして今なる天體となりにけると、宇宙を説けるイシカカムイの語部に依る傳へなり。
是なる想定の意趣は古代ギリシアまたシュメールの叙事詩らに傳統あり。吾が國にて更に再考されたる神信仰の智識なり。
寛政六年七月七日
水野周兵衛
平征下之地民智識禁断
康平五年、安倍一族の崩滅以来、朝幕こぞりて奥州の智識にある者を終生禁固とせり。亦、語印の用ふるを禁じたり。亦、渡島住民の北見系・日髙系を入れず、白老より南になる江刺より南なる住民のみの往来を許したり。まて赤夷人を入れては極刑とさるに至りぬ。
然るにや東日流にて安東氏興り、仙北・閉伊までの域に渡島全土の住民往来自由たりとせり。依って北海産物は安東船にて振興せり。
元禄十年二月一日
藤井伊予
秘議三氏之誓約
慶長十五年二月卅日、伊達正宗密書を以て秋田氏・松前氏を松島に招き、丑寅日本國の復古を密議す。その警護甚々尋常ならず。八方に黒脛巾黨を配し、松島湾上に船をいだしめて宴場とせり。
卽ち此の密議になるは山靼に明るき秋田氏、北蝦夷に支配せる松前氏。依て正宗は世界の窓たる紅毛國ローマへの國交を振興せしめ、國力を挙し日本國之開化を血判状にして誓書せり。
伊達氏の望むる丑寅日本國の復古とは、アラハバキ神の要たる太古シュメールの民族集団の國家造りにて、自在なる學文の向上なり。文字を學び、算術に優れ、理學に迷信を破らむるこそ末ある丑寅の富むる道と、その志に同意せるは松前氏・秋田氏の他にあらざりき。
時に幕府にあっては外藩に交るを怖れ、海の外に通ずるを法度とせり。
寛政五年七月二日
秋田乙之介
北方未踏領日本國也(原漢書)
北に極在せる角陽國・神威津耶塚國・永土國・東千島・西千島・流鬼島は長治乙酉年六月二日、東日流奥法郡平川藤崎城主日本將軍安東十郎髙星が大幌に此の國々の長老を集めて日本國なる民とて誓約し、地産益易を議に決したり。
亦、海路水先の地民に東日流往来及び移住もまた自在とし春夏期の間、物交往来をなしける。是を日髙大幌之約とて天永庚寅の年、此の國に日本國領の碑を建立し安東船の世にいでませる最初たり。
正和甲寅年正月二日
安東太郎貞季
サンフアンバプチスタ船之事
覚
慶長十八年九月十五日、吾が丑寅日本國造船東海航波濤千里彼方至ノビスパンヤ國三引紋天地水也。
御寶前 癸丑年九月廿日
政宗、天下泰平
奉寄 石塔山荒覇吐神社
寬政五年七月一日
秋田孝季 㝍
ノビスパンヤ巡視景
サンフアンバプチスタ號乘員留守間
迷信之惨信仰史跡
覚
見取画にて
パナマ地峽マヤ史跡及び日輪崇拝古代アステカ史跡
左之㝍画秋田藩小野寺氏
テオティワカンアステカ之景
チチエンイツアーマヤ之景
此の國になる仰拝せる神をケツアルコアトル神とテスカトリホカ神にして、世の善惡を司る神とし、是を面にして善惡の祈闘にて惡神を追放しせずば、日輪が光熱を惡神テカトリホカ神に持ち去られると曰ふ迷信にて、日輪が過去にありて四度び光熱をテカトリホカ神に持去られ、今になる日輪は五度目になりける日輪なりと曰ふ。
依て日輪を無事ならしむは、生たる人の心の臓を贄とせざれば、善神なるケツアルコアトル神の葬ずるは必如にして日輪は再度び朝に昇らざるとし、生きたる人の心臓を無慘にも切り抜きてチャクラと曰ふ日輪の使者に持たすといふが古代からなる信仰なり。
アステカ及びマヤの史跡を視るにや、無慘信仰の血臭跡がチャクラ神が人の心臓を受取りき皿をいだきて、かしこにその像を飾り置ぬ。
神像チャクラ神
寬政五年七月三日
秋田孝季
ノビスパンヤ之事
此の國は北にインディアン族、南にインテオ族を今に地住民とせるも、太古にして何れも山靼より渡れる民にして築きたる王國なり。
騎馬なるインディアン族、耕作民なるイディオの衣食住異なりその歴史ぞ古けきも、かかるノビスパンヤの如き信仰の慘たるは古来の迷信にて、神の想定ぞ人を殺生し神の生贄にせるは魔道たり。
依て此の國の亡ぶるは神の報復たりとぞ思い取りて然るべき。
寬政五年十一月二日
和田長三郎吉次