丑寅日本記 第十一
注言
本巻は諸行記に相渉り、朝幕藩の差障りありて、他見無用とし門外不出と心得べし。右注言の段如件。
寛政六年十月一日
和田長三郎吉次
北辰史探抄
古事を説く諸書の歴史に讀みつれば、神かかれる夢幻の古話を入れて創とす。證なき古代を神代とて作説の神々を古史に筆頭とせるは、かたそばぞかしとぞ紫式部の曰ふが如きなり。
世の創を宇宙に説きけるギリシアのカオス。卽ち無より一点の光熱を爆裂せしめて宇宙の創、日月星の誕生せるものとて説ける哲理ぞ物理に叶ふる説なり。亦、古代なるシュメールのルガルなる哲理にては、宇宙の創めを無界に寸点のルガル卽ち、測り知れざる満々たる密度の光熱の大爆裂起りて宇宙に億兆の數になる星々の誕生す。依て諸々の物質ぞ此の數に化合をして日月地界の星と成りて誕生せしは宇宙誕生時より降年になる新星の天體なりと曰ふ。
亦、山靼なるブルハンの説くは、宇宙光熱に成れるともブルハン卽ち、寒冷の精水の精になるブルハンの水気なくして萬物の誕生なく、世に生々の誕生せしめたるはブルハンにして、その神座は北極星にあり。神の降臨せしは北辰國にして夜虹光となりて今尚、萬物生命を生死に以て司ると曰ふ。
丑寅日本國にては此の三説を國神とて號くるはアラハバキイシカホノリガコカムイとぞ稱し、是を宇宙なる天界の神・大地なる自然界・水の一切を生命の源とて、是を全能なる神と奉れり。
寛政五年三月七日
和田長三郎吉次
北斗の創史
倭の天皇記に曰はしむれば、皇祖を髙天原になりませる天神が地界を創りて、地神卽ち天孫を筑紫の髙千穂獄に降臨せしむとて世の創むところとて曰ふ。
然るに北斗の創史は、山靼及び紅毛人國の創史を入れて、丑寅日本國の國神となせるは天地水の大自然なる理りを神とて崇め、人の史と混せざるは哲理・物理の要点に覚り、人祖をして萬物生命の原祖、天地水を祖とせる有機無機より化合せし生命原の一種より萬物に進化分岐せる人體とて成長なしける種の主たるは天地水の父母胎より誕生せるものとて、天然の陰陽を人の祖神と崇めたり。
天なる宇宙の光熱・地なる父と・母なる水の一切に生れたるは世に生々せる萬物一切平等なる天地水の惠に存すと、人ぞて神は生誕にして人の上に人を造らず、人の下に人を造り給ふなかりき。
神は生命に生とし生ける萬物をしてその光陰を異にせず、一切平等たる
寛政五年五月七日
和田長三郎吉次
丑寅日本國實史
丑寅日本國を君主とて統治せしは安日彦王なり。 安日彦王の祖系累代は阿毎氏にして、耶靡堆彦王を遠祖と為し、爾来、多利思比孤を祖と世代せる加賀犀川の三輪山に分住みの系あり。亦、山住の阿輩雞彌は白山にありて越に移り立山を領す。亦、宗主の系は東國に移り富士山を領と加へてより安倍氏と改姓し、更に丑寅の地を開き坂東より此の領を日本國と號けたり。阿毎氏の代に地豪の王を併せて耶馬臺五畿の五王を連立せしめ國治むれば、世に是を耶馬臺五畿王と號されたり。
筑紫に賊起り、その王を佐怒と曰ふ。日向王となりて筑紫を討伐せしめ更に山陰・山陽・南海道・内海諸島をも掌据したる。地王たるは出雲王・筑紫王・猿田彦王ら縣主・邑主らを併せて國ゆずりとす。髙嶋に王城し、耶靡堆を攻むる事八年、遂にして略す。
依て時の王・安日彦王及びその舎弟富長髄彦ら地領の民ら大挙して東國に降りて更に丑寅に落北せり。國末の東日流に豊葦原を拓き、晋の流民群公子一族及び地民の阿蘇辺族・津保化族・麁族・熟族らと併せ漁撈・稻作・馬飼・犬飼・鶏飼・牛飼・杣狩猟の民と一統し茲に荒覇吐王國を建國し、その一世なる王とて安日彦王を卽位せしむ。
その補王とては富長髄彦を従へて茲に日本國と號し、東西南北に補王を置き更に隔つる間に縣主・群主・邑長・郷長を定めたる國治をなせり。代々に東日流・世禰志呂・糠部・飽田・仙北・瀧澤・和賀・衣川・迫大野・桃生大野・名鳥大野・砂泻平・白根大野・會津平・坂東豊葦原へと拓きて國營ふ日本瑞穂國と相成れり。東西北なる海幸・山幸もまた民富める國と相成りてより安東國亦は日髙見國とも語部録に國號を遺しむ。
寛政五年九月二日
秋田孝季
民族皆兵之事
日本國坂東の地にありては地肥えて五穀稔り亦、山海の幸も豊けく民富めり。依て倭の曲者ら群盗をして此の地を襲へ犯しむ事暫々にして、能く足柄の地・蒲原の地を灾り、越の髙田大野にまかる盗賊しきりなれば荒覇吐族こぞりて民族皆兵の策を備ふは出来秋なる頃に討物そろひて武練をなしける。
兵術に蒙民なるドルベト族の戦法ぞ用ゆ。誘敵必滅の術中に倭盗大いに死す。日本國なる民兵の皆兵たる是の手段ぞ、全に渉りて遂にして大挙の軍團を挙して東國を攻むるに、倭軍の兵挙は上毛野田道將軍が倭王の令にてまかりきたるが始めなり。
寬永庚辰年十月一日
迫五郎兵衛
丑寅日本主名鑑
日本國玄武柵之事
丑寅日本國に築かる古き昔の柵跡かしこにありきも、アラバキの世に縁る跡ぞ少からん。抑々古き世の事なれば、今世に成らむ城縄張に似基ぞなかりけり。
古なるは衆住に造りて邸擴し。カッチヨの土手あり。城道をクケに造り、犬走及び空濠・水濠多重に造りて、盛土上に柵を廻らす。外部視を能くし内部視を閉ぎて、ただなる山林に見ゆむを意趣して築きぬ。水場、夏枯なく保食となるる木草を殖しめ、草原に牛馬を飼ふる牧ありてよけれ。常に干菜・山草を採して保つべし。矢竹植え非常に備ふるべきなり。火急にありては抜窟を堀抜きて次柵の地に移るべし。
反忠する勿れ。亦、敗ると萬策盡きては死守する勿れ。人命は己れにあれど神授のものなればなり。敵を死なしむとも自から己を護りて先んづる可。抑々安倍氏の掟とて心を賣らず、反忠する勿れ。不断にして財を身近に置かず、秘に護りて非常の難を免る可。保糧亦然也。
戦に臨みて領男女、皆兵たれ。侵敵に當りて心乱さず、敵に隠密行を策なし武具・兵糧・軍馬を盗放せしめ、敵の夜營を襲ふべきなり。護り固きとて蟻の一穴、その空間を探し敵なる寝首を挙げよ。
見ずして敵の位地を覚り、一兵を以て百殺の功を策しべし。柵外の陣は四辺の地理を計りて地物の應用を謀るべし。馬に腹満る餌を與ふべし。鞁のゆるぎを修理固く、常にして持刀を研ぎつべし。柵外にいでては、他言に布すべからず。秘を護るは不断に心得べし。
(原漢文也)
長久辛巳年五月廿日
安倍良照
安倍氏兵法之事
陸鳥なる丹頂鶴、水鳥なる白鳥とて、一族の巣を萢地・大河辺に造り給ふ故は、子孫に犯さぜらる侵魔をふせぐが故なり。
吾等が一族とて水辺なき處に以て城を築くは祖訓にして、城邸の縄張りと測るなり。城邸山に構ふるは、邸に水泉不断に湧く處あり、四方の天然要害なれば適地なり。地型地物は一木一草たりとも要事の必物にして、小石は砌となり木は冬寵の焚木なり。常に城圍の視界を閉がず敵侵に誘道を造りて迫に討べきなり。
城籠りの戦を永つらふべからず。危急の前に女・老人・童を安處に移しべし。兵糧は干肉・干魚・干飯・えり豆・塩を携帯し腹七分に喰い保つべし。兵法はかく細々に気配りて窮ならん。
抑々兵謀の一義は囮兵誘敵法・伏忍襲法・敵資盗奪法・敵侵策謀探知法・弓箭三段射法・騎馬蹄斬法・蒔針道留法・歩兵三攻法に練えて猛きつはものとなりにける。突き振ふは薙刀、敵箭に防ぐるは持楯・垣楯の速配なり。戦に非情を當てずば己れ殉ずるなり。
攻むるも退くも己れに非ず、衆に多決して己が勝手たるべからず。敵をとりこにして責むるべからず。白状に眞實なれば解放つべし。敵情傳達は秋田犬を使とし、里鳩もよけれ。
長久壬午年十月七日
肴倉友行
丑寅日本一統信仰之事
かく唱へて拝むる荒覇吐神とは山靼のブルハン・紅毛人國アラビアのカオス・シュメールのルガル神を天地水に修合せし古代神ぞ。今にして紅毛人國にては一人の信仰にあるものなきはギリシアのカオス・シュメールのルガルにして、未だ信仰にあるは山靼のブルハン神耳なり。
丑寅日本國にては是を荒覇吐神とて一統の信仰を保つて以来、倭神の改信に責らるまま今にして尚、倭國さえも祀らし處あり。その古きにあるは大宮なる氷川神社の攝社になる荒波波畿神社他、多賀城の荒脛巾神社・近江の阿羅波婆枳神社・生保内の荒脛岐神社・東日流の荒覇吐神社・外濱の荒吐神社・武藏には荒羽々畿神社・荒波波岐神社・荒羽貫神社・三河の寶飯一宮なる荒羽羽気神社。
かく荒覇吐神社たる改神名にせしは出雲大社なる門客神社・出雲荒神・塩釜の塩釜神社、他諸國に客人・門人・客大明神とて祀らるあり。廢社荒芒たる社跡は限りなく六十余州に存在せり。かくて荒覇吐神が丑寅日本國の一統信仰とてその王政を盛栄ならしめたる名残ぞ今に死せざるはかくの如きなり。
明和乙酉年八月一日
越野又五郎
丑寅日本稻作之事
丑寅日本國に稻作の渡れるは、初に晋の群公子一族が支那の戦乱に敗れ西海を北辰に流漂し定着せしは、七里長濱なる上磯郷なり。大船七艘にして、その二艘は宇曽利の宇曽利山北麓濱、五艘は往来河を流れ平川に三艘登り、二艘は行来川本流を登りて船を捨たり。
農耕の民なりせば住居を葦原に定住しければ、土民との住分なる爭動なく定着せり。稻作の創耕なり。是く後に倭國より大挙して落着せし耶靡堆の阿毎氏卽ち安日彦・長髄彦の衆と晋民は併合なして大葦原を開き、王國再興の極をぞ速したり。
晋民の定着せし處何れも稻田拓きて稔豊たりき。稻作ぞその域を擴め、飽田より象泻、糠部より日髙見川なる辺を多賀大平野に到る瑞穂の國たり。やがて坂東に到りて益々盛んならしめたるなり。
元文庚申年二月十五日
津田六郎右衛門
晋群公子帝勅之事
東國在日辺日本國丑寅、浂等渉潮路到彼國可、豊葦原國也。加之地古世渡蒙古族、以今交黒龍江往来多住人。
浂等治彼國渡可、拓葦原稔瑞穗給、事榮子子孫孫、奉事晋天俱興末代富民叶、朕逝途民安祈國也。住速治能可在朕志望、常汝等俱睦地民興日本國丑寅神州一系奉君主可。
勅群公子帝。
此の文にて、世々にある稻作の唄とせしにや。丑寅日本の稻作に捧ぐる出秋の唄舞にせる切田神楽と由来す。
寬保壬戌年弥生
田舎邑 大根子神社社中