丑寅日本記 第七
注言
此の書は朝幕藩の政事に順ぜざる記行ありて他見無用門外不出と心得べく、茲に注戒し置くもの也。
寛政六年七月二十日
和田長三郎吉次
山靼國夜虹史
一年を白夜常夜國になる極寒の北領になる海幸・陸幸の豊けむを知らざる多し。人の渡れる故地にては何れも蒙古平原の黄土下に埋れし故地なり。抑々我が丑寅の日本國は人祖を是の國に發せりと曰ふ。山靼に往来せしは一萬年前より可能とせり。
その往来の要は信仰に依れるブルハンの神祀にて、ブリヤート族の聖湖神の住めるバイカル湖畔なり。更にして天山の天池に西王母を祀れる巡禮に臨むるあり。山靼往来は是くの如く持續せり。集まれる部族にてはウデゲ族・ブルガル族・ハルハ族・クリル族・ブリヤート族・ドルベド族・カサフ族・ナナエ族・オロチヨン族・マンチヨウ族・オロッコ族・ギリヤーク族・トンシヤン族・チベット族ら雑多なり。
山靼とは西なるオリエントなる紅毛人國に到りぬ。トルコ・ギリシア・ユダヤ・アラビア・エジプト・メソポタミア諸族も集むる在りて禮拝せる聖地あり。處はギリシアなるオリユンポス山なり。宇宙創造の神カオスが大爆裂の光熱を發して日月星を創り神々を造りて無界より諸天体を宇宙に誕生せしめたるミクロよりマクロへの創造。宇宙はかくして成れるとせるオリュンポス山十二神の哲理、山靼に住むる信仰と相成りぬ。
更にしてメソポタミヤなるジグラツトの神ルガル、大地より農を以て産しむ糧ぞ人の飢をしのがしむ。神の聖地にて山靼聖地の巡禮の旅を果したり。卽ちブルハン神のバイカル湖は水神にして、オリュンポス山のカオス神は天なる一切創造の神なり。メソポタミヤなるジグラットのルガル神は大地の神にて生産の神なりて是を山靼天地水三神とし、丑寅日本國のイシカホノリガコカムイなり。是を一稱に併せてアラハバキカムイと稱せるは神への巡禮求道は萬里の彼方に神を司どる者は生死の境を身心に賭けて求道とせり。
天なるイシカの常在せる北星は不動にして夜虹の天空にあり。古代エジプトの金字塔の靈窓は北極星に向けて築きける如く、古代ジグラットの神殿も然なり。亦ブルハンの神湖より流る河いづれも北極に流れ、その流砂に神なる精石金剛石を得る人ぞありて山靼なる神々の信仰ぞ今にして世界に流通なくも、古代にして求道の行道たり。
天明癸巳五月七日
物部民部
天地水之法則
異なる世の変化を求めて紅毛人は學得せり。地界を巡る月界、その新月・満月にぞ起る海潮の干満、萬物の誕にもかかはる奇異ぞ是れ月界の人視に得ざる力生依引力と曰ふ。宇宙は星界の浮定と見ゆれども、その界間星々の重力にて位座を固定せども末代ならず。常にして間を擴げ隔り逝ける速さ激しきなり。
星にも生死ありけると曰ふ。星の誕生は暗黒より生れ、死は爆裂なるも、その爆裂塵より新星ぞ誕生す。日輪とて恒星なり。地界はその惑星にて月は地の衛星なり。宇宙に於ける星の數は百千萬兆に達し、我等が視界に達せるは銀河の二億になる星團の一粒にして塵の如き存在なりと曰ふ。
宇宙は擴くその果つるはなかりけり。ただ天体無かりける時空も無き無宇宙、卽ち唯暗黒の他に何ものも無き無限に擴く續く耳なり。宇宙の成れるカオスの一点より光熱を爆して誕せしむとぞギリシア神話の哲理ぞ正しけれ。丑寅日本國にては是をイシカカムイの誕生と曰ふ。古来より宇宙に仰ぎて星界の神秘を求めてやまざるは世の東西を問はざるなり。日輪の光熱も時にして異なるあり。
依て地界に寒暖の差を異ならしむる時代のあらむ過却を知るべきなり。依て過昔に生々せし山靼象の死滅、陸に歩けし獣物より海に生々せし鯨となれるあり。人の祖をして猿候より出づる血脈に在り。猿候祖また野鼠より血脈をなし、萬物生々の種原にたどれば菌種の如きより進化せしものなり。依て生々萬物は一種の種原より分岐せしものなりと覚つべし。人耳世に神の造れるものに非ず。いつかは宇宙の報復にて生滅せむ輪廻を覚るべし。
依て萬物卽一系とて世にある天地水なる神の全能に信仰を積念せるこそ眞實なる信仰にして迷信のなかりける。卽ちアラハバキイシカホノリガコカムイの聖道になる求道正行なり。
寬政丁巳年九月一日
和田長三郎吉次
抹消之陸羽丑寅史
世に現實たる出来事を秘隠せるは後世に偽る末代への恥なり。人の世にありて遺すべくは世代の善惡を鏡に写せるが如くその實相を筆に記すは史家の正道なり。文行つたなくとも、眞實は何事の名文より清けく人に傳へ遺るものなり。
とかく丑寅日本史は倭史に障り多き故に權を以て是を抹消し、抹消よりもれたる史傳を偽とて公に入れざるは朝幕藩史なり。亦、海の外なる世界史を閉じ井中の蛙の如き島國魂性なれば山靼に交はるる丑寅の日本史を歴史とせざる國政のゆがみぞ甚々以て無才覚なり。如何なる國史の讃美に於ても自讃枝葉華を飾りては歴書に非ず作説なり。
丑寅日本國史は文句無才なれど、世にある事實なれば何時世にか不動の史とならむを念じて諸事歴傳を茲に遺し置きて末世の賢者に与ふものなり。山靼より諸々の學者多く代々に渉りて丑寅日本國に歸化定着なし、寒冷の國に農を固定ならしめたるは倭國より早期にして稻田稔りたり。亦、鑛鋳の産金・飼馬の産とて然なり。
海國の故に海産の岐法また倭國に抜きたるも學才無き者多きが故に代々をして倭謀に國盗らるの破目と相成りき。茲に於て丑寅日本史を紅毛人國の史に習へて綴り置くは、世に眞實なるが故なり。
寛政五年八月一日
秋田孝季
丑寅日本國史抄
倭國の天皇記に曰く、韓國より渡来せる崇神天皇とて倭王となれるあり。常にして丑寅にうかがえて兵を遣して敗るが故に、河内王和珥帝と和睦せんとせるも和珥帝、元より膽駒王富雄郷之長髄彦系なりせば、春日穂無智別を遣して崇神天皇を討伐せり。
和珥帝に縁れるは宇治氏・大津氏・木津氏・春日氏ありて蘇我郷の崇神天皇と常にして攻防の戦を相爭ふたり。崇神天皇に加勢せるは葛城王にて日向の出なり。故地・日向は筑紫王磐井氏に滅亡さるまま崩滅せる後に猿田氏が地配せり。是また薩陽王・隼人王併軍の押領に屈したり。
筑紫にては熊襲王・邪馬壹王と併せて奴國王を亡し茲に立國せり。崇神天皇とは伊理王の事なり。天皇系にして景行天皇・倭武・神功皇后ぞ實在せざるとぞ天皇記に記逑ありき。
文正丙戌年二月七日
船史惠尺之流胤
竹内宗達
天皇記國記之抄
(天皇記)
倭國第一世之天皇、以宋國支那國之事武帝之永初二年二月十日、為倭國之應神天皇、還難波之津都宮、云々。
(國記)
夫倭之國、異丑寅之日本國、其領堺、坂東之阿毎川東海水戸、越之系魚川西海水戸、横断東北堺西南堺、相裂境在是可、云々。
卽ち天皇記とは蘇我氏に公藏されし天皇秘書なり。國記また然なり。然るに由ありて平將門の手に入りて豊田神皇社にありきを藤原秀郷、秋田生保内に忍住せし將門の遺姫に屆けしものと曰ふ。大巻之書なり。
文正丙戌年二月七日
竹内宗達
追而
天皇記は東日流の石塔山に平楓姫奉寄せりと曰ふ。余、是を㝍したるものなり。右追而如件。
宗達
石塔山古書目録
- 天皇記 十二巻 秘巻
- 國記 十二巻 秘巻
- 和珥記 一巻全
- 葛城記 一巻全
- 大臣蘇我記 二巻
- 大連物部記 二巻
- 伊理王記 一巻全
- 奴王記 一巻全
- 平群氏系録 一巻全
- 阿毎王記 二十七巻
- 壬申之乱始末 一巻全
- 巨勢王記 一巻全
- 大根子王記 一巻全
- 紀氏代系記 一巻全
- 大件氏記 一巻全
- 天神地神記 八巻
- 多利思比孤記 一巻全
- 磐井王記 一巻全
- 薩陽王記 一巻全
- 集人王記 一巻 全
- 阿輩雞彌記 一巻全
- 佐怒王記 一巻全
- 安日長髓彦王記 三巻
- 春日王記 一巻全
- 倭王舊事記 二巻
- 天皇舊事記 二巻
- 皇統審議記 一巻全
右之通藏書在是候。
文正丙戌年二月七日
竹內宗達
天皇系疑審書
抑々天皇記を讀むれば古事記及日本書紀に奉る天皇をして世に非ざるを系継せる多し。
先づ以て孝元天皇卽ち諡號にして荒覇吐王系なる大根子彦王、その皇子・稚根子彦王二代ぞ天皇に非ず。倭領奪回せし安日王・長髄彦王の阿毎氏耶靡堆王、後なる荒覇吐王系なり。天皇記を奉持せる蘇我氏は己れを蝦夷とせるは此の故なり。
丑寅を平征せると曰ふ崇神天皇・日本武命更には神功皇后も世に非ざる皇系なり。審せば疑ふる多く、朝庭作なる古事記・日本書紀にいでくる古代天皇の系継ぞ信じるに足らん。王朝之一統司政は後世にて諸王の王國を以て古代は成れり。
抑々公史にして東國の記行なきは知り得ざる未知の彼方にありてこそなり。倭國さえ和珥王・葛城王・宇治王・大津王・木津王・越王・出雲王ら群位しけるに是を一統とせるは至難にして成難し。天皇記はその明細にありて明らさまなり。
各處に遺れる天皇陵また然なり。依て倭王より大なる墓陵にては宿葬とて玄武の遺骸を抜きて葬せし御門ありきも明白なりと曰ふ。
正平二年五月一日
物部藏人
陵墓改葬之事
古代より陵墓の追善せる縁者無ける髙貴の墓を掘出し、新骸を安ぜるありき。亦、玄室に堀りて舊棺に入るありて、舊骸の副葬になるを踏なめしその上に葬むるに舊骸を下敷に二骸出づるありきは、永き風雨に流土せる古陵の例ありき。卽ち現存に遺れる陵墓に幾ありきを餘感す。
亦、陵墓盗掘になる石棺の中にその例を見らるあり。亦、蘇我氏の陵墓を掘り荒たるは中大兄皇子にて八十日を土民を徴してあばきたり。卽ち天皇記の焼けざるを船史惠尺の報に依れる捜堀なり。
終にして天皇・國記ら文書なきが故に蘇我蝦夷自刃にして住居を灾るときにぞ焼失しけると思いきや、事の兆を察せる蝦夷、加之書を髙賀茂の公麿に秘藏を賴みけるに、是を豊田郷の荒覇吐社に秘藏せしを世々に降りて平將門、此の社を神皇社とて祀りき。
天慶の乱に討死し、藤原秀郷の管領と相成りき。依て此の社を取潰にせしとき、はからずもこの書管の入りたるを知らず、將門の遺品とて秋田生保内に住むる將門息女・楓姫に屆けたり。楓もまた是を見屆けずそのままにして東日流石塔山に奉寄せるものなり。
天皇記は是くして奉寄されたるものなり。
寛政五年八月一日
和田長三郎吉次
追而
山靼は大墓を造らず。紅毛人國を大遠征せる蒙古の大帝チンギスハンは、余の墓は大地に足跡を遺したる總てなり。依て余の滅後の墓は千兵萬馬に踏ならし墓型を遺し勿れ、と遺言せりと曰ふ。
古来、蒙古族はブルハン神を崇拝し、逝くは水の流れに委ぬるこそ再度の甦りを得ると信仰の固きが故なりと曰ふ。亦、骸は土に水に溶して魂は北極星の神座に到ると信じたり。依て死の骸に飾るを禁じたり。
山靼は人踏の穢れなき聖地多く、馬は神々の使者とて大事とせり。ブルハン神は水神なれど祈に應じては百変化して護る神なりと曰ふ。古来の蒙古族は丑寅日本國の人祖にしてその信仰ぞシュメールのルガル・ギリシアのカオス・オリエントのエホバ・エジプトのラーアメン神・アラビアの神アラーにも併せたるはブルハン神にして、アラハバキカムイも是に習へたりと曰ふなり。
長三郎吉次