丑寅日本記 第五

孝季

合浦宇濤安泻之事

一、荒覇吐神社

此之神の歴史に古ければ、往古になれる安倍氏神たり。宇濤安泻に神を鎭給ふは山靼船の来舶以来、合浦外濱になる神社の鎭社建立は多く、古きは明日香神社・後泻神社・宇濤安泻神社・荒覇吐神社なり。

東日流中山石塔山荒覇吐神社になる末社とて日出づる東方の日辺に安日彦王が御自から天地水神を祀り、爾来二千年の古史に遺れる神格なり。然るに代々を過却し、此の神社は各々世襲に習へて明日香神社は飛鳥神社と相成り、後泻神社は古宮堂と相成り、宇濤安泻神社は善知鳥神社と相成り、荒覇吐神社は荒脛巾神社とぞ相成れり。

何れも康平五年来の改稱なれども正長元年に藤崎安東氏の南部氏總攻に敗れ、續きて十三湊安東氏は嘉吉二年に東日流放棄し渡島及び飽田に新天地を開きて移り後、鼻輪郡狼倉城及び髙舘に安東義季、合浦外濱になる尻八城に潮方安東政季ら謀りて糠部根城になる南部守行その嫡男政義を峽討を謀り、是に宇曽利の蠣崎藏人その背後を突くべく軍謀、南部氏の間諜に探られ享徳三年、南部氏軍を二手に一方は大浦なる狼倉城・髙舘を攻討つ。

安東義季は飽田檜山城に退きて安全たるも、後泻羊蹄城またの名を尻八城になる潮方安東政季は不意を急襲さるまま捕はれ糠部連行中浅虫切通にて蠣崎藏人是を急襲なし政季を救い、宇曽利にて南部氏を討べくの挙兵前夜オロシアより入れたるホテレスの火薬大爆裂の事故ありて急挙の兵を解き、両者俱に渡島に逐電す。かかる戦乱にて焼失せるは宇濤安泻神社・明日香神社・荒覇吐神社、何れも南部勢に蝦夷神とて焼却さるるなり。

然るにや地民の信仰深きに翌年に再建さるるも南部氏の警視常にあり、古来なる神を祀れず外見、神を改め社歴及び由来を改めて現今に至れり。

文明壬寅年八月三日
蠣崎出雲守賴經

二、善知鳥神社改興

南面朝臣東日流奥法郡行丘城主北畠公の奉寄に依りて合浦外濱に善知鳥神社再興す。其の落慶は康正丙子年なり。此の地領は北畠朝臣の治配と勅許の故なり。

社神は神州倭より奉り、わだつみの神及び天神地神の尊を鎭め給ふて今上に至れり。社は大鳥居三立にして御神門をかまえ、左右に大臣神像を門神とし、拝殿中宮奥宮に壮厳たり。日出づる安泻に末社、水濱に北辰宮を祀り、潮上に神殿大鳥居を施し、宮辺に潜泳せる善知鳥の群亦、冬鳥・白鳥及び鴨の渡来神秘たり。本社善知鳥と號くるは是故也。

此の神社になる旧来歴は大化己酉六年、上毛野形名丑寅日本國の日本將軍安倍致東に和睦に奉寄せし神社なりきも、倭朝の律令に否なれば致東の怒りを蒙りて、上毛野形名、越に去り淳足柵に防人を募り更には磐舟柵にも防人を募りて挙兵せんと謀るも勅許ならず世泰平たり。

是ぞ日本丑寅の國神・荒覇吐神天地水三柱の神護なりとて、衆の信仰を集むと曰ふは善知鳥神社なる由来の實傳にて東日流語部録に證せるところなり。依て他説の社傳は後説造話にて信じるに足らん。

此の神に訪れたる佛僧多し。円空坊・円仁坊・西行坊ら歌を外濱に題して多し。

安永己亥年五月六日
善知鳥神社
氏子 棟方與四郎

三、飛鳥神社之事

合浦外濱に流る飛鳥川を東日流中山分水嶺に赴く麓に飛鳥山あり。此の山を御神體とせる飛鳥神社の由来ぞ古き也。

太古に安日彦王・長髄彦王、故地耶靡堆國を放棄し丑寅に落着せしは、初めに此の地を定めたるも東風きびしく、戸門と曰ふ地語にしてホノリウトウルを越え津保化族の道しるべに従へて東日流大里にまかり、稻架三輪の地に定着せり。

然るに、連れきたる三輪大神の神司、飛鳥山を離れず神處とせしは此の神社の大要にして、祀られき神は白山神・三輪大神・膽駒神を鎭守とせりと曰ふは旧来の飛鳥神社の實傳なり。

然るに尻八城の乱にて焼失し、地の氏子ら今になる處に降りて建立再拝せるも、明日香を飛鳥と改め神格ことごとく旧来を廢し今上に至る也。

文禄甲午年八月五日
合浦外濱内未辺之住人
相馬將門

四、後泻古宮之事

潮方氏の居城、地語にしてポロカッチョチャシ卽ち尻八城の東にイシカホノリガコカムイ神社あり。是を荒覇吐神社と古稱せるも、南部氏の攻めに焼失せり。此の社の旧来になる神格にては、もとより干泻に建立せし神社にて、わだつみの外濱の仙境の大倉山羊蹄頂を神格とせる太古の社なり。

中山に耶靡堆城卽ち亦の名耶馬臺城を築きし城神とて建立せしは神社建立の創なり。石神になる荒覇吐神、六尺の神像ありきも南部義政の勢に粉砕され社の再建も法度となり、再興せるは天文二年六月一日なり。爾来、古宮とて祀りきも地元にして古事を覚つ者少なくも無かりけり。

寛政五年六月一日
秋田孝季

東日流耶靡堆城之事

北斗の極星を型取りて築きたる東日流中山に耶靡堆城あり。凡そ二千二百餘年前の城邸なり。

東方外濱に望み、石畳・土畳に廻らし五角星の先端山渓に突き石土の畳壁、峯之要を圍む。四週の山渓みな乍ら攻めて向い難く、道無き往古の𡸴岨なり。

地老の口傳に曰く、太古にして此の城に籠れるは人兵に非ず山神の住居なりと。

寛政五年八月一日
和田長三郎

東日流中山史抄

東日流中山をしてなる史跡は深し。 朝鮮陶工をして遺せし須惠なる登釜の傳へきは倭國より古けれど、冬長の國なれば流らず、東日流にては栃や苞の木を以て椀のみ用いたり。更に用いたるは外濱海になる帆立貝を鍋とし皿とせるは通常なる器なり。陶を用ふるは酒壷・水瓶多く、土間なるに半埋にて冬の寒に凍を防ぎぬ。

古来より鐡を採り刃物亦鍬を造りぬ。外濱にては中山連峯宇鐡更には宇曽利なる安倍城なり。古来より出雲と往来し、鎔鑛の岐を習ふるは後世にて、古代岐法にては山靼の鬼族なり。依て宇曽利及び東日流にては鬼神を祀る風是あり。亦鬼神楽・鬼剣舞・鬼降りとて民族年中行事とて丑寅日本かしこに遺りぬ。

東日流にては鐡神を祀れるを鬼神社とてタダラに祀るを古習たり。中山連峯にては津保化族の世になる一萬年前になる神祀の跡あり。是を石塔山と曰ふなり。此の山に常在せる神とはイシカ天神・ホノリ地神・ガコ水神にて祀りき古跡に安日彦王が荒覇吐神を祀りて、丑寅日本國主とて卽位せし處なり。

弘治丙辰年十月二日
仙海法印

外ヶ濱稱名由来

西海・東海の内に湾をなせる内海に在り乍ら外ヶ濱とは、古来より宇曽利より外、東日流より外なる故なり。

亦、卆止濱と稱されしは淨法寺より卆塔婆を一里毎に石塔山に建立せしありきは、太古に安日山より中山に神石を道しるべとせしより創りて、近くは藤原氏が中尊寺より外ヶ濱に卆塔婆を建立せるあり。何れも東日流中山石塔山に至る古代になる王居の移り處より王位立君の聖地に道しるべとせるに創りぬ。

然るに代々にして是を抹消の由にせしは倭朝の計にして、古代丑寅日本國王政を葬むりき故になる画策にして、史にかかる重要なる石塔山由来ぞなく能く知れるは平泉より外ヶ濱に建立せし金色張りの卆塔婆、何が故に藤原氏の建立せしものなるか霧中にして明らかにせざるも倭朝官人輩の策なり。

寛政五年六月十三日
秋田孝季

倭皇化律令不丑寅渡

支那王政の國治に習へて倭朝にては北狄・東夷・南蕃・西戎と曰ふ朝宮の四週にある民を卑しめ、是れを討って取るべくを律令の策とせり。依て新羅を蕃國とし蝦夷及び隼人を化外民とし無主國の地とせり。

なかんずく倭に曰ふ蝦夷を討征せん事を悲願とし、古くは上毛野田道將軍・引田臣阿部比羅夫ら陸海攻めを試みたるも皮算用に過ぎざる画策に了れり。世に存在非ざる崇神天皇とて史談に造り、日本武尊が隼人の熊襲・東の蝦夷を略伐しせる架空の造話を史實とし衆心を洗脳せしは笑止千萬なり。亦になる神武天皇記も然なり。亦丑寅に倭人の草入を策しけるも多くは見破られ、刑に伏し永く以て和睦の如く策しける。

是の如くして築きたるは倭人を護ると曰ふ理由にて建立せるは出羽柵・秋田柵・雄勝柵・由利柵・多賀柵・牡鹿柵・新田柵・色麻柵・玉造柵・桃生柵・伊豆柵・覚鱉柵・膽澤柵・志波柵・徳丹柵他二十柵となりて倭人是れに集ふるを日本將軍安倍頻義が丑寅日本國の侵略と見てその出入を閉じ関を設しければ、次代になる安倍賴良が代に十二年戦を兆したり。依て、倭史に眞實無し。

寬政六年八月四日
秋田孝季

奥州語部極刑之事

應水十一年甲斐源氏南部守行、糠部根城に陸奥守とて着任せり。足利氏の布令になるは奥州になる語部の殲滅になる密令なり。

守行、是れを承りて四種になる語印の用途を禁じ亦、語部になる寄合を禁じ、背反せる者を斬首せり。更に古来になる語印の記逑書及び木板・石刻を残さず破砕し焚焼せり。

是の如き法度に依りて死せる語部、東日流にては三十八人・宇曽利にては十六人・糠部にては二十五人と曰ふ。語部ぞ斬首さるも盲暦のみぞ許したりと曰ふは農耕漁魚の支障にある故なりと曰ふなり。

明暦丙申年十月一日
向三郎忠介

津輕藩古人語禁止令

諸術策を以て津輕一統せし大浦右京為信の藩主代々にして古代安倍・安東・秋田氏に縁りて居住せし渡島出の民を渡島に追放し亦、アイヌ風になる風習を禁じたり。

更にして古来になる安倍・安東・秋田氏に縁るる神社佛閣の取潰し、古来になる史書をも奪取して焼却せり。亦、アイヌ語を禁じたり。

寛政六年五月一日
北屋名兵衛

外ヶ濱遺寶

嘉吉二年安東盛季、南部氏との交戦を小泊柴崎城を末期とし故地を放棄し、渡島及び能代・檜山に移りぬ。徒らに戦期を延したるは安東髙星以来になる遺寶なり。相當大事たるものは渡島及び檜山に移したるも、餘れるものすべて潮方政季に委ねたり。

政季、その遺寶を大倉山畳洞に秘藏せしも享徳二年、南部氏に不意を襲ふて捕はれ、蠣崎藏人と松前に渡り、秋田に安東義季の養子となれるも下臣に暗殺さるに依りて、その遺寶未だに人知るなく大倉山に存在せりと曰ふ。目録にては佛像及び渡島エカシ等の献上せし砂金にして二千貫と曰ふ。

享保元年九月一日
菊地貞次郎