丑寅日本史總解


(明治写本)

注意

此の書は門外不出、他見無用と心得よ。

和田末吉

序言

此ノ書ハ丑寅日本國ノ大古代ニ創リタル地史及ビ人祖ノ渉リヲ諸史ノ證書・地老ノ古傳ニ基キテ記逑セシモノ也。

日本諸國耳ナラズ、山靼ヨリ尚紅毛人國マデモ巡脚シ、物證遺物及ビ傳書・古老ノ口傳、諸説抜選セズ總テヲ集記シ、正シキ定統ノ判断ハ後世ノ史學分野ニ委ネ置キテ、タダ史傳史集ニ勤メタリ。

依テ玉石混合ニ綴ラルトモ、眞實ハ一ツナリセバ、是書ハソノ參考ニ引用ノ功アラン。能ク諸證ニ當テ、正ナル歴史ノ校正立證ニ用フ可。

文化二年十二月二十八日
津輕下磯飯詰村住人
士族 和田長三郎吉次

荒覇吐神大要

丑寅日本國の唯一なる全能神は、古代に於て一統信仰されたるものにして、神なる大要は山靼のブルハン神・支那の西王母神・女媧神・伏羲神・天竺のシバ神・ヤクシー女神・紅毛人國になるギリシアのカオス他諸神・エジプトのラー神他諸神・シュメールのルガル神他諸神・アラビアのアラー神他諸神・エスライルのエホバ神他諸神卽ち古代オリエントの神々を山靼古代流通にて此の國に渡りたる神々を、吾等が祖先にては是を宇宙なるイシカ・大地なるホノリ・水の一切なるガコと稱し、諸々の神を併せて是を大自然の一切とし、アラハバキカムイと總稱せり。

古代に於ては山靼流通にして諸民族の歸化定住あり。狩猟採集なる暮しより農を営むるに至るは、倭國と時代の後進あるべからず。信仰に於ても、先なせる丑寅日本國が早期なり。倭國はもと耶靡堆國とて、阿毎氏より王國ぞ創り、後年に筑紫日向に起りし南海藩の渡海着の民族らに先住民は國を略され、通稱是を日向族とて曰ふ。

この集團移民の長たるサヌ王が東征を企て、長期の戦に耶靡堆の王・安日彦王、副王の長髄彦王ら敗れて、此の丑寅日本國に脱して故地を放棄せり。依て、安日彦王が東日流の地に至りて茲に再興せしは卽ち荒覇吐王の創なり。

神を一統信仰に導きたるは安日彦王にして、彼等の耶靡堆にありき信仰は白山毗咩神・大三輪神にして、山嶽を神と崇めその神象たるは蛇神にして、自然を崇拝したるは丑寅日本になるイシカホノリガコカムイに相似たるも、東日流にては蛇神に非ず、饗餐神たる相違たるも、是を一統信仰に併せてより、諸々の雑多なる神々を二尊に修成し、是をアラハバキ神と號したり。

依てこの總稱に意趣せる大要は大元神卽ち山靼及び紅毛人國諸神を併せたるものにして、奉拝一統のためにその祭文としては、アラハバキイシカホノリガコカムイと唱へたり。神のヌササン卽ち登壇は、山里にかかはらず三股の大木を神の請臨せる處とし、神を請招せるためにヌササンの前にカムイノミ卽ち神火を焚きて、神事卽ちイオマンテをせり。

此の祭りは女達の卽興なる踊り亦エカシ卽ち長老の弓の舞・生贄奉献の行をして神への使者とて了祭せり。荒覇吐神は陰と陽、そして子孫神を加へて三尊とせるあり。亦チセ卽ち各戸に於ては二尊神をデゴ卽ち男神、メゴ卽ち女神を木を工化しこれをコケ師に作らせたるは、今になるコケシ人形の創めなり。

是れぞ、山靼にてはオロチョン族が狩猟神とて卽製せし木を鉈割りたる神型より創まれるもの也。後世にては女人らにて土を練り焼造る土人形となれるはゴミソ卽ち祈禱師、オシラ卽ち占師、靈媒師卽ちイタコの神司にて、多神像ぞ造られたり。然るにや、一統せし祭文はただ一向にして、アラハバキイシカホノリガコカムイと唱ふるくり返しなり。若し此の他に願文を加へたる者は、神のあわれみに外るものとて禁じられたり。

此の國は太古にしてチパンと稱しけるよりヂパングとなり更にはチカロ、チカリ、ツガルと移稱され山靼及び紅毛人國にてはヂパングとて吾が國を呼稱せり。然るに荒覇吐國となりては日本國と國號し、倭人らは日髙見國とて丑寅日本國を稱せり。蝦夷と號けたるもまた倭人なり。

抑々、丑寅日本國の語部に遺れる歴史の上なるは、十五萬年前に人祖は氷凍舟にて来たりと語部の語印に遺れり。語部ぞ、太古よりの歴史を傳ふる王がかかふる史家にして、六千年前より存在せし部の民なり。丑寅の日本國歴史の創に神代なるはなし。人祖の渡来を山靼にして故地と為し、これをブルハンの民と曰へり。

丑寅日本國に定着せし人祖の子孫には阿曽辺族・津保化族・麁族・熟族・山靼族の五族が西南地に子孫を擴殖せりと曰ふ。

語木語印に曰く(語邑帶川貞介所藏)

あなとふきふることの、このくにになりませる人の祖に曰さくは、十五萬年前の事にのぼりぬ。北西の海濤凍りてブルハンは渡りし國を流鬼嶋と曰ふ。

更に海隔てる日髙國に氷凍舟にて渡り、東日流には筏にてたどり給ひき人の祖ぞ、ブルハンと曰しなん。

永承二年五月一日
ありまのかたりべ
とまのえかし

百澤岩木山語石に曰く(百澤存在)

あおぎて岩木山なるアラハバキおおもとの神々に曰さく。此のくにに成りませる人の祖、渡り来て住みにける創の民をアソベの大人と曰ふなん。

ブルハンの神を祀り、地に火の炎神を招きてアソベの山を造り、海を底あげて大里を造りなせるは巌鬼神にてあらはばきおおもとの神なる化身なり。

朱鳥元年九月卅日
おきのりの住人
あじゃらのとめ

紙書語印に曰く(嶽邑梅庭忠吉所藏)

おれで語部やてがら、わのでで百代もつづだど、わだば親がらきだごとしか、なもわがらねばて、 けねもんだともて、かねしてけれぢじゃ。

なでもせ、このつがるの國こあでぎる、こごだりあ、がつぱど海であたど。だはで、畠の石から鯨めた骨だの石になてまて、こねだも、がんびの澤のかちがらでたべ。山木嶽からけの石もでだど。なでも百萬年もめのごとだど。

ま、おらけやめた、ほほらめたもだば、きなのごとでも忘れでまばて、むかしのおらけの先祖どあ、こら、此のつるしこおべで、板だの石さだの彫たもだど。まづ、これだば、ぢこどばばがら、むつたどきがひらだもだし、まだかがへらいだもだはで、おべでらばて、いまのてらどさ、めへでも、なもほつけもねべ。

な、だばたて、昔だば、こたよつあもどね、とどろくさねもでも、ださでもおべらひで、なでも、めのごとからさきたおぎたごとまで、のごしたもんだど。これだけや讀ねば、しこたまくらひらいだもんだ。なぼおべでも、ののこあべせ。でねふても、ものおべいぐね、わだの、なだのだば、むつたど、 は、なづぎさ、たごあいぐまで、ただがいべよん。

そへば、なもわも、いづきまいだもんだな。いまだば、讀書算てしもんで、頭さはばたて、これだばほとね、やっくさねし、とどろくさねぢゃ。おらけも、びっきだろぎせ、語のたがりだのて、ばがねさいだもんだ。むつたど、あやだのあぱさかだて、あさてかどかけて、ほどしてあせたり、じんぶめごせめしたもだぢや。

たむらいげば、 おらけば、雪のいどしさ落したし、わらはどいでせ、きまげるとぎあ、あたもだ、あれども、ろぐだめねあねでせ、今、かみがださ行て、やしだのがどだのして、くてらど。どさいても、ほとねしとなねものどあ、いるもんだな。てめでひふつて、ふとさかげだり、ふとがらものとて、ほがのもんさかげだり、てめでもげれば、 いばるし、ごやきてあさぐべ。

他人だのけやぐだの、もげれば、てつぺあこもほて、人さ、みあしあげだり、ねごとつぐてあさぐものあせ、他人ばれどかぎらねぢや。昔がら、ただりもつけあ、他人からこね、て、しべ。わも、そもてらね。なぼ、やばつくしてほどしても、ふとがら、ものとたり、はめだりひばまねでばな、て、おやがら、きつぐおひらいでいるはで、びぼしているてらどあ、そたごと、しねばて、金持ど、タンパギ あたまるほどきたね、て、しべ。だはで、そたごとして、もげでも、死でもていげねベせ。なも、わも、よげもげねふても、わらはどばそだでで、よめねけだり、もらたり、親ば苦めひねで、だみだして、世渡りして行くこたあぢゃ。

おらけのくにあせ、十万年もめのよねせ、西北から渉つて来たものどあ、わだの、なだの先祖だど。山靼てし國で、支那の北ねある國だど。この國のもごね、髪あ紅げふて、まなぐあ青い人あ、混じやて居だもだど。なでも、ギリシアだのエジプトだのてし國だば、住でるてらどあ、みな紅げつづれ髪ど、まなぐの青いふとばれだど。これどもおらほさ渡ってきたもんだど。

それどのおがむ神様ねせ、カオスだのルガルだのラーだのアラーだのエホバだのてし、神様あるども、今だば、だも拝でるふとあ、いねぐなてまたど。んだばて、おらけほちやきたもだば、いまでもアラハバキの神様さ、まじやて拝まいでるでばな。

寛文二年十一月七日
右、語部・語邑・帶川貞作、口説

是の如く語部に遺るる傳説、その話題になるは多し。依て丑寅日本史は今に遺りたり。

語土版に曰く(さりぎのばさまもてる)

天文三年五月三日
えるまのそよ

語口傳に曰く(語部帶川傳七家傳)

此の國はせ、岩木山ど大里あ、ふとじにでぎだもんだど。岩木山がなもねじぎ、大里あ、がっぱと海であったど。いまの宇曽利も三角だ島こであたども、宇曽利山ど岩木山ど八甲田山でぎで、宇曽利ど糠部あ着でまたど。

人の先祖あ、西北のほづがら渉て来たてらどあ、岩木山がなもねじぎきたはで、岩木山できる前のそごだりあ、湯こ湧いだり、あそべヶ森てし、平らだ野山であたど。したばて、この森こあ、地震起ぎて、地あ割れで、火泥あぼうぼうど爆發して吹ぎあげて、そごだりに住でいだ人あ、みな火泥さ埋まて、骨こも遺ねで焼けでまたど。

一年も二年も、火ど煙あ吹いでアったけやあ、十三がら行丘だの大浦だのさめで、續いていだ海あ、にしてまて、果てめねだぎ今の大里あ、できだもんだど。づんぶ、古しじぎの話こだ。このじぎ阿闍羅山だの白神山だの東日流の中山だのね、いだてらどあ生ぎ残って、あらけあ子孫あ、やつと遺つたど。岩木山もふどげりね今めた山ねなったでねど。

なんかいも爆發して今の型ねなったもんだど。南がら山のてぺん見れば、三つねめるべ。まんながはせイシカで、左あホノリで、右あガコてし神様いるごとねなたど。岩木山ごと北がら見れば、峯こあ一つねめるべ、これはせ、アラハバキてし神様が三つの神様ばふとつね信仰さひるね、あらわしたもんだと。岩木山のてぺんあ、三つねめるどこね住でるものあアソベの人。ふとつねめるどごね住でるふとどば、つぼけの人とよんだど。

なんでも、東日流さ人の先祖あ来たじあ、日本ね、人こあふとりもいねじぎ、山靼がら氷の舟こさのて来たもんだど。山靼てひば、じんぶ國あ、おきどこだど。だども、この國あ、山のしがまとげで、風あつゆぐなて、なも雨あふねぐなてまたけあ、土あ粉だけねなて、人のいだどさ、赤土あ、 むったど降って、木も草も埋まてまて、けだものだの鳥だの、なもいねぐなてまたど。

それば、せもつにしていだふとどあ、これどば、ぼてきたどこあ、樺太だの千島だの渡島だの、そしてこの東日流さ、きたもんだど。なでも、古し語木だの、語石だのみれば、十萬年も十五萬年も前のごたど。こして先祖どあ、むったど渡つて来たもだど、山靼の北だば、しがまどしばれあきつふて、夏ねなても、土の底あ凍で、人あ住でいらいねどごだと。

でったらた象あいで、一尺も長げ毛生いでるものだの、犀だの馬だのベゴだの鹿だの、てっぺいだばて冬越あなねはで、こちやあ来たもんだど。神様の信仰深ぐ、なんでも拝むだど。神様もかぜればづんぶある。

ま、いついつならべれば、きりもねぐよげあるでばな。こして神様、拝がむも、型こねなたじあ、あどがらで、じっと昔だば、天だの地だの水だの木だの山だの海だの岩だの石だの川だの沼だの山の湖だのば、一切おがんだもんだど。

明暦二年五月廿日
江留郡語邑之住
帶川傳藏口説

是の如く語部の諸傳に曰ふ如く、代々に傳ふる歴跡ぞ東日流に遺れるを大事としべきなり。次には、古代を記せる神に逑ん。

語部祭文語印に曰く(荒吐神社藏)

此の國を住み治しめし祖人の代々に渡りて、草刈り土掘り木を伐りて、橋な架け道通し拓き、秋に捻りし木草實を採りて朝な夕なの餌としのぎ、奉る神なる天地水の惠におろがみて生死の中に子孫を遺し来たる祖々子々孫々の移身に、人の歴史を遺し給しき。

丑寅の日本國はその往古を語部の語印に遺し、實相をあやまらず今世に傳へ給ふなり。此の國に人ぞ渉りて十萬乃至十五萬年、世々に安らけく民交りていさかえなく、古けき世をばうらはらに倭國のなりてより乱し麻の糸解難く、康平五年の一期に似て日本將軍の星は消光せり。

然るにや、その遺星ぞ再興し、茲に東日流に安藤の契りに起りきなり。安藤とは安倍氏・藤原氏の事なりき。安倍氏は姓を改め安東氏を名乘りけり。安倍厨川大夫貞任が遺子・安東太郎十郎髙星丸が乳兒にして東日流平川郡藤崎の地に落着し、一族を再興ならしめきは天運にして、その子孫になる海運商益の實を挙げたるは子孫代々の営みし安東船なり。

支那は揚州に、山靼は黒龍河口に往来し、一族は黄金の國なるジパングを世界に知らしめたり。古きよりあらはばきの神を祀りて代々の信仰、斉きおろがむは神なる全能の神通に惠遇し給へきこそよけれ。

文治二年八月七日
かむいおかのごみそ
秋月辰治郎傳

是の如き語部諸傳ありき。丑寅日本國なる古代歴こそ奥州の實史なり。後世に於て南部氏・北畠氏・大浦氏らになる偽造の史傳まかりたるに依りて、今になる覆史と相成りぬ。然るに、天知る地知る己が知る可諺の誠やあらんに、眞實なる史の顯れいでむらんや。丑寅日本國、五萬乃至十萬年。

語邑作太郎語部口傳に曰く

今の世中せ、うそしねば、あらどねかて、あぐどめねぐなるまで、ぼらいだり、ぼのごつかまへで、てっペぶたしけられだり、もの喰へねで、ろさひるべ。語部あ、本當のごと、さべらいねば、飯喰ていがいねぐなてまたぢやあ。

あれどやたごと、まなぐさなも見ねべし。耳さ聞がねべし、さべねばいいふとだども、これだは、相内の山王坊の猿めたでばな。大浦のてらどだの、南部のてらどあ、おらけさ屁ふかげで、臭ぐねてしねいもだな。歴史も本當のごと傳へねばまねでばせ。だ、かまりかんでも、臭ものあ臭せし、臭ぐねものあ臭ぐねでばな。

いこね唄こだけね、人ば笑ひね作るもだばいばたて、歴史ば曲げで、なも知らね子孫さ、おひらいねでばな。そでごひんが。弘前のぼん唄ね、

〽おらけあ知らねばて松前の話
 しらみああぐかえで後生願ふ

〽ねまてもたてもでげもの糞そそべだ
 じこでもばばでもたねぐなる

〽仕事あけねふてよめあいびられる
 びっきばもでねばぼたぐられ

〽あやでもあぱでもてげだものあてげだ
 おやのちうげど□よごしもの

是の如く唄でさえ本當なる意を傳へ唄ふるに、世の日進月歩にある權者世襲にては尚曲史たり。

寛政五年二月四日
秋田孝季

荒吐神要源抄

日本國之國、坂東より丑寅を曰ふ。人跡十萬年乃至十五萬年の古歴に在りて、古来よりアラハバキイシカホノリガコカムイを信仰す。國土・國民能く治まりて七族併合し、亦信仰も一統にして、更に西南に皆人相渉りぬ。依て坂東より西を倭國と稱しその國主ぞ耶靡堆王・阿毎氏とせり。

今より二千五百年前に支那玄武方より稻作渡来して東日流及筑紫にその實耕を相果したりきも、筑紫にては南藩民航着し筑紫を掌据せり。天皇記に曰く一行に記逑ありきは、髙天原とは雲を抜ける大髙峯の神山を國土とし、神なるは日輪を崇し、日蝕・月蝕旣覚の民族にして、大麻を衣とし薬とせし民にして南藩諸島に住分せし民族なり。髙砂族と曰うも元来住みにける故地は寧波と曰ふ支那仙霞嶺麓・銭塘河水戸沖・杭州湾舟山諸島なる住民たりと曰ふ。

筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして全土を掌据せし手段は日輪を彼の國とし、その國なる髙天原寧波より仙霞の靈木を以て造りし舟にて筑紫髙千穂山に降臨せし天孫なり、と自稱しける。卽ち日輪の神なる子孫たりと智覚を以て謀れるは、日蝕・月蝕の暦を覚る故に地民をその智覚を以て惑しぬ。

例へば天岩戸の神話の如し。當時とては耶靡堆に旣王國ありて、天孫日向王佐怒と稱し耶靡堆王・阿毎氏を東征に起ぬ、と曰ふは支那古傳の神話に等しかるべしと天皇記は曰ふなり。

この以前より東日流より琉球まで荒吐神の民に渉れる信仰ありて、丑寅より東日流中山・飽田・仙北・閉伊安日山・伊治水門・最上の庄内・岩城の白河・坂東の大宮・越の立山・加賀の白山・出雲の荒神谷他、出雲の山田・那古の床滑・耶靡の三輪・紀の尾崎・伊勢の内宮ら、今になる倭國神に改めらる要處。皆、古きは荒吐神の祀らるる跡地なり。幸なる哉、今に跡ぞ絶えざるは坂東の武藏・陸奥の多賀城らにては存在しけるも、元なる信仰に非ず、いよいよ失逝くを憂いむ耳なり。

荒吐神とは、要に復雑なる他神集合の修成されたる神格にて解難なれば、古代より奥深きを智覚とせず唯一向に唱題するはアラハバキイシカホノリガコカムイとて、一心不乱に行ずる信仰の信念になる他、根本に審すは神の御心に逆罪すと祖傳たり。依て茲に復證の為に、その要源を記し置きぬ。

大古なるシュメールと曰ふ國あり。ルガルの神を祀りて宇宙の運行・日輪になる日蝕・月になる月蝕を説きたる無上の實相を、吾等が神とて奉り斉きおろがみてより、此の國を日本國とぞ國號す。古代メソポタミヤなる今は失せにし信仰の日輪神なり。亦加へて今は一人の崇拝なきギリシア國のオリュンポス山の十二神、首都なるアテネのパルテノン神殿に祀らる女神アテナ、その上なる祖神カオスに創まれる宇宙の創造ぞ、無なる時空に神火の爆裂を以て宇宙に星々億兆の數に創給ふはカオスの全能なる神通力とぞ入れて荒覇吐神の修成に入れたり。

卽ち古代オリエントの神々をして、山靼をして吾が國に渡りたる紅毛人等の傳へし神々、エスライルのエホバ神、アブラハムの神々、エジプトなる神々、ラー神・アメン神、シュメールのルガル神、ギリシアのカオス神、支那の西王母神、天竺なるシブア神、山靼なるブルハン神らを修成なして一尊とし日本國なる國神アラハバキ神とせしは古代なる祖人の傳へし吾等の一統信仰にありき神なりと、今にして絶えざる信仰の根張り強き神徳なり。

世の流轉にして古きは滅び新興の建つるはよけれども、祖起の基にありきを忘れまずや。荒吐神の要源は是くありけるを至極せむは子孫に神をしてあやまらざる戒めを求べ置く為のものなり。浂等、神を己心に都合して創る勿れ、と戒む。

天正五年九月一日
行丘邑髙陣場住
北畠顯光

奉神信仰之誠

吾國之信仰は宇宙なる創り、地なる創りそして水の一切に創まれる萬物生命誕生の實相を求極し、人祖の歴史をたぐらんとて茲にアラハバキイシカホノリガコカムイなる信仰ぞ生じたり。

人の創は猿猴の如くあるより智能は啓發し、人と成れる過程にありて代々子孫を經にして成れる生ものなり。されば人はもとより一種の蘇生なれど、住むる風土にて変異せり。目に付くは人の肌にして白肌・紅髪・青眼のものと、黄肌にして多産分布せしは吾等ブリヤート系なれど、黒肌にして多産たるはケニア國に生々す。彼の長老らの古傳に日はしむれば是ぞ日輪と大地と水の三要風土にて異にせりと曰ふなり。

元来の人間は一種なれども、是く食生、是く陽光、是く水質にて成長の進化を異にせるは、諸學士の一致せる博學の定説なり。萬物亦然り。一種より分岐し多種類に存在せるは、草木魚貝虫鳥獸及び眼に見えざる黴生の菌種の藻苔菌らとて是の如し。

抑々我が國は大古にしてわだつみの底にありきも、地水の底なる大火泥の起動にて、地は動かざると見えて動き、陸は海に没し、また海底水上に隆起せるを異界を為す。吾等生命とて短命より長命に生死の差に至るるも、自覚請進化に依れるものなり。生命は一刻として光陰を空しく渡る勿れとぞ人祖より戒しむるは、心身自覚の進化成長を子孫に亦己れに叶い給と、天地水なるアラハバキカムイに念じ来たるは、信仰の誠たり。

神は人に左右されず、亦創られるなし。神は神にして相のあるべきものに非ずとも、風の見えざる如く、空力見ざる如く、電激の見えざる如く、香の見えざる如く神は實在すと曰ふ。人は己自の千惠を以て神を作り神殿を作れども、石は砂と砕け木は朽ち、土に焼きて作るも割失す。神なるは是の如く非ず。久遠に金剛不壊にして、萬物を育む光熱となり寒凍となりて大地を作り海を作り、是に逆罪するものを天誅せり。報復また然なり。

依て神を抜きたる人生は、未残らざる人の意左右叶はざるものと、誠を犯すべからず。能く神の全能なる神通力に從ふべきなり。古より人間が聖人とて悟道に論じ衆に説ける論々、 須く空にしてその源点ぞ砂粒も無かりきなり。亦國王たるを神とて衆を制惑せるも、大罪なる冐瀆なり。神とは一切なり。吾れこそ空にして、神なる身體の授けらるなくして、吾も亦相なきものぞと覚つべし。

依て人の説ける立宗教とて眞理に非ず。信仰に為しべくは天地水の一切を神と奉り、心に斉きておろがむこそ信仰の誠なり。己が謀りし己が墓、人の世にある生々の巧にありき位牌なんぞ滅後の功徳とならんや。死は再度び甦る新生への門出にして、遺骸は地水に歸して無上の葬儀なり。

寛政五年十一月二日
秋田孝季

不信仰遺廢虚跡

紅毛人國の大古になる神祀の跡ぞ巡脚せるに、古代ギリシアなる石造の神殿をアテネ古都にパルテノン神殿・オリンピヤ諸岐場跡・古代エジプトのファラオ石築神殿・王家の墓跡、亦古代メソポタミヤなる神殿跡たるは皆々荒芒たる黄砂に埋り、また石築の崩れに修理なく只一人の信徒是無く、巨大なる築骸を今に遺しぬ。

一人の王に依れる征々、その地にて住むる民を奴隷とし重労なさしめて築かしむるも、今にしてその歴史の彼方より復しことぞなかりけり。天竺になる佛陀の遺跡また然なり。人は神を造りて久遠ならざるを巡察して、余の心ぞ栄華是空の想を痛感してやまぬ。民を輕んずるものは王とて威落の因となり、眞實の神ならざるは久遠に保たれず、天然の威に滅ぶを覚りぬ。

モンゴルの民になる古代信仰ブルハン神を崇むものは、墓とは大地一切にして、人耳なる墓ぞ末代に残存を遺すは、その甦りを防ぎ冥界より此の世に蘇生叶はざる行為ぞと地老は曰ふなり。是くあらんと余も肝に銘じたり。民に能く渡りたる信仰ぞ末代に遺れども、民に惨労税負の信仰ぞ遺らざるなり。依て荒覇吐神は世に萬年を通じて今に遺れるは、吾が丑寅日本國神になるより歴史の深層やあらん。

寛政五年十一月一日
和田長三郎吉次

信仰卽安心立命

世の中の進むに連れて宗教も変わり、博學も加はりたる末代の宗教とならんや。世襲は変わる、王は大衆の決に治世せる世とならんは近けり。何故ならば、神は人をして上下を造給ふなく一人たりとて生命を平等に與へ給ふ故なり。

古来より陸に續きたる丑寅日本國を化外地とし、住むる者を蝦夷とせしにや、倭史とその權政の末代はなかるべし。とかく世に會ふ人心に下眺の位にある者は、神と異なり政權掌据に固趣せんとして諸謀をこらしむは、平等自由たる民主權の世となりても權政の權力や欠くることなし。

神をして信仰せるも、導者にその意と同じからん出づるは、初心を忘れおごりに更ける故なり。抑々信仰に導者たるの級を造るべからず、求道に長き歳月あれども神をして業となせる神通力の感得せる者はなかりけり。

正平七年八月二日
安倍太郎盛季

古代オリエント旅状記略

古代アッシリアに五千年前に崇拝されたる神は、ルガル神・ラマキ神なる信仰にはペルセポリス遺跡に傳らるは、ペルシア語・バビロニア語・エラム語になる多民族になる神話ぞ多し。岩石土版に遺れる語印ぞ、吾が丑寅になる語印に類似なし、古代シュメールの歴史を語れる語印なり。

メソポタミヤを流るチグリス・ユウフラテス河をして古都遺跡ありてウル・バビロンニア・アツシュル・ニムルド・ニネベの五都の古代遺跡ぞ今に荒芒として遺りぬ。ウルには瀝青の丘あり、是ぞヅッグラトと曰ふ古代都なり。

五千年前より金の鎔鑛・産金の岐ありて、金工の工師ぞ旣に存在せり。黄金に飾られしシュメール人も吾が丑寅日本國に山靼人と俱に渡来せるより、金銀銅の採鑛は吾等が祖人ら是れを修得せりと曰ふ。またマーシュランド地方に見らる葦の家屋マディフとは一本の木材を用いず只、葦を束ねたるものなり。

此の國は古代より農耕ありて麦を造畑せりと曰ふ。ウルに創まれるその後なる都跡はエリドウ・ラガシュ・ウルク・シュルッパク・ニリプールなり。チグリス・ユウフラテス河添へにはバビロン塔が築かれたりと曰ふ。

ウルの古代を今に遺したるヅッグラート跡は砂に埋りたるも、運河跡軒を並べたる人家、今にしてバグダッドの人々はウル王代々の墓を盗堀して髙貴なる黄金の副葬品を他國商人に賣却せりと曰ふ。

ウルク王ギルガメシュやアッシュル・バニバル王の叙事詩に依る古代神話の數々と宇宙天文の智識ぞ、世界の創めなる學文なりきも、ニネベの戦にてニベア・バビロンニアの連合せる軍にて跡型も残さず崩滅せりと、地老は語りぬ。

吾らの旅に次なるオリエントのエジプトに赴きたり。古代エジプトなるラムセス王の遺せる遺跡をカイロの古老に尋ねたれば、その歴史ぞ遺跡に見巡りて驚きぬ。此の王、自から神と自稱し臣の崇む活神王たりと曰ふ。エジプトとはナイル河添へに領土あり。上エジプト・下エジプト・ヌビアに至るナイル河の農耕民に支えられたる王なり。遺跡はカイロ・テーベに渉りて多く、なかんずく眼に入るはピラミット、スフインクスの築造物也。セテイ王の王家の谷とは累代王の墓跡なり。

エジプトの神とはホルス神・アヌピス神・エスシ神・ソカール神・ラー神・アメン神ら多彩なり。ラムセス王に仕ふる重臣にパネヒシー・セタウ・ハームワセト・ロイの忠臣あり。此の臣下に依りて古代エジプト王朝を支えられたり。その遺跡にてはカルナック神殿の大列柱室殿・アスワンのベイトエルワリ神殿・タニスのネバムン神殿・ヌビアのアブシンベル神殿・ルクソール・ケルエフの神殿らあり。パピルスと曰ふ川辺草にて紙作り、語印を以て記せる史書及び神典には、死者の書あり。生死は新生に廻るものとて説きぬ。

次には古代オリエントなる神の國ギリシアに赴きぬ。古都アテネに入りて目に触るるはアクロポリスにそびゆパルテノン神殿なり。その神殿の軒に彫まる神々の像を見仰ぐれば、古代二千二百年前に築造されたる白亞の遺跡なり。古代ギリシア國はエーゲ海の半島に位置せる國土にて、地質は肥ゆなく、ブドウ・オリーブ・牧羊になる國なり。

然るにギリシア民族は天才奇人の生まれたる秀なる智識のありき民族たり。平等を一義とし、神を崇めその信仰に依りて博學に徴したり。宇宙の創造をカオス神の爆裂になる光熱に依りて宇宙は造られ、今になる星界天體の創めとて宇宙の星坐ことごとくギリシア神にて構成されたり。神々の多數にありて神話ぞ亦多し。ギリシア神をしてラテン語・ギリシア語にて稱さるの異りあるも、神にして同意趣なりと曰ふ。

など多神に各々残り居れり。ギリシアに於て一大事たるはペルシヤのペルセポリス王がアテネを海に攻めたりきも、ギリシア軍は全滅せり。ギリシアに髙名なるはペリクレスなり。更にはソクラテス氏及びプラトンらの才あり。ディオニュソスの野外なる劇場あり。亦これらの築材たる石はペンデリ山より切出せる名材たり。神々はオリンポス山なる神ぞありて、吾が國に渉るは此の山なる十二神なりきも別記ありて省略す。

天明二年五月一日
和田壱岐

右は老中田沼意次への報國書二十二巻之中より抜きたるものなり。

明治四十年八月二日
津輕飯詰邑住人
和田壱岐子孫 末吉

唐天竺山靼旅状記略

二千年前佛教の中心地となせる天竺國のサーンチーは、古代佛法のストウーハ遺跡遺りぬ。石に彫られたる佛陀の誕生以来、求道と悟りに至れる物語にして數限りなく存在せり。クンブメーラ祭は天竺の民俗のヒンズー教徒の祭りなり。

古来此の祭りはガンズス河にて身を清むる行事にて、天竺にては婆羅門より佛陀の教へぞ盛んたる故縁にありて、サールナト遺跡もまた佛陀の根本遺跡なり。是ぞヒンズー教徒の本山たり。天竺に佛法の遺跡はヒンズー教と俱に在りてアッサカ・アブアンテイ・チェーデイ・マガダ・アンガ・ブイデーハ・カーシー・ブアンツア・ジューラセーナ・コーサラ・マツラ・パンチヤーラ・クルカンポージヤ・ガンダーラと相渉りぬ。

佛陀は天竺諸國を説法し、八十歳にてクシナガラにて入滅せり。 ストウーハに遺る彫像の中には佛陀の御相はなく佛足石・菩提樹・轉法輪・ヤクシ女神・ ヤクシヤ男神。是を施奉せるはサータブアーハナ王にして

と記されり。クリシュウナ川にアマラーブアテイーあり。此の地はローマに通じ、キッパロス航風にて交易あり。インダス河口・バールカッチヤ・アリカメドウ・ガンジス河口に寄船湊を開きぬ。然るに此の交益にてアマラーブアティには巨大なストウーパ跡ぞあり、天竺一のものたり。

デカン髙野には更に多くの遺跡あり。亦、ナシクにはヒンズー教徒の多きにも、佛陀のナーシク石窟寺院ありて壮大たる遺跡たり。カールレー石窟寺院も亦然なり。是ら何れもストウーパ崇拝たり。

此の地に多くのギリシア人の歸化あり。その證としてタキシラ卽ちガンダーラに見らるなり。古代ギリシア風なる遺物多し。ビーマラーシやその他に見らるガンダーラ獨特なる佛陀像はギリシア風とて創まれり。然るにローマ帝國の崩壊となるや、佛陀の崇拝も崩れ、天竺もとよりのシブア神を祀祭と移れり。

エローラのカイラーサナータ石窟寺院には佛陀のストウーパはなく、唯一向にリンガ卽ちシブア神の一向信仰へと移りぬ。天竺最大の聖地ベナレス卽ちブアーラーナシーにては佛陀の教へとヒンズーとの混合信仰たり。ブイクラマシーラの寺跡はアラビアのイスラム教徒にて史跡を破壊さる。天竺史は余の一生懸けにして餘りあり。天竺篇をこれにて了筆す。

次には唐國なり。永平十年、三藏法師に依る天竺佛法受入の旅に歸り、長安に白馬寺を建立と相なりてより、古代支那になる西王母及び女媧・伏羲神の永崇も、佛法は優位を抜きたり。唐國には爾来、佛法遺跡多く遺れり。天竺に起りしゴーターマ卽ち釋迦牟尼が説きたる佛は、チベットにダライラマ教とて遺り、支那には大乘教として渉りその一法より天台宗・眞言宗・大日宗・倶舎宗・禪宗・念佛宗・法華宗・律宗・法相宗・臨済宗らの宗派にその傳方を今に支那耳に留まらず三韓そして倭國に渡来せり。

支那にては天山の南路・北路、亦崑崙の連峯になる麓にぞポータン遺跡・ニヤ遺跡・ミーラン遺跡・樓蘭遺跡・敦煌遺跡他、黄河流域・揚子江流域に數多き佛法遺跡を今に遺せり。山靼に佛法の渉るはダライラマになる佛法にして渡りけるも、地民ブリヤート族諸族は祖来の神ぶるはんの神を崇拝して他教の弘まらざりきも、紅毛人國の神に感化さる。

天明二年五月一日
和田壹岐

自意丑寅史遊記 一、

歴史の根元を探るは、先づ論より巡見掌据して實相に疑なるを解く。依て如何なる困難障害ありとも、我等は萬里に果つる紅毛國への旅をも果したり。井の中の蛙、大界を知らずとは、史跡に訪れるなく他讀得するのみにて、その羅列行語を私意に論ずるはおぞましき思考なり。

歴史の實行記は永き訪跡に巡り、萬證を得て記るさざれば、古史の實に證なき架空物語なり。倭史の神代さながら、實に遠きは信じるに足らんや。吾が國の外にては絶ゆまず進歩し、歴史を語る語印を記録せるを同じくして、丑寅日本國にても旣に古代流通ありて、東日流にては語部の語印を以て歴史を綴り置けり。山靼を經てはるかなる紅毛人國にまかりて、古代オリエントの略史を綴りたるは吾等の他にありまずや。

人の生々に吾が民は三百年の時代進歩過程におくれ、是を無視せば彼の他國民に植民さるるの憂あり。茲に民族髙等の開化改新せざれば、ユダヤの如く故國を失ふるなり。依て茲に自意乍ら吾が國を異土の開化にくらぶるの諸事・諸課の科學化學を説き置かん。博學の師を紅毛人諸氏・地の老人とし、諸國を巡脚聞取の旅に三十五年の歳月に盡し、我等の脚跡は古代オリエントを横断して遺したるは、我等の歴訪なりき。

古代より戦の絶えざる紅毛人國の諸國に見らる城畳あり廢墟ありて、その歴史の複雑きわまりなく、彼らになる救済の神より吾等が祖先の入れたる山靼流通にて渡来せる神の國を訪れ巡りぬ。彼の國は商道の盛んなるに貧富の大差あり。富める者は十人の女性を妻とし栄栄に更けるより、乞食に至る甚々しき級位あるが故に民逆の戦起りぬ。然るに吾が國程の封建はなかりけり。

天明二年五月一日
孝季従卆者 田川小三郎

自意丑寅史遊記 二、

ラマ教、蒙古に傳はるは七百年前の事なり。天竺の釋迦牟尼に依りて説かれたる大乘と小乘の意釈はなく、チベットに佛法入りて千三百年を經てラマ教たるチベットとは、上なる人なるの意を併せし意趣なれば、佛法渡来しけるも佛法僧ぞラマ卽ちチベットにある人の信仰の上にラマを位置付けたり。

卽ち佛法と異なるはラマは佛法の上にありと説けり。戒律はラマにして妻帶を禁じ、生死は轉生にして必ずゲゲン卽ち甦えるとぞ曰ふをホトクトと稱せり。かかる理想にて蒙古に宣布せしはダライラマにて、ソブラガ卽ち佛塔ぞ各處に建立さる。

蒙古國に住むる民族にては、原住祖民系なるハルハ族、山靼系なるブリヤート族やドルベド族、 アラビア・トルコ・ギリシア混血系なるカザフ族等にて成れる民なり。ギリシア神カオス・地神のブルハン・天山天池の神西王母及び女媧と伏羲等を祖来の神とし、その聖地ぞオルホン川平原にありきと口ふ。

チベットより僧来たりて今に遺る佛寺ぞオブゴンヒート・エルデネゾ・キルギス・アル及びトブホン・アマルバヤスガラン寺ら遺りぬ。古来蒙古民は定住なく大平野を渉りて馬飼ふる故に、一刻に建て亦解くるゲルと曰ふを住家とせる多し。

吾が丑寅日本國に種馬亦却精手術を傳へたるは卽ちモンゴール族なり。馬乘岐チヤバンドウ唄は、陽落亦はコルデントら、わが國にては追分とて唄はれたる元唄なり。

天明二年五月一日
孝季従卆者 田川小三郎

陸羽祭事記

古来、荒吐神信仰之神印は○△―の印なり。依てこの神印祭りありて代々に傳統し今に遺りぬ。

〇印は宇宙にして天を意趣し、その代表たるは日輪なり。地語にしてイシカカムイなり。神に捧ぐる人なる行事にては、圓田に植ふる稻より得たる飯米にして秋に捧ぐ。△印は大地の一切にしてイオマンテ卽ち神への生贄を捧ぐ行事あり。カムイノミを焚きて添いて舞を奉納す。大地の神を地語にしてホノリカムイと曰ふなり。―の印は水の一切なり。卽ち火流しの行事を以て為す。藁しべ火流し・ネブタ流し・とこよふなながしらありて、夏中に行ぜり。是れを地語にしてガコカムイと稱す。

卽ち天地水の神に祭る行事をして今に遺るはカムイノミに創まれるネブタ、圓田の豊を祈る稻灯、子孫繁榮を祈るオシラ遊祭など、多きなり。

文化元年十月二日
豊田与作

議嶋大臣蘇我馬子編天皇記國記

推古天皇二十八年より三十六年に至りて天皇記及び國記を編纂。天皇記全六巻、國記六巻を筆了せるも天皇崩じ、是を馬子奉持してより倭國一統の葛城王、五畿七道を權据す。

依て三輪蘇我郷にありし馬子と併せし王朝を奉ぜしは日向王磐井彦・春日王和珥氏・筑紫王奴氏・國東王大元氏・日本國王阿毎氏・日髙見王多利思彦・坂東王阿輩雞彌氏・越王白山神王家六衆及び九龍氏・九首龍氏・三輪氏・犀川氏・出雲氏・河内王別和珥氏・那古王竹内氏にて、是れに抗したるは陸羽日本國の豪氏・巨勢氏・平群氏・紀國の熊野氏・尾崎氏・朝熊氏なり。

卽ち葛城氏・蘇我氏に依る併合に警鐘を打きければ、遂にして大化乙巳の乱起り中大兄皇子、甘橿丘に蘇我氏を討伐し天皇記・國記を奪取せんとせしも、その將士船史惠尺、是を探得られず焼失と断定す。
右は大寶辛丑年小角傳より。

元禄十年八月三日
伊予記

荒覇吐五王之事

抑々大祖を山靼にして此の國に渡来し、十五萬年の子孫分を經にして、丑寅日本國・倭國・奴國・薩陽國らに殖住ぬ。古代なる人の歴史にては諸々の國史ぞあれども、遺し傳ふる語印ありき民となかりき民にて古のしるべ有無す。

荒覇吐五王とは荒覇吐神に一統信仰をせし國と民なる王にして、聖王・副王・西王・東王・南王・北王一如と相連らねて國治せる王國を曰ふものなり。われらが國は北に東日流王・南に磐井王・西に越王・東に閉伊王ら、日本中央に在りき聖王と副王を補佐し五王一如の國政を以て君臨せしを曰ふ也。

凡そ日本國は丑寅より人孫ぞ植え住ぬ。國に幸あり、山海は豊けき國たり。世の移りに人殖ゆまま國の州なるに、生々の故に人は爭ふるに至れり。惨たる國域の爭奪をして後、農耕至りて富めり。人心また睦みを泰平とし、侵す者を反逆として誅伐の防人備はるより、復た國盗の爭奪起り常に人の歴史は血塗られたり。安心立命を祈らむ民は救済を神に求め、人は心の善惡をわきまえて信仰を心に固持せる世と相成るも、權謀術數にある者、上に在り、下に在りける民を税貢に以て苦しめたり。抑々、善惡は巴の如く人世にありて歴史を今に尚変らざる也。人は人を裁き亦、惡政非道は盡きざりき。信仰亦、諸神各々心に造り、衆を惑はしむ在りて、律を掟めぬ侵敵あり。野盗起り、世は常に風雲急を告げたるに、遂にして武威備はしむればその勢、政事と相併せ、只苦しむるは民なり。

荒覇吐王より安東將軍と相成り、更に日本將軍とて丑寅日本國は護國せども、一族に反忠あり、内乱相継ぐるに民族遂に起つて民族皆兵と相成りぬ。康平五年をして丑寅日本國主は敗れ、茲に東日流に一族の再興に武業を離れ、異土の交易に益を利し、安東船は商易に挙げて世界に流通せり。倭國にてはただ國の内なる權政に謀りて、凡そ大界を知らず。ただ權謀術數の脱皮を解かず、暗雲去らざる戦國の世ぞ限り無く續けるなり。信仰に邪教あり、徒らに立宗の支派暗にはびこりて、救済の法處ただ無常なり。変らざるは荒覇山神耳也。

正平二年八月十五日
大光院仙行法師

日輪神社之由来

奥州紫波郡矢巾邑日輪城内に鎭座せる日輪神社の奉斉に日輪田ありて、圓畦を施せる稻田ありき。古来より荒覇吐神に供へ奉る圓田にて、畦の長さ三百五十尺の日輪田に添へて三十尺の月輪田を神田とて耕作し神無月の十日に日輪神社に奉納せる習なり。

卽ち、陰陽の二柱荒覇吐神なる陰神・陽神のイシカカムイに捧げる 新米の祭祀なりて次の如し。


日輪田、畦、陽心/月輪田、外畦、内畦、陰心

今にして古代なるはなく、ただ圓型に耕作せる耳なり。亦、日輪神社は徳田神社とて異神也。

寬永丙子年九月一日
鳴海安十郎

日輪石神聖地之事

山峯に、亦平原に海浜に、能く日輪芯石を建てその東西南北に置石せる日輪刻影計石を宇宙圓堀を廻らせし中圍に施築せし跡ぞ、渡島・日髙・丑寅日髙見諸々に見らるるは、三千年前になる古人の宇宙運行を拝し、亦その神に殉望せる者の骸を埋めて入魂せしイシカカムイのヌササン跡なり。

依て是、古人なる墓地とぞ想ふべからずと語部に傳ありぬ。人の望とて神に自から殉じて、日輪刻影計石に生埋さるの因習を除きたるは卽ち、日輪田及月輪田の陰陽田の祭事と相成りぬ。是を排斥せるは安日彦王にて、自からその因習の地を巡りて禁ぜりと曰ふ。

米代川・馬淵川・北上川、大三流の分水嶺を安日彦王の結髪を切りてその峯に埋めて、是の因習を為せる地あらば吾が魂ぞ大洪水となりて流滅せん、とて宣布してより此の分水嶺を安日岳と今に遺れるも、南部守行是の山號を安比とぞ改めたり。亦、山頂に祀りき荒覇吐神を破砕してその次日、守行討死せりと曰ふ。

寛永丙子年九月一日
鳴海安十郎

おかげ様奉納写/日赤堂御寶前


文政元年十月一日 北浦邑 六十八歳 とめ

丑寅日本國號由来

古き住人の地語にしてイシカと曰はれたるを日本國とぞ坂東より丑寅の地を國號せしは、安日彦王の胤流・安倍安東將軍安國なり。地語イシカと同意趣なり。依て安國が自から日本將軍と改稱せり。

地語イシカとは天であり、宇宙にも意趣せり。卽ち荒覇吐神の前になる神の稱號なり。安東康季の代まで稱號せしは羽賀寺縁起にも見ゆなり。更には、旧唐書・新唐書にも記逑ありぬ。日本國たるの國號にて、倭國と國を異にせるは天皇記及び國記にて明白なり。

然るに此の天皇記・國記ぞ倭朝に無かりけり。大化乙巳の変にて蘇我蝦夷より奪取せんとて蘇我氏天誅に、中大兄皇子の宣を奉じて甘橿丘を攻め蘇我舘に火箭を放つて灾るも、その參謀に當たりたる船史惠尺が火中より得ること能はざりきと世に傳ふも、蘇我蝦夷は是事の起らんを覚りて坂東なる荒覇吐神社に移密保護し置けり。

依て蝦夷の墳墓までもあばかれ、その玄室を風雨に今尚さらされけむ。爾来、奥州を化外外民蝦夷とぞ國號せしは通常と相成りぬ。天皇記及び國記ぞ東奥にありて世に顯れずと世に傳ふなり。
右、坂東記より。

寛文二年正月三日
浅利与之介

耶馬臺國之事

魏の倭人傳に曰く。耶馬臺(壹)國なる築紫の卑弥呼なる神司にありき崇む神なるは大元神にして、筑紫小郡野より國東に至る國領をなせる女王なり。居は邪馬川邪馬渓に在りて、その宮居ぞ常に五千人の仕人ぞ卑弥乎を慕えり。

卑弥乎なる出自にては、耶靡堆の白山毗咩神司の娘子なり。長じて筑紫に渡り、磐井の主・熊襲大葦刈彦の養女と相成り、養父死してより自から男装し政事を執り、女装にして巫女に速変して衆の病むを救いたり。神に信仰深くして衆を化度し、辺國の主より推さるまま女王と相成りぬ。

卑弥呼のハララヤになる仕男・仕女併せて千人なり。能く魏に使者を遣はして、倭の筑紫攻を防ぎけるも、魏亡びてより富を欠きて一族反乱相續き、 王座を去って姫島に隠居し、都度に國東の大元神社に旧臣と謀りて邪馬臺國の再興を謀れども、磐井氏に故領を失ふて亦姫島に籠りぬ。卑弥呼に三人の子息あり。長子を志佐雄、次子を速日子、三男を卑理禰と曰ふ。五十歳にして没し、その遺骸を小牛洞に葬ぜり。

文化二年十一月四日
緒方次郎友永

筑紫東日流往来

筑紫肥前平戸松浦に船舘をかまえしは東日流上磯船なり。船主安東國季、嘉保元年八月より元徳二年に至る間、子孫五代に渉りて交易す。

筑紫松浦氏は康平五年、源氏に捕はれし安倍宗任の胤にて、安東氏との古き縁りにありせば、その流通に障りあるべからず、海産物を以て物交せり。筑紫にての船衆は多く、大島衆・壹岐衆・的山衆・生月衆・平戸衆・鷹島衆あり。

船寄は博多・唐津・松浦・長崎の諸湊なり。朝鮮往来もしきりにて、安東船は馬山湊・釜山湊に寄船し、織物・工造道具を仕入れたり。

順風自對島受追手帆速
潮乘續一天日輪不異海関
世界諸湊深人交安東船

文化二年八月一日
安藤武

イシカ起想抄

古来、丑寅の民は宇宙の運行にかかはる人の生々に受る運命を、イシカ卽ち宇宙にその神秘を求めたり。日輪が没して闇覆ふ夜、空にまたたける星座も春夏秋冬の候に天の位座を異ならしむる運行の謎に、求めてやまざるはイシカカムイのイオマンテ卽ち夜祭りなり。

流星をかたどるイナウをヌササンに捧げ、カムイノミを焚く。そのまわりを女衆らの唄と踊り、 男衆の弓の舞や剣の舞、そして贄えが射られて神への使者となる。神への祈りぞ、三萬年前よりの傳統なりとエカシは曰ふ。

宇宙はカオスカムイに依りて創られたりと曰ふ。カオスカムイは相形もなく、空と暗黒の無質中より一点の光熱を爆裂せしめて宇宙に億兆の星を創り、日月もかくして誕生せるものと曰ふ。

エカシの曰ふカオスカムイとは、ギリシアの神の祖神なり。神の創り給ふ星は、その光生久遠ならず、星とて生死ありと曰ふ。星の死は暗黒星に吸呑さるものと、爆裂して塵となり、その塵より子孫星誕生すと曰ふなり。流星は宇宙に消え逝く小星にして、地に落ては鐡となり、古人はこれをマギリといふ刃物造りたりと曰ふ。

宇宙に神座あり。その星を北極星と曰ふ。古語にしてカムイオテナなり。人ぞ世に生まれそして逝く運命を見通し萬物の生死を掌据せる運命の星、卽ち生々萬物みな乍ら此の星神の全能神通力に采配さるるなりとて、古人は砂漠や海に道しるべとし方位を知りたり。

イシカとは宇宙にして、カオスとは宇宙創生の神とぞ覚つべし。古代ギリシアの神々は今にして人の信仰を欠するとも、宇宙の星座になる稱名ぞ古代オリンポス十二神よりいでませる神號なり。

文化二年六月十三日
和田いよ

ホノリ起想抄

地底を割りて火泥を吹上ぐる火山、熱湯を湧上ぐ温水泉。古人はこれをシチコと曰ふ。ホノリカムイとは大地の一切なりしも、火の神ホゴヂ・土の神モクリ・虫の神ゲダガ・魚の神ジョジョ・鳥の神バタラ・獣物神モコ・貝の神ダンベ・木の神ジヤラ・草の神カポシ・苔の神ネゴ・藻の神ゴモ・水の神ガコ・洪水神イガリ・氷の神シガマなど、一切のものみな乍ら神とせる古代人。地水を母體とて、一日一歩にても動きけるは地水の惠と天なるイシカの光熱ありて生々すと、神への信仰を天地一切のものと和解せる事に従へて、人の生々亦々長久し心に安心立命の悟りを得らるものとせり。

ホノリカムイの全能なる神通力は、萬物生命を創りてその生々一切の調和を謀りてこそ保存さる萬物の生命なりと曰ふ。若し天然の法則を破らば、神の報復を生死に以て轉生を異ならしむと曰ふ。卽ち人にして生じたる者とて、その生々に神の御心に科せるものは、再度び人身をして世に甦ることなしと曰ふなり。イシカカムイ・ホノリカムイ・ガコカムイは生とし生けるものの神なれば、人間とて生ぜし生命の運命をその光陰に空しく渡る勿れ、と祖人は信仰の誠を心に入れ神への信仰とせり。

文化二年六月十三日
和田いよ

陸羽諸傳 一、

黒き鴉も白と言はせむ權政の世に永らいける倭國の實なき歴史を以て丑寅日本國を仮想敵意に史を創り、化外地まつろはざる蝦夷とて征夷大將軍を官位とせる朝廷の奸計に、陸羽の地民は今にして官權の視下にあり。おぞましき科税の蒙る貧苦にあえぎける。

一編の偽になる史書は權者にあらば、善惡を計る天秤でさえ芯の支えぞ狂はしむ。その歴史に遺る陸羽の史實は制へらるままに永きに渉らば、偽傳も史實とならん。倭にして文字なけるも丑寅日本には語部語印ありて、事實明白にして遺るる歴史の根本を見よ。 萬年を過却せるとも日輪は西より昇る誠なき世の移せみなり。

陸羽になる歴史の實相、蘇我馬子が編したる天皇記にありて證する也。卽ち、天皇記を蘇我氏より奪はんとて起りきは大化乙巳の乱なり。時になる蘇我氏宗家なる蝦夷は甘橿丘にて自刃せるも、天皇記は朝廷に奪はれず遂にして奥州に隠藏さるるまま今にして眠りぬ。天皇記、平將門にありしを討伐せしも、亦奪取を得ず。安倍賴良にありとて、前九年の役を以てなせども入手せず。平泉藤原氏にありとて、源兵二十五萬騎を以て落しむるも、その行方知れず。朝廷方にして平泉に焼滅せりと心得ぬ。然るに天皇記は安全にして、神の社に隠存ありきなり。

天皇記に神代なるもの非らず。天皇ぞ萬世系に非らざるなり。天皇とは權者の奉る宣位の主にして、世襲の權者の混血になるものの系なり。天皇記是を實證せるものに付き、是を得る為に呪はれし如く染血にまみれぞ多くの殉者出でたり。

天皇記に依れる第一世は難波の御門にして、俗に曰ふ仁徳天皇を以て初代に挙ぐなり。依てその上になる天皇は、世に非ざると曰ふ。その上になる讃王安東大將軍葛城氏・珍王安東大將軍春日氏・斉王安東大將軍和珥氏・興王安東大將軍阿毎氏・武王安東大將軍蘇我氏とて明記あり。次に筑紫王とて五王の後継あり。出雲王・髙嶋王・邪馬臺王の推挙にて仁徳天皇を卽位せしめ王朝の併と相成れる由なり。されば此の天皇記、後記な皇統史に障りありとて朝廷が挙げて蘇我氏より奪還せんとせしも、ゆづらず。是の如くして凶兆を起さむ。詳しくは、天皇記を讀つるべし。

文安丙寅年十一月一日
筑紫國東 緒方光三郎

陸羽諸傳 二、

丑寅日本三陸になる古代湊は、下閉伊の久慈・上閉伊なる宮古及び山田湊なり。次に大槌・釜石・首崎・大船渡・髙田・気仙沼・志津・追波・女川・牡鹿・石巻・松島・七濱・小名濱にて、是を東海十七湊と曰ふ。

何れも美景にして波荒ぶれど親潮に幸あり。巨鯨吐潮の群を追ふ勇者の出づる湊なり。然るに西海の如く異國船来たらず、異土通商になるは東海にても糠部湊のみなり。西海にては東日流上磯十三湊・吹浦・能代・土崎・砂泻に振興しけるも、倭人の地領進駐ありて爭動常に起りて、泰平時少なし。

文政五年十月三日
大船渡住 金友之

陸羽諸傳 三、

余の儀乍ら六十を越えにしては、山路に登行も息切易く斜に轉倒し、身は老坂にして命脈西山にかたむけるを知る。

さりながら諸國を三十五年の歳月を旅に暮れ、はたごの食膳にも旅楽しき日々の過却も、今にして一朝の夢なり。史跡に地老の話に聞く數々の傳説も記しき遺せる苦心も、ゆすり蚊の如く人に害せねど目障となりきあり。

正直なる記逑にとかく支障出づるなり。例に挙ぐれば元のフビライハンの事なり。筑紫及び倭國にては元の襲来を國難とて怖れきも、丑寅日本國にては救世主の如く崇めたり。元の来襲を決起させたるは、北條氏の愚政に依れるものにして、韓國の三別抄なる警告ありきも対應せざるの失態なり。元の遠政は流鬼國に及ぶるとき、安東太郎貞季自から赴きて揚州流通の對話に例を挙げなして元軍不可侵をなさしめ、凶作に苦しめる丑寅日本の民に彼の兵糧を得て救済せるより、陸羽にてはフビライハン及びマルコポーロを五百羅漢の中に加へて祀れり。

マルコポーロにては揚州の知事たるに、その元軍不可侵なるを通達せる書状を安東船に授けたる故に、朝幕の國交なきにも通商を得たるを知らざるは朝幕にして、後世に是を知りて蝦夷はやはり國賊と曰ふ如く、倭史は西方耳に遺せり。

寛水十二年六月十日
十三湊 磯野三藏

陸羽諸傳 四、

陸中閉伊郡山田湾の湊を閉伊十二湊と稱せしは、閉伊十七湊の十二番に當るる要湊なり。

長久壬午年、安倍頻義またの名を日本將軍岩手太夫頻良、厨川より早池峯山麓を閉伊宮古湾に通ぜる林道を開通せり。時に魹ヶ崎山田湾の入江に美景を感じ、茲に大槌湾・尾崎湾より更に大船渡湾に至る海濱道を抜き、陸前髙田及び気仙沼に至り川崎・衣川に至るる道を開きたり。依て海産のもの、領内に流通せり。

亦この道を鐡の道・塩の道とも稱し、山田の鮭・大槌の鯨・尾崎の鐡・大船渡の鯖・髙田の塩・気仙沼のわかめ、とて産物特産になる名稱を為したり。此の濱邑に米の流通あり。亦、馬産をも飼はしめたり。安倍賴良の代に移りてより衣川を要所とし、日髙見川添を迫より一の迫に至る伊治沼長柵をかまえ倭人武人の大関とせり。何れも多賀にありき官人の警をおこたらざる策なり。鹿島臺を築きけるはその先端なりと曰ふ。

川崎・鳥海・衣川・膽澤・江刺・黒澤尻・紫波・厨川の柵を築きしは、賴良が世襲のおぞましきを餘知に感ぜし故なり。

承久己丑年八月六日、多賀城に不審火あり。御藏庫二棟を焼失せり。是の仕業をして安倍一族の者とて風聞あり。塩釜大郷耶靡堆に垣楯を陣せるを通報あり。賴良もまた迫・一迫・伊治沼に背水の陣を築きて風雲急せり。

寛永十二年八月一日
磯部藤吉

陸羽海濱三十五景

第一画 種差


第二画 種市


第三画 久慈川


第四画 三崎


第五画 黒崎


第六画 安家川


第七画 巌泉


第八画 田老


第九画 宮古


第十画 閉伊崎


第十一画 魹ヶ崎


第十二画 山田湾


第十三画 大槌


第十四画 尾崎


第十五画 釜石


第十六番 首崎


第十七番 三陣


第十八 大船渡


第十九 唐桑


第二十 高田


第二十一 大島


第二十二 気仙沼


第二十三 本吉


第二十四 歌津


第二十五 志津湾


第二十六 追波湾


第二十七 雄勝


第二十八 女川


第二十九 金華山


第三十 牡鹿


第三十一 石巻


第三十二 矢本


第三十三 松島


第三十四 七ヶ濱


第三十五 亘理三戸口


右再筆
明治四十年八月一日
和田末吉 華押

和田家藏書