奥州風土記 全


(明治写本)

石細工神


石塔山御物
ムシケカムイ、オノコカムイ、メノコカムイ、マグワイカムイ
延喜庚申年、飽田堀出

石面神


裏印─イシカ・ホノリ・ガコ・カムイ・ツタイ・オガム/石塔山御物
語部帯川解、延寶庚申年堀出、語邑

石塔山本尊─荒覇吐神


木造像、御丈五尺三寸
朱鳥己丑年、中山所在、正中山梵場寺遺像

山靼流通之記

波江加流湖及黒龍江之神、武流波无神之事

自流鬼国登黒龍江、越興安嶺至波江加流湖。加之靈湖傳稱在神地人是號武流波无神、自大古人毛象毛犀狩獵頃、祀之神為崇拜給、加之神在大神通力大水司神也。神相常変化以明暗北斗聖地為、神座眠湖大河大海凍氷下鎭、亦大雪仙嶺為神座大神也。依古人是大白山神、亦稱白山神兼號給也。

平治元年十月二日
渡島長老 宇奴津加圓、口説

大山靼国見聞記 原漢文也

抑々古き世に、我等の遠祖は山靼の国より渡り来たりと曰ふなり。山靼国を知るべく道しるべは、先づ流鬼国より黒龍江と稱す大河を登り征きて、大興安嶺にたどり此の山を西に越ゆればバイカル湖に至りぬ。湖と曰せども、我が国の西海の如く擴く、山靼の国亦擴し。

此の地に住むる人々の面相ことごとく我等と同じゆうして、部族多けれども總じてはモンゴロイド族と曰ふ。我等と人祖を以て胤は同族なり。

此の地に祀らる神ぞブルハンとぞ曰ふ神にして、北方玄武の大神なる故緣に存す。此の神の神通力は凍氷を以て北方神座を創り、亦髙ける山頂をも氷雪に大白せるが故に亦の神名を大白山神亦は白山神とも曰ふ。

我が国に渡れる白山信仰なるは山靼国より起りき古神なり。龍神亦然なり。此の神なる神通力の由は、全能にして天地水の一切に明暗を司る神と曰ふ。依て天地水三輪の神とも曰ふ。我が国の三輪大神と祀る由緣は是に起源せるものなり。

神なる相は自然にして天然そのものなり。神なる鎭座ますは北斗星にして七変化を以て度すと曰ふ。山靼国の西なるオリンポス山にます座す女神ヒラ、天山の天池に鎭む西王母、バイカル湖黒龍江に祀らるブルハン神ら、これ皆一如の神なりとも世々神稱を異にせるは、代々に変るる人は信仰を異にせる故なり。

寛政六年八月廿日
秋田孝季

山靼国之神、神仕之鳥獣 原漢文也

古きより山靼神に仕ふる鳥獣ありと曰ふ。惡なす者總てを餌食とする饕餮亦は喰人虎、女神なる使、鶴や白鳥、その數ぞ多し。

山靼と稱す大要は、古代オリエントの諸神、萬國に相通ずと曰ふなり。茲に例を以て説かむ。山靼は、支那萬里之長城以北より西北に果なく續きける大陸の限りを稱せしものなり。依て人種相異なりて、興亡の王國ぞ世々に顯れ消ゆなり。

是の如き興亡史に生滅せる神々、その信仰亦多岐に変化せり。依て元なる神を失墜し、改神なる神使の鳥獣を神とせるありて、西山靼なるエジプトの神々に多し。

古来、神を祀るるに天地水の神なる大理を失墜なし、鳥獣神に足らず造獣・造鳥の神像を創りて祀るは諸國の故事信仰の習なり。龍神、然り。亦古代オリエントなる神々に多きは人心の弱きが故なりと曰ふ。

寛政六年八月廿日
秋田孝季

奥州一統信仰之事 原漢文也

荒覇吐石化保野利我古神

古来より人心に神なる信仰起れるは、天地水の異変に依れる恐より創まれり。古き世の山靼に起れる神々の信仰ぞ、それなり。

天に明暗ありて日月星の運行の不可思儀、地に空風震火、水に雨水雪氷の寒暖。總て人心に餘れる異変を起しむる諸難の遭遇安からざるが故に、神なる仕業とや信仰起りぬ。

神なる正相を大自然に想定して、夢幻を諸々に説たる先達に依りて教となり、眞なく救なき邪教亦世に傳統す。人は石また木を彫りて像を造り亦は採色に画きて神とせるを衆に説くを、迷信なれども是に誘れきは古今の愚智なる故に、今以て絶えざるは空しきなり。

然るにや、これを心に入れざる學を以てなせる博士世に出づるより、天なる宇宙の運行、地なる四季の至れる暦法、水に起れる干満の満引ら、地底に密むる火泥の震源を學に説くこそ救世なるも、信仰に入りたる諸人是を神罰とて染まざる多く、衆をして博學士等を誅滅す。

醫學亦然なり。何事も神占に委ぬるを、學士博士ら耐學研極し眞實なるを人心に説き、是を授たる者こそ救はれたり。然るにや諸博學にも亦、先進なる智を以て人を征せるの邪道に入りては、人世の破滅なる質物をして世に遺したり。

依って人は衆を結し民族国造りを為せり。亦自らの国神を祀り是を正かる教導を以て人心に説ける者を聖者とぞ崇めたるこそ諸世界なる諸行諸法なり。聖者に従ふる弟子等をしてその一法また枝葉なして宗を分派し、相爭ふるも宗教なり。

それぞれにして偶像を造りて神とせるは諸國の昔来なり。我等が故人よりの古き世に日乃本國と稱せる丑寅の國と、倭と稱せる未申の國との爭動あり。代々に攻防をくり返し、古代に於ては丑寅國の勝利にありきも、近代にして未申國、支那及朝鮮の智傳を授て丑寅國を侵領せしこと勢ありぬ。

史に征夷とは倭國の遺稱なり。我が日乃本國は唐書に明記ある如く、故主は耶靡堆國の阿毎氏安倍なり。卽ち、阿毎氏とは古き世に山靼より満達・朝鮮を經て越州にたどりて加賀の犀川に住居し、白山神・三輪大神を祀り、地民と染むるに國を耶靡堆に擴め、耶馬止王とて君臨せる故事ありき。地の三輪山に祀れる大神ぞ、先住なる加賀の犀川に祀りき三輪山大神を移鎭せしものなり。

故事をたどりては、祖の山靼に祀りき無流波无神卽ち荒覇吐神を祀りたるものにして、女神を出雲に男神を耶靡堆に祀りきを、西に西王母、東に東王父を地聖選定に依りて祀るを故事正傳とせるなり。何れも神源は天然自然を祀るを旨とせるは荒覇吐神なり。卽ち荒覇吐神とは天地水を要とせる神にて、萬化に変じて世を護持せる全能なる神通力の神なりと曰ふ。

遠きオリンポス山なる神、十二神の女男神、支那天山の西王母・東王父・女媧・伏羲の四神、天竺大雪山なる女神ヤクシー及びシバの神、山靼大興安嶺なる武流波无神とその女神、卽ち天地水なる神々に化神あるとも、もとなるに女男陰陽の神にて明暗自在神なり。

日之本國東日流にては古人の祀りき天なるイシカ神・地なるホノリ神・水なるガコ神を修成せしは卽ち荒覇吐神と稱號せり由来を故緣とす。東日流にては古きよりイシカホノリガコカムイと稱して祀る古事は五萬年乃至十萬年に及ぶとぞ古老は曰く。

卽ち十萬年前に渡来せし阿蘇部族は日本民族の第一祖にして、後五萬年前に渡来せし津保化族は何れも山靼なる武流波无神卽ち荒覇吐神信仰を固信せるものにして、自然崇拝より石塔を築きて聖なる神場、地語にしてヌササンとし、老木ジャラの繁る深山に聖地を選び、亦住居しける。コタン卽ち村落のチセ卽ち家なる近きにもヌササンを設けり。東日流にては石塔山聖地を東に、カムイ丘亀ヶ岡なる西海の聖地を濱丘に設るを、神々を鎭むる無上のイオマンテ卽ち祭地とて選びたり。

寛水十二年九月卅日
安藤貞一
寛政六年八月廿日
秋田孝季 写

陸奥六十三郡大要 原漢文

山靼より人祖渡来せし十萬年前より日乃本國と曰れむ國稱の地語ありきは、阿蘇部族のツパン、津保化族のジパンに創りて次順す。耶靡堆族の大挙して移り来て津加呂、晋民の漂着民に稱さる津刈、安日彦王・長髄彦等五王に國造るより荒吐族と一統せむより東日流とぞ國號せり。

世代降りて國を擴め、丑寅國を坂東の阿毎川より東方を日辺の地・日乃本國と號り。亦渡島・千島を渡領してよりこの地を日髙國と稱しければ、日乃本國を日髙見國とも稱したり。

ときに西南國は越・出雲・那古・蘇我・津・淡島・南海島・一乃島・淡嶋・筑紫・髙砂島・津島等を耶靡堆とし、海を隔つる島國を耶馬壱・耶馬弐・耶馬參と相互次順に稱號しける。依て一統なる國稱ぞ、後世に以て倭國に稱せむと曰ふなり。南西支那及び朝鮮亦は南蕃より渡民多くして國を割領押領せる國主の數に二百を越ゆに、勢ありては小國を侵領に降して戦亂しきりに絶ゆなしと古人は曰けり。

奥州に降脱せし阿毎氏一族も、立君以来に五十餘代に及ぶ安日彦王の代にて筑紫に起りし佐怒王に侵犯されにき。脱遁の主従、大挙して奥州及び坂東亦越に落着せしめたる多し。なかんずく日乃本國東日流に永住せし民多かりけるなりと曰ふ。時の頃同じゆうして、晋より大巨船八艘にて落着せし彼の國敗王・郡公氏一族、倭に阿毎氏を便らむとせしにや、阿毎氏敗れ丑寅に在りとて風聞なし、東日流宇澗浜に流着なして永住せり。

東日流に是の民をして稻作創まれり。卽ち二千三百年の前世古事なるも、東日流語部に傳稱さる要古事なり。拓田の地に名稱在りきは東日流カムイ丘・三輪郷・稻架郷・栗石郷・飽田米代と記遺りぬ。古代東日流に於て受難あり。行来山及び八頭山の火吹き降砂に澤川埋り、大雨・雪解に大洪水と相成り、民多く住居を奥羽・出羽に移りきより、奥州に六十三郡の郷を領域し荒覇吐王居も亦奥州日川に添ふて居を移しける。

時に國主は安國をして阿毎氏を改め安倍氏と改姓し給ふ。更に五王を立君せしめ、日髙國・流鬼國・千島・神威茶塚國に支配せむに付き、怒干怒布に領域中央碑を建立せり。標なる山ぞ名久井嶽とし、日之本國なる王領とせしにや山靼に風聞ありて支那及び山靼諸國の使者多く派遣に来たりて通睦を交しける。依て黒龍江をして流鬼・日髙・日髙見の三國は遠きオリエントなる諸國の諸事識に得ること、 地より金銀銅を採鑛せしむに至りぬ。

亦後世にして仙人峠、亦宇曽利より鐡を鎔鑛せしむに至れるは西山靼なる渡来紅毛人の岐傳なり。山靼馬之移飼・馬産亦然なり。金物細工の工程然なり。獣皮細工その縫法、特なる着衣に流通、山靼より物交尚以て盛んならしめたり。出羽・羽後の地は金銅を採鑛せども、鐡鑛少なく鐡練師多くは陸奥に多し。

馬・羊の睾丸除術亦山靼傳にて、奥州産馬ぞ種系を名馬・毛羊を秀優たり。奥州五十三郡、地産各々異にし、渡島・流鬼・千嶋・神威茶塚、その地産豊けく、山靼紅毛人より狩りて餘り無ける通商に益したり。

天明二年五月七日
安東継任

不可思議なる神話抄 原語宇書写

一、如何なる人にも神に優れずして幸なり

遠き昔の事にありき神話なり。神なるブルハンの聖地は朝夕の日月星を山野の果に望むる大陸、水平なる果に昇光を觀ずる氷凍の山、雲湧ける大海に在りと曰ふ。ブルハンなる神の眠れる常夜白夜の地に在りて、その眠をさまたげるあらば、人の住る地に冷害を起し、亦旱魃を起して苦しむるなり。

時に賢人あり。衆に信あり、病に薬造り、天候の余報に當て、亦諸難の人に及ぶる前兆を知りて世人を救いたる多し。衆は此の賢人を讃えて活神と稱したり。彼の賢人名、彦次郎とて家業は百姓なり。常に貧しき故に彦次郎五歳にして親元を他家に郷兒とていださむれば、親たるを恨めり。他家に在りては己が休息亦ままならず。童の労々休むなく言付けらるに、十五歳にして養家を脱し異境に渡らむと欲す。

彦次郎、在所は飽田庄内にして百姓着のままにして土崎の湊に向いて走りぬ。折しも山靼船に潜乘し異人船人に見付られたるは西海の山靼陸景の見ゆ海上なれば、若童故に赦されて彼の地に當着を得たり。彦次郎、蒙古族に身を寄せにしは、その年天平二年夏なりき。

彦次郎、名を洪泰顯と名付られ狩人となりけるに、歳廿を越ゆるも一羽の鳥・一匹の兎さえ獲たるなく、遂に放逐され當もなく興安嶺を西に越え、乞食三年を經てオリンポス山にたどりぬ。彦次郎、幼少の頃より夢にいでこし山景に驚きて一草を踏分けて漸時眺むるや、未だ来たらざる山道を獨り出に歩を進むる己れに靈感を覚いたり。何處を如何に登りたるや知らず知る由もなく、たどりたるはオリンポスの山頂なり。
時に紅毛神十二祖神、白雲中に顯れて曰く。

我はタルタロスの神なり。汝を此の山に呼びけるは昨日なれども、人間にして日數は八年に渉る歳月なり。汝は生れ乍らに神なる靈子とて遠き東洋なる神州に我等謀りて俗人に仮腹をして汝を産しめたるは、女神ヘラなり。神は逝くことなけれども、神孫多くなりければ常世の聖境に隠居せる神掟にて去るべく、オリンポス山に遺したる我が子ガイアその亦子のテュポンの子に産れしゼウスは神王とて世の東西南北に神臨せる神々、宇宙にある億兆に餘る日月星の神々にその従神ぞ足らず、汝をゼウスのもとに仕はしむべく汝を呼たるものなり。依て汝を人間より神界にあるべくせる法儀の為に從ふるべし、

と曰ふ。彦次郎、驚きて答い給ふ。吾は神とならざるを欲す、仮腹とて貧しき人間の子と産ける親ぞ、神なる都合に五歳を以て哀別以来別れき因緣は、汝ら神々なる謀事とて吾が運命の原因を今に覚いたり。依て茲に不滅不逝の生命にあるべく神位なる法儀を辭し、人間界にあるべきを請奉ると哀願す。

神々の大祖にあるべくタルタロス、意外なる彦次郎の言葉に驚きて曰く。是れ彦次郎よ、人界は神界の百分の一にある生々老い易しきところなり。いかで人間界に返り給ふを欲するや否。
是なる神の言葉に彦次郎曰く。

徒らに命脈を永らふとて神通力自在とて、一度び人間に生々し来たる吾が身なりせば、労々五十年に了るとて人間世界に生死ありてこそ神々の崇拝あり。一期運命を四苦諦す。生老病死の四苦は人間界の蒙むるべく運命なれども、滅ありて子を遺しは、神々の先なる天地水の萬物創造のときより生命なる輪廻を以て示さる日輪の明暗は地水に導き無上とし、人生亦是に習て久しければ、全能神通力、神々に及ばざれども人間界は逝く年月あって己が生命の尊さを覚りぬ。

とて、彦次郎神となるべくを辭したり。彦次郎、かく山靼の果なるオリンポスの山を降りて日之本國に歸たるに、四十歳を經たりと曰ふ。奥州に西山靼の神を祀るる彦次郎は九十八歳の長命に至る間、衆民の難儀を救いたりと曰ふ。

渡島住流鬼國廻船主頭綱吉傳より
文治元年十二月廿五日古書
藤江次郎賴家 華押
寛政六年六月一日写

山靼人神傳書控 原語宇書写

抜抄ホロメス記イリアス・オデュッセイアより

西山靼國に民族を以て衆をなしたる紅毛人の大祖はテイタン族と曰ふ。また東山靼國に吾等と人祖を同じゆうせる民族の創めはモンゴロイド族と曰ふなり。

西なるテイタン族の神はタルタロスに創り、東なるモンゴロイド族の神はブルハンに創りぬ。神なる傳説は多けれど、吾が國にては是を外道とて入れる事無けむ。

古代奥州にては、古人是を崇拝せる名残あり。土中より掘り出たる土焼神像なり。世の東西をして神なる流通の速きこと、古代に於て地理遠きに驚きぬ、まして西山靼をや。松前和田家に遺れる古書、語部語印傳に釋せば西山靼の神々系譜をぞ知れるも、驚くべきは三千年前に吾國にこの神傳相渡りたりと曰ふ。

西山靼國往古神系譜 第一説


タルタロス、ガイア、ウラノス、テュポン、レア、クロノス、アシア、イアペトス、テイア、ヒュペリオン、コイオス、ポイペ、オケアノス、キュクロプス、ヘカトンケイル、化神若干あり、ゼウス、プロメテウス、パンドラ、エピメテウス、デウカリオン、ピュラー、セレネ、ヘリオス、エオス、パイトン、アウゲイアス、レトー、メーティス、アポロン、アルテミス、オルペウス、アシクレピオス、アテナ、サトウロス、テルス、ユピテル、ユノー、ミネウア

西山靼國往古神系譜 第二説


レア、クロノス、オケアノス、ケイロン、ピリユラ、ディオネ、ゼウス、レダ、ポセイドン、ハデス、ヘラ、ゼウス、デメテール、ヘスティア、アプロディテ、ムネモシュネ、ムーサ、エロス、ハルモニア、ポリュデウケス、カストル、エイレロポン、へーぺ、アレス、ヘーパイストス、ペルセポネ

西山靼國往古神系譜 第三説・第四説


アクリシオス、ゼウス、ダナエ、アンドロメダ、ペルセウス、アルカイオス、アンピトリュオン、エレクトリュオン、ステネロス、エリウリュステウス、イピクレスーイオラオス、アルクメネ、ゼウス、ヘラクレス、アゲノル、エウロペ、ゼウス、ミノス、ラダマンテュス

西山靼國往古神系譜 第五説


ハルモニア、カドモス、セレメ、ゼウス、ディオニュソス、イオカステ、ライオス、オイディプス、アンティゴネ、イノー、アタマース、ネベレ、レアルコス、メルケルテス、プリクソス、ヘレ、ガイア、アイテル、ポントス、エウリュピア、クレイオス、ベルセイス、ヘイオス、アルテミス、ディアナ、アポロン、ポエプス、セレネ、ポエペ、ヘルメス、メルクリウス、アレス、マルス

西山靼國往古神系譜 第六説


ケイトー、ボルキュス、エレクトラ、タマウス、ネレウス、ステンノ、エウリュアレ、メドウサ、グライアイ、イリス、ハルピュイア、イデュイイア、アイエテス、キルケ、パシパエ、ミノス、メデイア、カルキオペ、アプシュトルス、ミノタウロス、アリアドネ、テセウス、オイノピンーメロペ、メドウサ、ポセイドン、ペガソス、カリロエ、クリュサオル、オルトロス、エキドナ、テュポン、ネメア獅子、スピンクス、キマイラ、ヒュドラ、ケルペロス、パイア、ヘーパイストス、ウオルカヌス、アプロディテ、ウエヌス、エロス、クピドー、ポセイドン、ネブトウヌス、ヘスティア、ウエスタ、デメテール、ケレス、ディオニュソス、パックス、アスクレピオス、アエスクラビウス、モイライ、パルカエ、ハデス、プルトー、ペルセポネ、プロセルピナ、ヘラクレス、ヘルクレス

東山靼往古神系譜


ブルハン、パイシャン、西王母、東王父、女媧、伏羲、天皇、神皇、神皇、饕餮、歳判民權守、歳殺神、喰人虎、極刑、豹尾神、歳刑神、大角牛、地守、黄幡神、大母神、麒麟、草木守、大歳神、女神、一角犀、軍運長久守大陰神、龍、天龍、地龍、水龍、陽神守、白象、生老病死歳破神、大蛇、水守、土公神、大三輪神、鯱、天守、大金神、姫金神、巡金神、獅子、陰守、皇帝、仙人、白虎、武運大守、大將軍、天鳥、空風自在守、歳徳神、天馬、雪雨自在守、農神

是の如く東西山靼神の古代に創まれる往古なる神々の系譜なり。

貞觀元年八月六日
奥羽荒羽波岐神社
納巻 藤原伊治君麿
謹写 寛政六年九月一日
安倍太郎忠道

荒覇吐神之創抄

抑々吾が國の諸國に荒覇吐神なる社多く、その古跡を見當る廢處あり。今に遺りき改名の社に遺るる門客神亦は客大明神とは古き世なる荒覇吐神の古事にて、世襲に除かれし末路なる遺跡なり。

太古に耶靡堆國を司る安泰なる國造りき王あり。是を阿毎氏と曰ふ。安泰なる國政に民安らけく、國を併せその國域五畿七道に及びぬ。王居は耶靡堆三輪山蘇我郷に存し、五千年なる歴史に創むる國なりき。初代を耶馬戸彦と曰して、中央髙倉に在りて王領の東西南北に分倉を置ける五王立政の王國を號けて代々に阿毎氏王とて襲稱さるるなり。

古来より山靼と通ぜるが故に丑寅の日之本國と親近し、世々安泰を旨とせり。國神を荒覇吐神と定めきは山靼の化に習う故なり。幾十萬年前に吾等が祖人、彼の祖國よりこの國に渡り来たり、子々孫々を遺し、丑寅に日之本國、未申に倭國を開きて國造れり。卽ち古きより二つの王國、坂東阿毎川より越の糸魚川を以て王領を堺境せり。

ときに丑寅の国主は津保王にして北辰の覇者たり。もとより倭の阿毎氏と祖を同じゆうせる血緣なりせば、爭事是無く泰平たり。此の國の神は天地水なる自然天然なるを神として、常に天に仰ぎ地に伏して、稱ふるはイシカホノリガコカムイとぞ崇めたり。主從平等、平等を旨として一族に智者をして、人の上下を造らず、武威を以て人を制せず、常に泰平を以て民心に説き、能く治まれり。古きより山靼國に往来し、民なるくらしを豊ならしめき。農耕漁労に從って富めり。

荒覇吐神とは山靼國より渡りきたる西神・東神の併せたるパイシャン卽ち白山神、ブルハン卽ち三輪大神、天地水とを祀りきを東西に神格併せ是を荒覇吐神とて固定せる天然信仰なり。

寛政六年七月一日
和田長三郎吉次

道奥草紙 原漢書

移世の人生安き事少なく、難儀の仇風常に生々流轉に在りて去り難し。道奥は古来にして歴史栄ある王國なれど、世襲は是を除きて住むる民は蝦夷とぞ化外地民とて皇幕統に賊視に免がれず。その化に制へられきは丑寅日乃本國たる地住民、浮ぶる瀬も無く未だ道奥なる蝦夷觀念の史に綴り遺さる耳なり。

抑々奥州に遺る歴史の實相たるや、倭史の紀元をはるかに越ゆ深層に遺りぬ。流鬼王・千島王・日髙渡島王・日之本王らの系譜をたどれば倭王の及ばざる治統に歴史を遺したること、創國十五萬年乃至三十萬年に歴通せる史實を存せり。ただ倭朝の起りける神傳皇統の史は造話作説なる多し。

道奥は丑寅に道ありて、東西山靼國と益ありて、古き程に實史の然るべく道理あり。王領主政に歴史を深ふせるものなり。人の創めに鳥獣魚貝を餌として土岩居・石刃の代より人脈を累代して今に至りぬ。道奥に稲作あり。凡そ二千餘年の前に執労せるも山靼の傳来なりと曰ふ。

流鬼國は島國なれど山靼大國に近ければ、黒龍江水戸口を船路とて大興安嶺に至り、更に武流波无より天山を越ゆる西山靼に通達せる山靼往来ぞ、萬里長城をはるかに越ゆ里程なり。道に宿驛七百六十八箇處をたどり西山靼國オリンポス山に至り、古代オリエントの諸國に通達を叶ふるなり。みちのくは海獣皮商益にこの地遠く往来せる旅人多く、亦彼の地より紅毛人の歸化せるも多しと日ふ。

流鬼國の王系立國より三千年、その系累ぞ百六十部族を一統せし流鬼王三百十代當主・阿利加津奴无王を今に系ず。亦、千島王は二百六十の島部族の統治せる於呂泰津加里を當主とし、北辰海王とて山靼國六百地主らに知れ渡りぬ。日髙渡島王ぞ地主六王ありて、是を代統せる江流津無奴里王も三百代に累系しその歴史を深層せり。

日乃本國は阿毎氏・安倍氏・安東氏と相渉りて二百餘代、流鬼國・千島・日髙渡島國を征從して統治し日本國とて山靼國十王に知れり。山靼國に國分せる地主ぞ七百にして、是を統治せる十王を以て為せる當代主は宇流加麻珍・由陀津里・加麻止利化・珍泰將・宇津里孔・音無志利・宇奴孔仁・喜陀王・伊宇化奴利・カイナエ紅毛らなり。

是ぞ何れなるも大王にして古事来歴を藏す。みちのくを日之本なる國と認むるはこの十王にして定むるものなりと日ふ。

建仁元年十月廿日
安東太郎貞季
寛政六年八月卅日
秋田孝季 謹写

採鑛鑄造史抄

金銀銅なる鑛石に脈せるは羽州に多けれど鐡鑛脈少なし。鐡鑛石の多きは陸州に多く、日髙見河を東西に区を分って太古より鑛師その堀術を営めり。金鑛にては宇曽利山を北辰にして安日山なる山頂を分水嶺に米代川上流、日髙見川上流、安日川上流に金銀銅を採鑄多けり。亦鐡にては砂鐡を得て鑄せるも、質よきは閉伊なる仙人峠なる産鐡ぞ秀なり。

古来より安倍氏をして一族挙げて鑛探し、その成果を得たるは山靼歸化人にて岐を傳授得たるものなり。抑々日髙渡島なる砂金、陸羽の要山東西をして百ヶ處に及べり。

鑛師は常にして探鑛に山岳を尋ねてその河山を検視し、露天掘り・抜堀り・井堀り・横堀りらに鑛脈を盡る處迄に採堀す。諸山のタダラを設たるは次の如く明細せるに要す。

一、流鬼國要處

油井
流鬼國大玄武崎海辺
金井
流鬼國盧藩山川沿
燃石層
流鬼國迫海黒龍見山
流鬼國豊原北海崎

二、千島國要處

海魚場
占寺島・幌薙島・温猫島・眞干流島・春牟島・江加流麻島・捨志古丹島・松和島・羅處和島・計吐井島・志无志流島・志无志流水道・得撫島・擇捉島・國志利島・色丹水道・波々舞郡島

三、日髙渡島國要處

海漁場
禮聞島・利志利島・奥志利島
金井
上別・加志内・石加利・白糠・千歳・積丹・上國・日髙

四、日乃本五十三郡要處

金井
宇曽利・糠部・白神山・鹿角・末男・日髙見連峯・和賀・仙人峠・釜石・丁岳・牡鹿・磐城・大白山朝日岳・金山

以上安倍領堺日記に筆遺ありて、加之地に山靼紅毛人を師事となし、山海資産多く得たと曰ふ。

寛政六年十月廿日
秋田孝季

船航日乃國海濤史抄 原漢書

一、北辰篇

北辰の古代なる海航にては獸皮にて造りしトナリと曰ふ舟に創りぬ。トナリとは海獸の皮を木組に張縫せし小舟なれども、千島國及流鬼國の住民能く用いたり。小なるは一人乘にして、大なるは八人乘りにて大河海峽を渉りぬ。

次なるは老巨木一本彫りなるハタと稱せる船にて三十人を乘せにしものなりて一柱の皮布帆を風力とせり。船端は飾波防ぎなる板を縄結にて船胴を大ならしむに荷を積むこと可なり。これ山靼住人の傳授なり。

次に代降りては、木を板彫りて箱型長方に工程なして造船せるは百人の乘るを得たる舘船なり。二柱乃至三柱の帆を用ゆも、船速なく破船難儀多し。北辰海に於て海河を渉るべく船は今にして古来用ゆらるトナリ舟及びハタ船耳なり。加之船に商を覚ゆは總て物交にして換ふを商とす。

流鬼國は山靼國黒龍水戸口に市場を設せらる他、千島國にては國後島、流鬼國にては豊原、日髙渡島にては稚内及び根室・志海苔・松前に設し、日乃本國にては宇曽利・東日流・外濱・糠部・飽田・怒代・土崎・出羽砂泻・陸州宮古・塩釜に湊市ありてその流通を今に名残りむ。

二、日之本西海篇

天然にして立地せる湊の多くは、河口を以て湊を開く多し。東日流十三湊は名湊七湊に名髙く、羽州怒代・土崎・砂泻の湊は栄営たり。

東海なる宇曽利・塩釜にては波濤荒く冬期に休航多く、日髙見河を以て流通せる多し。依て古代より湾海湊・川口湊・川上湊ありて便をなせる地名今に遺りぬ。俗に舟場・舟留・水門・舟渡・舟越などあり。

寬政六年十月卅日
加賀屋仁佐ヱ門

海難祈願處寺社繪馬 原漢書

古来海辺に鎭守せる寺社に奉寄に繪馬多し。昇日に船走る繪馬多きは、海船の遭難無ける奉寄もさり乍ら、荒濤に難を抜けたる繪馬最も多し。繪馬に己が結髪を献げしものあり。亦、己が乘船なる修理に除かれし板材に龍を彫りて奉納せるも見事なり。亦、船錨を捧げるあり。細工なる小型船の奉納まれに奉寄せるあり。

神社に貴寶なる己が腰刀だに献ぐあり。船人の信仰たるや至誠なり。海を恐れ敬ふは今昔をして変らねど、船航にても海上にありては酒をそそぐ。潮路の安全を祈る至誠信仰ぞ、古来日乃本國なる船人の祈願たり。

寛政六年九月卅日
秋田孝季

三界往来轉生甦信仰 原漢書

安倍一族を挙げて念じたるは、造船始末にその工程を常に固成ならしめたり。世に安東水軍・松浦水軍の威覇知らざるものなかりき。

安倍一族なる海航欲にして完成さるる安東船ぞ、朝鮮・支那・南番更に天竺まで航着せしありけるを諸書に遺るなり。

造船工程の岐は支那船耶无久・南蕃船陀宇船を以て工造せり。海航に於ては、潮流・追風・方向・羅針を正せる磁石を造りて海図に當つるの法及夜航なる星計を北斗に尺計せるは總て山靼渡傳の奥義たり。

依て常に水先を諸海に學び、海堆・海礁所在を海図に留めおくを大事とせり。依て海に信仰せるはガコカムイにして、古来船先に鎭護の神を彫付けたり。安倍一族にして三界は過去・現在・未来を生死轉生の流轉とし、死は新生にあるを覚りて怖れず、能く祖来の神を祀りたり。

生々の運幾は宇宙に在りとて、古来より天運行跡を信仰道に留めたり。宇宙は同じく見えて同じからず、宇宙の運行に依りて萬物生々に兆ありとて、常に天文の智識を向上せしむるは一稱にしてアラハバキイシカホノリガコカムイなりと覚つなり。

寛政六年八月一日
和田長三郎吉次

奥州風土之景記

旅ゆく道草の露に足洗ふらんと早發ぬ。道奥の初夏旭日昇る速く、半里も歩ざるに夏草のいきれ、身の汗を誘ふ。

夏道の旅ぞ、海濱に潮香に鼻突き渚の波送るる風に汗さますもよけれど、山深けく苔たかる道辺のしるべ石を一里塚に見て宿に歩むるも風情なり。

〽山上にてっぺんかけよとほととぎす
 往交ふ旅の睦き道づれ

東日流をば中山切通しに抜けにける曲坂を地民七曲りと曰ふ。山影の外濱より起つ霧の深きあすなろの雲に浮る絶景に見取れ、大濱に至りぬ。

吾が旅は宇濤安泻を糠部に至れる旅行なり。古き世の荒覇吐神、安倍一族の緣りに訪ぬる史編の道行きなれば、道家に古跡を尋ぬるも心慰みにして、地の老人に往古なるを聞く毎に記し留めし古事に刻ぞ忘るるなり。

糠部なる相内に宿しぬとき、安倍家に緣る安東重光とぞ家札を門戸に旧家に宿を請ふ。土習の曲家に飼馬三頭を目に當り、通されし座敷のなげしにかかる長槍・薙刀、奥床間の鹿角にかかる太刀と鎧箱、武家たる家系ぞ自ずと覚ゆ。家主、白髪にして垂結なり。心よく造り酒を進めらるまま彼の主、古事を物語れり。

我れ墨入をとりて彼の言を走り書けり。彼の家系は安東師季・義兄なる髙季の系なりと曰ふ。當主をして十一代と曰ふ。厨川落の安倍良照の流胤なりと説きて餘多な書簡をいでこしめて示せるに、一夜宿りが亦一夜とぞ五日をも長宿せり。

寬政七年八月一日
白井義雄

陸奥觀證 一

吾が日乃本の國は、古代民俗習生に於てをや、深く山靼の東西に傳授さるる多し。山靼史ぞ、西なるテイタン族・東なるモンゴロイドをして人祖の深きこと三十萬年に及ぶるは地老の言、あやまざるところなり。

日乃本國は是く山靼の教に蒙るべく故緣は、彼の地より人祖の渡来に緣る故なり。抑々、人の住むる處とは衣食住の安泰なり。依て地環に馴易きは人間なり。現世に於てをや、テイタン族・モンゴロイドの至らざる世界分布にありて、國造りを得たり。ましてや丑寅なる日乃本國は、彼の地習に似たる多し。

神祀るとて、北斗に靈窓を開きて聖處を築くは荒覇吐神の社なり。神殿は三社に分棟し、天地水を祀るを正統とし、中央に○右に△左に―の語印を靈窓とせる古習なり。

丑寅と對せる未申方双方に池を堀り、清流の瀬音境内に聞ゆを無常とせるも古習なり。巨石を以て神とし、聖地に石塔を築くは數に限りなく、古社程に群塔多し。祭主は武威にして討物身に装い、神前に弓箭の舞・太刀の舞・馬乘箭的を以て神事とす。祭時を陰陽何れも子の刻に挙せるを正行とし、神前に鳥獣魚の三種を供し、未だ婚ぜざる女人をして迎送の歌舞を献ぐるも祭事の要なり。

荒覇吐神なるイシカ祭にては眞夏にして、ホノリ祭は秋に挙行す。更にしてガコ祭は春にして、冬に行ふは星祭りなり。冬空にさゆる夜半、星座の光量を以て判せる故なる行事あり。冬期故に占部に從ふて冬の聖夜祭を、夜空の晴たる子刻に挙行す。光々と献火を焚きける、そのまわり三輪に踊るカムイの舞ぞ神々しき。

寛政六年十月二日
秋田孝季

陸奥觀證 二

東日流に行来河、飽田に米代河・雄物河、糠部に安日河、陸奥なる日髙見大河、出羽なる最上河、磐城なる阿武隈河、會津より西海に流る阿賀野河を以て奥州の命脈たり。その河畔に太古より絶ざる、流れ絶ざる歴史ありて日乃本國は丑寅に栄盛たり。

奥州五十三郡なる安倍一族、日乃本將軍の覇を今に遺跡の多きは史證にさまたぐ無し。古代より海河を以て道とし、安倍一族は諸國にその胤住にあり、不滅なり。茲に一族の神訓をぞ遺したる、祖靈加護を謹んで稱へ奉る。

〽荒覇吐神は吾が一族の魂血なり。依て吾が神は人の上に人を造らず、人の下に人を造り給ふ無し。汝れ我れ血肉の祖は同じゆうして平等なる事、神ぞ知る眞實なり。能く和を旨として睦み、徒らにして命脈を闘爭の死に赴かしむべからず。命脈一切ぞ神なる賜授のものなればなり。

是なる神訓の一説護りたればこそ、奥州は住みて至るべき日和を待はむべし。卽ち是護り、是忍耐にありて、實史陽浴の日至らむ。

寛政六年十月二日
秋田孝季

陸奥觀證 三

陸奥を知るべくは、前九年なる先世を知らずしては、世史に曰ふ蝦夷なり。また是く美しき天然風土を、化外地と見々片々に救はれず。能く心眼を開きて、移世の實相を觀念しべきなり。

太古に於て日之本國とぞ國號にありき吾が國土、永き倭國の作説に無史無明の化外地とて住むる民みな乍ら蝦夷とぞ片見に在りて、浮ぶる瀬も無き世襲未だに去らず、怒りやりかたなきぞ苦し。

茲に、永き朝幕の圧制ぞ、久遠ならず。末代に至るべく子孫に、この有史除棄の陸羽に陽光を浴せむ為に遺し置ものなり。再度に曰ふ。道奥は奥ならず、山靼國をして通ふる文化文明のありきは丑寅日乃本の國なり。唐書に宗書に證ありき。日本國安東將軍なる故事、耶靡堆王・安倍氏にして古稱阿毎氏なる史證をして日乃本國王たるを無疑に信じべきなり。

日本は吾等が國なり、國號なり。奥州は神をして史を造らず、夢幻にして王を神の系に造らず。亦人をして上下を造ざる親睦一途の國造り・人造りを要とせるは道奥の歴史なりと覚つべし。

寬政六年十月二日
秋田孝季

奥州五十三郡風雲録 原漢書

世に前九年の役・後三年の役を以て安倍一族、それに緣る氏族・豪族の類を誅滅せると曰ふ、諸史一統に遺りき史談に信ずる處とせるも、この史談なるは實相に多く欠けたる作説ぞ、官軍に飾るる多し。

永承五年。太祖耶靡堆の國王・阿毎氏を祖とし、安倍氏をして奥州五十三郡は能く治まれり。然るにや永承五年の年より倭人多く秋田に集し、藤原登任の復役に任ぜられたる平永衡の舘に食客せり。永承三年の年、永衡、最上太郎の仲人にて安倍賴良なる息女・中加の前を室に迎へたり。以来、皇朝の司とて、賴良と奸計し朝廷の賦貢を未納多くせりと曰ふ目安ぞ朝廷にしきりなり。

是れ同じく藤原經清も賴良息女・宇加の前を室とせるに、かゝる無實の目安を朝廷に密告せしは清原武則が策謀なり。武則、出羽に在りて越州・秋田の地領を欲したる朝役仕官に賜るべくの奸策なり。

追日に目安さる安倍賴良を朝廷に於ては捨置くことならず。永承五年九月廿日、試みに藤原登任に安倍賴良を天誅せよとの勅令を宣しければ、登任これにうろたいたり。時に登任、六十三歳・陸奥守とて多賀城にありければ、手勢總挙なせども六百騎にして、安倍勢若し挙兵となりければ八萬乃至十萬にも達しぬると急ぎ朝廷に秋田城なる平重成を加勢あるべき勅許を奏願せり。

それなる請願入れて朝廷は重成參戦せよとの勅令を發せり。時に秋田城管領・重成は是ぞ出羽なる清原氏の目安に依れるものとて、事實無根なるを奏上しけるも、平永衡を辨明せるは許難しとて、受入る事叶はざれば重成、詮なく安倍討伐の兵を挙げたり。

時に重成、登任と軍を合せたるは玉造郡鬼切部にて、秋も晚秋たり。事速く是を察知にせし安倍賴良、卽座に挙兵し、弟・良照を先鋒とし鬼切部に總勢三萬を以て攻めにける。時に十一月二日、初なる降雪を山頂に見ゆ。寒気を突きて人馬息煙を挙し、對せる鬼切部の陣に向へて正面左右に良照が討ての一喝に破竹の如く安倍勢三萬騎、對せる登任・重成連合勢三萬二千騎、暁の修羅場に血吹きを染むる。

空をうなれる弓箭両軍激しく闘ふ間少かに半日、登任軍は敗走し重成軍も續きて四散せり。登任に従ふる者少かに十騎、命脈からがら多賀城を捨て京洛す。重成また秋田城に敗走ならず、従ふ者五十騎にて安倍追討軍に出羽の地に追るまま行方知れずと相成れり。鬼切部なる戦ぞなべて官軍の敗滅となりぬれば、朝廷に歸參せし登任、卽座に以て職官の役を解かれたり。

登任その餘生を剃髪し出家に世を遁生しと曰ふ。朝廷はかく敗亡の官軍に、賴良の勢に奥州五十三郡にあるべく官職總て白河より以て無駐せしむ布令を發しければ、残れる者なく坂東亦越州へと逐電しけるに、憂て朝議相次ぎ、登任の後役に源賴義を任官せしめたり。

永承六年奥州に無住のままなる官職に年を越しけるを、朝廷の威光落堕しとばかり、急議相決して征夷大將軍陸奥守鎭守府將軍とて天皇の賜任を許されたは永承七年三月卅日のことなり。朝倉の費をいだして源氏に与へたる官軍六萬騎、畿内を發して坂東に越え白河関を抜き、安倍勢が布陣せる磐井膽澤に進軍せど、賴義が背後に迫る坂東の氏族・豪族の決起が六萬騎、故雄・平將門をして旧臣の者が挙兵をかまえて集結を武藏に續々たり。

その報を朝廷は急知し奥州の安倍攻めを断念せざれば、古事に秘さる荒覇吐の西討に朝廷の危ふきを覚り、取急ぎ上東門院病の平癒祈願に事付けにし、安倍賴良征討の大赦令を源賴義に勅使を發したれば、賴義また急地を脱し安息せり。

賴義、鎭守府將軍の面目ありとて藤原登任の先任に習いて官兵六千騎耳残し多賀城に駐り、官軍諸兵を歸散せしめたり。かかる新任なる賴義の行為に信じ、安倍賴良も亦陣を解き坂東の諸豪氏に貢を贈りて決起を解かしめたり。

坂東にては久慈廣長・那須左玄太・江戸那珂之介・鹿島伊賴・行方仁左衛門・芳賀永清・眞壁甚吾・筑波彦四郎・豊田光賴・結城是盛・都賀胤重・安蘇友行・利根正継・山田宇作・塩谷熊五郎・河内傳内・勢多繁賴・魚沼金吾・佐波勇之介・那波彌四郎らの他、古志勝藏・甘楽甚四郎・多胡新介・吾妻清親・碓氷貞信・三島行繁らの氏族豪氏みな安倍氏の化をなせる百戦武士衆なり。流石、源賴義これを追聞きて汗の冷たきを覚いたり。

賴義、官任五年の期至れる天喜四年に近けむ前年、天喜三年夏七月六日夜半。大赤光を放つ巨星の光りあり。安倍賴良、是を不吉なる前兆とて占部に告げらるに、祖訓を大事とし若し源家起らばやと、戦陣の在りき要處なる一族の老人・女子・童らを安住の地に移さむを謀れり。亦、身内なる未兒なる則任をはるか東日流十三湊の地に移しめ、家来五千人の家族を俱なはしめたり。

天喜四年の弥生、賴義在駐の任期至りてその送別を阿久里川石渓に賴義一門を招きて宴を以てなせる接待、及び名馬白神號を贈り添へて地の刀工が錬ふ舞草の太刀を贈りたり。然るにや賴義、幕下の藤原説貞と謀り安倍一族の反亂を工策に仕掛んとてこの日に密議ありけるを賴時知る由もなく、息子貞任に賴義を膽澤に送りなして歸り、阿久里川に返したれば途に藤原説貞の一行と出會ふ。

貞任、禮を以て己が武列を道に分けて説貞を通らしむに、説貞に従ふ従者が突如貞任が前に尻を向け音髙らかに屁を放ちぬ。貞任、これ酒酔なりと笑へて通せば、説貞一行にたれあるか石礫を貞任が乘馬に投付く者あり。貞任あわや逆立つ馬より落馬せむとせしにや、討って取れと一喝に説貞の一行、弓箭執る間なく抜刀そぞろに討たれ、説貞は遁たるも、その息子・光貞は討死せり。

かく事起せるも、源賴義が仕組し策なれど思はく外れ説貞、息子光貞を失なふて悲怒に血走りぬ。時に賴義、急挙使者を都に遣しめ、任期を延し旨、並に安倍氏反亂を次の如く傳えたり。

一天萬乘の大君に奉り奥州にまかり賜任の大儀を了りぬ。安倍氏との談議、朝議御承りの通り都度にまかりて皇化賦貢納仕の段、請々せど應ずるの砂太是無く、是期に荒び朝臣藤原光貞を討って仕れり。この反き如何にせんや否、

とぞ賴義自から奸計を謀りたるを安倍氏が反逆の砂汰と奏上せり。依て朝廷は急挙朝議に相謀り、七萬五千騎を越州念珠ヶ関に小浜より船にて送りぬ。騎馬討物を出羽鶴岡にそろふて後、新庄に越へ赤倉峠を經て一挙に賴義が出仰ふ江合川なる一ノ迫に軍を會し、一挙に一ノ関なる安倍先陣を攻むるも安倍勢餘陣は鬼首にありてその背後を突き、川崎柵・磐井柵なる安倍軍合せて五萬六千騎に蒲衣黄海へと源軍を押返したり。

諸史に曰しむるに是とき源氏にあるべく官軍は坂東武者、とあるは疑傳なり。坂東武家にて源家に應ぜるとせば新田氏・足利氏耳なり。依て官軍の討伐行は坂東をさけ、越州・出羽路を難じて来たる畿内近畿の兵にて、逐電も多けると曰ふ。

然るに安倍一族とて五十三郡のなかなる反目の親族ありて、宇曽利の安倍富忠、出羽なる清原武則ら先君頻良滅後以来一族の染みを異にし、常に朝臣を通じて安倍一族の始終を密告せるも、今迄馬耳東風にして信に入れざるは安倍氏に緣る故なり。賴義、安倍氏討伐に未だ遠きを覚り、先づ朝廷の信を欠く餘知を恐れ、平永衡を血祭とせり。

永衡、朝臣にして藤原登任の家来なりしも、登任欠してより源家に復任したるを由とせざるは、賴義が永衡をいたく嫌ふるは彼の妻女中加の前にあり。安倍賴良の息女なれば官軍の軍密を安倍方に間諜せしものと、その誅に伏せむ理由をいつとなく心せり。亦同じく藤原經清へも常に人をして密に探りたり。去りし承久の戦に於てその敗因をなせるは、この両人なりと告る者あり。事無實なれども、先づ平永衡を死罪に決せり。然るにや、その刑處に彼の妻子を寄せて錆刀にて打首せしにや斬れず、永衡苦しみ、そのさまを觀る妻子の心いかばかりぞみせしめたり。このさまを見屆けたる藤原經清は、その夜半に乘じ家臣の平井基信、こともあろにや主を密告せんとせるを斬りて、妻子及び従ふる家臣を俱に鳥海柵に遁したり。

ときに営牢にありき平永衡が妻女を救いて安倍賴良のもとに事なく脱けて着にけるを、賴良大いに悦びたり。官軍ときに兵糧もなく、地の民家に押入りて強奪、娘を犯す程にこれを見兼たる將士のなかに苦情を朝廷に訴ふありて賴義、退きて退役せり。討物捨て官軍は各々退路に四散し、奥州にしばしの泰平を安らぐるも近の間にて賴義退役の後、朝廷は藤原良綱を後に任じたるも、安倍氏討伐に加ふる壮士なく、朝議また相成りて賴義再任に決したり。

ときに安倍一族もまた官軍への應戦に出羽の清原氏、閉伊の金氏、宇曽利の安倍富忠らを接して、古代安日彦王・長髄彦王の古事をかえりみて日乃本國は倭朝のもとに従ふる國盗りを防ぐべく勢結を説きたるに、皆誓書に血判せども、清原武則・安倍富忠らをして源氏への反きを心に否し、安倍氏への反忠を捨ざる因緣にありぬ。

賴良の生れは、父頻良正室の子なれど、富忠の生れは清原武則の妹なる側室の腹なり。頻良生前の砌り、病弱なりし賴良を後目に否したるを正室の怒に依りてやむなく隠居し、賴良を宗主とせる不復のしこり未だ餘煙にある故なり。然るに賴良、一族の主とて父頻良を抜く名將たり。

是くある賴良をねたむる富忠もさり乍ら、清原方に後生を委せし頻良側室常子ぞ頻良滅後、正室胡蝶をして常子を出羽に追い返したる因恨ぞ、清原一族をして賴良を目安せる影仇となりけるも、もとより親族にありせば富忠俱に黙せり。然るに倭策入りて奥州に安倍氏を亡し奥州一統の將軍とて野に望むを常々夢とせる奸計は両者をして親密たり。

天喜四年も暮にして賴良は源氏と對決せる心、改めて名を賴時と自稱せり。官軍を向討も領中後方の反忠を憂いて賴時自から出羽に赴き、清原一族にその舘を見渡せば牧馬ことのほか數にあり、軍具の職人また多忙にして通常に異なれば、賴時是を審したり。清原武則答ふも苦しげに、吾が一族源軍への備ふる仕擇なり。主の必要あらば如何程に持歸るべしと心もとなく曰いけるを、賴時卽座に忝なしされば馬六千頭その馬具の一切を申受る、とて下毛野興重に令し衣川関より馬喰二百人を寄せてその放馬ことごとくつれ去りぬ。更に弓張・造箭・垣楯ら清原一族持數に餘る討物一切を和賀に持行きけり。

清原一族總勢を二萬騎反けば、安倍一族の痛手となれる故に重ねて賴時兵糧八千石を割當なし、運着總て了や引揚げたり。一挙に反忠をせむと備たる總てをことあろうに安倍賴時に横取られし武則、賴時を前に従がはざるを得られぬ失態なるを、詮無しとて諦む破目たりぬ。

亦賴時は更に宇曽利糠辺なる銫谷卽ち安倍城に安倍富忠を呼寄せけるに富忠、仁土呂志に留りて密者を衣川関に安倍一族を探りけるに、賴時常に鳥海柵にありとて知るや、側近の川辺左衛門をして側近の役にありてその護り薄しと知るや富忠、六百人を従へて江刺の三郎實光を先着させたるも賴時これ尋常ならずとて實光を責たれば、富忠反忠せるの策謀ことごとく吐けり。

密にして富忠の計略を崩さむと厨川太夫貞任是を怒り、弟正任を供に二千騎を以て紫波を仁土呂志に向ふ。時に富忠、上閉伊に六千七百騎をして猿石川を江刺に至るべく人首峠を越えたるを、膽澤鹿之丞に物見さるや鳥海柵に告げられたり。

ときに賴時、自から子息宗任のとどむるを聞かず、川辺氏ら側近屈強の者を俱に二千騎を以て岩谷堂に富忠の川降りに来たるを相對したり。反忠を覚られたりと富忠手勢六千七百騎一挙に放つ弓箭は、賴時が手勢を總崩れにし、宗任が一萬騎を以て岩谷堂に達したるとき既にして賴時流矢に肩深く傷を負いて垣楯に床し、聲もそぞろに苦しむを、急ぎ鳥海柵に賴時を救護せり。

火炎の怒りに燃え宗任が群勢を先立って富忠の陣に駆け寄れば、富忠の背後に遠野の舞草刀匠連中八百人の襲いに、はや富忠自刃して果たり。天喜五年七月廿六日、安倍日本將軍賴時もまた諸々の介抱にも空しく息絶えたり。

源軍に賴時の死報は歓聲となりて各々が陣営にうずまく。事の報ぞ朝廷に屆きたれば、於是成奥州征討とて奥州の皇化賦貢を賴義に催促をせり。然るにや安倍一族を挙げ賴時の遺骸を和賀の極楽寺に仮葬なし、貞任誓って日本將軍を東日流石塔山荒覇吐神社に於て継君の儀禮をせし後、賴時が生前の遺言に従って此の地に亡父永眠の聖墓を造り給ふたり。

賴時、常にして吾が逝きける屍は仮葬に肉を去らしめ洗骨なして東日流石塔山なる荒覇吐神社に埋葬されよ、墓は能く渓流の瀬音四季に絶えざるを滅後の安らぎとす、とぞ承りたる貞任この地に安倍一族の永代靈地と定めて、天然を害せず賴時の墓を造りて衣川の舘に歸り、千兵萬馬の挙兵を五十三郡に布令せしめたり。

賴時が没して百廿四日の天喜五年十月卅日、茲に叔父なる良照、兄なる井殿、弟なる宗任・正任・重任・家任、十三湊より寄せたる則任、妹なる有加、その妹なる中加、末子妹なる一加をそろいて貞任、意を決して源軍を討つべく荒覇吐魂を今に天地水の神に委ね、總て武運を天命従ふる決死の覚悟を以て各士に戦謀を企てたり。

ときに源賴義、未だに和睦なく挙兵とて起らざる安倍一族にその年の十一月、二萬の源兵が河崎柵に五千の兵で守備せる金為行が先鋒をつとめたり。をりしも十一月の冬將軍が北より猛吹きたれば、源軍黄海の丘に向い討つ安倍軍の淨かなるに耳ぞ済せむも、ただ白魔は横なぐりに降り積れり。

突如として安倍軍、具を鳴し鐘を打鳴し、その音方に源軍箭をめくら射るも、安倍軍なる箭は的をたがわず源軍を射殺せり。官軍の全滅にして、賴義この修羅場を通じてあとに從ふ者少かに六騎なり。息子義家・藤原景通・大宅光任・清原貞廣・藤原範季・藤原則明らにて、討死せるもの三千騎、逐電せし者一萬餘騎なり。傷をして捕はる者八百人、降りし者五千騎の武將及び徒兵なりと傳ふ。

年改まりて康平元年と相成りぬ。朝廷に於ては賴義の敗退を何事の同情も是なく、ただ源氏の面目やるかたなき失墜のきわみなり。奥州にては官軍の侵略行なる跡々に悲聞あり。犯されたる女子の自決、殺生されたる家主、孤兒とて親亡きもの、住家を焼かれし者等々を貞任自から巡廻し、是の如き住民を救済せり。

康平二年七月廿六日、賴時三回忌を和賀の極楽寺に供養仕り、仮葬墓を堀りて賴時遺體の白骨を洗骨なし瓶に納むれば荷薩丁なる淨法寺に再供養なしたる後、石塔山に埋葬せしは翌三年七月廿六日なり。

その頃に朝廷に於ては大なる軍資を賴義に賜り、如何なる手段に依るとも奥州に安倍氏を誅滅しべく企を謀りに謀りて、蝦夷は蝦夷を以て討べくといふ古事に習へて、源義家の進言を入れ出羽なる清原一族に賄賂し、更にして安倍氏への反忠せし勲ありせば奥州なる鎭守府將軍とて勅賜ありとの約状を以て口説きければ、事の他速に安倍氏への反忠を約したり。

ときに安倍一族をして是有るべく清原氏を覚りて、軍謀の企を一切通達を絶したり。清原氏それと知らずして催促しけるに、貞任是に偽企を屆けたれば清原氏その旨、源氏に通達せしめ、あたら影もなき地處に兵馬を進め空挙の軍起をなせり。數度なる偽企に怒りて貞任に迫りければ、貞任答へて曰く。

吾が國の古来より、人をして上下を造らず、人をして殺生を禁ぜしに、倭王の政にや徒らに人の上下を造りてとどまらず。祖に神たる史を造りて尚とどまらず、手向なき民を制労に苦しむ耳ならず、國土の環を一如に賦貢を皇化の税と蒙らしめる。彼の倭國を望むる輩の出づるは吾が一族に在りきに、倭人是を稱して蝦夷なるを征せむ名將ぞ蝦夷を以て討たむと曰ふ。若し汝がそれなる輩に心賣らばや祖来なる丑寅なる日之本國は永く子孫に圧して制らるむ代々ぞ續かむ。

茲に貞任かくさとしけるも清原武則、狂気の如く、安倍一族たるは井中の蛙なり、吾れは世の先を望みて謀らむなりとて、去り行きぬ。武則、此の日に源賴義がもとに走りぬ。一族三萬餘騎、是れまさに今より敵となりぬるこそ蝦夷は蝦夷にて討なむ倭國の諺を證しむ。

清原一族を味方とせる賴義に亦任期を了れる康平四年なる十二月に至りて、以外にや賴義再任ならず髙階經重、奥州討伐總將とて任ぜらるや、康平五年三月挙兵、六萬八千騎長蛇の如く發す。髙階經重、兵を坂東横断に進むとせむや、従卆の將士安倍川を渡らず皆引返しぬ。これぞ坂東に不穏なる武家衆蜂起すとの露拂に傳達さるに皆、軍を退かしめたりと曰ふ。

事以外になりけるその因原は源賴義が策とも曰ふ。朝廷に於ては源氏を以て陸奥を掌据に及ぶれば、坂東より以北に政所移りて朝廷の王政、彼のままに左右をなるがままに權政の移らむとぞ進言せるありてこその將軍改なり。

然にや賴義なれば坂東に事起らずとて、再々度征夷大將軍とて任じられし賴義は、坂東各氏族・豪族に奥州討伐への參戦を募りしも、たれ應ずるなくその通行を防げざる耳約したり。去る年、賴義が進軍を防げたる坂東武家諸族に賴義、何をか以て是く術能く相成りたるは、多く清原氏の布令に依れるものとも曰ふ。

康平五年七月、此の年を以て源氏と爭ふこと十二年。命運を賭けたる大戦いよいよ以て風雲急を告げたり。安倍一族に攻手なる陣立ぞ、
第一軍清原武貞、
第二軍橘貞賴、
第三軍は吉彦秀武、
第四軍は橘賴貞、
第五軍に源賴義・清原武則、
第六軍は吉美候武忠、
第七軍に清原武光
なり。かくある軍陣をして、いかにか清原一族の占たる安倍一族討伐行ぞ、源軍八千騎・清原軍三萬二千騎たり。

對せし安倍一族の總勢二萬六千騎にしてそのかまえに
第一陣小松柵安倍良照、
第二陣一ノ関安倍道照、
第三陣衣川柵安倍貞任、
第四陣鳥海柵安倍宗任、
第五陣膽澤柵安倍家任、
第六陣黒澤尻柵安倍正任、
第七陣江刺柵安倍重任、
第八陣紫波柵金為行、
第九陣矢巾柵安倍行任、
第十陣厨川柵・宇波古柵・赤淵柵ら、安倍一族總勢の陣
と定め、武運なく脱路をたどらむとき生保内柵を隠城とし茲に安倍重任を主とせしも、後に安倍則任をして當れり。

右原書寛治元年六月廿日、髙畑越中忠継氏の戦陣記
所藏 若狹國小濱安倍家
天之巻了筆

奥州五十三郡風雲録 原漢書

康平五年七月二日、反忠の清原一族、源賴義之幕下に入りて営岡に合軍す。八月九日両軍陣立を定めたり。

時に安倍一族にして應戦布陣を定めしも、領々廣ければ少勢をして官軍の夜営を襲ふを常とせり。その先軍に主將金為行が當り、先づ以て玉造郡葛丘村にて後方に續くる官軍の兵糧・討物運送にあるを襲ふて略奪しける。亦、物見を斬りて進軍の道に狂はせ、栗原一の迫にては官軍断食に苦しめり。兵は馬を殺して喰ふも萬人に与ふならず、日に三百頭餌食となれり。

官軍は先づ以て兵糧守護に大勢を配しては安倍一族の忍兵、官軍の軍馬を毒殺せしめ、官軍日毎に徒兵進軍と相成るまま小松柵を攻めたり。この柵を護るは安倍良照にして九月五日の日に柵を放棄し一関に退くを官軍は追ふも、その道々にからくりあって死傷多くいだしぬ。

安倍一族の戦法の一義は利ありて攻め、利なきに死守する勿れと戦訓にあり、人の命脈こそ大事たれ、と日ふ。是の如きは髙祖安日彦王の代より一族の掟とて戦法を、誘敵囮滅法・退城焼却法・民家領民不残法ら十六法を以て對戦す。

然るにや先戦と異なるは、安倍一族の戦法ことごとく知りて兆む清原軍に千兵萬馬につくして應戦せる衣川柵も、地の理を覚る清原軍に要を突かれ三日も對戦得ずして安倍軍は退ぞきたり。ときに安倍貞任、鳥海柵に在って謀り、先を讀まるる旧法を改め、東日流なる津保化族が用いき戦法に試したり。

依って小勢乍らも鳥海柵は能く源軍を防ぎたり。是の戦法とは柵に一兵も置くことなく旗差物を髙く敵視に當て、柵化に兵を伏して敵なる弱陣を襲ふ。夜半の攻に敵、橘貞賴・賴貞兄弟は討たれ、吉彦秀武は捕れ、茲に官軍一萬二千騎ことごとく誅滅す。追日にして官軍の夜営をして騒々なく屍をさしむを清原氏とて術なく呆然とせり。

然るに是の戦法も賴義に讀まれ一挙に鳥海柵に攻めては、もぬけの空にて柵上にひるがえたる旗と見ゆきは尻糞の付くままなるふんどしらにて、官軍阿然たり。

安倍一族の敗走遂にして厨川柵を以て決せるかや、全總軍を諸柵を放棄せしめて詰寄せたるに貞任、一族に戦の終焉を告ぐ如く訓令せり。

清原一族を反忠させたるは天命のなせるところなり。祖来にして敗らるを知らざる日乃本の武威。古くは上毛野田道將軍を誅し、海来たる阿倍引田比羅夫も東日流亦宇曽利外濱に誅し、近き代は坂上田村麻呂を逐電せしめたるに吾ら茲に十二年なる不眠の戦々、今更に敗るとも悔あるなし。依て茲に安住なる日髙渡島・宇曽利・東日流、更に遠きは流鬼・山靼に生々安泰の地あり。歳若き者は次世を継ぐる一族の命脈なれば、敵至らぬ先がけて生保内城に千に越る數とて仙岩を登るべし。

と覚し、自からも乳兒髙星丸を飽田へと脱がしめたり。九月十四日、官軍半滅し一萬三千人、安倍一族は若武者を脱しめて残る數は二千八百人にして、その支城・嫗戸の柵に分て官軍の寄手を向いて對せり。

もとより死を覚悟にして残りたる一族の老いたる武家ばかりにて、ただ父のもとを離れざる貞任の長子耳、枯枝にひとつ残れる柿實の如く嵐前の華にも似たるを居並ぶ老將の涙を誘ふたり。

康平五年九月十七日、厨川柵・嫗戸柵を包圍せる官軍は柵週にある民家を破し、この両柵の風上に破木を山なす程に積上たり。攻て艱攻なる深濠。依て思案せる策なり。風向いよきを以て火を放つれば火炎は濠を渉り立木を焼きて、遂には舘を炎せしめたり。安倍一族の戦に籠城せるは二日にして空しくも落城の破目と相成りぬ。

玄武・朱鳥・青龍・白虎に備へた城門を押開きて城外にいでくるを容赦是無く弓箭に射られ、屍を越えて斬かかる老兵の死ざまぞ哀れなり。安日彦王・長髄彦王以来、陸奥に君臨し一系の君制國土はかくの如き炎に燃盡きよう中、柵の樓にて安倍貞任父子は見事に自決をして果たり。遺歌に曰く、

〽命あり暗き浮世の永らへも
 逝きける末の夢ぞはかなし

千代童

〽世の常に逆ふ人の空しさを
 残しき跡に雪ぞ降れ降れ

貞任

何事の意ぞ、自決に座臺せし矢楯の板に遺せし父子の二歌に相通ぜしは、ただ世の無常耳なり。官軍の慈悲もなき刃に父子の死首は打落され塩詰にされにしを、髪の乱ぞ櫛引かせ給へと哀願せし下僕に赦して結髪了るや、その前に太夫様・千代童様、吾れも俱を仕るとて自刃せり。

平永衡の斬首刑に源軍を遁がれたる藤原經清は、不運に捕はれたるに依って、永衡もどき慘刑に經清は果てたり。ただ火煙に息心失せし安倍宗任は源氏の薬師に依り生を返しけるを賴義、禮儀以て京師に捕客とせるときに、罪もなき千代童丸の首級をあわれみて請願し、胴に返し埋火葬としたる後、重任及び貞任首級は京師に朝廷の審判にかかり、貞任の首級は三條河原の立木に八寸釘にて打付けられたり。

七日七夜をさらされしを、伊予流刑となりにける宗任、兄貞任の首級を賜下されきに宗任これを火葬なして後、松浦黨主とて筑紫にありき宗任これを東日流石塔山に胴葬されし貞任墓に屆けたりと日ふ。

右原書、永保二年記なり。
地の巻了

追而
右原書何れも同人の記なれど、記逑年頃年代前後相たがふれども同人記のままに㝍す。

寬政六年八月二日
秋田孝季
右明治己已年十一月一日再譯
和田長三郎末吉 花押

北辰之古話

東日流三千坊之事 原漢書

古来、東日流にて佛場の古きあり。三千坊とは阿闍羅千坊・梵珠千坊・十三千坊をして曰ふ意なり。

三千坊をして各々古傳ありて、要せる處ぞ中尊信仰の基なり。太古にては石神を以て俗人の信仰を掌据せるコミソ・オシラ・イダコに占法を異にせるも、佛法至りては神佛をして混合せり。

先づ十三千坊にては、今になけれど阿吽寺・長谷寺・三井寺・禅林寺・壇臨寺・春品寺・龍興寺・十三宗寺らありて、栄ふるは興國の津浪起りき以前なり。梵珠千坊にては梵場寺・大光院・不動堂・大日堂・西院堂らにて、阿闍羅千坊にては大圓寺・久遠寺・不動寺・大光寺・薬師堂・極楽寺・福王寺らにて、安東一族に依る修験道・眞言宗・天台宗・大日宗・倶舎宗・念佛宗・律宗・法相宗・臨済宗・華厳宗・法華宗・禅宗らを以て、法灯の絶ゆなき三千坊に緣る古話多し。

一、ほう葉經

世にはかなみ、苔華香くはしき深山に方丈のいほりを住居とせる求道行者あり。大自然なる山海見上ぐれば大宇宙なる神秘に靈感を求め、至心の道を得むとて日夜難行なる山に登りて旭日を拝し、夜半に星座七星の北魁星を拝しぬ。

彼の行者を以前に尋ぬれば十三湊なる安東船を唐天竺までに至る船頭にして、その名を越後屋金兵衛と稱す。若きより山靼・朝鮮・支那・南藩・天竺までも潮路を乘越えたる猛き海の覇者たり。この一航にて船方を辭むるとぞ、一航がまた一航とて、海な潮騒が彼なる心を誘ふるまま歳六十路に越えて今年に船降り、この瀧津瀬ある不動山に入𡶶せり。

方丈に住居なせるも、出家にぞ得道を求めたるなけり。ただ心に何をか求めこの地に世を捨てがたに己が心になにをか感ぜるままの行なり。神佛の何をか念ずるなく只一向に朝なる旭日、夜半なる北魁星を拝しける耳なり。一年二年とぞ己が感ぜるものとに近けむを覚りつも、その機に至らず、今年亦秋至りぬ。

行者ふと住居に枯落るほう葉に目をみやれば、何をか文字なるに見ゆむありて驚けり。人なる書筋になけれども彼の行者、是を經紙に書き取りて讀みけるに次なる如く判断を得たり。

在天日月星光、在空風雲降雨雪、在地山海産萬物子孫。如是在天然生命、以生死在輪廻。汝能是天然不逆、聞天地聲可。以諸行求道是無常、不非無者。汝能交衆生々空渉勿。

かくの如く、これ六枚のほう葉に記されたる字跡なるに怖れ、これなるほう葉を大事とし、一刻をして再讀せむと神棚に奉じたる葉を再度に見ゆれば何事の字跡なく、ただなる枯葉たり。

彼の行者、證するに失したるを、この枯葉を焚火にやるや、大油を火にかけたる如く燃えあがり、その火炎中に不動明王顯れ、汝その經を能く保つ可とて消えぬ。

以来彼の行者、これなる方丈を去りて邑に降りこの經を衆に説き、衆の病を治しければ、彼の行者方丈に住居せる瀧津瀬を不動の瀧とて祈濤道場としけるにや、今に遺りける浪斬不動の由来となりぬ。

寛政六年十一月七日
秋田孝季

追而
波斬不動、東日流中山に在り。水流三段、總髙二十丈にして水清し。道𡸴岨にして岩崩れ、森林深し。

二、石神之由来

古来より奥州に石神を祀る習あり。古祖阿蘇部族・津保化族・熟族・麁族の統一せる神に三神あり、三祈禱師ありぬ。天を神とてイシカ、地を神とてホノリ、水を神とてガコなり。

各々神祀る司あり、前世過却の靈媒イタコ、現世諸行を占ふゴミソ、末代に甦る子孫長久を祈るオシラなり。是法は山靼より来る人渡りに傳へ遺るものなり。神とて祀る對象とて、石神を神相となせり。

渡島にては日髙カムイとて、巨石各處に在りて祀處多し。東日流・宇曽利・糠部・鹿角・火内・飽田・庄内・新庄・閉伊・和賀・陸前・磐城・越奥・坂東に至れる石神ぞ、萬處に遺りける。

石神とは大別にして三種あり。總て天然に創らる、人をして工造加へざるものにて、大小にかかはらず穴ある石、男女の陰陽石、神印のある可き石類なり。湲川亦海濱・山野に巨石ありきを、徒に庭石亦土臺に用ふる勿れ。能く三師の祈禱にて、靈無きを用ゆべし。若し是を迷信とて用ゆあらば、己はおろか子孫皆滅の祟りを拓くなり。

神石は祀りて利益あり、能く保つべきなり。神石に赤黄青緑黒白紫茶金銀の色光にあるべきあり。亦、穴に吹きて曲音の鳴る笛石ありて授るあらば、神石拝むるときに用ゆべし、必ず慶事あらんや。必ず天然に創造なるを工に加ふべからず、能く護るべし。人をして神は創れずと思いとりて祀るべし。

寬政六年九月十九日
和田長三郎吉次

三、神木之事

天地水の靈は招靈して老木ジャラに天降ると曰ふ。四季に落葉なく常緑の草木を以て、ヌササンを設しべし。亦、落葉樹とて幹三股のジャラを伐しべからず。その材を用ふるは火難・水難の蒙ること明白なり。亦、家族に以て病人常に絶ゆむなし。木瘤を立木より切取るべからず。

これ神木なりせば、諸願を叶ふる靈木なり。神は天然を好み、人の設處いかなる神殿を設すとも降靈無し。

寛政六年九月十九日
和田長三郎吉次

四、魔障卽滅法

人の生々常に安かるなし。運勢はその吉凶を判断せざる者をして顯る。抑々天照す日月星の惠光ぞ、人をして照る照らさざるなく平等なり。然あるに人は心に依て安しきを望み、魔道と知りつその道に堕ふ多し。

神佛の教は正邪に紙一重なり。人は苦に離るを願いその祈りに速復を急ぐ餘り、邪道外道に尚誘い易きなり。魔障は神なるに依りて至らず、汝が四衆の誘魔に犯され易しきなり。卽ち親近にあるべき人の言を信じ神門を選びて信仰せども、その道ぞ魔道なるや否、己が正念に以て判断に無くただ委せける信心に諸魔寄付るなり。

茲にかかる赦法あり、能く覚るべし。魔衆は明を嫌ふ、亦人をして學に長ずるとも心に信心なきに取付なり。依って命運、生々をして異りぬ。信仰とは、身心の一如に非ざるを知るべき大事なり。卽ち身と心は一宿なれども、異るを覚るべし。如何なる人間に於て、生々身心同かる無し。時にして世襲の至る心の轉動に燃え、ままならざれば放心、常に変り悩むる老衰は身をして心を不動ならしむ事なかりき。もとより身體八腑は心のままならず、心に以て身は従ふともその反きは病を以て心に報復す。これを魔障とて神佛に祈り薬師に手脈を委ぬるは心に身を案ずるの悔なり。

依て身心は常に同宿故に心に以て陰に隠れず陽に當るべし。魔障は四衆なり、迷信なり。能く己れに覚むるべし。常にして身を錬磨し心に破邪正道の行途に閉ぐを祓い、四衆の誘言に惑はず、天地水の理りを心せよ。依て身に安楽を與へず心に諸行を冒頭せず、ただ一歩の判断を神に祈るべし。時に神は覚に野望なき汝は救はれむ。

常にして神に無我の境地たれ。心に稱へよ、身を清め己れの弱き覚り強きを向上せよ。

アラハバキイシカホノリガコカムイ、ブルハンカムイ、タルタロスカムイ、イホバカムイ、アラアカムイ、ヤクシイカムイ、シバカムイ、オオデンカムイ、諸神金剛不壊摩訶大神通力饕餮力與吾心身給

と稱ふべし。

寛政六年九月十九日
秋田孝季

五、山靼しるべ

太古神ブルハン神なる水神、モンゴル大湖タルタロス神なる天神、オリンポス山・西王母神なる地神、天山に生死を賭たる萬里の旅は、船に馬に歩むる山靼への聖地に赴く信念一途の旅程なり。

安倍一族にありて語部にあるべき者ぞ、志して是に赴き、歸り来たる者を語傳師とて敬いり。語部に曰く、山靼への永旅に出づるは先づ渡島宗谷岬より流鬼國に渡りて山靼なる黒龍江なる河口湊より大河を登ること久しく宇蘭宇无手にたどり、ブルハン神の鎭座ましませる大湖に拝し、更に蒙古を天山に至りて天池にたどりて西王母なる神湖に拝しべく、旅三分の二を果たしぬ。

更に大砂漠ブハラにたどりコムを經て黒海なるハツミ湊に至り、舟にてウスクダル及びトロイを經てラリサに至りて、ようやくオリンポス山に赴るなり。天なる神々の王ぞ常任せると曰ふ。

タルタロス神他、王神の次神等に拝し、茲に全能なる果報を得ると曰ふ。山靼國西果なるギリシアなりと曰ふ。

享保二年二月廿一日
語邑 帶川眞吾

六、泰平山之山神

秋田なる旭川邑にマタギ六右衛門という弓の名人あり。邑人ら彼を稱してマタ六と呼べり。

彼が射る箭竹は八郎畔なる生竹を用い、弓帳張りは田村郷の山竹を用いたり。何れも彼なる手造りにて、狩犬は山狼の子を飼てつれゆくなり。狼ぞ犬と異なりて飼主を他に馴むなく、大熊とて彼飼ふ五匹の狼にかかりては遁處なく圍み、マタ六の弓箭に射られると曰ふ。

この狼を飼ふに至れきはマタ六が二年前、勇猛な親狼、雌雄射殺して歸りしなマタ六に背負はれたる二匹の親狼の臭を追いて付いてくる五匹の子狼をそのまま飼けるも、射殺した親狼を今更に生返すもならずマタ六、その毛皮をなめし身に着るやその子狼、マタ六を親の如く馴みそのまま飼はれきも、五匹みな雄にて勇猛なりせばその子を得むとせるも雌狼得ずして得られず。

マタ六これを犬との混子を思付き、火内のマタギ仲間より五匹の雌犬を得たり。案に外れず雌犬、子をなせるも尾の丸巻りたる混子ばかりなりせば、マタ六これをよしとせざれど、その夜に泰平山なる山神、マタ六の夢に見せて告げにける。

マタ六は夢のなかなる泰平山の祠堂に土下座し居れり。髪長き白衣の山神、マタ六の前に顯れて告ぐ。

汝六右衛門、夢疑ふ勿れ。我は泰平山なる山神なり。汝は我が使なる狼を射殺したれば、汝を天誅にせんとせしに、その子狼を育てけるに依りて赦しおきたり。さて汝を讃むべきは、猛き狼と山靼犬とを雌雄とし子をなさしめたるは末代に狼系を絶さざる行為にて、神の悦ぶところなり。以後、狼犬混生の子を秋田犬と號くべし。必ず以て人に馴む犬とならむなり。尾の右に巻るは陰神を顯し、左に巻るは陽神を顯したるものにして、これ雌雄の別なける尾巻なり、

と告らる。マタ六は夢覚たり。以来この狼犬混生の犬孫多く飼れけるなり。

寛政六年十月二日
秋田旭日邑 甚吉翁談

七、怪火天降

奥州に女火山・男火山と曰ふあり。髙きことなけれど山號の由来、奇なり。天平二年弥生の頃、天空より白日の日輪もその光照を奪はれけむ二つの光塊、何ものも光に溶す如く瞬時にして大地に落降り二つの山林を焼く。

地民、山火鎭みてこの山を見ゆきければその間、數里を隔って地に潜りたる怪光塊、その餘熱を以て山林を火事ならしめたるものなり。地民是を女火山・男火山と號けたるは、一方赤光、一方白光にして落下せし故に稱したり。

然るに彼火塊、山土深く潜りて終たると思いきや、六日を過して光り無く銀球の大玉となりて北魁の星に向いて飛却りたり。そのさま、以前の如く見證人少なければ誰ぞ信じるは無けり。卜部なるに尋ぬれば、宇宙なる神住むる星より来たる女神・男神の降臨せしものにて、この國をして祀らるる荒覇吐神との議談に訪れたるものと曰ふ。

然るにや、この山に神なる社も無ける處にて、今にして女火山・男火山なる地名ぞ遺る耳なりしも、人々登りて怪なる話の出づる多し。

寛政六年十月卅日
菊地庄五郎、口説

八、阿陀多羅山悲聞

奥州の阿陀多羅山に古話あり。その昔、この山に祀る荒覇吐神なる聖境あり。四方の美觀に、麓なる本殿ありきも寄るべなく、聖境に登る者多し。依って本宮を解社なしけるに講中に決し、その聖地に建立せり。

然るにやその後、阿陀多羅山震い火吹くこと暫々なれば、人の參拝絶ゆること久しく社殿は荒壊し、神なる玉祠風雨に朽果たり。とき久しくして土湯にまかりて湯治せる市太郎と曰ふ松川邑の百姓、湯場屋にて夢むること六日續きて、阿陀多羅山なる聖境の神ぞ夢まくらに立つて援けを請ふを夢見て汗あびぬ。

依てくだんの市太郎、何事やあるらんとて登りゆけば、道に暮れ道に迷いて途方に惑いたり。野宿を決めて老木の幹に寄添へて寝そぶれば、十間に灯の見ゆ山小屋あり。市太郎悦びて、その方に歩み軒に立って一夜の宿を請ふれば、外戸開きて年若き娘、心よく招きたり。

市太郎、屋内に入りたれば、老いたる老翁床し居りて眠り、市太郎思ふに世に忍ぶ父娘の住居かとぞ口にいださむとするも、何故か娘に聞くを黙したり。武家なるか老翁のまくら辺に業物らしき大小の刀、鹿角にかけおき七尺の手槍と覚しきを屋桁にかけおきたるを目にせる市太郎に娘は見やり、身内の話を語りたり。

我ら親娘はもと神職にありて講中の信者を暮せしが、阿陀多羅山の噴火以来參ずるものなく、修理固なき社は遂に朽果て、杣夫小屋に住み居りて十年に及ぶると曰ふ。彼の神職は支倉貞繁と曰ふ、娘は袖と曰ふ。なぜなる世隠れぞと問ふれば、支倉家故に宗教改めに依りてキリシタンの汚名にて、二本松藩にて山中隠居に追って今に至れりと曰ふ。

支倉と申せば、伊達藩のローマに往来せし常長をしてその一族なれば、かくある悲運に生々せざる得ずと曰ふ。市太郎曰く、我は土湯にて夢むる神は、この父娘を救ふべく夢にいでこしたるものなり。依て吾が在所に降りて老翁を安養たれとてその仕たくにや翌朝、松川に降りて親かる者八人をして登りたるに、このあたりと覚しき處に山小屋の所在探れども、空に消たるか地に消えたるか跡形もなし。

来ついでに聖境を訪れて驚きぬ。金銅に造られし荒覇吐神なる神像は、草に放ざれたるに市太郎是をいだきたれば、そのかたはらに白骨の遺骸二體あり。これぞ昨夜の出来事ぞ、亦夢告なりと覚りし市太郎、これをねんごろに葬り、神像を我家に入れたれば常にして市太郎、彼の袖を夢むなり。

寛政六年八月一日
秋田孝季

九、宇曽利の石神

東日流を東に半島あり、三郡に分す。宇曽利及び糠部・鬼振なり。内海あり、是を外濱亦大濱湾と稱し、宇曽利西濱に立群せる石、奇岩あり。古来、寄波にて造らる天然造像なり。古人是を海神とて崇むるイチャルバなり。

寛永十二年五月一日
蠣崎大五郎

十、奥州五十三郡之石神

東日流吹浦追羅瀬なる將軍塚、三輪邑なる石神、大鰐邑なる石塔、入内なる石神、中山なる石塔、糠部戸来邑なる上石神・下石神、迷ヶ平なる石神、陸州姫神岩神、三石神社なる石神。是れ書餘れる程なる石神なるこそ、荒覇吐神なる信仰ぞ奥州に深し。

天然なる巨石を聖地に運ぶる業、まさに神通力とぞ思はるる遺跡に巡りては、太古なる神仰ぐ信念ぞ、その一念亦強し。石を神とし、石を刃とし、石を飾るる玉造り、石焼きて皮鍋にて煮る糧食。是ぞ古き祖より今に傳ふる大智の因なり。

寬政六年十月廿日
秋田孝季

安倍一族之顛末記 原漢書

前九年の役と日ふは、康平五年厨川の柵炎上なして了る。然るにや、一族にして安住地に脱したる者、武家及び旧民十八萬人とも何處に散りにしや、源軍の追討安倍一族に及ぶなきは、敵味方何れに以て續戦の力つきたればなり。

總主貞任の自刃、副將宗任の虜と相成ると曰ふ世報にして、その實に於て宗任は朝廷に重くもてなはされ、流人とは世報耳にて密に奥州より安倍一族の旧臣を入れて美作・筑紫の國東・伊子・肥前松浦・長門豊浦に招住せしめ、宗任を總主とせる松浦水軍を實成せしは史實なり。

依てこの地に安倍・安東・安藤を姓なせるもの皆、奥州日乃本將軍の旧臣・緣者なり。朝廷また前九年の役にては清原氏の反忠ありて十二年に及ぶる戦、了れるも清原氏を奥陸の鎭守府將軍とせし源氏との誓約にて君臨せしも、武則親族に占らる皇領化賦貢の税みな私とすること安倍氏が治世より尚雲泥の相違にて、民を憂はしめたり。

依て是を討つべくして討たるは後三年の役なりと曰ふ。然るに戦勝奏上する源氏を京師に遠避けむに仕向きたる朝廷にて、安倍氏に深く緣れる藤原氏を以て鎭守府將軍とせり。かくなる權謀の糸たぐりては、筑紫に於る宗任の隠密奏上に依れるものと曰ふ。かくある安倍一族の實態は歴史なる公裏に重き力量をなさしめたるは、朝廷の他に知るべきもなし。

日本將軍安倍貞任の實子次男髙星丸、旧臣十二萬の旧領民を東日流平川郡に再興せしを追討せざるに依りて安東氏とて起り、京師との密謀にて源氏への警視を藤原平泉方と合せ朝廷が暗目勅許にありきを知らざるは源氏にて、その鼻をくじきたるは平氏なり。平氏また驕りて源氏に亡び、朝廷のおもわく外れ、源氏に政事を奪はるるの破目となりぬれば、權謀術數互に疑ふるは平泉崩滅にて武家の國政幕府を以て創りぬ。

時に内力ありき安東一族の實策や、松浦水軍と相謀り安東水軍起り、幕府を右左せしむ計々術策に、源氏内亂にて幕府は北條氏に移りて、茲に安東水軍起り皇政復古なりけるも、朝廷の軍資倉處たる東日流十三湊に起りし興國元年なる大津浪にて水軍潜滅、領民十萬餘なる災死にて、京師への賦貢は絶し、皇政は足利氏反朝に崩る。世襲は南北に朝廷を爭い、足利氏實權また近の間、諸國に立志せる國盗り、世は戦國とぞ相成りぬ。

まさに諸行無常、安東一族ぞ深く朝廷と結びその證とて若州小濱に勅願道場羽賀寺再興建立、主筋をして氏姓を秋田氏とて世襲に習ふる大名の座を今に保てり。想ふれば安日彦・長髄王を系譜に奉りて一系をして現陽に君座あるべく君主はありまず。皇系とて疑しく思い取りてはなきにしも非ず。なべて歴史の表裏何事あって離るることなかりける。

享保元年十月一日
筑紫國東安東邑住
守江豊後忠季

地名史典抄 原漢書

吾が國東の地名に於て古事を審せむに、耶靡堆國阿毎氏の流れ安倍日本將軍國東クニハルの名を遺せるものと曰ふ。由来に曰く、陸奥國来朝の主、安東城に在住して國領を治む頃、韓人なる金済徳なる案内にて豊前耶靡國川の湊に舶着し、大元神社に參拝す時に神なる告ありて、宇佐の石文を讀解く旨なる神勅なれば、地に赴きて耶靡臺丘なる石文を見るや、是れ東日流語部印なり。

依て難なく漢書にて解たれば、耶靡堆大國主が奉斉せる願文なり。古事世のこととて讀れざる石面あり。是と同文なる彦山なる石文に拝し奉りて解ぬ。その意趣に曰く、此の國は耶靡臺之國にて、その主は倭の耶靡堆王の舎弟なり。名を背振彦とて筑紫なる嘉瀬川の辺に耶靡堆と邑名付けて住めり。土肥ゆ國にて平らか擴野なれば、地産に富み地の主ら二百七領に分つて住みぬ。

神崎に髙倉置ける主あり、二百七領を一統し國を造りて耶靡壹乃國と號けたり。子に男無ければ一人媛に彼の背振彦を迎へて國併せたり。以来、國四方に擴むこと加之主にて鳥栖邑彦王と日ふ。後継、背振彦王に亦男なく一女あり、卑弥乎と稱す。男子を優りて諸事に衆を從事なし、兵を挙し朝鮮・支那に使を交す。

國能く治りて此の碑を大元神・宇佐神・彦山神に奉ると曰ふ石文なり。地人に説きけるも、今は國主相変りて筑紫は磐井王なりと。この石碑を石馬に刻りて失石す。是倭朝に密告あり磐井王亡たる因は神なる裁なり。後世に是聞せし安東貞季、祖代國東を愢て國東巡脚の碑建つ處、國東邑と相成り加之半島を國東と號けたる故緣なり。史に隠るる耶靡壹國は筑紫大里にして疑ふべからず、念じ置者也。

享保元年十月一日
守江豊後忠季

般若坂物の化退治 原漢書

康平六年九月十七日、和賀なる國見に毘砂門堂あり、途中に一枚岩なる坂あり。是を般若坂ありて日洛して四辺暗くなりにければ物の化出づると曰ふ。

首なき武者の物の化なれば、夜な毘砂門堂に參拝に訪れるものなく、追日に人絶えたり。是れなるうわさを聞き取りて、豪の者よく来りて退治にかかれども、頭丸坊主に着衣丸裸に國見の松下にさらさるると曰ふ。

人々是を安倍賴良なる恨靈なるか、貞任なる恨靈かとぞ國中他、般若坂なる物の化を口傳へぞ諸國に涉りて、来たる武士・僧侶・祈禱師ら何れも坊主丸裸にさるは、その年なる九月十七日に限らると曰ふ。

久しくして寛治二年九月十九日、川辺左衛門と曰ふ賴良卽近の旧臣来たりて旧君の滅後に尚名を汚したる物の化とて、般若坂に夜半草木も眠れる丑満刻この坂を登りぬ。坂途にして道に垂れかかれる木枝に飛鳥の如く左衛門に襲い来るは白髪なる老武家にして、右腕無く左手に太刀を握りしむ怪人なり。左衛門、汝何者ぞとて問ふれば、吾れ舞草の刀工なり。

いざ勝負あれとて斬りかかるを一の太刀、二の太刀と受けて三の太刀に左衛門の太刀三段に折れ落ぬれば彼の刀工曰く、吾は舞草太刀を造刀し今宵、主君命日に以てようやく太刀なる錬鐡造法を得たり。幾度となくこの般若坂を試しに立合ども、かく満足に至べき相手無きに、度を今迄に重ねたり。

首無変化と見たされたは是の如きなりとて、手にしたる太刀を左右に振ふとみるや、道面左右の草が胡蝶の如く宇に舞い、見る間も瞬に刀工の首位舞草に隠る。かくある切刃に太刀持つ者、岐なきしもこの太刀もって討るなしと説たり。更にこの刀工曰く、この太刀せめてもや日乃本の君が御在命にあらばさぞや悦び召されたる事と悔まるなり。と涙々坂石をぬらせたり。

時に左衛門曰く、いやいやそちが拙者と立會せたるは亡き君の靈力なると推察仕りぬ。明日は故君の洗骨式にて極楽寺にての法要を営む故、そな御太刀を故君の再葬地、東日流石塔山に納むれば一切なる御金子如何程にとて御貴殿の仰せに委ね申すとて曰けるを、生在に間合ざる吾が太刀、気念無用にて御献上仕るとて、左衛門引受にしてかかる怪奇流言を衆に左衛門曰く、般若坂なるは國見の三尾なる老狐なりしも、舞草寶壽殿が退治せりと。

寶暦二年九月十九日
川辺七郎太

秘密道場石塔山

古来衆に在場を密とし、神事を幾百年に渉りて為せる社ぞまれなり。何をか以て密となせるや。一族の墓處にさえ世に忍たる故緣に未だ以て為せる、石塔山に於て天然をこよなく尊び、草木の繁るまま築墓に聖處に人の手入れざるは祖来の訓にありて今に護らる故なり。

親國なる山靼に於て然る處にて、古来荒覇吐族は王とて大陵を造らず、民とて素墓とせずと、追善五十年を以て天地水に委ぬるとて定めらるるなり。

依て安日彦王代より奥州に於て王なる陵なきの因なり。然るに唐韓の歸化人、好みて生前より己が陵を造る多し。異人なりせば詮なく赦したる陵なり。日髙見川添ふる處に陵あるはそれなり。是ぞ荒覇吐王らにあるべくはこれなく、惑ふべからずとぞ語部録に戒めありぬ。依て石塔山の秘、今に密とせるなり。

寛政六年八月二日
和田長三郎吉次

戸来上下大石由来

糠部なる戸来邑に大石神を神とせし社あり。三嶽神社と曰ふも、元なる三輪神社と曰す。古来より地産に石處あり。依て石を神聖たる神處多し。山岳多く山靼なる神々を入れ、加之戸来邑にてはキリストの墓など奇相な遺跡ぞ存在す。

石神にては自然なる巨石を神とせる上大石神・下大石神ら在り。連𡶶越ゆれば十和田湖あり。石ヶ戸など存在せるも人工なるものは無し。ただ巨なる石の神々しき。

寛政六年七月二日
秋田孝季

商益以て領民を富す 原漢文

世に金銭を先優とせるも、賣買の物資量に多少なる價格相違起りては、その國なる通寶富貧異にせむ。商益平等ならしむに物資を以て相商ふを安東船商法とす。

金銭なる價利はその國の定價にて、萬國相通用等しきなし。依て金銀銅を錢とせる支那への取り引ぞ、銭を物資に見取りて、その重量に價をなさざれば商ふべからず。互に物換にて相調和しなして損益なし。古来より商は、物資價格掛引きにて國に富貧を招きける。富てはおごり貧しき反亂起りて權々その力勢世にはびこる。

紅毛國にては古来より人智覚あり。その王國をして互に征々防々の興亡激し、神々さえもそれに引き用ゆありて、吾が國の戦亂史に越ゆ百年戦役など歴史に遺せるありと日ふ。丑寅の吾が國にて物換商益こそ國富ませる唯一の道なり。

労々無駄にすべからず。地産の物資異土に商ふこそ安らぎあり。より安航なる船ぞ造るべし。濤々の彼方に國あり。彼の國にては吾が丑寅の地産物資を欲し、吾等また彼の國なる地産物資を頂寶とす。その流通相續してぞ航々商益なり。依って安東船を以て水先を開くべし。

建仁元年六月一日
安倍太郎貞季
寛政五年九月十八日
秋田孝季㝍

海濤史抄 原漢文

丑寅に山靼湊、未申に揚州湊。是に航濤せるは秀なる造船にて安航し得るなり。海洋鏡の如き、常非らず。瞬風起りては怒濤逆巻く潮に隠る礁あり。船底突いては巨船も砕けること瞬時なり。

船人はそれに命をとも添逝くものなれば、海図・方向舵・風見日和見の學に長じたる船人ありて商益も成就しけるなり。抑々吾が海航にまつはる經史を學ぶべし。

北海の千島・神威茶塚・流鬼・常氷凍國、西海なる山靼・朝鮮・支那、南海の琉球・南藩・天竺に至る海濤の、ひとつに續く故に潮流あり。その忝しとも異なる故に覚感第一義とす。

安東船に三種あり、長航船・漁船・軍船にて、商船は長航船なり。明細なるを學ばむ者は是に實習しべし。

文治二年三月七日
安東宗季
寛政五年六月一日
秋田孝季写

伊治沼の古話 原漢文

戦火一瞬にして、千年に成せるを灰とす。かく為せる、人を制ふる主位の愚謀判断に生ず。古今に通じて悲しむるべき歴史にその興亡跡を見る。權々制々の跡に荒芒たる草木の土下に埋むる夢の跡々、丑寅の國に限るなし。

世に長じ幾代の權にありては、祖にして野黨の類なりとも、神なる如く祖を飾る。覚しくは天地水の神なり。末代に人皆智に才し至って、尚愚行盡きざるはなし。

奥州に伊治沼あり、古来丑寅より萬羽の水鳥飛来す。此の沼辺に好みて住むる國主ぞあり。日本將軍安倍安東なり。延暦二年、荒覇吐五王なる政處を此の地に移すとも、大舎を造らず。こよなく自然の美觀を保つたり。安東、衆に交るを好み、能く神祭をして唄舞を布す。四王にあるを召して説く。労に慰なくして人は生々に勤なし。依て吾が一族は、神をして崇め恐れ、この伊治沼・長沼辺に萬一の機に備ふる迫を造るるも、飛来鳥を害せざる處にぞ設くべしとて、沼八方に迫を設く。

迫とは、侵す者をきびしき見告の視處にして、是を日夜に兵馬を配せるにせしは、征夷大將軍とて倭國に大挙の兵募りたるを密に知りてよりなる備へなり。安東、謀りて議和を先とし、破談にして兵挙せるを旨とし、坂上田村麿とて西傳古史に傳ふる如き討伐行ぞなけるなり。両將は常にして議し衆に決して奥陸に佛道を布し、閉伊の西法寺・淨法寺を建立し、東西の泰平を祈處とせり。

日乃本國領な境を阿賀野川を岩代方に堺し、利根河を平ヶ岳に分水せる以北を日乃本國とせる定りをなせりと曰ふ。伊治沼・長沼を伊治の水門と稱せる太古に田道上毛野將軍、安倍安國に討たる古話なるもありて、日乃本國なる西司處とて永し。

寛政五年八月三日
黒川伊賴

蛇尾川怪奇 原漢書

那須岳なる三本槍岳・男鹿岳・荒海山を分水嶺とて流る那珂川なる上に、蛇尾川ありて景勝に觀望せる新天地あり。安倍國東、好みてこの地に住めり。舘を蛇尾川辺に建立し、坂東・越の化に謀りて國領固くせり。

此の地に神あり、地人これを山王とて恐れなし、神出づる處を山王峠とて十年一度び生娘なる生贄を捧ぐる習あり。その年となれり。國東、祖安國以来の錬刀ありて三尺二寸の刃渡りをなせる畔斬丸と刀稱す。此の太刀、妖なる者近けむとき鍔鳴りをせるに依りて、鍔鳴の剣とも日ふ。己呂曽邑に娘選ばれ八月十五日に生贄となるを泣けるを、國東この古習を留め、己が息女を身替りとせり。

日没に山王峠に登りて息女志賀と稱するをつれゆき、地の古習にネマリ岩に座をなさしめ、十間を離れて國東、太刀の鯉口きりて侍ければ、山の西方より猿の如き六人の杣夫と見ゆ者、息女を圍みて連れゆかむとせるを、國東いでてその者をけちらしぬときに六人の長たるべき大男、斧を振りて襲いかかるを國東、弓折以て叩き伏せ、五人を更に打のめしたり。

惡魔と思いきに、人さらいの仕業なるかと息女志賀をつれ歸らんとき、にわかに太刀が鍔鳴りを起し、満月一層冴え渡りそれなる月光に背を立てつる者あり。仙人杖を振りて、喝と襲ふ。まさに妖気を感じて、たづろぐる國東。筑紫より得たる大元神の護符ありて彼がもとに投げたれば、その妖怪遂に正體を顯したり。

世に五百年も生きにし鬼婆仙と曰ふ妖女にて、十年毎に若き娘の血を呑まざれば老い死ぬるに依ってかくある習を地人になせるものと語り聞かさる國東、太刀抜きて對せり。彼の妖術か白雲四辺に湧き、その妖女の仙杖一瞬に振拂はれるとみるや國東、後なる崖に足踏外し轉落せり。妖女、気を絶せる國東が息女をかかえ白雲の彼方へと去り消えたり。

國東、湲底より太刀杖に登り来て、妖女なる後追ふるも何處なるか方に惑いて困れるまま、四辺の山𡶶を見渡せば、はるかなる湯澤の山王堂に灯見ゆを赴りぬ。されば案ずる如く妖女、先なる六人の杣夫を相手に酒盛りて、怪なる仕業を始めたり。國東が息女を堂柱に縛りて妖女、器にその生血をとるべく刃物を息女の首筋に當切らむとせるを、國東が鍔鳴りせる畔斬丸を抜きて一挙にこの妖女の右腹を突くや、その血は青く流れり。

居合の六人、國東に斬りかかるも敵はず、畔斬丸に斬られて死せり。終りて夜明くれば、彼の妖女の遺骸ぞ白骨となりて崩れたり。以来、此の地郷に妖怪に生贄捧ぐるなく安泰たりと日ふ。

寶暦二年五月一日
岩代亥左衛門

我が記に想ふ

吾道奥巡脚之(※三文字欠落)石に聲ありぬ。長旅にいでて邑入り、邑外れの道辺に見らるるは、かげろう燃ゆ草いきれの中に石碑・道祖神・地藏・庚申塚・社標石などありて、足とどむありきは、首落たる地藏哀れ。

その頭を積付けたる人の信仰心に旅情きわむるなり。旅に遠く故郷を隔つれば、想はむ故郷こそよけれむありて、想はるる故郷こそ離れてぞ、それぞれ年經る毎になつかしむは吾耳に非らざるなり。

旅に史跡を訪れ由来を記すとも、邑ひとつ隔つれば同説亦異聞ありて惑ふなり。世に名髙き人ありきは、その墓各處に存在し、何れが實にあるべきや更に惑はむなり。然るにや、私心に判断せるはならず。徒らに調史を帳に厚くせり。

然あれど、それ無駄ならざる事なり。世にあることを傳ふるは、私を入れざるそのままなるを記に傳ふこそよけれ。これを後世の識者に遺してぞ誠顯れむ。道にあるべくしてありき石佛に聲なけれども、古碑に地藏にその古事を愢ぶなり。

一史多説、亦よきかな。何れも捨て難き故ありて遺れるものなりせば、吾が筆も楽しからずや。旅に暮れ旅に夜明くるもまた旅情あり。離れ難きに想う異郷もありぬ。道に石佛あり、一里塚ありて聲なきしるべなるや。

寬政五年十月一日
秋田孝季

陸奥無名史跡

原野を𤰹に拓し、鍬にかかれる太古の遺物を堀當るあり。亦大雨に崩る道崖の一層に今ぞ世に生なき石となりぬる骨や虫甲貝なる太古の生きものに、人の傳説諸々に遺るあり。

奥州にては大なる龍と覚しき石骨、能く東海辺に見らる多し。亦、川崖の崩る跡に古人の骨壺見らるあり。それなる遺物に人の勝手たる古話にあるべくは、誤に史談を遺す因となりぬ。奥州亦渡島なる未踏の地多く、その中に未知なる史跡亦多し。洞窟また石塔・石垣・水濠・空濠・ 正方角なる丘跡・道跡・住居跡・埋土遺物らをして世に知られざる史跡ぞ、なほざりにせざるを想ふるなり。

己が堀り當たとて古器・古神佛の像を賣買せるも亦然なり。昔より地に堀いでたる遺物のあるものは神社・佛寺に献ぜらるも、多くは江戸に賣却さるるを堀者の利とせり。依て奥州は尚以て史證を失なふものとぞなれるを憂ふるなり。他國に賣れたる遺物はその實態を奥州のものとぞせることなく、彼の舞草なる錆ざる太刀の如きは大宮人の持物となりて寶刀となりたるあり。

茲に戒むるは奥州なる遺物は奥州をいださずと心に銘じて護るとこそよけれ。西史は東史を底むを以て國史とせるを憎むべきなり。

寛政五年七月二日
秋田孝季

閉伊の名馬

古今に通じて奥州南部に名馬を産せること、六十餘州に聞こえむ。戦場にいでむとも驚かず、駆て速く、素草に耐ふる強健馬なり。地産の金と俱に、馬産亦諸國に抜けり。能く曰ふ、奥州の産金貢馬とは古来、安倍一族になせる遺岐なり。

馬の祖を尋ぬれば蒙古馬、更に今なるアラビア馬の種混成種原なり。更にして東海はるかなる大森林國より六頭の種馬雌雄ぞ、種差に大筏をして漂着せる古代馬ぞ美型にして名馬たり。

倭人、奥州を犯す故因に於て、かくある因緣ぞありけるも、閉伊を知らざる故に種馬失ふなし。古来、奥州馬喰は雌馬を賣らず、雄馬を脱睾丸して賣却せるに諸國に馬孫なかりける。雄馬より脱睾丸せる手法術、二才馬にしてなせるの法ぞ蒙古なる授傳なりと曰ふ。

古来、種馬を系にせる閉伊なる馬産ぞかく掟にありて、金鑛をも隠産し、馬種をしてかく護持されたる奥義なり。代々にして倭人なる征夷のなせる横暴ぞ産金貢馬に慾目の他、他因非ずたりとも、源氏の曰ふ討伐話あり。

寛政六年八月廿日
八戸小次郎繁時

元朝流鬼國放棄

吾が國の西域にては筑紫に蒙古襲来におののくに、北辰なる日乃本國にては鎌倉幕府方より元軍討伐なる挙兵を東日流安東水軍に請ふるも安東宗季、是と反して流鬼國に侵略せし蒙古軍と和議相成りて安東船をして山靼交易・揚州交易を十三湊より往来して安全たるは、元主のフビライハン及び揚州なる知事マルコポーロの信條に依るものなり。

マルコポーロ、紅毛國なるベニスの商人にて揚州湊にて安東船との永き商交の信ありてこそ能く親交し、流鬼國を退去し、持来たる大量の兵糧を与へて、冷々に不作たる奥州の住民に分なせける救いとなりぬ。是に依りて飢ざるに、救いの神とて奥州の神社・佛寺にマルコポーロ及びフビライハンなる木像を祀るに至りぬ。今になるその遺像あるは奥州のみなり。

亦、マルコポーロなる書に奥州をジパングと稱したるは、安東船なる船方衆より國號を尋ねらるるに、東日流の古稱ツパンと聞かさるより、紅毛國にては吾が國を今にジャパンとぞ呼稱せる由と聞きにける。

寛政五年十月二十一日
秋田孝季

閉伊東日流湊十二神山之事

魹崎を突きける如き十二神山あり。この崎を玄武にして湾あり。東日流十二湊と曰ふは安東船の来たる頃なり。

南部信直の頃、山田湊と稱號し、その邑長なる安倍五郎黒澤尻太夫正任の胤家なる安倍堯任が住居せる豊間根邑なるを姓と仰せて以来、姓を豊間根と改めたり。代々地豪にしてこの地を委ねられ、庶一族多く今に遺りぬ大旧家なり。

閉伊の地は祖を東日流にいだせる多く、山影なる川のみに東日流石川とて今に遺りぬ。

文化元年十一月聞書
和田長三郎吉次

忠臣菅野左京

康平五年八月二日、厨川柵にて舘主安倍日本將軍貞任に召呼れたる菅野左京、主君より生後一年に未足らぬ貞任が息子髙星丸を東日流へ遁しむを託されり。

亦それに俱なふ家来三千人、士農工商を相混へて遁行せよと命ぜらるまま左京は髙畑越中と俱に、安倍良照が室・藤の前を乳母とし嫗戸柵及び厨川柵より人を選び、奥陸國東日流への大移動を八回に分けなして、敵視に覚られずその家臣家族を抜しめたり。夜半に秋田生保内舘に仙岩峠を越ゆ一行と、安代に抜け淨法寺にたどる一行と、鹿角に抜ける三途を四百乃至三百人の老若男女が遁行なしけるなかに念を入れたる菅野左京は密かなる幼君の遁行を謀りぬ。

從護少か三十人、姫神山洞に忍び總移動東日流に至れりと認めて後、早坂峠を越え岩泉に至り、久慈・階上・尻内・野辺地・安泻・行丘を經にして藤崎に至れり。

一人の落者なくその數々を更に加へたる總數一萬二千八百六十人と曰ふ。馬八千頭の數に敵の物見とて誰気付くなく是を了れる。菅野左京よりその傳達を受けにし貞任、いよいよ決戦に後髪を引かるなく起てり。

寛水十八年九月十日
長谷甚八郎

奥州日本將軍支配諸郡

一、東日流、
二、宇曽利、
三、糠部、
四、鹿角、
五、火内、
六、荷薩丁、
七、閉伊、
八、仙北、
九、河辺、
十、平鹿、
十一、由利、
十二、雄勝、
十三、膽澤、
十四、江刺、
十五、岩手、
十六、気仙、
十七、磐井、
十八、本吉、
十九、登米、
二十、栗原、
二十一、玉造、
二十二、最上、
二十三、 飽海、
二十四、田川、
二十五、村山、
二十六、賀美、
二十七、黒川、
二十八、志田、
二十九、遠田、
三十、桃生、
三十一、宮城、
三十二、牡鹿、
三十三、名取、
三十四、亘理、
三十五、伊具、
三十六、 柴田、
三十七、刈田、
三十八、伊達、
三十九、信夫、
四十、置賜、
四十一、石船、
四十二、蒲原、
四十三、耶麻、
四十四、安達、
四十五、安積、
四十六、田村、
四十七、宇多、
四十八、行方、
四十 九、標葉、
五十、楢葉、
五十一、磐城、
五十二、磐前、
五十三、多賀、
五十四、白川、
五十五、菊田、
五十六、白河、
五十七、那須、
五十八、久慈、
五十九、那珂、
六十、塩谷、
六十一、會津、
六十二、魚沼、
六十三、古志、

右六十三郡を奥州と曰ふは、前九年乃役なるまでなるも、坂東への堺はその先に在りと曰う。

元禄十一年八月一日
藤原祐成

西海潮航之海路

安東船なる海易の史に明細定かならざるは興國の津浪に大因あり。ただ西海なる濱邑に遺れる幾多の遺物・古話の傳に史證の灯未だ消えず。その過却を愢ぶるなり。

抑々安東船なる商易に往復の商益を、荷上・荷降なくして船寄することなし。十三湊を以て北海諸産の荷をなせるは塩付魚・干物魚・干海草・貝干・鯨油肉皮・海獣毛皮・薬物原料ら多し。亦、羽越の諸湊にて産米・漬物・海産干物・金・銅・鉛・銀・鐡ら鑛材及び刀剣・具足・馬具・木工具・織物・皮細工・漆器などありて流通を易す。

秋田なる地湧油を塗なせる安東船は黒し。亦、船帆を三柱乃至二柱にして速し。海航に潜礁を記るせる海図に明細せしは、潮の干満・流潮の四季・変流明細などはまだしも、海風計りて日和判断に海濤・風波・荒濤を知覚し、その航濤安全たりと日ふ。

安東船造法に船図なく、支那なる邪无久船なる造法を用ゆ多し。造船に船図なきは、船骨なせる材木に合しその造程同じなける故なり。安東船は沈まずと曰ふは船胴仕切密にして、難に破船せるとも二重の胴張り施工の故なり。

寛政六年九月二日
秋田孝季

安東船商益湊

東日流十三湊より米代川口湊、土崎湊に寄りて砂泻湊に船宿り、新泻に寄りて輪島に船宿す。敦賀にて半荷を降し小濱に寄り、日御崎に船宿り、萩に寄り、更に赤間に寄りて筑紫松浦に荷下終りぬ。是を西廻りと日ふも更に寄湊多くせるもありと日ふは積荷の種にありきも、終湊松浦より延航なかりけると曰ふ。

東廻船にては糠部湊より山田湊に寄りて塩釜湊に船宿り、那珂湊に寄り銚子に船寄り半荷を下し、鯛浦に寄り鎌倉に沖停し仲師に荷降し、久里浜に船宿して荷下しを曰ふなり。この海交に益なければ絶ふこと暫々なりと日ふ。

北廻りとは十三湊より松前及び上國・江差に宿船し、船交へて余市に至りて渡島の海産物を仕入れ、米など荷下しを曰ふ。山靼往来と曰ふは流鬼國よりトナリ舟またハタ船を以て黒龍江を登るを曰ふも、商易は流鬼國のみにて交せり。亦、支那・朝鮮・南藩に商易せるは船もろともに賣却し唐船にて歸るを常とし、總ては揚州にて交せり。

享保二年八月三日
磯野仁左衛門

古代通商之水陸路

陸の道を商運せるは、砂漠に駱駝及び馬。水路に筏と舟から巨船に世襲をして盛む。何れも道に苦労なし遭難と曰ふ過酷に背合せたる道なり。古来、人は心の道、探究の道、諸々の道を相求め、諸行無常の道に生死を輪廻なして古今に遺し、襲世に試練し、その道を便利せしむ。

故に道を開き、河岸に橋を架け、山に洞を抜きて速達す。海路、亦然なり。手に漕ぎその船を速進しべく帆をなし、知られざる海の彼方に國を見てこそ海運にて人を渡し世界の産物を得て益す。陸にしてぞ、道近らしむに道造り馬車をして運ぶるに至りぬ。

然るにや人、道に渉りて住居をなし、國を造りては爭い、勝者をして敗者を潰し國広めて境をなせる、その攻防ぞ忌はしきかな。世襲に盛衰し、くりかえし世の歴史を遺しける過却にも、永く民を制うる者は神なる子孫とぞ史を造り、歴史の實相を狂はしむ。

人なる心の道説く神佛を司るものでさえ神佛をして教道を爭い、己宗に衆を誘いて据しその布施にて伽藍大社を設け、かくして上品・下品求めて救済無くただ布施を以て求道の位を戒名せる如きは宇宙の天界、萬物創造の神なる念怒を招きて亡ぶ報復あらん。

陸に海に道はかくあらんと覚って、人の世を正しく渉る道こそよけれ。古代より人は道を造り、海に河に果もなかりける荒野に、砂漠にそして山岳に。抜きて至れる道を閉くる勿れ。亦、心の道ぞ然なり。

寛政六年五月七日
秋田孝季

荒覇吐五王政國造

耶靡堆國主阿毎氏、その初代王を耶靡堆彦と曰ふ。その古祖は國に境なく人々適地に住み、亦望む處に移りて勝手たるも人、追日に多く生れ住むる地に幸貧しくなりければ餌に爭い、惠幸の地に爭いて攻防し、人集いて邑造り狩猟領域を巡り他者の侵駐を追ふる攻防ぞ、護國と國造りの創めなり。

阿毎氏はもと加賀の地にありき民なれど、國攻め取りて耶靡堆に國造りて成れるは阿毎氏なり。加賀に在りし頃より崇むる三輪山神を新地領に在る山を魂入りして三輪山大神とし、加賀より聖靈を移しめて成座せり。この社に祀る神にて、大杉にこもれる白蛇神を大物主神と曰ふ。

阿毎氏は地の蘇我氏・箸香氏・師磯氏・明日香氏を東西南北の離領王とて卽位せしめ、中央なる側にある阿毎氏と一國に併王し、是を耶靡堆五畿王と曰ふ。東日流にこの阿毎氏子孫王とて日向の佐怒王に破れ國落ける安日彦王・長髄彦王ら、奥州に民を併せ神を一統しける故ありて、地神を併せ荒覇吐神を祀る。

是れ卽ち天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコのカムイを總稱せしものなりと日ふ。この國を日之本國と號け、荒覇吐五王とて東日流石塔山に卽位を挙ぐ。北王に比利加志エカシ、南王に日奈禮彦、西王に蘇我宇奴、東王に宇鹿靡を配し、中央に安日彦王その副王長髄彦王を成り座して政事に國造れり。

元禄十年一月一日
藤井伊予

荒覇吐族とは

國を束ぬるに王あり。王を支ふるに副王あり、離領の四王あり。亦これを支ふる県主あり、郡主あり、これを支ふる部の民あり。山海諸々に暮せる邑落に区を束ねたる長老エカシあり、神を司るオテナありて智覚を與ふはイオマンテなり。

カムイを祀るヌササン、神を迎ふるカムイノミぞ焚き、イナウを振ふて諸難罪障を抜き奉る程に、至れる諸々の傳へを覚り神印・語部印を習いて次世に継ぐる一代生々を荒覇吐の民とぞ曰ふ。人なる生死界を渡るるに、安しきことなし。獨りにて成れる生々なく、衆交りて成る人生流轉を子孫の故に諸職諸學を習はしめ、祖傳を傳へ覚しむなり。

人たるは生れいでたるより覚ふるをとどめず。老いて尚、先に望みて學ぶこそ荒覇吐の民なり。古来、語部に依りて遺さるる日之本の歴史を想んみるに、餘多遺れる傳へに實に遠く存在に夢想夢幻なる作説の架空ありて神を創り、その物語を創りて衆を惑し、衆の心左右に從はしむる。神代なる神話にその信心を固くせるこそ、子々孫々に眞の神なる大宇宙を創造し萬物を創造せしめたる神、報復やあらん冐瀆なり。

神を祀るる荒覇吐族のイオマンテは、天なる一切卽ち日月星はもとよりその奥の奥の宇宙そして眼に見ゆ日輪・月面、青く亦赤くまたたける百千萬億兆の星々、空風を常に息吸ふて天降る雲に生れたる水を飲み萬物に生むる母なる大地に依りて生れ来たる己れを知らずして、神を夢幻に想定せる諸行に覚め身心を天命に安じ、以て己が生々に餌食となれる生ある魂に感謝なる拝念を捧ぐるになる覚りなくば人ならずと教ふるは荒覇吐神なる信仰なり。

抑々神と佛と崇むる現世の人心に於てをや。戒めん、古事層深しとて人の作れる偶像を拝みて何事の靈験やあらん。神に人の相なせるはなし。淨かに天地水の下に吾を覚り、吾が心の生ざまを悔よ。吾れ獨り想いに善生せりと心する勿れ。人の生々に罪なき者は非ざるなり。

一日生きるる己が口中に入る生命を殺生せる數を想ふべし。飯一粒、これ生命ありける種子なり。肴また然なり。何事ひとつ生々なせるものに罪なき無殺生の生々はなかりける。吾らが丑寅に荒覇吐族たる祖血を授け、迷導にぞ迷ふ勿れ、惑ふ勿れ。安心立命は天地水なる神の御通力に在り、人心に左右なるは叶はざるなり。依って心を外道に求むなく、天地水の眞理を覚るべし。

右以て東日流語部傳なり。

寶暦元年七月一日
藤原右京太夫

奥州風土記一巻之言

本巻奥風記に綴りたるは大事なる古事の傳へなり。倭傳の古事記・日本書紀などにくらぶるなれば、外道とぞ曰はれむ書綴なり。

然るに以て奥州の擴き國土をただ蝦夷地と日本史の化外無史に置きて、ただ史實のあるまずき征夷事の記を以てなせるは奥州の眞實史を閉さぐ壁をなせし衆盲にせる一方、倭史に以て衆を洗脳に人造る因書なり。

抑々歴史にかくあるべくは倭史に限らるなし。世界に視る國史の先ぞ、神に通ぜらるはなし。紅毛國に求史せば、神をして創らざるはなし。然るに侵したる地の惡賊と記逑せる日本書紀なる奥州への蝦夷記。吾らこの地に生れし者とて彼の史談ぞゆるしまず。

奥州なる日乃本の眞實史を記せる本書ぞいつ世に判断、聖に讀るる日のあらんや。拙者の祈らむ天地水に。

寛政九年五月十六日
秋田孝季

山靼國流通信迎遺物之写


救世主、エホバ、ブルハン、聖星ダビデ、ペガサス、キリスト、ピラミット/スフェンクス、新月を崇拝/イラム、オリンポス山/神王ゼウス

紅毛国神繪
色油に画作されしもの

文化甲子年二月一日
和田長三郎

津輕飯積之在家
和田家藏書