奥陸羽古代史諸證二

秋田孝季

序言

本巻は原書の虫喰に順じて記したるものなれば、時代次順の校正をならずして記逑せり。依て讀者をして能く判讀の労あるべし。

寛政五年十月五日
和田長三郎

東日流之諸傳一、

古き世より東日流の民は振って山靼往来をなせり。山靼に入りて世界を知る故なり。佛法に知る天竺の古史もその地に入りては一宗の理りなり。天竺の一統に近けるはブイエダに基きける多し。ブイエダとは古代天竺のアアリヤ民族聖典讃歌なり。

此の神は無上唯一の信仰にて、神の名はブラフマンと曰ふ。次にブイシュヌ、次にはシブアと曰ふ。此の三神は創造・保存・破壊の神通力ありて、天竺主神なり。更にはインドラ神ありて地と雷電風雨の神なり。

次にはアグニ神にて、火の神なり。亦次にはヤアマ神、是ぞ陰府の神。次にはスイリヤと曰ふ日輪の神あり。是の四神をして三界はその轉輪命運不滅と曰ふなり。この七神は東日流に於て七寶と曰ふ。卽ち三神は産生死なり。四神は明暗熱冷なりせば、是を三四みよ神とて祀れり。アララカラマ仙人を今にして飽田にては祀るありきはブイエダの行者故にして、婆羅門はモンゴルに渡ちて振はざるも、わが國にては安倍安國が入れたるものと曰ふ。

東日流之諸傳二、

東日流に佛陀の法渡りたるは倭國の佛法と異なりぬ。支那・朝鮮を經て渡来せると異なるは、佛陀はブイシュヌが化身せるものと曰ふ。生老病死に轉生せる人の一代に、佛陀は黙想の中に悟る第一義は、諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽と曰ふ。東日流にネブタと曰ふ祭りあり。是ぞ念佛陀とて佛陀を念ずると曰ふ意趣なり。

西北紅毛國人の傳へなるはエツタと曰ふ古書あり、その書に依れる神たるはオオデン、次にブイリカ、次にブエイと稱せる神なり。生命と靈魂、次には理と動、次には覚と生相なり。此の神を東日流にては是を夜光虹の神とて、北の常氷凍國なる神とて狩猟魚漁の山靼人より渡り得たるも、民心に振はざるなり。

寛政五年十月三日
秋田孝季

陸羽諸事聞取帳

日本國は坂東之安倍川より越の糸魚川に至る横断せる堺より丑寅方を曰ふ。國の創むる事二千四百年前にて、安日彦・長髄彦・渡島長老勘治貴利・東日流長老志戸耶奴・宇曽利長老髙奈男・飽田長老宇荷毛枝・閉伊長老雄奈貴利ら六千二百人及び支那晋の民三百六人を中山に集いて、茲に日本國と國號し、民族併合なして荒吐族と稱し、立君の王を正王安日彦、副王を長髄彦とて立君卽位せり。

此の両者、耶靡堆の阿毎氏にてその地なる王たりしが、筑紫日向の佐奴王に故地を犯さるるまま大挙して此の國に落着せし耶靡堆王たり。爾来、子孫は陸羽に居を擴め、農を以て豊に宮居髙倉を移しめて宇都野に定着す。その系にありき嶋津彦は麁國之王にて、國津彦王は熟國之王にて坂東にありて勢をなせり。その次代に足振辺王ありて日髙見國之國主とて鹿島に國住し、大羽振辺王は上野子持の國住なし勢をなせり。

遠津間男辺王、越にありて志古に國住みて國を西に擴め勢をなしたり。沙尼具那王は飽田にありて渟代に國住し大勢をなし、弟綾糟及び恩荷を由利郷と白鷹に配し地王と相成らしめたり。吹浦渟代郡に宇婆佐王ありて是ぞ山靼より歸化せし者にて、恩荷の推挙にて沙尼具那の配下に君臨せり。

東日流にては有澗武王あり、別稱馬武は大里王たり。亦その舎弟たる青蒜王は中山外濱王たりて宇濤なる鉢巻山に國住みて勢をなし、宇曽利奴干奴布の擴域を治したり。閉伊及び日川を領主とて和賀に國住たるは膽鹿嶋王にてその舎弟なる㝹穗王は伊治沼に國住みて大勢をなせり。伊髙岐那王は礪波にありてその勢大ならしめ、後なる倭王の系に子孫は天皇と継ぐありぬ。亦、白河に脂利古王ありて靡露と鐡折を倭寺に學を習はしめ智徳を陸羽に弘めたり。

八釣魚王は糸魚川に越王とて子孫を永代せしむ。渡嶋王は振膽に國住で國治し千島・流鬼國を掌据せり。以上は何れなるも荒吐五王にして子孫は代々を継ぎぬ。その子孫にして名のあるは陸州の邑良志別名宇蘇弥奈、羽州の須賀君古麻比留、次に遠田郡の遠田君雄人、和賀郡に和我君計安壘あり。田村郡に宇漢米公屈波宇、黒川郡に吉弥候部伊佐西古、伊治沼には伊治公砦麻呂、村山郡には宇奈古、會津の伊佐西古、鮫川の諸紋、只見の八十嶋、那須の乙代、閼伽井の志古呂あり。

征夷大將軍とて来たる田村麻呂に反抗せしは大墓公阿弖流為及び磐具公母禮にして遠野の志間難、鳴子の去返鳴子、荷薩體の伊加古、雄勝の宇漢米公色男、桃生の爾散南公獨伎、玉置の置井出公砦麻呂、亘理の竹城公金弓、膽澤の母子、戸来の都和利別公阿比登、鹿角の物部斯波連宇賀奴、火内の道公宇夜古、相川の道公宇那岐、生保内の宇賀古秋野、庄内の尺漢公手綿、玉造の宇奈麻呂らは安倍の五王たりて猛き五王たりしに、倭史に以て記載さるる名も遺りぬ。

丑寅の日本國は古代に是くあり、是く史證を遺せり。

寛政五年十月五日
秋田孝季

東日流諸傳 三、

坂上田村麻呂は東日流を怖れたり。依て東日流に一歩の脚跡を遺さざるは史實にして、多話にあるべく傳説ぞ造話作説なり。東日流は古来、大里に人住みて稻田を耕せる發祥地なれば山靼の交りを深くなし、侵敵國を犯せば渡島の挙兵を併せたれば幾十萬に駆集せる處なり。

三方を大洋に圍る魚漁に富み、智覚ありて惑はず、倭人とて侵領に住難く古来の士風に民は上下を造らず一統信仰に満たる國習を保てり。民を併せ信仰を併せ人の心造りにかかりて祖来せしにや、その掟に固く、如何なる誘に心動ぜざる民心に育み来たり。

倭人の外教たる山靼の諸教、外なる世界を知るべくが故に往来を聞きて代々を造り来たるも、前九年の役・後三年の役・平泉の乱と相次ぐ倭侵の討伐行は東日流をして貝蓋を閉したり。茲に東日流ならではの歴史にかんがみて、山靼往来にて得たる實證を記し置かむなり。

東日流にて語部字を造り諸事をして事を印字にて傳ふる法方は五千年前に旣創せり。是れぞ驚可哉。國果なる葦の國シュメイルの渡来人にて渉りたると曰ふ。此の國にては古来より農を耕作し神を一統せる王の築きたるジグラットの大殿跡は太古なる史證にありけると曰ふ。此の國の創世に文字ありて、土壁に遺せるあり。民に渉りて古事一切を知れり。是を傳へたる王はギルガメシュと曰ふ王にして、諸々の神話を遺せり。

此の國なる唯一の神たるはルガル神にして、紅毛人國なる古代オリエントの諸信仰に相渉れる兆を起こしたり。北のオオデン、ギリシアのカオス、古代エジプトのラーアメン、エスライルのイホバ、アラビアのアラー、天竺のブラフマンに渉る世界信仰を起せり。東日流なる荒吐神をして大眼と大乳房を施造せしはかかる山靼のシュメイルなる神ジグラットのルガル神を併せしものにて、語部文字の發祥に成れり。造像法亦然なるところなり。

語部文字は獣皮に書きける故に今に遺る無けれど、土の器土岩に刻めしは今に遺りきを見るなり。

寛政五年五月五日
秋田孝季

陸羽諸翁聞取帳

稻作計法之事

自東日流古代之調書

朱鳥甲午年
膽澤治部處

陸羽諸翁聞取帳

陸州海道久慈の地は地底に玉造の材ありて、古き代より堀られたり。松脂石化なせる琥珀石なり。玉となせる玉中に黄金虫入りたるありて、そのもの至寶の珍寶なり。

是を古人は知る由もなかりきに山靼人、堀當るより諸國に知れ渉り、倭朝も使をなして玉造りの材石を求めたり。

寛政五年六月廿日
糠部之弥七

糠部之古史

古来糠部之地は東風强けくして人の邑少なし。大なる森林濱辺之草野に群る野鳥・鹿・山猿の住む處多けるも東海より渡人、大なる海筏にて漂着せし民あり。

是を都母族と曰ふ。東の果なる大國より渡り来たる民にて、馬を乘せ来たり。身に装ふるは毛皮にて、肉を好みて狩漁達人なり。道具を造り舟を造りて、山海に狩漁のみにて生々ことなく、馬を飼いて馬乘し山野を駆くこと速し。頭髪、背垂結て鷹羽を飾る。弓箭・投石・斧の業優れ、亦海に大鯨を追って狩る勇に猛く、その住居、皮を木組に張りて火を内に焚く。音をいだす器を造り、皮を生りて鳴物とし、なよ竹を笛とて鳥を呼び狩る。

外に火を焚きて踊りを好み、人死しては屍を木刻りて棺とし楽を奏して葬じ、亡人いでたる住居・道具一切を焼き、遺りきものに新居を造り與ふる掟あり。子孫は荷薩體・宇曽利に擴み東日流亦飽田に移り住む。世々是を麁族と曰ふ。

一族に長老あり、占師と薬師の三役人を以て諸事を謀り、衆はこれに習ふなり。この一族は飢うるとも馬を殺さず、犬を倶にせり。海に乘る舟をハタと曰ふ。五間程の大丸太を刻り抜きて水を入れ、焼石を落して湯し舟胴を擴げ尚、腹を板割にて髙く接ぐ。接目、縄にて固し。

帆に馬皮を用い、トナリと曰ふ。斜四角に張りて風能くあやつり、麻糸にて網を造り漁々衆に組みて分つなり。東なる海、常にして鯨群来たり必要に應じて狩りぬ。掟とて雌鯨を狩ることなし。亦、山獣も然りなり。住分ありて堺に犯すを禁じ、女人を多妻にせるを禁じたり。老人捨て・子捨てを罪とし、犯せし者を放逐し、人を殺せる者は事に判断を長老決して死罪亦流國とす。若し遁るあらば犬に追はしめ九死に一生もなかりけり。

神を信仰せるも、星月を陰神とし日輪を活神とせり。常にして宇宙の運行を計りて測して占ふ。草木種子根を薬とせるも海生・陸生の生物より採せる薬も是ありて、能く衆の病を治したり。都母族と東日流の阿曽辺族と混りき子孫を津保化族と曰ふ。世々をして津保化族勢をなして、津保化族と一統され、糠部・東日流の言語亦一通せり。是れ荒吐一統より千年に前なる事と曰ふ。

糠部戸来邑 長老宇加志、口説
寛政五年十月廿日
秋田孝季

糠部古語抄

方言は以下省略せるも、東日流辨・糠部辨は同意同語なれども、信州辨・京辨また坂東辨の多く併合し古代辨なるものはなし。依て、辨現語に依れる糠部辨を入れず、古語耳を記逑せしも、東日流辨と似たる處多きは當然なり。

寛政五年十月九日
田名部与一

陸羽語部録

昔飽田に山靼人多く渡来す。彼の着衣は虎皮を得意に着飾り、頭に金冠をなせる者あり。女人ら肌白く、頭髪白金色にて眼青く、布を巻く如く身装し、天女の如く肌をあらわにいだせり。男はその背六尺になとし、頭髪つづれ胸毛・腕毛あり。人力强けるも、女人を大事とし人前かまわず相だき合ふさま、國を異にせる習風是ありぬ。持物にては両刃なる鐡斧、両刃なる剣を帶び、持楯圓きを常に身近とせり。

弓持てる者あり、吾が國なる弓箭と異なりて鏃を銅に造り、射ては吾が國の垣楯を抜けり。的を能く當てつる何れも名弓にして名人なり。彼の郷は西なる遠き砂原の國にて、常にして戦を以て國を興亡せりと曰ふ。海にいでては賊あり、山に入りては荒野たりし處また賊ありと曰ふ。

その國は、國の史深けれどかかる戦は民、勝敗に苦しむに諸國堺を越えして、此の國に来る民と曰ふ。彼の國には、今に國號になしてなる國、メドキ・カデイシュ・オロンテイス・トロイ・アッシリア・ペルシア・ペロポネス・クナクサ・スパルタ・コリント・サムニュウム・カイロネイア・イプソス・ポエニ・マケドニア・シリア・マグネシア・ユダヤ・ユグルタ・アクエ・エクステイ・ブエルケレイ・ミトリダテス・ガリア・パルティア・ロオマ・エジプト・トイトブルクらの過却に於る戦にて、紅毛人國の歴史ありきに、その國なる神また信仰をも失へり。

然るにやその國なる民、諸國に渡りて古事を異土に継ぐる多し。山靼なるは、かかる古代を丑寅日本國に持来たれども、地民に振はず今にして知る由もなし。ただその地方に依りて遺るあり、語部にてたどれり。永代吾國は化外とぞ、倭の外なる國にて汚わしき蝦夷とさるるまま現世に至ることぞ久しきが故に、眞の史傳も亦崇髙なる山靼の渡来せる諸事遺業も制へらるまま、北方領土をオロシアに占せられたり。

是れ、旣政の朝幕ぞわれら陸羽人を倭政に入れざるが故なり。まことに忿怒やるかたなき哉。島國魂性、大界を知らず。國益を封ぜし行為にて、茲に攘夷の輩を討て開港し、萬民共榮の世に明かせんや。

寛政六年五月一日
秋田孝季

安倍氏後史之事一、

前九年なる役とはなんぞや。是ぞ眞なる朝策にあらず。源氏をして天下に君臨せんとて、あらざる陸羽の逆族とて奏上せる魂膽にて起れる挑發に依れるもの也。

その行為ぞ平氏にて潰さるるも、賴朝をして起り、平氏またおごれる故に亡びしより、重ねて陸奥に義經をして間謀せる實相のあばかるるを怖れ陸奥を二十五萬の大軍をして攻め藤原氏を討って、鎌倉に幕府を開き天皇を制えきは、もとより賴朝の計を續行遺守せしものなり。陸奥の安倍一族を討つ讐念を一族をして渉り甲斐源氏に至るまで丑寅に殺伐をくり返し、南部氏にて占らる陸奥を歴史に見よかし、東日流の安東一族に至るるまでも源氏に緣れる闘爭にありて、東日流を放棄せるに至れるあとぞ南部に緣れる大浦為信が一統せるに至り、ことごとく安倍一族になる史證を消滅せん策なりき。

政事に隠密し國に勢をなす者を源氏の系に誘はしむは、羽柴秀吉・徳川家康をも源氏の系にありきとぞ謀りきは、前九年の役に始む續行今にしてありきは、安倍氏をして日本將軍たる古史眞證を抜くが故なる工作今になるものなり。是の如くして陸羽を領せる南部氏ぞ、前九年の役以来なる安倍一族の遺したる秘寶ぞ未だ掌中にせざる故なり。

寛政六年三月一日
秋田孝季

安倍氏後史之事二、

前九年の役卽ち康平五年九月十四日、一説には十月十四日にして安倍氏なる巨城・厨川柵は炎上して落たり。京師に屆けるべく首級は貞任・重任・經淸の三首と決め塩に桶入れて、康平六年二月十六日に京師に屆けらるも、賴義がかねて奏上したる安倍氏なる巨萬の黄金は、延一枚の數も無けり。

故に賴義は陸奥に残りて探し、都に參上せられず無にありせば、朝庭は賴義を伊予守とて行賞を底賜せり。依て賴義は私費までも貢ぎて味方とせし清原武則を策謀にかけにして工作す。陸奥・出羽を掌にせし清原氏を罠にせるは、いと易く清原氏はその謀作に乘りて、後三年の役とて源太郎義家に討たれたり。然るに朝庭は是を私爭とて征夷の費を賜ることなく亦、以外にも安倍氏に緣る藤原清衡の手に陸奥鎭守府將軍を賜ったるに賴義は座折し、義家の志望また失墜せり。

源氏は義朝をして平氏に亡びたるそもそもの軍資は、東日流にありき貞任の息子・髙星丸が成人し姓を安東と改め子孫は山靼通商にて益をなせる幕大なる軍資を平氏に奉寄し、茲に祖恨にあるべき源氏討伐が成就されきは、黒幕なる安東一族のありきを知るべきなり。平氏が國政に實權せしを安東一族は挙げて諸國に一族を渡らしめ海商益を得る他、松浦になる安倍宗任子孫と心を併せ東西に海運を自在とせり。

然るに平氏は安東一族の奉貢に栄華を更けきとき、情けをかけて断命せざる賴朝が隠密にして弟・義經を陸奥平泉・藤原秀衡のもとに穏謀に入れ、秀衡はこの策にかかりて義經を養育なし、石橋山に挙兵せる賴朝の失策を見かね義經に幕大なる軍資を添へて出陣なし賴朝に兵を併しめ、更に木曽義仲と併軍し一挙に平氏討伐を叶はしむ。時に平氏は東日流の安東氏に軍資を請ふも、安東貞季は是を断ったり。

その故は、當時にして十三湊に安倍則任系、一説には正任系に男子なく養子とて入れたる平泉藤原基衡第二子・權守秀榮を養子とて迎へ、己が息女を娶せたれば、降勢なる平氏を授くことぞなかりけり。依って義經は赤間浦に平氏を滅亡せしむるも、一天萬上の君下の權は平氏耳ならず、源氏をして己々その機運に爭いり。木曽義仲はその矢面に義經をして討たれ、義經また御門に親重されきを兄賴朝が嫉妬し義經を度外とせり。依て義經、奥州に遁せるも秀衡その子泰衡は旣に賴朝に依って入れたりし義經の隠密たるを察したれば、義經赤涙を以て悔ふるも泰衡是を赦さず義經主従を討取きも、このとき義經に以前に親しける東日流に養子たる秀栄のもとに遁れたる後、賴朝は二十五萬たる大軍を卆いて三手に平泉を討伐行にいでたるも、阿津賀志山・栗原一の迫にて藤原秀衡は敗走し、平泉なる藤原三代に築きける北都は灰となりぬ。

泰衡、阿北にて下臣の河田氏に討たれしも東日流にては安東氏は十三湊なる秀栄を制へて源氏への挙兵を忍べり。時に秀栄、平泉滅亡にやるかたなく、重なる子息秀壽の死に己が君坐を孫なる秀元に継がしめて十三湊・壇臨寺に隠居し法名を栄瑞と稱して入道し、平泉の菩提供養を十三湊に佛寺多く建立せしめたり。賴朝の怖れたる東日流安東一族の蜂起なく、鎌倉に幕府を建つるに至る故に、安東水軍は以来諸國に通商し支那揚州、北方は山靼、天竺までも海航せりと曰ふ。

寛政六年三月一日
秋田孝季

石塔山首像由来

東日流石塔山荒覇吐神社に遺る耶靡堆彦王・安日彦王・長髄彦王の首像由来にては、賴朝平泉を討しより夜な物の怪に汗まみれき惡夢に悩めり。

その夢告にては、重なる源氏への討伐行をせし源氏累代をして汝が子息をして子孫の絶ゆとぞ曰ふ同じ夢なれば賴朝、侍所別當・和田義盛を召して相談せり時に、義盛これぞ安倍氏・清原氏・藤原氏の限りなく忿怒せる恨みなる祟りなりとて、卜部に祈禱をなさしむるとも尚その験顯れず、茲に明雲大僧正の弟子なる明覚律師に賴むれば、東日流石塔山に阿毎氏・安倍氏の首像を奉寄しべきを告げり。

依て朝夕、賴朝自から神面を彫りて三面を仕上げたり。是を義盛をして東日流に遣し、安東貞秀に奉寄せり。依て是を石塔山に納むれど、鎌倉にては子息實朝をして子孫を絶えたほどに恨靈去らざる也。

寛政五年五月一日
和田吉次

安倍之水軍

抑々船をして海を渡るを古きより水軍と曰ふも、武具備ふる航船なけり。もとより安倍一族をして海に航すは北海なるも、山靼ありてこそ海岐にぞ秀たり。湊をして今に陸羽の海濱になせる處、渡島にては宇志化志及び松尾間内なり。東日流にては有間、宇曽利にては大間なり。是をして、

〽やませ吹く有間も大間も
 波立てば古き人世のまさごいづこそ

古歌に意趣を解せず。二つの岬に古歴を別なし、丑寅の日本國は西に東に分つ考ふべからず。倭に續きたる、もとよりひとつなる國なりき。堺をなせるは人にして、神なる裁きに非ずや。海に續くる果はなかりき、圓かなり。北斗の不動なる星に船路を測て至るべくしるべに、日輪を巡る地の界を知りきに、何をか人心に神の世を創り給ふや知るべきもなし。

宇宙を擴きと測るも、人にて覚つ頃、人の世にある終世なり。宇宙は地界を創れども、アラビア神なるカオスになる神典に解くを學びて覚つは、地界なんぞ宇宙なる星億萬の數中にあるべく粉点に等しきこと説けり。かかる粉点の陸海にあるべく地界に在り、人は人を征すべき永きとみゆ歴史とて宇宙創造にくらぶれば、ただ一瞬の光陰なり。

安倍之水軍は是を先覚し、陸は山靼に求め、海はその圓かなる地界の球たるを知りたり。然るにや、われら住みたる國ぞ地界の緯度に少領の國と知りて、日本全領をして東日流を日本國中央と測りしに、是を妨ぐる島國魂性たる井中の乱ぞ起りて、安倍水軍の積學を失焼し耳ならず世界の外に住来あるべくを閉ざしむ。何事以てか井中に好みて世界を知らざれば、いつ世までも石斧に鐡斧の相違あるを知るべし。

寛政五年十二月五日
和田壹岐

古代荒吐之王

荒吐王の事は語部に遺る他に、史證遺りぬ。先づ六郡の東日流にては三輪邑の石神・平賀の大輪二の石神・奥法の石神ら、現建立遺る神跡なり。石神を以て神とせるは、古代神ほどに石面に加工せず立體に建つる多く、北斗七星座にて連立多し。亦昴の星に連立し、宇宙に仰く古代人の信仰を今に遺すほどに巨大なる石を用いたる力能ぞ不可思儀也。

陸羽諸郷にかくある跡ぞ多く古代荒吐王の一統信仰の深きを愢ばれる。諸郡の長老に選ばる荒吐王は代々にして民を横暴に苦しむるなしと、西王母の無常ならぬ桃源境に心を望みて神格をなせる、荒吐神の無上信仰を語部は説けり。神々は唯一なるものにて多神にありまずく、日輪は一つにてあまねく世界を照らすと曰ふ。

荒吐王は一主に非ず、四方に補王をなして人の生々を治むは古代丑寅日本國の治政たり。王の住むる處とて豪に造らざるは荒吐神なる信仰の故なり。山靼にては王たりとて民と同じかる住居に変らずと曰ふなり。荒吐王は山靼及び紅毛人國の神々を吾が國なる人心風土に選収なし、神の神格をなせるものにして唯一とせしものなり。亦國政事とて武威權据とせず、挙民一致の易く難きを心とし、部の民とて人の奇才に望みて人を授け育つを旨とせり。

荒吐王とは、倭朝の如き權限の上にあることなし。亦その一族をして他臣の上にあることなし。卽ち荒吐神の御裁に委ね、人の上に人を造らず人の下に人を造るなし。依て代々をして民の暮しに民の生々に同じうせり。是ぞ、古代ギリシアのアテネに習ふるに依ると曰ふ。荒吐王が語印を衆になせるは、古シュメイルに習ふと曰ふ。依て語部文字、遺りぬ。

寛政六年六月一日
秋田孝季

傳道修成之荒吐神

山靼・支那・紅毛人國ら黒龍江を道たる古代ぞ、人をして交りかりし世なり。猛き野獣の如く人を討って國を盗り、己れ耳髙所に座を占め人を制へて労に奴隷とし、衣に飾り食に美味を盛り、住に豪し眠りては伽をはべり、起きては人を裁き従に反せるを討降す。人の衆敵ぞ、倭王の祖なり。

神殿を作り妖しき女神を他神より引用し、我史に作して臣をあざむき、見破る者を誅し、作神を我祖とせるに尚あきたらず己れ自からを活神とならむはまさに眞に一天の天秤を輕重せしむ大罪なり。茲に吾が國なる荒吐神とは、神なるを偶像に拝せず、天なる宇宙・地なる萬産の轉生・水なる生命の素を神の眞理とせるに、何事の迷々惑誘ありや。人の生命、萬物の生命を糧とせずして一日の生保ならず。一食に喰ふ糧物とて、生命に非ざるものなし。

依て吾らが王となるべき者は、自から是をわきまえて朝夕の行事を示導せるこそ衆の王たり。亦、國に籠り大界を知らざれば進歩に遅れ、民を貧賎とせざるが故に山靼に萬里を越て世界の進歩を見考せるものなり。依て時を費せるを大事とし人の労を過せざるが故に、海を渉り風を力とし船を作究し、世界に智得を求め君民、級を作らず生々に富ましむ道ぞ達成せるこそ先なりとて海にいでませる。異土の交りこそ解速なり。異土の傳導も修成に依りて國なる開化の速進なり。荒吐王は是くありて来たるを蝦夷とて世襲の誅に滅せり。

寛政六年五月一日
藤井伊予

山靼ありて日本ありぬ

山靼に旅情し、諸々の土族に寝食共にせし長期なる紅毛國への旅をせしは、古に尋ぬ程に多し。ハルハ族・ブリヤアト族・ドルベド族・カザフ族をして話せるはクリル族語亦、ナナイ族語に通ぜり。カザフ族に語を習ふれば、紅毛人國への話に通ぜると曰ふ。

砂と、樹木茂ざる連𨦟。大草原、時には水場なき故に死境をさまようあり乍ら、一路トルコに入りては人住多く、ギリシアに太古なる廢處を目に留どむ。古来戦の興亡せる夢の跡なり。モンゴルのチンギス・ハン。彼の騎馬の討伐行なる古道、今に往来す。地の老人に往古を尋ぬれば答ふに、モンゴル軍の用いたる武具には石弩・弩砲・火薬砲・火炎器・撞壁車・鎧兜・彎刀・火炎槍・手斧・水入鞁袋・毛皮・鍋・短弓・箙・鐡砲・居野パオ。兵糧は乾肉・馬乳酒他にて、投降せざる者は皆殺せりと曰ふ。

戦法にては攻めて退き、伏兵を敵後方にせるまでに退誘して反轉攻めに急轉し、挾み討せる法なり。是ぞ安倍一族になる戦法に似たるはモンゴルのなかに、わが日本族の歸化人ありきと曰ふ。厨川にての退兵は、生保内を土崎に移り一千余の移住ならしめたるありて、その史證事實たり。

文化二年八月六日
田口小次郎

陸羽穏匿史

遠き代の事なり。茲に支那なる時帝の年表にて當つるなり。前漢の惠帝の時にて甲寅の年也。

吾が丑寅の日之本國は飽田に志架志、東日流に宇陀麻井、宇曽利に固禮加牟、閉伊に毛止化利、火内に陀无那岐、荷佐多井に倶具伊、庄内に伊差奈岐、輪我に依加牟、志波多に伊古須奈、越に麻久那岐、伊輪志呂に宇毛鈴の國長住みて降神山に集いぬ。

此の𡶶に集いたるは、西海の象泻に西より女人六人漂着し、神なる告とて地の長老に神告す。然れども、語解らず國中使を驛傳し集めたり。女人ら、神なる使とて降神山を差し行き、女人ら消えたりと今に語り傳へ遺りぬ。

寛政六年六月廿日
秋田之住、山王神職
物部河内

十三湊安東氏

十三湊なる安東氏は、日本將軍安倍衣川太郎賴良の八男正任、一説には白鳥則任の東日流委領主とて四才のみぎり、天喜三年に駐領せし者也。相添ふ者三千人にて、磯待なる丘に先住蝦夷舘なるフンチャシ跡に白鳥舘を築きけるも城邸せまく、宇曽利富忠の進言に委せ十三湊大萢に築城せり。

時に山靼船能く来舶し、築港橋を中島に舘番所を築きて船泊りとす。依て本城を入澗城と稱し、中島を湊砦とせり。入江東日流大里に擴ければ、その一週に東岸道・西砂濱道を通し、長濤浪、行来川落合に長渡をなして廻る。此之川合を洪河とて年毎に水戸口を幾筋に洪水し、本流常にさだかならざるに依りて洪河と稱す。

小泻に波淨かなれば渡鳥・水鳥の大群、その岸なる葦原及び砂州の葦原に巣だく。亦、泻内なる漁に富み、山林近く千古の苔を着す。依て、柵を造り船を造りき材に窮せず、異土には来舶の船を濱に焼却し、十三湊より新しき船に替にして乘り行けり。異國なる諸益にて十三湊は盛営し、茲に白鳥八郎は氏季とぞ改め子孫をして氏季を名乘りぬ。安東船なる起り、氏季の成果なり。

寛政五年五月一日
秋田孝季

藤崎安東氏之事

十三湊をして安倍氏季を初代とせば、藤崎城をしてその初代を安倍髙星丸に系譜す。是を上磯の主・下磯の主とて、十三湊を上磯とせば十三湊系をして上の系図、藤崎を下磯とせば藤崎系を下の系図とせり。

古来、西濱及び外濱辺を上磯とし、東日流大里一帶内三郡を下磯とせし由緣に是く號けられり。依て是れに故緣なし、安東系図をして上の系図・下の系図と同族にして惑はしむ因を生ぜり。是の如きを尚混雑とせしめたる原因に、氏季の襲名三代その後継とて藤原秀栄の養子継領にて、その子秀壽・秀元・秀直に累して安倍姓を名乘らず。遂に萩野臺の合戦にて十三湊方藤原秀直、藤崎城を攻めて敗れ、藤崎方は秀直を流して一主二領の領主と相成りきを、三年治領交替にて二君を十三湊領・藤崎領とに両立せしより、後代に起りき洪河の変たる内訌となれり。

かかる史實を後世に至りて南部氏の侵領に依れる東日流の乱、そして安東一族の故地放棄に至る間、十三湊なる大津浪、南朝の落武者に依る小領分割支配、北畠顯成の行丘落武者らに安東一族をして南北朝への志向分離らに宗家・庶家をして對立し、その姓をして安倍または安藤に異ならしめて四散せり。宗家また飽田に移りてより秋田とぞ姓を改め、君孫を宍戸更に三春へと國替をして藩大名たり。

寛政六年五月一日
秋田孝季

史文審究考

抑々藤崎方安東氏の歴文を語る史書ありて、是を究明しければ永正三丙寅八月艮辰應藤崎右京佐殿需而旧記及び新渡戸文書また北條九代記に依れる行文ぞ、安東氏なる記行に相違ありきは甚々迷惑至極也。

亦、津輕藩史とて史跡の新旧相混綴し、徒らにして安東史跡を煙幽す。是の如きは世襲に依れるものなれど、史曲の事ぞ時勢によりて、うたかたの如くあらわれ消ゆものなれば實史の選に引くも解難し。

もとより安倍氏は耶靡堆の阿毎氏より創まれる深層にありて、太古をして倭史なる通説を抜きて早期なり。依て安倍氏の史傳は主筋秋田家にても天明の大火にて焼失して、尚迷謎を諸傳に継ぐほどに生ず。
抑々、安東氏の諸史談は次の如くなり。

是の如き明確ならざれば、安倍氏を知るを能はざるなるなり。以上は今に傳ふる安倍・安東氏の史傳に見當らざるなり。是くあるは今世に阿毎氏の故國耶靡堆王一系にありき安倍氏の起こしたる日本國を丑寅に建つる王たりて、全能なる神荒覇吐神を一統信仰として諸族の民を併せて成せる丑寅の國日本と國號せしは代々にして栄ゆも、康平五年日之本將軍厨川太夫貞任をして終焉せり。

かかるあと東日流に遁がれし子孫にて安東一族の再興を叶いたり。世に永らうも、神なる裁きは倭朝亦幕政の權を久遠にせざるなり。是の如き世襲の至るは遠からず。東方より神は一爆の炎を降らしめて、西なる倭國の地は呪はれるなり。若し悔心なくば更に降爆の憂ぞあらんとは、吾ら神なる荒覇吐神なる常なる余言なり。

歴史の眞はひとつなり。偽は權に保たれきも、天は赦す事なかりけり。吾等は古来より蝦夷と曰はれ、日本國號を奪い耳ならず征夷とて陸羽の地を戦の血に塗りて荒覇吐神を外道とし、康平五年をして古代よりのその灯明を消したり。彼等は悦び陸羽を領中に皇化とせり。依って住むる民は生々に望みなく永きを渉りし。今なる士農工商なる生々の人格を造りて、尚自から神格す。

寛政六年八月三日
秋田孝季

津輕南部之史考抜

津輕藩史之一説に抜く。

秀栄、以父鎭守府將軍基衡奏請、居入澗郡十三城領津輕六郡、任左衛門尉。建久四年卆、年九十八、母宗任女子。秀元、嗣建永元年、將軍實朝賜襲封之教、稱左衛門尉。承久元年八十一、子秀直、嗣小字叙任丸。寛喜元年、興安東氏戦、于津輕野敗死。安東氏、安倍貞任之裔也。貞任之滅、次子髙星丸、幼孩逃于藤崎、及長遂領其地、至与我相抗衡秀直之死也、子賴秀尚幼、以故失其領地、依婿新城領主橘次信次。信次匿之山中焼炭處、俗稱之炭焼藤太。賴秀及長、勇武絶倫、遂能復旧地。秀季以嫡孫、承賴秀後。正和二年、随祖母近衛氏、抵京師謁近衛公、因献黄金三千枚。子朝任左衛門督、當此時安東氏威力復振、与我爭雄兵結連年不解。會北畠顯家為鎭守府將軍、多方解紛、遂令両氏議和結婚。足尊氏之乱、秀季卆二千五百餘騎。安東貞季卆五百騎、属北畠氏共勤王。延元三年五月、皆戦死于攝州。安倍野秀季、時年六十一、子秀光嗣、幼字藤太、任左衛門佐。時有海嘯大地、外濱之地十三城亦壊。故城于大光寺移、治焉正乎四年卆、子秀信云々。

と記逑あり。是正史の要を為ざる仮説なり。津輕考に曰く、是を抜きて讀けるに

八丹武鑑、安東太郎貞季之男尭秀其男愛季、移十三湊。愛季男尭勢其子貞季、有二子兄盛季弟鹿季。鹿季討取秋田湊、為秋田城主、稱湊家。盛季、稱下國家、從盛季連綿而康季・義季・政季・忠季・尋季・舜季・愛季皆下國。安東太郎愛季之時、湊家八代孫友季死、而依嗣以愛季為秋田城之介、従是二家合為云々。

ともありぬ。南部文書を抜抄しければ次の如くなり。建武元年三月十二日なる祐清私記明暦三年判物になる八戸南部五世傳に曰く、元弘建武の頃を次の如く記逑遺りける。

下津輕平賀郡 顯家華押
可令早安藤五郎太郎髙季、領知當郡上柏木本郷之事。右為勲功賞所被宛行也。任先例可致其沙汰之状所仰如件。

次には新渡戸文書に曰く、

元徳二年六月十四日、安藤宗季子息髙秀、譲津西濱之地。

次は南部文書に抜く建武元年六月國司顯家卿執事清髙与南部師行之行に曰く、

安東五郎二郎家季、事所存之赴旁、以無疑貽候、所詮外濱押領之志候歟。足利方自國方預由中國方自足利方預之由構候歟。彼密事一箇條旁不審無極候。京都具被申畢忠重間事先度被仰畢相構被失候可被召進候、且自京都被召事候歟。猶々必可被進候也。就之五郎二郎別心候、存報國之忠者外濱等事公家足利被申談一方無御計之道候哉。而如當時如何様有異心歟。然而湊孫次郎祐季並明師等、不同心合力者家師一身無指事歟。内々得此意、可被廻方便歟、思食候也。多田貞綱彼堺事不知案内歟。平賀多田不和、結句又安藤五郎二郎不和事出来歟、之由其聞候之問被召返候也。所詮當時安藤一族强無異心候由歟。而家季一身造意非無疑國之御大事候、能々可被廻思案候。如何様明師祐季能々可被誘仰歟之由思食候也。念以飛脚可被方便候云々。

次に八戸系図に曰く、

延元年間、叛安藤家季、應是曽我貞光・南部師行・成田泰次等。元年正月七日、戦津輕奉足利幕令、平賀郷岩楯邑、蘇我与一左衛門尉・平貞光作乱、師行父子与成田六郎泰次、議分據津輕藤崎平内以拒之、是月七日、貞光与其黨安藤五郎二郎家季、合兵来攻師行等。逆撃破之、貞光被創走政長。正月七日、師行与曽我貞光戦于津輕、政長從父力戦敗之云々。

次に中舘系図に曰く、

興國三年十二月、國司南部政長書曰、津輕安藤一族歸降于國府之事、是偏御足下之功也。想天智勇神妙者乎、到明春則、和賀滴石之軍士為一手當攻斯波、然別可馳向於和賀・稗貫辺、此等之事達葛西一族而可也。河村六郡降參之事、足下猶能勧誘而可也。

右記之記逑にては年代、安東氏なる正史の様を皆目知らざるの作記なり。當代をして藤崎安東氏・十三湊安東氏は、興國元年の津浪なる他に無敵たり。南部氏、東日流に侵駐せしは應永三十年以後にして、かく文献には安藤の姓を記せるも是は庶家一族にて、正統たるは安東亦は安倍氏なりて、宗家正筋なるを覚つ可。

文化元年八月六日
糠部之住
藤井河内

南北朝に依安倍氏之分裂

足利氏天朝に反旗し以来、天朝親政、麻の如く乱れたり。茲に東日流安倍一族をして京役方武家に相分離す。

その先、反忠を謀りきは庶家の筆頭たる西上磯の吹浦金井、宇曽利及糠部の安藤衆なり。彼等は佛事供養碑銘までも北朝なる年號を用い、南朝にあるべきは宗家なる十三湊安東盛季・藤崎安東教季耳なる主從たり。是を起因せるは南朝なる大臣公卿衆の東日流落着を宗家に袖匿と相成り、施領にして庶家の領にせばむ故にて不満の蜂起たり。

抑々安東の史を狂はせたるは、かかる世襲に卽して興國の津浪なり。一斉に急変せし十三湊は、砂留る遠浅なる一濱に尚内泻となりて、茲に海洋をして海に覇をなせる安倍一族の崩壊やむなきに至れるなり。盛れるときこそ十三往来の如く文筆を遺せしも、過ぐれば一懐の夢なり。茲に謹んで曰す、吾が日之本國は祖先の英智に創まれる國なり。阿毎氏を以て立てる日之本を蝦夷とは何ぞや。

寛政六年八月三日
秋田孝季

東日流放棄は敗退に非ず

嘉吉三年十二月、安東一族は領民一人だに残さず、渡島及び秋田に新天の大地に移りぬ。渡島の宇津化志及び麻津尾澗内の地、秋田にては旭川檜山土崎湊、能代の地なり。

是の挙移に至るは二十年前の計にて、興國元年の大津浪以来に始まれり。亦一族の分住みは、遠くは山靼支那なる安東邑及び諸國五津七湊に郷入りせり。是なるは南部氏の東日流侵攻に遁げたるに非ず。安東一族をして庶家の者は一人の移挙ぞなし。ただ此の年に發たざるは狼倉に残りし安東義季、外濱尻八に残りし潮方政季なり。

双方は藤崎城主・安東貞季の系にあり。貞季長男は十三湊、次男鹿季は安藤次郎とて秋田湊、三男重季は潮方外濱尻八に各々居住せり。享徳二年、双方をして南部氏の東日流侵領を制へんとて軍策を密とせしにや、曽我光貞の奸言にて南部勢日時同じゆうして狼倉及び尻八を一萬二千騎を二手にし一挙に攻めぬれば、双城とも不意を突かれ應戦ままならず義季は秋田に脱したるも、政季は捕はれたるも浅虫切通しにて蠣崎藏人に救はれたり。

茲に南部方にては、政季を八戸在住とせる説を以てなせるも、その見解當らざるなり。宇曽利に蠣崎氏のもとに食客せしも、南部討伐に謀りたる挙兵の失策に双方倶に渡島に脱し、蠣崎氏は上國華澤城に、潮方政季は麻津尾麻内大舘に居住せり。

寛政六年七月二日
松前藩
和田氏文書

秋田檜山對湊之事

秋田にては檜山城を安東兼季居城とせるも兼季事、康季也。湊城は安東宗季にて先設されども、居住は藤崎にて留守居を以て代々をなせり。嘉吉三年より鹿季入りて定まりぬ。留守居をなせるは岩見澤にありき和田氏を以て預りき。

寛政五年七月一日
和田長三郎

秋田檜山城騒動

秋田檜山城主、勅令を奉じて若州小濱なる羽賀寺再興に、留守居となりき檜山城に義季是を継げり。然るに義季その子を東日流行丘城主北畠氏の援にて藤崎城を再興せしに、義季の子息義景を住はしめたるに依りて、秋田檜山城を継ぐなく義季は松前大舘に在りし潮方政季召入りて後継せんとしけるも、檜山城重臣の者是を不復とし政季檜山に入るを断って、八盛舘に仮居せるも大和守に暗殺さる。

依て義季、東日流に嫁ぎし義景の妹が天眞名井王の子に双兒ありて遠ける紫波の地に郷兒たる忠季を入れて、事無きを得たり。依て檜山城累代に政季を加ふるは正解ならず。諸書に注目仕るべし。忠季は義季が實孫に相違なきことを茲に證し、恐多くも忠季は天眞名井宮なる皇胤なり。

寛政六年七月
大門秀四郎

和田家藏書