秋田氏諸事録全
序言
此の書は一族の證史なる綴りなり。依て他史との筋に併ざる多し。眞實は一にして、二より三の加數にあるべからず。百論を以て是れを作為せど破り難し。
太古より阿毎氏・安倍氏・安東氏そして秋田氏と稱したる累代にして、何事の緣絶なく萬世一系たるは秋田氏の他に非ざるなり。依て一の眞實に求めて本巻の筆言とす。
寛政二年五月一日
秋田孝季
秘法行顯談
石塔山にて五年毎に行ぜる古恨靈鎭魂の拝禱あり。護摩焚ける火柱にぞ必ず示現せる古靈の顯はるは必如にして、時には火中に藏王權現、亦は阿毎氏・安倍氏・安東氏の祖靈の相見ゆ事暫々也。
依て是の行を衆をして參拝を断って行ぜるを和田家神事の一義とせり。
慶應元年一月一日
和田長三郎權七
秋田風土記行
関金井より吹浦に船寄せて觀音寺に參拝、辨天湊崎に西濤岩石に砕濤せる潮騒の髙き荒海の鎭まるを大髙屋に宿を決めて、同宿なる北前衆らと酒席を共に誘はるまゝ飯盛婦を相手に泥酔せり。
荒ぶる海に船足を此のわびたる宿に三日の船留たる船頭衆ら、まつおまない十三の湊を眼鼻にしての日和待ちなり。古より西北風の荒けきは、金井より八森に續きける海濱奇岩の濱景に見ゆむなり。此の西になる海幸は多彩にて、海草・海苔・貝・魚の類亦多し。なかんずく鰰にては珍味なり。いかの生干・鱈の白子、男鹿にてはぶりこの珍味を噛鳴すは、かくべつなる風流にして冬食ほどにうまし。貝焼きという、ほたての大貝に味噌煮せるも美味なり。
男鹿の岬には能く山靼紅毛人が漂着し、此の地に歸せる多し。紅毛人の産める幼兒は色白き肌にて、頭髪は金色にて眼は青きなるも、是を忌嫌ふは地人になかりき。血統の混ぜるを忌むは倭人なりき。古来丑寅日本國にては、混血こそ子孫に才兒生まると古傳あり。亦、神を信仰せるも異にして爭はざりき。神とても彼の國なる神の理證正しきものを入れたり。荒覇吐神は理に契はざるは除き、人を贄とする信仰は邪道とせり。
古き代々にある古話を子孫への教へとし、是れに神話も多く加へたり。忘れざるために語印を諸材に刻み遺すもシュメール族の傳と曰ふ。葦を用いて住家を造るもその古傳と曰ふなり。天になる宇宙の運行を神格とせるは、アラビアなるオリンポス十二神の神話を以てなせるものにして、宇宙を大爆裂の光熱にして造りきはカオスの神とて傳ふ。然る人の想を以て造れる偶像を好まず、神なるを天然自然を以て神格なせるは此の國の古代信仰なり。諸々の諸事を入れて、誠し好むところを入着せるは荒覇吐族の基とせるところなり。
古きより人の住むところに信仰あり。信仰の要となれるは神なり。信仰も權者に依りて迷信惑々たるありて、生贄となれる邪道を神とせるあり。また信仰を以て全能なる神を宇宙、大地そして水の一切を神とせる、生々眞理の道理を説きて心に固き救済の信仰に導くるありて民衆を引導せる者は、聖者とて今に遺れり。信仰に以て智者・無智者に依りて崇まるるは、智權は亡滅速く、無智なりとも信心の固きに永代遺れる信仰こそ人の生々に不可欠たり。荒覇吐神はかかる山靼より更に紅毛人國までも信仰になる眞理を求めたるは壮大なり。
ブリヤート族のブルハン・シュメール人のルガル・ギリシア人なるカオス・エジプト人に依れるラアーアメン・支那には西王母・天竺にはシブア、そして吾が國にはイシカホノリガコカムイに併せ、是を荒覇吐神とて今に遺れり。古代信仰の要はかくして創りぬ。
秋田の地に遺れるアラハバキカムイになる社跡は多けれど、多くは是を廢改なして崇むぞ多かりし。前九年・後三年の役以来その廢改ぞ速めたるは源氏の幕下に依りて、茲に丑寅日本の國神・荒覇吐神を欠したるは、戦なき住民洗脳になる永代侵略なり。秋田になる安日山を水源とせる米代川。是ぞ荒覇吐神の西流聖水とて住民は求めて拓田せし處、川辺に多しと曰ふも世襲にて是廢改してより、米代川ぞ常に洪水を起こして背信の者を濁流にて生滅の罰を以て報復されたり。東日流より安東一族此の地に移りて拓き、その基置を成せども、主筋までも國替とさるはまさに大祖の科なり。
天明二年八月廿日
由理亥之丞
秋田城之介實季之文(原漢書解)
世に會者は世に却る創なり。生々は命脈身體五臓八腑に血脈走るの間、その光陰は人に依りて異なりきも、過ぎしに速く、亦世襲は常に固定せず。泰平と爭乱は紙一重の背合せなり。
吾が祖安倍賴良の代にして丑寅日本國は崩滅せど、一族の命脈は諸國に遺りぬ。東日流にては改姓にして安東氏と改めども、余また秋田に在り、茲に秋田氏と改姓せむ。太古なる耶靡堆の安日彦王・長髄彦王より余に至れる二千三百年の古事にありては、時の朝幕何れも蝦夷王の流れとて余の系譜の書改を責めたるも、余にして想ふところに非らざれば、茲に此の書を遺し置くものなり。
余の四辺にありては反忠の一族多くして治まらず、遂にして関ヶ原參陣に挙兵得られず。亦幕藩の知行地を國替たる御所令に順ぜる耳が、余の伊達殿に遺したるローマ使節内援になる造船の工築・乘船渡航に六名を加へたる、輝忠になる請に應じたるは不屆とぞ佐竹・最上・松平の上言にて、輝忠と余は伊勢朝熊の地に幽居の身とぞ相成る段、断腸の想に御意を蒙りき。今上の身、置處やるかたなし。
寛永八年月日
實季
ノビスバンヤ遺跡
慶長十八年、伊達正宗志して世界通商を陸奥に開湊せんと欲し、かねて秋田實季殿の古書及び造船の岐を山口与一、紅毛人フランシスコソテロらに依りて合作せしサン・ファン・パブチスタと稱せる大巨船を造りて、秋田伊達氏之家臣併せて百四十八人を乘務なし、大東海一路の航海にいでたり。
牡鹿なる月浦に造船を企つは慶長十四年にして、藩主正宗の令にて山口六右衛門与一、是を承り海航に唐・天竺亦は山靼往来に經験なる秋田實季が祖来の安東船を基の造船図とて求むれば、實季心易くその參照古文書二十八冊を屆け、更に土崎船大工二十八人を添へ遣したり。此の船に用ふる木材・羅漢柏は東日流より、杉は秋田より、松は地元よりまかぬふたり。
船ぞ、横五間五尺、長十八間五尺、船髙十四間一尺五寸。帆柱、九間二柱、十六間三尺を主柱とす。その彌は九間一尺なり。これぞイスパニア・支那・日本の相加工圖になる大帆船なり。實季、正宗と契定せる條は西海・東海の通商を以て奥陸羽の益をなさんとせる大志と優れたる異土の岐入れむ算段の旨を約せるもの也。
- 一、智識を世界に求め、その成果を向上せしむ。
- 一、鐡の産業を為可く岐を習得し以て鑛業の分野向上せしむ。
- 一、士農工商を掟義とせるを説き、才覚ある者を選抜なし、舊来の系譜に天降るを改む。
- 一、丑寅は諸事に於て西政の尾従に蒙むり、是を連藩にして力量を併すべく事。
- 一、紅毛人亦はアイヌたる人の種系を忌まず、北領に所領の域を擴むが故に、海船の向上謀るべく造船に進む可。
- 一、擴く世界の主國を覚り、その文字通辨を得學せるを修む可。
- 一、先づは世界に航行なしてその實地に學ぶべし。
- 一、諸才に秀なれば、士農工商の掟も無用なり。
- 一、世は權者一人の意にままなるは無く、生死を越えつる神の法則に優るものはなかりける。
- 一、信仰も世界諸教に選抜なし、茲に一路の眞實を人の道ならしむ。
右の条々他、秋田氏・伊達氏の約ありて、慶長十八年九月十五日牡鹿月浦より夜丑満の刻に、一路の潮路ノビスバンヤに向けにして出帆せり。サンファンデウルフと稱されし此の船の船體は、秋田に湧く地湧油を塗りて黒く、鐡艦の如く雄姿たり。一柱二段帆・水先斜帆・後舵斜帆に追風を満張に東海の潮に速せり。
海走三ヶ月を經してノビスバンヤ國アカプルコに湊着し、見事波濤千里洋々たる東海を越潮せり。翌年慶長十九年五月三日、ハナマ地狹を越えサンファンデウルフ湊より更にローマへの航海ありて、山口与一に従卆せる者は三十人と限られければ、サンファンパプチスタ號に残るは百十人と相成り、依て残されき秋田實季家臣・小野寺權十郎胤弘・浅利甚左衛門ら、此の地に待期七年に及べり。
故にその待期の間ノビスパンヤ國の古代遺跡を巡りぬ。アステカ古都テノチテイトラン及びベラクルスらを巡りテオテイワカン更に古代マヤ國までも巡りたり。マヤにてはパレンケ・コバン・テイカル・チチエンイツアーを巨大なる石積の遺跡に驚けり。此れら遺跡に見らるはチャックモールと曰ふ、人の生ける心の臓を抜きてこれに捧げ奉る、慘に生贄の因習祭事ありしとか聞くも、髪毛の逆立たむ慘傳を聞けり。
是如き生贄は、太陽の復活を祈る祭事になる因習の久しきなりと曰ふ。トウーラ遺跡ベラクルス遺蹟などよりいでたる遺物に聞書せども、かかる迷信の深き神行事を良とせざるなり。依てただ是を記録耳として、吾が國の信仰にそのアステカ及びマヤの信仰を加いざると曰ふなり。以上にノビスパンヤの信仰ぞ、是の如し。これぞ邪教なれば信じべきに非らざる也。
寛永十一年五月四日
赤塚平内
朝熊日記
春霧立つ伊勢の山河、今日の創まれる朝ぼらけに早起なる、ほととぎすに眼覚む。竹緣に鳴る水琴の音、苔に垂るる雫、泉に己が面立をしばし見て水汲み、口をそそぎ、熊野あたり向へて合掌し更に東北に冥目して祖、阿北に想をこらしむ。
有為変轉、會者定離を方丈に茶を禮儀とせしも、今更に子息の知行なせる三春に想ふ事ぞ露もなし。太古に綴らる我が一族の史は事毎に障り多く、安日彦王・長髄彦王降りて安倍日本將軍賴良・貞任・宗任の起せし事々は倭史に以て甚々障りありけるも、余に至る先祖代々になる丑寅日本の國主たる一系にありける余は、如何に忌はしき蝦夷・化外民とぞ世評にありき偽史の一行にも、余の惑ぞあらめなき普断なり。
暗雲諸國に急を告げたる戦國の末に、國を護持し安倍・安東・秋田に姓を改ふるとも、祖来の丑寅日本王たるの家系に蝦夷と言はれて何恥らふや。祥かなるは東日流中山石塔山の碑に尋ぬべし。余は耶靡堆王より一系に累代せる一族の統主とて何處に住處を移すとも、世襲なれば詮なける所意なりせば、心に轉倒なし。無常は會ふ世の者に蒙むる常なり。
余の一生に萬世の君たるを、三春の海無き小藩に子孫を置きたる運命に到すも、かくなる世襲の流動なればなり。(原漢書)
寛永庚午七月二日
實季
奥州密政開拓穏村數
東日流六郡司行丘北畠顯村之管領旧主
- 馬郡
- 二十五村他三十六村
- 江留間郡
- 十二村他二十一村
- 奥法郡
- 三十六村他四十村
- 華輪郡
- 二十一村他三十村
- 平賀郡
- 三十七村他二十村
- 田舎郡
- 二十七村他六村
- 上磯関
- 十七村他三十村
- 下磯関
- 六村他十七村
- 外濱都母
- 八村他二十一村
南部重直之管領 新主
- 宇曽利郡
- 十一村他十七村
- 糠部郡
- 十八村他六村
- 荷薩體郡
- 二十一村他四村
- 岩手郡
- 三十一村他三十村
- 紫波郡
- 二十一村他二村
- 閉伊郡
- 十八村他六村
- 稗貫郡
- 二十三村他二村
- 和賀郡
- 十九村他八村
伊達綱村管領 新主
- 江刺郡
- 三十七村他十二村
- 気仙郡
- 二十四村他十村
- 膽澤郡
- 三十七村他八村
- 磐井郡
- 八十六村他六村
- 栗原郡
- 九十二村他四十村
- 登米郡
- 二十四村他二村
- 本吉郡
- 三十三村他六村
- 桃生郡
- 六十五村他十四村
- 遠田郡
- 五十八村他二村
- 志田郡
- 六十四村他四村
- 玉造郡
- 二十一村他八村
- 加美郡
- 三十八村他四村
- 黒川郡
- 四十九村他黒川氏之二村
- 牡鹿郡
- 六十一村他六村
- 宮城郡
- 七十八村他十七村
- 名取郡
- 六十一村他二十村
- 亘理郡
- 二十六村他十二村
- 伊具郡
- 三十六村他六村
- 柴田郡
- 三十五村他一村
- 刈田郡
- 三十三村他二村
- 宇田郡
- 九村他三村
- 蒲生郡
- 十八村 公事明白、近江
- 野州郡
- 二村 同右
- 豊田郡
- 一村 公事明白、下總
- 信太郡
- 十三村 公事明白、常陸
- 筑波郡
- 三村 同右
- 河内郡
- 一村 同右
秋田實季管領
- 火内郡
- 二十六村他十七村
- 鹿角郡
- 五十一村他十一村
- 土崎郡
- 六十八村他二十一村
- 吹浦郡
- 十一村他二十七村
- 男鹿郡
- 六村他十八村
- 檜山郡
- 三十八村他二十一村
- 川辺郡
- 五十六村他三村
- 旭川郡
- 二十八村他二十村
右、伊達文書ナレドモ残書、此之以下切断記ナラズ。
寛政五年六月七日
秋田孝季
伊達氏秋田氏之密議
慶長七年九月七日、伊達正宗自ら秋田土崎に赴きて秋田實季殿と密談せり。正宗が心意には、古来秋田氏は安東水軍に在り、筑紫松浦黨とも親密にありけるに付き、その海航にありき造船の工図を入手すべき主旨なり。
實季是に心能く同意仕りて、一族の古書中より安東船になる山靼船工船図を進呈せり。正宗は息女五郎八姫を家康嫡男忠輝に腰入せるより、大船建造禁止令の腹心算なる家康の發布せる前に遣ローマ國使節を實行せんと欲し、忠輝を通じ大船建造の着工にすべく、秋田氏の安東船建造図を手本とせん為の赴きを、實季是を替道し、土崎船大工衆七十人をも添はしめたり。
正宗の異土に赴むかしむ眞意とは、安東船が東日流十三湊にありし頃の異土通商益の大なるを聞及びたるありて、常に秋田氏との親睦にありけり。安東船の再建に非らず、紅毛人ベアトルイスソテロ氏、セパスチャンビスカイノ氏らのイスパニア船図と併合船を築工せんとせり。
幕府にてはイギリス人ウィリアム・アダムスに建造せしめたサンブエナブエントウーラ號を正宗はよしとせず、古来日本式なる特岐にあるを望みたり。依て秋田氏のもとに自からなる秘を明し、茲に慶長十五年に着工せり。
約議之事
異土交易に北海の産物・シルクの織物・産金ら通商の奥州各藩の連合政勢の樹立を以て古来の朝幕になる貧政を除き、外政に習へて新國土の遠征を異土に求めんとて、十六條になれる約議を立案せり。
是の事にあるは奥州自立のかまえにて、朝幕無用たるべく立志の条たり。もとより是くありなんとて幕府は裏柳生の草入をして探らしめたりきは歴史の裏實記にして、遺れる朝庭耳ぞ知れる丑寅日本の實能に怖れたり。造船大費の半割に献ぜらるは家康六男の輝忠になる重臣・大久保長安。その一割を出費せる秋田實季、大藩にあり乍ら伊達氏はその四割にて持權せり。
慶長十八年、是の如くして月浦をノビスパンヤに出帆せし新造船サンファンバプチスタ號。なせば家康に聞こゆ隠密らの報せにてその事裏を調ぶるに、別件を以て忠輝及び大久保長安らを追及なし輝忠を解役して地領を召上げ、後年秋田氏を解役し輝忠倶に伊勢の朝熊に流居・幽閉せり。伊達氏耳は家康も砂太仰せ難く、黙したるは家康得意の狸寝の計なりと曰ふ。
元禄七年八月一日
山口儀右衛門
實季状綴より
建保の乱を一身にして、雀鳥大鷲に闘ふが如く、和田左衛門尉義盛が一族、北条氏の横行に起って問注所を攻めたる一族決行の事は歴史の末代に遺りき事なり。
是を奇緣・奇遇にも、總州君津にて乱に脱せし朝夷三郎義秀を救へたるも、先代神惠の遇則なり。是く緣ありてこそ永代の結緣に以て、和田家代々をして石塔山の聖地を委たり。
此の度の行丘殿事、亦飯積住民落着の一切、飽田に飯詰村を拓しべく地を与へければ何事の憂しむなく、髙舘の君・朝日殿に傳達下され度し。亦、石塔山秘になるを大浦氏に覚はるるに用心あるべし。
右急事如件。
天正十五年十月一日
舜季
和田五郎殿
秋田氏諸兄状
落秋の候、寒気いよいよ西風に秋田の海濱も寒騒々と、潮音に聞くる冬至の訪れに御坐候。余の儀に候乍ら、御貴殿に請申儀是在り、是の書状參らせ候。
御存知三春の大火事の他に、病感に在りべく候事は、祖先歴々の古書を焼失仕り、一族の失歴に興し、東日流安東代歴及び前九年役・藤原御所連々の歴證を復しべく候は、諸議に依りて貴殿に相定め候事の由を、獨事勝手乍御赦下さる可候。
依て茲に、三十両飛脚に屆け候事の金子、その旅費仕擇に候。依て諸國之一族緣りの巡脚、秋田氏祖歴の書留むる旨を御請願申候。幾十年に及ぶとも、費用一切亦藩士とての諸國通行手型一切を、拙方にまかなふべく議談に決し相済候也。
稀々は三春に御越下され度く、申て御願ひ申仕り候。亦、そこも人にては諸事に不自由なりと察し候へば、東日流和田長三郎殿に同請仕り居り候。
寛政元年三月一日
倩季
新年春遠からず、晴天相續候。此頃、御身は如何御過し候ぞ。余儀はひたすら歴書の尋史報達に待はび候事、千秋の想いにて、先達の史書ぞ幾辺にも讀返し居り候。東日流外三郡誌の筆了後、諸史の原書入手仕り候とのこととてその買費、仰せの如く送達仕り候。
長崎留宿の永きと察しければ、二百両にてまかなふる事残時の間なる費と下されたく、西廻船問屋・若狹屋儀、介殿より受取度く通知申上候。
天明丁未年七月二日
於三春江戸屋敷
千季
孝季どの
急告、一報仕り候。此度幕中、田沼意次より御砂太御坐候。大事は山靼旅程の要任に御坐候。浂ら既にして、流鬼及び赤蝦夷國の巡脚了り候も、更に紅毛國ギリシア・トルコ・アラビア・エジプト・メソポタミヤに巡回あるべく、幕中評定に公認相成候。
依て茲に勘定所より千二百両、その主旨に相果しべく費用に御坐候。是ぞ田沼殿、衆役を抜きて將軍の決言に蒙り候事故、その任重々至極に御坐候。祥々、松前藩城中にまかり越し、意細を仕るべく通知申上候。
天明乙巳五年十月七日
乙次郎千季
孝季どの
先般癸卯年九月三日、御貴殿差送りなる石塔山御藏金の塊二十八本、無事當着仕り候。是に幕借の金子、江戸銀座後藤氏にて立替相成り、藩急の借済仕り候。
残金多けく残存し候は、災急の城下庶民に救済仕りべく候に當申候。此事一族の秘になりせば、御身元にも御用心下され度く、一筆啓上仕る。
天明丁未年二月一日
千季
長三郎どの
天変地異の兆に候か、何處にても饉餓の報仕り居り候。諸事當れども方便是無く候へば、オロシヤ麦といへども苦しからず、御屆けあるべく請願仕り候段、此度の凶作は尋常ならず、飢に死す者既に八百人を數越し候。
御地も飢に盡せしも、津輕殿のこと善處のよしみ聞え候。然るにや當藩にては萬策相立せず、生死の境をさまようが如し。以上推察候へて刻に速からめ、オロシア麦の送達を神懸けて待はび候事、幾重乍に御情下さる可、請願仕り居り候。
八月二日 藩飛脚
千季
長三郎との
山靼のチセに邑なかりけるも、狩士の小屋あり。その上に舟を進むるは急流、是あり。ブルハン湖にまかるは、河添ふ道ありき。依てそれをたどるべし。
更に裏海を經て黒海に至る道は、カザフ族のダナイ酋長にエーゲ海にいでませる道しるべを案じべし。ギリシアなるオリュンポス山に至るは、その海より見ゆる神山なり。ギリシア・アテネに史跡あり。石神殿の基石に、地の石工に賴みてアラハバキとぞ刻み置くべし。紅海をカイロに向ふべし。
大事たるは、チグリス・ユウフラテスの古跡ルガルの神像を得べし。亦、土版に文字あると聞くに依りて、その一塊たりとも持来たるべし。重荷たるものは身に持たず、ただ證となるべく遺物耳持參しべきなり。
天明辛丑八月三日
意次
松前殿
山靼紅毛人國之要記
山靼行脚の目的に要せるは、地産物・地神信仰・國治の要生・道しるべ・古なる遺跡ら何れなるも、阿無流にて得るべきの可能なるものを要記して報じべし。
人の祖になるブリヤト族のブルハン神の祭文、元語・釋語にて記しべし。亦モンゴウ國の騎馬術を記し、亦脱精手術をも書留べし。エーゲに達しては、余の智覚に非ず。浂等心に委せて調ぶべし。
紅毛人國の智識を存分に書留め、ローマに近きともたどるべからず。余の重ねて申付く要なり。旅費思算に心得て、長崎にて余と会はん。
辛丑五月七日
意次
松前殿
三春殿祖来の尋史に越ゆる山靼の尋史に赴くは、拙者の想ふに餘る一大事なり。太古にアラハバキ神を、更に古きにたどりてはイシカホノリガコカムイに至るるも、更にして審しべくあらば何れ人祖の故地・山靼紅毛人國までも渉りて、得らざれば知るべきもなし。
丑寅日本國の紀元の證は、倭史に曰ふ蝦夷にあり。探史に、底なく深し。亦登りては山靼に求め幾十萬年の古世に人史ありて綴るは、今なる朝幕の世界に閉せる貝蓋心にては人の智識におくれ、倭史に曰ふ蝦夷より尚下等の世界史に國運を遺さむ。海交南西に閉なば、未だ知られざる北方に開化を求めなむ世は、蘭学を以て世界を知る事能はず。
茲に、オロシアを先んずる北辰領に知權を及ぼさん。慶長の伊達氏その前史に久しき安東船の海航史ぞ、林子平氏の海國兵談より尚泰平鎭護の古史の、今になる日本國の開運國力を生ぜしむる唯一の方便なり。然るに、天正の頃になる津輕大浦為信にかかりて、津輕一統のみぎり古来安倍・安東氏に緣る幕大なる古書文献を焚失して残さず。
今にして残りき秋田家文献も亦、三春大火にて焼失せり。依て茲に、秋田乙之助千季殿の依賴に以て、諸國を巡脚し一族緣りの者より集むる諸書傳文綴りて二千餘になる諸説も、正史の篩通さざれば眞史の證ならず。以て是を修成ならしむは、今になる世襲にては甚々障多し。亦山靼通行にても障りありて諸芽を欠く、幕藩の政權ぞその御定法ぞおぞましき哉。
寛政甲寅年月日
和田長三郎吉次
速々乍ら、凶報仕る段、御容赦仕度く御坐候。田沼殿、幕政に不屆と御許定相決し候へば、御貴殿之山靼巡察に費の絶ゆ、を急報仕り候。依て、隠密當藩に及ぶるは必如に候へば諸史料、暫時秘に藏しべく取急ぎ告げ置くものなり。
若し露見あらば、藩の存亡にかかはる一大事と相成るに付き候はば、以後の三春藩領に出入仕る事を禁じ置き候旨、茲に断腸の想にて通達申上候事の由、御推察下され度く、痛心堪難く候。
寛政元年二月日
千季
秋田氏抄
丑寅日本國を創立なせる往古、耶靡堆王より萬世一系にして君臨せしは卽ち阿毎氏にして、安倍氏・安東氏・秋田氏とて世襲にその君坐を保てる君系は他にあるまず。國稱古来にして日本たるは丑寅の國にて、他なる倭國に非ざるなり。倭國にして王たる者は漢族・韓族の類にして、古代なる故土人に非ず、渡り黨なり。
故地を離せる彼等の千惠は、無地の爭闘に敗れ海を渡りて遁駐せし日向の地に土民の無智なる心を惑はし、自からを天孫の神なる一系とて旣學の智識、日蝕・月蝕の天運暦を以てあたら地民を惑はし、麻煙を以て病にあるを蘇生の如く一刻の覚活にして、後病となりしを信仰の至らざる故ぞと洗脳しける非道を以て民を下敷たり。故にその令従すべきは、身命を神に捧ぐるの信仰に迷導し、東征に侵したるは天皇と曰ふ名の王統なり。
凡そ是の如きは世界諸國にて旣に起れる事なれど、わが國は海を以て自らの國を護りきも、世は進み人は海を船にて越ゆる遠征の世となりせば、小國は大國殖民の地に君臨し、智遇の民を奴隷として労仕無慘に神の戒を敗りしは、眞實の法則に逆なせる行為さながらの侵略なり。倭史に依れる神代ぞあるべくもなく、神をして人を智遇にせるもなし。ただ人の住ける環に在りて人の交りなかりければ、かかる侵略の手段に従がはざるを得ざる也。秋田一族はかかる外侵に楯なめて、丑寅の地に國を創りたるは即ち日本國なり。
荒覇吐五王の勢々は極度に進展し、その神を以て侵略の敵を討伐し、荒覇吐神の迷信なき信仰に以て諸國を一統せしめたり。故以て、古代の王國を證せる荒覇吐の神社の諸國に遺りきは、今世にしても遺りきなり。然るに人の世襲はまゝならず、國土を分って反乱を企つ者絶えざるに依りて、今になる權々掌据の治政に萬民をして憂はしむなり。我が國の遠祖にして人の種に異なるなしとぞ、秋田抄の歴史にぞ偽はあらめ。
寛政七年八月二日
孝季
天秤之政
古来安倍氏の治政ぞ、天秤にて計れる如く住人の暮しを保てり。凡そ國を豊かに保つは、民の泰平に諸産を生むなり。代々に泰平ありてこそ民、亦安らぎ睦むなり。古にしてなれる荒覇吐王とは、國土にして豊凶を民に苦しめざる流通を以て國造りとせり。
東西北南その年をして豊凶の差にあらば、先づ餌の流通、地産物の流通を以て川を道とし、海を道とし、陸にては荷駄道を通し、より多く道橋を造りて民の便を利せり。故に國王・郡主・縣主・邑長の次順に役目を置き、凶年に備へて郷藏を治領至る處に備へたり。部の民ありて、諸道具の造産にては金銀銅鐡のタダラより、鍛冶までの部を代々の業とて継がしむ。凡そ部の民の多住せるは、資材多産の處に集中をせず、如何なる山村の彼方とて至らざるはなかりけり。
國に急あるは侵敵なれども、是に以て領民皆兵と不断の練磨ありきも、永承の頃より和睦を呈して入り来たる倭朝の輩、常にして奥州の地産に奸計し、かくして起りたるは前九年の役なり。代々にして征夷の進駐ありて遂には、康平五年を以て古代王政の一角は崩れたるも、一系にありき秋田氏の今に以て三春藩主とて現存のありきを天授の業と仰ぎけるは、一族散々たるとも諸國にありて出世しける。是ぞ古代なる荒覇吐神なる加護にあらめ。依て一族にあるべく者は永代に渉りて親交に睦みて、萬世の住良き丑寅の地に全能を以て謀るべし。
寛政六年二月七日
和田長三郎
右文書、和田末吉、明治四十年再筆す。
末吉
和田家藏書
明治四十年二月五日
再書、和田長三郎末吉