安東氏諸書綴全

目次

一、東日流篇
自安東髙星
至安東康季
二、糠部篇
自南部守行
至南部氏、蠣崎氏
三、宇曽利篇
自安倍富忠
至安東師季
四、檜山篇
自安東盛季
至蠣崎藏人
五、能代篇
安東兼季
築城義季代々
六、土崎篇
安藤鹿季自
築城至一族併合
七、三春篇
自秋田實季
俊季之入封三轉之理由
八、他二篇追而

東日流篇

康平五年、父賴良に次ぐ日本將軍厨川太夫貞任討死す。その子息髙星丸、幼兒にして亂を東日流平川に遁る。十三湊安倍氏季の助力にて、東日流平川之藤崎に舘を造りその主從を落着せしむ。東日流を大区分し上磯を氏季於領と定め、下磯を髙星於領と相定め、是を稱して東日流外三郡・内三郡とせり。

大古にして此の地は安東浦たる大入江にして東日流大内泻とも稱せり。依て安東を姓とし、一族宗家を安東氏、庶家を安藤とせり。東日流六郡に移り来たる舊臣及び舊領民と東日流大里の葦萢を開田せしめ、亦上磯濱に漁民ともなして安住せしめ、少期五年にして再興を叶いたり。是れ安倍一族が古来一族の火急に備へし奥州金山の積寶、山靼に交易にして衣食住の急をまかないたり。是の如きを自善にかまうるは、古来より一族救済の為なる不断なる心得たり。依て起戦前にして十三湊に住はしめ、亦生保内に穏舘を備はしめ更に遠野及び荷土呂志、火内に穏郷を開き置けり。安倍一族の金藏はかくあるときに開きて所用に費したり。

抑々安倍氏の古代阿毎氏の頃より、人命一義の大事をとりて現今に至りぬ。東日流に於て山靼流通は生々不可欠なる海交易にして、その船向くるは満達・髙麗らに船速せる多し。亦その積荷なるは海産物にて、千島・日髙渡島の地民にしてまかなえたと曰ふ。北海の水先山靼語言の媒釋人らを同乘せしめ、その益ぞ多かりける。古代より荒覇吐神を一統の信仰として世々一族が不迷の信仰としける大要は神の構成を擴く山靼の西深く入りて古代ギリシアなるカオス神、シュメールなるルガル神、エジプトなるラアーアメン神、蒙古なるブルハン神、支那なる西王母・女媧・伏羲神、髙麗白山姫神らの信仰に入りて是を日本古来なるイシカホノリガコカムイに集併なして神格とせしは荒覇吐神の稱號なり。依て此の流通にては、みゆる神々の神傳ぞ盡ざるが如く多彩なり。

安東髙星は長じて西域の海交を支那及びその南藩に求めたり。依て佛教渡りきは天竺なるも、その他になるゾロアスタ亦はマニ更にはラマ及びヘンジー・ベイダ・バラモン・クシャトリアなどなど多く入りて是を願祀せるも由とし、總じて是を摩訶道行とし荒覇吐なる陰道神とせり。物交にて東日流に入りたる是等諸尊像、石塔山に遺りきは是なる故に依れるものなり。安東一族に於る造船の儀はその工程の岐亦秀にして、羅漢柏松杉らの材を的所に選用なせるは腹胴張り二柱帆にして更に斜帆を綱張りせり。依て船速飛潮の如し。然るに海難に殉ぜしも多遇せりと曰ふ。

元文丁巳年九月二日
談 吹浦住、磯野佐太郎

古より世にある事の書物多けれども、事實に隠し枝葉華實に付して傳ふる多し。世に勢をなせる者の傳ぞ是の如くして遺りぬ。安東水軍の起れるは萩野臺の内乱にて起れる安東太郎貞季に依りて大盛せるも、事の船航に於ては安倍氏季が日本將軍賴良の内令にて山靼交易を速進せるより大船航潮を遂げたり。

康平五年に渉れる陸奥の戦乱十餘年、敗れて東日流に再興せし安東一族、興国の大津波、應永三十三年より嘉吉二年に渉れる戦乱にも軍資の大半にまかなふるは卽ち安東一族になる異土交易に依る益にて資費に支えたり。抑々平氏・源氏・藤原の武家之世襲にあるべくして遺りけるは、異土に通ぜし安倍一族の資なくして出世あるべくもなし。

大宮にあるべくものの權謀・術數、今昔にして民を憂はしむ兆をつくり代々に通じて戦の歴史を遺しとも起るべくして起りたるそのなり國政不振なるも殿上人の栄華ぞ民の労々を下敷にして絶まざるは武家の成長を速したり。世不穏となりせば、群盗のぶせりのたぐい神出鬼没す。世の泰平は民安かるより治政能く渉りぬ。一年一作なる丑寅の民は睦みを大事とせるは日本將軍以来の士農工商の階級民を造らざるに依りけるなり。

是の如き睦みの故に異土との睦欠くるなし。安東船の倭に知られざるは、倭との睦なきが故なり。亦海産の得るは流鬼・渡島・千島の地領なればなり。地老のエカシを大事としその海産に見合ふる物交にて商益に無理なくシャモの渡り黨を制し、地民を助くる安東船の信を大いに得たる故なり。

安東船の玄武廻りとは北海の海産物船なり。山靼廻りとは萬達及び蒙古への湖路にて、髙麗廻り・黒龍江廻りあり。更には揚州船・天竺船らありきは支那にては元帝の頃なり。安東船にして倭國との寄湊地は三浦・塩釜を東廻とし、西廻りは土崎・砂泻・加賀・犀川・若狹小濱・肥前松浦に商易あるのみなり。應永十七年南部守行、糠部に入りてより十三湊津浪後なれば、時既にして廢湊たり。安東船なくして一族は多く四散し、更には東日流大乱の長期にて故地を放棄して、時の安東尋季はまつおまないに移り更に飽田に米代川領主と相成り、檜山城に主継す。

天明二年七月十三日
油川与之介

東日流京師管領安東太郎式部中將貞季状


京役之儀、鎌倉御所征夷大將軍北條貞時之朝宮奏上之砂太在是、東日流上磯及卆止之濱宇曽利、自國末至糠部都母荷薩體之領、為安東太郎式部中將貞季判官任日本將軍京師管領國主。尚下磯櫻庭之領、賜鎌倉方旨。茲宣書仕置事如件。

庚巳年七月一日
京師近衛左京藤麿

安東太郎式部中將貞季殿

日本將軍安東太郎十三湊京師管領為職式部輔状


奥州十三湊安東大納言日本將軍盛季嫡男安東太郎康季殿、勅令仕仰議、若州羽賀寺勅願道場之再興、申付者也。

甲丑年八月三日
京師寺神主計處
京極君麿

安倍太郎康季殿

以上、安東氏諸書綴の東日流篇に記載在りきものなり。

寛政七年十月六日
秋田孝季

宇曽利篇

古くは安倍三郎富忠が所領にして、産金貢馬之地也。亦安倍城になる産鐡之ただら大振し一族の人夫集いし處なり。

富忠地領の時、気仙の金為時に謀られ宗家衣川大夫日本將軍安倍賴良に反忠し、計を以て賴良を討てり。依て安倍良照の追討にて報復され鷹巣山に討たれむより地領、淨法寺入道荷戸呂志之君・安倍井殿に代領さるなり。

康平五年安倍一族、厨川に崩滅以来是地は東日流平川藤崎之君・安東高恒に地領さる。後世にては安東師季、代領せしも後代審らかならず、蠣崎藏人是地に領す。

明和乙酉年十月七日
磯野甚兵衛

糠部篇

糠部の呼稱はヌカンヌップと曰ふなり。更にして都母も稱せり。安東一族にして此の地に君臨せしは古くして安倍國東嫡男・國義にして、日本國丑寅之中央とて鮫湊を築き、更には小湊を築き十王院舘を根城とせり。糠塚・髙舘・相内・志利内・多奈部・多代に出城をなせしは國義が代々なり。

後世にして安倍富忠に併合されしも反忠にして富忠討死の後、安倍正任が丑住領主と相成り領域を閉伊山田泻に擴む。

天文二年記 豊間根家記

應永十七年南部守行、陸中に管領し糠部に根城し、安倍一族をことごとく除政民としてその追討を東日流に侵攻せしめたり。守行その嫡男義政をして行丘城北畠氏と和睦なし藤崎城主・安東教季を敗り、十三湊福島城に攻めて長期の戦に兆み、嘉吉二年十二月、十三湊領主は故地東日流を放棄し、まつおまない及びよねしろあいかわに領民残さず移しめ、渡島十二舘及び飽田檜山城・北浦城・相川城らを築かしめて再挙せり。

時に宇曽利にては安東一族に心を寄せにし蠣崎藏人ありて十三湊領主・安東大納言盛季の決断に感怒し、その残黨を救済せり。外濱後方尻八城主・安東政季を敵手より奪還せしも、藏人にして南部討伐の挙兵前にして陣中爆裂の事故起り詮なく政季、倶に渡島に渡りて故地宇曽利を放棄せり。蠣崎氏子孫をして後に松前藩主となり、政季は亦安東義季の養子とて飽田に入るも、旧主の臣と睦みなく暗殺さるなり。

依て義季、息女なる北畠氏に腰入ある子息を入れて後継せり。南部氏は勝敗なき東日流に從臣を多く失いてあたら戦費に、東日流に留まれず糠部根城に兵を引揚げたり。

寶暦丙子年三月七日
天坂則義

檜山篇

安東一族が興國の津浪以来、東日流十三湊の廢湊と倶に外三郡の領民は故地東日流を離れ、衣食住に安養たる新天地を求めて渡島及び飽田の地に移住せり。亦、船を業とせる者は諸國の津湊に出で移り定着せり。

その一族にある者になる姓は安倍氏・安東氏・安藤氏・安倍氏・安保氏・阿部氏・宇部氏・安田氏・安西氏・安川氏ら、氏を稱して子孫を遺したり。古きより飽田の地に耶靡堆より落着せし物部氏・大伴氏らあり。阿毎氏の一族も火内にあり。米代川・雄物川らの平面地を拓きて民集いたり。川辺の地は時折りにして洪水起り農に窮しては海に幸を求むるに、米代川及び雄物川の河口に築きしは湊なり。依て今になる能代湊・土崎湊ぞ古きより開けき湊なり。此の地湊に往来せるは山靼船・唐船・韓船ら海産物を求めて商益ならしめ、東日流十三湊より営々たり。

依て安東鹿季は土崎を、安東兼季は能代を、東日流十三湊に代りて安東船を振興せむとせしにや、常にして此の双方折合睦まず、遂にして一族をして内乱都度に起りぬ。依てその海交易振はず、遂にして檜山城に安東氏宗家、東日流より移着してより兵を挙して内乱せり。時、東日流藤崎城旧主・安東教季は宇津化志にあり。十三湊福島城主・安東盛季は末津雄澗内にありて、飽田になる是の如き一族の爭動鎭むため、此の両者に勅願に依る若州羽賀寺再興の工費妙賀金を割當し、海運振興にて爭因を睦むべく、此の難遇を開きたり。

檜山にありては、松前と改稱せし末津雄澗内に安東盛季が大舘を築きて住みける下に小舘を築きて子息康季の居城とし阿吽寺を建立して渡島支配を、東になる宇津化志に箱舘を築きける教季と倶にかまえたり。上國になる華澤舘に潮方政季居城し、その州崎砦に蠣崎藏人を居住せしめ、勝山城に安東義季を迎城とて築きける。夷王山麓城は、義季飽田檜山城に移りて不在城となりせば、蠣崎藏人此の城に入れり。東日流海峽堺濱に侵敵を防寒とてその要害に十二舘を築き、各々子息を住はせたるも此頃にして是を十二神將舘とも稱したり。

安永甲午年十二月三日
松前屋藤右ヱ門

能代篇

米代川辺に安東氏に依りて築きける舘多し。鉢盛舘・彌根羽靡舘・檜山城・相川城・不陀津伊城・鷹巣城・大内大舘・不二郷舘・鹿角舘らにして、和田村に金山防人舘を築きける。

米代水源になるは安日岳にして、此の川本流を荒羽々貴川とも稱したり。産金の地なれば、古来倭人の者草入れなせる地領なり。米代川に落合ふ阿仁川ぞ大雨にして洪水し、相川郷・鷹巣郷ら常にして水難多く治水に是を工事ならしめたるは安東氏なり。

相川に龍王鎭守社白龍堂を建立し、何れも下閉伊魹ヶ崎七面大明神を御配靈なして祀れり。此の七面大明神は總州小濱なる日蓮が誕生寺より豫懐さるものにて、永く身延山七面堂に安ぜしを安東康季に下賜りしものなり。金銅像七躯にして、天龍・地龍・水龍・東龍・西龍・北龍・南龍の七躯にして、是を七面七躯尊とて尾去山に鑄造せしは、唐人李契民と稱せる佛工なりと曰ふなり。

明和甲申年九月十九日
相川子之助

土崎篇

羽の後地、飽田土崎湊は古にして雄物川水戸に開けきものなり。東日流より都度の移民ありて拓けむに、旭川・山王・豊島・神成・髙清水・岩見と渉り、倭人また地民に化住せし所なり。亦古きより山靼人多く渡りきて地産の金銅を採して、その風流今に遺りき。

土崎をして倭軍の海攻あり。阿倍比羅夫になる傳ありき。安東水軍が東日流十三湊に継ぐる要湊とし造船をなせる船工多く住けるは、久壽年間より盛んたり。倭人の防人能く此の地に駐在せども、倭史になる傳には非ざるなり。此の地に入るは安倍氏にて、許さる平氏・藤原氏らありけるも、是皆安倍下に從卆せる輩にて倭權の及ぶる處に非ざるなり。安東一族が嘉吉の年に東日流より移りてより、先住の安東一族は土崎に居住し、時の治領せし檜山城の兼季、土崎城の鹿季の對意あり。

子孫にして治まらず、家臣また双方をして水油の如く交りを欠けり。依て常に事変起り、兵馬を挙して爭ふ事暫々たり。然るに安東愛季の代にして治まり、両者併合せども家臣をして對派し、遂には檜山・土崎の爭乱起りぬ。是を一統せしは安東實季にして、茲に氏姓を秋田城之介實季と改め、東軍方に時勢を極め徳川幕府への大名とて一席を為せり。明細なるは他記に讀むべし。

天明乙巳年八月三日
浅利大五郎

三春篇

元来三春藩に田村氏の治領にありけるも、幕政にて秋田氏を入封せしめたる要細記は他記諸傳に記載ありて參照仕るべし。依て略記仕る。

天明乙巳年八月三日
浅利大五郎

安東氏秋田氏諸書状篇

先状仕り候通り、内府の事状謀り知れ申さず、再状仕り候。伏敵は最上氏・佐竹氏・南部氏・津輕氏らの謀策、事の外に根深く候と推察仕り候。國替は萬端盡せども、松平氏の意に替へ申さじ、宍戸より更に何處かの辺地に移封の風聞、是在候。理由一途にて関ヶ原不戦加の事耳に非ず、秋田氏永代に海濱あるべき地領与へざるは必至に御坐候。

寛永元年録より
浪岡氏より實季に當たる一状。

賴良状

末子八男則任八歳にして世襲不馴不染に候へば火急之変に應難く、茲に白鳥丸を東日流大里十三浦に移し住はしむ。余の儀承り度く御坐候。

卆士の選に候は、村山小太郎實親・柴田權十郎忠長・黒辰次郎正之・桃生三郎烏丸・白河賴之介春宗・田村一之進景任・飽田陣十郎忠長亦の名を秀繁・生田次郎忠重・小牛田長次郎輝則・飯田七郎家一・堀田重次郎繁久・澤田亥右衛門康光・稻葉長七郎基淸・矢巾三郎盛信らに付添申付候。

東日流は六領にして海濱を上磯、大里は下磯にして陸海の産物豊けく候。先住之民六万人に候。古来いさかふるなき睦き心の民心に候へば政事能く盡し候手段あやまふべからず。心して努め度く曰置き候。亦下磯は貞任長子千代童丸に与ふものなり。依て白鳥丸の持領は上磯にして末代に證として此の一紙を書遺し置候也。
右要状如件。

天喜四年五月六日
賴良

正任状解

坂東に降神山あり、山面に生ゆ草を降神草と曰ふ。はるけき古世に北西天より、火雄志神・流我留神・武流班神・羅亞神・西王母神・女媧神・伏羲神之七神、降臨せし靈峯なり。神勅あり。女媧神・伏羲神の生みし神・熟神・熟々岐神、西王母神・地神東王父の生みにし熟速神・斧男神・亞麻輝媛神・白山媛に賜り給へき神勅に要注せば、次の如くなり。

此ノ國ハ海神・地神・天神三神通力ニ依リテ創給ヘキ國ナリ。海幸・地幸豊ケキ産成セル此ノ國ヲ神ハ號ケテ日本國ト稱ス。神々ハ相アルモノニシテ在リ、無クシテ無ケル自在力卽チ全能神通力ヲ自發自滅ス。世ニ會フ萬物ハ神ナル見通シノ眼ニ己ガ自業自得ノ生々過昔ヲ裁カルハ生生ソノ善惡ニ依リテ甦ヲ異ニス。神ハ人ガ造祈ル何事モ特赦セルナカリケリ。神ハ常ニ戒シム。生々ノ物ヲ糧トセルハ罪ナレドモソノ生命ヲ作レルハ人ハ労セドモ天地水ノ惠ナクシテ得ルコトナカリキト神ヲ斉キ祀レルハ天地水ノ法則ニシテ從ハザレバ報復ヲ受クナリ。是ノ故ニ生死ハ廻メグリヌ。日本國ハ三神ノ創リ給ヘキ國島ナレバ住ムル者神ナル法則ニ逆フベカラズ。生々子孫永代ニ能ク保ツベシ。

是れぞ坂東降神山の神語りなり。(以上、原漢書)

陸羽傳説篇

藏王山由来

丑寅の靈山、出羽藏王山の由来ぞ知る人少なし。藏王山の名付たるは役小角なり。役小角は耶靡堆葛城上郡茅原の住人にして、幼少の頃より行を大峯山に修せり。唐僧小摩より天竺阿羅羅迦羅摩仙人の傳法になる仙術奥義をば修得し、その一生を衆生に説けり。十二歳にして法喜菩薩を感得し、五十歳にして金剛藏王權現を感得せり。

依て此の感得は役小角に依る獨得の神格なり。小角は八宗の僧に告訴さるまま伊豆大嶋に配流さるるも、天聖奇遇にして受刑を免がるるまま大寶辛丑年赦されて葛城に歸郷せるも、仙術の求道に求めて支那に渡らんと欲し、肥前平戸松浦出帆せるも玄界灘にて異風に遭遇し、若狹國小濱に漂着し、丑寅の神なる荒覇吐神の告を授く夢に覚めて志を改め、丑寅日本國に赴きぬ。

陸路越州の海濱を經て出羽に入り、先づ以て羽黒山・湯殿山・月山を巡りて地人に仙行の奥義を説き、陸羽境になる山地、稱にしてカムイホノリに登住せること三十日。茲に於この山を金剛藏王仙と號けたりと傳ふなり。

寛永二年五月一日
信濃川基淸

陸羽之要史心得

丑寅日本國之世にある事の實史はひとつにして、百説を以て對し亦諸權閥をして曲史に画策なし己利に企つる史編に國史とせるも、蟻穴の一端より崩るなり。天は萬事を見通せる故に史實は幾千年に幽閉さるとも、その潜伏にありきを生滅得る事難し。

蓮種は萬世を過ぐるとも蘇生すと曰ふ。權を以て國を奪い民を奴隷とせども、祖恨は百代にしても滅せずと曰ふなり。萬丈の要塞に築きける城閣も石は砂と崩れ、木は朽ち亦失火に灰盡と消ゆは時襲の運命なり。茲に丑寅日本國の實史は蓮種の如く甦るは必如なり。

依てその日の近きを心に覚なし、此の史跡探訪の労々も吾ら一生にならざるとも亦楽しからずや。望みは末代に立つるを心に信じて此の史記を綴りたり。

寛政五年七月十日
秋田孝季

傳説と事の火原、起きたるが故に遺りきものなり。丑寅日本國の史は倭史の作説に障るが故に空白とし、その史原を滅せんとして諸々の史證を生滅せり。かかる偽れる行為は、自からの墓穴に堕いなむを速むるなり。天は人の上に人を造らず、亦人の下に人を造り給ふなし。

權者一人の野望に萬人の死あるは天の赦さざるところなり。人ぞ世に生を會てその一生に、天日はその光陰をして平等に欠くるなし。邸に恒國を境ふるも神の為せるに非らざるなり。萬物の自然に備はる住分を見よ。熱帯は熱帯乍ら、寒帯は寒帯乍ら子孫を育みて生々す。生々は神のしろしめす自然の環に、境を生命の住分として与へ給ふたるものなり。

人は智能の故に神なる環の境を破りて生々のものを狩猟し、亦人をも討伐せる行為ぞおぞましき。心せよ、萬物の生々を種に盡せるときぞ神なる報復あらめ。天地水は神の相にして、人の神たるは無かりきを覚り、無益なる野望を欠せよ。

寛政五年七月一日
和田長三郎吉次

丑寅日本之雄證

東日流中山石塔山に一躯の飛鳥佛ありき。是れ元は外濱なる飛鳥山に祀りしを、大化元年石塔山に移祀せしものと曰ふ。金銅像にして安倍致東が納めたる添文ありて明白なり。

天竺支那起佛陀傳

是教之菩提心、渉日本國丑寅地相。茲倭王以蘇我氏、荒覇吐王安倍致東相賜。依致東是外濱飛鳥山堂一宇建立安置。地民不渉、依是移東日流中山石塔山、移祀奉給也。

石塔山奉寄佛目録

天竺諸教像十一躯像他納付仕如件。

日本將軍致東

右の如き添書ありて、今に遺るるを大事とせよ。

壽永元年四月五日
石塔山祭主
安東太郎貞季

天文二年大祀祭

九月十九日東日流中山連峯石塔山荒覇吐神社にて、聖地紀元大祭を挙行し奉る。津保化族が此の地にイシカホノリガコカムイを祭祀せるより、その六千三百年に當れる歳なり。

依て茲に諸國より安倍・安東・秋田氏一族に緣る丑寅日本國の人々三百二十七人參集し、丑寅日本國紀元六千三百年祭典をもよほしたり。併せて役小角仙人の菩提もなさしめき。參集の一族みなながら鎧討物に身を装いて大護摩火を焚き壮觀たり。

折しも法要に參ぜし淨法寺西法寺法印の修法ありて、東日流三千坊の残寺僧侶二十七人の加法あり。七日間に渉るる法要を無事に相努めたり。献上神楽とて糠部切田神楽衆・相内神楽衆・閉伊鬼剣舞衆・秋田梵天神楽衆、来たりて祭事大いに振興せり。

祭主は飯積大光院修覚法印にして、石塔山の法灯光々たり。

元禄十年九月十九日
藤井伊予

石塔山祈願秘法

諸行のなかに能くある秘法とは、神と祈者の神通力にて結法し、顯はるる祈禱成果に余人を入れずして行ふる行事を曰ふなり。

抑々石塔山に於てなせるは祖靈鎭魂の儀六秘ありて、三年一度なる回を以て挙行せり。武岐・禮岐・語辨他、弓的・神楽・馬岐にして、衆を招きては火遁・水遁・木遁・葉隠等を以て謹行せり。石塔山の掟として十七行ありて衆に説きぬ。先なる秘行は夜中丑満刻になせる謹行にして何人も入れざる秘行なりけるも、衆を招きてなせる秘行とは罪障消滅、諸因緣断、滅死靈生、靈の鎭滅、病難除法等の行なり。

石塔山にて古来より吉凶を衆に告げども、救済求めざる者に法を盡す事なかりき。その故は自他力の併合に祈禱せずして神惠に叶はざる故なり。卽ち信心を持たざる者に導を与へざるは、當然の故にありてこそなり。燃え易くさめ易しき人心の勝手たるを赦さざる信仰の一義なり。求道に二導無く、亦眞實は一にして二は無かりける故なり。

諸行諸法は神の為せる業の如く説ける導師・論師の如何なる作説になる法とて、神の全能神通力に叶はざるものなり。人の造れる行法は餘多迷信なり。生老病死の光陰に命脈を保つは信仰に非ず。運命は總て天命に安じ、須く心を四苦諦として安らぐる心こそ信仰なり。

寛政五年十月一日
秋田孝季

安東大里郷

地理大古にして東日流大里は安東浦たる入海たり。岩木山・八甲田山を東西にして噴火せしより、地理隆起し入海はありて大里と相成れり。安倍一族をして姓を安東とせしは、此の大里なる中央に舘を築きてその初代をして安東氏と姓を改めたり。

東日流大里の母なる川・岩木川の流れは、古代より稻作を民に耕作せしめ、その流添へに村落ぞ開けたり。上磯は海の幸、下磯は山里の幸に満つ。古きより山靼船の往来に易せり。上磯は自然の湊にあり。吹浦・金井浦・舞濤浦・十三浦・小泊浦・合浦を以て異土船の寄船多くして、異土の諸岐を傳統せり。丑寅日本の産馬の種原にあるは山靼にして鐡鍛岐、刀剣の舞草になる他、討物・農具にも山靼岐になる鍛冶法なり。

金銀銅鐡鑛山をして採産せるも、山靼ありてこそ得られたり。山靼の流通、はるけくギリシアなる紅毛人國までの文物を得たり。是ぞ丑寅日本國の古代開化に遺れる民族能力智遇にして、荒覇吐王國を築きけるにその基となりける。卽ち異土なる國造りに収選なせる吾が國土民、心に相互せる政選にして人の暮しを保てる鑛山ただらの業、馬を放って産馬をなせる業、造船の岐を入れば大いに進展せり。

奥の國たる無史無智の地と、土民卽ち化外なる地の蝦夷とは、何事にも當らざる丑寅日本國土なり。歴史は實相にして正史なり。阿毎氏より安倍氏そして安倍氏より安東氏に渉り、更に秋田氏とて今になる三春五萬五千石大名とて萬世を抜くるは、抜んじて他にあるまずや。茲に吾らが住むる眞なる日本國の古史を甦えさんと欲するものなり。

明治四十年八月一日
和田長三郎末吉

後記

本書は大店なる古紙に再筆せるものなれば讀難く候へども遺史の一念に諸費を浮んぜるが故に為せる事なり。家業を百姓にして鮮紙買入も銭貧しく是の如き大店佐々木様の古紙をいただきて記逑せし段、誠に恥候へども朽書再生にかかはる應急の手段たるを赦し候べく、茲に以て筆記仕り置き候。

拙者好みて此の書を記し候はず、祖の遺文を子孫に傳へ長じて是を世襲の聖者に讀れむ大望ぞあっての候事なり。

明治四十年八月一日
津輕飯詰の住人
長三郎末吉

和田家藏書
再筆、和田末吉