陸奥史審抄全
和田長三郎
注
- 一、本書は原漢文多きも現釋に記逑せり
- 二、本書原書朽順に再書せるに付き時代不順なり
大正六年十二月三日
末吉
序言
本巻の要は古代陸奥の世に知られざる歴史の實相を探り記遺せるものなり。内容世にはばかる多き記逑あり。
諸障りを生ぜし故に本巻の主帳いだす世と相成れる世襲到るまで門外不出・他見無用と心得ふ可事如件。
明治四十四年正月一日
和田末吉
奥州制民企書
北方に限りなく國土をその住民との親睦にありき吾が丑寅の日本國。是を怖れたるは倭朝にして、歴史の上を化外なる夷土民國、これを蝦夷とて永く倭朝は理由なき征夷討伐の賊視にて歴史の要を綴りたる多し。
何事あって倭朝にかく敵意満なる耳を史となせるや。眞を欠き偽飾に作説さる丑寅の日本、吾等が祖國なる来歴なり。此の國は倭史の記行なる未開國ならず。古代ほどに輝やける傳統厚継の國なりき。國土の三方を海にして寒暖の親潮に廻来せる海幸擴き山野に群る鳥獣草木みなながら幸の御園たり。
古代より山靼を智得の窓とて往来を向上せしむるわが丑寅の國は日本國とて稱號せしは古き旧唐書・新唐書に明らさまにして認識のありきを、倭朝はかかる國號までも奪取せむは古事をして践ある故なり。わが國は古来、唯一神荒覇吐神を一統信仰し、全能なる神の神通力を造像迷信に神を説かず、人己々をして神は人の上に人を造らず、人の下に人を造らざるものとて、人の和を一義とし一食一汁の糧も相分ち可く心にて、古来の傳統とせり。
依て國中に倭侵の他に爭動是無く、國治常にして平らかな泰平を保つ来たりぬ。山靼に往来し、智力を得て山海の幸を流通し益をなせしは、はるかなる紅毛國へも及びたるは古けき遺物に富たれど、倭侵の事ある毎に失ないきたるなり。戦に避けにし條に從ふれば、次なるは人の生死をも慈悲なき賦貢の責あり。獻ぜざれば反きとて誅艱の限りなく、依て一切の倭交に睦まざる故因と相成りぬ。倭朝は是を反きとて征夷討伐の軍を挙ぐるも、起っては一騎當戦の勇を挙ぐ吾が丑寅の民こそ日本無双なる武人たり。
亦、山海より人の暮しに便ある鐡を造りきも、古代に既得せり。黄金亦然なり。馬産を以て國を富しむも山靼及び東海より来たる鷹族、潮に乘りて積来たる馬系にありて、わが日本國、産金貢馬の益ある國と相成れば倭人、是を得んとて穏謀画策、戦を以て奥州を襲ふるの過史にあるべくは今更に曰べきもなし。依て奥州の民、貝蓋を閉じ永く倭に染はざるは蝦夷と曰れむ化外地・化外の民とて史に遺る故因ぞ、倭官人の作説なりき。誠に以て忿怒やるかたなき哉。
寛政五年七月二日
和田長三郎吉次
衣川月影之譜
〽何となく猶ありがほの身を立て
隠れて住める衣川郷
ひでひら
〽衣川世は空蟬の梓弓
白刃に散しなきかげいざや
きよひら
〽世々ごとに生きてある身はうたかたの
あらわれ消ゆる衣川水
やすひら
〽賴良が顔を洗へし衣川
月だにすまで月のみ満つる
なかいつのまえ
〽わくらばやゆかりの人も所無く
衣川かげよるべなきなり
あるかいつのまえ
〽さればにや鎧の袖を露ぬらし
糸をみだれのもののふは逝く
さだとう
〽しらま弓糸張替ふるひまもなく
たすくめやなと主の矢面に
かわべのさえもん
〽柵やぶれ衣の舘を駆せ馬に
ふりかえみれば煙り我追ふ
やさぶろう
〽身の程もうつろふものはほの見えて
夷の國明けやかかるべきとは
ろくろう
〽いささかも時めく花の春は逝く
衣の川に流る山吹
つねきよ
〽貞任の木賊色の狩衣
衣の
よしあき
〽よしなくもさこそ心はすぎ間吹く
忍ぶもぢずり衣關閉づ
しろう
〽夜のおとど月あきなるに衣川
あるかなきかにこりのなく音
ふじのまえ
〽見馴れしも
むねとう
〽たづき敵まだ夜をこめて寄来るを
のぶかに楯をいでて討なん
まさとう
〽あらはばきすずしめ聲の神さびき
戦の
のりとう
〽
おそしと駒は前かきさわぐ
いいとう
〽いふならくとふにもつらさも立つ渡り
人はあだなる心すみにし
よりよし
右は何時の頃詠にしか知らねども安倍一族の歌とて今に遺りきものなり。
正平二年五月三日
安藤与祐
平泉昔灯絶逝
安倍賴時之孫に當るべき藤原清衡、天運を得て平泉にみやびなる御所を造営し、自から東夷と稱してはばからず、身にまつはる諸々の因縁を佛道に救済を求道せり。
先づ安倍氏が山靼をして古代より國交をなせる東日流の安東一族を、己が從兄に當る安倍貞任が二男髙星丸に對面せり。時に髙星丸、東日流藤崎の地にありて、臣の四散なるを召集めて再興せり。もとより朝幕の配に屬せず十三湊、渡島のマツオマナイ湊と通航し、流鬼島より来たる山靼船との通商に益し、領民を富ましめたり。
清衡、その隆益に驚き髙星との親密なる交りを求願し、奥州金山の採鑛せるための山靼紅毛人を平泉に招し領内に堀鑛せり。亦山靼馬を西海の土崎湊に寄せ、鷹族の東國より気仙湊に航着せる名馬を混血なし、茲に産金産馬の實を挙げて富たり。もとより信仰厚き清衡、是を祖先なる導きとて一念起菩提心、平泉の地を佛緣淨土となし經藏殿・大長寿院・僧坊・中尊寺・毛越寺・無量光院・白山神社の建立に着掌せり。
京師におとらざる寺院造りにては十三湊に来舶せる唐船より□代敦煌佛及び堀經を入れ、更にして紅毛國人の故土に寶物を求めたり。黄金造像ポイニクス卽ち不死鳥、バジリスク卽ち蛇王、ユニコーン卽ち一角獣、サラマンドラ卽ち火蛇。天竺よりブエイダ聖經、ブラフマン聖經、ブイシュヌ聖經。神像にてはインドラ卽ち雷神、アグニ卽ち火神、ヤーマ陰腑神、スーリヤ日神、アツヤ卽ち魚神、クリシュナ武の神、シブア卽ち破壊と創造の神、ヤクシー卽ち美の女神像等を入れたりき。佛陀の像は百済亦はラマ佛像も入れたり。
亦、平泉中尊邸に前世に在りき安倍家寺跡・佛頂寺は跡形なきと相成て、茲に中尊佛頂像を造りて安置せりと曰ふ。更にして奥州諸郡の佛寺よりこの諸寺大殿に集像されし古寺院にては、荷薩體の淨法寺本尊及び四天王、下閉伊西法寺より本尊及び羅漢像五百躯なり。更には和賀の極楽寺より移したる佛像一千躯と曰ふ。
かかる陸奥の古寺にては忿怒やるかたなく、長治三年乃至天治元年間に隠し埋めたる像こそ今になる像なりと曰ふも、朽にし像に涙せり。清衡の次代なる基衡そして秀衡の代に義經、此寺に隠密に京師鞍馬より入りぬ。秀衡、密謀に在りき源氏に依る魂膽を知らず義經を觀迎し柳之御所に迎へたりしも、程なく巨大なる軍資をまかなはされたり。
義經、奥州の兵を從へて平氏討伐に走れきより、是れ源氏の勝となりぬるや朝庭を無權とせる武家の權政ぞ鎌倉に幕府とて築かはしむが故、更に資金を藤原氏に求むれど秀衡これに否認たるに依りて賴朝、義經と謀り世視をたばかり義經を奥州に画策、罪にて入れしむ。秀衡、義經を迎へども秀衡急逝し泰衡、源氏の画策を覚り義經を討たむと髙舘を圍むれど泰衡が重臣兼任、義經を密かにも東日流に落しむあとなり。
事の隠密あばかれし賴朝、すわ一大事とて二十五萬の兵を挙げ藤原討伐の軍を三手に分けにし進軍挙行、是れに應じて藤原氏、東日流の安東氏を再參に使をなし援軍を賴むれど、東日流にては十三湊氏季の養子たる藤原秀栄の系になる秀直の軍備尋常ならず、不答・不授に由もなければ泰衡、阿津賀志山・栗原一の迫に敗走し、自からの手火にて平泉を灾り。
時、文治五年にて、賴朝は平泉財寶を入手せしも、義經耳は満達に故國を離れたり。予定にたがいたる大川兼任もまた宇多麻井にて安東軍に誅滅されき。平泉の乱ぞこそ泰衡、秋田に遁れて臣下に討たれ屍首をとられしは、はかなき哉。
延文二年三月六日
平泉利行
史歴裏表遺聞 一、
謀を企つは世間をもあざむくありて成る。賴朝は義經を入れずして、天が下身の置所なきが如く追へて平泉に入れしは、平泉を討つが為なる画策なりて、義經獨りが賴朝と誓ふる事なればなり。
賴朝以来、武家はみやびの下敷に命を賭くる労苦も、時には仇なる報いとて何事の恩賞是なく、殿中栄華の公卿輩にて左右を制へらる。武家ら今に起りて、朝庭の賜授をままにせむ、武家政治國家掌据をせむ賴朝の野望たり。
かるが故に義經の平泉入封は奥州討伐のためなる企ぞ義經の胸中にありきことなり。平泉にては大川兼任らをあやつりて源氏の攻めに外らし亦、泰衡を潰し兼任を以て平泉將軍たらしむ耳打謀にまんまと惑はされし兼任、気付たるとき義經旣に満達へ穏遁せしあとなり。
かかる隠謀を事速くも覚りたるは安東氏にて、兼任を討つ事にて源氏に恩を貸付せん謀事に乘ぜべくして乘ぜたり。源氏が幕府を鎌倉に成せるも、東日流安東氏を往事のままにせし置は是の故因なり、とは世に知られざる史歴の裏表なりき。
延文二年三月六日
平泉利行
史歴裏表遺聞 二、
征夷大將軍・坂上田村麿が事、無敵の猛將たる如く陸羽至らざる處なきが如く史傳に遺りきも、その實は當の田村麿、陸羽横断に成るは軍闘に非ず、佛法中尊崇なる布教及び織部・工部・薬師らを連れなして寺社の建立を曼遊せるだけのものなり。
是を良とせざるは膽澤の五王阿弖流為・前澤の母禮にて、是を風聞にせし田村麿密かに夜討をなして両王の首級を討取りて京師に退遁し、是の證ありと奏上しけるを史に留めしは田村麿が武勇傳なるも、奥州にては田村麿の武勇傳なるは無く、世の救世主たるの敬いのみ遺れり。
若し田村麿が弓箭・太刀を帶びて奥州を征討行せるならば是の敬、今に遺るべきも非ざるなり。亦、田村麿が東日流までも征討に到るは、後世の加文なり。
延文二年三月六日
平泉利行
史歴裏表遺聞 三、
引田臣阿倍比羅夫、船師を挙して奥羽東日流を制すとの史傳は全くの偽傳にて、二度なる海征になにごとの効非ず。彼の置去りたる軍船をして、造船の岐知りたる破目となりにける。
東日流にては當代大船を造れざるにて、ハタと稱しける磯舟もどきに渡往来せるに、比羅夫を泻中に降して奪いたる船及び破船を見習へてより、良き大船を造船せるに到れり。先なる有澗濱の合戦に降參し、和睦の宴をなして命を刑赦されしも亦、いで来たり。外濱に入るを討𣲽めらるまま敗走しけるを、倭史の征々讃美なる史傳に遺りきは笑止千萬也。
東日流・宇曽利・怒干怒布海辺にては、海なる侵敵に備へて火彈弓とてあり。秋田に地湧ける黒油、宇曽利山に採る硫黄を以て火弾とせる山靼傳の戦法あり。無敵のハタ軍團をして、倭史に記行のなきはまさに偽傳なり。後世に奥州侵入を書かれし後世作に、奥州の古傳なんぞ信じるに足らん。
延文二年三月六日
平泉利行
立證史談
世にある事の史談にては、とかく話題幾多に遺る多し。世々して人の情に不動な事件の如きは、尚多説にまかる多し。丑寅のことは倭傳を知る多しとも、故地の史傳に知るべく無し。
是れ卽ち倭作なる史傳を以て永きに渡り、是を否論せば罪を科すほどに益々時の彼方に忘却さるる耳也。吾が國は日本國なりとて曰ふも、聞者總ては倭國の古號とぞ想ふに到りぬ。亦神代なる天地創造を造りけるも、それを信じたる智遇なき世々のことなれば、ままに信じて疑はざりき。世々永かる故因なり。
依て茲にかかる押教に抜けいで、眞實一路の史に證を添へ申して審議せんや。先づ以て吾等が祖先とは何かを求むれば、生物生命なる起源に考ぜざるを得ず。創世の時空も無ける無なる宇宙のよどみに起りき重力に依りて擴大せる無なる膨張に創り、その一点に特異なる重力に依りて生ぜし大爆裂にて宇宙物質元素粒子の塵より天體は重力にて誕生せしものぞと想ふる也。
無より有質、それこそ宇宙にてギリシアにてはこの塵をカオスとて神とせり。このカオスより日月星誕生し日輪及び地球星も誕生せしものなり。地界に生命をなしたるは天なる光熱、地なる要素、水なるうるおいにて菌の如く誕生せしは生命の始にて、その種生進化にて各々陸海空に動物の見ゆところとなり、地には草木、海には藻草の生茂せるに至れり。
人の祖は猿猴より分岐せるものに、人間となれる進化の過程にては、吾等祖先なる地は山靼が故地なり。人の種は、誕生風土にて肌を異にせり。黒・黄・白の種にありとも人たる智能に異ならず。地界をして至らざる處なかりき、新天地の住人となれり。人の生々は誕處を郷となせる馴生ありて、永氷の地とて幸ありてこそ永住せり。
人は神を心にして暮しに入れ、心の理想境を安らぎとせり。神を想定せるは地境に依りて異なりぬ。何處に生々せるも人の死ぞ人は怖れ悲しみ、あたら邪道の神をも想定せり。人の衆主となりては自から神とせるエジプト國のフワラオの如くかかることより、人は人を鞭打ってその神殿また巨大な墓を造しむは倭國にその例多し。
世に遺れる歴史の創ぞ神に國史とせる多けれど、わが丑寅の民は神を人相とせず像とせず。天地水の一切を神とし、己れなるものは心のみとし自身生命を神の賜とて大事とし、人との和を久しく爭ふは邪道とせり。神をして迷信を作らず、祖来の傳統を大事となせるは人との睦ましさなり。爭ふ處に神の救済なく、睦む人々の心、神の大惠ありと吾が國は今に成れり。
延文二年三月六日
平泉利行
寛成天皇之事
秋田境上磯東日流境に長慶平ありて、加之地に丑寅之御所を二年に渉りて寛成の御門を御成せしむ跡ぞあり。是を長慶平とて今に遺りき。
凡そ寛政二年秋田孝季氏の探究に依れるその御遺は、名久井嶽の御陵跡・岩木山相馬邑紙漉澤に亦、御陵跡と稱す所ありて惑ふなり。
南部文書に曰く、
外濱明師状入見參畢、重々逑懐申歟、式部卿宮自稱候惡黨人、最前相憑之由載白状間、雖不能御袖賞如今、令申者致忠節之所存候歟。然者爭無別御沙汰哉、旦云當時云向後可致忠由、内々猶可被加教訓候、云々。
明治廿年五月一日
和田長三郎
倭史阿部比羅夫
越國守・阿部比羅夫、船師卆ゐて飽田・渟代の蝦夷を討ち渟代・津輕の郡領を定め、渡島蝦夷を
斉明天皇四年、比羅夫復た蝦夷を征し飽田・渟代蝦夷と百四十一人、津輕蝦夷百十二人、膽振鉏蝦夷二十人を召し酒食を賜ひ、進んで肉入籠に至り後方羊蹄に郡領を定め、遂に粛慎を攻めて歸る。
六年、比羅夫舟師二百艘及陸奥蝦夷一千余人、河に臨み屯営為し呼んで曰く、粛慎来たりて將に我を殺さんとす。願くは河を渡りて官軍に屬せんと。比羅夫、賊の船數及状所を問ふ。蝦夷具に之を指して曰ふ、廿余艘あり、と。卽ち粛慎を呼ぶ。来肯んせず。比羅夫命じて帛綵兵鐵を海兵に積て以て唱はしむ。
粛慎意動き、羽旗を挙げ船を發して来たる。二老粛あり。綵帛の處に至り単𥘎を取りて之を着け船に乘りて去る。俄かにして復来たり更に単𥘎を脱し故衣を着けて去る。追て之を呼ぶ、来たらず。其船、幤路辨に至りて和を乞う。比羅夫許さず、兵を發して之を攻む。粛慎柵に拠り拒戦ふ。官軍奪戦して之破り大いに俘虜を得て還る云々。
明治廿二年五月一日
渡島麻津尾澗内
和田權七
三國通覧附録
林子平著
按ずるに此後方羊蹄は今のシリベシなるか不審。蝦夷のシリベシは、松前より七十余里奥なり。斉明の朝政所を此地に置く程にエゾを手に入れしなば、今世はソウヤ・カラフトまでも悉く日本人の物なるべし。
かく筈なるを西は熊石、東は汐首を過ぐれば悉く夷體異言なり。愈々不審と謂ふべし。よりて竊に憶ふ、津輕をシリベシと心得たるに非らずや。
又按に斉明の朝より一百余年の後天平寶字の比、宮郡の多賀に碑を建てエゾ國界を去る一百二十里と刻めり。又愈々にして不審也、云々。
明治廿年五月一日、写
和田長三郎權七
流鬼島聞史
間宮□(不詳)藏著
自宗谷眼前望陸影處流鬼島也。住人赤蝦夷他山靼諸族為混血。通陸羽地辨渉能、於古来東日流屬國、於日本將軍是號流鬼島曰也。古来到安東船黒龍江山靼諸民族尚紅毛人交易挙國益。語諸長老不知無者、此旨御政所奏上被責禁口外、不納得不審至極也云々。
明治廿年五月一日、写
和田長三郎權七
鷹巣歌詠
〽わけ迷ふ世を秋風の心だに
げにや祈りつ
〽わすれめや夜に啼く鷹の落羽を
〽のならひに太刀とりいでむいくさばに
〽足びきの苔に露けき朝ぼらけ
鷹巣の舘とは衣關の川向ひなる女舘なり。
寛政五年十月二日
秋田孝季
紅毛人國渡神史一、
古来より丑寅日本國にあるべき神を、倭は次の如く記逑せり。
東の夷は識性暴び强し𣷝ぎ犯すを宗とす。邑に長無く邑首勿し、各封界を貧りて並に相盗略む。亦、山に邪しき神有り、郊に姦しき鬼有り。ちまたに遮り、經を塞ぐ。多に人を苦しむ。其の中に蝦夷は尤强し。男女交り居りて父子別無し。冬は穴に宿り夏は巣に住む。毛を衣き血を飲みて昆弟相疑ふ。山に登ること飛鳥の如く、草を走ること獣の如し。思を以て箭を頭髪に藏し、刀を衣の中に佩く。或は農桑を伺ひて人民を略む。撃てば草に隠る、追へば山に入る云々。亦、東の夷の中に日髙見國あり。其國人男並に椎結け身をむどろけて為人勇み悍し。是總て蝦夷と曰ふ。亦土地沃壌えて擴し。撃ちて取りつべし云々。
是は日本書紀に曰ふわが丑寅の日本國也。卽ち鬼とは紅毛人のことなりて、邪しき神とは山靼傳来の神なり。此の頃は日本書紀に曰ふ崇神天皇の頃也。彼等の見し丑寅の日本國は既にタダラが山深きに創り、血を飲むと見たるは山葡萄酒を飲むるを血とぞ思い取りぬ。紅毛人は毛皮を好みて着用し、懐に刃物を着帶せり。是に習へてわれらが祖人もこれをマギリと稱して携帶せり。
山を登ること飛鳥の如くは、谷越ゆとき對岸に蔓吊りに越ゆさまにて、草に隠る走るは狩猟に備はる不断の習得なり。亦、追へば山に入るは、身を護るべく地型地物の應用なり。是なるを野獣行為に見たるは笑止千萬の見當相違なり。蝦夷は强しとや悍しとは、然るべく對敵應闘に人たるものの本能なり。和に非らざる者は侵敵なり。倭人是を賊とは何事ぞや、こや日本國なり。
永正丁卯如月一日
物部君麿
紅毛人國渡神史 二、
古代黒龍江を道とせる紅毛人の渡来は多し。求めて来たるは北海獣の毛皮にて、猟虎及び黒貂・砂金にて、シュメイル人・ギリシア人・トロイア人・アラビア人・ロオマ人・エジプト人・エスライル人の各々にて、定住しけるも多し。
諸民族各々仰ぐべく信仰あり、故地の神を地民に説く。是れぞわが丑寅にまかりし紅毛人國なる渡神の創なり。彼らの携持せし神像の數々その經典、今世になりて失せけるも、人の暮しに遺る多し。
丑寅なる日本國の語源、また物名にありては紅毛人渡着地にて各々口傳に訛れども、傳稱せり。神名亦然なれり。宇宙を神聖とせる北極星を、神なる天神の國とし、この向きに住居頭向寝の無上方位とて、死して逝く靈界常世の國と、紅毛人が各宗に共通とせりと曰ふなり。
永正丁卯如月一日
物部君麿
紅毛人國渡神史 三、
永禄壬戌年、紅毛人の記せる丑寅日本國図にBANDOYと記しあり。何より渡島を今図に似たる図形なりきにも津輕を、宇曽利と外濱なく大半島にて、渡島に海峽岬となせしはよるべなく、安東水軍今にありとぞ着濱せざる見當の図板なりき。
當時にして渡島の長老ら、山靼は明國となりにしも、紅毛人と仲介し交商を留むなかりければ、ギヤマン青珠・毛織物着衣・唐錦の絹衣を着し皮靴を履物とせる程に紅毛人と接し居りぬ。
安東氏より秋田氏となりき大名に推挙の座にありきも、國替となりて秋田氏は老中に北領固有を請言せしも馬耳東風にして聞屆けざれば、まんまとオロシアに國領宣言なり。古来固有なる丑寅日本領土を奪はれむぞ、やるかたなき忿怒なり。
寛永丁丑年八月二日
秋田城之介
紅毛人國渡神禁止令
古代阿毎氏・安倍氏・安東氏・秋田氏と移りける一系の丑寅日本國なる國主を生さず死なさず、その勢を制えたるは朝幕の既覚たる継警の念なり。
而もその古事来歴を世封にし、系図を分って上と下とに累系添書を倭史に基かしむは、三河百姓の秀吉にて潰されきものなり。秀吉の曰く奥州日之本までの國を征せんとは、古来丑寅日本國累代の史傳既存の故なり。
亦朝庭をして征夷大將軍官位を以て國政の權者卽ち幕府將軍の官位とせしは維新に至るまで存續せしは、未だに東北にあるべく民をして夷人の化外にしてやまざるは、白川以北一山百文たる價に置之その陸羽にあるべき森林帶を官山に奪取して民の貧しき生々もかえりみざるは、未だに蝦夷征伐に存續せる暗認の官策なり。
依て自由民權を國家の主柱とせん。
明治庚辰十二年一月一日
松本義照
荒覇吐神之救世
自由民權とは國家維新の總意たるに、薩長土肥の政權掌据にて自由民權をかかぐ者の弾圧なれり。
武藏・三春・秩父と官警の弾圧せる處荒覇吐神社の古社、古来より存續し現在に至れり。國家憲法の立案、自由民權、民主の芽は潰さるとも荒覇吐神は是を赦しまず。必ず報復を受けんや。茲に末代日本の泰平隆幸を民にあらむおば念ずること如件。
明治四十四年一月一日
父權七の口説を記す
和田長三郎末吉
歴史を作説する勿れ
筆者の所見なり。所見なるが故に私考を逑るものなり。今尋常小学より中學、大學に至るまで倭史一色に染め抜かれしは、まさに丑寅の日本古事をあまねく抹殺せん故意に依れるものなり。
神代とて世にありまじきを菊華に授賜をなせる神道の國權を牛耳るさま、あたら民衆を洗脳すべく教育に入れ、軍人をして軍神と奉る國の行末ぞ如何に問んや。茲に為せる天皇を奉る帝國憲法ぞ、國亡挑發のものなればなり。
日本國中一統なれば、何故以て北日本を貧土とせしにや。亦國有とて、民の立入る禁足無収の堺を定むや。過年なる日清・日露の戦役に徴兵せる兵卆を屍の楯とせにしや。國中多殉にあるは東北辺土に多きは何事ぞ。今に全能の神ぞ軍閥官權の輩に誅滅の報復あらんを、拙者の余言を遺し置くものなり。
大正元年二月一日
和田末吉
平安の文跡 一、
〽山科の木幡の里に馬はあれ
かちよりぞ来る君を思へば
小野小町
〽泣く涙雨とふらなん渡り川
水もさりなば返りくるかに
〽散りまがふ花に心をそへしより
一方ならず物思ふ哉
〽とはぬ
何とてまつにかかりそめけん
〽思ひきや榻のはしがきかきつめて
百夜も同じまちねせんとは
〽暁の榻のはしがき百夜かき
君が来ぬ夜はわれぞ數かく
〽秋田なる山に
郷ぞ想へば涙したたる
右は小野小町にまつはる歌なれど、さしてよみ人知らざりきなり。孝季
〽待春の山吹咲けど仇嵐
花は散なん國見山里
〽山吹の花にも似たる將門の
〽かぶと
衣の舘は花盛りなり
〽弓張りをゆるべて敵を赦しまず
情けはあとの仇となりける
〽えにしより
都は炎
以上はいづれもみちのくに遺れる古歌なり。然るに何事ありての歌なるか、われは知る由もなき哉。
寛政六年八月六日
秋田孝季
平安之文跡 二、
〽年ふれば神も交はるあかねさす
奥の雲居に秋風ぞ吹く
〽前九ねんあと三ねんひさぞらへ
藤原落し鎌倉も消ゆ
〽分けきつる山又山は麓にて
峯より峯の奥ぞはるけき
〽陸奥のおくゆかしくぞ思ほゆる
壺の石ぶみ外の濱風
〽夏衣たちかへてけるけふよりは
山時鳥一重にぞ待つ
〽子を思ふ泪の雨の蓑上に
うとうと啼くはやすかたの鳥
〽奥の海汐干かたの片思
おもひおもひやゆかむみちてを
〽我が袖は汐干に見えぬ沖の石
人こそしらねかわくまもなき
〽君置てあだし心を波越て
汐越し雲の行方非ずと
〽知られじなかはる契の末の松
神に波越す恨みありとは
〽身を焦す契ばかりか
思はぬなかの陸奥の鹽竈
〽白波の陸奥の淀濱世ちつくし
海士の子なれ波は唄なれ
〽世の常を秋風ならば萩花に
岩手の森の錦をりなす
〽北空の青き
旅の終りを尚先延す
みちのくを歌題ならしむは、倭人をしても亦遺しあり。逝きにし平安の昔を愢ばしむ。
寛政六年八月六日
秋田孝季
日本將軍綠
祖に阿毎氏・安倍氏と耶靡堆王を継ぎて是を耶馬臺王とも稱したり。邪馬壹国は築紫なり。此の王に女帝あり、號けて卑弥乎と稱す。この國は神祈を以て國政を自在せり。神祭に大麻をいぶせるなかに神懸り、衆を信心忠義を强要す。衆は是に從はざるものなし。魏志倭人傳にいでくる卑弥乎傳是なり。亦、宋書に曰はしむる倭の五王とは倭史に當るべき天皇に當王なく、是れ荒覇吐王代にて安東將軍の事なり。
本居宣長に曰はしむれば此の両傳を一蹴せるも、此の當期になる倭王卽ち天皇代ぞ世になかりける多王代にて、彼の邪馬壹国も亡び逝く磐井王代に入り、安東將軍は丑寅の日本將軍に改むは支那にては知る由もなかりけり。即ち倭の前稱は耶靡堆にて、三輪山に王居あり。耶馬臺は膽駒山に王居ありて更には出雲・那古・越に存して虎視眈々たる世の事にて築紫日向に起りし佐奴王に東征さるるまま國併せ國ゆずりを一統にせしは後世なる倭國にて、東國坂東より丑寅は日本國たるを支那旧唐書・新唐書に釋明せるところなり。
その要に曰く、日本國は丑寅に在りて倭國とは異なりぬと明記せるを覚つべきなり。東國を鎭守せしは安東大將軍にてその後継を日本將軍と曰ふ。依て倭史にてなれる後世の史書、古事記・日本書紀、其他になる倭史一切なるは、唯一書に曰くとてかかる歴史の大事を不載不聞にて綴れるも蟻の一穴外聞に崩れ、耶靡堆・耶馬臺・邪馬壹、亦安藤大將軍、讃・珍・斉・興・武を不載として稗田阿禮・大野安麿になれる、記と紀なる綴編と相成れり。
丑寅の日本國を化外の蝦夷國とし、そこに實在せし國號を盗用し倭史の創構は成れるとも、日本將軍たる丑寅に存在せる安枕の眠ならざる故に、起るべくして前九年の役を以て表面上の一統に及ぶるも、その後胤は安東と姓を改め古襲の姓を挙げて東日流に起りけるを朝幕倶に是を放權被外に黙認しきたりしは、起て虎の尾踏が故なる黙認なり。
鎌倉に幕府なりてより朝幕倶に奥州の動行を探りて遣はしたるは、文治の錢賣吉次、建保の金光坊圓證、建武の萬里小路卿及び寛成法皇、天眞名井宮、南部氏ら。維新前夜になる髙山彦九郎、吉田松陰に到る陸羽に隠密ありて維新は成りけるも、元の木阿弥にて白川以北は一山百文とて山林原野を國有とし今に貧民たり。
明治四十三年一月一日
和田末吉
安倍氏之埋藏金
康平五年にして消灯せし奥州の覇王家・安倍一族の軍資は消費せず、尾去澤・末尾澤・和賀に採堀せる黄金、實に十二萬五千八百貫と曰ふ。
安倍安國代より一族挙げて産金を求め、渡島日髙に到る露天堀りになる金銀銅になるは日本の國財とて藏金しその藏所とは、地の神自ら地下宮を造りし大殿洞あり。洞門わずかに五尺、縦六尺、奥に百間進みて殿洞ありて廣し。地底湖ありて萬年留なり。湖に漕ぎ渡りて水洞あり。神秘たる大洞あり。此の洞を以て金藏とせり。
若し盗賊入りても支洞に迷へば出口を失ふ、神護の窟なり。安倍氏六代になる金藏、實に十二萬五千八百貫なり。是れに銀三千七百貫・銅二十八萬貫と添藏す。
亦支那錢ありきも黄銅なれば金と相違して民に流通せざるを以て藏し、その量六十八荷駄を添藏せり。是れ一族が存亡に急なるときいだしべく亦、山靼の國に住み買ふ蘇生のものなりと傳ふ。在所は東海、波濤岩に洗ふ朝日の出づる冬至の光りに案ぜよ。案なく入りては千尋の岩穴に堕て歸らざりきと曰ふのみに賴良のみが知り得たるも、流箭急逝して所傳はざりきなり。
爾来是を今に見當たるはなけれども、何をかに解図やあらん。
天正六年八月十五日
木田米吉
安倍系多稱諸氏
世々國賊とて史に遺しも、諸國に安倍氏・安東氏・安藤氏・秋田氏の姓にありて家系を為せる多し。亦貞任・宗任神社を建るもかしこに在す。
常陸國千代川邑なるに宗任神社ありて社主松本氏三十代、此の神社を庇護せりと曰ふ。亦、上野國には八束脛神社ありて貞任を祀る神社なり。
諸國に尋ねて客神・門神・客大明神・荒神・荒羽波岐・荒吐・荒覇吐・荒脛巾・荒磯・白山神・姫神・白山姫・白鳥、其他數多き神社に訪れては安倍の縁りにありき神社多し。
亦、祖を安倍氏になる家ぞ六十余州に無系なるはなかりける。なかんずく多きは備州四十六郷に分布。豊州及び筑紫に多きは松浦黨、國東大元黨なり。此の地に存せる石片に遺れる古代語印ぞ、東日流なる語印と同じなりせば驚けり。
大古よりの流通、筑紫に在りきとは存外なるも安倍國東をして此の地縁りありきも語印との年差、宗任と縁りありきも然なる處なり。
寛政七年十月一日
菊池忠一
反忠因緣抄
天喜三年八月、宇曽利太郎富忠、状を賴良に屆けて請願せり。
吾が住むる郷は海に東風荒く、作物稔らざる多し。然るに仰せの採鐡及び黄金の産鑛滅せず、馬産また然なり。依て作年なる稗の不作、領中に糧貧しければ何卆御計らいて米三百石御授仕り度く請願の要、御聞屆下るを幾重にも祈りつ御幸下されたし、
との書状月三度に續けしが、貞任是を良きとせず父賴良に言上せぬまま伏せにける。宇曽利にて一日千秋にてまつはむ富忠に異なる哉、気仙の郡主・金為時、米五百石・稗二百石を富忠に屆けしに、富忠饉餓を救はれたり。然るに金氏、敵方なれども背に腹はかえられず是を入れたり。金氏しばらくはさたなかりしに、天喜五年三月宇曽利にまかりて富忠と對面し、源氏よりの珍寶贈りて曰す、
賴良未だ汝を救済なきは、汝を異母兄弟に因あり。母正室ならずとて、汝は頻良が長男なり。汝耳を貧土の地・宇曽利に庶家別せしはもとより汝を安倍一族とぞ認むに放棄せる事實にて、今こそ血縁を断って官軍に入りなば、理由に作年事件を以て然るべき。反忠の儀に支障なかりける。何れにせよ安倍氏の日本國權は崩壊せる事火を見るより明らかなりせば、決せよ。
と誘ふれば富忠、想振って參道せり。此の報賴良聞きて、貞任を怒叱せるも事おそく、富忠一千餘騎を挙して閉伊の猿石川を西に進みくるを賴良、使者を以て遠野の鷹巣山に仮陣をなし、気仙の金氏勢を待てる陣に賴良書状屆きたり。
富忠是れに依りて意細貞任にありき計と知りつ、賴良の面談を江差にて對面せるを返状せり。かかるを知りつつ金為時、三千の手勢鷹巣山に向はしむも旣に陣發しあとにて取急ぎ食客の源賴義家来なる弓箭の名人・平貞親に、己が家来にて本田宗光・多賀城兼行・鳴瀬小五郎・本吉甚左右衛門・唐桑賴綱・廣田与右衛門ら六人の弓達人を添はしめ、富忠が對面せる江刺餅宇陀の仮陣に隠忍なさしめ、賴良狙射を策したり。
安倍賴良、貞任が是れ惡謀ありと留むれど、事汝の故に起りき事とて聞入れず從士に清原光賴・河辺左衛門・橘貞賴・淸原武貞・金經永・安倍為元・藤原重久・物部維正ら五百騎をして賴良、狩衣に折帽子にて鎧をまとはず富忠に對面せり。賴良曰く、
こたびの救済気付かなんだは余の失態にて、幾重にも詫び入れ仕る。異母とて、兄者と余は父頻良の血を引く兄弟なり。やごとなく兄者たる將軍の継を余に在りきは一族の定めにて詮なきしも、兄者を宇曽利にまかりしは要なる産金・産馬の重任なる要地なるが故也。然して兄者の飢ゆるを知らざる余のあさはか、責叱亦反忠の報復ありても今更に當然あって然るべきも、余は兄者憎しとは露御座なく、かく參上仕りたる次第なり。依て糧一切の授は以後一切おこたらざる思儀、きもに銘じて仕る、
と深々に底頭せるを、富忠両手をさしのべてこれをとどめて曰く、
余も自から至りて願はざる失策にあり亦弟憎しとも嫉妬に心せし無けれども、こたびは急飢相次ぎ余の制、なにごとにも通ぜざる家臣の挙兵と相成りき。これぞて天運なり。余が為時と約して宇曽利の民を救済せし恩報は、為時に報はざれば仁義の外道なり。依てこたびはひとまづ人首あたりに退きて為時と謀り、為時に加勢せざれば末代に以て余の不義なり。弓の家に生れし宿命なりせば次に會ふべきは戦場にて、こたびの和睦、時おそしとわきまえて然るべく、
とて和議相成らざれば、賴良是れに納得し引座せり。ときに賴良が富忠と禮をつくして別れ歸途にきびしをかえさんとき、馬乘にありき賴良を狙ふ七弓の箭が平貞親の引く弓絃を放れ賴良の側腹を射たり。次々六箭の矢飛びくるを太刀に落したるは川辺左衛門にて、富忠卑怯也とて卽應戦、阿修羅の場に一変す。
富忠心得ぬ出来事に呆然とせしも、かかれとの一喝に両軍激したり。然るに五分五分の對兵なる故に忿怒に燃ゆ賴良勢に押しまくられ富忠、人首に残留せし手勢のもとに退きゆくを急使にて駆せたる安倍良照一千騎、續く貞任勢一千騎、二手に一方は鷹巣山の金為時勢へ一方は人首の富忠陣に突入せり。
重傷せし賴良、宗任が警護にて鳥海柵に通夜の介療せしも死したり。人の位なる忠臣厚き川辺左衛門、この報聞きて狂気の如く富忠が陣中に先陣を斬て突抜き富忠を捕へ人首の老樹に縛し、両掌両脚胴胸頭と富忠を的に處刑の弓箭を射て殺せり。富忠勢はことごとく討死し、一方こなた金為時は気仙を遁げ鷹巣山に火を放つ。安倍勢の追手をとどめたり。
此の戦にて清原光賴・清原武貞・橘貞賴らは民家に避しているを貞任の眼にふれ、弓折にて强打され大叱責されしが因となり清原武則一族の反忠となりけるなり。
賴良の死は源氏の喊聲となり、一方は和賀の極楽寺に賴良仮葬をなせる喜憂のことも是、戦の常なり。賴良葬儀の際に清原武則が參列せしを貞任は清原一族の光賴及び武貞・貞賴の隠避をそしりたるに、武則中座をして出羽に怒發て歸れり。ときなりと源賴義、羽州に自から赴きて曰ふ、
安倍一族朝賊とて七年の反き、あといくばくもなし。汝こたびの援軍を以ての義兵も、その將士たるを恥打せるは汝の意に反むくもの。かくある安倍氏に後々の慶事はあるまづく、今ぞ心改ふる可きぞ。若し汝が官軍となりせば勅許にて奥州鎭守府將軍とて未来を約すものなり。
賴義、懐中よりその勅宣を三禮しなして武則に示せば、武則かしこまって曰く、
安倍家あって清原今日あり。仰せの儀、有難くも吾祖千年前より耶靡堆に在し阿毎氏の代より日之本の君に仕へ奉りきを、先過一刻の失態を逆恨みて反忠せば子孫末代に尚恥をぞ遺しなん。依て即答今にして難し。亦是旨一族の大事なる決意、同意を要せずして鳴り難し、
と曰せば、賴義黙笑して曰く、
汝の心意、誠に以て武門の道に相違なき義仁なり、
と勅状及び持參の黄金を贈りて歸りければ日數の間程置かず官軍加勢の答状、賴義に屆きたり。清原一族官軍となりせば蝦夷は蝦夷を以て討つ可く、故坂上田村麿が朝庭に奏上しける如き。茲に戦謀の的を得たりと賴義、躍れり。清原勢、出羽にありて二萬五千騎、安倍の總勢三萬騎に反忠せば茲に丑寅日本國の終焉を明らかに兆したり。
寛正癸未年三月一日
清原越中
安倍氏之譜
前九年の役を以て、丑寅の日本國の巨星は宇宙の星座に昇天せり。一族は諸國に四散忍住せども今は三春藩君主に往古を愢びて、茲に歴史の實相ひとつの眞實を遺し置くものなり。
世に歴史に偽りて遺す耳ならず、系図を偽りて世にたばかる多し。古来阿毎氏を以て耶靡堆王に君臨して以来、安倍氏・安東氏・秋田氏と代々一系に君座をゆるがず亦、系図を偽らず朝幕こぞりて系譜の修成を求むれど夷證を系図に抹消に呈しべくを断って、吾が系は蝦夷とぞ系をして誇りとすとぞ曰して改系せるなく現世に尚以て累系せるこそ尊とけれ。
安倍氏の過昔に國賊たる歴史の傳髙けるも、前九年の役なる衣川の歌に義家の詠せし彼の一節
〽衣の舘はほころびにけり
太郎義家
〽年を經し糸の乱れの
苦しさに
厨川貞任
是く遺りぬ公史は、他に非ざるなり。亦虜となりにし宗任が、髙殿の公卿らに梅花の枝をこれ蝦夷に何と稱す、とに宗任しかさず歌一首を以て奉答、
〽わが國の梅の花とぞ
思いしに
大宮人は如何が曰ふらん
鳥海宗任
是く遺りける安倍の史傳、公にして歴史の要とせるは、他説にあるべからず。以て實在せる歴史の彼方、丑寅に日本國起りその國號は倭國を制して一統國號となれる古代東北民の創國者たる威風の英智、誠に以て吾等東北民の誇りなりける。
世は今、古代東北民望みたる紅毛人の文明開化を入れ進歩せんにや、是を妨ぐる權謀の輩各閥に術策暗計し民族の主權、自由進歩の民に及ぶるを制ふるは御誓文五條に反くものなり。
明治四十五年一月一日
和田長三郎末吉
追而
筆中にして大正元年、右以て了筆す。
陸奥史審抄全
全終巻 華押
盡老令、以本巻不筆。
和田末吉
八十九歳
和田家藏書