北斗抄 總結

注言

此の書は他見無用・門外不出と心得べし。やがて来る世襲の為に遺し置くものなりせば、一巻の失書なく永代に保存を大事とすべし。

大正六年七月十三日
末吉

諸翁聞取帳

序言

諸翁聞取帳、聞くがまゝに記す。

序に逑ぶる一言

年々歳を經し毎に目の不自由、筆記まゝならず。此の一巻を以て我が生涯の記逑を了りぬ。言々すべからく是れ眞に非らざるはなし。後世の聖、能く是を審し世に遺すべし。

大正六年十一月日
和田末吉

吾が國・丑寅の國土こそ、眞の日本と創號せし國號也。依て歴史に神代を筆頭とせるは、人祖に歴史を惑はす亡想を相誘ふなり。世に萬物の生々あり。生々のすべては生々の連鎖にて、各々生命と子孫を進化せしめ空に飛び、水に土にその生々を今に遺せり。是の如く萬物進化の中に、人類たるその進化に先進せるが故に古を語り遺し、子々孫々への歴史を遺せり。生じて死せる無常の中に、心の安らぎを信仰と曰ふ神を想定し宇宙に神を大地に神を水の一切に神を求め、諸々の信仰及び神々の傳説ぞ生ぜり。

卽ち神とは、人をして信仰の求道に生ぜしものなり。依て實在せし神ぞ非らず。人類が心に求む信仰の道にて是れぞ信仰史にて遺す他、人類史なる筆頭にせるは眞理に障りてあたら迷信を誘ふなり。また世にありて、人の世襲にては非理法權天と曰ふ輪廻あり。長じて權にある者のみ自讃美史に遺し、その枝葉の加筆も永代に渡りては眞にあやまりて遺る多し。

寛政六年八月二日
林子平 談

支那古代になるは三皇五帝・歴朝の時代あり。その天子とは太昊伏羲氏・炎帝神農氏・黄帝軒轅氏を三皇と曰ひ、少昊金天氏・顓頊髙陽氏・帝嚳髙辛氏・帝堯陶唐氏・帝舜有虞氏を五帝と曰ふなり。論語に曰く、為政以仁譬如北辰居其所而衆星共之と記あり。北辰は北極星の一名にして北極地軸の天にあたりて、地球より見るに常に位置をかヘざる恒星なり。政を為すに仁を以てせば、天下を風靡せる北極星の常に一處に居りて之に向かふ衆星を從ふる如くなるべし、と曰ふ意なり。

吾が丑寅日本國に、北辰の星を荒覇吐神と曰ふ別稱あり。東王父と曰ふ名をも存名せり。依て、支那に西王母と曰ふあり。支那にては武帝傳・漢武故事・列仙傳・博物誌に見ゆなり。西王母は一亀堂金母と稱し、姓は𦃺または何、揚にも作るなり。諱は回、字は婉姶又は大虚と曰ひ、西方至妙の気に化して伊川に生れたるより西王母と名付け、東王父の妻たりと傳ふ。漢武帝、仙道を好みて神仙を求めたるに、元封元年七月七日。西王母、華林女・媚蘭女・青娥女・瑤姫女・玉巵女ら侍女を隨へて帝宮に降り、仙桃七顆を帝にすゝめ、己も二顆を取りて共に食す。帝其の美味なるを賞へて、かの核子を留めんとしたるに、西王母、此の桃は世の常のものに非ず、三千年にして一たび實る桃實なりと曰す。かくて歌舞を奏して、帝の寿福を祝ひたりといへり。
倭史なる續日本後記にては、

主基則慶山之上、栽恒春樹、樹上五色慶雲、雲上泛五色慶雲、雲上有霞、霞中掛主基備中四字、且其山上有西王母献益地図及偸西王母仙桃、童子鸞鳳麒麟等像、其下鶴立矣。

と見えたり。唐物語に傳説の大要を傳へたり。
山海經に曰く、

其状如人、豹尾虎歯而善嘯蓬髪戴勝、是司天之像及五残

といえり。吾が丑寅日本國に傳ふは、西王母は東王父の妻にて三千年毎に山靼なる天山の天池にて遭ふと曰ふ傳へあり。山靼巡禮にてはモンゴルのバイカル湖なる水の神ブルハン、次なる天山天池の神・西王母及び東王父の神、次に星海なる女媧・伏羲の故地参拝巡途に在りぬ。依て神司としてなせるはオシラにて今に遺りぬ。

寛政五年七月七日
由利傳八

〽都をば 霞と共に 立ちしかど
  秋風ぞ吹く 白河の関

能因法師の歌なりき。白河の関は岩代國西白河郡古関村旗宿にあり。古来この道を雪落道・落遁道と曰ふ。卽ち、下野國那須郡蘆野驛より山踰へて旗宿に達する古道なり。
下野國誌に曰く、

芦野より白河に至る街道の西二町許入りて古柳あり。朽木の柳又道の辺の柳とも曰ふ傳説あり。奥州に征夷の軍寄せるあらば、朽木の柳その葉を色紅く変化す、

と曰ふなり。源賴義・義家・賴朝らの奥州征討の軍を寄せしとき、その都度に以て葉を紅く染むると曰ふ古話ぞ、今に遺りぬ。

寛政六年二月一日
亘理源三郎 談

武藏國南多摩郡多摩村字に霞の関ありて、平將門の設けし関なりと曰ふ。
道興准后の歌

〽あづま路の 霞の関に 年越せば
  われも都に 立ちぞ歸らん

漢占倭に入りてより、東北に方位の當る地を東北の隅地、卽ち艮の方、陰陽道にては鬼星のある方としたれば、是を忌みて古くより此の方角にぞ神社・佛閣を建立せる風あり。東國を更に東北に越ゆあらば、艮閉ぎとて建つるは和賀の極樂寺・閉伊の淨法寺ありぬと曰ふも、是れ國分寺たる倭朝の費に建つるに非らず。奥州の覇者日本將軍安倍一族の建立せる史跡なりき。また、東日流なる石塔山荒覇吐神社・大光院・三世寺も然りなり。糠部にては三嶽大石神社・外濱の善知鳥神社になれる古歌ありぬ。

〽陸奥の おくゆかしくぞ 思ほゆる
  都母の石ぶみ 外の濱風

西行の遺せしは日本中央と記彫せる日本將軍が建立せし石碑たるも、後世に安倍氏の建立月日・氏名を彫除し、日本中央のみを遺したるも、更には石碑を何處かに隠滅し今は見る事叶はざるなり。

寛政六年七月二十日
蠣崎重任談

吾れ髙山正之と申し候。世に出生せし郷の候は上野國新田村にて候。吾が家系に候はゞ、鎌倉討幕に挙兵候事の南面武將・日田義貞の家来にて候も、父なる正教、尊王の士志なりせば、旗本筒井氏の刺客に斬殺され申し候。是ぞ拙者叔父なる剣持長藏と吾れ、尊王の大志を同じゆせるを、吾が實兄なる専藏と相反し候間吾れ郷をいで候。吾れ日本六十余州都々浦々に旅程の志士を募り候事の巡脚立志思立候。卽座にて旅立候。先づ以て奥州にまかりては菅江眞澄・秋田孝李・和田長三郎・林子平らに對面仕り候。

林氏の海國兵談とは。昔、東日流十三湊に在りき安東船、その船造法にてメリケンにぞ渡りし。伊達殿・秋田殿の密議に候へて成したるサンファンパブチスタ號の秀なる奥州船に習へ候はゞ海外なるオロシヤ・メリケン・イギリス・フランスら外蕃國の侵領に防ぎ、睦き交易に開くべく候事の開化文明に候。吾が國の隆興ぞあり候て、老中田沼殿の密令是在候ぞ、茲に海國兵談の要在候。

天明元年八月二日
髙山正之談

艮の日本國、人祖山靼に頂き、吾が國なる歴史ぞ創りぬ。人祖の渡りより風土の異変起り今なる陸羽の國景相成れるも、何時如何なる変異のありや知るを能はざるなり。民族の傳統その風習ぞ、住むる風土にて亦異りぬ。古代になれる山海の、変らざるはなかりけり。代々寸変にして変らざると思いども常に絶ゆなく変り逝くは、宇宙にてもまた然りなり。人生の生死は、人生耳にあるべからず。萬物等しく、その変化にぞ適生進化に以て生死たり。それぞれ運命あり。その生命ぞ長時に保ち難し。

佛法に曰く天上の衆にも五衰の相あり、とか。我等の過去は知るべからず。然りとも因果は相續して不断なりき。須弥山の四方に山あり。中に就きて、北方の北倶盧州は凡てに優れ、住むる人は一千歳の寿命を保つといへども、猶千年に満つれば寿命終るべしとの意を以て、生者必滅の理りに洩れざるなしと曰ふ。老少不定とは老若を問はず、死期に定まり無しとの意なり。卽ち、諸行無常是生滅法生滅滅己寂滅為樂の覚明すべし。

寛政六年七月十三日
大光院照覚談

凡そ東日流中山連峯石塔山・荒覇吐神社に祀らる金剛不壊摩訶如来の御尊像は、金剛藏王權現の本地佛なり。依て金剛藏王權現は垂地尊なり。何れも役小角が感得せし両像なり。法喜菩薩亦然りなり。役小角、倭の葛城上郡茅原の人なりしも、幼少の頃より奇才にして金剛山に修し、天竺・支那より渡り来たる佛像・佛典に學ぶなく獨り無我の境地に求道し、法喜菩薩を感得し四衆に説きてその道を悟りたり。

求道の根本を以て神佛にその本願を立志して、求道に入らば自ら覚明し、救済の法自ら獨明す。求道に法衣は無用なり。造像し供物を衆に請ふ勿れ。亦、佛に代念し布施を請う勿れ。衆に以て心の意に答ふる耳とし、布施の散財を定む勿れ。金剛とは自他に通じて金剛也。佛稱唱へて曰す。

救世尊、南無金剛不壊摩訶如来、南無伍佛本願力、南無金剛藏王權現、求道引導尊、南無法喜菩薩。

役小角の唱へ奉る不断の稱名なり。役小角が石塔山に遺せし修法大要に曰く、

抑々信仰の道は安心立命を心に不動とし、諸行の支派に惑はず、唯信心道に諸邪の誘に迷はず一心不動不乱に稱名せよ。暗に聖光を、濁りに清流を絶ゆまざれば阿耨多羅三藐三菩提を得ん。求道に安心立命を得るは摩訶如来・藏王權現・法喜菩薩の三身は卽一身とて救済を得ん

と曰す。

寛政六年八月三日
大光院小角坊

天明山靼行状記に見ゆるは、老中田沼様の内命を受けて奥州十三湊より渡島・サハリイを經て山靼黒龍江をのぼり、チタに至りてクリルタイに参列せり。バイカル湖にてブルハン神を祭禮せし後三手に旅を別れ、その一隊はツバンを經て裏海なるラシュトにて集合を約せり。第二隊になるはアルタイよりカザフに入り、第三隊は天山よりウズベクに至り、ラシュトにて總合せるは六月を經たり。各々旅中の綴りを讀合て、次なるバグダットに向へり。

瀝青の丘なるアラハバキ神及びルガル神の鎭魂を拝す。留宿せる事、二十三日。地の古老に六千年の古事を聞取りぬ。古老の曰くは、古き世にグデア王・ギルガメシユ王ありて此の世に遺せる叙事詩ありて、アラなる猛き獅子・ハバキなる蛇を雌雄の神とて崇む。男神は天に在りて宇宙を采配し、女神は地母と相成りて萬物一切の生死を司どりぬ。依て水の神ルガル神、カルデア民にてはガコ神と曰ふ神を加へて、アラ・ハバキ・ガコとて唱へたりと曰ふ。

古老のカシム、尚神話を語りぬ。ギリシア・エジプト・ミノワ・トルコの神々は、何れもこの神に基きたりと曰ふ。神の正傳なるも、國を渡りては地の人師・論師にて枝葉を多く飾らるなり。然るに正傳なるままに、今に傳ふるは吾が丑寅日本國耳なり。ギリシアに多神にして今に一人の信者もなかりき。エジプト亦然りなり。さればムハメッドなる神アラア、キリストなる聖書及びコオランもギルガメシュなる叙事詩なる多し。吾らの旅程ぞ、エジプト・ギリシアを巡禮しシナイより紅海を更に天竺に至り、支那を經て郷里に着きたるは寛政三年七月成り。

寛政五年七月十三日
糠部四郎賴正

蒙古國なるサヤン山の國をツバンと號けしは、先の巡禮者・安藤光任の號けしものなり、と地の古老曰く。吾が丑寅日本より山靼に遺せし地名多し。満達に平泉。チタには己が姓を山川に遺したり。チバ・スルガなど今に遺るはその故なり。 ツバンとは東日流の古名にして此の地に號けたりと曰ふ。

山靼にてはトルコ語多く、次には天竺語・欧州語ありぬ。スラブ族・ゲルマン族・バルト族他フインウゴル族及びサモイド族はウラル語なり。多くを占むるはトルコ語にてカザフ族・ヤクウト族・モンゴル族・ツングウス族・ウデゲ族・アジア族・カフカス族・クヤカン族他、クリルタイに通商せる故に是の如くなれり。吾が國よりいでゆく語習にてはトルコ語を用ゆ多し。山靼とは西の大國と曰ふ意にして、各國己々の稱に非らざるなり。依てクリルタイは都度にあり、民族各々集合し語をぞ覚つなり。依て巡禮もその故にして、古代より續けられたり。

吾が奥陸羽になる言葉に遺るる異土語ありて、一文字一語にて通ぜる言葉にては、彼の語今に遺りぬ。は神、は人、は傳へる、は拝む、は走る、は死、は産れる、は夫妻、は男、は女。是の如く一字に相通用す。

千島・樺太・渡島にては山靼をクリル族と曰ふなり。吾が丑寅日本民をジパング・ジパスキ・ヤポスキ・ツバン・アントウ五稱の呼名にて各族に遺りぬ。山靼との古事限りなく諸翁に語り継がるこそ多く、是ぞ忘るべからざる史傳なり。

寛政五年七月二十日
小野寺安次郎

時の過ぎ逝くは永く覚ひて、老いては昨日の如く短かし。孫父・實父の言付にて朽書の再筆三十七年の間、家業の隙に書上たる一千三百巻。今日を以て了りぬ。幼くして松前に仕へ、習はぬ讀書算を、門前の小僧習はぬ經を讀むが如く覚へたる。吾が學力の恥も省りみず、能くぞ續けたるものなり。依て本巻の十に、吾が生涯を懸けにし過却を遺し置かむ。

文久三年此の世に生れ、父長三郎第四妻の子に生れ、その先妻なる兄弟姉妹二十四人目の吾れなれど、十歳にして渡島に渡り、松前城に入り小姓に務めたる年。世に曰ふ戊辰の役起りて、江刺より松前様と鰺ヶ澤に遁れきて、津輕藩寺・萬藏寺に隠居の、諸寺閣の小僧とて奉仕せるも、父長三郎より暇を願はれて歸郷す。孫父及び實父に言付けらるは、吾が家の代々に渡る祖先の虫喰ひたる古書の再書なり。依て始めたるに、世にいだされぬ禁書の類にて吾は當惑せども、兄弟姉妹何れも在家に非らざれば和田家の相續、吾れに任されり。

庄屋時代なる邸家・田畑、他家に賣却され、少かなる田畑を暮しとせども常に貧しけり。妻をめとり一子長作を得たるも、孫父母・實父母將棋倒しに逝きて、三春より藩主の胤来葬に仰ぎてより、一層此の書写に力念せり。然るに松前にありき和田勝太郎と曰ふ者ありて、和田家の遺物を掠めんとせるに、是を石塔澤隠洞に隠し置きて安全たり。然るに佛檀なる遺牌を持行かれ、また吾が帯刀までも持ち盗まるるは、やるかたなき忿怒たり。

和田長三郎代々の遺品も安全たれば、安心たり。勝太郎なるもの吾が家の縁にあらざれど、妹の子にて嶋谷家の者なるも、松前に渡りて豪暴を極め、吾れの子とて作籍し和田氏を名字しての狼籍たり。また渡島に渡りし吾が兄なる者、倶に和田家の財に狂ひて都度に来たるも、諸産を妻なる産財とて登記なせるより訪れるなかりき。和田家の恥なれば、吾れにまつわる惡因縁ぞ是の如くたり。家ぞ、分家を買受けて今住むるあり。田畑も復しぬ。

更には書写も、却る明治十年より今に了書せるとは永き日月たり。乏苦のため、紙の手入を得られず。佐々木家の古帳を頂きて助かれり。吾が家は坂東武者なる和田小次郎義盛が三男・朝夷三郎にて、建保元年鎌倉の乱に敗北し、東北に子孫を遺したり。吾れは宗家を継ぎたるが故に、是の書を書續けたり。さもなくば我は山靼に移り住み彼の國の旅に死すとも、志せし夢ぞ常に想ひたり。然るにや、我は老令盡し逝ける日の近きを覚ひぬ。いつの日ぞ讀まる書巻とも知る由もなかりきに、子孫を案じ今讀にて全書を写したるを赦し給へとこそ我が想いなり。安倍氏・安東氏・秋田氏そして朝夷氏卽ち和田家の菩提を念じ、茲に至極せり。

大正六年十一月二十日
和田末吉

十一

先祖の大事を吾れに託されしより、吾が一生にぞ志しに拾つる多し。丑寅の國とて朝宮の鬼門とて忌み、その歴史に遺るは征夷に盡きぬる歴傳耳なり。されば何をして丑寅日本國は征夷の敵國なるや。古事来歴を調ぶるに無智にして、鬼望・野心の國とて忌みぬ。

〽蝦夷とは 血肉を喰らひ 倭の民を
  餌食とせしや 討ちてしやまむ

北夷論に見ゆ一節なり。されば是の如きは、まさに丑寅の民を鬼畜の如く見下せし古歌たり。殿中にありてかく政事に、奥州の民は重き貢税に苦しみ畜生の如く世に生々し、その權圧に前九年役以来今生の藩政に、尚以て泥中に心身を染むる耳なり。國神たる荒覇吐神も外神とされ、その境内は倭神の鎭む處と相成り、古事なる一切は藩赦なくして何事も復す事ぞ能はず。無念至極なり。今にして海にても八方を塞ぎて、山靼の流通は渡島隠易のみなり。

安倍・安東・秋田氏と継ぐる丑寅日本國主の胤もまた、海を閉したる三春の地に封じられたり。故因は、丑寅日本國その歴史を封ぜる因原に委せるものなり。吾が丑寅日本國ぞもとよりの國號にして、蝦夷たる國稱に非らざる也。人祖の渡来より十萬年乃至三十萬年に渡る住民の誇りあり。治世の基は山靼なる進化の文明に基たり。

丑寅に住むる者よ、我等は倭人とは異り信ずべく眞實一路の歴史を保つ民なり。能く子々孫々に傳ふべきなり。白鳥はあくまでも白鳥なり。丹頂の鶴は丑寅日本國なる國鳥なり。心して吾等が傳統を保つべし。渇するとも國神なる荒覇吐神を、信仰に離るべからず。

文化二年一月一日
土田与市

十二

敗るとも、敗者たる生々にも、忘却を赦さざるは歴史の曲折なり。如何なる敗者への弾圧・權力も、民その者の意識までも自在になるはなかりき。何時世にか救世主のいでなむを待ち得べし。荒覇吐神の再来ぞあらん。權謀術數は永らふ験ぞなかりき。討物とりて兵馬の勢に覇すとも、その報復に伏すは世界なる歴史の例なり。吾ら奥州にある者、睦みを欠く勿れ。祖来の實史を忘却する勿れ。能く忍ぶべし。いつしか天照の光り浴さん。暗きにも北極星は不動なり。宇宙は神秘なり。

丑寅日本國とは荒覇吐神の直徒なり。救済の神を心の力とし心に安心立命を保つべし。天なるイシカ・地なるホノリ・水の一切なるガコ。神はその中に鎭め給ひて我等信仰の者を救済せん。一刻一日の生を大事とし、己が身體の強健を保つべし。如何ありとも、戦の扇動に誘はるべからず。亦、志すべからず。人命を大事とし、心身を不断に錬磨し、吾が丑寅日本國の建つる復興に備ふべし。己が一生に萬機當来せずとも、子孫に能く傳ふべし。倭史に心惑ふべからず。心して丑寅日本國の古き民族の信念を欠くべからず。

貧しきにめげず、苦しさに耐えよ。神の救ひぞ必ず汝れを救済せん。死を怖る勿れ。死は新生への門出なりせば、生と死は生々萬物倶に未来永久に生と死を以てくりかへすものぞと覚り、老たりとても自放自棄に心を轉倒する勿れ。丑寅日本國は輝ける古代の國たるを振興すべきなり。心して倭史の神話に心を賣り、國を賣るべからず。此の國を能く護るべし。

慶應元年七月日
堀田藏之介

大正六年十二月全了
和田末吉