北斗抄 廿七 記了巻
申付之事
此の書は他見無用・門外不出と心得よ。記行に世襲の權政に差障る段是あり。科を受く事あらん。
寛政六年二月一日
孝季
諸翁聞取帳 一
吾が丑寅日本國は、人祖の住むのぼりての世は古くして、語部録に十五萬年乃至三十萬年前とも傳はりぬ。かくある歴史の過却に於て遺れる史實の事はさだかならずとも、壱萬年前の程はその實證となれる遺物・遺跡を以て明白たり。此の國に人の住にし創期にして、はるけき山靼の地より渡来せし民あり。是を阿蘇部族と曰ふ。住みにし處は東日流なる西南にして、是を今に阿蘇部之森と傳はりぬ。此の地は大地震起りて、火泥を噴火せしめ岩木山となりければ、住人多く災死せりと曰ふ。東日流大里は、此の噴火に依りて隆起して成れる原野たるも、もとなるは西海の入江たり。
次世に渡来しける民あり。是を津保化族と曰ふ。是なる民に依りて丑寅日本國の國造りは成れり。此の國は狩猟・漁撈ともに幸あり。次第に人の居住を擴く分布の郷を殖し、西海・東海の濱添ヘに新天地安住の地を開き、山間盆地までも居住の郷を擴げたり。古代なる民族を統率せる主をエカシと稱し、その頭目たり。エカシとは長老のことを曰ふ。エカシの上にオテナありて、是ぞ國主なり。
古きより信仰あり。天の神イシカ・地の神ホノリ・水の神ガコなる天然自然を神とて崇拝せり。後世この三神をアラハバキカムイと稱し、古代民族の一統信仰とせるは、安日彦王・長髄彦王の王位に依りて成れり。是、山靼より渡り来たる紅毛人の古神にして、天地水の神なれば、併せて崇拝せり。
アラハバキイシカホノリガコカムイと稱ふる神への稱名を以て、古代人に依りて信仰尚弘布されしは、今に遺れるアラハバキ神社を以て證さるなり。ただ、降りての代にアラハバキ神を廢し門神・門客神・客大明神とて、本殿より外に出だし倭神と入替ふるあり。出雲大社・永川神社に神改ありぬ。荒覇吐神のもとなるは、彼の大社に祀らるもとなる神たり。更にして太田道灌が築きし江戸城神も、荒覇吐神たるを知るべきなり。依て丑寅日本國は、かくある歴史の深層たり。
寛政五年二月一日
本田長宣
二
昔より富める者は、系図を買ひても己が家系を造りぬ。同じく權にある者は、故事を造り、己が祖歴を飾るあり。世になかりける歴史も代々に造り造られ来たるも、永らふては史實とて後世に相通ぜるなり。貧しければ、史實の家系にありとも通用せず、ただ野もせに消滅す。紫式部の曰ふ如く「日本紀など片そばぞかし」とは、是の如くなればなり。
丑寅日本史は世に實在せし歴史にあれど、公に障りて遺ること難し。依て是を永代に遺す者あらば、科を以て是を圧すとも、史實は偽より尚強きなり。日本國と國號せしは、國を創む第一世たる安日彦王なり。
語部に曰く、
此國は日輪東西の海に朝夕し、日の本なる國なり。海幸・山幸ぞ民を富ましめ、北領限りなく北斗の彼方に在り。幸は北海に無盡たり。不動たる極星を仰ぎける此の國を、吾が位を推挙せし長老その民に宣す。此の國を日本國と國號し、國神を荒覇吐神を以て君民の一統信仰とせん。
國運は山靼に睦み、民族と交り倶に和を以て幸を換え、永代に和を乱さず、信仰に爭はず、民の住む地領を侵さず、事常に泰平を犯さず、商に易し海を道とすべきは吾が國政と固く銘ずべし。人命ぞ神の授くるものなれば自他倶に重じ、殺生せる者を罰するものなり。老人を援け、妹背は睦み、隣人相援け合ふ。一汁一菜とても分つ心に、施を保つべし。・・・・・・・・・・・・・
是の如く傳へ遺りぬ。
語印は、器及び巌面に遺りしもあり。皮及び木皮に記ありきを集写せしものを語部録と曰ふ。右解讀字なり。語部録に依れる古き世のさまは、手にとるが如く古代一切の史實を知る古事録なり。今にして尚用いらるは、めくら暦にて見ゆ數字にては同然たり。
寛政五年十月六日
伊藤熊五郎
三
クリルタイに集ふ民はスラブ族・バルト族・カザフ族・フインウゴル族・ヤクウト族・モンゴル族・ブリヤアト族・ツングウス族・オロチヨン族・カフカス族・クヤカン族・アヤ族・オロッコ族・ギリヤアク族・ウデゲ族・マンチヨウ族の他、紅毛人を併せて五十七族の集いにて、ナアダム祭の市に物換せり。アルタイ・ツバン・チタ・トンリヤオ・サガリイに市を移すあり。
その商道は黒龍江なり。吾が國にては海産干物及び獣皮にして、價よく山靼諸國の珍品を換へたり。彼の國人多く日本國への歸化を望むるも、金鑛採収に技ある者を入れたり。依て、丑寅日本にては金銀銅鐡の採鑛を可能とせり。ミヨシ掘り・横狸掘りにてタダラをなして金銀銅鐡を産したるは、古き代の先進たり。人の渡来また多く、農耕を傳ふるも早期の代たり。住むる地は山海の川辺に多くしてポロ・ベツ・ナイ・シリベツ・ケシと地名せる處に集住せりと曰ふ。
文化二年八月一日
名越徳太郎
四
安倍一族の衣川関に、鷹の巣・鷲の巣ありて両處ともに隠城たり。衣川奥右股・左股ありて、本柵ぞ落合に鎭ませる荒覇吐神神石境内に在り。戦起りてはその軍謀・術策に企てたるものなるも、清原武則是を知りければ、貞任是を囮に退兵し無血にして厨川柵に兵を集めたりと曰ふ。古来安倍一族の戦法になるは討つ引くの、一義に人命はなにものにもまさる尊重すべきものとて、死守の利なき戦を挙行せず。利ありて討つ、利なくして引くを要とせるに前九年の役に死者を多く出ださず。傷負ふ者は、生保内の隠城に湯治せしめたり。生保内城にその城跡ぞ、誰知るべくもなく遺れり。
寛政二年二月十日
小野寺小太郎
五
古代丑寅日本國の國主一世とて君臨せし安日彦王。副王長髄彦王の他、地の東西南北の隔つ領に四王を配し、是を荒覇吐五王と稱したり。中央より四王に國治を傳達し、能く國領に事の意趣を速やかに渡らしめ、治安を護持せんがための五君たり。是を安東五王とも稱されたり。王居に仕ふ者を部之民と稱し、陸海の幸を流通せしめ、民の産物交換を速やかに道を開き、河往来・海航を盛んならしめ、渡島往来を以て船造り、やがては山靼往来を常とせり。
中央王居に二王、東西南北に四王を置きけるその間には、県主・郡主・郷主の順なる司を置きて中央より發布せる諸事は卽座に相渡る仕組なり。山靼に習ふる此の治領に、久しく丑寅日本國は泰平たり。千島王・渡島王・越王・坂東王・吹島王・山方王・髙倉王・巌手王・飽田王・閉伊王・東日流王・宇曽利王と名付けるは中央王居の移居せし名残にて、五王は永年同處に駐るなく中央二王の令に従す。
寛政三年五月十日
迫勘九郎
六
みちのく歌草紙 第三
〽日髙見の せゞのうたかた 忘れ水
岸に淋しき 白百合の花
〽朝風に 霞を流す 山木立
けぶりて見ゆむ まなくよしらめ
〽住みうかれ 絶えにし風の 見うずるに
あはれ馴るゝも 明かしかねたる
〽天ざかる げに山吹の 花雫
こゝに来てだに 忍ぶもぢずり
〽すさましく 夜討の敵は 寄せにしも
さこそ心は あらけなやまず
〽時きめて 人の命は よしなくも
廻りあふべき 程だにも得ず
〽あかざりし すぎ間吹く風 うちかづき
花のうつろひ 花をし思ふ
〽春盛る 柳櫻を こきまぜて
共にあくがれ 花の新たに
〽おことには 文のひぬまに あらまして
幣取りあへぬ 薄氷を踏む
〽ます鏡 生死長夜の さるほどに
露もたまらん 心にくしや
〽波を越す 八重の汐路の 沖船に
心づくしの 手を振り送り
〽立つ別れ 不覚の涙 ひたすらに
親と別れの 戦の門出
〽人だまひ 牛の小車 思ひかけ
忍び忍びに また絶え絶えに
〽思ひかけ 思ひのうちに 忘れ水
花になれこし 猶しをりゆく
〽そことしも 乘も習はぬ 玉の輿
天にもあがる かゝるべきとは
〽ほの見えて 身もがな二つ 無けれども
よしわれのみか 修羅場めども
〽音に立て 湖水けたてゝ 白鳥の
北に發つ春 雲の上まで
〽かげろふの 燃ゆが如くに 春野づら
啼くや鴬 梅の下ぶし
〽ものゝふの 定なき命 しらま弓
日頃をよそに さつと捨てつる
〽さればにや うつ肩ぬいで 引く弓の
よつぴきひよう 鷹羽うなりて
〽世もたけて 心もうつろふ 秋の風
袖ふれつゞく かつさきそむる
〽ゆひがえに 解けや手櫛の ひとときを
清水の流る 音に慰み
〽風の打つ 空に鳴子の 音渡る
鳥も驚く みちのくの里
〽神迎ふ 打火輝く 護摩壇の
採火汲水 神事の行
〽山颪 足もためらず 手にたつて
化生の如く いふこそ程も
右は奥州人の詠ける歌の綴りなり。ただし全歌よみ人知らず。
寛政六年一月一日
飯田弥太郎
七
東日流上磯濱十三湊に崎あり。東に唐崎・鰊崎・昆布崎・五輪崎。西に璤瑠澗崎・宮崎・紅毛人崎・伊治權現崎・神威崎ありて古邑これに遺跡せり。なかんずく神威崎にては古き世の器、土中に埋りて掘出づる多し。何れの崎にありきも、十三湊より南に入江せる東西の對邑なり。
此の人江を安東浦と稱し、年毎に下磯陸地と相成り、是を東日流大里と稱さるなり。對岸ともに大葦原にて住人住家に用ふなり。遠浅なる入江なれば水鳥飛来し、鰊及び鮭の産卵寄泳ありて、住人こぞりて是を狩猟・漁撈せり。渡島より鶴の飛来あり。萢地にねぐらとし入江に白鳥群泳して越冬せり。
〽白鳥の 群なすなかに 數加ふ
鴨のせはしき 幾萬羽かな
〽遠浅の 岸水漕ぎつ 餌をあさる
鶴の啼く音に 雪ぞ舞吹き
〽潮けたて 鰊は濱に 寄せなして
鮭はのぼるゝ 岩木川かな
誰詠めるとなく今に地唄とて遺りきは、古今になる風物詩なり。幸の郷・東日流上磯下磯の空と海より来たる處に、住むる吾等祖来の御園ぞ東日流なり。
明治四十二年八月一日
境屋多作
八
一心不乱にして神に祈り心を不動ならしめ、その一点たる地軸に當る夜空に、星の見えざる曇る日も北極星の幽光を見つに至りては、荒覇吐神の神靈に至りと思ひ取りて然るべし。時空も無き暗黒の無宇の一点に、カオスの光熱爆烈し、暗を焼きて物質となりし宇宙の銀河塵。集縮して星と誕生し、星また死して爆裂しその散塵となりて、その散塵より更に新星誕生し、宇宙は幾兆億の星界と擴げ今になる宇宙を修成せるは荒覇吐神の全能たるの威力たり。
荒覇吐神とは神通力無双の宇宙神にして、日輪を創りその圓周に九曜星を創り、その第三惑星とて誕生せしは地球星なり。その地界に水を以て海となせるも、生命を誕生せしむ神の萬物を化生の創にて、その一生物ぞ人間なり。萬物各々多生なる植物を餌になして己が生命を長久せしめ、子孫を遺し自らを護る進化に子孫對久せり。然るに、生命連鎖に以て草食・肉食の今に存續せるも神のなせる業なりき。
萬物のなかに人間ありて、神を知り、信仰起りぬ。天なる神イシカ・地なる神ホノリ・水なる神ガコの三神卽一神と奉るは荒覇吐神なり。大寶辛丑年、役小角と曰す行者あり。東日流に来り荒覇吐神を祀りき小山・石塔山にたどり、金剛藏王權現の本地・金剛不壊摩訶如来を感得せしは、荒覇吐神の靈験に依りて得たりと曰ふなり。役小角、山岳に於て修行をなす感得佛に、此の他、法喜大菩薩あり。
常に以て木食・草衣たり。此の年十二月十一日、此の地に入滅して倶に祀らる地と相成りて、佛法を入れたるは安東一族なり。爾来今日に至る信仰あり。中山秘境聖地とて神佛混合道場たり。石塔山にて行ぜらるは役小角直傳なる荒行三味なり。
大正二年十二月十一日
和田長三郎末吉
九
金剛界・胎藏界の本願に佛像を納め来たる根本道場とは津輕の中山千坊にして、正中山梵場寺・石塔山大光院にて成せるも、世襲に遺りたるは荒覇吐神社耳なり。明治に入りて廢佛毀釋起り、十和田神社また大山祇神社の社名に改めたるも、祀像密に隠藏され安全たり。然るに神社地・半里四方國有林とて奪取されたるぞ、やるかたなき世相たるも、貸付とて遺社を今に留むるも、遺跡多く荒芒たり。古墓は五輪塔散乱し、盗掘に荒さるまゝたり。
明治二十年九月十九日
和田長三郎末吉
十
享保に起りし大飢饉より天明の飢饉・天保の飢饉と相續き、是に改革さるゝ倹約令・公事方御定めなど。田沼意次、是に北方蝦夷の開拓を望みたるも、そのしるべにも知識非ず、公令を以て秋田孝季・和田長三郎を江戸に招きて相談せり。オロシヤ探策とて千島・サガリイなる北領のオロシヤ進駐を防ぐるための土民への委任統治地、同意策なり。両者是なる旅に出でしは天明元年の夏にて、その後杉田玄白の後見草に記行ある如く、出羽・陸奥を襲ひし大飢饉と相成り、毎日の如く千人の餓死。のみならず、田沼意次失脚せり。
松平定信、次役して歸農令・異學之禁・棄損令を以て改革をなせり。是くあるを知らず、秋田孝季・和田長三郎吉次、山靼の旅を歸郷せり。然るに何事の沙汰是なく、古學及び陽明學類とて輕き吟味の裁きにて解放されたるも、異國より持歸れる書巻を召上られたり。
寛政六年七月二十日
秋田孝季
和田長三郎吉次
十一
安政六年。英人ダーウイン、種の起源・進化論を世に呈す。明治三十一年。佛人女子キュリー、ラジュウムと曰ふ原子を發見す。世の進むるに異國にてはメンデル氏の遺傳の法則など、科學への進歩を速せり。安永五年、平賀源内エレキテルを完成し科學の芽を世に呈して以来、明治に至りて理科學大いに振興せり。然し乍ら文明開化とは鹿鳴舘に西洋眞似の舞踏・舞曲をせるが如く、古代傳統の大なる文化を忘却せる猿眞似の如くは憂ふべく次第なり。
獨人アインシュタインが明治三十六年に相對理論を發表以来、宇宙創誕の謎も開明せんと科學の進歩ぞ、やむことなし。今は人が空を飛び、水中船にて海中萬里を潜せるもあらんとす。ノーベルのダイナマイト・米人ベルの電話機・エジソンの電灯や活動写眞・獨人デイーゼルのエンジン・米人ライトの飛行機など、科學こそ末代の要學にして、化學と倶に人の衣食住に便利なる変化をもたらすものとならん。
明治四十四年二月
和田末吉
十二
古代丑寅日本國の祖人なるは、オゴタイ汗國なるキルギス・ブルカン山・バイカル湖・女眞・ウイグル・サマルカンド・エミール・チヤガタイ汗國・イル汗國・キプチヤク汗國・吐蕃國・シュメイル國などより、人族雑多にして渡来せりと曰ふ。これらを山靼と曰ふ。是らの國々戦乱、常に起り住人は安住なる新天地を求むまゝ砂漠を、荒野を、山岳を越え、大河を渡り、海を漕ぎて渡り、吾が丑寅日本國にたどりたる人の渡りぞ三十五萬年前の古事なりと曰ふなり。
亦、黄土嵐とて居住地の不毛なる候の異変に、餌となる獣物を追ふて移り来たるもあり。吾が國耳ならず北極地をアラスカ・北アメリカンより、更にアステカ地峽を南アメリカンに渡り、南極の果てまでも渡りき。アメリカンインデイアン・マヤインデイオらの今に遺る遺跡ぞ、何れも山靼より移りて住みたる人を以て成せるものなり。是なる古事なる人の衣食住に、定住永からず。幸の園を求めて更に移るもあり。亦爭ふを避け、安泰なる天地に古来より泰平たれば定住す。丑寅日本國の祖人は是の如くして、石を刃物とせしより人の歴史を今に史證を遺せり。語部録と曰ふありて故事明白たり。
大正元年十二月二十日
苫辺地伊忠直
十三
出雲に荒神谷と曰ふあり。昔より能く土中より古人の遺物多く出づるところなり。今にこそ出雲大社なるも、元なるは荒覇吐神を祀りき社にして神事に名残を遺しぬ。古歌ありぬ。
〽八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に
八重垣作る 其の八重垣を
〽荒神の 霜や置くらん 谷懸の
古の神は荒覇吐神
〽かんなぎの 神のしめゆふ つくも髪
神は出雲の 東日流荒神
〽隠し歌 荒神谷の あらけなさ
神は受けずや 眞如朽ちせず
〽出雲路の 苔に露けき 神護石
大物主の 光をかざる
〽身を砕く しのぶの衣 消えかへり
猶しをりゆく ものはかなしや
〽東日流より 船に神風 帆に受けて
出雲にたどる 荒覇吐神
誰ぞ詠人知らざるも、歌ぞ遺りけるは神の縁りにありけるなり。荒覇吐神を拝すは三禮四拍一禮なるも、出雲にては二禮四拍一禮なり。是ぞまさしく荒覇吐神を名残れるを證とせる故縁なり。
文政二年七月十日
和田壱岐
十四
皇政復古なる大號令は、廢佛毀釋とて古き地方なる神社・佛閣に多くの石佛や安置の像を壊し、祀れる民の悲しみを招きたり。戊辰戦の後、天皇は御誓文及び五榜の掲示を布して、江戸を東京として遷都し、版籍奉還し、平民に苗字を許し、廢藩置県とし、新貨條例及び身分制廢止し、學制發布し文盲無からしむ人造りに。その要として天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言へり(安倍氏訓)。されば天より人を生ずるには、萬人は萬人皆同じ位にして、生れ乍ら貴賎上下の差別なく、萬物の靈たる身と心の動きを以て天地の間にあるよろずの物を資り、以て衣食住の用を達す、云々(修験宗大要)。是を福澤諭吉は引用なして、學問の進めとて世に知らしめたり。
太陽暦を採用し、田畑の賣買・職の業自由とせり。然るに、民に徴兵令を義務とせしめ、渡島住民をひき地に追ふ屯田兵制に依りて渡島を北海道とし、土民をアイヌとて賎しみ、爾来、渡島先住の民激減せるに土民保護令とてなせるも、旣に少數民となりけるは哀れなりける。尚、先住民は千島・樺太交換條約なるオロシヤに領たるに、尚クリル族とて北海道に移るも國籍に入れず、アイヌとて、とたんの苦しみと貧しさに甚だしき生々をなせり。これを救済せんとて、みちのくの小藩なる三春に自由民權の運動起るも、明治十五年弾圧さるまゝ今日に自由なき世襲ぞ續きける。
これより先、糠部なる医師・安藤昌益の統道眞傳に曰くは、
すべての人ぞ自分にて耕作せる上下の階級つくらざるが自然なる相なり。武家上に在り、民の耕作せる穀物をむさぼり、是に従わざる者ぞ捕らはれ、民は重税に苦憂ふの余り、不幸なる人を救済せんも叶はず、余裕またなかりける。依て、生活困窮は生ぜん。武家が、我子を愛する如く民を治めたる巧辨を以て穀物を横流し、己れは少しも労せず民によって飢えや寒さを救はれ乍ら、愛すとぞは逆説甚々なり。眞の仁は、己が手にて大地を耕し、機を織り、民のなかに在り。耕すこともせず、織るもせず、衣食をむさぼることぞ武家をして止むあらば、生々困窮の者はなかりき。
と安藤昌益、封建の制を批判せし如く、討幕を果したる維新も今にして幕政と変るなし。
明治四十二年五月三日
和田末吉
十五
東日流の地に東晋の群公子一族漂着し、地の大王安日彦王と混系す。その大王を日之本王と稱す。時に西國の倭國、大王を爭ひ互いに攻め大いに乱る。鬼道の女王あり。邪馬壹國を起し、師升と婚じ、その女王ぞ卑弥呼と曰ふ。支那魏王と親交せるも、晋起りて魏亡びけるに、晋に使者を達せるも邪馬臺國、倭國に起り、耶馬壹國女王殺さる。
倭の邪馬臺國、和珥氏・春日氏・物部氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏・巨勢氏ら天皇氏を大王と奉り、第一世を讃大王・二世を珍大王・三世を斉安東大將軍・四世を興安東大將軍・五世を武大王とせるも天皇氏、斯麻王に滅び、意紫沙加に大宮を造りて髙倉と為す。是を倭の大王とす。
右、開中天皇記第六巻也。
元禄二年九月十二日
物部左京
十六
耶靡堆大王・阿毎氏位に卽し、蘇我郡箸香に大三輪神・白山神を、耶靡堆に賀我の三輪山宮を移しける。時に地王十六氏ありて、乱を為す。阿毎大王兵を挙し、先づ和珥氏を降し土師氏と併せ、中臣氏・平群氏を降し、物部氏・蘇我氏を併せて邪馬臺王を降し、大伴氏・羽田氏・巨勢氏・葛城氏・春日氏を討伐し、投馬王に土師氏、不彌王に物部氏、木國王に蘇我氏を大王として、築紫王に猿田氏を配し、南海道に多斯鹵氏、山陽王に陽侯氏、山陰王に出雲氏、越王に都加氏を配し、是を耶靡堆國と曰ふ。
右、國記より。
寛水六年一月一日
相馬継直
十七
倭の古歌集百選 一
〽櫻川 せぜの白波 しげければ
霞ぞ流す しだの浮島
〽常よりも 春べになれば 櫻川
波の花こそ まなくよすらめ
〽難波津に 咲くや木の花 冬籠り
今を春べと 咲くや木の花
〽昨日といひ 今日とくらして あすか川
流れて早き 月日なりけり
〽これまでも 老ぞ悲しき 古へは
身の行く末を たのみしものを
〽梓弓 磯辺の小松 誰が世に
萬代かけて 種をまきけん
〽風吹ば あだにやれゆく 芭蕉葉の
あはれと身をも 賴むべき世か
〽陸奥の しのぶもじずり 誰故に
みだれんとおもう 我なららくに
〽哀れとも 憂えともいはじ かげろふの
あるかなきかに けぬる身なれば
〽おもひ草 葉末に結ぶ 白露の
たまたまきては 手にもとまらず
〽さを鹿の 起臥わかず 仕へてき
舟行く旅に 切なる涙
〽君が行く こしの白山 しらねども
雪のまにまに 跡は尋ねん
〽よそにのみ 見てや止みなむ 葛城や
髙間の山の 峰の白雲
〽忘るなよ 程は雲井に なりぬとも
空ゆく月の めぐりおふまで
〽きさらぎの 半なる空の 夜はの月
入りにしあとの やみぞかなしや
〽いざけふは 春の山辺に まじりなん
暮れなばなけの 花の陰かは
〽峯髙き 松のひゞきに そらすみて
嵐の上に 月ぞなりゆく
〽時わかず 降れる雪かと 見るまでに
垣根もたわに 咲ける卯の花
〽動きなき 大和島ねの 外迄も
猶しづかなる よもの波風
〽此の度は 幣もとりあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに
〽立田姫 手向くる神の あればこそ
秋の木の葉の 幣と散るらめ
〽ぬす人の 立田の山に 入りにける
同じかざしの 名にやかくれん
〽神無月 時雨ふりける 楢の葉の
名におふ宮の 古事ぞこれなん
〽ゆきやらで 山路くらしつ 時鳥
今一聲の 聞かまほしさに
〽見しはなく あるは悲しき 世の果を
背きしかひも 泣く泣くぞ經る
〽名にしおはば いざこととはん 都鳥
わが思ふ人 ありやなしやと
〽春来れば 雁歸るなり 白雪の
道行きぶりに ことやつてまし
〽袖ぬるゝ こひぢとかねて 知りながら
おり立つ田子の みづからぞうき
〽逢ふことを あこぎが島に 引く網の
たび重うは 人も知りなん
〽木の間より もれくる月の 影見れば
心づくしの 秋は来にけり
〽もの思ふ 澤の螢も 我が身より
あくがれ出づる 玉かとぞ見る
〽夜ひかる 玉とぞ見ゆる 水暗き
蘆辺の波に まじる螢は
〽しのゝめに おきつゝぞみん 朝顔は
日影まつまの 程しなければ
〽思ひやる 方のなきこそ 悲しけれ
やぶれ車の かゝるわが身は
〽寄る神は 今ぞ寄り来る 長濱の
芦毛の駒に 手綱ゆりかけ
〽恋せじと 御手洗川に せし御禊
神は受けずも なりにけるかな
〽花盛り ちりに馳する 小車の
我身一つぞ やるかたもなき
〽わびぬれば 身を浮草の 根をたえて
誘水あらば いなんとぞ思ふ
〽夕づくの 通ふ天路を いつまでか
仰ぎて待たん 月人男
〽あはれなり 草の陰にも 白露の
かゝるべしとは 思はざりけむ
〽道のべの 露分け衣 ほさずして
野くれ山くれ 幾夜ぬるらむ
〽夜の鶴 都のうちに こめられて
子を恋ひつゝも 鳴きあかすかな
〽をちこちの たづきも知らぬ 山中に
おぼつかなくも 呼子鳥かな
〽里近く 山路の末は なりにけり
野飼の牛の 子を思ふ聲
〽恋せずば 人は心も なからまし
ものゝあはれも これよりぞ知る
〽竹の林 鶯鳴くも 春雨や
霞尚呼ぶ 朝ぼらけかな
〽色みえで うつろふものは 世の中の
人の心の 花にぞありける
〽何となく 明けぬ暮れぬと さすらへて
さもいたづらに 行く月日かな
〽天つ風 雲の通ひぢ 吹き閉ぢよ
少女の姿 しばしとどめん
〽払ひかね さこそは露の しげからめ
宿るか月の 袖のせばきに
〽いとせめて 恋しき時は うば玉の
夜の衣を かへしてぞぬる
〽梓弓 春立ちしより 年月の
射るが如くも おもほるゝかな
〽秋風に ほころびぬらし 藤袴
つゞり刺せてふ きりぎりす鳴く
〽よしあしは わかぬ身なれど 世に住めば
難波のことも 見てぞ久しき
〽難波人 蘆火焚く屋は すてあれど
おのが妻こそ とこめづらなれ
〽八重菊の 匂にしるし 君が代は
千年の秋を 重ぬべしとは
〽沖つ風 吹きにけらしな 住吉の
松のしづえを 洗ふ白波
〽夜や寒き 衣や薄き 片そぎの
行きあひの間より 霜や置くらん
〽いはしろの 濱松が枝を 引きむすび
まさきくあらば 又歸り見む
〽音無に 咲きそめにける 梅の花
にほはざりせば いかで知らまし
〽天の川 水かげ草の 秋かかれ
なで年のごと 一夜まつらん
〽昨日こそ さ苗とりしか いつの間に
稻葉そよぎて 秋風ぞ吹く
〽水鳥の したやすからぬ 思ひには
あたりの水も 氷らざりけり
〽かずかずに 思ひ思はず 問ひがたみ
身を知る雨は 降りぞまされる
〽忍ぶるも 苦しかりける かずならぬ
身には涙の 無からましかば
〽夕雲の 行へはいづく 夜嵐の
聲澄み渡る 秋の暮かな
〽もゝすきの 大宮人は いとまあれ
櫻かざして けふもくらしつ
〽優曇華の 花待ちえたる 心ちして
み山櫻に 月こそうつらぬ
〽今はさは 浮世のさがの 野辺をこそ
露消えはてし 跡と忍ばめ
〽奈良山の 兒手柏の ふたおもて
かにもかくにも ねぢけ人の友
〽月冴えて 山は梢の 静けきに
うかれし鳥の うたになくらん
〽人の親 心は暗に あらねども
子思ふ道に まどひぬるかな
〽恋草を 力車に 七車積み
恋ふらく わが心から
〽朝な朝な 雪のみ山に 鳴く鳥の
聲に驚く 人のなきかな
〽親の親 今はゆかしき 時鳥は
鳴くや鶯 子は子なりける
〽夢の世の 現なりせば いかがせむ
覚めゆく跡を まちてこそあれ
〽女郎花 うしろめたくや 見ゆるかな
あれたる宿に ひとりたてれば
〽夏の夜の 月待つ程の 手すさみに
岩もる清水 いく結びしつ
〽我庵は 三輪の山とも 恋しくば
とぶらひ来ませ 杉たてる門
〽ぬれてほす 山路の菊の 露のまに
いつか千年を 我は經にけむ
〽ふみわけて とはるゝ雪の あとを見て
君をぞ深く 神は守らん
〽しのぶ山 忍びて通ふ 道もがな
人の心の 奥も見るべし
〽海士刈る 藻にすむ虫の われからと
音こそ泣かめ 世をば恨みじ
〽須磨の蜒 あらぬうきみを いつかさて
袖ほすわぶと 答だにせん
〽さ月まつ 花橘の 香をかげば
昔の人の 袖の香ぞする
〽われのみや あはれと思はん きりぎりす
鳴く夕陰の 大和撫子
〽岩橋の 夜の契も 絶えぬべし
明くるわびしき 葛城の神
〽ちればこそ 夜とは契れ 葛城の
神も我が身も 同じ心に
〽踏み分けし 昔は夢か うつの山
あととも見えぬ 蔦の下道
〽浅茅生や 袖に朽ちにし 秋の霜
忘れぬ夢を ふく嵐かな
〽里は荒れ 人は古りにし 宿なれや
庭も籬も 秋の野らなる
〽逢ひ見ての 後の心に 比ぶれば
昔は物を 思はざりけり
〽誰をかも 知る人にせん 髙砂の
松も昔の 友ならなくに
〽見る人も なき山里の 櫻花
よその散りなん 後ぞ咲かまし
〽老らくの 鏡の山の 面影は
いただく雪の 色やそふらん
〽風吹けど 所もさらぬ 白雪は
世をへて落つる 水にぞありける
〽落ちたぎつ 瀧の水上 年積り
老にけらしな 黒き筋なし
〽水も無く 見えこそわたれ 大井川
峰の紅葉は 雨と降れども
〽降りつみし 髙根の深雪 解けにけり
清瀧川の 水の白波
〽聞く毎に 賴む心ぞ 澄まさる
賀茂の社の 御手洗の聲
右の歌集にありけるは、歌をして知りける名を覚つ程に、付名を記せず。これを能く讀みて思ひ出すべし。是もまた、歌心なりける。
文政六年七月二日
和田壹岐
十八
倭の古歌集百選抄 二
〽世の憂きを 今は歎かじと 思ふこそ
身をしりはつる 限りなりけれ
〽涙川 なに水上を 尋ねけん
物思ふ時の 我身なりけり
〽暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき
はるかに照らせ 山の端の月
〽みくまゝの 浦の濱ゆふ 百重なす
心は思へど ただに逢ぬかも
〽さしながら 人の心を みくまのゝ
浦のはまゆふ いくへなるらむ
〽身をなけし 涙の川の 早き瀬に
しがらみかけて 誰かとゞめし
〽歎きわび 身を捨てつとも 亡き影の
浮名流れん ことをこそ思へ
〽水増る 遠の里人 如何ならん
晴れぬ長雨 かきくらす頃
〽峰の雪 汀の氷 踏み分けて
君にぞまどふ 道は迷はず
〽をちこちの みぎはの波は 隔つとも
猶ふき通へ 宇治の川風
〽年ふとも 変らんものか 橘の
小島が崎に 契る心は
〽里の名を 我が身に知れば 山城の
宇治のわたりぞ いとど住みうき
〽神垣に 千年を掛けて み注連縄
長く久しき 御代を祈らん
〽初瀬山 夕越え暮れて 宿問へば
三輪の檜原に 秋風ぞ吹く
〽浅緑 糸よりかけて 白露を
玉にも貫ける 春の柳か
〽ながめやる 岡の柳は 枝さびて
雪のまつそら くれぞさむけき
〽都をば 霞と共に 立つしかど
秋風ぞ吹く 白河の関
〽春駒の 勇める心 青柳の
條もてつなぐ 風は吹くとも
〽夏山の 青葉にまじりの 遅櫻
初花よりも めづらしきかな
〽いる月の 朧の清水 いかにして
つひにすむべき 影をとむらん
〽思ひきや み山の奥に すまひして
雲居の月を よそに見んとは
〽山里は 物の寂しき 事こそあれど
うき世よりは 住みよかりけり
〽ひとりたゞ 佛の御名や たどるらん
各々かへる 法の場の人
〽住吉の 松のひまより 眺むれば
月落ちかゝる 淡路島山
〽綿津見の かざしにさせる 白妙の
波もて結へる 淡路島山
〽道知らば 摘みにも行かん 住吉の
岸に生ふてふ 恋忘草
〽旅寝する 宿は深山に 閉ぢられて
眞折の葛 来る人もなし
〽嵯峨の山 御幸絶えにし 芹川や
千代の古道 跡はありとも
〽その原や 伏屋に生ふる 箒木の
ありとは見えて 逢はぬ君かな
〽墨衣 染も憂き世の 花盛り
おも忘れても 折りてけるかな
〽ここにあり 筑紫はいづこ 白雲の
棚引く山や 西にあるらん
〽尋ぬべき 草の原さへ 霜枯れて
誰に問はまし 道芝の露
〽思ひには 死なれぬとなぞ 歎きけん
うき為にとて ながらふる身を
〽をしからぬ 命つれなく 存らへば
尚もうき身の 果や知られむ
〽東雲に おきて見つれば 櫻花
まだ夜をこめて 散にけるかな
〽月かげに 散りしく庭の 櫻花
かきあつめても たぐひ無きかな
〽照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の
朧月夜に しくものぞ無き
〽いふならく 奈落の底に 入りぬれば
刹利も首陀も 変らざりけり
〽遠近の たづきもしらぬ 山中に
覚東なくも 呼子鳥かな
〽とはぬ間を うら紫に 咲く藤の
何とてまつに かかりそめけん
〽散りまがふ 花に心を そへしより
一方ならず 物思ふかな
〽花薄ほ 出づることなき 無き宿は
昔しのぶの 草をこそ見れ
〽山科の 木幡の里に 馬あれど
かちよりぞ来る 君を思へば
〽さなきだに 重きが上の 小夜衣
わが妻ならぬ つまな重ねそ
〽秋くれど 月の桂の 實やはなる
光りを花と ちらすばかりを
〽いとどしく すぎゆく方の 恋しきに
羨しくも 歸る波かな
〽この頃は 苔のさむしろ 片しきて
岩根の枕 ふしよからまし
〽ながめやる そなたの空の 雲だにも
跡なき果ぞ きえて悲しき
〽夕されば 野辺の秋風 身にしみて
鶉鳴くなる 深草の里
〽時雨する 稻荷の山の もみぢばは
あをかりしより 思ひそめてき
〽わが袖に まだき時雨の ふりぬるは
君が心に 秋やきぬらん
〽音羽山 音にきゝつゝ 逢坂の
関のこなたに 年をふるかな
〽宮居せし 年もつもりの 浦さびて
神代おぼゆる 松の風かな
〽陸奥は いづくにあれど 塩釜の
浦こぐ船の つなでかなしも
〽しほがまに いつか来にけん あさなぎに
つりする舟は こゝに寄らなん
〽思ひたつ 心ばかりを 知るべにて
我とは行かぬ 道とこそ聞け
〽舟人も たれをこうとか 大島の
うらかなしげに 聲のきこゆる
〽梅の花 それとも見えず 久かたの
天ぎる雪の なべて降れゝば
〽流されて 待ける時の 配處にも
春は来にける 花も咲きける
〽千早ぶる 宇治の橋守 なれをしぞ
哀とは思ふ 年をへぬれば
〽さゝ波や 志賀の都は あれにしを
昔ながらの 山櫻かな
〽琴の音に 峰の松風 通ふらし
何れのをより 調べそめけれ
〽世の常の 秋風ならば 萩の葉に
そよとばかりも 音はしてまし
〽始めより 逢ふは別れと 聞き乍ら
暁知らで 人を恋ひける
〽賴めつゝ こぬ夜の數は 積れども
待たじと思ふ 心だになし
〽夏はつる 扇と秋の 白露と
何れかまづは 置むとすらむ
〽我が恋は よむともつきじ 荒磯の
まさごは濱に よみつくすとも
〽あしの葉に かくれてすみし 津の國の
こやのあらはに 冬はきにけり
〽雨により 田蓑の島を 今日ゆけば
名にはかくれぬ ものにぞありける
〽何せんに われかざすらん 袖□
下にぞ涙 雨とふりぬる
〽駿河なる 宇津の山辺の 現にも
夢にも人に 逢はぬなりけり
〽寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば
いやはかなにも なりまさるかな
〽世の中を 厭ふまでこそ 難からめ
仮の宿りを 惜む君かな
〽恋わびて 思ひ入るさの 山の端に
出づる月日の つもりぬるかな
〽夏の夜の 空冴えわたる 月影に
氷の衣 着ぬ人ぞなき
〽初めてぞ 頭おろして 佛僧と
道に求めて 身は墨衣
〽たらちめは かゝれとてしも うば玉の
我が黒髪を なでずやありけん
〽武藏野や 行けども秋の 果ぞなき
いかなる風の 末に吹くらん
〽あづま路の 霞の関に 年越せば
われも都に 立つぞ歸らん
〽分けきつる 山又山は 麓にて
峰より峰の 奥ぞはるけき
〽赦なれば いともかしこし 鶯の
宿はと問はゞ 如何に答へん
〽なさけなく 折る人つらし 我が宿の
あるじ忘れぬ 梅の立枝を
〽宿からぞ 梅の立枝 とはれける
あるじも知らず 何匂ふらん
〽梅の花 それとも見えず 久方の
あまぎる雪の なべてふれゝば
〽根に歸り 古巣をいそぐ 花鳥の
同じ道にや 春も行くらん
〽雪ふれば 誓たのもし 初瀬山
枯れたる木にも 花咲きにけり
〽わたつみの 濱のまさごを 數へつゝ
君が千年の あり數にせむ
〽櫻狩り 雨は降りきぬ 同じくは
濡るとも花の 蔭にかくれん
〽恋しくば したにを思へ 紫の
根ずりの衣 色に出づなめ
〽紫の 一本ゆゑに 武藏のの
草は皆がら 憐れとぞ見る
〽花の色 染めし袂の 惜しければ
かえ憂き けふにもあるらん
〽霞立つ 木の芽も春の 陽をあびて
花のつぼみを 草ときそはん
〽子を思ふ 泪の雨の 蓑の上に
うとうとなくは やすかたの鳥
〽奥の海 汐干のかたの 片思ひ
おもひやゆかむ みちのながてを
〽陸奥のおく ゆかしくぞ思ほゆる
壷の石ふみ 外の濱風
〽何事の おはしますかは 知らねども
忝けなさに 涙こぼるる
〽君をおき あだし心を わがもたば
末の松山 波も越えなむ
〽我が袖は 汐干に見えぬ 沖の石
人こそしらね かわくまもなき
施頭歌
〽初瀬川 古川のへに ふたもとある杉
年を經て 又もあひ見む 二もとある杉
〽打ち渡す 遠方人に物申す
われそのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも
以上なる和歌集は旅の巡脚にて、西方の名のある諸人の遺歌を集め全二百首を以て了りぬ。是は拾遺集・風雅集・古今集・萬葉集他にも遺りぬ。わが丑寅の歌とくらぶるべし。
文政六年七月十日
和田壹岐
十九
古今にして奥州の史は何處の地にも、遺る文献少なし。元来安倍氏を以て成る歴史の要は永き藩政の禁断に在り、多く焼却さるゝ多し。幸にして語部録は遺りて太古よりの大要とせるは遺りぬ。安永元年。田沼意次老中となるやオロシヤ、北方領土を侵犯し先住土民を無視せる侵領利權を擴げ樺太・千島諸島を掠むるに、何事の對應是なく、北方領に覇をなせる安東一族の流胤・三春藩秋田倩季殿に北方探索の密命をなせり。依て倩季、是を秋田に居住せし縁族の秋田孝季を以てその任を申付けたり。
依て秋田孝季、津輕飯積住・和田長三郎吉次と相談仕り、召さるまゝ江戸に赴き事の由をたまはりぬ。老中田沼氏、北方の古代より安東船を以て山靼に往来ありきを古書にありき三春藩をしてその古史に探究し、先づは亞細亞の巡察を命じて安永三年、赴かしめたり。その添者秋田孝季に委ね、五月七日土崎をサガリイに向ひて船を出だしめたり。山靼への旅探期限を五年として伴ふる者八人にて、その路費三千六百両たり。時に最上徳内・林子平・白江秀雄・髙山彦九郎らその通達に遅れて同行を断念せり。
寬政十年七月七日
近藤重藏
二十
天明の大飢饉は死臭、何處にも漂いたり。毎日千人の數を飢死とせる。流民ら浪々の路に骸をさらせり。各藩に百姓一揆・富家への打壊し起り、強盗出づ。生々世の末たると生地獄のさま、是をケガツと曰ふ。津輕・南部にてはその頂に達したり。郷藏破りても一粒の米なく、犬猫を食ひて馬や牛を喰へ盡し、山に入りては木皮・野草を常食とせしも冬至りてはその採集なく、惨たるは死人の肉をも喰ひたる實情たり。かくあるも是を救済せるなく、藩を他國に脱せる者多く、渡島に渡りたる者ぞ一命耳は救はれたり。
寛政十年五月二日
大光院松野坊
二十一
語部録は太古を今に傳ふる丑寅日本の史なり。左は暦に用ふる印なり。此の一部なるは南部暦とて、今に遺るありぬ。語部文字に単法と副合法あり。その類七種あり。統括されたるは副合法なり。卽ち、単法はかな字にて副合法漢字の如し。古代にては土器に印をなすあり。多くは板に刻むありて遺りぬ。
丑寅日本國・字源は山靼渡来のものにして、古代グデア文字四種・ジエムデトナスル印・バビロニア印・アツシリア印なる文字及び支那の亀甲鹿骨文字・クレタ印・モンゴル印・フェニキア印・ヒエログリフ印の渡来混成に成れる文字と曰ふも、地民先住文字も相加はりたるものなり。安倍氏・安東氏に遺る史書は是を以て記したる多し。
寛政十年七月一日
帶川忠造
二十二
ホノリヌササンとは石神をカムイとせる神祀の聖地なり。コタンヌササンとは大髙樓をなして、ホノリカムイ及びイシカカムイ・ガコカムイを祀るイオマンテの大祭場なり。チセヌササンとは各家の祭壇なり。ガコイチャルバヌササンとは川沼湖海の神を祀る祭場なり。祭壇をなせるジャラ三股の神木を降神の坐とし、石を列圓してなせるはホノリヌササンなり。一重二重三重ありて永代の祭場として、エカシ及びオテナの神司に挙行さるなり。何れもカムイノミを焚きて参加の者・老若男女みなながらエカシの號令に奉舞す。マギリの舞・弓の舞・メノコ舞、古習なると卽興なるもの。夜な通してカムイノミのまわりを唄ひ踊りぬ。フッタレチュイとは自然の様を踊りとせしものなり。
寛政八年八月三日
杉山藤兵衛
二十三
アラハバキイシカホノリガコガムイと奏稱せる丑寅日本國の國神は、古習を大事として能く古代の傳統を護りぬ。神事エカシ等クリルタイルに集ひて祭事一切の談議に決め、そのヌササンを選びて聖地を定め、諸々のコタンエカシに通達す。祭日をイオマンテ亦はナアダムとも曰ふなり。祭日までに神贄を生捕ふ他、カムイ像を造りてカムイノミに焼きて仕上ぐるは女人なり。神弓・神刀・鉾を造りイナウを造るは、エカシ及び男人なり。是、渡島地民とは神事異なるあり。古代アソベ族・ツボケ族の傳法に正統す。打鼓は一枚皮張りにして口琴・土笛・石笛・木鼓・石鐘を楽とせり。この祭楽髙鳴りては一里の四方に聞こゆと曰ふなり。
寛政八年六月二十日
和井内倉光
二十四
古き世の耕作はその類種、山野自生のものを植ふる多し。大葉百合・トトギ・ホドらの芋。蕗・ミヂ・シドケ・ウドらの菜類。栗・クルミ・サンショウ・トチ・ブドウらの實の付く植林。池水掘りて放魚し冬の漁とし、稗・栗・稻をも耕作せり。灯は魚油にして食油とも用ひたり。冬に供はむは干物の魚及び山海草にて類多し。塩を焼採り、酒も造れり。山靼人渡来し、耕作相渡り、豆・麦・果實の類に尚耕作せり。耕の始めは古くして幾千年前に旣作せり。漁撈・狩猟ぞ、より早期の代なりと言う。
文化二年九月十日
金井作太郎
二十五
諸翁聞取帳總序に曰く、抑々丑寅日本國史を諸々の古老を訪れて、文献口傳を記行したるものなり。依て東日流外三郡誌・内三郡誌・北鑑・丑寅日本紀・丑寅日本記・語部録に次ぐ北斗抄と題して、諸翁聞取帳を本巻を以て父・末吉の写余を再筆了りぬも、虫喰甚だしきは筆写ならず残したり。以後に以て是を保存せるに難なれば、虫喰を防がむ為と世襲に障りを避けて天井に藏し置き、後世に障りなき世至りては世に出だすべし。總四千八百十七冊に多量なれば能く保つべく申付を子孫に傳ふべし。亦遺物も多數なれば、何一品とて賣却せず祖先の遺志を保つべきなり。
昭和壬申年七月十日
和田長作
追而付書
大正八年、父末吉他界にみまかり、浅學乍ら父生涯に書写に余りしを今年に至るまでようやく完了仕り、茲に保存の秘を以て、来るべく世襲に備へ丑寅日本國の實證を後世に遺し置くものなり。たゞ秘すべくは東日流中山のかしこにあるべく遺跡の秘。更には渡島・宇曽利・荷薩體・閉伊・鹿角・火内の山洞を世に明すべからず。和田家永代・秋田様永代の家運再興に遺すべく旨、我を継ぐ子孫に戒めおくなり。
世相は古来の丑寅日本國とは政を異にたゞ民心を憂しにあり。まして丑寅の國にある住民への蝦夷意識ぞ公史に除き、吾信じたる福澤氏さへ學問の進めなる書頭に父末吉を謀りて引用なしけるも、その後文なる自己の文に至りては倭國史の賛同なり。依て安倍・安東・秋田氏にまつはるの秘は維新政府のものならず、丑寅日本國を興す為のものなり。今をして奥なる國白川以北、一山百文たるは世評なり。我田引水、丑寅日本を西國奸計の餌食とする勿れ。かゝる政府は必ず崩壊せん。老婆心乍ら茲に予言す。
昭和壬申年月日
和田長作
遺言之事
東日流語部録及び天皇記・國記の古巻は如何なる事にありとも死守すべし。我を継ぐ者の他、家秘を大事とし永代他見無用たるを戒むるは祖朝夷三郎義秀よりの家訓たり。依て次の秘を語部文字にて遺す。
右の通り滅後に遺し置きぬ。同書、秋田様に御屆け申したり。能くアラハバキカムイを護り給ふべし。
昭和壬申年吉日
家四十七代 和田長作
石塔山之事
嘉吉二年来石塔山の事は世視に秘し、和田家是を護り給ふは安倍日本將軍盛季の命に依るものなり。爾来是を隠密とし、子孫代々世の一切を避け世襲に當らず神職・百姓を営みて代々せるも、三春様の賜れる施に依りてまかなふる有難き御慈悲のたまものなり。代々に聖地の危きにありきも是を死守せるは、和田家に委せられし武家の誓に永代忘却を赦さざるものなり。石塔山荒覇吐神の護持せんには他の人詣を断ちて参道を造らず、木を伐らず古陵に眠る靈を安じ奉るこそよけれ。
和田長作
諸事申付之事
本巻を以て永代に秘藏をなし、再び世に出でむ事無けんにも詮も無し。とかく奥州にありては林子平の如く世襲に利せらる憂ひ是ありぬ。父も維新の御世に悦び御誓文に拝伏せしも、自由民權に入黨せしも十五年に弾圧を被りて、入獄の憂目にあり。爾来、百姓一途に吾を育みたり。世は常に生代流轉して世襲の權をはびこりぬ。然し乍ら皇政にあれ幕政にあれ、民の自由を妨げてその階級に爭ふる代々のさま、何事の進歩も是無く却世の政治に對せる風刺ありぬ。
川柳
〽役人の 子はにぎにぎを よくおぼえ
狂歌
〽自河の 清きに魚も 住みかねて
もとのにごりの 田沼恋しき
是ぞ庶民の心情たり。
現にして尚、政治閥・軍閥・學閥をして國民の目耳口を閉じ、民の生々を下敷に憂はしむるは幕政に何事も変ることなく、鹿鳴舘に西洋眞似の舞踏に官人の更なすは治國の邪道なり。能く御誓文に今一度心をかたむくべし。
- 一、廣く會議を興し、萬機公論に決しべし。
- 一、上下心を一にして、盛に經綸を行ふべし。
- 一、官武一途、庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。
- 一、舊来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
- 一、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
是の如くは自由民權の大志たるも、我が國は今迄に亞細亞を犯し朝鮮・支那に進駐せしは何れにか。吾が國の崩壊を招くは必如なり。その時にこそ、我祖来に遺しける此の書ぞ世の人心を救済せんことを、我信じてやまざるなり。
昭和壬申年月日
和田長作
子孫への戒
何事も生々の間に、日に向ひて渡世し、陰に隠るべからず。人との言語一舌にも、心すべし。吾をして威張らず、睦を以て欠くべからず。能く心に以て禮を忘却すべからず。不断につとむべし。常能く働き、家族を倶に和を欠く勿れ。子を育つるに孝を責むなく、自ら孝行となるに育つべくを心得ふべし。心中に祖先への敬拝を常在すべし。亦貧しくとも、盗泉の水とても飲むべからず。いわれなき人の惡障には、起って家風を護れ。
昭和壬申年月日
和田長作
終章之事
此の書巻を以て、祖末の傳記了筆せり。世に實ある史は残り難く、作説の史に公史とて遺りぬ。神代さながら人々は洗脳されしはあるべからざる行為なり。とかく安藤昌益の申す如く、丑寅日本國は實在し文化の秀たる古代を覚つべし。何が故の蝦夷や、化外とは何事ぞ。安日彦より一系たる安倍・安東・秋田氏こそ丑寅日本國の國主たり。累代に遺れる歴史にぞ何事も偽傳にあるはなかりけり。今に尚、秋田家は子孫を健在におはすなり。
大祖より民をいつくしみ一族を火急より速やかに再興せしめ、主筋を大名とて存續し来るはまさに萬世一系たる氏族なりと、吾等縁りしの者耳ならず是を讃美してやまざるなり。今に遺りしアラハバキ神を、代々奉じ来りて法灯の消えざるは、まさに丑寅日本の實在たる證なり。是の書、和田壹岐より代々をして遺し、歴史の實相を求め西洋までも巡脚なし、その成果を綴り得たるはすばらしき。祖にほこるるは老婆心なるか、茲に筆留むる。
昭和壬申年月日
和田長作
昭和壬申年了
和田末吉、代筆長作