北斗抄 十二


(明治写本)

此の書は門外不出、他見無用と心得べし。一書の失消も赦さず。能く保つべし。

寛政五年六月一日
秋田孝季

陸羽諸翁聞取帳 一、

坂東武藏之國に數多く存在する荒覇吐神。亦、諸國に存在せるは倭神の名に無き神なり。さればいかで存在多く遺りけるかは、その神を祀る講の者も尋ねては卽答に詰まり、ただ古き神なる故と曰ふ耳なり。倭の國にても存在あり。各處に社跡また現全に遺るもありき。

荒覇吐神こそ艮の神にして、北斗星をその相として神のヌササンをなせり。カムイノミを焚きイナウを神と建て、エカシの弓の舞のあとメノコらのフッタレチウイとて唄と舞、夜を通して奉納されるなり。荒覇吐神祭事の條とて、ヌササンには神木なくして成らざるなり。神木とは枝三股の老木にしてイシカ・ホノリ・ガコ參神の神座なる聖木とし、いかなることありても是れを伐するを禁じたり。

イナウの木はサワクルミ・マンダ・柳・ガンビと曰ふ名の付く木にて作るなり。荒覇吐神にまつはる神話多く、その地その民族にて異なれる神話・傳説、その神事も今に遺れるは皆外道なり。信仰にては邪道を敢て行ふもありぬ。神と云ふ名に稱し、変化の画亦像を造り、神通力亦全能という説法を巧みに人心を迷信に誘ふは、現世に於て尚はびこりぬ。

二、

魔障・恨靈・邪怨・報復・積念・呪咀。人の心は常に見えざるいわれなき艱難に嘖むあり。依て言語一舌敵を造る勿れと古人は云ふなり。己れ良とせるも、他人良とせざれば、眞も偽と相成り、嘘を通して衆是れに乘じては眞似と相成りぬ。人それぞれに才あり。罪と紙一重の際まで善との堺とし、無能を下敷きに己れを世浴にせる者多し。依てそれらに報復の手段とて、邪道・外道の神事に己れを自放自捨となる者あり。

正道をはぐれてはいつしか己の救はる方途を失ふる者ありぬ。神を祈願邪道に用ひてはならざるなり。神に祈願せるは諸々の心身にまつはりつきたる邪念・惡障を祓ひ、無我の境に己れを立脚し、まとひつく諸惡業を心身に断って神の前に祈願せるはたゞ救済のみにて、従来の己れに脱し心身自らを改ふる精進を遂ぐるこそ求道の正道無上の行なり。荒覇吐神はかかる精進の行者を必ず安心立命の睦に導くものなり。

人と生れ、人を憎む勿れ。心を制へ、敵なる程の者に神の光りをぞと祈るべし。神に己れ耳なる獨占に祈るべからず。以て慾望をや。天地水にますませる荒覇吐神。その惠は萬物を一子の如く。例へば浂の身體そのものとて天に續き空を吸し、土地に生きる他生を喰ひ水を飲みて己が身を保つは、神ありてこそ得らるなり。依て心は如何に。心こそ己れなり。人は魂と稱すも、心は身を通して成せる他、術あらざるものなり。心に身を得て生命と曰ふ。身は心を離れては死と曰ふ。されば身を離れたる心は如何に。その相無く宙をさまよひて、身に己が生命を求め、萬物のなかに雌雄のまぐわいに入魂す。さて生るを叶ふるも、先世の業報ぞその身體に顯生す。

前に人體なるも、畜生のたぐい・鳥蟲のたぐい・魚貝のたぐい・草木のたぐい・苔藻のたぐいに生るかは、生前の業に依りけるなり。死しては地獄・極楽のあるべくもなく、あくまで此の世の裁きに遇うとは荒覇吐神の信仰理念なり。生々人と生れ、他生にも劣る生方の者。来世の生方にそれなりの生命を世に受くなり。心せよ。人とし生じる来世の為に、人道を失うべからず。身心生命あるうちに、善道なる求道に不退轉たるべし。荒覇吐神信仰は是の如くして、世に不滅たり。行願に易く、行則もなし。唯一心不乱にして、稱名して唱ふ耳なり。

アラハバキ
 イシカ
  ホノリ
   ガコカムイ

ただこれだけなる唱にして三禮四拍一禮の行耳なり。浂は必ず神の救済に會はん。今なる生命に終るとも、神の引導にて善き父母を得て世に人とし生じ給ふなり。若し是れを疑ふあらば、浂は千日の行願も空しく他生に生れ、己が業報にその生々を久遠に受く神の裁きに會はんや。能く正念しべし。

右、原漢文也。

神護景雲戊申歳猛春
安倍安光

三、

○△―・・・・・語部古事録に曰く。

夫人者各其身ヲ愛セズンバアル可カラズ矣。苟能其身ヲ愛スル者必ズ能ク其ノ父母ニ妻子兄弟ヲ愛セズンバアル可カラズ。而能其父母妻子兄弟ヲ愛スル者ハ必ズ能其家ヲ愛セズンバアルベカラズ。而テ能其業ヲ愛スル者ハ必ス其四隣ヲ愛セズンバアルベカラズ。而能ク其ノ四隣ヲ愛スル者ハ、必ズ能ク其村ヲ愛セズンバアル可カラズ。而テ能ク其村ヲ愛スル者ハ必ズ能ク其ノ郡ヲ愛セズンバアル可カラズ。而テ能ク其郡ヲ愛スル者ハ必ズ能ク其國ヲ愛セスンバアル可カラズ。而テ能ク其國ヲ愛スル者ハ必ズ天下萬民ヲ愛セズンバアル可カラズ矣。

是レ肉眼ニテ視ヘガタキホドノ分子粘着シテ一塊ノ土ト成リ、一塊ノ土凝集シ丘陵トナリ、丘陵大ニシテ山トナルガ如シ。是千里ノ路モ必ズ一歩ヨリ始マル所以ナリ。故ニ君子者其獨リヲ慎ム故ニ能ク其身ヲ敬愛スル者ハ又能ク其國ヲ敬愛スルノ基ニシテ、乃チ國ニ報ユルノ基礎ナリ。夫日本國、古ヨリ愛國ノ人ニ乏シカラズ。

治世ニハ則チ平等ヲ扶翼シ、亂世ニハ則チ躬ヲ以テ民ヲ安カルヲ一義トシ、人命コソ大事トシ、國民皆兵ニシテ、是ニ當戦ス。能ク荒覇吐神ヲ敬シ、敵侵ヲ防ギ丑寅日本國ヲ護リ、海ノ外ナル進歩ヲ入レ、國體ヲ保護スルノ意ヲ祖来ノ遺訓トテ維持センヤ。

京師 服部嘉太郎

右は語部古事録を讀みにし彼の感論なり。

明治辰十三年
秋田映季

四、

唐の武徳庚辰年夏、山靼に於てクリルタイを與安嶺平原に集いたり。クリルタイとは、ブリヤート族が陳の文帝の天嘉壬午年に、常に襲はる騎馬盗賊より商隊を護るが故の五十七民族長の相互護衛なる議談に創りぬ。天山道・アルタイ道をしてシキタイ騎軍の護衛に約せる。後なるナアダムもまたクリルタイにあとなる騎馬祭たり。此の年、吾が丑寅日本國にて、創めて是れに參じたり。歸化人モンゴル族のムシツヌの案内にて成れるものなり。

爾来、都度なるクリルタイに參じたり。吾が國よりの商物は海獣毛皮・魚油・干物魚・昆布他。鱈の卵漬を珍味とて能く荷を重ねたり。吾が奥州の地に山靼商易ありてこそ、古代より造船の岐ぞ秀たり。髙麗より歸化せる船師に成れる造船にて、これ倶耶漢船とて出羽砂泻より山靼往来し、更には飽田・淳代より盛んたり。
語部古事録に曰く、

是の如く傳へぬ。
江刺佐比岐と曰ふ者、山靼往来三十度。廣大なる大陸の交易、紅毛國まで至りぬ。ギリシヤ・エジプト・エスライル・バクダツト・支那・モンゴルとてその商隊に加はりて曼遊せり。依て世の擴きを知りて、その後継に商交絶えざるなり。

是の如く傳ふるなり。古代より是の如く傳ふる由は安倍・安東代々に相續せり。奥陸十三湊の栄ひたる由因にあるは、この由因に在りぬ。西方オリエントの往来は商益ありてこそ存續せしもの也。渡島にギヤマン玉・錦織・皮履物など、今に遺るありてこそ。

寛政六年七月二日
大坂屋利兵衛

五、

〽西海を
  浪を浮寝に
   船乘るは
  安東船の
   潮路なりける

自昔如船唄在安東船為山靼益商往来、奧州東日流十三湊在船泊造、茲安東船之工作、年毎納安東京師管領貞季殿、為進水征西海富益商、賜日本將軍公、爾来至代々是継累、安東船今上覇北辰海、云々。

右の如く北條外史に記逑の如く、東日流十三湊の安東船の事は、公に認むらる事ぞ。幕府に非ず、朝廷に賜らるもの也。安東船は京役の故に若州小濱に往来し、更に湖船を造りて琵琶湖に進水なし、京師への北海産物を献上仕りたり。此の往来船のみ京船と稱したり。京船の事は、阿吽寺僧・弘智法印の十三往来にも見ゆなり。十三湊に築きける福島城・入澗城・墳舘・鏡舘・羽黒舘・唐皮城ら此の一湊に有りて、寺社もまた多かりし。十萬を住はしむ日本北端の湊にて、天然に備はる日本一なる良湊たり。

〽白鬚の
  津浪に呑まる
   十萬の
  水に失せにし
   人を思ひば

興國元年、昼時一挙に襲ひし大津浪。以名湊また失たり。

寛政六年一月二日
磯野作太郎

六、

東北と云ふに蝦夷と曰ふ想感を衆に与ふは、倭史に依る過却の偽史に以て遺したる大罪なり。蝦夷と吾等が祖の稱したるに非ず。日本國と稱したるものなり。その頃に倭國は神代にして、葦原國またはオノコロ島と稱したりと曰ふも、後世の語部にて何事の史證にも非ざるを、夢想幻想に神代とて語る古事神話を實史とて木に竹を継ぐが如きに、彼の古事記・日本書紀の倭史とせり。依て神代なんぞ世に非ざるものにして、神武天皇なんぞ世にあることなかりき。非史傳のたぐい權威の作説なり。

吾が日本國の開闢は、倭國をはるかに先なる國の創むる處なり。吾が國に神代は非ず。人祖をして國の創めとせり。その人とは山靼にして人祖の渡り、此の國に先住せしを以てせば三十萬年乃至十萬年を經つる國なり。人の住みたる古證たるは、地に石刃及び素焼の器に遺るあり。何より語部録に信じべく證ありぬ。

是の如く傳へきなり。今にして倭史を以て正統とぞ。その政下、民を人と思はず労者たぐいに思うの他非ず。雲居にありて慈悲心萬民に露もなく、栄華の臺に在りぬ。然るぞ臺を爭ひて權謀術數、闘爭となりては民を下敷にせる布令にて、死屍を山と殉ぜしめ、實に以て情なき過却の史は物語るなり。國に報ゆるは増産より死殉者を美化し、天皇に忠たるも死殉を以て美化せしはその治世になる過却史なりける。

世に人として生れけるに、何事の掟や神の法則に以て死盡を忠なり報なりとせんや。神たるの誠は、人の上に人を造らず、人の下にぞ人を造らざるは、人道無上の道理とせり。大王とて民なくばただなる人間にして、何事の異りやあらん。天降りし天孫なれば何事の證ありや。能くわきまふべきなり。

寛政六年七月二日
伊東元治

七、

艮歌選集 一、

〽吾が國は
  人の渡来を
   祖と為す
  肇むる歴史
   三十萬ミソヨロズ經て

〽日之本と
  國を付名に
   暮しつる
  國をさまされ
   名もさまれぬ

〽泰平を
  破りて犯す
   住み國を
  侵魔の輩
   西な黒雲

〽國君を
  石塔山に
   位して
  日本國と
   國を肇むる

〽國神は
  荒覇吐神
   御鎭めて
  陸奥のトド
   旭日早見ぬ

〽安日獄の
  四方ヨモに嶺なす
   山々の
  山平らけく
   八雲立つなむ

〽稻稔る
  巌鬼の麓
   三輪村に
  初穂を種に
   稻架渡りぬ

〽鬼澤の
  鬼を祀りし
   宮社に
  遺る鬼鍬
   神の御印

〽海幸を
  西に東に
   溢れなす
  天地水國
   こや日之本ぞ

〽北斗の
  星に仰ぎて
   肇む國
  久遠トハに護らむ
   荒覇吐神

〽日の光り
  雪に包まる
   みちのくを
  猶輝きに
   満たしけるかな

〽山吹きの
  華のにほひか
   さそはれて
  朝日の昇る
   山を拝むる

〽宇曽利には
  山みなながら
   亡き人の
  訪ねし人に
   聲と相とを

〽浪渚
  そびゆ巌神
   佐比浦の
  海より見つる
   知らず手合す

〽寒なみの
  春は暦に
   訪れど
  折ふしふぶく
   みちのくの春

以下二十首あれども、蟲喰甚々しく記ならず。是、全歌詠人知らず。

寛政六年八月二日
松田俊造

八、

古来、安倍一族の城に石垣・礎石を用ふことなかりき。亦、要害築き城住の難ずるをせず、永城とせるなし。長じるとも十五年乃至二十五年を過るなかりき。城邸同所再築せず。都度に以て新地新城たり。亦城期限に至らずとも城主の入寂ぞあらば、是を焼灾し新城を築きたり。安倍一族の城築は飾らず、主柱は掘建にして階をなし、築城三十日を以て落慶せり。築城成りては、次城選地定まりては土工し置ぬ。安倍城の要は川端また湖岸・海濱を築城の要とせり。

本舘に火箭の屆かざる距離に柵濠を廻らし、二重尚三重とし、戦雲兆しては垣楯・逆茂木また鐡線を張りて敵攻を妨ぐ。常在の騎馬兵を警護として濠内収めたり。鍛治を常在ならしめ討物を作りては諸柵に備はしむ。矢を造り、弓を作り、馬具を造るはみな常在の兵士たり。戦の長期に備いてホルツ・干物・鹽を藏し、郷に四散し置きぬ。物見とて諸外に忍ばせ能く敵情を探り、その要に謀りぬ。

寛政六年五月一日
藤原景勝

九、

安倍一族は常にして何を以て暮しとも、各戸に馬を養飼す。亦、牧を以て放牧するなり。馬産種新の名馬とせるは秘にして知る由もなかりき。民は平等にして各々はげみぬ。戦に起りては先づ女人・童・老人を安住地に移しめ、柵辺の民家を解屋して要害の材とせり。戦法は囮軍引誘法・敵後進輪充糧秣奪取法、常に練究みてその實を挙げたり。

されば軍動いかに。策謀に利ありて攻め、非らずして引けり。何事も敵に休を与ヘざる戦法なり。攻め手に、暗攻め・昼飯攻め・矢攻め・馬攻め・毒攻め・馬盗攻めあり。柵外の攻めを特得とせり。路に隠釘・仮架陣なるを施して、一騎を以て千兵を討つが如きからくりをなせる處に誘敵せしは前九年の役にて實を挙げたり。

寛政五年二月七日
金幸永

十、

芦名氏。

その出は相模國三浦氏の流れなり。奥州に守護として會津一帯の知行をなせり。芦名盛氏のとき兵を挙し、安達・岩瀬・田村・白河諸郡に勢威及ばしめ、老いては入道し法名を天寧寺止々斉と號したり。時に黒城下に落書あり。

天寧寺河原石大和殿取町小役成人

是は重臣・佐藤大の泉石採集趣味を評し、盛氏の施政を風刺せるものなり。芦名氏、何事の障りか継主失ふ不運に續きぬ。天正二年、芦名盛興病死。天正十二年。盛隆、臣大庭三衛門に惨殺さる。其子亀丸又は亀若丸、病せるは天正十四年なり。天正十五年。義廣の代にて芦名氏滅ぶは、伊達勢の攻めと内乱の故なり。

寛政五年四月二日
前田常介

十一、

最上氏

の遠祖は斯波氏也。奥州探題斯波家兼の子息・兼賴、延文元年羽州探題に任ぜられ、最上郡山形に築城。兼賴、姓を最上と改め子孫隆世す。九代義定の時、伊達植宗と抗爭し、長谷堂の戦に一挙に三千人の家臣を殉ぜしめられたり。永正十一年。義定、不本意乍ら伊達氏と和睦し、義定のあとを中野義清の子息義守が継ぎぬ。

最上氏の内訌しきりにして、家老・氏家伊予守定直、調停にて義光家督を継ぐ。天正十九年。豊臣秀吉の奥州仕置にて大名と相成り、五十七萬石を拝領せり。然るに内訌また起り、義俊のとき元和八年改易と相成りぬ。

寛政五年二月七日
金幸永

十二

佐竹氏。

新羅三郎義光の後裔なり。十六代・佐竹義篤のとき常陸奥七郡・陸奥南部を占めたり。天文十九年、義昭後継す。永禄八年。義重、常陸全土を一統し大名の基盤ゆるぎなくせども、慶長十七年秋田への轉封し久保田にて没す。時に六十八歳なり。

寬政五年
前田常介

十三、

相馬氏

は下總國・千葉常胤の次男師常より十四代顯胤に至り小髙城主たり。その後継を盛胤相續し、伊達との抗爭五十年間。永禄七年、名取郡座流川の合戦にて伊達軍を敗滅せしめ、その後また抗爭しながらも慶長五年九月、関ヶ原合戦に參陣。中村城六萬石大名と相成れり。

寛政五年五月七日
金幸永

十四、

伊達氏

の祖は朝宗を初代とす。伊達氏を支えたる重臣に石川氏(物津源太有光)・泉田氏(藤原式部大輔景時)・片倉氏(加藤判官景廉)・白石氏(刈田經元)・鈴木氏(岩出山市正)・津田氏(湯目近江之介)・支倉氏(伊藤常久)・原田氏(藤原宗政)・茂庭氏(左月斉)・屋代氏(玉置関盛)・留守氏(伊澤家景)・亘理氏(武石胤盛)等あり。奥州の覇者として君臨す。

祖・朝宗より十七代政宗に至りて伊達六十二萬石を拝領し、寛永十三年五月二十四日没す。歳七十なり。辞世あり。

〽曇りなき心の月を先だてて
  浮世の闇を照してぞ行く

寛政五年五月七日
金幸永

十五、

吾が陸羽國は山靼の往来ありて、古代オリエントの開化を知れり。然るに、彼の紅毛人國は常にしてその開化にある國に戦を挑發す。知れる戦になるを記しても、

メギドの戦・カデイシュの戦・オロンテイスの戦・トロイア戦・アッシリア戦・ペルシア戦・マラトン戦・サラミス戦・ペロポネソス戦・アルキダモス戦・デケレイア戦・クナクサ戦・スパルタペルシア戦・コリント戦・神聖戦・サムニウム戦・カイロネイア戦・アルクサンドロス戦・グラニコス戦・イッソス戦・ガウガメラ戦・イプソス戦・ポエニ第一次戦・第二次戦・トレビア戦・カンナイ戦・ノラ戦・マケドニア第一次戦・メタクルス戦・ザマ戦・マケドニア第二次戦・シリア戦・マグネシア戦・マケドニア第三次戦・ユダヤ戦・マカベア戦・ポエニ第三次戦・マケドニア第四次戦・ユグルタ戦・アクエセクステエ戦・ブエルケレー戦・同盟都戦・ミトリダテス戦・ガリア戦・パルテイア戦・カルラエ戦・ローマ内戦・フアルサロス戦・タプスス戦・ロイリッピ戦・アクテイウム海戦・ローマエジプト戦。

以上が古代オリエントに起りし戦なり。王朝建國をなせる國は常に攻防して、敗れては砂に埋もる廢墟の運命に辿り、崩石の荒芒たる跡を今にさらしぬ。亦、亞細亞に於ては支那に於て限りなく古代戦の廢墟を砂に埋めて遺る多し。然るに山靼に於ては商隊を襲ふ馬賊の他に古代に於て戦とて名に遺るはなかりき。

依てオリエントの戦に遁げ、山靼に新天地なる安住を求めて移動せる集團ありき。吾が國にアラハバキ神を心に渡り来て歸化せるはカルデア民と曰ふ。かかる先代の事たるを倭史の紀元にくらぶれば神代に當る年代なり。

寛政五年一月元日
金田一光繁

十六、

古代オリエント華やかなる開化先進の國々なるも、その裏に侵略戦常に起り、都度に殉ぜる人々の生命を下敷きにして、王一人のおもわくに民は死せり。依て神と曰ふ名に於て信仰また起りぬ。ギリシアのオリュンポスの神々・エジプトのナイル河畔にアメンラー神・エスラエルに起りしアブラハム神・キリストに依るイホバの神・シュメイルのアラハバキ神ルガル神。トルコ地方にてはアルテミス神・シキタイやモンゴルのブルハン神。

そして砂漠の民のアラー神。天竺のシブア神。支那の西王母・東王父の神など、今に遺るあり。また信者に離れたる神を數ふれば限りなく存在す。信仰もまた王令に依て禁ぜらるあり。吾が國耳は、その信仰までも強信加入の制を為すはなかりき。吾が北日本國は何事の信仰にあるともそれを科とするはなかりき。また荒覇吐神の他、倭神に惑ふもなかりきなり。

寛政五年一月元日
金田一光繁

十七、

奥州の事は代々を過ぐる程に迷宮せるの他あらざるなり。依てその史實にある事の語部録を語村に見付けて以来、勇を百倍と相成れり。世襲の不変なるはなく、栄枯盛衰亦然なり。荒覇吐神、天地水・陰陽に以て萬物を育み、その恩惠ぞ人耳のものならず。生とし生けるもの一子の如く平等攝取たり。神の御心は、人を世にして人の上に人を造らず、人の下に人を造り給ふなし。まして荒覇吐神を丑寅日本國の國神たれば、人は常に生々睦を以て爭はず。一汁一菜をも分つ心にて暮しに安心立命を保つは人の生さまなり。

荒覇吐神とはその相、何ものにも化身して衆のなかにあり。浂らの罪・浂らの善を見屆けをりぬ。裁かるは死後なり。生を甦して生るとも、浂の前世にありきを裁く天秤の善惡の計は、人の掟・人の刑罰より猶以て重輕をあやまらざるなり。依て裁きに生を世に受けたれば、浂の魂入る生體は人間のままなる甦りなるか亦畜生なるか、神なる見通しより浂が己れを誰より知るところなり。如何に智能にありきも、惡に智をめぐらせる者は必ずその業報に己れを罪に自得す。
佛道に日く、

諸行無常
 是生滅法
生滅滅己
 寂滅為樂

神道に曰く、

陰陽轉常
 是生死理
世遇不永
 冥府不永
依業甦類

是の如くは眞理なり。依て光陰空しく渡る不可。

寛政五年一月一日
和田長三郎

十八、

艮歌選集 二、

〽色も香も
  うつらふ影も
   埋れ木の
  石となりける
   げにや遺りて

〽老隠る
  かげろふ人の
   やごとなき
  こもる心は
   夢か現か

〽下り月
  春宵一刻
   まどろめば
  しばふる人の
   思ひうちより

〽惜まじな
  陸奥の秋なる
   あかねさす
  もみずの頃に
   はるけずはなし

〽はろばろと
  訪れきたる
   淨法寺
  たどれば鐘の
   法の聲聞く

〽春解の
  雪のましみず
   あらあらと
  深山こだまむ
   はてはありけり

〽巣立てよと
  しゝむらさけぶ
   親鷹の
  目もくれなゐに
   翼風きる

〽わずかなる
  遇ふ世のよしみ
   我れからに
  疑ひ恨み
   常はさむらふ

〽泥に生く
  稻の稔りに
   刈りてこそ
  今年は終る
   冬のこもりに

〽山のかひ
  渡せる橋に
   面もふらず
  下は巌石
   落る瀧水

〽月は夜を
  星ときそえて
   天の川
  冴えてぞ見ゆる
   冬の晴空

〽日頃へて
  げにも盡きぬは
   足曳の
  山ふところに
   我は歸らん

〽あらたかに
  丑満參る
   憂き人の
  猶ありがほの
   露もあだなる

〽渡島には
  あしたづ巣だく
   湿地あり
  冬を渡りて
   東日流大里

〽つれづれも
  濱の眞砂は
   わたつみの
  潮に被りて
   砂山に飛ぶ

〽せゞらぎの
  十三の入江は
   往来の
  船帆降しめ
   聲ぞ荒けく

〽夏はつる
  世を秋風に
   変れども
  妹背は睦み
   あかね空見ゆ

〽見覚の
  手まづ遮ぎる
   盃の
  此の詩詠ぜば
   流れ去りゆく

〽力なし
  文武のきはみ
   我をして
  子に恥かしき
   薄氷を踏む

〽假の日を
  手鼓打てど
   舞手なく
  猶たえくつの
   秋夜は永し

〽是非もなき
  わかぬけしきに
   宴して
  大事の事も
   酔にさまされ

〽くつばみを
  鳴し荒馬の
   乘り馴し
  戦にかこち
   名馬育つる

〽翁さび
  もる我さへに
   朧月
  かゝる浮世の
   年のはもりは

〽中尊寺
  法のしるしや
   鐘の聲
  大慈大悲の
   ひゞき渡りて

〽うらさびぬ
  諸白髪の
   我まさで
  風もくれゆく
   月だにすまで

〽立つ渡る
  隙もおしぬむ
   磯枕
  潮騒唄と
   汐香鼻突く

〽たまさかに
  そことし尋ね
   さゝ汲みて
  胡蝶の舞を
   浂が姫に見ゆ

〽つま木焚く
  方丈奄に
   坐具もなく
  心を盡し
   飲酒はいかに

〽くねる子に
  人目をつゝむ
   母親の
  見る目に涙
   袖ぞぬらして

〽織の音は
  まだ夜をこめて
   月に散る
  わぎ娘かはゆし
   聲をあやなす

〽月になけ
  なづとも盡きぬ
   蟲の聲
  音色に移る
   草に風吹く

〽影廻る
  こともおろそか
   鉢の松
  葉をつみやれぬ
   戦永らひ

〽日に向ふ
  すなどり舟の
   あさまだつ
  うろくづ溢る
   帆を立て歸る

右以下六首あれども蟲喰甚々しく記ならず。詮なく筆を留め置くものなり。
注、全歌詠人不知。

寛政六年八月二日
松田俊造

右、由利家古文書なり。

十九、

石塔山は役小角を祀るは、此の地に来り石塔山に入寂せるの傳説故なり。その眞疑は如何にあれ、大寶辛丑年十二月十一日、此地に於て入寂しその墓地ありければ、地人の信仰を今に傳統信仰に絶間なし。傳に依りければ役小角、草薬師とて山野の草より薬草を得たりと曰ふ。草療三法とて「葉茎根」「皮實種」「干生汁」その病傷に用ふ。更に「角臓血」をも用ふありぬ。「熊鹿鳥」「虫貝魚」「藻苔菌」より得る薬造あり。秘傳たり。

寛政五年七月二日
和田長三郎

廿、

陸奥に安倍良昭と曰ふ人あり。日本將軍安倍賴良の弟なり。幼少の頃、身體病弱にて、補陀落山淨法寺に入道せり。然るに武術を好み、寺僧となるを嫌ひ生保内に自舘を築きて住めり。仙北の士豪、彼のもとに志従して集り五千人誓臣と相成り、日本將軍副將とて人馬の勢をなせり。依て兄・賴良是を許し、飽田に北浦六郎とその東西を知行せしめたり。
飽田十士の成れるは此の時に創れり。

右何れも地豪にして、羽陸三十八年戦に勝抜の名族たり。良昭この臣領に荒覇吐神社を建立して主従の盟約を誓ひてなせば、羽州清原武則一族挙げて盟約に相加はれり。時、寛徳丙戌二年なり。

寛政六年八月一日
小野寺左衛門

廿一、

長元辛未年。日本將軍安倍頻良、飽田土崎湊より渡島に赴きぬ。船三十艘、松尾澗内に上陸し地のエカシ七人と集ひて和睦し大宴せり。集ふる大長老エカシの名は次の如し。

渡島クリル族にして歴代名にある大長老なり。安倍頻良盟約の條は次の如くなり。吾が日本國は坂東より流鬼・千島・神威茶塚に至るを曰ふ。國土大海を統治なり。依て浂等の一切に何事の支障是れなく自在たり。願ふる所は挙國一致にして、物資の交換なり。また人の交流なり、とて談議に決せり。爾来、渡島住民の往来振興せり。

寛政六年二月十日
蠣崎重賴

廿二、

奥州三十二郡を五年にして攻防席捲せしは伊達政宗なり。天正九年五月。十五歳にして初陣し、三年に渡りて父輝宗に従ふて相馬氏と攻防せり。政宗この陣中にて父輝宗より家督を継ぎ、少年乍ら戦國武家の快男兒たり。相馬氏に依りて金山・小斉・丸森を攻略され、更には本領たる伊達郡・信夫郡までも攻略され、政宗闘志いよいよ燃え、相馬氏の出戦を重ねて諸城を奪回し和睦を遂げたり。

かくして政宗に片倉小十郎あり。政宗十八歳にて家督を得て後、天正十二年秋。大内備前守定綱に依りて仕置に欠くこと暫々たれば、小手森を攻めそこに生あるものすべてを大殺戮し、定綱の居城・小濱城を攻略して灾り、勢に乘じて二本松城主・畠山義継をせめて降したるも義継、政宗の父なる輝宗を人質とし擁したるも政宗、銃を以て父輝宗ともに權現谷地に撃害せり。時に政宗、断腸の思いたり。十月十五日、忿怒に燃えて二本松右京を殺したり。

時に天正十四年にして二年後、十六年。佐竹・芦名連合軍を郡山の合戦に不退戦し、十七年四月安子ヶ島・髙玉の両城を攻略し、六月四日不戦にして黒川城を攻略しける。更に摺上原の合戦を勝抜きて大沼・河沼・耶麻を得たり。此の間少かに五年なるも、この政宗に躍らせたるは秋田舜季・城之介の父子なり。山靼より寄せたるモンゴル弓箭・火薬の討物等、補給ありて成れり。

寛政六年八月七日
藤島伊賀介

廿二ママ

倭の國に耶靡堆またの名を耶馬臺と稱す國ありけるは、支那にては呉國・蜀國・魏國あり。その外に羌氏・鮮卑・烏桓・髙句麗・馬韓・辰韓・辨韓ありぬも、併せて狗邪韓國と通稱せり。その往来せる古代航路ぞ狗邪韓より一支國。

一支國、奴國を併せける。伊都國亦はクケーとも曰ふなり。不弥國とは小濱にて山背なり。耶馬臺とは邪靡堆にして魏使道とす。吾が丑寅國に至るは髙句麗より犀川に至り、能登を廻り糸魚川に至り土崎に至るありぬ。然るに烏桓・山靼の往来しきりなれば、魏船一往復耳にて来るなしと曰ふ。
右、語部録に依る。

寛政六年五月四日
物部藏人

廿三、

陸羽歌遊集

全歌詠人知らず。

〽かしづくは
  孫の守なり
   まどろめば
  泣つる聲に
   しどろもどろと

〽夜の雨
  暫し岩根の
   なまめける
  瀬に流るるも
   うたかたあはれ

〽もどかしや
  明しかねたる
   身の上を
  忍ぶもぢずり
   月あきなるに

〽すさましく
  こゝに来てだに
   あかざりし
  さこそ心は
   程だになけり

〽うちかづき
  返すや夢の
   言の葉に
  暮れなばなけの
   花のうつろひ

〽誰そよう
  あたりをとへば
   まぎれある
  心もとなと
   こゝを先途と

〽いつをいつ
  いまはの時の
   言葉には
  手探ぐる如く
   宇に何書く

〽さる程に
  雨の祈りに
   ためしなき
  仙家に入りし
   告をまちつる

〽ます鏡
  月には見えず
   たゝずまひ
  誰松蟲の
   よそにぞかはる

〽わりなくも
  思をのべて
   しをり逝く
  光をかざる
   佛願はす

〽波鼓
  追風帆を打つ
   潮路ゆく
  船子水先き
   面ふらず見ゆ

〽いみじくも
  とよりかくより
   さえかへる
  海山かけて
   光り渡りぬ

〽心には
  来る年の矢の
   速移る
  生れぬ先の
   人心なし

〽行くは慰む
  舊里出でし
   我ながら
  旅の衣は
   身を知る雨に

〽天の原
  冴え見ゆ星の
   羽黒山
  面を向くべき
   北斗の星に

〽斬ればとて
  目路をも見せぬ
   水なれば
  いうこそならぬ
   世はそもももに

〽世々毎に
  わづかに住める
   浮世をば
  譬へん方も
   もし夢ならば

〽山靼の
  人も稀なり
   曠野には
  印の星に
   道行きを知る

〽我が國の
  つとなきおくれ
   思ほゆる
  オリエント行く
   旅みなながら

〽雷音の
  鳴るより速き
   稻妻の
  陸奥の嵐は
   おくれ先發つ

〽これやこの
  弓馬の家に
   様をかヘ
  内身三昧
   生ありながら

〽しのゝめの
  かげろふもゆる
   道芝の
  陸奥の旅路は
   由ありげなる

〽炊けむり
  霞となびく
   朝ぼらけ
  鳴くやにはとり
   日の出を告ぐる

〽よるべ水
  心も澄める
   千早ふる
  白衣のみなり
   あるべき住まひ

〽いぶせくも
  埴生小屋なる
   吾が住まひ
  年も忘れて
   我があらばこそ

〽よしあしも
  猶ありがほの
   何となく
  通ひ馴れたる
   昔も今も

〽朝はよい
  紫染むる
   あやめ花
  親しきまでに
   昔想はむ

〽世を厭ふ
  山賤の浂れを
   秋水は
  一日毎に
   冷を覚つぬ

〽心得ず
  しばし枕に
   ねぶり覚め
  あたりを見れば
   雨あしべ音

〽きづなあり
  夢路も添ひて
   いづくとも
  心もとなや
   命つれなく

〽月に鳴く
  渡るかりがね
   群影の
  なづとも云ひぬ
   秋の冴え空

〽あらかねの
  金掘る山の
   灯びは
  心もとなき
   目にくれ消えて

〽みとしろの
  祈りに入れて
   七日夜を
  断食解けの
   とうにつらさも

〽螢狩り
  早くも知るや
   みだれつる
  風もうつろふ
   ほの見えて去る

〽わかぬけて
  星も相逢ふ
   天の川
  ありしにかへる
   云ひもあへねば

〽あかねさす
  うつらふ影も
   色も香も
  いふに及ばぬ
   東日流野づらに

〽やごとなき
  散らぬ先にと
   たばかつて
  矢づるを放つ
   のぶかに得たり

〽いと責めて
  敵を知るべは
   あまりにも
  衣の舘は
   静かなりける

右は江刺なる佐野家文書なり。

寛政六年十月一日
長尾將城

廿四、

御書状拝見仕り卒爾乍ら拝復仕り候。兼て松島船遊の砌り、大旨得心仕り候。依て淳代・土浦・北浦に訊ね候へば、船大工・河田宗太郎と申者、安東船・山靼構図保存仕り、早速に持參赴し候も、隠密を以て謀り候可。海図たぐりて東海に航し候は、潮流に乘じて速達し處ノビスパンヤに必着せん事にうけたまはり候。

案ずるはパナマ地境に越え候はず使節の歸待間、余の者は地境の探査致しべく許容の程請申し候。依て我が家来衆三人の同行願ひ奉り候。航行一切費用當方支払の段、何事の親慮あるべからず、願ひ申候。同乘に由理市十郎あり。紅毛人國三國の辨解に叶い候はば、よろしく願申上候。猶、大工三十人・材三千石添へ仕候。余また祖来に世界航し異土艦の參考ありぬ。依てこの書持參者そのままに候へて用ふるは危の極みに候。なれば能く究を極め候べし。

五月七日 實季拝

伊達殿


右は秋田氏より伊達氏への書面にて、慶長十六年五月なり。築造の材、秋田よりの船出は杉・松・檜なり。無節にして旣木挽材なり。船塗料にては秋田地湧油。左右十二門の大砲、弾丸は閉伊釜石にての鋳製なり。炊事百四十人の飯釜また然なり。船號サン・フアンパプチスタ號と稱したり。
治家記録に曰く、

木船ノ横幅五間半・船長十八間・髙サ十四間一尺五寸アリ。帆柱十六間三尺、松ノ木ナリ。又彌帆柱モ同木ニテ造ル。九間一尺アリ云々。

と記逑あり。是れ幕府に上げたる船図なれども、秋田家に遺れる船図は是れ以上の尺寸ありて明細あり。乘員の數にては百八十六人なり。
慶長十八年九月十九日、丑の刻出帆せり。東大海を四回の暴風に遭遇せるも三ヶ月後、同年十二月十九日イスパニアのアカプルコに至りぬ。

寛政五年二月六日
林子平

廿五、

我國の寛政四年、オロシア北方に来船し、先ず根室に至り地領を私せんとす。サガリイ島は安東水軍に依りて丑寅日本領とせしも、公にして是を認識非ざるなり。依て千島各島にオロシア狩猟域・魚撈域とて是をオロシア帝領とせん。是の如きを余は憂ふるものなり。今にこそ奥皆藩挙げて北方領の連持を為すを一義としべきなり。

寛政六年十月二日
林子平

廿六、

此の國は永きに渡り蝦夷とさえなみ、税はとれども建設なく、藩に下敷かれただ貧苦のなかに人の暮らしありぬ。かかる惡政の久しく續くるためしなく、民の掌になる政事の至る時世を今に得ざれば、亡國の憂必至なり。三春に自由民權の芽を春陽に當なば奥州の富土となりぬるも、未だ東京にては白河以北は一山百文たるの流標あり。蝦夷意識ぞ國史教育にはびこりぬ。かくあらんは世界の文明開化に士族の權を續保せる、政府の治政。何事も舊来になる封建政治に異なるはなかりき。

民を平等にせざるは自由民權の敵にして、國土に貧富の差を出ださず教育の因原に改革の要あり。迷信の因習を除き、民の權ある國建たる世襲に今は至りぬ。覚よ、今は民に生産を與ふその場を都心に集中をせず國土を平等に区を分つ時なり。兒童文盲あるべからず。教育の場を廣め世界の文明に平肩せざれば未来久しく後進をたどるのみなり。吾ら自由民權は今こそ起って官閥を砕き、平和と自由を民のものとなるまで闘ふものなり。

明治十二年一月
三春自由民權
同志一同

廿七、

おろかなり。廢佛毀釋とは倭神を至髙とせる皇祖の神を以て國民の信仰を奮取せる大惡政にして、惡法と云ふ他曰ふことなし。永き歴史の間、地方の信仰にあり徳川の世に何事の弾圧もなかりきに、地藏を打ち割り、佛にありき古迹を焼き、古なる文献の焚失にせるは實に憂ふるものなり。神道ならざる堂閣を廢し神社とし、その社まで階級ありて村社・郷社の類に定むるは、まさに神をも冐瀆せる行為なり。是の如き治世のあらば、永き國家の先非ず、國は亡びぬ。

心せよ、神佛に何事の科ありや。神佛は民の安心立命になる道場なり。一据の仕官になる決め事にてかかる神佛毀釋のある、是れぞ民を人間と思はざるの惡政なり。何事を信じようが信じまいが、人心にして自由ならざれば天草もどき内乱のあるは必如なり。何事も民に權なく、兵徴用し戦に死を盡して泣くは遺族のみなり。戦爭を美化せざる生産商易こそ國運の向上にありけるなり。されば、いざ来る自由の至るはいくばくもなし。心に能く心得よ。

明治十五年凶月凶日
自由民權葬らる
末吉

廿八、

此の維新は百年も保つこと難し。今更、西洋の植民地支配に亞細亞の隣國を犯さんとせる軍閥の増長ぞ、誠の東洋平和なるか。自由民權の民主發展を刈取り、皇政を奉る政と憲。これぞ西洋諸國が旣に了りしに、ことあろうに清國・朝鮮・ロシアに外交の風雲を怪なし、にわかに西洋かぶれなる我が國の未来ぞ、ただ列國の敵視をそそぐばかりなり。要は戦を以ての權圧より商易を以て世界に睦み、我が國中に貧しき民のなからん國政を司るこそ未来に倖をなせる國家たらんや。國民は貧しきにあり。法は貧しき者を救済になし、ただ弾圧のみなり。

昔、東日流に於て安東船が商易せし手本あり。富める國を築かでは平和なかりき。ただ軍を以て國防とせるは、外交に障りある耳なり。自由民權を圧したる如く、この國は必ず大國ならん野望に亡ぶ危うきにたどらん前兆ありぬ。あと二十年乃至は三十年に保つや否や。親睦、露もなかりける大日本帝國のありかたぞ、全能なる荒覇吐神のみぞ知る處なり。

大正六年
和田末吉

後記

本巻は時代相應に譯文なして記せるものにして、能く覚つ置くべし。本文原書は語難ければ、その便をこらしたり。

末吉

和田末吉