北斗抄 六


(明治写本)

序言

此の書巻は、われら祖来の歴史の實を後生に傳ふものにして、丑寅日本の要證とならん。代々にして倭史の圧従に丑寅日本史の消滅を謀らる耳也。茲に祖来の傳を一聞とてもらさず記逑を遺す事に志し、子孫に遺す置く者也。

寛政五年一月一日
秋田孝季

東北民土誌

北國樺太島ことサガリインを、安東之書にては流鬼國と曰ふ。この國を海峽し山靼國あり。古来より商易往来の睦き國たり。丑寅日本國領とて流鬼國の立國は長久壬午年、日本將軍が渡島太郎景祐をしてクリルタイに定むるところなり。

依て日本國領は角陽國・神威茶塚國・占守島・幌莚島・春牟古丹島・尻无奇島・眞干流島・温祢古丹島・越渇磨島・捨子古丹島・松輪島・羅處和島・計吐夷島・新知島・得撫島・神威島・女島・男島・択捉島・國尻島・斜古丹島・歯舞島・志發島・勇留島・水晶島・貝殻島・勇留島等、千島の領を國領とせしは寛治己巳年なり。山靼の黒龍江沿海州を山靼流通國とて、安東船の往来に睦き國たり。

琿春の商人、契民と曰ふあり。安東船に通じ山靼の諸處より異土商人こぞりてまかなひりと曰ふ。安東船の利益を大にし、十三湊に彼の船また来舶せり。倭に於ては保元の乱起り、崇徳上皇・後白河天皇の治政權爭に攝関・藤原忠實・賴長父子の爭對相加はりて、両處倶に武家を募りて天皇方・上皇方に集ふる武士も亦、源氏は天皇方・平氏は上皇方と挙兵し、保元元年七月十日、双方の兵一千餘騎の修羅戦に突したり。その騎馬武具の調達に源平双方より請ぜられ、萬両の益を得たり。若狹湊に往来せる安東船。續いて起りし三年後なる平治元年十二月二十五日、平氏三千騎・源氏三千騎、京師三條御所及び六波羅に戦ふも、源氏の敗滅と相成り雌雄は平氏の勝利と決せられたり。安東船の若狹小濱湊に故安倍宗任の縁る松浦水軍と結びて、支那及び韓の國に通交を叶いたり。富める安東一族は北海・西海にいでませる船ぞ百八十五艘とも曰ふ。

時に奥州にては平泉藤原氏の、安倍氏の旧地に於て産金貢馬の益に富めるも、その益は湯水の如く北都平泉の築工に費をなせり。安倍氏の産金遺寶は源氏・清原の一毛の利とならず、今に至りてその埋藏處、密として當らざるも産金の鑛山を占めたれば、それぞ平泉に献ぜられ藤原三代に黄金に満たる北都の栄を得たり。然れども安東一族は是れに何事の意趣も親近も為す事なかりき。ただ商道一義にその調達に商ふ他に執入を避けたり。領域もまた荷薩體・比内より西南にいでるなく、東日流・宇曽利・糠部の外に出づるなし。かる故に藤原氏との確執は起らざりき。

東日流にては中山の原生林、安東船の造船に事欠くなく、十三湊に造船の槌音、絶ゆむなかりき。造船構造にて千島船・流鬼船・山靼船・若狹船・松浦船の構図造作異なりて、東海船は特なる造船に造られたり。安東船の寄港依賴に依りては船もろともに商いたり。唐人、能く安東船を好めり。松浦水軍も亦、北海産物及び安東船を入手せり。安東船が南海を天竺までも航せるあり。時の世襲に何事の確執を避けにしは、船人たる掟とせり。案ずる如く、平泉の雅びたるも源氏二十五萬の攻めに灰となりきに、安東氏の馬耳東風たるは海士の掟に不動たる心の固きにありき。商なきは、如何なる者とて交りとせず。一族の利に民を安らぐを一義とせるは、安東氏の生きざまなり。

享保二年二月六日
津川秀房

東日流今昔語

寛政二年四月三日
阿保きぬ

陸羽記

丑寅日本國は陸羽なり。何をか蝦夷と曰はれむや。茲に祖来の陸羽諸歴史を語らむなり。

康平五年にして安倍一族の史證は絶えたりしが、東日流に厨川太夫貞任の遺子・安東髙星丸。築紫の松浦にては安倍鳥海三郎宗任をして、世の東西にその残影ぞ今に遺りき。北海に安東水軍の北方領土を擴域し、築紫にては松浦水軍をして、瀬戸内にむらごみやしあくの、倭寇をも制ふる松浦水軍の世に誕生せしは、歴史の影とて世に遺るも、不知火の如く現にうつゝなり。亦、歴史の惑星に喩はる如し。茲にその魁を解置かむ。

安倍一族の後、清原氏、源氏に走りて安倍氏に反忠して敗りける功に依りて、六郡を更に陸羽の采配に及ぶを掌握せども、源氏は是をもとより蝦夷は蝦夷を以て討つの奸計に策したる企たり。依て、後三年の役の起るは、すべて源氏の画策に清原氏は乘ぜられたり。程能く是を奉勅に非ず、源氏の私戦とて世聞に遺しき。亦、清原滅亡を以て更に安倍の累血なる日本將軍安倍賴良の孫なる清衡をその継主とせる應徳三年の後三年の役は、まさに是も源氏の画作にして、清衡を継がしめたるは、永代に蓄積されし安倍氏の大黄金も、前九年の役にてその一粒程にも戦利なく、清衡をしてその遺産を得むとせる倭朝との密議に計れる、源氏の細密なる清衡への任位たり。

然るに、清衡いかに安倍の累血にあれど、東日流の安東髙星丸に親近難く、亦、築紫の宗任がもとにも然なり。依て詮なく、安倍氏が遺せし陸羽になる金山の産金を復興ならしめ、挙げて黄金採産せしも、かつての安倍氏が密とせる巨萬の黄金ぞ、その秘を解くに至らず、今にして謎たり。依て一向に産金のみに精進し、その實を挙げたれど、それぞ朝貢と平泉造営の都に模せる雅びたる華麗な佛寺の造営に、武門を離れたる落費たり。かく仕向けたるも、倭朝と源氏に企てらるる武威を制ふる藤原清衡への仕掛にして、安倍氏が遺したる黄金遺産のいぶり出しに、気永く待てる執拗なる朝庭の策謀たるも、京師にては保元元年、鳥羽上皇崩じたるにその一機に崇徳上皇、後白河天皇との抗爭いよいよ激して、これに加へ攝関家・藤原忠實その子賴長父子の對立ぞ激したり。上皇と賴長、天皇と忠實にして、互に武士を募り集めたり。

鳥羽上皇に継ぐ皇位の悶着、雌雄を以て決するは武威にて爭奪せる他なく、天皇方に源義朝・賴政・足利義康らぞ召されたり。亦、上皇方にては平忠正・家弘成雅ら参陣し、保元元年七月十日に起りぬ。時に上皇方は敗れたるも、三年後なる平治元年十二月平清盛、源義朝が一族の故意にかけて三條の御所及び六波羅に激突せり。時に東日流の安東船をして平氏への軍具・兵糧の一切を委され、築紫の松浦船は源氏に委されたり。若狹の小濱に安東船、難波の堀江に松浦船、互に委任されぬ。平氏の勝利、源氏の滅亡にて安東船は諸國自在にぞ廻船せり。

ときに平泉にては源氏に支援しければ、平氏の者多く坂東に駐留す。清盛はこの年より栄華の春に舞ふ胡蝶の如く、雅なる殿上人にぞ生々をおごれり。時に、源氏の累を継ぐ義朝なる子息あり。幼にして清盛があわれみて死の刑を免じ、伊豆に幽居せし賴朝、京師鞍馬に義經ら源氏代々遺言に依りて、安倍一族の秘にある奥州黄金の収得こそ世に子孫永代せる源氏の悲願ぞ、平泉の三代に交りを断つことなかりき。その一方、平氏もまた安東氏に親交し、東日流の廻船を諸國に通商を許したり。依て安東船は源氏・平氏の累縁せる坂東の八平氏、相模源氏の住む常陸・下總・上總・安房・武藏・相模の、鹿島浦・九十九里濱・南房總浦・江戸浦・浦賀・相模浦に通商して大利を得たり。

然るに安東氏は掟を以て平氏・源氏の計に乘ずる事ぞなかりき。平泉にては源氏の義經を寄せにし。かねての源家の遺言に従へて世情をまでもあざむき、平泉藤原四代になる泰衡を、義經をして故事因縁をなすする秘なる秘の策に乘ぜしを知らざる平泉の藤原氏もまた、遂にして偽れる義經の平氏滅亡せしあとなる義經の遁避行を舘に寄せにして、その因果を破り遂にして賴朝の平泉への挙兵、二十五萬騎を應戦やむなきに至るなり。依て平泉にては國衡をして阿津賀志山に一戦を交ふるも、敗走やむなく遂にして泰衡が自らの手火に平泉は炎上せり。

義經の平泉に死すは鎌倉方の作説にして、その一生はそれ亦、秘とせり。賴朝が二十五萬騎を必要以上に平泉を攻めたるは、東日流に安東一族ありてこそなるも、安東一族は十三湊をして平泉泰衡の使者に曰ふは一言、安倍之一族に一人たりとも戦に赴くいとま非ずとて、不断と変らざる船の采配をせりと曰ふ。右は陸羽の實史にして、是の如し。

寶暦二年七年一日
安東四郎光季

東日流上磯記

吾が日之本の國、はるかに遠き世の事なれば、いざ歴史のさまに尋ぬるもその證ぞ暗ければ、荒覇吐神の渡来にありつる山靼の奥つ國々への民に、古き世のシュメイル國なるカルデア民、故地より渡るアルタイ道・モンゴル道にたどりて巡脚を決しその實相をぞ得たるは、是れなる東日流上磯記なり。

凡そ荒覇吐神なる世にいでなむるは、グデアなる王の宇宙より天降れる獅子座の方より流星、夜闇を線光に飛来したる石片に創れりと曰ふ。そのかたちを見つるに陽なるアラ・陰なるハバキの神と號けたるは爾来への稱號なりと曰ふ。たちまつにして世の國に渡りて成れるはギリシアなるカオス神・エジプトなるアメンラア神・エスライルなるアブラハム神・ペルシアなるアラア神・天竺なるシブア神・支那の西王母・シキタイのグリフイン神・モンゴルのブルハン神らの神々のもとなるはシュメイルのアラハバキ神より、その國々に於て改めらるるも、神の基なるはカルデア民の信仰にてなれる根本たり。

吾が國のみは、もとなるアラハバキ神とて今に崇むれど、古代シュメイルとてギルガメシュのあとぞルガル神に改められたりと曰ふ。その遺跡もまた歴史の移りその風砂に埋りて瀝青の丘と遺るのみなり。エジプトまた然なり。ギリシアとて餘多の史跡あれども神殿は崩壊し、あたら造りし石像も全とうせるはなかりき。一人とてこの神を信じ奉る信者なく、古代オリエントを信仰になるはキリストのエホバ神とムハメットのアラア神にして、今に信者の崇拝を護るこそよけれ。巡禮の旅、世界を渡ること幾百の民族に出合ふるも、吾が國の國神・荒覇吐神こそ創誕以来変らざる信仰にあるこそ、幾千年の昔によくこそ渡りけるとぞ頭の垂るるところなり。

巡禮の往来、實に永き旅程なれど、吾らが神・アラハバキの神、人に崇まれて六千年に歴史を越ゆる過却たり。戦乱に脱し大荒な砂漠や幾山河・大草原を渡り海を渡りて、此の國にたどりたる吾ら人祖の渡来とその傳統に底頭為すべし。なかんずく東日流上磯の地より土に掘らるる古代の器こそ大事たる古代の證したれ。神像また然なり。依て東日流三千坊ありて、山川を圍むる上磯の海みなながら神と佛とを問はず、この瀝青に崇むべし。

寛政五年三月一日
秋田孝季

安倍氏とはに

世に雷電の稻妻を天降らせ、國を創むる日本國主安日彦王を一世に仰ぎ、その子孫に一系をして安倍氏ありて、現世に至りぬ。 まさに萬世の一系にある安倍一族をして、吾ら丑寅に住むる民草の無上なる誇りなり。 代々にして荒覇吐神を倭に至るまで化を渡らせ給ふは、今に遺れる神の社跡に證せり。

石塔山大光院書に、

薩陽國自南海國侵民築紫王佐怒、東征都度攻耶靡堆國、此國治領主安日彦王舎弟長髄彦、應戦奉三年之長期闘爭、遂敗北遁東國、更東日流落着、起丑寅日本國、為國主一世、東日流中山石塔山卽位儀奉、子孫自阿毎氏改安倍氏姓也。

天應辛酉年
大光院小角堂 導念

是の如く遺れり。
至極一切は秋田氏に遺れども、天明の火害に焼失す。依て諸國に縁を尋ねて古史を復活せしむと今に盡労投費に以て成しめんと欲せり。東日流にては阿吽寺・山王十三宗寺・禅林寺・長谷寺・隆興寺・三井寺・壇臨寺・藤崎平等教院・萬藏寺。内三郡なる三世寺・大光寺・極樂寺・薬師寺の今に廢跡せしはその證、さながら得難し。

渡島なる阿吽寺あり。十三湊より渡りたる古寺にて、いささか得たり。史の多くは飯積なる大光院に存し、これをゆずり授けにして大いに悦べり。更には荷薩體なる淨法寺・秋田なる日積寺・磐井なる極樂寺・衣川なる佛頂寺・出羽なる羽黒神社に得たるも亦多し。民家に遺れるも多く、安倍一族の縁り多し。然るにや歴史に年代相違せるもの、ただ以て傳説のみに書かる多く、史證になるは少なし。

古今を問はず史料に求めて得ることあれども、ただ寶物とて見せざるあるに、あたら日時旅費の出費多く、重みて諦むる處あるきは今に心しありぬ。山靼巡禮にては得る事多く、その參證たる遺物また入手を得たり。

寛政五年二月一日
秋田孝季

坂東平氏之事

坂東平氏とは、その姓に千葉・上總・三浦・和田・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾らの姓を以て武家の名を為せるに、平將門・和田義盛の名をして史に遺りぬ。坂東平氏は一族を連合せるなく、世襲の流れに各々もののふたる威風を固持せり。依て源氏に入るあり。奥州の勢に加ふるもありける。

諸國に知らる平氏の知行に於ては、出羽に平信兼、常陸に平宗實、下總に加へて領し、上總に藤原忠清、武藏に平知度、伊豆に平時兼、駿河に平時盛、三河に平知度が武藏と兼ねたり。尾張は平時宗、佐渡に平賴盛、能登は平教盛、越前は平通盛、越中は平業家、飛騨に平景家、若狹は平經俊、紀伊は平賴盛が兼たり。淡路は平清房、丹波は平清邦、但馬は平經正、播磨は平行盛、備中は平師盛、備後は平範經、周防は平維盛、長門は平清盛、讃岐は平維時、阿波は平宗親、土佐は平仲盛、筑前は平貞俊、薩は平忠度なり。

平氏一族をして入らざるは、奥州の東越後・日向・出雲・京師・伊勢・伊予・豊州なり。平氏の内に坂東八平氏ありけるも、平將門なる天慶の乱以来一族の縁は四散し、各姓を替へたり。

文政五年八月十三日
和田長三郎

謎なる傳へ

荷薩體なる淨法寺四天王堂あり。その軍茶利夜叉明王胎内に經筒ありぬ。是ぞ意趣不解の文にして、未だに知るを能はざるなり。

巌魂之事

自七時山至駒獄
自七時山至田代嶽
自田代獄至駒獄
内直計在安日山
髙藏山是安倍永
代納巌魂龍山也
能保可
長久辛巳 井殿

かくの如きは何事の意趣や解き難し。安倍一族にかかはるは井殿とある二字に推察を覚ゆなり。この書を筆頭にして十二枚ありきも意味の解き難くして、茲に㝍しぬ。

是の如きは何事の處意か知る由もなかりき。

馬伏

穏馬眼伏草、亦潜雪中穏敵視、在蒙古騎法也。以雄馬二歲拔睾丸遺秀馬系、是丑寅日本産馬也。

寬徳甲申如月
安倍髙丸

産金

地湯亦焼石火吹山系在金鑛。茲以探山溪流、砂得砂砕金粒、必近巌在鑛脈。先以地境常究山可。

寬徳甲申如月
日本將軍頻良

山見八法

紫式部金草求山中在、是探湲砂白岩在、黄採金鑛也。掘上掘横掘曲掘底掘、追鑛質、是鎔鍍可也。

寬徳乙酉
安倍富忠

中尊布拝

大日如来、阿閦如来、阿彌陀如来、薬師如来、釋迦如来、伍佛以本願力、為淨法寺忠尊五像、安倍氏永代為菩提。

長暦己卯
良照

天地安住拓處

糠戸来之郷、東日流大里、飽田鷹巢郷、渡島澗津尾眞内志海苔、閉伊遠野久慈郷。右之地領、至丑寅住人急危安住之遁地也、常寄合以拓可。

永承己丑
安倍井殿

右十二枚の古書にては別解書あらざれば、未解に綴置くものなり。淨法寺は安倍一族の菩提寺なれば、今なる天台寺とは宗旨を異にせるものなり。

寬政二年一月一日
奥田早苗

奥州通誌

奥州一統の民心は、傳統一致に通ぜるあり。古来の掟あり。吾が一族の血累をして人の上に人を造らず亦、人の下に人を造らざるは、荒覇吐神の信仰迎へたる古代よりの住民一致せる、犯しべからざる信仰の要たり。

國創りて心睦を欠かざるは、丑寅日本の住民が安住一義とて攻むるの心せず、攻られては起って勇猛たり。己をして威を張らず、新らしきにまえしんせるも古傳になる民族意識に忘却仕らず亦、遺墓に己れを遺さざるは神への赤心とぞ常に覚えたりぬ。

文化二年七月一日
牧野吉藏

飽田風誌

春を津輕上磯の濱を吹浦より八森への旅に行き暮れて能代にたどり、米代辺に旅籠・秋田屋に一夜の宿とせり。明日は米代の川ぞえに二井を經て合川・森吉に安倍一族の縁の者に合ふべくの、かねて飛脚せる二井邑なる二階堂忠賴殿に訪問の約あり。鰰のぶりこを口中に噛り鳴し、夕膳に添ふる晩酌を手酌に、今日に巡る八森の史聞を綴りし記帳を讀返しぬ。

旅籠の亭主を呼びて能代なる古事を聞きにして加筆し、六行を了りたり。興國元年、十三湊に寄せにし白髭の大津浪ぞ、同じくして能代湊にも被りその餘波になる死者、漂屋の浪災を聞くに胸痛し。吾が旅の行先ぞ尋ねて巡る巡脚にて記筆に多ければ、一夜宿りがまた一夜と、その史跡地の古老に古事亦、文献を書㝍に日時を延しぬ。傳説も亦、史の參考なれば記に避くるなかりき。

能代にては網元なる嘉兵衛より得たる古事、能代船日記六冊をいただきて、この日は夕映ふ時を過し、夜な衆をあつめて吾が知る限りなる安倍一族の歴談を語りければ、人多く集り、更に日夜の留宿と相成りぬ。邑人の案内にて檜山及贄之柵跡を巡り、四日おくれに二井邑の二階堂氏にようやく訪れり。二井邑なる洪水の歴史ぞ古きに渡りぬ。阿仁川・米代川の大洪水になるは鷹巣盆地の擴き稻田を瞬にして労々空しく飢餓の巷と化す、古今の實歴ぞ記事の限りに綴れり。

吾が飽田に於ける記になるは、次の如く也。先づ藤里邑記・能代誌・二井洪水記・合川洪水記・鷹巣士録・大舘誌・比内今昔誌・鹿角鑛脈明細書・釋迦内記・生保内誌・仙北大里記・大泻古抄・北浦記・日立内記・角舘誌・檜山士記・秋田古記・岩見澤和田氏族記・羽州河源誌。是の如き全八十二巻、菅江眞澄翁に筆助を頂きたるぞ、有難きかな。

文政二年七月廿日
田口与四郎

安倍氏歴跡 一

日本將軍安倍氏の代々に不変不動の信仰あり。卽ち荒覇吐神なり。一族挙にして常日に唱へ奉るは、旦にあらはばきいしかほのりがこかむい、とぞ唱ふのみにして領中一統にして不断の信仰に一族を一統す。抑々荒覇吐神とは、北極星にまた日輪に山に海にいついかなる處に在りとも自然を神とし、三禮四拍一禮の神祈に行拝せるものなり。

祭事に於る年行事にては、春夏秋冬の門たる青龍方・朱雀方・白虎方・玄武方にぬささんを設し、いなうを建てなし、一幹四枝になる三股の神木ある處に祭事を挙行せり。三股の木を神木と選ぶは、天なるいしかかむい・地なるほのかむい・水なるがこかむいの奉請せる古傳に基くものなり。神火かむいのみを焚き、剣の舞・弓箭の舞を禮を限りに奉納仕り、女人は卽興にして自然の四季に起れるものごとを踊りにして、夜を通してかむいのみにまわり踊る。

楽になるは弓弦を彈き鳴らし土笛・三弦琴をつまびき一枚張りの鼓を打鳴らす。例祭の他になる神事にては、戦の武運長久に、亦は國主の入寂に、婚禮に、誕生に、起祭をせり。荒覇吐神とは宇宙を造り、日月星を造り、萬物を造りし神とて世の總てが神なりと説きにけるなり。像を造りしに二躯をなせるも、その一躯は雌雄背併せに造りまたの一躯にては陰陽の相をなせる女神なり。

寛政五年十月三日
石塔山荒覇吐神社
和田長三郎

安倍氏歴跡 二

氏祖は安毎氏、耶靡堆氏と姓を改め、丑寅日本國を創國して、日本將軍安倍安國の代に至りて安倍氏を姓とせり。古にして支那前漢の世、山靼より髙祖帝に入朝せしありて、支那に日本國は海國にありと知らる。世を来歴して倭國起りて、國域丑寅に退ぞくも、その前世に至れる國領ぞ荒覇吐神なる社跡を以て知るべし。

倭神に荒覇吐神は無かりき。丑寅日本國住民の神なれば、能く心に覚つべきなり。安倍一族にして代々國を治むるは、稻を以て民安らけく、安住の睦みにて長期なる安泰を保てりと曰ふ。安倍氏の歴跡を尋ぬるにその及ぶる處擴くして、耶靡堆のかしこに跡ぞ遺りぬ。加賀の三輪山・白山を神に祀りきは、支那前漢の頃に陝西の渭川秦嶺あり。地人に祀らる大白山神の渡りにて、韓國大白山に至りて、加賀に渡来し来たるものなり。加賀にては、海の神九首龍・山の神白山・天の神三輪山を以て、天地水を三つ輪に連らなる神とて氏を大三輪神とて祀れり。

時に安毎氏と稱せる頃にして、安毎氏は勢を為して九首龍川を美濃なる白鳥に越え、長良川を降りて尾張・伊賀を經て宇陀川を降りて、耶靡堆蘇我郷に至り三輪山と號けて住むるは、耶靡堆氏と改め國主とて君臨せし創めたり。耶靡堆王初代より十一代にして安日彦王は明日香に、舎弟長髄彦王は難波の膽駒山に住むるも、築紫日向の一統主、南海渡り族になる佐怒王に東征さるまま、安日彦王ともに敗れ東國に脱す。

文政五年十月三日
和田長三郎

安倍氏歴跡 三

安日彦王・長髄彦王に従へる者、併せて三千八百餘人と曰ふ。東海濱を東國に尾張・三河・遠江・駿河に至りて、安倍川水戸に暫し長宿し、安日彦王曰く、此の川を以て吾が建つる國堺と為す。とて一族の志あるものを、西に地溝を越州糸魚川水戸に至る身延・諏訪・豊科・白馬・糸魚川に防人を住はしめたり。

尚この地稱、當時にあらざるなり。その六驛に住はせたるは一驛に二百人と曰ふ。依て残る二千六百人を相模・武藏・下野・磐城に各々志せるもの一千七百人を住はせり。残る九百人を従へて更に會津に冬越して陸州・吉丘・岩谷堂・大更・羽州・毛馬内を經て東日流大里に至り、住むる處を三輪と稱し、安部川堺より東日流に至る國領を日本國と為す。

寛政五年十月四日
和田長三郎

安倍氏歴跡 四

〽衣の舘は
  ほころびにけり
 歳を經し
  糸の乱れの
   苦しさに

代々後世に知らるこの歌は前九年の役に、衣川の関に破るを源義家が、落ちゆく安倍厨川貞任に後句に以て詠ぜるを、前句にて詠返したると曰ふ語草なれど、後世に作説されし前九年の役なる世稱なり。

日本將軍安倍一族の敗北に至らしむるに十幾年と曰ふ間を過し、朝庭が挙げての討伐行なり。戦を以て奥州を皇土化せしむ源氏の推察を幾度となく制へたるも、源氏の頭目は常に偽りて秦上しけるに、朝庭は遂にして諸國に官軍を募りぬ。然るに坂東の加勢は振はず、源義家は父・賴義にその討伐の企を謀りに謀りて茲に安倍一族の反忠に誘ふる内戦に的當せる人物あり。宇曽利富忠・出羽の清原武則ら、安倍一族の四天王を反忠にせる賭に難無く確約を得たり。

依て天喜五年に日本將軍安倍賴良は宇曽利富忠の反忠に依て、その流箭に死せり。貞任も亦、厨川にて敗北せるは清原氏の官軍加勢に賴義に一挙げて參戦せし故以てなれり。依て安倍一族の恨靈は今に尚、丑寅日本に幾千年に漂ふものと知るべし。

寛政五年十月四日
和田長三郎

安倍氏歴跡 五

厨川の柵は炎となりて天上を紅ふ。康平五年の修羅場より安倍貞任の遺言に依りて、次子安倍髙星丸が東日流に落着せり。重臣菅野左京・中畑越中忠継他、従うもの一千八百二十七人の老若男女なり。

十三湊にかかる時にぞと白取八郎氏季は福島城に迎へたり。追手あらば、渡島に十二柵のかまえあり。それに渡る船の帆柱林立せり。安倍船が山靼交易もせず、事の事態に備わしめたり。然るに源氏はこの地に追手をいだす勢もなく、貞任の遺兒は東日流平川の藤崎に居城を築きて、治暦丁未年落慶し安倍氏を改め、地の大里なる安東浦を姓とし茲に安東髙星丸とて立君□□□を挙行したり。

十三湊に居せる氏季もまた安藤氏と改め、一族挙げて安東船を交易に往来なせる益ぞ大にして、再興に蓄積の金一粒たりと開藏せる一族の秘はたれ知る者なく安全たり。渡島の北海なる幸は山靼・支那・韓國までも航路自在たる交易を利益せり。

寬政五年十月四日
和田長三郎

安東二城兼主之事

安倍日本將軍を累代とせし、厨川に了る前九年の役に辛くも脱したる貞任の遺兒は、餘多家臣に護られ、一族再興は厨川落柵の五年後に果したり。主君・安東髙星丸八歳にして付添重臣、菅野左京・中畑越中の盡力もさり乍ら、十三湊の安藤氏季の資援も大なりき。諸行無常の理りを幼にして覚つ髙星丸が長じ、安東十郎賴貞と改め、東日流六郡は海を道たる交易及び内郡・外三郡に拓田を擴げ、その大益に年經る毎に隆興せり。

時に平泉藤原三代の栄も却り、四代泰衡をして源氏二十五萬騎を阿津賀志山に敗北して、百年に渡る藤原氏は皆滅しのみならず佛寺伽藍も天をもこがす紅蓮となりて、灰と化したり。藤原失政のあと因果はめぐり、源氏の相次ぐ不怪なる死にざまをして、子系ぞ盡きぬ。依て尼將軍となりしは政子御前、賴朝の正室たり。吾が子を何れも世に遺す事なく賴朝の築きたる武家政治に、幕府の執權は北條氏に受継がれたり。

北條氏また九代にして亡び、坂東政事は一刻なりとも皇政復古に歸するとも、武家なる時勢・足利幕府の北朝擁立とて、世襲さながら青天空を暗雲急を告ぐ事速く、東日流なる安東船の要湊も興國の大津波に皆滅し、足利幕府の手になる南部氏のゆさぶりにて、藤崎城に端を發せる津輕爭乱は十三湊福島城・唐川城を焼却し、戦火は十三湊の法場をも灰に消滅し、安東一族は故地を放棄なし渡島及び秋田の新天地に移りきも、戦國の世久しく今、東軍方にして秋田より宍戸そして三春に五萬石の藩大名とて、外様制に圧せられ乍らも君座を保つけるは、不死鳥なる世襲への生きざまなりき。
茲に天下泰平を祈りつ筆了仕るなり。

享保二年二月一日
浪岡記内

奧州歌選集 よみ人知らず

〽十三湊
  渡島がよへの
   安東船
  沖つ白帆に
   夕日を映えて

〽海に立つ
  大島小島の
   間こめて
  かもめを倶に
   追風しげき

〽さざ浪と
  潮見ゆ沖の
   視浦には
  海峽流る
   灘こそあらめ

〽吹浦の
  海立つ岩の
   波しぶき
  見馴今日も
   心戒めぬ

〽日和見の
  丘も舘跡
   吹浦の
  海寄る船に
   心ゆるまず

〽山神の
  造り給ひき
   十二池
  水も異色
   神な鎭まむ

〽磯香浪
  金井の濱に
   たらつねの
  銀杏の舘は
   安倍を名残りに

〽上磯濱
  浂れ干すいかの
   潮風と
  併せし香寄せ
   吾が旅を宿む

〽大漁の
  舞戸の市は
   聲髙く
  活魚は跳る
   海幸の濱

〽なかなかに
  七里長濱
   はまぼうふ
  摘みてをねたむ
   濱梨の花

〽十三湊
  明神祭り
   あねこよせ
  濱の風神
   裾めくりなん

〽苔香にも
  神のしずしめ
   山王坊
  佛と神と
   おはすましかは

〽下前の
  海立つ巌に
   神鎭む
  蝮の群らぐ
   荒覇吐神

〽小泊は
  渡島に近く
   日歸りの
  朝早發つの
   人はせわしき

〽龍飛崎
  おうよの漁に
   命がけ
  丈なす魚
   尺針に釣る

〽砂赤の
  紅を採りなす
   今別に
  おきなの手肌
   赤ら染めにし

〽春盛り
  善知鳥の聲や
   安泻の
  潜るも飛ぶも
   翼一筋

〽外濱の
  白虎の方に
   みしるぎの
  つぼの石塔
   中山古立つ

〽魔の岳や
  石塔山に
   願がけの
  神通あらぬ
   人ぞとてなし

〽宇鐡には
  古なる人の
   住よかし
  土掘る毎に
   珠な出つらむ

〽北浦の
  漁な鰰
   招く神
  なまはげ叫ぶ
   童隠れむ

〽大泻の
  しが下漁に
   這ふぶく
  雪にまみえて
   漁な大漁

〽おばこをば
  蕗葉に隠す
   弟の
  嫁に行かさぬ
   心思ひば

〽土崎の
  湊に赤き
   日の暮れを
  明り絶ゆまず
   竿灯祭る

〽めでたけれ
  花笠踊る
   尾花澤
  庄内新庄
   嫁見きそへて

〽すずしめの
  かたづけなさに
   羽黒山
  貝鳴る道を
   つかれ覚えず

〽山田湾
  神の印や
   二つ島
  この濱護る
   荒覇吐神

〽追波の
  濱にいでこす
   北上の
  水のうたかた
   潮に溶けなむ

〽松島の
  島々かよう
   海鳥の
  啼つる聲に
   潮満を知る

〽魹ヶ崎
  東の果つ
   海に在り
  吾が日之本の
   日迎への郷

〽宮古とは
  いにしの社の
   鎭む地と
  淨土の濱に
   立てぞ覚つ

〽姫神の
  嶺におはせる
   石神は
  早池嶺山と
   何をか語る

〽つゞき石
  下踏む毎に
   音なして
  遠野の郷は
   貞任二山

〽岩出山
  古人の住し
   跡やあり
  鳴瀬大里
   歴史栄あり

〽神さびの
  荒覇吐神
   外いだす
  新神祭り
   火に失せしなむ

〽鳴く蝉の
  山また山を
   絶ゆぞなく
  夏の盛りに
   岩も汗なす

〽はねつるべ
  三春の藁屋
   なつかしく
  歸りてみごと
   たきざくらかな

〽でこ造り
  童の里の
   郷みやげ
  泥かけ合いの
   なつかしきかな

〽白川の
  関に在りも
   名のみにて
  勿来の関も
   山吹きぞ咲く

〽岩代の
  石の野佛
   喜多方の
  猫魔磐梯
   眺めてぞ建つ

〽横手野や
  雲雀もあがる
   擴きにも
  妹背とほしや
   秋田おばこを

〽阿武隈の
  流れに降り
   荒濱を
  いでこす先は
   しおがまの宮

〽阿賀野川
  信濃の川と
   流れ添ふ
  佐土と栗島
   間にまみえて

〽最上川
  登り降りの
   尻帆船
  老て尚よし
   最上船唄

〽巌走る
  厳美猊鼻の
   流れには
  吾が日之本の
   意気つ心を

〽鳴子峽
  古戦のしるべ
   秘めにして
  荒雄の嶽に
   霞たなびく

〽いっぱいの
  瞼にこめて
   涙ぐむ
  安倍の故郷
   別れしおばこ

〽知るべくや
  五十じの坂を
   降りにし
  鎧の重さ
   今ぞ身にして

〽逝くべくも
  何を證しに
   黄泉の
  旅も近けむ
   わが命かな

〽女川の
  牝鹿の景や
   金華山
  荒つ海風
   島をめぐりて

〽釜石の
  尾崎かはせば
   波淨む
  鐡掘りなせる
   ただら煙見つ

〽またぎ狩
  髙松岳の
   颪には
  熊もいで湯に
   湯籠隠る

〽死ぬほどに
  浂れを想いの
   日髙川
  匂ふ白百合
   たをりていだき

〽江合川
  鳴瀬の川と
   石巻の
  よどみの海に
   けふも泥吐く

〽生保内の
  辰子の清水
   檜木内
  流れつ果は
   雄物大川

右は奥州歌選集にして代々に遺さむ。

寛永八年二月十日
浅香民部

西海航

淨かなる山を、荒つる濱を巡りてぞ行合に人を知り、史談を聞き取れるありき。奥州は旅久しくして、東山道の武藏堺に至りぬ。この道は古くは田道・田村・源氏の討伐行たる境界たり。坂東に在社多し荒覇吐神、尋ね至るに難儀なく、平將門がこの神に信仰を得たり。耶靡堆蘇我氏、此の古社に國記・天皇記を秘たりと傳へあり。朝族は挙げて探求しけり。吾が道の陸奥にぞ續く邑辺にも荒覇吐神はありける。

久遠の世に一瞬の命を五十年に過ぎ、今年をして六十七を越ゆ。黄泉の道は知らねど、怖しくもなし。生死の轉生、人師・論師は巧にぞ見て来る如く説きけるも、我れ邪心の故にか信ずるに足らん。丑寅日本史は宇宙の創りを説きけるは天文の知覚に長じたる學證の故なり。神を創む信仰の哲理また然なり。故以て史證何をか以て證を旨とせり。

文政二年五月一日
和田長三郎

了言

此の書は玉石混合の綴書なれども、私考にして記筆なし。想いは、永き日月なり。安倍の縁者また諸々に多く、綴を一挙に得る多し。

旅の雨風は吾が旅行を留むありきの日を以て、旅籠に書くも悦こばしく、道は果しなく遠けれど我、難儀と思ふ事なかりき。歴史は實偽のくどければ、更に續に胸跳らむるなり。
右、老婆心乍ら此の一筆に了言とす。

右、文化二年六月一日
和田□□□

和田末吉