北斗抄 五


(明治写本)

注言

此の書は他見無用、門外不出とすべし。世の政襲至るまで一巻の失書あるべからず。能く保護仕まつる可。

秋田孝季

諸翁聞取帳

一、

此の國は蝦夷と曰はれ、外なる民卽ち、化外のまつろわざる民と曰ふ意趣を以て今に定説とす。はたせるかな丑寅日本國は、かく定説のまつろわざる民ぞや。古老の談を此の一書に綴り遺し、後世のしるべとせん。

此の國に人の渡りて来たるは十萬年乃至十五萬年前と曰ふ。東日流古事録に曰ふ、吾が丑寅の國は倭國紀元の前に日本國とぞ國號す。世代に國主を立てその累代に於て一系たり。世襲をして氏姓の改むあれども、その血脈は累代を欠く事なかりき。

丑寅の國その三方に海を國の道とて、山靼に交流し西域の智覚を流入せしめ、その歸化せる山靼民をも併せたる累血に、我等の人祖とて今に正傳せり。もとより人祖は、西より山靼に至り現に住國風土に民族を諸々に住分、それぞれに一族の傳統を今に遺し國土を護り、また新天地に安住を求めて移住を世界に分布せり。山靼とは亞細亞北域を曰ふ意なり。

山靼とは國境ぞなく、民族の種に非らず、國名に非らず。諸族を一統見解にせる稱なり。山靼に至るは、サハリイ海道・満達海道あり。羽の湊より出航しサハリイに向ふは、東日流十三湊より出づるなり。古代よりクリルタイと曰ふ民族の集合ありて、互に國情を報じ、商ふ品ぞ求む市をなして物交せり。ナアダムたる集いあるも、それぞ部族のものに多族加はるも自在たり。モンゴル・アルタイの民は常にナアダムに集ふなり。吾が丑寅日本國にては市あるクリルタイに出向のみなり。

満達そしてサハリイ、その益ぞ多かりし。一丈餘になる氷埋の古象牙・虎皮・豹皮・羊皮の珍品に吾が國にては海獣になる猟虎・狐の黒毛皮など山靼諸族の欲する珍品たり。モンゴル族は肉を寒干せるホルツ・馬乳酒を商ふに、吾が國よりは海産の干物・コンブ・鱈干他の干物のみを商いり。是ぞ、大いに好まれたり。漬魚にては鱒・鮭らありぬ。またシグサとて藻を干物せるも同じく好まれたり。何れも多年の保つを要するもの好まれたり。されば古代交流は如何に信じ得ざれど、従来古事と変らざると曰ふ。

山靼にては三萬年前より人葬ありぬ。女神蛇なるハバキ神なり。亦信仰あり、古代シュメイル國のアラハバキ神・ルガル神、ギリシャのオリンポス山十二神・宇宙創造のカオス神、モンゴルにてはブルハン神。各々、信仰選神は自在にして古代はなれり。吾が國の入れたるはアラハバキ神なり。宇宙天なる一切・大地なる陸上一切・海なる水の一切。是を併せし神ぞ全能の神通ありと、今も存續す。

二、

東北白川を一歩入れば、蝦夷地と曰ふ卑しみを歴史に想しむ。さればいかで、此の國も民もかく遺さるや。これぞ倭史の編作に依れるものなり。

此の國は倭の皇紀元前に日本國たる國號を稱して、坂東を併せたる國の誕生と國主を立位せし宣國の事は支那唐書に記逑ありきも、山靼諸族に於てはその以前に知らるところなり。更にのぼりての世にぞ山靼より人祖の渡来せるは古くは十五萬年、降りては十萬年前の事なり。狩猟・魚漁・採集より農に耕作を創めたるは三千年前にあり。語部録に傳ふる如く、語印にぞ遺りたる證なり。されば如何以て數ふたる證ありや。その答ヘぞ易きなり。

古人は能く宇宙の運行を見つる風、是あり。一年にめぐる日輪の黄道に変る四季を既に覚りたり。日輪の赤道をめぐる南北の黄道。それなる黄道の交はる春分・秋分を通じて、宇宙の運行にあらはる星座あり。十二星座のめぐるを一年に、月輪の満月・欠月の回天を十二回を一年とし、天空に十二星座を四季に十二回を數ふ他、北斗の七星を大熊と更に小熊の七星、その尾に當れるは北極星にして不動なれば、是を春夏秋冬に四回の廻天に留むれば右巴・左巴と相成るを能く見つめたり。

かくあるを、古代丑寅の人々ぞ月触・日触の至るを宇宙年とし、語印に記し遺せり。依て人の多年に相渡るを宇宙年にて數ふれば、千萬に過ぐるとも過却をあやまりぞなく的中せしものなり。古人たりとて驚くべき智覚たり。

三、

吾が丑寅の國を日本國と國號せるその要は、千島なるエトロフの島に神威嶽ありてその島なるエカシ、閉伊に魹皮舟にて漂着せり。その上陸せし崎を今に魹崎と曰ふ。
エカシの曰く、

吾はカムイの風にてこの地に至る。吾が國島は日輪の出づること朝早き處にて、その日の出を拝す山をカムイホノリと曰ふ。然るに此の國に至りては、吾れ漂着せる崎こそ日の出の刻ぞ他處より速き處なり。依てこの國、日本國と稱すべし、

と安日彦王にすゝめたりと曰ふ。このエカシの名ぞオモエとぞ稱し、今にしてその名を遺しぬ。エカシオモエが住にし跡にアラハバキ神社、今に遺りける。またこのエカシが故郷に愢びて登り東北の海の方を眺望せし山を十二神山と號けたるは、エカシの遺言たり。

一年は十二の神に依りて四季は移るなり。依てこの山は十二神山と號くべし、とて常に曰ふまま十二神山と今に遺れり。吾が丑寅の國日本と國號に基せしは、千島エトロフの神威嶽なるエカシオモエの進言に依れるを知るべし。

四、

奥州・羽州・坂東・越州・渡島・千島・流鬼。丑寅日本國の民族併合建國になる國土たり。凡そ二千年前マツオマナイに於て山靼族六十八族集いたり。

吾が丑寅にては三十七人の長老等、挙て山靼の族長等を迎ひて市をなせり。諸族の地産品ただ驚くばかりなるも、吾が國の猟虎の毛皮にぞ、持參品惜しげぞなく物交に量を積なせり。以来、山靼諸族のアムルクリルタイに赴く日本の商人を、その民族に依りて種々異にして呼びたり。ヂパン・チパン・ツカロ・ツカリ・ツパングなど。山靼の部族に依りて様々雑多に呼稱せり。甚々日本と曰ふ語音に異なせるも渡島・千島の民は奥州・羽州をチュプカルと曰ふ。是れ東日流を曰ふことなれど、日本とは彼の部族に言葉にいでざるなり。

通稱丑寅日本域にある住民らこぞりて曰ふは日髙見・日の國・日之本、かく三稱されたり。それなる名残ぞ川の名に遺れり。例へば北上川なる付名に日川・日髙見川と過却に稱さるありきを知る人ぞ知るなり。また東海を日本海、西海を山靼海と稱したるは古稱なり。更には渡島を日髙と稱したるも然なり。

五、

安日彦王を日本國主一世とせしより丑寅日本國の各處に還居の跡ありて、今に名残りぬ。東日流にては三輪邑・大根子、荷薩體には安日、秋田にては仙北、和賀にては日田、陸前にては宮澤・来朝、羽前にては津留丘・大江、岩城にては會津、磐城にては夏井、坂東にては武藏・相模・永川らに残影遺りぬ。

丑寅日本國にては一王ならず五王を立君せしめ、國の要處に配しぬ。中央王居を要として、國領東西南北に各四王居を以て配したり。四王の王居ありき處ぞ必ず以て荒覇吐神社、遺りぬ。五王の政も永續せざるは、大根子王が倭に走りて歸らざるに依りて茲に五王を解き、中央王を以て日本將軍と改め一國一主に定まりぬ。

四王の立君は各長老に選ばれて成り、五王に奉り、中央王居のみぞ安日彦王以来その子孫に累代せしを建國以来の治政とせしも、五王となりて倭境に在居せし根子彦王が倭衆に奉られ五王を放位し倭王となりける故に五王を廢し、一國一主の政に改めたるものなり。日本將軍とて立君せしは安倍安國なり。舊末の治政一切を改め、挙國一致日本將軍の宣に依りて采配せり。

六、

代々丑寅日本國は倭國との攻防、幾多にも起りぬ。地領を越州・坂東を侵領に得て、白川を境としその東北を丑寅の國とて、倭國は日本國とて國稱せり。依て丑寅日本國は蝦夷とぞ倭稱にて名付られたり。

かく侵領を楯なめて、更にその奥州を掌据せんと上毛野田道、これに討伐行を奥州に挙兵し侵領せるも、伊治水門にて日本將軍に總勢誅されたり。田道氏は斬首され、伊治の湖畔にさらされたり。鴉についばるるあとぞそのどくろは行方知られず。地人の曰ふ、どくろはちつのこ噛喰ひりと傳ふ。

是れ倭人は曰ふ、上毛野田道墓、蝦夷にあばかれ龍となりて襲ふとぞ風説せり。伊治の水門とは、今になる伊治あたりと曰ふ。その實在今にさだかならず。倭史また然なりき。

七、

東北、今にして蝦夷地とぞ賎しむるも、かく貧境にせしは倭人の侵領以来の事なるを知るべし。蝦夷は三種ありとて、麁蝦夷・熟蝦夷加へて赤蝦夷たるをも、丑寅日本の混合民と意識す。

然るにその實を挙ぐれば、渡島以北住の民を赤蝦夷と曰ふ。麁蝦夷とは東方にして、熟蝦夷とは西に住分ける民を曰ふ。是れぞ倭人のみの見當にして、丑寅日本國にては何事の別なし。北國民、睦みこそ生々の一義とし一汁一菜も分つべく情ありてこそ、冬寒に越す民族の調和ありき。

人命ぞ神にあたへらる尊重すべきものとし、殺生また自殺を戒しむ掟あり。やむを得ざる戦にても利ありて攻め、不利とみて退ぞき、老人・女人・童らの安住に離してぞ戦時なる習ひなり。亦、討死を決して死守せるもなく、傷付くものは退かしめたるに、倭人は是れに乘じて皆滅の敗北をせるあり。益々以て怖れ、蝦夷を鬼面にして今に遺す繪物ありけるなり。

八、

北魏の明元帝・泰常己未年、丑寅日本國主は安東將軍とて賜稱されたり。爾来、太武帝・神應庚午年、先代を継ぎける丑寅日本國主に安東大將軍とて賜授され、同帝の大平眞君庚辰年、安東日本將軍。同帝の正平辛卯年、次代に安東日本大將軍を賜授さるるなり。文成帝の和平甲辰年、安東將軍とて次代に賜授さるるも何事の交益なきゆい山靼のみなる國交に改めぬ。

是れ荒覇吐五王各々賜授になるに、安東五王とぞ稱されし遺史なり。丑寅日本國にて支那になる王國と交はれる創なり。この間四十六年にして、荒覇吐五王の廢政と相成りぬ。山靼と交はるは王國に非らず。商人の市になりせば渡島・東日流・秋田・最上・能登なる湊濱の交易しこぶるその往来を航したり。
語部録に曰く、

是の如く、その益を得たる事を證せるなり。然れども倭侵起りて、山靼より馬を入れにし始めにて、鐡をも討物入れたり。

九、

築紫の國に宇佐大神・大元大神あり。是れ出雲大神の還宮と曰ふ。出雲の宮はもと荒覇吐神なれど、倭神を入りにして現處に移せしものなりと曰ふ。

古になる風習ありて遺しは荒覇吐神に拝す拝禮にて三禮四拍一禮なる荒覇吐神拝禮に、三禮ならず二禮を為す他、四拍一禮は同じなり。もとなる荒覇叶神は門神とて、内宮を外にいだし遺れり。築紫にては三奥殿は多賀城荒覇吐三殿とせるも、内神異なりぬ。

かくある如く丑寅日本にありき天地水の神・荒覇吐神の古代流布は、築紫までも至りき證を今に遺りぬ。築紫の古老に尋ぬれば、太古にヒミカと曰ふ靈媒巫女ありて、丑寅の神・天地水の神を魏にて使者の傳に聞きけるに、それ出雲に在りとて還神なし、宇佐に陰宮・大元に陽宮を建立せしめ、丑寅日本國より伊陀乎と曰ふ巫女を招じ、倶に還宮の神事を行ぜりと曰ふなり。

亦、丑寅語部印を習ひて、人住むる處に岩彫りて宣すと曰ふ。それなる證あり。宇佐大元あたりに語印の彫遺りしありて解讀ならざるも、地人是を神託文字とて神社各處に見らるなり。荒覇吐神餘煙ぞ明白なり。

十、

安倍氏その縁りの血累を六十餘州に遺りぬと曰ふ。世に安倍・安部・安東・安藤・秋田を主姓としたるより諸氏多採に遺れる丑寅日本將軍の累族ありぬ。白髭水にて十三湊の廢湊以来、安東船の船方衆の諸國に移り住みぬ。

亦、のぶせりとなりし者・他藩仕官の者・商人となりし者の數々は、古代安倍氏の歴史を秘めにして黙息に生々を累代す。なかんずく安東・安藤を氏せるもの多きは、安東船の諸國留住に依れる多し。瀬戸内堺・肥前松浦・若狹小濱・築紫國東・南海道。これ倭國安東と稱し、子孫に安倍氏流胤なるを密とせり。

安東・安藤氏を今に氏姓せるものに告ぐ。浂らこそ日本國の正族なりとて能く丑寅日本の祖國なる累血にあるを覚つおくべし。必ず以て、夢幻の倭史に惑はされざる心に銘じ置くべし。

山靼に人祖の渡りを想ひて、彼の國諸族と睦みて國運隆盛ありと信じべきなり。亦、國内にても一族近遠縁を問はず能く交り、自在ある日まで忍ぶべし。

十一、

茲に世に知られざる東日流に石塔山荒覇吐神社あり。千古の原生に適繁せるあすなろの大森林。その深山幽湲の山中連𡶶に遺る石塔山荒覇吐神社こそ、丑寅日本國創立國主の卽位をなしたる靈山なり。

苔むす人築の石神。役小角・安倍一族の遺跡にさかのぼり、山靼渡来の先住民なるアソベ族・ツボケ族の神、イシカカムイ・ホノリカムイ・ガコカムイの聖地たり。是れ古代なる信仰、宇宙の一切・北斗星・日輪・月光満欠、その運行せるをイシカ天なる神とし、吾らが住むる大地の一切をホノリカムイと、春夏秋冬萬物の生死をなせる天然一切をホノリカムイとて崇拝せり。

大地に海・湖・沼・池・川を為せる水の一切。是をガコカムイとて信仰せるは、石神にその靈を祀る。石を塔に積みて、神靈の天降る處と能く山頂に遺跡ありぬ。古代信仰に於てはコタンそしてチセに至る神を祀るヌササンあり。イオマンテ・イチヤルバにイナウを以て神請し、フッタレチュイの舞ぞ捧ぐなり。

十二、

羽陸の民、そのくらしに衣食住の異るありき。海産にては漁魚の相違ぞ、類に異る味覚あり。陸にては稻と稗、主食に量産ぞ異なりぬ。その二なる、衣また毛皮と織布。その三なるは、住居にて合掌曲屋・寄棟の相違あり。

降雪の風土にて異りぬ。東と西そして北になる國領にて、その流通を以て相調和せり。古来よりベコの道・シオの道・ダンツゲ道・ヤマゴ道・タダラ道・畑道・田道・村道・林道・湯治道・長手道・磯道・山道・濱道・澤道・驛大道・追分道・市商道・川添道などあり。如何なる小村・小部落とて至らざる道ぞなかりき。

丑寅日本國に古来せる道に雪落の道とは倭人の隠遁や落武者・乞食・罪人らの陸羽落人を曰ふ。秘なる道あり。幾百年も人に知られざる道あり。東日流中山なる荒覇吐神社への道なり。澤を道として、道を造らざる道なり。

金藏洞への道も然りなり。また護るべき鳥獸の生棲せる山など、その地名に名付くは鬼首・魔神山など今に尚、稱さるありき。安倍一族の祖来は、墓地を秘とせるあり。その埋葬せるは、東日流石塔山なり。依て石塔山と稱せる山稱、今に遺りたるなり。とかく陸羽の民は墓を秘とせるは、祖来の傳統に習ふなり。依て丑寅日本國主たるの墓跡ぞ謎なり。

十三、

陸羽かしこに神社佛閣をして目にふるるは役小角行者の像なり。役小角行者とは、倭國葛城上郡茅原の生なり。氏は髙加茂役公にて母須惠と曰ふ。父は田村皇子と傳ふ。

幼少の頃より神道・佛道をして相爭ふ信仰を忌み、獨り山岳に道を求め、諸行に信仰の眞理を感得せんとし法喜菩薩・金剛藏王權現を感得す。役小角が感得せる法喜菩薩及び金剛藏王をして佛教史にも非らず。また神道にも非らず。依て役小角こぞりて目安せる神佛道の訴奏に依りて、伊豆に流罪となりぬ。

大寶元年赦されけるも役小角、望みて支那に渡らんと欲し、肥前平戸松浦より出國せしも玄界灘にて暴風に遭遇し、若狹の小濱に漂着し、風聞に丑寅日本國に荒覇吐神信仰あるを知りける。

依て奥州に陸路を、門弟十二人倶に求道の志を改め、垂地金剛藏王權現の本地を求め、その感得を為すべく旅程を丑寅に歩を急ぎたり。東日流に来たり。荒覇吐神社にその聖地・中山石塔山に入峯す。役小角、此の社を正念地とし、茲に本地金剛不壊摩訶如来を感得し、今に至りぬを遺す。

十四、

濤々萬里の流れに盡きる黒龍江の水戸。冬至りては凍氷を海流にその流を氷流に化し、渡島なる崇谷より東に長き北濱を奇氷にて閉す。極寒きわまる北海、それに生々せる住民。これなる流氷と倶に来たる海幸、氷下魚群。それを餌とせる魹・ラッコ・鷲の群。北住民なる冬越の餌糧にして、北斗の惠なり。代々にしてサハリイと往来し、更に山靼への往来にその生々を交はりて、今に子孫遺りぬ。

天に仰ぐる七星、大熊・小熊の座に北斗魁ありて、カムイとぞ崇む。エカシオテナは神司、是ある祭事にカムイノミに踊る衆。吾が丑寅日本民の往古、今に見るが如し。サハリイは島にして樺太または流鬼國と曰ふ。

山靼とは、眼鼻に近く常に産物流通の市に益商し、西大國の人族さながら相まみゆ市にして、吾が丑寅日本國の民またいでむけり。西大國にては國々陸境し常に戦多く、吾が國に遁世歸化せる多し。紅毛青眼の男女、地民これを山靼鬼族と稱したるも、生々の便を秀にして、いつか以てコタン住ひを倶にせり。語部印ぞ、彼の民なる考案なりき。

十五、

淨土宗法然上人の門僧・金光坊圓證は、もと築紫國・長安寺國平の子なりしも、三才の時、宿敵・當道朝臣及麿の攻めに敗れ四散し、一子・日輪丸を石垣觀音堂の寺住にあずけ置きしを及麿、子授祈願にまかり日輪丸を吾が養子とてつれゆき現若丸と改めて成長せり。現若丸、何事の因果ぞや、敵手に養育さるまま成人となりしを、長安時國平、再興し、當道及麿と對戦しけるも長安寺、再度び敗北せり。國平、落道にて現若丸と遭遇し現若丸、實父と知る由もなく國平を討取りぬ。

而して後、石垣觀音當寺住・清覚律師より事の實相を聞かされ、涙泣せり。依て一心佛門に發起し、京師叡山に入道し惠光上人に學びて法住寺殿の僧と成り、金光坊圓證阿闍梨を賜り、築紫勅願道場・石垣觀音寺に住職せり。時に、地豪・緒方三郎あり。寺境を侵して築舘せるが故に金光坊、鎌倉に赴きて緒方三郎の横暴を訴人せり。時に鎌倉・若宮大路にて辻説法せる淨土宗鹿ヶ谷の法然房なる門徒僧・安樂坊なる説法に感ぜり。
卽ち安樂坊の辻説法に曰く、

南無阿弥陀佛と曰すは。乃至十念の稱名のみにて二尊の平等攝取に救済され、末法のなかに往生極楽を得ん。これ念佛の果報にして善人の善より、惡人悔にし善行、善人の善より尚固しとて、吾が師・法然の曰す要言なり。依て心に生老病死の四苦諦、惡人尚善人をや、善人尚惡人をや。發願せる者は平等攝取、二尊の救済に安心立命す。唯一向に念佛稱名のみにて往生極楽に心身を果すべし。
いざ、御衆よ。聲髙らかに乃至十念弥陀の稱名を唱ふべし。南無阿弥陀佛、南無觀世音菩薩、南無勢至菩薩、光明無辺誓願度佛果平等大攝取本願大成極楽世界念佛。

かくの如き平等攝取の救済こそ未法に獨明せる救済なりとて、阿闍梨を脱位し石垣觀音寺別當職をも辭して、安楽坊に従へて京師鹿ヶ谷なる法然坊源空の佛弟子と相成りぬ。金光坊、聖光坊と相肩せる法然坊の継僧とて金光坊、奥州に念佛を流布の為に巡脚す。承元戊辰年より眞似牛・遠野善明寺・生保内石尊寺・秋田金光堂・外濱阿弥陀川堂・上磯の湊迎寺・桑畑の淨縁寺・飯積の大泉寺・藤崎の施主堂・行丘の西迎院。その法跡、今に遺りぬ。建保丁丑年三月二十五日、金光坊が東日流行丘北中野に入寂し、その墓現存す。金光坊が布教時の童唄ぞ、今に遺りき。

〽六尺三寸・四十貫、
  人より三倍賢くて、
  人より三倍力持、
 阿呆ぢやかろに、ものもらひ
 朝から晩まで、
  南無阿弥陀佛、
  やれ南無阿弥陀佛、
 しらみ衣の金光坊

東日流の地にぞ、今も遺りき。

十六、

東日流に末法念佛獨明抄と曰ふ救済の佛講ありける。行丘に甲野七衛門と曰ふ地頭あり。金光坊の滅後、西迎院を建立し承久庚辰年八月二十五日落慶す。是れ藤崎城・安東貞秀の献立になるものなり。金光坊、建保庚辰年三月二十五日入寂以来四年目にして、金光坊なる遺言を果せり。

金光坊、甲野七衛門に託せしは末法念佛獨明抄なり。全三巻にして生死自得覚、次に本願九品改悟、次に平等攝取不捨。この三編にして是を總じて末法念佛獨明抄と曰ふ。是を簡釋せば次の如く金光坊が獨自の求道法典なり。

一、生死自得覚

佛説に曰く、
諸行無常 是生滅法
生滅滅己 寂滅為楽
是ぞ四苦諦なり。生を世に授けてより日進月歩、唯滅への進みにして、昨日を還すを能はざるなり。是れ卽ち生死にして、生々いかなる諸行諸法に求道せども、死への運命は日一刻とて休むるなし。人の信仰、死に怖れ、薬醫に身命を延さむと欲するも、死への刻限を延ぶること能はず。老若常に心轉倒す。信仰をして論師・占師に導かるとも、何をか以て得る事ありけんや。

生死は自得の他に苦悶ぞ脱す事能はざるなり。自得とは生死流轉の理を自心と自身に己れを覚り、入滅への不時に訪れるを苦悶せず、死に赴くは新生への死過門とてその哲理を悟ること道なり。如何なる佛門とて自力の身心、他力の身心異ならずして、入滅のみぞ自身心に至るものなれば、何事を信仰せど死過門にぞ特便なかりけりと覚れ。

二、本願九品改悟

佛の平等攝取ならば下品下生・下品中生・下品上生・中品下生・中品中生・中品上生・上品下生・上品中生・上品上生の階ぞ無用なり。戒名、また然りなり。神佛は人の上に人を造らず、人の下に人を造ることなかりき。平等は等しく萬物のものなれど、生々にその生命を生々の餌食に連鎖ありける。是の故に、萬物生々の調和ありぬ。

世の法則は人をして特惠なかりきは、年をして凶作・天災・地災・水災。是ぞ飢死・疫死・災死を背合せたる人世生々なりき。子孫を護るべくは萬物いづれにても才ありぬ。強きは少種にして弱きは多移殖多種なり。依て人こそ智に以て生々し、他生を殺生することまさに萬物の法則を抜く程に、地を枯し海を濁らし、生々無益に殺生せるは人なり。人をして階を造り權を以て生命を下敷く戦を相起して死傷す。まさに平等を欠き、人の生々にも階級を以て人を制ふるは、信仰に以て無用なり。

三、平等攝取不捨

世に世尊生れて、世に佛法流さるるとも、その先なる世に秀なる信仰のありきを知るべし。丑寅日本國に古来遺りし荒覇吐神なり。生々に遭ふ者皆神にして、生あるものに罪なきものなかりけりと説き、一日を生々せるに朝・昼・夕の三食ぞみなながら生命殺生にありぬ。

依て一日に生きる己が一命を存續せるは、萬物の生命を糧とせる己が罪を先づ以て神に祈るとこそ信仰の鏡たり。佛法をはるかに越ゆ法則に信仰を以て、自然なる一切アラハバキ神こそ心に以て、平等攝取とは神ならず佛ならず、己が心にぞありけるとぞ末法念佛獨明抄、世に遺し置きぬ。平等攝取とは人の心に神佛に交りて行ふは人なりと。

十七

アルタイのブルガル族・モンゴルのブリヤアト族・サハリイのウデゲ族らに傳達さるる商易を馬道商と曰ふ。シキタイ族・トルコのカザフ族を駱駝道商と曰ふはクリルタイなる通用語たり。多族になるクリルタイの道ぞチンギスハンのモンゴル支配そして征討の道ともなりけるも、商人を掠むるはなかりき。

イスラムの商人、西大國諸國に渡りけるも、クリルタイに招くはなかりき。なかんずくチンギスハンの代にてはクリルタイを私にしてイスラムの商人、支那に市を求む多し。モンゴル族は銀を頂寶とし、寶玉など好まざるなり。

丑寅よりクリルタイにまかりけるは安東一族にして、フビライハンの代にベニスの商人マルコポオロ召されて揚州の知事たれば、元軍築紫を攻にし國交和に欠く倭朝幕府断絶たるときとて、安東船は揚州に交易を絶したるときぞなかりける。依て南船に船航を天竺に至らしむもマルコポオロの添状ありて果せりとも曰ふなり。

抑々丑寅日本に今に遺れるフビライハン・マルコポオロの像ありて拝さるるはその通商に、倭と断絶あるとも安東船を入れその益をもたらせる他に陸羽凶作に惜げなき米の援けを得たる故なりとも曰ふ。

十八、

凡そ倭の王、天皇氏その一族に春日氏、次に和珥氏・葛城氏・阿毎氏・蘇我氏・巨勢氏・平群氏・紀氏・物部氏・大伴氏等、倭王の髙御倉に王位を相継ぐにしのぎをけづりぬ。倭傳の史になるは、天皇氏を以て神代に累代せるは天皇氏とし、その祖は日向髙千穂山に髙天原より降臨せる神の天孫よりの一系とせり。

然るに髙天原とは天にあろうべくはなし。伊冊奈岐二尊が天の浮橋に立って鉾にて下界をかきめぐらせ、揚げたる鉾先より雫のしたたりが八州となり、扶桑の國とて國を修理成し、瑞穂國と治むるべく神勅のもとに、天皇氏は萬世を一系とせる歴史の構成たるやこの倭國を牛耳る諸氏それぞれに王朝はたらいまわしされたるは史實にして、倭國の天皇とはその馬脚を露呈せる故、天皇記及び國記の行方は、丑寅日本國の先つ國の歴史ぞ蝦夷たるべくを曰はれざる史實に記逑ありければ、その國記・天皇記を所持せる蘇我氏を大化乙巳年、甘橿丘に蘇我氏を圍みて灾り、先陣せる船史惠尺この両記を取出さんとせるも蘇我蝦夷既に死し、その文庫はもぬけの空にして両記は無かりきなり。

蘇我蝦夷、是事あるを先つ案じ、坂東武藏の荒覇吐神社に秘藏せり。かくては世降り、この天皇記・國記を平將門發見、讀みし後神皇とて宣したるも、事の重大さを知りき倭朝は、將門誅滅に總挙し將門を討取りぬ。然るに將門、何處に両記を秘せるや今に知る由もなかりき。

十九

タアヘルアナトミア。前野良澤がこの和蘭陀書を翻譯せるも、人體手術に用ふ麻庫薬製法を本草學の菅江眞澄より聞取りをせんとて髙山彦九郎に賴みたり。髙山彦九郎、坂東上野國新田の生にして新田義貞の臣たる祖先を累代せる豪士の家に生る。亦、本草學の菅江眞澄は河内美原の生なるも志して醫薬・本草學にて奥州に赴き、津輕藩に仕官せしも折につけては史跡を巡りぬ。河内に在りし頃、中津藩士前野良澤と知り合ふたり。

依て彦九郎が伊達藩に林子平に赴くを次いで、津輕の菅江眞澄にその旨を賴みたり。彦九郎引受けるや、奥州への旅は羽州路に白河より米澤・山形・月山・羽黒・鳥海・秋田・大舘・弘前と旅し、菅江氏を尋ぬるも藩邸に留守にて外濱に外出たりせば、菅江氏の留宿せる宇鐡に訪れたり。菅江氏、宿を石塔山荒覇吐神社にて、世襲を語り、社守・和田長三郎、秋田孝季らと語明ぬ。

秋田氏、三春藩命を仕り、古事なる安倍氏の史書綴りに諸國を巡りき二人にて、折よく此の山の祀日にて會したり。彦九郎、菅江氏より本草學の一巻預りて歸りぬ。その道中を倶にせしは秋田氏・和田氏にして三春への參上たり。青森・野辺地・八戸・久慈・玉川・福岡・錦水・盛岡・平泉・仙臺と旅を倶にせり。仙臺にて林子平との出會にては三日を論談に過したりと曰ふ。

二十、

髙山彦九郎・林子平・秋田孝季・和田長三郎の仙臺にての對論を記し置きぬ。
林子平曰く、

丑寅日本國は拙者の著・海國兵談に逑ぶるが如く北はサハリイ・千島、その北に大陸をなせるありきにも朝幕いづれも海の外なる近きサハリイを掌中にせむ國土占領權を世界に閉じ、今やオロシヤ・イギリス・メリケンの北方に船影を出没せしは吾ら奥州の地にありて、起つるべき時にてそも急を要せる次第なり。

秋田孝季曰く、

吾はサハリイこと流鬼島は山靼と眼鼻の近きにありて、古来安東一族の往来ありけるも、その往来を絶せど今にして幕制あり。諸世界の先進を入れず舊来の古習にある限り、叶ふに非らず。

髙山彦九郎曰く、

かるが故に幕政を改め、皇政復古に諸藩の志士を論活せむ要ありぬ。醫學とて先んずれば科と相成り、林殿の海國兵談の事は必ず法秤に障る多し。案じるに、版賣に世論を湧せるは早計なりと拙者の思ふところなり。

子平曰く、

されば、世論を封じ海の外なる國の交易なくば、その智識におくるること今にその海賊行為起りしかば、大銃に弓箭の相違これあり。吾が國はその侵略に國土を失なはん憂あり。

孝季曰く、

依て吾れは老中・田沼意次殿の内命、隠密にて山靼に越えモンゴル・アルタイ・ギリシア・トルコ・ペルシア・シュメイルの國を越えエジプトの地まで萬里の大陸を旅せるに得たる報告も、田沼氏を失脚の因になりければ、公議評定の壁は厚ふ御坐る。

彦九郎曰く、

然りなり。依て皇權の宣を以て謀るべくは必定なり。

和田長三郎曰く、

抑々何事あれ、拙者の思ふところは朝幕何れも古殻を脱得ず、外國交易を断つるも、世界はその開湊を望みてやまざれば、その楯なせる林殿の海國兵談の儀も公認たるを叶ふとも、世界の文明知らざる相違にありせば、甚々危急にして雀鷲の乱を招かんを案ず。

子平曰く、

黙しては、閉を破れず。吾は断固として國の護りを先として為さん。海國兵談に公儀の勇を起さん。

彦九郎曰く、

林殿に案ずるは、おそらく公議の能はざるところなりと思はしむ。異人に接するに睦みを以て為せば睦にて應じ、銃を以て對せば大銃を以て報はれん。弓箭を圧したる銃の流入にて天下戦國の火消に至る武力の因は、異人の種島に傳へしものなり。既にして船をして帆に替りて蒸気船を用ふると曰ふ異土に、和を以て彼の國なる文明を入るこそ國益に利ありと存じ仕る。

彦九郎ママ曰く、

然りなり。武士道を以てなせるは時代におぞましき行為なるも、吾が國風に欠くならざる魂の持方絶するを能はざるなり。雀鷲乍らも、國防に林氏の論も理あり。何事も何をか以て起らねば國亡とならん。

孝季曰く、

國を閉じるも開くも、人ぞ仁にして交はるを外交なり。オロシヤは北を、イギリス・メリケンは海を、今は近き清國・朝鮮と。こぞりて外侵を護りける國條を先とし一矢より二矢三矢の楯とおしなべなば、國安からん。依て對岸の火事とて支那・朝鮮を古来の睦國と復交せば、海外國の殖侵あるべくはなかりける。

子平曰く、

なるようになるでは公儀の常なり。いかで世襲を越えんや。

三日に通して論の決解なく、彦九郎は旅立つぬ。秋田氏・和田氏三春に發しあと林子平、江戸出頭を命ぜられ、松平定信の評定にて海國兵談その板木までも召上らるまま、林子平の蟄居と相成れり。

〽親もなく
  妻なく子なく
   板木なし
  金もなけれど
   死にたくもなし

是れ、林子平の心中いかでかやるせなかりけるや察せるに餘りぬ。

二十一、

老中・田沼意次の寛政改新をなさしめたるは天明の大飢饉ぞさり乍ら、古来に士風なる武家の貧窮にありける。諸藩大名にても富商に便りて金策し、その家臣とて家寶のたぐいを賣却せる竹の子生々にして急乏せり。

依て田沼意次、陸奥金山その古事になりける安倍一族の前九年の役にて一片の金塊も収得せざる源氏の古事に、安倍氏の流胤にて三春藩あり。天明の大火にて城下ことごとく焼失せる復興金を一時借入仕るも、翌年をして返済し、急速なる復活にぞ古来なる安倍氏の藏金ありとて、秋田氏に審せど何事の不審ぞ見當らず。隠密をして秋田孝季・和田長三郎両人の諸國の史跡、安倍氏に縁るを巡脚せしを知りぬ。

依て両名の渡島往来を松前藩に審しければ、秋田・和田氏の渡島往来は古事をアイヌのエカシに聞き書し山靼語八十七族の聞取とぞ聞きにして、幕命とて両氏を江戸城内・田沼意次のもとに召されたり。田沼氏は松平定信と倶に謀り、両者を山靼諸國の國情を探らしむとともに通商、松前藩をしてこの両者を山靼巡禮と稱しめ、密なれど公議公認のもとその費一切を公費に以て旅にいだしめり。

時の幕政とは歸農令・異學禁令・棄捐令を主意見とせる諸公と田沼氏の新田開拓・丑寅日本奥國及び渡島開拓を以て國益を謀らんとせるたてまえに、隠密山師をして陸羽に遣し安倍が金藏の秘を解かんとす。然かるに、あたら費をなしたる安倍秘寶探しも空しく、天下に續く天害・飢饉卽ち天明の凶作・官人の富商と暗献金・百姓一揆ら惡因となり、更には秋田孝季の山靼巡廻報告を得てはオロシヤの北征など。

意次、遂に失脚す。その故に三春藩をして秋田孝季及び和田長三郎を浪人とて藩籍に無きとせり。次いでは、林子平氏の贄居。髙山彦九郎、博多にて謎なる死。菅江眞澄もまた津輕藩に解役と相成れり。然るに秋田孝季・和田長三郎らの山靼禮拝に得たるは太古を知れる史編となりけるも、三春藩にてはその一切を城納とせず。

その間にて秋田孝季の住居せる土崎日和山邸は何者の手にか灾られ、三十五年に渡る編書ことごとく焼失せり。遺るは長三郎が控へたる雑記のみにて、失ふ本編ぞ惜しき。依て安倍一族の秘ぞ、今にして門外不出たる和田家の他、世にあるまずくも、和田家とて富ならず。いつまでぞ保たん。

二十二、

上磯をめぐり、金井に吹浦に安藤の史跡を巡脚す。古事にして安東船の寄湊邑にて、十三湊に相睦ぶる湊なり。

南部氏に落ちたる東日流大里も荒芒とし葦原繁るままにて、主は秋田に渡島に新天地を拓きて、主系は東軍大名とて今に遺れるも知行の地は宍戸・三春へと海濱なき地領に封ぜられたり。事の起りになるは伊達政宗のサンパプチスタ船の秋田藩船大工の大船造岐術を封ぜしむ故因なり。関ヶ原參陣なきとて秋田實季を朝熊に贄居せしめ、松平重任の策たりと曰ふ。

〽おぞましや
  朝熊の霞
   晴るるなく
  ただうんしよう
   死期に暮すは

〽羽賀寺に
  己れにありし
   鎧おば
  佛に献じ
   何ぞあらしも

〽うつゝにや
  夢にいでこす
   秋田海
  そのまた彼方
   山靼恋し

〽われはしも
  日之本國の
   主を継ぎ
  身の果今は
   朝熊月影

〽吾が遺子の
  住むる三春は
   知らねども
  海のあらでは
   便りも待たず

〽許をいだし
  忠輝ともに
   伊勢參る
  五鈴の川に
   憂流しぬ

〽東日流方
  朝な夕なに
   遠き祖
  拝みて屆く
   想いぞこめて

〽衣川
  若きに渡る
   想出も
  吾が日之本の
   遺す山川

秋田實季が遺せし歌なり。伊達政宗と松島に船宴し、牡蠣鍋・海蛸を肴にサンフアンパプチスタ號の造船工を北浦・能代・土崎より援じたる實季殿。今に想ひば一生の間に得られざる世界を渡りき創めたり。山口与一に託せし三十人の秋田藩士。ノビスパンヤに置去り七年間、古代マヤ遺跡の探究・摩耶誌十巻。

是れを、西エジプト山靼奥にありければ、東マヤに亦金字塔ありきを知るは秋田藩士のみとて、語る者あり。評定に論あり。忠輝所持に付、元和二年家康の滅後その六男・忠輝を改易し、政宗の息女五郎八姫離縁さるるを、政宗ぢたんだ踏にして激怒せりと曰ふ。追って秋田實季を贄居せしむは、幕府をして伊達氏・秋田氏を牽制せる策たり。

二十三、

〽山吹の
  華にも似たる
   將門の
  遺姫はねぶる
   生保内の郷

仙北生保内に遺る、古歌ありける。

歌の主たる姫とは平將門の息女にして名、楓と曰ふなり。將門の室、瀧夜叉姫とは後の付名にて辰姫または辰子姫と曰ふ。天慶の乱に落着せし生郷の生保内石尊寺にて將門の遺子・楓姫を産り。楓姫、離乳せしより體病弱にして生死相さまよう程の病に添女松蟲、邑なる太郎權現に三七・二十一日の願とその山湧きの水に水行せり。満願の日に白髪の仙人、白霞と倶に現れ告げて曰く、

われは辰湖の神・青龍大權現なり。願望の姫を救ひたくば母御なる辰子を彼の湖底なる辰宮に參らせよ。然りて全癒せん。參宮は満月の丑満に參宮せよ。

とて相ぞ消えたり。松蟲、この神託を主なる辰子に曰ひがたくただ嘆息しけるに辰子、審し聞きぬ。事の始終を聞取りし辰子、神の意に従ふるるは此の月の十五夜と決め、白衣にて愛姫・楓の寝顔に大粒の涙ひとひら、ふたひらと落涙せり。目を覚しける楓姫。なぜか泣きもせず、もみずの如き掌を母な辰子の指を掴みて、笑ひたり。

楓よ、はよう大きくなりてたもれ。浂れ父は、神皇將門ぞ。母者は今宵、辰湖にまかりて辰宮に參りては、歸るもならず。浂れために今上を別れなむ。松蟲よ、楓の末を能く見てたもれ。

かく言い遺して辰湖に赴きて、歸らざるなり。爾来、楓姫すこやかに育み、生保内の山吹とぞその美しさ、華にぞ喩はれたり。降る程に縁談ありけるも、なぜなるか楓姫これを断りぬ。その聞え京師に風聞及び、御門の勅使ぞまかり越せるも何事の返答無かりきに、その使者に目安せる者あり。彼の姫こそ國賊・平將門の息女なり、と訴人せり。依て坂東の藤原秀郷は防人を卆いて、生保内に楓姫を捕ふに赴きぬ。
時に楓姫曰く、

妾は丑寅日本將軍の累血になる安倍辰子を母に、坂東の神皇・平將門を父に生れし楓なり。捕はれて父母の悲を招くより、手向へ奉り討死を以て父母のもとに參り逝らん。

とて薙刀振り、たちまち捕手六人を斬り、柄の折れつれば、斧を振りて更に捕手三人を討ぬ。女人故松蟲既に討たれければ楓姫、懐剣にて心の臓を一突、十七歳の花の命は散りにける。折しもその死處に山吹の花らんまんと咲きにけるに、楓姫の骸に落花の舞ふを郷人ただ涙泣し、生保内郷に辰湖に至る道に姫塚を盛りて、今も遺りぬ。此の塚に白蛇ときに現れ、参詣せるに見たるもの福寿となり病難・罪障須く退散すと曰ふ。今にして生保内の善男・善女參りて、縁組また子授けの塚とて參詣の絶ゆなかりきなり。

〽姫塚の
  白靈蛇に
   巻かるとも
  怖るる勿れ
   幸はせの兆

是ぞ史實にして、疑ふる勿れ。若し是を邪言せる者、罪ありぬ。

二十四、

仙岩峠を西に降る澤の岩間より湧く泉あり。地人是をカムイの泉とて汲にける風、是ありぬ。病にありき者、この泉な水を汲みて薬湯飲みにして治らざる病なかりき効あり。亦、泉の辺に生ゆ薬草多く、地人能く採せり。

おうれん草・かたくり草・みみがたてんなんしょう・ひとつばてんなんしょう・うらしまそう・にりん草・すみれ草・きらん草・さくら草・くりん草・くさぼけ・こくさぎ・やまかたばみ・くろもず・こぶし・いかり草・かきどうし・りんどう・あまどころ・いぼたのき・あおたも・うわばみ草・すいば・みつば・あけび・にがな・ゆきざさ・おぐるま・いらくさ・おにのやがら・おおばこ・ぬるでひめがま・みそはぎ・うとやまはぎ・くず・またたび・ひよとり草・のきしのぶ・せんぶり・おしだ・山人參草。

かくの如くあり。これぞ採りて萬病の薬草なり。然るに薬草とて、春夏秋冬に時を過ぐればただの草たるべし。生保内の人々、能く薬草をわきまへて各戸の軒に薬草干しを見當りぬ。旅寄りて尋ぬべし。

然に類似たる草に毒草ありければ、心ぞ注しべし。古老は曰ふなり、知らざれば救命の薬草も踏みぬると。生保内に參りなば、先づ以て湯治に赴くべし。いづこにても効あり。湧湯にても井戸水なれば同効なりと曰ふなり。命永らふとせば、覚つべし。

和田末吉