北斗抄 四
(明治写本)
記
此の書は門外不出、他見無用と心得べし。現世にある世襲にては、朝幕藩に障あり。科を蒙むる怖れありて、茲に戒言し置く也。
秋田孝季
奥州今昔抄
一
蒙古の國に立君の一世を卽位せしは大祖帝にして建永元年の事なり。大宗帝・脱烈哥那帝・定宗帝・海迷失帝・憲宗帝・世宗帝と継ぎ、始めて中統と年號せり。時に吾が國の文應元年の事なり。文永元年の頃、至元と改めその八年に國號を元と改め、吾が國の弘安三年に支那全土を元國と稱したり。
此の頃、東日流にては十三湊に安東船、揚州の知事マルコポーロとの契約せし商益にて往来を許され、北の海産物を大いに通商往来せり。マルコポーロとは紅毛國ローマなるベニスの商人たり。大都にてフビライハンの指命に依りて揚州の知事を任命さるまゝ三年を役務せるの間、東日流の安東船を丑寅日本船として契約通商を許せり。依て、安東船は運河を黄河に航し洛陽に至れりと曰ふなり。倭國にては元との通商もなかりるのみならず、元國の世襲に移りたるも朝幕ともに知らざりきと曰ふなり。
奥州の神社及び佛寺に今尚遺れるフビライハンの像そしてマルコポーロの像は何故に存在せしかは元軍、流鬼島に國領をば征せんと六千の兵、黒龍江を下り海峽を渡りて上陸せるも、安東船これに赴き揚州との通商を示し亦、流鬼島は日之本國なるを談判に及ぶれば、元軍皆山靼に退き、その陳謝とて馬八百・兵糧二千五百駄を献じて引退せり。此の年、奥州は凶作にて民飢えにけるも、元軍の賜はりし兵糧にて餓死を蒙むる者なく救済されたり。爾来、奥州の邑々にてはフビライハンとマルコポーロの像を造り祀られたりと曰ふ。
倭に於ては元に攻られ、國難とて怖れおののきたり。安東船はかくあるときも、揚州に往来せり。倭にしては韓人・三別抄の注言にも返状すらせず、元使を断罪しけるに付き、遂には十萬の大軍を挙兵し對馬・壱岐・筑紫に戦端を起せり。然れども天祐は嵐を起し、元軍はことごとく海の藻屑とせしにや、倭人ら是を神風と讃ひたり。
寶暦元年七月十日
伊藤泰介
奥陸今昔抄 二
渡島の奥に冬ぞ至りては極寒立木をも氷割し、湖氷を凍割せる音ぞ不気味なり。流鬼より押寄せし海水、海を閉ぎ風立つ日日を悦ぶや、海氷すり合ひて唸りぬ。
降る雪、異光を放つ。吐息とて眉また髭に凍着し白神、冬將軍を遣して陸海を白銀と化しむなり。此の地に生々せるクリル族ら川に漁し、山に鹿を狩り、海に胡獱や猟虎を射るは、極寒に耐え抜強の獲物を衣とし糧とせる身心の強健を保つが故なり。かく生ざまに於ては流鬼・千島・神威津耶塚及び山靼に住むる民族みな同じなり。
渡島に住みける民は雪氷をも住家とせるあり。狩にいでては雪室を掘りて幾十日の暮しを楽しみぬ。諸獣の毛皮を身に防寒せるは、古来よりそのなめしと皮細工の得手あり。男女を問はず、造りぬ。
享保元年七月三日
本田専之介
奥陸今昔抄 三
渡島に人喰熊、突如と現はる。
雄熊にて女人を襲ひて、二年の間に十八人のメノコ此の熊の餌食となれり。時は天文六年にしてルモイのエカシ、東日流に弓槍の強力・秋月熊五郎に訊ね、此の熊狩を依賴せり。
ルモイのコタンにては来る日々に怖れおののき、はるかエサシに移る者多し。此の人喰熊の人家を襲ふは必ず満月の宵にして、誰か教へたる如く若きメノコの居住せるチセを襲ふなり。エカシは熊除のカムイノミを焚けども何事のききめなく、大挙して狩を挙行せども此の人喰熊に出合ふなく、徒らに多くの熊を射殺したり。是れはホノリカムイになる法則を破るものにして、エカシは東日流に渡り来たるものなり。
熊五郎、心よくエカシの申入れを承諾せり。出来秋にマツオマナイに渡りぬ。大舘下の鍛治に寄りて投槍六本、鏃を熊用なるを十二本を賴み造りて、ハタにて海をルモイに赴きぬ。オカムイホノリに見て陸に舟寄せ、まづは人餌食に襲はれしヨナイコタンにエカシのチセに宿し、倶なる仙北マタギ四人・秋田犬八匹の共住みとせり。人喰熊の正體は羆と白熊の混血にして、葦毛の毛並と聞く。その體は通常なる熊の二倍に越ゆると曰ふ。唸れる聲は二𡶶にひびくと聞き、立つあがりては一丈にも越ゆと曰ふなり。誰れ曰ふなく此の熊をイオカムイと稱し、その仕留める日を鶴首せり。
然るにその秋は足跡さえも見當らず、冬入りぬ。さしもの熊五郎、詮なく冬にこもり討物を研ぐ毎日にて、春三月は至りぬ。昨年をして彼の熊いでしかしこを、狩図にその潜むる處をマタギらと謀りに謀り、いよ以て満月の月あかりに至るまでその足跡を探し當つべく、山また山を歩き盡したり。大いに疲労し、その夜を假苫を作りて野宿に決めたり。
さてその夜の事なり。彼等の冬越しせるヨナイコタンに突如として彼の人喰熊現れ、熊五郎らの食糧一切を喰盡され、チセは足の踏場なく荒され、留守居の犬はことごとく殺され、少かの犬毛のみ木枝に残るのみたり。依って、残れる犬の鼻に人喰熊の臭覚を得たる熊五郎、犬の嗅ぐ鼻をたよりに追跡せり。犬を先走りにて四日を追詰きに、湲あり。犬の嗅走りはとどまりぬ。さればその湲なる両岸に熊足の跡、また犬の嗅挙を諦むなく湲をのぼりて地人の曰う鮭留の瀧にて休息せしに、地底から唸るが如く瀧壷あたりより聞こゆなり。
此の瀧ぞ半懸室に落水を幕の如く、落水の彼方に深き洞穴ありと覚ひたり。寝唸りや、此の窟中をふるはして聞こゆは、惡魔神を想はす無気味なり。犬は人喰熊を嗅ぎ付くや猛く吠けんに、ふと熊の唸りぞ止む程に久しく、依て熊五郎その洞口に枯木を積みて火を付くるにその炎ぞ、窟中に火煙を満しぬ。五人のマタギ、いでくる羆を箭にかまえ、槍にかまえたり。半刻をしてその焚木を蹴りていでくる人喰熊の丈餘に背なす大巨體を立あげて、瀧水の幕より地も割れんばかりの聲をあげ、犬を踏蹴らさんとす。
熊五郎、一番槍を彼の胸板に投げやれば、刃穂いっぱい的中せり。しかさず箭を十二本を的中せしめ、仕留の槍を五本投げやり、吹くようなる血を湲水を赤く染めにして、遂にこの羆を狩留ぬ。エカシに告げてルモイコタン總挙げのイオマンテを祭り、亡きメノコ十六人を慰靈せしめ、熊五郎はその膽を得て四人の秋田マタギと歸れり。熊五郎の得たる熊膽はイヨカムイの妙薬とて、檜山城主秋田愛季、當時安東氏に献上せりと曰ふ。亦その妙薬ぞ秋田實季より徳川家康に献上せりと曰ふ。
文政二年五月廿日
浅利勝藏
古陵之事
丑寅日本國に住むる人々になる古代の葬儀やいかに。荒覇吐神の葬禮は水葬・土葬の二例ありぬ。水葬とは、湖または海に版石に遺骸の木棺を縛し沈葬せるものなり。土葬とは、掘りて水の湧かざる處に石淵を施し木棺を置き土盛なせる盛土葬なり。
遺骸をかめに入れ埋葬し盛土せず支石を乘せ置く陵もありけるなり。また、遺骸を焼きて骨を粉と砕き大河に流水葬せるもありき。故人を愢ぶるに生ありきに造りき品を子孫に遺し、生前なる故人の生涯を語り遺すも子のつとめなりと曰ふなり。
享保二年七月十三日
相馬將之
學得之事
學とは諸行の智と徳を心に修む事なり。學ばざれば愚凡にして己の思義は唯、人に委せぬる耳にて労々の他人道に果す他、非らず。能く心得るべきなり。先づは讀み・書・算を心に意得せるを一義とし亦、岐稽に藝術に身心を練ふべし。
更に心の安らぎとて、求道に信仰を重んじて安心立命の信念を保つ。外道の邪惡に心しべからず。生老病死の理りをわきまえて、心轉倒為すべからず。己れの正道を護り惡道に堕ふべからず。
學ぶる心を大事に保つこそ幸あり。諸障に難を蒙ることなかるべし。人をして上下なく、神は亦是の如く造り結ふ事なかるべし。
寛政五年正月一日
秋田孝季
荒覇吐信仰道
天道之日輪二つなし。亦、吾が生命も二つなかりける。信仰を以て求道を多道に轉ずるは、心に轉倒ありて眞理の道に惑ふのみなり。荒覇吐神を信仰するは、神像を造りて崇拝せるに非らず。諸行法則の法典にも非らず。
天然の運行に従って己の安心立命を悟るは、天地水の哲理を以て覚つは、大自然一切のものに神靈ありとて是を荒覇吐神と總稱し、茲に宇宙の創め、地水の修理固成、萬物の蘇生になる生命の實相こそ荒覇吐神の理趣なりとす。依て人の創造せる神、その教旨になる信仰にぞ何事の求道なしとて、眞の神信仰の理趣を天然の運行に求道ありとて陰陽輪轉、人心に叶はざる全能の神通力にあるは荒覇吐神とて大自然諸々の一切を神聖とせり。
歴史に傳統せるはカルデア民の天に仰ぎ宇宙への神秘と、大地そして水なる一切の三要と陰陽輪廻に生死の轉生あり。萬物生命はその連鎖に依りて遺る生命の實相をわきまえるこそ信仰の一義に基し、日々の己が心身のありかたに、神こそ人の相に非らず亦、草木魚貝苔藻鳥獸諸々の相に非らず。
自然の法則こそ神とて悟り、その天命に安ずるこそ荒覇吐神と號けたるは、カルデア民に覚られたる信仰の發起なり。然るに人心は對像を欲して造れるより、今に遺りきものなり。
文政七年九月十九日
和田長三郎
モンゴル見聞記
樺太島よりアムール河とて地民の曰ふ黒龍江を西に大興安嶺を河舟に眺め、人の住まざる邑チタにたどりて、陸路をバイカル湖に至りブリヤート民なる神ブルハン神を拝す。
モンゴルより聖流を留むる神なる湖なり。オルホン川ホピスガル湖を水源に流るセレンケ川の流れをそそぐるブルハン信仰の發起は、アルタイなる騎馬民にてなれり。もとなるはシュメールに先住せしカルデア民になる荒覇吐神の水なる神なり。
吾れらが旅に行き合ふはハルハ族・カザフ族・ブリヤート族・ドルベド族にして、出合ふるゲルにてスーテイツイをいただきて飲む。何れのアイルに出合ふとも差出されし乳茶なり。風に圓く飛ぶハムホール草の間にタラバガンやサルラクを見ゆあり。古老の語るを聞きつるに騎馬なるは十戸・百戸・千戸・萬戸とて勢をなすと曰ふなり。
モンゴル騎馬兵とは革鎧兜にて彎曲太刀・鹿角材に造れる短弓・六十本の矢入箙・一人十頭なる替馬を伴ふなりと曰ふ。飢えては馬肉を食し、弓弦切れては馬足の腱を用い、鏃なければ馬骨を用ふと曰ふ。吾が旅は天山を越え、ギリシア・トルコ・エジプトに赴くことはるかなり。
天明二年八月一日
孝季記
紅毛國旅記
モンゴルよりタラスに至り、サマルカンを經てニーシヤープールよりペルシアに入りてニハーワンドに至り、バクダートに至りチグリス川・ユウフラテス川の古代シュメールの聖域を巡禮す。
六千年前なるカルデア民の累孫はなくして、ギルガメシュ王の聖跡も亦、砂にぞ埋もる。ジグラットは瀝青の丘とてその古跡ありぬ。東日流よりいでこしより二百六十七日なり。シリアなるパルミユラに至り、ダマスカス及びカエザリア・エルサレムを經てエジプトに入りてカイロに至り、ナイル川に添ふ遺跡を巡脚す。五千年前になる金字塔は王なる墓、ピラミットと曰ふなり。
何れも砂に埋り、人面をなせし獅子とてスフエンクスなる巨大石像また沙にて全相見ること能はざるなり。吾等が旅の果しべくは、次なるギリシアなるオリュンポス山十二神を巡禮し、歸郷せるに海路をスパルタに至り更にアテネに至りぬ。
天明二年八月廿日
孝季記
異土古代品之事
荒覇吐神之史證を尋ぬる三回に相渡る山靼及び紅毛人國・西山靼への旅に果したる異土の古代遺物拾六品、その重量三十貫〆を以て石塔山なる古傳ぞ證されたり。
古代オリエントなる發祥に先端せる荒覇吐神とは、メソポタミヤに創りギリシア・トルコ・エジプト・シリア・アラビア・ペルシア・アルタイ・モンゴル・チャイナに相渡りて各々信仰の源をなせり。なかんずく今にぞ遺るキリスト教・ムハメツト教に遺る旧約聖書及びコーランはシュメールの土版に楔文字とて遺し法典に基す。
カルデア民の王グデアにて世に遺り、ギルガメシュ王にて文字の叙事詩とて今に遺りぬ。旧約聖書及びコーランの原なる信仰の基なり。依て吾が國の古代一統信仰になるアラハバキはその原なる直傳なり。依て萬里の巡禮を果して得たる證とて石塔山に奉るは、かかる巡禮収集の遺物なり。
されば安東船に依りて集むるもの、十三湊・マツオマナイ湊・能代湊・土崎湊・北浦湊・酒田湊になる異土船の渡来品を越えてなせるは、十四年の歳月をかけなし二千両の旅費をなしけるは巡禮集得の史證遺物なり。小型なれども聖地の古老に依りて得たる貴重なる遺物ならんや。
荒覇吐神を知るべくは、丑寅日本國の實力を證する何よりの實益に當るなり。永き倭史の世襲權圧に化外蝦夷地とて来たる底賎の丑寅日本國之實史を示す遺物なり。
- 一、古代シュメール遺物
- 文字土版三
- ルガル神像一
- グデア王像一
- ギルガメシュ王像一
- アラ神像一
- ハバキ女神像一
- 二、古代ギリシア遺物
- アテナ女神一
- カオス神一
- 三、古代エジプト遺物
- スフェンクス二
- ファラオ二
- アメン神一
- パピルス二百二十枚
- 四、古代アルタイ遺物
- 稱名不詳一
- 五、古代アラビア遺物
- コーラン法典二
- 六、古代エルサレム遺物
- 旧約聖書一
- 七、古代モンゴル
- ブルハン神像一
右十六種他、遺具若干を保護仕る。
文政二年八月十日
和田長三郎
橘白雉式目抄
抑々丑寅日本國之年號、創支那年號文帝之後元戊寅年。
是號津刈元年、二十年丁酉至徳戊戌元年、
二十四年壬戌喜福癸亥元年、
十七年己卯天覚丙午元年、
二十七年癸酉明寬甲戌元年、
三十一年己巳元仁丙午元年、
二十五年辛未寿承壬申元年、
三十三年甲辰玄武辛亥元年、
二十九年庚辰嘉泉辛巳元年、
四十六年乙丑延命丙午元年、
二十五年庚寅青龍辛卯元年、
三十八年戊辰陽廣己巳元年、
三十年戊戌喜楽己亥元年、
二十七年甲子地久乙丑元年、
三十六年庚子寶叶辛丑元年、
四十七年戊子瑞進元年、斉將己丑元年、
三年庚寅興將辛卯元年、
十一年辛丑武將壬寅元年、
三十一年癸酉安東申戌元年、
二十八年辛丑泰平壬寅元年、
三十七年戊寅日本乙卯元年、
三十一年己酉建興庚戌元年、
三十三年壬午修安癸未元年、
四十七年己巳神應庚午元年、
五十一年庚申永徳辛酉元年、
三十八年戊戌至泰己亥元年、
四十七年丙申大元丁亥元年、
五十八年甲申光法乙酉元年、
四十九年壬申流鬼癸酉元年、
三十七年己酉海征庚戌元年、
四十六年乙未千嶋丙申元年、
二十年乙卯巌手丙辰元年、
二十七年壬午。
右以丑寅日本年號也。
寬永二年七月版
武藏屋權造
閉伊戸帳
古来、閉伊馬を稱し八幡駒・糠部駒と號け、寒立馬・活波馬など名付く多し。古話に東海千里を隔つ北インデイ國より潮に乘じて渡り来たる民あり。
是をヒエ族とて曰ふ。太きこと六尺、長きこと五十間の丸太を八十七本を束ねたる大筏にて陸州糠部に漂着せり。雄駒二匹・雌馬十匹・老若男女三十七人、洋上何事の難なく漂着せりと曰ふ。彼の國ぞ、今にメリケンとぞ曰ふなり。
これな十二匹の馬を祖にしてその子孫大いに殖産し、奥州馬産の原種をして秀馬の頂比類なかりけるなり。一方、羽州なる駒ぞ山靼にして背低きも、陸州馬ぞ背髙く駆くること疾風の如し。野馬となりて人に飼れざる馬群の多き順次にて、一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸・十戸に名付たるはモンゴル軍の戸なる十進法より用いたりと曰ふ。
文政二年七月九日
苫部地金作
法恩寺異書
奥陸の中尊信仰深く、金剛界・胎藏界・五佛本願を祀りき古寺ぞ、今に遺りき。
閉伊の淨法寺・西法寺、糠部十王院、東日流の大光寺・大圓寺、秋田の日積寺、出羽の羽黒寺、和賀の極楽寺、多賀の最明院、磐城の般若寺、白川の明光寺、渡島の上國寺らなり。
何れも大寶辛丑年より神亀乙丑年に至る安倍安國の發願に成れる佛場なり。時に同じうして、修験の本地垂跡を本願とせる役小角が靈力に感得せる金剛藏王・法喜菩薩・金剛摩訶如来を本願として山岳に寺跡多し。東日流の梵場寺・三世寺、秋田の山王寺ら、是ぞ飯積なる大光院分別の佛場たり。何れも今に遺るは地名のみにて、寺跡の遺るは天台寺の他、非らざるなり。
天台寺とは淨法寺の事なり。奥州は古代より荒覇吐神の信仰に厚く、佛道を求道せるはなかりき。故に、廢寺となれる多し。厨川の報恩寺はその先代佛法布化に報恩して建立されたるものなり。安倍一族の菩提寺なれば、唐平元年に焼失せる中尊五佛は何れも丈六たりと曰ふ。
天正六年八月三日
行丘次郎賴長
佐藤家文書
吾等が奥州に平泉御處をして仕ふる家来の姓氏目録にあるは
米澤氏・工藤氏・金氏・迫氏・米屋氏・神氏・今氏・藤原氏・佐藤氏・黒川氏・小野寺氏・菊池氏・藤田氏・佐々木氏・遠藤氏・津川氏・久米氏・京極氏・安藤氏・亘氏・百々地氏・和賀氏・生田氏・田口氏・小野氏・千葉氏・加藤氏・由利氏・浅利氏・相馬氏・髙橋氏・植田氏・鈴木氏・安井氏・金田一氏・東氏・兼平氏・酒田氏・久世氏・本阿弥氏・早乙女氏・伊治氏・光村氏・嶋村氏・野村氏・幸田氏・越野氏・木田氏・竹林氏・武藤氏・古田氏・世阿弥氏・久保氏等也。
亦、安倍武鑑に依りければ、前九年之役に反忠せる清原一族・宇曽利一族ぞ皆、安倍氏之臣下たるはおぞましき。
文化二年五月六日
佐藤是之
安倍戦記
大祖阿毎氏―三輪氏・耶靡堆氏を累姓し、安倍氏―安東氏―秋田氏とて世襲相應に、今ぞ三春藩主たる君坐に在りきは安倍一族をして忍の一途にあり。家系を今に遺したり。
安日彦王・長髄彦王の代に築紫日向の地主佐奴一族と倭國に戦ひて敗れ、その生々をみちのくに再興を果し、代々をして荒覇吐日本將軍と丑寅に國を造り五王・郡主・縣主・邑長をして治世し、康平五年厨川に一族四散しける忌しき前九年の役より東日流に再興し安東氏となり、日本將軍を復したる不死鳥は主従ともに人命一義の救済を以て為せる祖順に従心せる國治・民治を謀りたる由縁なり。
卽ちその生々も戦なき戦にて、安東船に依る商易ぞ秀たり。平氏・源氏を天秤にかけ、己が一族の隆興を加戦せずに恥をなしたるは、平泉藤原氏の生きざまと雲泥の相違ありて、何事ありても家臣を大事とせしにや、達成を速進せり。安東船の海を道たる世界への交りぞ、朝幕は國難とて怖れなしたる元國さえも流通の船あしを留むることなかりき。倭に戦を以てなせるも、吾が丑寅日本國への餓饉を黒龍江水戸より安東船に救済の糧を與したるに依りて奥州は大凶作の餓死を免がれたり。
東日流・渡島・陸州の民は飢ることはなかりき。依て神社・佛寺に今も遺れるマルコポーロ像・フビライハンの像の崇拝されたる故縁なり。討物取りて戦を興し征掠せるより、商に勝益し安泰を保つも商戦と曰ふ戦なり、と曰ふは安倍一族の格言なり。
文化元年十月七日
小野寺甚悟
羽後夜話
〽羽後の旅
おばこの唄に
早苗植ふ
しぐれ降りせば
蕗を蓑笠
だんぶり長者の米とぐ水で流れの白き羽州の米處。米代川と曰ふ傳説多き飽田の大河は二筋、米代川と雄物川あり。左右の川辺に開けたる稻田にはたわゝに稔る瑞穂の黄金波。あと幾ばくなく刈入んとするやさき、大雨の降りしきるや洪水と相成りて泥水に潜り、一粒の収得もなき貧苦のさま、筆舌に執りがたし。
昔より旱魃をおそれ、洪水の起りきも水利の被りき河辺に拓田せるは常なり。昔をして堤の施工なく、大雨や雪解に水量重みて奔流する毎に河辺の一帯は濁流暴奔に防ぎようなきは、昔の稻作なる實情たり。作り替とて、洪水を怖れ澤田を拓したるは、収益少なけれども生々飢ゆなく人住む山邑ぞ諸處に拓村せり。
きざはし田にして、坪少なき千枚田を日を向ふ方に位地せるは、開邑を適地に速しめたるも、河辺に残るもありける畑作にして蕎作なり。稗も植作され収穫を満せり。依て住民は地の利を選びて適生の作物を殖し、安住を謀り今に至りぬ。大河の水利を治め築堤し洪水を防ぎけるは、羽州より創りぬ。
文政二年十月一日
髙畑基平
日本國丑寅創起
超古代之人に依りて日本國と曰ふ創國の基を築きたる聖跡は、今に灯を滅せざる荒覇吐神之存在ぞ金剛の礎石なり。國を創むる古代人の意趣を思ふるに、安心立命を基礎とて、生々の衣食住に侵犯せる外襲の敵を防ぐを第一義とし亦、内の睦を欠くものに掟を以て鎭む。
國主の立君と地分の主を以て民を統率し、救済に導きて國治を謀り、道を開き橋を渡し、攻敵に防人を以て領土を護持し、民の業をして産物の交換適當と奉仕の割配に平等を欠くるなき配當を以て治むるを旨とし、民をして是れに従ふ律政の同意にある限土を堺として護る國土を國と曰ふ。
抑々丑寅日本國の誕生は、渡来歸化民・先住民を集合して成れりと語部に傳はりぬ。日本國とは東海の水平に旭日を拝迎し、西海の水平に夕日の暮れぞ拝せる國とて國號せしものなり。古語にして、イシカホノリガコカムイの國と曰ふ。さればその語印に次の如く證す。
古代シュメール民カルデアに傳はりし土版文字を手本に、丑寅日本國の語印なり。如何に權据にて丑寅日本史を抹消せむとせるも、いつの世にか荒覇吐神の法灯ぞ世界を照らすなん。
文化元年六月十日
清野髙宗
諸史轉末抄
吾が國は世界にくらぶれば島國にしてその國域を為す處、一隅にも足らざるなり。その島國にさえ諸史の轉末ぞ勝者讚美・敗者抹消の造史の編、實相を抜きなして遺りぬ。依て知らざる後世の者はそれを唯一の史書とて、諸史の參考にせしむに古事の實相ぞ更に遠くなりにける。
世界史も亦、然なり。敗れし者の國を掠め民心を洗脳し、自國の信仰を無上とし敗者の信仰を邪道とせしは戦の常なり。如何なる國とて護りと攻めに諸因せる人の生々に世襲せり。戦のみならず富と貧・智と愚・迷信と實相・賣と買・誘惑と決断・善と惡・衆と勢。歴史は人心にて造り造られ、實と偽ぞ攻防し、權力に決さるは平等なる神の裁く天秤に定計なかる多し。
依て神なる怒りを授け、如何なる大國に征すとも天誅を招き自滅す。神を祀る信仰また然なり。本来、空なる亦相もなき神をして、人の造りきは人を型どりて像を造り、あるべきもなかりき奇々怪々の像を造りきは、正に神を冐讀せる行為なり。更には獣・蛇の奇像繪図を以て信徒に説きけるは、正に神を怖れぬ行為なり。更には人そのものをして神と宣し、民を従僕せしむは、全能の神を無力にせん行為愚考なり。
人の奢りはかくあるものにして、侘び寂びを以て神に心を祈念せる求道なくして信仰にぞ非ざる決断なくしては魔道・邪道に堕いなむ。吾が丑寅日本國に祀らるる荒覇吐神こそ天地水を神聖とし、その化なる萬物を神なる造授のものと空相に神を怖れ敬ふを旨とし、不断に心不動に信仰を一心不乱にせるこそ尋常なる信仰ぞと、今に至りぬ。
文化四年十二月一日
千葉大隅
稻作渡来之事
糠部・米代・米山・輕米・田老・田澤・髙田・中田・角田・米澤・亀田・安田・吉田・石田・田尻・野田らの古邑、今に名を遺せるは古代稻作の渡れる處なり。稻を渡らせしは支那晋の群公子の民にして、丑寅日本に多く渡り来たる民なり。ホコネ・イガトウと曰ふ二種の、畑作・水耕の適生なるものにて能く稔りたり。
始な耕作は籾蒔にて、次耕は苗代をして苗植たり。今に稻を神事とて、荒覇吐神に神田を造り、日田・月田・星田の三神田を・・・に型なして作耕せるは陸奥に遺りぬ。馬のたて髪・尾・足首に小鈴を付け、稔の前に童を乘せ田の畦道を廻りて稻の病・蟲害を追ふ、ちゃぐ馬あり。若者は背に丈ある稻穂を負い腰鼓を打鳴すは、支那黄土河辺に稻作をせる民と同じ行事なり。
今にしては鹿舞に見らるる行事なり。稻にまつわれる祭・行事に水田の泥ならしを行ふを舞にせる糠部のえんぶり・稻穂を傘灯に舞藝せる秋田の傘灯祭・寒中泥田にて水をかけ合う三春祭、何れも古き傳統なり。山頂白くして雪厚きは旱魃なき年とて白山神を祀り、水の害・洪水を神祭り藁しべ流しありけるも、今にして東日流浅瀬石川に遺りネブタ流しもそれなり。
寛政三年七月七日
稻馬与市
安倍日河水軍
北上川・日髙見川・日之川・荒覇吐川・櫻川、幾名にもありし陸奥を南北に横断せる大河を稱す。此の川を河舟衆・水夫衆とてあるを安倍日河水軍と稱せしは、頻良なり。舟底平張り、帆・櫓・櫂を以て舟を水運せる舟にて屋型なり。窓は蔀戸にて矢窓を弓射の程に造り、漕手・水先、皆屋型内にありぬ。
川下・川上の往来の舟速異なれば、生魚運舟を速舟に造りぬ。六丁櫓舟、是なり。川湊あり、追波水門・石巻水戸・津山落合・川崎落合・磐井落合・衣川落合・四丑落合・澤尻落合・花巻西落・東落合・大迫落合・紫波落合・厨川落合にて、北ほどに用ふる多し。今なる葦積舟、その名残りなり。
明和二年五月七日
大久保土佐
由来不詳之神
渡島・津輕に由来不詳の神あり。是を荒吐または荒脛巾と稱なん神なり。津輕寺社奉行に古事を尋ぬるも審かならず。
地の衆に聞ければ、義經の脛巾を祀る宮とぞ答ふも、定かならず。上磯なる濱邑相内の人なる老爺・磯野多作に聞きつるは、邑奥に山王ありき境内、古にして荒覇吐神社たりきを語りぬ。わが意の外なり。日本神名抄に記載やなかりけん。
寛政二年一月一日
笠原源造
丑寅日本史大抄
安倍日本將軍頻良、居城を衣川陣場下に堀割し、引水を廻らして大巌神舘を築く。柵中三町半にて中央に荒覇吐大神なる大巌御神體ありて舘神となし、不踏之聖域とし垣を廻らしぬ。南向に神殿を建立し北舘・東舘・西舘・南舘を掘立に三丈の大丸太柱建て、六間に十七間六尺の床上にて入母屋三階にて築きける。
床下は土間にて納庫たり。床上一階ぞ大廣間にて、二階男家にて三階女家にて成れり。東西南北に建つる舘四棟、同間の造りなり。主家は中央城神の前に平屋にて築れたり。その左右に待處・騎馬處・見廻處ありて四舘を傳令し、諸事を告げ廻るなり。倭舘と異なるは、礎石を用ひざる事なり。二十五年を以て建替ふは古来の習なり。亦、建替毎に城を移し、世襲に相應せり。本衣川・東衣川・西衣川・落合衣川に不断に構える見告砦及び物見のみぞ替ふることなかりき。
砦に常任せるは馬飼・弓箭造り・鍛冶・鞍造り・車橇造り・鞘師・鎧師ぞ常住せり。農家・杣家・馬戸家のみまだら住みなり。此れなる日本將軍の住居ぞ、古来より変らざる構えなり。東日流に創國を宣し、その國主に立君せる耶靡堆王・阿毎氏十二代の安日彦王、その舎弟長髄彦王が五畿を放棄し東國更に東日流に落着。地族及び山靼・支那より此の地に歸化せし民を併せて日本國を宣告し國の創めとし、安日彦王を一世とす。國治は五王・郡主を國領八方に配し國治一統の政を司どり、その治司に易き處に王居を移すを習ひとす。
東日流・糠部・閉伊・飽田・磐井・伊治・米澤・白川・宇津・武藏。安倍頻良の代に至る移居のある處にぞ、一統信仰なる荒覇吐神社の跡にぞ證跡せるなり。然るべくして康平五年、厨川柵を以て了りたるも、東日流にて安倍貞任の次子・髙星丸ぞ東日流藤崎に復活せり。安東の祖となり、その子孫ぞ秋田に國を建て藩大名とて今に至らしむなり。然し乍ら倭史にその實を幽むは、世襲に習ひたる故因なり。
文化十年二月一日
小野寺与介
丑寅日本總集
倭人の知られざる丑寅日本國の歴史に要なるは、古来よりの山靼との交易なり。更に、日本國五王の政治なり。もとより此の國を蝦夷國とて、敵視に意趣あるのみなり。依てその歴史の深層にある丑寅日本國の一切を倭史に従するの他、何事にありとも抹消ある耳なり。丑寅にある幸、蓄積ある金の掠奪なる他、蝦夷たる賎感に睦み非らず。唯、征夷の侵略あるのみなり。
語部録と曰ふ丑寅日本の史記あり。倭人の坂東越はなく、越後越えにし、はありき。古代より石の道とてあり。勝木川・三面川・荒川・加治川・阿賀野川・信濃川・鯖川・吉川・関川・鳥ヶ首川・名立川・能生川・鉾岳川・焼山川・糸魚川に至る長濱道あり。倭人はこの道を防人の道と曰ふなり。
倭國より征討の軍を挙して奥州にまかる道は東海道を坂東に至り、白川または勿来を通りて陸奥陸に入るも、途中にて防がるるあり。まして小數なれば糸魚川に越えて、道を長濱添へに出羽羽黒山に入るを叶ふに易しきたるも、阿部比羅夫如き大挙にまかり果したは船なればこそなり。然れども奥州征夷のならざるは、東日流に多勢なる荒覇吐軍の急挙あるが故なり。征討もなき渡島羊蹄山に政所を置きけると曰ふは、偽談も甚々しきものなり。
文化六年十一月廿日
秋田之住人
物部継人
具足師之事
遠く射る矢の弓は短弓にて輕き鏃なり。その弓材は鹿にして、山靼大鹿の角なり。長弓は竹木を併せしものにて、矢は重きを用ゆなり。吾が丑寅の國にては短弓を得ること難く、山靼より入れたり。鎧は蝉割併せ・脇胴併せあり。腕大袖・草摺四方垂・砂鐡小ざね打にて黒革威し・絹糸威しなり。
具足師の多くは石井の平將門に在りし子孫にてその工匠、安倍氏にあるは、將門破れしとき敗走せる坂東の具足師たり。鞍造り・刀工・弓張り、皆安倍氏のもとに遂電せし匠の輩にて、安倍具足の部の民とて代々に仕へたる子孫なり。依て、倭軍におとらざる軍装をまかなひたり。
文政六年九月十日
梶原大膳
國見歌集
〽トンベツの
古マイに立つて
望むれば
流鬼の速潮
氷に閉ざす
〽エトロフの
ルベツの濱に
群あそぶ
トドやラツコの
我が國の春
〽バラムシル
神威の國を
近くして
神威の岳と
名付く島人
〽千島なる
ウルツプ富士を
眺むれば
シロタエ山の
颪荒ぶる
〽アカン湖の
氷を渡る
神踏は
音なし唸る
神渡りかな
〽イシカリの
山また山を
國見して
我が日之本の
天然美觀
〽エベツ野は
廣きも廣き
丑寅の
心しあらば
吾が住み處
〽山と湖の
イブリオロフレ
湯あみして
更にニセコに
富士を見ゆかし
〽八雲濱
エトモの沖に
立つ雲を
渡島の旅に
いでや想はる
〽白神の
マツオマナイに
東日流をば
波に幽めて
眺む宵月
〽流鬼の島
ポロナイ渡る
白鳥の
翼ははるか
陸奥にさしゆく
〽煙り立つ
カムイチヤッカ
クリル山
ここも日之本
北なほ未果て
〽山靼の
人に交はる
アムル川
吾が旅ゆきの
國ははるけき
右は歌詠み人知らず。一筆申添ふ事如件。
文化四年十月二日
奧瀨重五郎
安日岳抄
安日岳、別に日髙見山と稱す。米代川・馬淵川・日髙見川の分水嶺なり。山麓にて金鑛を埋藏しその産金と馬産の富、山頂に荒覇吐神を祀りて地民の信仰厚く、代々をして保護し奉りぬ。青龍柵・玄武柵・朱鳥柵・白虎柵を築きしは大根子彦王なりと傳ふれど、尋ねて當らず。
古事なれば詮もなかりき。安日岳に登りて頂に望むれば、七時雨山・岩手山・姫神山・駒岳・森吉山・焼山を眺望に叶ふ處ありて、神處なり。天なるカムイ・地なるカムイ・水なるカムイの源なれば、七時雨山と駒岳、吉森山と姫神山を線引きて一点に交はる處。日髙見川の源流湧くる處に安倍氏累代の秘洞ぞ焦熱岩に譲らる、と傳ふは何事の意趣なるか知る由もなかりき。
安山岳の靈峯を占代にして地語なるは陰陽山と稱し、宇宙の不動なる星・北極星の精靈天降る峯と、九月十九日の登山に日の出を拝せるありとも傳ふ處なり。安日山と名付けしは安日彦王が自から丑寅日本國の立國・立君を祈願せし神事を鍋越の呑微羅にて神垣し冬宿の間、朝夕に神事を行じたりと曰ふ。その古事に習ひて、厨川を落忍ぶる幼君・髙星を奉じて冬宿し、神事を行じたりと曰ふ。
元禄二年八月七日
藤井伊予
衣川奇談
山里に田畑を景なせる衣川を歩むれば、衣の関を閉ざせる前九年の役・平泉の乱をして永代に傳統し来たる安倍一族の轉末、藤原三代の夢なる跡ぞ忍ばれるなり。吾が國の日本將軍累代をして、丑寅に稻作・信仰・武備・商交・畜産・海産を要専し、國領併合に民を重じ、丑寅日本國は泰平たり。
國を創むるより民の一活救済を相互とし、信仰一統に生より死に至る一切行事の儀にも、相寄り・相救ひ・相睦を要とせるは丑寅日本國の平等攝取不捨の信念たり。民の生々に掠むを赦さず、暴行・私利獨占を掟に裁き罪なるを罰し、エカシの天秤なる賛決に依て裁く科刑をなせり。エカシとは長老のことにて、如何なる邑にも選抜にて民治に當れり。國王とて掟に反くはエカシの寄合議談にて廢位さるるの掟ありければ、過却に六人の王裁退さるるありき。依て國能く治まりて、泰平たるぞ久しける。
然るにや倭人、此の國を安心立命の地とて侵入し永住せる多し。依て白川関ぞ設し、その内領なる各處に関を築きたり。なかんずく衣川の関ぞ固くして倭人、多く捕はれて従役されたり。語部録は能く傳へ遺したり。吾國の古代のしるべぞ、手に執るが如くに知られけむ。衣川に奇談遺りぬ。衣川たる名の由来にて、語りあり。今昔抄にいでくる古話に次の如く語り遺されり。
抑々衣川なる名の由来にては、天の極星より丑寅日本國の那須岳に降臨せし精は一路丑寅に向ふて空を飛び玄武へ一直、那須山より磐梯山・朝日山・湯殿山・月山の間を通り、羽黒山・鳥海山・白神山を經て渡島・狩場山に抜けなして昇天せると曰ふ傳説のあるは、何事の意趣なりや。
謎にして吾等の知る由もなかりけるも、一年毎に天降るを東に移し、次年は八溝山に天降り安達多良山・太平山・岩木山を經て渡島千軒岳より昇天し、次なる年は矢祭山に降臨し藏王山・田代岳より昇天し、次なる年は花園山に降臨し船形山・森吉山を經て東日流中山に昇天し、次なる年は靈山に降臨し薬莱山・荒雄山・髙松岳・眞昼岳・焼山・安日岳に昇天し、次なるは閼伽井嶽に降臨し栗駒山・駒岳・安日山・八甲田山に昇天し、次なる年は底き山にて衣川なる月山に降臨し、神衣を洗いし巌瀧の流れ清きに衣川と名付しは、荒覇吐神の天の聲あり、昇天せりと代々是の傳ぞ今に遺りて曰ふ。
古歌にありぬ、
〽神衣
衣川
いやさかもくめ
寛政二年八月一日
金田一惠光
奥州大抄一篩
丑寅日本國、創以地之民諸族為國造、民生々海漁山狩馬飼稻作杣鑛師諸職也。厚信仰祀天地水神、祭事通四季、人智之覚得為山靼渡来導、古来自彼國多歸化。
かく傳ふ奥州大抄一篩、筆頭に次の如く記説せり。
丑寅日本國を古代に實在せしは誰知る由もなかりき。古代シュメールの先住民グデア王の民カルデア民の大移動あり。天竺・シキタイ・モンゴル・支那に少數分岐し、故地の戦乱を脱し、新安住の新天地を求め移動を始むに決したカルデア民。各々髙き智能・哲理をその落着地に地民と倶に睦みて、今に遺せる多し。天竺に渡りきはシブア女神。支那に渡りきは西王母・女媧・伏羲の三神。シキタイに渡りしは女神クローム。モンゴルに渡りしはブルハン。
はるか吾が丑寅日本國に渡りしはアラハバキ神なり。是ぞシュメール國ギルガメシュ王建國前のことにて、世界信仰の始めなり。カルデア民の祖になるはナイル川土民にて、アジアよりの渡り民たり。水辺に住むを最適とし海濱・河辺・湖辺を好みて安住地とし、古来農耕民たり。人の生々を飢なきを謀り、自然より草種を選殖し、麦を植せしを始む民なり。狩漁もまた得獲優れ、地の寒暖を選ばず適生の生々、安住に速進せる民なれば、何處に渡りても神の如く地民に迎はれたり。
故地はギルガメシュ王に掌据されしより、カルデア民の四散ありて、世界に分布せり。その行途に遺れる信仰の原なるはカルデア民に發起されたるものに基せり。カルデア民の最初たる信仰の原は宇宙の運行にして、日輪の黄道・赤道に春秋に交はる四季を覚り、その廻轉せる宇宙の星々の中心に不動なる北極星を宇宙なる窓と仰ぎ、神々の天降る處とてマデフーの造りを極星に向けなして建つるはエジプトの金字塔に見ゆなり。亦、吾が國にては極星を仰ぎ死後のしるべ星とて、是をイシカと稱したり。大地の果て大海の果てなるはなく輪なり、とて過去・現在・未来を三輪にして三方に交はる三角点を中央に、信仰の哲理・全能の神通力を藏すと説けり。
銀なる大盃を底半圓に造り日輪の直光に向けなして火を得るも、カルデア民たり。亦、水の落力・流力を以て動力器を造る、風を利して天空を飛行、また舟帆・風車をして思考せるも、カルデア民の求めたる哲理なり。雷は神ならず、暖寒の突音その瞬に稻妻ぞ起りぬ、と説きぬ。依て自然は無の圧生に起り、光熱は寒冷と交りその動化に萬は生ぜると説きたり。神とは無に圧縮せる一点に誕生せるものにて、その相ぞ萬化に自在なりせば、宇宙を誕生せしむも滅するも自在なり、と説きぬ。神は人の造れるものならず、自然の法則に依りて成れるものなり。天地水は法則なり。神の掌中にありて人間の千萬に智惠を廻らすとも叶はざる輪廻の法則なり。
吾が國の祖来、イシカ・ホノリ・ガコの天地水を神とせるはその法則にて、運命せる生死のなかに信仰を求むるは、吾ありて無く、無くして吾ありき。無我理生を不滅とせる心に安心立命の境地、天命に安ずる悟心に至るなる、と説く。依て信仰は一心不乱に、眞理の法則なる荒覇吐神こそ萬願に叶はざるものを叶はしむ信仰とて、導きたるはカルデア民なり。吾等祖累の系孫に在り、新仰雑多の人造教に惑ふなく、唯一の眞理・荒覇吐神なる他、外道とし、何事の利益なしと不轉仆の行に盡しべきなり。安倍一族に縁りなき者は陸奥に非らず。能く心得べき也。
寛政庚申十二年二月四日
秋田孝季
奧山海歌集
〽宇曽利山
四方に海見ゆ
國末の
猿の群なす
安倍
〽糠部野に
印の石は
日の本を
更に國指す
玄武の方に
〽上磯濱
龍巻く方に
汐けぶり
幽む渡島の
淡き夕日
〽岩木山
麓の波は
稻穂波
風に金波の
稔りぞ重し
〽がろが岳
東の海の
日の出山
山田の里も
荒覇吐神
〽鐡採りの
ただらの窯は
唸りあぐ
仙人峠
越えて聞き見ゆ
〽西根より
松島までも
國造る
北上川の
歴史野擴し
〽金の道
奥陸こそありや
しるべにも
西も東も
黄金山々
〽米代の
黄金山
〽仙北の
流れ集むる
雄物川
千惠穂に温み
秋田を拓く
〽象泻の
地湧くの油
國譲る
炎の
海賊追はむ
〽北浦の
鬼は福神
正月の
門あけ入れて
童逃げ泣く
〽松島は
しおがま鬼の
鹽造り
由来なるかな
〽伊治沼の
北より来たる
白鳥は
神ぞ遣はし
〽藏王の峯
わすれず川を
雪解に
神は降りぬ
名取り亘理に
〽金華山
鹿のいななく
かみやしろ
かけまく人の
あとに續きて
〽米澤の
吾妻の山に
水元を
湧きて流るる
最上の大河
〽庄内は
羽黒の山に
かけまくも
砂泻の海の
幸を忘れめ
〽朝日岳
七澤分けて
水流し
里の稻田は
稔りたわはに
〽神室山
眞室の川に
併せ水
未の大藏
〽阿武隈の
大瀧根山
隠れ洞
三春の櫻
今盛りなり
〽馬追の
相馬の武士は
將門の
流鏑馬
流れありこそ
〽磐梯の
山を映して
湖は
西と東に
水分けるなん
〽白川の
那須の流れを
手桶くみ
駒に水やる
安倍のもののふ
〽みちのくの
うらゝの旅は
かねことに
こゝは日の本
北に果なし
右は何れも詠人知らず、今に遺りきものなり。依て一首たるとも倭書に非ざるなり。
寛政二年十月一日
桑田耕平
一言宣上
東北を倭史に曰はしむれば外道鬼畜民と、本居宣長の言あり。外化地の蝦夷とは、記紀に見ゆ清水寺の繪馬に鬼相にして角を頭に見ゆ、まさに鬼相に筆なせり。童に歴史を教ふる師を全般を聞くは、東北はまつろわざる外民にしてその國を化外と曰ふなり。朝底に在りては、賜位最髙なるは征夷大將軍なり。寛政十年現在尚以て存續あり。
幕府にして徳川累代にして御三家より將軍を継ぎてはその官位と征夷大將軍なり。いかでか倭國に在り乍ら日本國たるの國號までも掠めたるは、倭史より古き王國の史に在り、まつろわぬ化外地とぞ國も民をも賎しみ、歴史の實相を幽めたるは何事なる行為ぞや。何故の蝦夷ぞや。古代なる丑寅日本國住民は、日の本の民と日して自からを蝦夷とは申さざるなり。元なる倭との國境は、安倍川より糸魚川に横断せるものなり。依て歴史ぞ平等ならざれば、いつしか神なる報復を受くなり。
倭にも丑寅日本にも日輪はひとつなり。世にある陸海は、神の造りき萬物生々のものなり。人をして弱き先住の民を追ふまま、掠すむまま駐留せるる。いつしか先住民の血湧き肉躍る世襲ぞあらん。戦を以て領したる進駐民ぞ、必ず以て起らんあり。能くその因縁をわきまえざれば、いかに洗脳の史を造れどもいつしか堕なん世襲の至らんを覚つべし。
寛政十年十一月二日
外崎源八
再筆詫言
老令いよいよ盡し、眼の視覚益々困難なり。大事たる紙存も貧しく心、寒けるも筆字大なりて詮なし。眼鏡ありとて買入をすゝむれど銭もなく、餘幾ばくもなかりき。我れに死して持ゆくならず諦め居りぬ。
現代はめまぐるしくも進展せども、歴史の事は政治・學閥の意のままに何事も藩政と変らず軍閥の權威に文明開化も表耳にて、内なるは猿猴にも等しきものなり。天子を神とし民を赤子とせるは世界に當達せる誠の進歩なるや、疑しきなり。國益の隆興は民主平等權に國政ぞ大革新せずば、倭史の偽傳ぞ永らうものなり。然るに、その日の至らんを餘感に想いつゝ、本書の後書とす。
和田末吉