北斗抄 貮


(明治写本)

此の書は門外不出・他見無用と心得よ。世襲の至るまで、一書も失ふべからず。

秋田孝季
和田長三郎

諸翁聞取帳

一、

丑寅日本國は人祖阿蘇部之大王、津保化之大王を經て、耶靡堆大王の子・安日彦大王を奉りて成れにし王國にして、創國の國號を日本國と曰ふ。國神は荒覇吐神を一統信仰に仰ぎ、語印を以て國字とす。大王を位に成せるは諸郡の長老を以て選抜せり。大王の次、副王あり。更に王居を離る領域を治むる四王置きて國領、都々浦々に渡りて商交往来せり。

民に部ありて榮を累代す。亦時として海より海賊陸を越し、國盗の賊襲来せるありて、その防人を山靼に習ひて備はりぬ。騎馬を入れ民各戸に餌産とし、金銅鐡を産せり。農耕・魚漁また産大し。干物・鹽漬にぞ造り、長日の鮮を保つ。山靼に商ひり。掟を造り、獨富を禁じて曰す。吾が一族血系にして、神は人の上に人を造らず、人の下に人を造る無し。依て親しく睦み一汁一菜も相分つ、生々相平等に暮しを安心立命しべきなり。若し掟を破る者は北辰に流罰せん。是の如き立法に叛く者なく至るなり。

古にして、大王の祭あり。荒覇吐神に海幸・山幸・郷幸の献ぜるあり。これぞ國治の税たり。部の民より貢上さる一切は凶年に備蓄せる穀物。金銀銅鐡を各郷に保たしめて、必なるときに配せり。これをコタンカムイに護り各々エカシ、是を大王または四王に請告せり。在庫に依りてその資を受け、また出だしぬ。民住む處、道造り、流通を速し、丑寅日本は倭の紀元より先とせり。

稻作・杣・漁撈・鑛採・産馬の營よくし、糠部駒・仙北駒・三春駒の今にあるを知るべし。陸羽の穀倉たるは大河の添ひに拓けたり。亦、海産の湊は天然自然に備はりて、ポロケシと曰ふ。海舟の造りは古代よりハタ・サタン・トマの三種にて、皮帆・葦帆を用いたり。トナリとて皮舟あり、漁に用ふ多し。

東日流にては十三湊あり。異土船の往来自在たるが故に、その歴史あるけるなり。

〽十三の砂山ヤーイ
  米ならよかろナー
 西の辨才衆にやイ
  ただ積ましよ
   ただ積ましよ

古謡十三の砂山にぞ唄はる如く古事を想ふ。

寬政六年七月十三日
奥田利右衛門

二、

延元元年、於東日流中山嶺石塔澤、為安倍氏朝夷氏、為菩提供養。
時陸奧國司參議北晶顯家墓參、卆塔婆版碑獻日本將軍墓前、祈國家泰平、添状代唱仕。

新田義貞
村上彦四郎
楠木正成
楠木正行
名和長年
石塔山荒覇吐神、在其碑諸氏之辰筆現遺。
管石塔山和田三郎義秀乃系也。

應永二十九年
石塔山管主
中路兵衛

三、

世傳徳治二年、是歲為僧行脚遠地東日流、至藤崎在食客、僧名為崇演。是北条貞時化相也。行脚其實、伺察政事得失。
至京城南有茅屋、出汲者雖極貧顇其容不鄙、乃入乞投宿、終夕語次、因問其舊主人。悽然曰、昔嘗仕朝、遭讒除名、乃今如是。問其曲悉卽久我内府通基也。
客曰、何不訟讒白其無罪乎。主人曰、白無罪則不得不辨讒慝則不得不顯、若遇我不忍也。不徳之身祚衰家亡亦天命已又將誰咎。

貞時後還鎌倉上奏朝廷、為訟其冤、復其官禄云、先是時賴憂遠方多私為遍巡諸州、貞時亦追其蹟政、多得通通紀曰此事野史所載無實録可據、然世人多所傳稱故謾略記之曰北條氏世々能継篡竊之志賣恩買誉以立私家、時賴貞時姦謀最賢諸族其盜功名卆皆此類。
或曰、時賴貞時輩徵眼遍巡諸州、非察民疾苦、當時天下政事雖出北条氏、諸州武士皆惡其姦邪、欲起兵討之者多、彼二子者畏之、微行以伺察之耳、云々。

寬政五年八月一日
北川宗則

四、

のぼりての世をよろぼさぞらひて古跡を行脚し、地のしるべある翁に訪ぬるを、さやかに知るはまれなり。砂鐡川に水柵を造り、砂を流しき刀鍛冶に舞草の刃鍛えを問ふるも、唯黙して語らず。尚尋ねては、言少なけれど語りを授けたり。

凡そ奥州の鍛冶師の多くは前九年・後三年の役及び平泉の乱にて相模に連ゆれたり、と曰ふなり。古来、奥州鍛冶に宇曽利の安倍城鍛冶・閉伊の釜石鍛冶・和賀の金鍛冶・江刺の姥鍛冶・磐井の舞草鍛冶・會津の下坂鍛冶ありて、何れも金氏の一族にして祖を金天國キンノアマクニ、次代天笠アマクラ、三代寶寿トモヒサになる師弟百八十人、互に産鐡を流通して、鍛法同じたり。安倍一族ことごとく寶寿を好みたりと曰ふ。

源義家が安倍宗任より召上たる刀、是を源氏が重代の寶刀とし、髭斬丸・膝丸と名付け、鶴岡八幡宮に神の剣とて奉寄せり。後、賴朝是を帯刀として今見ること能はざるなり。風聞傳にては、失刀せりとも曰ふ。

相模鍛冶となりし奥州鍛冶は備前にも移されきに、刀剣に相模刀・備前長舟刀の名を今に遺したり。然るに奥州にての舞草刀にては、鍛法是を抜くはなし。

寛政五年八月七日
金義幸

五、

〽訊ね見よ
  安倍の菩提の
   淨法寺
  鉈にて彫りの
   いにし佛を

晝なほ暗き大杉の境内におはしませる佛の群、金剛界・胎藏曼荼羅に相應せしめて、地の鉈佛師に一刻三禮に造られし佛の數々、伍佛の中尊を阿彌陀・薬師・阿閦・釋迦の如来・菩薩・明王・天部の荘厳に靈感を覚ゆなり。

〽淨法寺
  參りて心
   吾れ知らず
  忝けなさに
   涙溢るゝ

安日川の瀬音に道添て往来せる人の立寄れるこの佛場こそ安倍一族の夢跡ぞ忍ぶも、唯吾れのみか。

寛政五年七月十三日
河田宗久

六、

陸奥の山里みな染むる山吹の散らぬ先にと石塔山に群なす參詣の人々、堂籠りを決めて峯路を急ぎぬ。古よりこの深山に祀らる荒覇吐神の堂には、神明・佛陀の天道にかなふとて毎年の九月十九日の參詣なり。はやか、この堂の祭事にては甲冑を身に武装し、討物を挙持って荒覇吐神を稱名し、抜刀し鬨の聲を挙げて了る。他所神道・佛道にも見得る祭事と神事なり。

寛政五年九月十九日
和田長三郎

七、

〽多賀城の
  桂の池に
   荒覇吐
  祀るは古き
   日之本の神

國府とも鎭守府とも曰ふ多賀城に荒覇吐神社の除かざるは不可思義なれど、是ぞ怪奇なる解ぞありき。

神亀甲子元年、陸奧蝦夷、蝦夷地巡視、殺大掾佐伯兒屋麻呂。倭朝怒是、藤原宇合為持節大將軍、髙橋安麻呂為副將軍、發兵三萬討之、不敵築多賀城。時起此地大龍巻、倭人二萬此渦中災死。地人是稱荒覇吐神怒、築城境内立木、否我亦城邸侵禁請、依荒覇吐境内及立木不侵不伐、為厚聖域、不可侵讐末代。
于歲同出羽仙北生保内、詔以築柵選時盛伐處荒覇吐境内也。時拝小野牛養鎭狄將軍當築柵起、俄黒雲天日閉雷鳴、倭人其落電死。依移飽田髙清水云々

倭史にかく記逑ありて、時人改めて荒覇吐神舊社復興せりと曰ふ。まさに怪奇たる神の示現神通力たり。

寛政五年七月一日
物部藏人

八、

和銅五年始置出羽國太政宮所、建議割陸奧十二郡為一國。先是二年出羽越二國蝦夷叛、倭人遁脱淳足及磐舟両柵、焼失倭人死者二千八百七十人。是田租及戸籍等、倭政侵領不從戦也、云々。

右の如く倭史に記ある如く、奥の國ぞ倭人の記耳なる史にして史實存在せず。

寛政五年八月一日
物部藏人

九、

安東太郎貞季状に曰く、

抑々吾が艮日本國は祖累を以て日本將軍國治の領土なり。依て税租の負ふは吾が國領奪の掠に他ならざる行為なり。康平五年にして厨川御處落にけるも、未だ東日流上磯十三湊に璤瑠澗城あり。東日流下磯に藤崎城あり。民皆兵を以て渡島・千島・流鬼の民を併せなば三百五十萬人也。北國なるも山海の幸多く、山担及び支那・髙麗に商交易を欠くなし。倭權を以て吾が國を犯し者は百厄を招く耳也。

鎌倉なんぞ怖るに足らん。吾が國は常に備へて山靼・蒙古の汗に盟約ありて、倭侵あらば東西より幾百萬の異勢の挙兵を招かん。蝦夷とて輕ずべからず。是、實現なき空言とあなどりては、倭の國は亡びぬ。吾等、祖訓を守り戦を好むなし。民一人の命とても輕んぜず。吾が一族の生々にして、人の上に人を造らず亦、人の下に人を造ることなけん。身命を輕んじ民を輕んずるは國亡の要因と相成らん。

庚辰三年五月三日 貞季華押

寬政五年七月一日
物部藏人

十、

世界図に見よ。明治三十三年印刷。


朝鮮


亞細亞洲


歐羅巴洲


西半球圖、東半球圖


亞弗利加洲


太洋洲


南亞米利加洲


北亞米利加洲


亞細亞洲

明治三十三年印刷
集英堂 小林清一郎

十一、

人の住む地球の世界は、日輪の引力軌道を巡る小惑星なり。之を宇宙より見つる得ば、海上の一粟にも及ばざるべし。況んやその粟粒に生々する我等が生命體をや。

凡そ我が國の他に古代より宇宙に學び、世界に渉りて先住民を誅滅して國とせる海賊や盗賊の行為を以て侵略せしもの、大陸の領權を固持せるは前図の如くなり。

明治卅三年十二月廿日
集英堂 小林清一郎

十二、

世の進歩は日毎に速進し、學また然りなり。吾が丑寅日本國は古来より國の外なる諸識に望みて、山靼往来を欠くなし。倭史に支那に學ぶはあれども、その奥に學ぶはなかりけり。倭にして國を支えたるは、民への祖なり。

丑寅日本に於て國を支えたるは商なり。民に山海の産物をはげしてその生産質秀なる商品に挙しては、民また生々豊に商また向上せり。交易に山だす産物の多くは海産なる多し。干物・鹽漬・毛皮、時には金銀をもその商信を得たり。奥の國は金鑛多く、産を得たり。

山靼は亞細亞とも曰ふ。パミール髙原より四方に山脈あり。東南にヒマラヤ山脈ガウリサンカル峯は二萬九千尺の髙嶺なり。崑崙山及び天山は東に、アルタイ山脈は東北に、亞細亞の中央なる山脈をなせり。相共に髙原を成し、北部にゴビ砂漠あり。中央より西向せるはイラン髙原にて、進みては小亞細亞山脈となれり。この他、歐羅巴との境上にウラル・コーカサスの二山脈ありて亞細亞の河流は多く中央髙原より發し四方に流下す。北方にオビ・エニセイ・レナの三大河ありて西比利亞大平原貫通して流れ、東方になる北に黒龍江、南にメーコン河。その間に黄河・揚子江の二大河ありてその間、肥沃なる支那平原を横断せり。

南方のガンジス河・印度河、西方にユーフレーチーズ河・タイグリス河らの大河ありき。亞細亞は大陸故に地候及び産物を異にし、北方は四時嚴寒にして動植物少なけれど、南方は常に炎熱にして降雨多し。各種の植物大いに繁殖し、森林・藪・澤の間に猛獣生息す。珍鳥また多し。

寛政五年記改訂、明治卅三年十二月廿日
小林清一郎

十三、

亞細亞は地球上に於て人類向上の進行に早く開化せし處にして住民甚だ多く、世界人類の過半を占むる。亞細亞人種を黄色人と曰はれるは毛髪・瞳共に黒く、皮膚は黄色なるが故に稱す。その同類人種の住むる國を旅に巡りて記せる秋田孝季翁の記になるを逑べん。

先んずるは朝鮮にして國號は韓と曰ふ。此の國は大陸半島にして白頭山脈を北境にして長白山脈より分れ、半島の東岸に沿ふ。平野は西部と南部に在り。河流の大なるは南の洛東江、西に漢江・大同江、北境の豆満江・鴨緑江流れり。皇帝の都・漢城は歴代の國都にして、漢江の右岸に位し城壁をめぐらせり。

支那は國號を清と曰ふ。大國にして本部・満州・蒙古・新疆・青海・西藏、六部に分つ。東方、海に面し、北部は地位髙く、西は髙原なり。北方、アルタイ山脈・露領と境し、西に天山・崑崙山在り。餘脈東に延びて支那平野を南北に分つ。是れ北嶺と曰ふ。揚子江を隔て南嶺と對し、北嶺の北に黄河在り。流域は中原と稱し、支那文明の礎に在り。揚子江は支那第一の大河たり。

歴史に古く萬里の長城、越ゆれは蒙古なり。丑寅日本國は古来、蒙古の交易を盟約しクリルタイ亦はナアダムに招かれたり。

寛政六年二月七日
秋月玄馬

十四、

賴襄子成の日本外史に見ゆ一節に曰く、

出羽秋田二十萬國収佐竹義宣、秋田氏不從関原役、収其國賜常陸宍戸、云々。

とありき。更には、

東北三道定道程置堠樹、以三十六町為一里、用織田氏故法、既而西南四道皆倣、云々。

寛政六年七月一日
伊藤正景

十五、「陸奥歌抄」よみ人知らず 一、

〽恋しさに
  夢むふるさと
   うつゝなる
  亡き父母影に
   廻りあふべき

〽よしなくも
  少しなりとも
   見らずるに
  明かしかねたる
   程だにありし

〽うちかづき
  返すや夢の
   見てのみや
  櫻まぎれの
   心もとなと

〽年毎に
  咲き散る花の
   一刻を
  われは見ぬまに
   しほりけるかな

〽さ乙女の
  裳裾ぬらして
   玉苗を
  植うる水田に
   こぬか雨降る

〽今朝も見ゆ
  心染にし
   朝顔の
  支へ木越ゆる
   花の盛りを

〽わくらはに
  露もたまらん
   夜もすがら
  えいじもおどる
   夕づけの秋

〽こざかしき
  ますらあひてに
   たばかつて
  心つくさせ
   餌をもてやらず

〽ひたすらに
  心つゝまん
   つらければ
  よそにぞかはる
   ものはかなしや

〽草むしろ
  身は浮草に
   思ひうち
  つらきものには
   さてしもあらぬ

〽消えかへり
  夜かと思へば
   ゆふだちの
  雷音ともに
   雨ぞ襲ひむ

〽安東の
  波越え太鼓
   十三湊
  帆をひきつれば
   招く追風を

〽七夕の
  夜空に白き
   天の川
  牽牛織女
   星を探して

〽思ひ立つ
  海漫無底
   渡る日を
  吉とほの見え
   湊出でゆく

〽時ふりて
  のさげのナレ
   身の程も
  隙行く駒の
   うつろひ知らず

〽垂藤の
  華棚下に
   下臥して
  とよりかくより
   たゞち宴げむ

〽道時雨
  端の藁屋に
   雨宿り
  降りきやまざる
   心いらだつ

〽つゞり刺し
  旅に馴れてし
   藤袴
  ほころびにける
   陸奥の長旅

〽秋の野に
  袂にからむ
   すゝき華
  かつさきそむる
   刈るるも惜き

〽雲居月
  旅の衣は
   露がけて
  足もためずに
   白河を越ゆ

〽聞き遁げて
  言語道断
   殊勝なき
  いふこそ程も
   旅のカキ捨て

〽夜をこめて
  矢楯峠を
   越えにしも
  関は開けず
   待つもくたびれ

〽えめぐりて
  湯宿の妻と
   なりにける
  昔馴みの
   老いたるを見つ

〽中々に
  世に經る汝を
   見給ひば
  一人せかせき
   譬へん方も

〽むつかりし
  捨兒ひろふて
   旅ともに
  よし知る人に
   あずけ悲しき

〽野菊には
  た折るもとがむ
   心地して
  たゞ立つながむ
   野辺の道ごと

〽宿窓に
  月見る程も
   心なく
  開けにし見ゆる
   おぼろ月影

〽とこしなヘ
  八千代にこめし
   祈りとて
  時の仇風
   巌をも砕く

〽志し
  眞實一路
   もんだはず
  吾が道ゆきに
   心なくれそ

〽吾をして
  冥加もなきや
   神の守
  石塔山の
   峯にこもりて

〽いふならく
  神ありがひの
   かきくらす
  山みなながら
   聲と相と

〽老いにしも
  若芽吹きける
   あすなろの
  いづくは枯るゝ
   世の習ひかな

〽千代八千代
  巌も砂と
   砕け散る
  もとなる相
   世にぞ遺らず

〽おことにぞ
  ゆかりに似たる
   人ぞあり
  かづきの海女は
   事もおろかや

右は大光院の古書に遺れる古歌なりき。

寛政五年八月十日
平井賢作

十六、

宇宙とは未知の神秘に在り。何事の在りや、その宇宙誕生に科學せん。
時もなく何質もなきただ闇の空間なる一点に起りし光熱原の起爆が、その暗墨に誘爆を擴げ、そのあとに残る雲煙の如き物質より重力起り、物質を集縮し、恒星・惑星・衛星・星雲・宇宙團を誕生せしめたり。是をギリシアにてはカオスの聖光と曰ふ。またシュメールにてはアラハバキの宇宙創造とも曰ふ。エジプトにてはラアの誕生と曰ふなり。

宇宙の誕生せし中心は北斗星とし、不動なる北極星に神を意識して成れるは信仰の創りなり。宇宙の神秘に魅せられ、星々や日輪の運行をこよなく觀測せしは古代カルデア民族にして、日輪の赤道に南北に夏至・冬至の至る黄道を究め、その交はる起点になる星を星座に結び、十二星座を一年とし暦を造りぬ。
これぞ暦の創めにて、アラハバキ神信仰の誕生と相成りぬ。

寛政五年七月二日
岩井与市

十七、

藩政にて語部の者を惑し者とてその語り興行を禁じたるは津輕耳なり。南部にては何事の砂汰なく、秋田にてもおかまひなしとせり。幸いにして語部の文字あるをとがめなく遺れるも多く、秋田様に献ぜられしも、三春城の失火に消滅して遺らざるなり。語部録も然りなれど、漢字を以て譯書ありて遺る耳なり。

藩城を江留間に縄引ける時、土中より幾多の土器堀られ、珍品とて諸藩に賣却されたるあり。安東氏になる諸書の焚消され、藩史の祐筆者こぞりて安東氏・秋田氏文書を抹消につとめたるは、菅江眞澄氏の言たり。彼の菅江氏とて津輕藩より秋田に脱住せしは、安東氏にかかはれる事に因ありき。移り先なる秋田藩に於ても安東氏を好まざるありて筆を起しことなく、三春藩への移住も心にせるまま寂したり。

何事も主変りて家風変る如く、歴史の事は忘却をたどる耳なり。吾が國の歴史にかんがみては、曲折なくそのままなる過却の綴りなり。能く實相傳記に心して究むべし。

文化二年正月五日
奥田誠輝

十八、「陸奥歌抄」よみ人知らず 二

〽よしありて
  花に辛きは
   憂ひども
  炭焼く杣に
   伐らる山吹

〽夕のみして
  古跡の風は
   こりずまの
  吾れを叛吹く
   秋の城跡

〽聲あれど
  山遠うしては
   谺耳
  このにもかのも
   障り憂聞く

〽澄む水に
  秋や通ふらし
   落葉留め
  瀬音ゆかしき
   湲添への道

〽蛙鳴く
  春の澤水
   さわがしく
  いぶせき住居
   草壁の宿

〽ありがひに
  得たらん人の
   めづらかや
  われかの気色
   通ひものする

〽初雷は
  寝たりし里を
   ゆり起し
  あられまじりに
   窓打つたたく

〽山やしろ
  苔に露けき
   古碑の群れ
  訪ぬる人も
   秋風に断つ

〽鹿の鳴く
  奥深山の
   ともしを
  霧立つ閉さぐ
   またぎ小屋かな

〽引きかへて
  黒皮おどし
   みまとふも
  敵聲近く
   食のひまなし

〽いさり灯を
  遠くに見ゆむ
   西海の
  濱のまさごに
   波はさやけく

〽山道は
  猶もありける
   静寂の
  時をやぶりて
   蝉鳴ききそふ

〽夏の日に
  道に鼻つく
   草いきれ
  なほ汗ぬれし
   吾が旅衣

〽捨て犬を
  聲挙追ふも
   あとつかれ
  人目をつゝみ
   馬をやとひむ

〽かねことも
  人によりける
   そむかれし
  手向返しとも
   今に諦らむ

〽耳立てて
  やうでう聞くも
   久しきに
  こともおろそか
   聲をあやなす

〽曲水の
  宴もちずり
   歌ならず
  なづとも盡きぬ
   われを恥らむ

〽いつとなく
  よろぼさぞらひ
   産む妹の
  兒のうぶ聲に
   ツマは躍りぬ

〽朝ヒナ
  三郎ほどに
   なれかしと
  父に言はれむ
   吾れは育つぬ

〽ひたすらに
  文武の道を
   朝夕に
  聞きにし吾は
   心空なり

〽鎌倉の
  恨み辛らみを
   聞くにつけ
  かまへて吾は
   心つくさむ

〽不覚にも
  母の末期に
   居給はず
  つゝまん涙
   とめどなきかな

〽病しに
  何をか言はん
   父の請
  聞かざる吾は
   不孝者なり

〽母吾れに
  何をか願ふ
   事あるに
  聞かず逝かれし
   今に想ひば

〽若かりし
  父と歩きし
   思い出の
  道に呼べども
   ただ風ばかり

〽山の暮れ
  うらさび渡る
   夕映えに
  衣の舘は
   あかねさしける

〽さざらみて
  流る厨の
   濠水は
  炎に燃ゆる
   戦思ひば

〽戦毎
  生保内舘は
   傷負て
  救ひ求むる
   命保護城

〽想ふるに
  對して戦
   十餘年
  三途の瀬待つ
   先逝きを追ふ

〽何事の
  あるやあらずや
   戦には
  死すより辛らき
   命ありてそ

〽自からを
  刃に死する
   厨川
  影消ゆあとの
   末を思ひて

〽道芝に
  しばし枕の
   仮寝夢
  岩手の森に
   云ひもあへねば

〽死してこそ
  ありしにかへる
   草下に
  屍を置きて
   魂は何處に

〽世々になる
  陸奥の歴史の
   隠れ里
  遠野の野ずら
   皆安倍の累

〽さながらに
  生きてある身は
   みちのくの
  語りて遺す
   遠野の里

〽遺らずは
  語りつくせぬ
   程あるも
  云ひば命の
   科にかかはり

〽見渡せど
  古き眺めも
   見當らず
  風もうつろふ
   川崎の跡

〽束稻の
  櫻吹ぶきに
   櫻川
  螢に光る
   古靈と見ゆ

〽雪降りて
  月見る坂を
   登りしに
  枝の留雪
   落つふぶくかな

〽史跡にも
  後世アトヨに作る
   空歴史
  かくしてまでも
   をかしとこそは

〽偽れる
  歴史の傳へ
   遺しまず
  實を隠して
   如何益ありや

〽なぜ隠す
  安倍の墓跡
   影も無く
  在りし言はぬは
   奥陸の人々

〽あり餘る
  寶の藏を
   開けずして
  何をか為の
   安倍の黄金は

〽狐狸心
  代々に心を
   ゆるしまず
  安倍の藏金
   如何に探しむ

右の如く記行ありけり。

寛政五年八月十日
平井賢作

十九、「陸奥歌抄」よみ人知らず 三

〽冬ごもる
  熊にも似たる
   雪の下
  春まで保つ
   諸菜穴ぐらに

〽干菜釣る
  冬の支度に
   いそがしく
  これぞ珍味の
   山靼習ひ

〽けの汁は
  冬こそ美味な
   東日流味
  じやぱ汁こそ
   なほ舌づゝみ

〽鱈のたづ
  是より美味な
   ものはなし
  冬の地酒と
   似合ふ刺身ぞ

〽義經の
  渡る渡島の
   おかむいに
  山靼船は
   皆乘せ去りぬ

〽義經の
  かぶとを焼し
   その上に
  鹿肉焼て
   宴ぐエカシら

〽宇曽利には
  海の主なる
   おゝよをば
  尺の釣針
   底投げ釣りぬ

〽帆立貝
  貝焼こその
   美味はなし
  糠部苺煮イチゴニ
   海膽ウニ珍味ぞ

〽永らへば
  發つ日も辛く
   別れ来て
  海の彼方に
   想ふ山靼

〽まぎれある
  神の相を
   見るもある
  荒覇吐神
   信ずる者に

〽いとどしく
  心染めにし
   瀧水に
  神と人との
   契りひたすら

〽さながらに
  出で入る多き
   鳥海舘
  賴良逝ける
   日の辛けきに

〽いささかも
  さてしもあらぬ
   なれこして
  寂しき秋の
   楓たをらむ

〽見うずるに
  かゝるべきとは
   露知らず
  天にもあがる
   武家に召されて

〽明けやせん
  帆を引きつれて
   湊出ず
  沖に潮乘る
   西の海風

〽今めかし
  心のうちは
   知らねども
  うつろふものは
   春いくばくぞ

〽さきがけて
  浪こゝもとに
   さえかへり
  来る年の矢を
   よそに外らして

〽細脛を
  風に任する
   旅ゆきも
  心うつろふ
   松も響きて

〽秋の風
  袖ふれつゞく
   うたてしう
  心許なく
   われはうき鳥

〽うつゝなき
  世を二股に
   渡りゆく
  舊里を出でし
   時は虎伏す

〽夜をこめて
  矢じりを研ぎし
   込めえびら
  手に立つ敵の
   明日をまたるゝ

〽いかにせん
  はしたの者を
   斬らばとて
  戦さの詰は
   敵な將首マサクビ

〽年ふりて
  新舘にぞ
   移りきも
  わずかに住める
   吾れはいくばく

〽旅宿に
  あなうらはれて
   立つおくれ
  峠のぼるゝ
   鹿をうらやむ

〽けしからず
  せかせ給ふか
   ささら舞
  唄の理り
   落人の曲

〽こさ笛を
  もてあつかうも
   吹きもせで
  心あしくも
   一期の浮沈

〽なれありて
  心なくれそ
   かゝる身を
  なからん跡に
   遺す刀ぞ

〽たまさかに
  塚のまぼろし
   白蛇の
  あらわれ出でる
   生保内の里

〽いたづらに
  知らざる人を
   われからに
  道楽誘ふ
   事は罪なり

〽陸奥紙を
  こよなく用ゆ
   雪村に
  三春の櫻
   画書きてぞこそ

〽雨降りて
  坂行く杖も
   年降りぬ
  しばし大樹に
   身もがな寄せむ

〽あはれ知る
  穂に山でそろふ
   命をば
  飯に殺して
   汝れ我れ生む

〽歎くとも
  霜に朽ちにし
   りんどうを
  由なき常の
   草葉の命

〽水とても
  命を満たす
   寶なり
  飲まずば人の
   五體つゞかず

右以て陸奥歌抄三巻の筆了なり。

寛政五年八月十日
平井賢作

廿、

奥州の史は、藩政にて國替のなかる地にては落着せども、轉封のありし地史は先主の遺したる寺社までもその被にありぬ。秋田氏にては二度の轉封を被むりぬ。亦その先にては耶靡堆より陸奥へ、陸奥より奥陸へ、更に渡島・秋田へと移りたる君主なるも、その史跡の多きは東西に渡りぬ。

都度に於て秘を一義とし、丑寅日本國の實史を護りて保護せるも、天明の大火にて三春城の再建なく、莫大なる借金に返済せるも速急に返済せしは秘たり。秋田氏は永きに渡り譜代の大名に出目を制せらるるも、したたかに忍びに忍びても安倍日本將軍の遺産を秘として私費にせるはなかりき。亦秘にあるは代々倹約し質素を旨とせり。安倍氏の金藏、他藩にある故なり。南部氏・佐竹氏の執拗なる探査にも見付くるなく今に尚安全たり。

安倍一族に依りて遺されし黄金は、計り知らざる巨財と曰ふ。上の系図・下の系図を以て両刃の剣とせり。依て秋田氏の實態を知る者はなかりき。古来より安倍・安東・秋田氏と姓を改む毎に不死鳥の如く望みを北辰に求め、倭との戦事を避けにしを、挑み来るは倭軍たり。依て茲に名誉も棄て忍びに耐え、三春藩大名とて君坐を保てり。

文化二年七月廿日
飽田之住人
由利苗生

廿一、

語部録に曰く、
古にある事なり。宇宙未だ何物も無くただ暗黒と寒冷にしてある耳なるとき、カオスの聖火その一点に起り、一瞬にして大爆烈の光熱をその暗を焼き擴げたり。光りと熱に暗は果しなく焼盡くされて、あとに遺りきは雲霞の如き塵たるも、重き輕きの動漂越りて輕きものは重きに集縮しけるの圓球と相成りしかば、尚集縮なして燃ゆる火球かしこにぞ誕生しける。依て暗に目に見ゆ星の幾兆億の數なる星ぞ顯れ、見ゆる大宇宙の誕生茲に成れり。

星にも生と死あり。燃ゆる星はやがて火素を盡して破れ散りもとなる塵ぞとなりけるも、宇宙の星間なる暗黒に溶けにしあと復してまたや誕生時の如く集縮なし、數を増して誕生しけるなり。その生死のくりかえしにて星界、宇宙に満てり。星にも類あり、吾ら地界にありき萬物の類なる如し。是れ、星の死にて暗黒に溶けにし集塵の質物にて類生を異にせり。

例へば日輪の誕生時に於て、重き輕きにてその集縮を異にして耳ならず、質性異にせる故因なり。吾が住める地球とて宇宙より見つれば、麻種の粒に等しき惑星なり。卽ち、日輪誕は恒星なりしもその外に餘れる小惑星の激突に固まれるものにて日輪に軌道せる惑星相成れり。古より金星・火星・土星・木星・水星の如きは、日輪誕生の故に誕生せしものなり。宇宙に於てはかくして今も尚、はるか星雲の彼方に星の生死ありて擴がむなり。星の生と死、いつしかの世に日輪の燃え盡きるときあり。その死に地界も運命をともにせんや。

是れ、世界なる天文博士の一結論なり。古くはカルデア民のグデア王、盡して是を究めんとせり。天文にかくなるを求め究めんとせしは、エジプト・ギリシアにてカルデア民族の學士を師に迎へて、巨大なる遺跡を今に遺しぬ。

寛政五年八月十日
秋田孝季

廿二、

凡そ歴史に於て為せる古代の記逑は、萬事相混ぜるが故に要道を外るるの憂ありぬ。信仰・世襲相混じるが故に混迷せり。信仰とは譬喩多く、歴史に加ふるは實證に欠く多し。亦、權にある時の覇にある者の史もまた曲折多くて作史の偽にあるは火を見るより明らかなり。天皇記・國記を所持せし蘇我蝦夷、何故に灾られて討れしか。何故以て生前より築し墓陵に葬さるを、玄室まで土盛を除かれあばかれしかは天皇記・國記の探査の故なり。
語部録譯書に曰く、

先略
大化乙已年、中大兄皇遣船史惠尺、攻甘橿丘灾蘇我蝦夷邸、時蝦夷託家阿毎志麻呂天皇記及國記、納坂東武藏鶴髓荒覇吐神社。是永代為密遺言、遁志麻呂干為自刃寶倉中。
時船史惠尺等侵入邸、蝦夷之遺骸出火中多財探査、目當之天皇記國記無。是依中大兄皇募多勢、既築壊崩蝦夷蝦陵探査空終天皇記國記之焼失。
是奏上、茲大王召和珥氏物部氏土師氏中臣氏平群氏羽田氏巨勢氏葛城氏庶家蘇我氏等、以公宣天皇記國記焼失、云々

右記の如くありて、その實在を知らざるなり。後世に平將門、此の社を石井に移したれど、天慶之乱に敗れ、此の宸翰を安倍日本將軍に託して果てり。爾来、此の行方ぞ謎なり。然るに、實在せるは事實なりける。

寛政五年十二月七日
秋田孝季

廿三、

艮日本國之上記、依語部古事録證史實、以語印自五千年来無抜事遺、是卽為語印八法
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如是八法也。語印古渡来、過五千年未用、艮日本國為國字也。
語部録曰、吾國人祖自山靼来、是地號日本國位大王、初稱安日彥王副王長髓彥王、以國治五王統率、永保泰平為荒覇吐神國神奉信仰一統。

右は語部録の序なり。全六巻になるも、丑寅日本國の歴史信仰を明細に記せるなり。然るに、倭史とは雲泥の相違ありぬ。
語部録に曰く、

是の如く傳へぬ。
丑寅日本國は山靼より人祖渡りて、吾が丑寅日本國と云ふ國を創りたり。人の住むる處は海近く川辺にして、山のある郷を好みて住居とせり。人集りて住居相集まる處をコタンと稱し、民を統卆せる者をエカシと曰ふなり。

是く語部に傳ふる如くなり。神の信仰に於ては、
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卽ち荒覇吐神を一向に唯一の神とせり。

寛政五年七月一日
磯野勘介

廿四、

荒覇吐神とは天地水の三要を以て一身にせる稱名なり。 太古にては、天なるイシカカムイ・大地なるホノリカムイ・水なるガコカムイとて、それぞれに稱名せども、山靼より渡来せしオシラ・イタコ・ゴミソの三人にてアラ・ハバキとて天地水を司る神にて全能なる神通力ありとて、速かに民心に深く渡りぬ。

イタコ・ゴミソ・オシラとはカルデア人にして祈祷師にして、故國シュメールの戦乱を脱し、安住の地を求めてシキタイのマジヤール人等ともに回紇・契丹・渤海を經にして来たる民なり。故土は王國にして常に戦乱絶ゆる事なくまたその殺戮、惨たるに萬里の旅を安住地に求めて来たるものなり。

古代吾が國に先住せる民族は、爭を好むなく相互なる睦を以て暮せる國にて、山靼よりの渡来人をも受入れられたり。彼らの中に鑛師あり鍛冶ありて、奥州はその暮しに便利を得たるなり。信仰また然なり。信仰また地民の信仰と相似たれば、アラハバキ神を速に地神と併せて崇拝されたり。
語部録に曰く、

是の如く傳ひり。
神秘な宇宙の運行を説きて神の哲理を迷信に除きてその眞理を説きたり。卽ち、神の實相は天然自然一切なるは神にして成りけるとて、神の相はその一切なりと説けり。オシラは農耕、イタコは靈媒、ゴミソは神の祭事を説ぬ。
語部録に曰く、

是の如くなれりと曰ふ。

寛政五年一月一日
栗田与三郎

廿五、

荒覇吐神神道に修験道を併せしは、その教祖なる役小角の感得に依りて成れる金剛藏王權現・法喜大菩薩及び金剛不壊摩訶如来らの、佛教渡来佛に無き革新のものにて、その眞理に悟道あり。安心立命に速達得べく宗旨に依りけるなり。

役小角も荒覇吐神に深く入信し、石塔山に於て本地の摩訶如来を感得せり。先なる金剛藏王權現は垂地に、役小角は本地を求め唐に渡らんとして果されず、丑寅日本に来たるものなり。石塔山に入峯し、荒覇吐神の信仰になる哲理にぞその眞理を究め、摩訶如来と曰ふ本地の相を得たり。

抑々、摩訶如来は擴大なるを意趣せる主尊なり。小角、常に伊豆の蟄居に、赦され本地を求めての苦悩あり。その求道に自からを旅に明暮れたり。唐に渡らんとして玄界灘に遇難し、若狭に流着し、石塔山に得たる摩訶如来を自ら一彫三禮に仕上たる金剛不壊摩訶如来こそ、世に出でず石塔山のみに日本將軍に守護され来たりぬ。

小角はもとより信仰の道は一佛にして、他心なく修験本願を永き修行にも、石塔山に至るまで得ること叶はざるなり。既に老令盡して、此の地に入滅せり。石塔山に遺れる役小角の墓あり。安東氏に菩提を供養され来たるを、我等是に追善せんや。

寛政五年十一月一日
古川常繁

本記の十番に入れし世界図は小林清一郎氏より進呈されたるものなり。彼は東京市日本橋、集英堂主なり。

末吉

和田末吉