北斗抄 壹


(明治写本)

注言

此の書は史實なれども、世襲に支障ありて科を招く恐あり。依て、門外不出他見無用とすべし。然るに、記逑大事なれば能く保つことを子孫に固く護らしむは、継主代々の掟と心得可。

眞實の史は、一つにして二つあるべからず、依て永代に遺し置くものなり。是ら北斗の正統史とならむ日まで、密として襲權に忍ぶべし。

寬政五年四月
秋田孝季

丑寅日本國神

古来、吾が丑寅日本國神の發祥の地は、西山靼のシュメイル國なり。カルデア民族に依りて、宇宙に十二星座を、日輪の赤道より黄道にかかれる宇宙の星座を春分・秋分に渉りて造れる十二星座を以て、一年を十二月に割算し、暦を以て海の干満、春夏秋冬の星座を宇宙図に覚りて、北斗の星を右卐・左卍と四季の運行に悟り、是を雄神・女神のアラハバキ神と構成し、信仰の一義とせり。

抑々、アラとは宇宙星座の獅子座を意趣し、ハバキとは地を意趣せる蛇を地母神とせり。依て、アラハバキと稱すは、萬物雌雄になる生命の轉生を永世に遺す、神の眞理を求道とせるその理趣を信仰と結びぬ。此の世に於て、信仰を人心にして創めたるは、カルデア民族が世界の初なる信仰を説きたる創なり。凡そ、萬物生命を為して、その生命を永世に遺すは、生と死の眞理に求めて成るは、雌雄をして産み給ふアラとハバキの神の他、非らざるなりと説けり。

是なる意趣に證し、古代オリエントに發祥せる信仰ぞ、今に遺れる多し。キリスト教・ムハメット教・ギリシア神話・エジプトの神々なる信仰の要になれるは皆、アラハバキ神の起源に依れるものなり。冴え渡る夜空に獅子座の彼方より流星群をなして地上に天降るは、萬物の魂魄とてカルデア人の信仰にあり。宇宙を見仰ぐ神への祈りは、宇宙の運行を覚得せし一義たり。亦は天地の軸に北斗星を宇宙の極星は巴の軸と悟りて、神なる眼とぞ信じたり。エジプトなる金字塔は北極星に要向せるも、是れに従ぜるものなり。

凡そ世界になる信仰の基は、古代カルデア人の宇宙・大地そして水の三要に陰陽の化に依りて萬物は世に生じ、その進化に現世は生々萬物を変化せしものとて、生死の理念とせり。依て、過却の彼方・生ある現世・未知なる未来の三界は萬物が生命轉生のなかに成れる智得の出世に、人は先端に在りきも、智は人の為なるも、方途に逆用せば、人を亡すと曰ふ。

世に生々せる萬物は一物たりとて神の造らざるはなし。生々に非道ありせば、神は人間とて誅伐すとは、古代カルデア民の信仰なり。

文政二年八月十日
浅利元清

日本古記逑

一、開闢起源

凡そ世の先なる過却の事は、神なる創造に古事の記は想定せり。倭史の如きは、神なる國を髙天原とし、神孫は日向の髙千穂山に降臨せりと曰ふ。抑々、闢とは宇宙の創りにて、人史の極よりはるかに先遠く、宇宙の開闢ありと、古代シュメイルの土版文字に記遺りぬ。

世の創まれる先世はカオスと曰ふ、時も無くただ寒き暗の他、何事の物質もなき一点より大光明起り、それぞ大爆火を誘爆なし、宇宙は大光熱を起し、そのなかより物質塵、宙に漂ふて日月星を誕生せしむと曰ふは、シュメイル及びギリシアの先なる住民カルデア民の哲理たり。グデア叙事詩・ギルガメシュ叙事詩になる宇宙の開闢は、凡そ數百億年前の出来事なりと曰ふなり。その端を發せるを、アラとハバキの陰陽に生じたる大暗黒・大寒冷のなかに生じたる大光熱は、カオスと曰う一点の動化に依りて、宇宙の開闢は成れりと曰ふなり。

抑々、人の型に成れる通力に非らず、自然に起これる物質への法則とも曰ふなり。然るにかかる大眞理を排斥し、神を全能とせる人々の起案に、宇宙を神の創造とし、多様なる迷信に人心を惑はしめ、神の信仰をして異教徒とて、従がはざる者を断じ、權を以て入信せるはカオスの法則に逆反せる行為なり。

カルデア民は、その信仰の横道を抜け、故地を脱し、新天地に移り、眞理を説きて遺したるはアラハバキ信仰なり。智才・學才にあれども、造り神の理趣は自然の法則に優れるはなかりけるなり。古代カルデア民の哲理に叶ふ宇宙開闢の眞理を抜くこと能はざるは、今になる世界諸國に於ける信仰なり。

吾が丑寅日本の國は、四千年の古き世にカルデア民の渡来に依りて、現に傳はれる信仰なり。依て、古来より人をして上下の階級を造らず亦、人と爭ふは信仰の道・天地の法則に逆らふものとて、戦事に侵されずして挙行せる事はなかりき。アラハバキ神とは、惡なす者は總てを喰いつくすと曰ふは申せるに及ばず、支那にてはトウテツ、天竺にてはシブア、蒙古にてはブルハン、吾が國にては白山神を、アラハバキ神の神使と崇むなり。

文政二年五月二日
物部越中

二、天地之開闢

凡そ天地の開闢は、宇宙の開闢よりその時空をはるかに隔てたる後に成れるものなりと、グデア叙事詩に記ありぬ。日輪を先として、その残質に依りて成れるは曜星なり。卽ち、地なる他、土星・金星・木星・水星・火星なるは地界と兄弟星にして、日輪より開闢を後とせるは眞の哲理なり。

宇宙になる億兆の星々は、日輪の如き親星を中心にまたたけるなりと曰ふ。地界より天に仰ぎては、日輪の光熱を萬物の生命を持續にせる遺孫に、生命に生死あるとも、絶えざるは、日輪は萬物の親なればなり。天地の開闢は、宇宙になるカオスの宇宙開闢よりはるかに後なりと曰ふなり。

日輪を天なる萬物の種源となし、その光熱の天降れる地界に於て生物生命の誕生せしは、大洋にして陸より先とて萬物その生命進化をなせり。藻より海草に、貝より魚虫に、やがては陸に生息を求生せしは海草にして、その海草より草木となりて地表を生覇せり。次に陸生せしは魚虫より進化をなせし動物にして、草木を餌として満たるも、巨體なる鯨の如きは歸海せり。人類が陸に生々せる創めはネズミの如き小動物なりと曰ふ。

生命體を進化せしめたる人祖は猿の如く樹上に生々せるも、樹下の餌となる陸海の食生に降りて、無尾二足歩行に人として進化を達成せり。生々せる萬物の生存になる生命を餌食とせる連鎖に生存を求めて、その安住を萬物は地界・気候・風土に渡れり。人類も亦、頭脳を向上せしめて、地の大陸に安住を求めて移住せり。

なかんずく人類こそ、惡の惡なり。人の安住を侵して掠むに、その殺生ぞ衆をなして少數を襲ふさま、歴史に遺るは勝者耳なり。非道を讃美し、人をして種を異にせる階級を為せるも人にして、權者は自らを神とて人を従卆せるは、今世に續くさまなり。吾が丑寅の民を蝦夷とて種を異にせるは、倭人の如く、世界は戦の勝敗そして報復に世襲を今に継ぎなしける。然るにや、勝者は戦を以て世を覇征せる世なり。

人智に依りて、その出芽さえも欠かる世の當来を知るべし。アラハバキの法則は往古より不死なり。天地の開闢は征者のものならず亦、征者が造りし神ならず。アラハバキの法則にその外道は亡びぬ眞理を覚るべし。

文政二年五月二日
物部越中

信仰之事

凡そ人の心と身體に在りて同じゆう想ふべからず。身體強健なれば心を勇め、諸慾を欲す。然るに眠あらざれば弱りぬ。眠とは肉體が心の為に自在の生を妨げらる故に、心を眠らしむと曰ふなり。肉體は心を宿せるも、心眠れども五臓六腑は一刻も休むなく、心の覚むるまでも血脈を打渉しむなり。依て、身體は終命に至るまで不眠不休なり。

依て身體をして己れならず健全を心得べし。身體に害なる食あり、暴飲暴食なり。心に依りて身體健康に害ある糧ありぬ。酒も味食も續けては毒と相成るなり。依て、人は薬となるべきを萬物に見付くなり。薬草耳ならず、鳥虫魚獣の生命を断って薬となせるありきも、身體は答ふるなし。

依て、人は信仰に救済を求むる多し。然るに、神を拝し如何に祈れども、その方便ぞ知る由もなければ、人をして神なる神託をなせる司の者に賴むる多し。靈謀なるイタコ及びゴミソ、亦はオシラの如き占にその祈願を賴むありきも、神ならぬもとよりの人なりせば、萬に十、千に三つ當るも當らぬも、その故に非らざるなり。如何なる大社・大宮に詣でるとも、その靈験のあるべくは稀なり。

佛道及び諸教の類に救済なく、徒らに散財耳ぞ自負に蒙むる耳也。アラハバキの教へにあるは、不老長寿はなけれども、長命健全の導ぞ今に教へ遺せり。

寛政七年十月八日
佐々木傳藏

奥陸秘話

抑々、奥の史は實史を文書に遺すものならば、科罪に度され重き刑を蒙りぬ。依て、史實を遺すは易意ならざるあり。亦、是を目安及び密告あらば、家宅を踏調られ、見付られたる文献は焚かれて失ふは常なり。奥州は倭史に反く事多ければ、各藩こぞりて領内の語部を巡脚に赦すことなかりき。

安倍日本將軍、前九年の役に敗れて倭朝のみやびに奥州をその模倣を平泉に巨費を糠に釘を打つが如く百年の栄華を夢追ふたる藤原三代にして灰とせしは、安倍氏なればかかる放湯の費は赦さるべくなく、領民一義の救済に當つるなり。佛法に迷信なして、奥州古来のアラハバキの法則をないがしろに、末代に渡るる救ひぞあるべくもなかりき。

安日彦王より累代せる安倍・安東・秋田氏と渉る世襲に於て今に尚、三春五萬石たる大名にある安倍一族の君座の存續を如何と思ふべし。一族のアラハバキなる法則は先ず以て領民安泰を一義とせる故なる天惠の救運の致す處なり。秋田氏の秘にあるは安倍・安東以来の産金を栄華に費すことなく、今に以て埋藏掘出しの掟を破る事ぞなかりけり。古くは源氏、是をねらふて前九年の役・後三年の役・平泉攻めを以てこの財寶を掌中にせんとぞ、その後世まで源氏に縁る藩主、南部氏・佐竹氏・大浦氏こぞりて奥に國替を以て駐留せしも、その秘寶に當る事ぞなかりき。秋田氏、天明の三春城下の大火に初めてその寶藏の封を破りて幕府の借金を返済仕りたり。

田沼意次が三春藩に古代シュメイルまでの山靼經由を以て、丑寅日本とのかかはりを派遣し、その報を得たるより意次が失脚に至るまで、一次より三次まで山靼・西山靼への派遣を密に渡らせたるは、秋田一族が往古の往来にありき故縁なりと曰ふ。秋田氏は大名に在り乍ら、系図に蝦夷として累代を連ね、氏祖を安日彦王・長髄彦王・日本將軍安倍賴時の流れとしても、皇族の系を入れざるは、渇しても盗泉の水を呑まずと曰ふ、奥州武家を誇りにその代々をつらね今に変らざる處意なりき。

蝦夷とは何ぞや。蝦夷こそ丑寅日本國の眞なる先の住み人ぞと曰ふは、秋田氏が獨り居候ふ諸大名の中に、自からを蝦夷と稱してはばからず、稀大なる大名の一人たり。秋田氏が是く曰ふ心中に、諸大名になき大祖一系の血筋と日本將軍代々に遺したる財寶を秘中の秘とし、心は金藏の安座にありて五萬石の三春に君臨し、日本將軍の大夢に代々秘中を破らざる巨寶に護らる實力の故に安泰を保てり。

安東一族にある者は、諸國にありて萬機の當来を互に忍ぶる竹林に隠密せる猛虎なるを知るべくもなかりき。秋田氏こそ朝幕の權謀術數に躍らざる眞の名君たり。

文政五年二月四日
長谷川満次

奧羽陸古話記

凡そ倭史をして蝦夷地とて住むる國を化外地、住むる民をまつろわざる外民とて稱し、永代に渡りて征夷の反民と史談を作偽せる丑寅日本國こそ、古くは西山靼の世界に流通を極め、古代オリエントの進みたる開化に國造り日本國と號せり。古代シュメイルに習へて文字を以て通達せしは、倭人よりはるけき古事の過却なり。

國、丑寅にして倭と境をなせるは坂東の安倍川より越州糸魚川に底帯せるを以て日本國となせり。洋々たる波涛千里に續く彼方に往来せる古事、アルタイ及びモンゴルを黒龍の流れに乘りて、流鬼・渡島を渉りて渡来せる紅毛人より、生々衣食住の化を習ひ、以てアラハバキの信仰を授傳し奉り、先進たるエジプト及びギリシアそして本命なるシュメイルの信仰にてアラハバキ神なる全能の神通力を覚り、天なる神・地なる神・水なる神の大要哲理を習得せり。

天なる宇宙の創り、大地の開闢、萬物生命を誕生せし水なる一切の動化に人の誕生を覚り、世界は海道を以て萬國に通ぜるを覚ひたり。神秘なる宇宙の運行、日輪の渡る赤道と黄道にかかる十二の星座、カルデア民にて傳へらるアラハバキの神は、天地水一切の動化、その天然に生じたる萬物の一切を生けるは陰なる雌神・陽なる雄神にして、是をアラハバキと稱し奉れり。代々移りて人それぞれに求道し、地色風土に併せたる長老導師の説に乘じたるに依りて、多神教流りてアラハバキなる神より、メソポタミヤのルガル・ギリシアのカオス他十二神をして多神を神話とせり。エジプトにては天地を併せしアメン・ラア神他、天なる神の使者ホルス他、諸々の鳥獣及び魚虫を型どりて神像を造り創め、更にして國王たるを活神とせり。

されば信仰に人をして階級を造り、依て貧践の民より安らぎを求めたるなかに救世主たる導師示現せり。アブラハム及びイホバの神亦は、唯一の神アッラアそしてオウデン神・シブア神・ブルハン神等々。人の渉り移る新天地に神は造られたり。吾が國のみは古代シュメイルのカルデア民族渡来に依りて遺されたるアラハバキ神を天然の天地水に崇拝せども、代々を經て女人等、土形を造りて神像とせり。天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコの三神をヌササンに祀り、神とて魂入るはカムイノミに焼固め、イオマンテに祭事せる後、各々チセに持歸りて神とし各戸に祀るを習とせり。然るに吾が國の古住民アソベ族・ツボケ族の祖なる神あり。

アラハバキ神の渡らざる以前なる神ありぬ。卽ちイシカ・ホノリ・ガコの神なり。此の神の鎭むる神靈は石にして、石神信仰を以て祭祀せり。名に遺る奥羽陸の山野海辺に今尚以て祀らる石神こそ、もとよりの古住民なる心にぞ、斉きたる神なり。依て是をアラハバキ神と併せて稱名しけるは、天と地と水に三禮し、東西南北に四拍し、總して一禮為し、アラハバキイシカホノリガコカムイと四辺をくり返し唱ふは、神事の行事たり。

文政五年七月三日
和田壹岐

神鎭之事

上磯、磯間津、十三、舞涛、金井、吹浦、龍飛、江間別、神多、宇丁津、大波澗、宇涛、奈津、陀奈辺、皮内、差江、大間、糠辺。
右は東日流、宇曽利に鎭座ませるエチャルバなり。海辺に在りて海なる幸を祈りて奉る神處にして、石神の奇岩、今に遺れる處也。

三輪、大嶽、巌鬼、猿型、白神、坪毛、大輪荷、栗石、汗石、中山、大倉、飛鳥、東岳、名久井、宇曽利、八頭、焼山、戸来、相内、大石、山内。
右は古来、荒覇吐神の鎭座ませる下磯の山地なり。

文化二年二月四日
神丘之住 越後屋佐吉

耶馬臺之事

倭の國に耶馬臺と曰すなん女王國ありぬ。此の國に坐せる國主、三輪の蘇我に阿毎氏、明日香に大伴氏、奈古に巨勢氏、生駒に物部氏、葛城に天皇氏、木の國に平群氏ありて、女王の宮・攝津に貢す。世に是を畿内七王とて、筑紫・南海道・山陰・山陽・東海道・北陸・近畿に治政冋住せり。

倭國とは是の七王を以て七宮あり。その本宮を耶馬壹と曰ふ。七王の住める耶馬壹より耶馬六に至る王居を以て耶馬臺亦は耶靡堆と稱せり。本宮に女王を以て継ぎけるも、北陸なる越王、山陰なる出雲王の國併に依りて七王の國治、大いに乱る。國記に曰く、凡そ倭を統卆せるは天皇氏を以て為す可くと、和珥氏・蘇我氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・春日氏、六氏に依りて一國一天の萬乘を國治とせり。

依て外史に曰ふ耶馬臺國とは七王の古稱にして、耶馬壹とは位地異なりぬ。耶馬臺卽ち耶靡堆にして、筑紫に耶馬臺在るべくもなく、筑紫は耶馬壹國なりと記逑ありけるなり。

天明二年五月一日
相馬賴重

丑寅耶馬臺之事

北辰なる東日流の中山に、飛鳥耶馬臺と曰ふ地稱遺りぬ。安日彦王の名付たると由来せども定かならず。

今にして飛鳥宮遺りぬ。近くに耶馬臺城ありて知らるも、楓型に築かれし澤中にありけるも、山津浪にて跡型もなかる崩壊の底に埋りたり。此の地の押土より、勾玉・銅鏡など杣夫、見付けたる諸話多し。

天保元年十一月四日
外濱之住 中路隆藏

耶馬臺諸傳(注、物部家藏書)

右八冊に依れる耶馬臺云々は、何れも天の磐船にて飛来せる邪馬臺國の天つ神と曰ふなり。
(注、物部家藏書、㝍記ならず)

天保元年十月四日
上磯外濱之住 中路隆藏

樺太記

樺太島とは渡島の北、ウデゲ族・クリル族の古住せる島國にして、渡島とは流鬼海峽を隔てたる日本國土なり。モンゴル・山靼を流る黒龍江の水戸口は樺太島の西北に大陸の幾百の水流を集めて放流す。古代よりこの流水を利して西山靼より紅毛人の他、亞細亞五十餘の民族往来し、吾が丑寅日本國の民祖と相成れり。

依て吾が國の國神アラハバキ神信仰も、金銀銅鐡の採鑛・タダラの錬金法及び山靼馬の馬産、そして雪中に履くケリ卽ち毛靴、ケフ卽ち帽子、テケシ卽ち手袋、トナリ毛皮の造物多く冬越の着物を傳授されたり。北海に連なる丑寅の國土は海幸多く、代々日本將軍治領のもとに在りて諸族は爭ふことなく睦みたり。

丑寅日本國に遺れるチャシの跡、神を祀りたる海辺のイチャルバ、山のヌササンの遺る石神遺跡ぞかしこに遺り、カルデア民の傳へたるアラハバキ神・十二神他、天地水の神・アラハバキイシカホノリガコカムイの信仰ぞ今に遺りけるは賴もしき。

文政二年八月一日
河田重五郎

愚制民朝幕政

此の國は神武東征以来、その侵領地の民を生々自在を欠し税を科し智者を牢閉して愚践の民を以て造神の迷信に説き、反く者を断罪し治領の權を以て民を奴隷の如く畜生に労々せるが同様にして貢を強制せる治世の永きこと、紀元せる倭國の創より國治とせり。

民の生命を戦の毎にその先陣に徴兵し、死傷闘血に楯なめて戦の巷に屍を散らし、尚以て残れる民をその都度に生々の糧を掠むるさま、鬼畜の如く民を犯しぬ。凡主一人の權下に屬せる民はその愚謀に死苦辛々の常なる世襲ぞ今に尚改運の兆なし。まして丑宙の民は、生れ乍らに蝦夷と下践に類を異にし、その制々及ぼす事、常なり。

依て富貧の民差、官武商農工に階し生々その暴動を誘發なし、勢に勝せば出世し敗るる者は浪々隠身、三界に身の置處なし。故に報復の恨念絶ゆるなかりき。國を治むる者は民を人とせず唯、權謀術數に虎視眈々たり。官職はまた己が出世の為にその策謀画策を以て、己が妨げになる者を失墜せしめその上座に便乘せるあり。非理法權天の誠ぞ神耳ぞ知る他、正邪の天秤に計り難し。

文政二年十月二日
井沼賀吉

聞傳オリエント史

キリスト教とはその物語を旧約聖書に記逑ありけるも、天地創造を神をして天地を修理固成せるを説きぬ。人の祖はアダムとイブに創り、アブラハムの神とエホバにて主人とし、その神の座を天に仰ぎぬ。何事もエイスキリストを以て十字架を崇拝され、信徒は主エイスとてその一切を聖書にして衆に説きぬ。

然るにムハメットなる聖あり。世にアッラアの神を唯一の神とて紅毛國にてはその信徒多し。此の両教、世々に分派しその異教對立し、世々に戦を以て爭ふ歴史は血塗られたり。その以前なるエジプト・ギリシア・シュメイルの神々を信仰せる信徒は、今は故地に一人だにも非らざるなり。

天明元年、田沼意次の呈費に依りてオロシヤ・モンゴルを經て、第三回の紅毛國巡視いでたり。その目的とせるはアラハバキ神なる古代の聖地シュメイル・ギリシア・エジプト等に遺れる史跡の巡検たり。

孝季日記に曰く、

渡島より流鬼國に渡り、黒龍江の逆登りは想より速く船脚あり。明人の水先に案内を請ふて、ツタに至りて船降りぬ。ツタとは名のみにて人の住居なく、ときをりその野末に馬群を追ふモンゴル民を見る。

旅中に會ふる民族、既に三十六族なり云々とあり、その旅程の難儀を細事に記逑を遺せり。従卆せる者十六人にて、各々の國入りに妨げなかりきと曰ふ。道中、早春より夏に急ぎ、冬の極寒を先旅の四人を殉ぜしめたるにその旅程を企画せりと曰ふ。

大擴野に北斗の極星・日輪を道しるべとて天山を北路に馬走りトルコ・ギリシア・エジプト・シュメイルに至りて、その遺に走りては飛砂に埋むる往古の史跡ぞ多かりき。住人、古代の系遺らず。ジグラットなるは瀝清の岳となりて砂原に遺りぬ。エジプトも亦、然りなりき。世襲はギリシアの神殿をも廢處とせり。如何なるして築くるも石は砂と砕け、生あるものは逝きつる無常の世なれば、詮もなかりき。

西山靼に見る往古の遺跡は是の如く今に継ぐるなし。オリエントに遺る遺跡に於て六千年及至二萬年前なる人築遺は少なからず砂塵の底に秘めて遺りぬ。地の古物商人より入手せし古代の遺物とは何れも盗掘せしものにて、故人継住の民は亞細亞に移りて、多種系に混血なして、故地にぞ一人だに遺るはなかりき。

孝季日記に曰く、
權勢なる王國とて世襲の運命に久遠なるはなかりき云々と巻了に結び了れり。

文久元年五月廿日
秋田之住 木田麻呂彦

北斗巡記

坂東より丑寅になる國名・民名を蝦夷地・蝦夷民と稱すは倭人なり。
今より二千餘百年前、南番より漂着せし移住民あり。筑紫國に勢を為し地住民と併合し、東征に出で耶靡堆國を平征し、地住の民亦國主の脱遁は丑寅の地に落着せり。耶靡堆王の末胤にして安日彦王・長髄彦王の兄弟にして、その安住地を丑寅に求め、大挙して故地を放棄退去せり。

耶摩堆國は太古にして白山神・三輪大神・西王母を信仰に奉り、支那の大白山・朝鮮の白頭山より大白山に東下り、釜山より加賀に海を渡りて渡来せし民族にして、これを耶靡堆王として君主を立せしめたり。賀州犀川に宮を造りて住地の山川を故地に想ひて名付く。

白山・三輪山・九龍など今に遺りぬ。國造りぬ創を以て陸王・海王を立君し、陸王を三輪山に宮居し海王を出雲に宮居して、四方に治國を擴めたり。世を降り、その宮居も移りきは今なる畿内なり。國名を耶靡堆と號け諸國に國分の主を立て國治せり。

出雲荒覇吐大宮古傳に曰く、

耶靡堆國記
蘇我國大三輪宮國主耶靡堆彦陸王初代、浪速國膽駒國主葛城連、木國熊野大連、宇陀國火畝彦、名草國和珥君、速吸國津守、孔舎衛國雄水彦、吉備國平群彦、阿岐國巨勢連、宇佐國大元彦、筑紫國磐井大連、出雲國荒止彦、佐怒岐國大友彦、羽匹國物部彦。以國主之名稱為子孫姓、是倭國前之國稱及國主之初稱也、云々。

寛政六年九月三日
佐藤忠賴

編史諸審之事

口碑・傳説は一邑隔つ毎に、その話要・年代・人の生死までも異りぬ。依て何れが正傳なるや、綴方に記載も惑ふ。然るに以て棄記もならざるは余の感なり。依て新旧を問はず諸聞・諸書文献、漏さず記録せしは余の筆法にして眞偽の事は後世の判断なれども、世に障る事は遺りがたし。

倭史なれば何れもまかり、吾が丑寅の史はその障りを招くは眞實なるが故なり。權襲に黒き鴉も白しとぞ書遺したるは倭史なる總てなり。もとより古代に於て語部の話逑に変らざるは丑寅の傳にして、古事程に實相遺りぬ。先づは遺物・遺跡なり。

古代より山靼と往来してシュメイル・ギリシア・トルコ・エジプト・エスライル・アルタイ・モンゴル亦は支那を經て吾が國に至れるは人とその智識なり。倭人、是を狙ひて丑寅に侵駐し民の心理を掠め、産利を私にせる多し。依て倭人追放とせるや、征夷とて軍人を以て駐留せる處を倭の政庁と曰ふも、末代ならず亡びて久しけれど、その空史を偽に継記す。依て丑寅史と歯車の併ぶる事なかりき。

かねてより丑寅日本國とは倭人に曰はしむれば化外なる蝦夷地、まつろはぬ蝦夷民とて異なしめたり。古代に於ては語部印とて文字あり。古代シュメイルのカルデア民の傳ふるを一種乃至六種の筆法に遺せしも、漢書入りてより消滅す。依て倭人に知れる秘事は、語部文字にて未だに通用せる吾が丑寅日本國の古事記なり。倭史に遺れる蝦夷記は偽傳にして、信じ給う勿れと注言するものなり。惑ふ勿れ。吾等が遺せしを能く考學し倭史の偽を破るべし。

寛政五年二月一日
秋田孝季

祓障之言

禅の道元、念佛の法然と善信、法華の日蓮。古くは修験の役小角。異土にては切支丹のエイスキリストが十字架に殉ぜるが如く、世に眞理を遺すは祓へ除きても尚降りかゝるは魔障の火粉なり。法に理道は断たれ、法は權に断たるるも、權は天に依て断たるなり。

人の渡世に何人とて生々惡なき者はなかりき。學博士や神職・僧侶、更にして武家・官人みなながら自己大事とて、他人の非を突きて己れの満足を誇らしむ。そして亦、報復を受けて浮沈する。なげかはし。平等なる神の天秤に計るを知らず、何事の業に執するとも、人は己れを以て先とし、他人を踏臺とせるが故に、己が奈落に堕入りぬ。吾が丑寅日本の古代人をしてかかる罪障を招けるはなかりき。

人は相互にして生々し、相睦むこそ安住は久しく保つなりと子孫に遺しけるも白布に一点の墨、倭人の侵駐ありて、古習は惡用に染りけるなり。世に富貧を出だせるも、産労に蟲喰ふ商人ありて犯さるは民なり。國主栄華に更けて税を科して民、貧窮し反きては戦となりて世乱る。何れも人の為せる生ざまなり。吾等が古人祖来に曰くあり。智は秀なるも後害あり、學は得すとも後害あり。求道は救に惑ふあり。人に以て生々安しきことなかりき、と説けり。

寛政二年八月一日
生田善之介

山靼往来

太古船、丑寅日本に海を渡るはカルデア人流着以来なり。葦を以て家を造り、これをマデフと申せるは彼の故地辨なりき。亦、舟をハタと曰ふも然りなり。丑寅の歴史を知らずして歴史に眞のあるべきもなし。倭史に丑寅日本を當つるとも、歯車の噛合ふはなかりき。

古代オリエントの古史に縁る丑寅の歴史に眞ありて、作偽の倭史とは水・油の分離ありて混成あるべくもなし。シュメイル・エジプト・エスライル・トルコ・ギリシヤ・アルタイ・モンゴル・山靼を經たる人の世襲、渡来に成れる丑寅日本史の實相ありて、遺りたるは丑寅日本史の本命なり。古代より異土の人物渡来し、彼の地に進みたる智識にて古代丑寅日本の國造りは成れり。亦、神の信仰も創國と倶に一統信仰と相成れり。

倭人の侵入せるは史の後端にして、それも造話偽傳のものなりける。吾が丑寅日本國の創むるは一萬年及至五千年の古きにありけるは、アラハバキ神信仰の一統にして今に尚、神殿の各地に遺りきを知る可きなり。とかく倭史主眼に永き世襲にありせば、何人にも倭史を以て説く。神代なるを歴史に實在を念頭せば、世界史を冐瀆に封ぜる行為なり。如何に倭史を以て丑寅日本史の出芽を欠くとも、眞實はひとつにして、もとよりの創國に神代など神話を用ゆなき丑寅日本史は、世界萬能の史觀に相通ぜるものなり。

紫式部が源氏物語に逑たる如く、神代より世にある事を記しおきけるななり。日本書紀なぞ片そばぞかし云々とあるは意趣相當なり。世に權を以て國の世襲とせし者は驕をままに己れを活神とせるに至りて、國權を固持せむと欲し、歴史を曲折す。木に竹をも継ぎて生累として系図と作為せしも、所詮は權位失ひては崩壊風砂の如く抹消す。依て眞實は金剛にして、如何なる世襲にも古来相を遺すなり。

寛政五年六月七日
秋田孝季

安倍之譜

一、

抑々安倍氏之代々日本將軍、亦日髙見之國王と継號を代々之旨とせり。安倍系図に二流ありて、上國安倍系図を本命なる極秘の系図となせり。通稱下國系図を以て秋田氏に改稱姓せるを世に表せるも、その極秘なる本系図を世襲にいだせるはなかりき。

もとより安毎氏と曰ふは祖姓にしてその別姓は三輪氏・蘇我氏・白神氏・耶靡堆氏と多姓し、安倍氏を稱してより安東氏・秋田氏と今上に相継君せり。安倍氏の初代安毎剥撒、満違より賀州に渡来し三輪氏を姓稱し、程を經ずして白神氏と改め、東に國を越え蘇我氏と改め、國主となりて耶靡堆氏と姓着す。その累代にして安日彦の代、筑紫より外民の長・佐怒の東征起り、一族領民挙げて東北に落脱せり。

途にあり大挙せる領民臣下をその長老に決めて安住に置定め、主屬の者耳を日本國東日流の地を王居に國造り、晋の君公氏一族の流着民と併せて茲に日本國主に位せり。依て代々、神を荒覇吐神を一統信仰に改め、白山神・三輪大神などを修成し、唯一神・荒覇吐神を以て國神とせり。

享和二年八月三日
由利賴母

二、

安倍氏上國系図とは、日本國主の以前より累代せる明細に記逑あり。下國系図とは安日彦よりの系図なり。下図系図を以て遺したるは秋田實季が安東東日流系図・安藤上磯系図・安倍外濱系図・安倍糠部系図・安倍宇曽利系図・安倍千島王系図を以て世襲に知合を併せて記したるものなりき。依て、上國安倍系図を以て世襲に障り多かる故に、是の通り下図系図を以て世に通ぜしむ。

陸州に安日山あり、その麓に鍋越川たる安日川の支流ありて、その落合なる鈍片川岸に安日柵跡今に遺りぬ。此の史跡に住むる老人に聞く古話に曰く、安日彦王は此の地より羽州に越え行きたるに依りて、この川を鍋越川とぞ名付けたるものなり。羽州にては安日彦王を狩の神とて今に祀りき習、是あり。狩人の神とて山野かしこに今も祀りきと曰ふ。

安日彦王が弟長髄彦王と倶に國治王を四方に五王の政を以て倭國の境・東海坂東の安倍川より地溝に添ふて西海なる糸魚川に國境とせるは、丑寅日本國と倭國との國領・國主の創なり。安倍系図の要はこの世襲より記せるを下の系図と曰ふ。亦その以前より記せるを上の系図と曰ふなり。

享和二年八月三日
由利賴母

荷薩體史談

日本國は流鬼・千島・神威茶塚・渡島・東日流・宇曽利・火内・幣緯・伊津・生保内・庄内・砂泻・岩鬼・坂東、其の他四十六郷を併せて國領とせり。此の地に一統信仰さる他、五王・郡主・長老を以て國治せり。

國主安日王より安倍安國、日本將軍・安東將軍と稱され、康平五年厨川太夫安倍貞任が前九年の役に殉ぜるまでに王統せるは實在のことなり。倭史に日本國とぞあるは世襲に國號を掠められたる故縁なり。

古代に於る實相は、永く淨法寺・西法寺なる荷薩體の寺縁起なるも南部氏に依りて抹消されたり。

文政二年六月二十八日
岡田傳兵衛

明日香之史談

倭帝のおはす明日香にまつはる近畿に在る威勢にあるは、平群・和珥・巨勢・春日・葛城・蘇我・大伴・物部ら、天皇氏を圍むる國主にして天皇氏を奉るも、國權統治たる天皇の玉座に位を卽權を狙ふる群狼たり。大根子彦帝の時、佐怒王以来なる筑紫の權勢も衰えて日髙見より安倍川境を越え近畿に旧權を奪回せしは荒覇吐王の長子にて根子彦と曰ふなり。

根子彦、もとより安日彦王の流胤にて東日流下磯郡稻架邑に生れたるに、地の荒覇吐神を祀りき大根子神社の社名を頂きて名付けたるものなり。大根子彦、佐怒王以来の落人とてその子孫、丑寅に日本國を創立し代々に以て授継たる安日彦が直系の子孫たり。代々に稻作を以て丑寅に富みて、坂東の五王たるに卽位せり。五王のなかに大根子彦王、安東大將軍とて坂東に在り。

倭人の侵犯に怒りて遂に兵を挙げ、安倍川を越えて倭人の衆徒を追討しけるに、近畿の國主ら併せてこれを妨ぎける。大根子彦ひるまず祖國大三輪なる蘇我の郷に兵を進め、明日香に群ぐる筑紫の旧孫たるを敗りぬ。亦、畿内八氏降を請ひて大根子彦、天皇とて奉られたり。然るに荒覇吐五王たるに依りて、何れに君臨せるや否に判断に結果せるに大根子彦、明日香に駐りて天皇たるの卽位に荒覇吐五王を抜けたれば、從士の多くは從はず坂東に還りたり。

時に荒覇吐王たる東日流王、是を戒むれど大根子彦、倭王とて聞き入れずその使者をして東日流に申立てぬ。依て大根子彦、出雲王と併せその王居を明日香に築宮し倭王と相成り、八氏の勢を以て五畿七道の總領主とて畿内に於ける荒覇吐神を改むるも、臣下に崇むるを禁ぜるなかりき。依て五畿に荒覇吐神社かしこに建立を得たり。ときに出雲の地に荒覇吐大宮、筑紫の宇佐及び國東に荒覇吐神社の、今に遺りぬ。その行拝に三禮四拍一禮を以てなせるは今に遺りぬ。

大根子彦王こと世に孝元天皇と曰ふなり。その皇子・世に開化天皇ありて、先王の荒覇吐神社崇拝を廢止としその崇拝を禁じたり。依て出雲にては荒神谷と曰ふ處に神器一切を埋めたり。筑紫にても然りなり。然るに五畿に今に尚遺る荒覇吐神社あり。信仰の深きを知るべきなり。なかんずく奈古の荒覇吐神社、そのまま今に遺りぬ。

文政四年十月三日
物部清仁

日髙見史談

吾が丑寅日本國に遺されし歴史の實相たるや永く世襲に制せられ、その障りあるべく史跡及び遺物・文献の類はほぼ抹消焚失に、眞の實能を世浴に圧せられたり。日髙見とは日本國の中央を曰ふなり。日本中央とは東日流にして、渡島を日髙と曰ふ。日髙見の地位を名付けたるは、丑寅日本國の別稱なりと曰ふ。

西海と東海そして北海の波涛に海道として渡来せる山靼人の多族各々故地傳統を此の國にもたらしめ、古代にまつはる歴史は倭國をはるかに超越せる古史に遡るなり。丑寅日本國の古代民にカルデア民と曰ふあり。シュメイル・トルコ・アルタイ・モンゴルを經て、黒龍江の流れを降り、流鬼・渡島を經て丑寅日本に流着せし民は多種多族なり。吾が國の民の祖は、是れら併合して成れる民なり。凡そ吾が國にもとより住むる民をブルハン族にしてアソベ族・ツボケ族・カルデア族と渡来民にて混血し成れるは日本の民なり。

この民になる歴史を遡れば五萬年乃至十五萬年とも曰ふ。世を降りては西海にある民をアラ族と曰ひ、東海にある民をニギ族と曰ひり。是を併せて成れるを荒吐族亦はアラハバキ族と曰ふ。生々民の暮らしにては長老を邑長となし、爭事を好まず、總てイシカホノリガコカムイにゴミソ・イタコ・オシラの説得に従ふるを掟とせり。古代に於ては天然自然に突如として起る、海中の爆噴・陸の爆噴そして爆噴にともなふ噴火・寒冷・猛暑・地震・大風・大雪や大雨そして洪水。背合せなる生死の生々に安し事なけるを神なる業とて、これを鎭ませるは信仰に依りて神なる全能の神通力に便れり。その奇蹟を司るは過去・現在・未来になる靈媒をなせるイタコ・オシラ・ゴミソの神司にぞ祈りを委ねたり。

依て諸々の生々に人心を善生に導くは、是れに理法權に人造り・國造り委ぬるは、未智なる古代人の心理たり。吾が丑寅日本國の古代に於てをや、アラハバキ神を救世神とて擴く山靼の傳来を授け入れたり。依て黒龍江を道として往来せる馬皮・牛皮に造れる張木舟にて、その流通を可能ならしめたり。夜は北の極星を地水に角度を計り、昼は日輪をして己が位地を覚りたる海道・陸路のしるべとせるは、何れも彼の國人なる旅程の法なる授傳たり。地より金銀銅鐡を採るも然りなり。

鳥獣の毛皮を用ふる着衣・履物・帽子・手袋及び諸道具の造れる法も亦、然りなり。葦を用いて住居となせるも亦然りなり。生々に於て山靼往来なくば、古代丑寅の開化ぞなかりき。彼の元國は倭國を攻めにしても、丑寅日本國を流鬼島にも犯さず。吾が國の凶作を糧を与へて救ひたるに依り、丑寅日本國の寺社にフビライハン亦その事能しめたる揚州のマルコポウロの像を祀るはその故なり。

寛政二年五月一日
稻田喜廣

坂上田村麻呂不戦

倭史に曰ふ坂上田村麻呂の傳に蝦夷征伐を華々しく記載せども、史實に於て雲泥の相違是在りぬ。寶亀五年以来、倭朝に於る蝦夷征伐せる主旨なるは膽澤を掌中にせむを要とせり。

延暦廿年、坂上田村麻呂二度に渡りて勅令を宣せられ、奥州への征討を諾したり。田村麻呂、挙兵を以て日髙見を討を叶はじとて、奥州にぞ諸職にある者を従ふて、武人一切を伴ふを断たり。依て奥州に佛法の流布・世流の衣縫・住居の造り・鞍造り・玉造り・佛師・鍛冶・芸人・塗師・金工・酒造り・曲師・醫師・薬師・僧侶等、伴ふ數は八百六十七人と曰ふなり。

延暦廿四年五月二日、膽澤に駐留を五王の阿弖流伊より赦されて果せり。四丑道とて羽州に通道し、陸州東海に塩之道・牛越道・東日流道・日髙道を造りて、東西南北の流通を開きたり。亦、倭城の造りをその道驛に造りて宿とせり。卽ち倭人政庁の如く曰ふはあやまりにて、當時なる皇化の制に貢税せし者は奥州になかりき。

丑寅日本國に倭史に見ゆ城柵は大化三年に淳足、四年に磐舟。斉明天皇四年、都岐沙羅。和銅二年、出羽。天平五年、飽田。九年、多賀・牡鹿・新田・色麻・玉造。天平寶字二年、桃生・雄勝。神護景雲元年、伊治。寶亀十一年、多賀城再築、飽田再築。由利らの城柵卽設ある如くあるも、かかる倭の征夷に依れる政庁ありと想はせしも、奥州に大寶の律令及ぶるなく、戸籍の至る術、非らざるなり。依て坂上田村麻呂が膽澤・志波・中山に柵を築きしと曰ふは、五王なる阿弖流伊の許に依りてその一行の宿舎に自建を認めたるものなり。

徳丹は荒覇吐神なれば、圓田を神田とし、イシカ卽ち日輪に捧げたるものなり。依て倭人の築きたるに非らず、倭人の造法に得て造りきものなり。坂上田村麻呂の陸奥にありて蝦夷征伐とあらば、佛法奥州に遺るなかりき。田村麻呂を今に祀りきは、征討に非らず、是の史實に在る古縁なり。

文化二年八月廿日
小野孝之

蝦夷とはに

吾が丑寅日本之住み人を倭人に曰はしむればアイヌ亦は蝦夷・賊首・首師・魁師・俘因など多稱に記逑ありぬ。亦、住むる國土を化外と稱し、蝦夷地とて丑寅日本を践しむ。東日流より本州にありきはアラハバキ、渡島より以北をクリルと稱せるは古代からなれる正稱なり。

クリルの本州に住みける地の渡来處ぞ擴し。クリルとは山靼人を意趣せるものにして、三年毎に山靼に於てクリルタイを五十八族集いて、各々諸岐を傳へ亦修せるなり。
その催しは次の如くなり。

右五種になる集合議談と實践なり。
三年毎に地を改へ定め、千里の離定にありても集ふるは古来よりの傳統なり。依て山靼にその道のしるべとせる無人の地に家屋を造り建置ぬ。チタ邑・クリル邑・オロッコ邑・ウデゲ邑・アルタイ邑、その里程に人の無住なれども、クリルタイの旅なせる者の宿處たり。

文化二年八月一日
磯野甚介

丑寅日本民之食生

倭人の曰く、蝦夷は肉を喰い生血を呑む、と曰ふ。往古より山靼にては山野に狩猟を以て保食とし、陸獣・海獣を狩りて食す。保食をホルツと曰ふ。冬寒に狩得たる獣肉を干して打砕せしを三年に保つぬ。一据のホルツを湯に漬く耳にて食す。ホルツは牛なれば十頭の肉を背負ふる輕さなり。

ホルツトナリと曰ふ毛皮衣を以て、極寒の氷雪に野宿に自在たり。如何なる異土に旅せるも、北の不動たる極星にしるべを定めて萬里の隔つ里程にも迷はず往来を可能とせり。海航また然なりと曰ふ。智識の師はエカシにて、子々孫々是を手本とす。

寛政五年九月一日
エカシ ピリカヤエン

原漢書 安倍氏築湊之事

一、

天平寶字の昔、上磯十三入江に山靼船来りて通商を請ふ時、上磯にては産物に欠け、山靼船を男鹿なる北浦に水先す。北浦にては山靼の欲せる金銀を産し、その請望に達せり。男鹿にては鑛師の名人三人あり、阿計徒丸・阿計留丸・阿計志丸と曰ふなり。

地民、是を鬼と稱し、通稱ナマゲ亦はナマハゲとも曰ふ。鑛師、タダラともタダラ師とも稱し、金銀銅鐡の鑛を得るまで一生を山岳に探りぬ。鑛に當りては人を集め邑を造り、道を通して狸掘り・巴縦掘りにて採鑛せり。砕鑛・流水選・鑛鎔に順労して金なる塊と相成れり。

古代より東の鐡・西の金とて、丑寅の日本國各處に産金多し。平泉なる藤原三代の産金は費されども、安倍氏にてはその消費を断つて、今にしてその藏處、世人の知る事あたはざるなり。その秘藏になせる金塊百萬貫、アラハバキカムイの護持にあるとの他、謎なり。それを解くは、安倍上之系図に在りと曰ふ。

寛永二年七月二日
秋田實季

二、

安倍氏の蓄蹟せし黄金の費に出資をせるは後世なる代にして、奥州に築湊せる費、亦異土往来の可能なる船を築工せる費の他、戦費に用ゆなかりき。海商に依りて益をなせり。依て、積藏の開くもなし。吾が一族は是の如き黄金の蓄藏あるが故に、心の支柱ぞ強けく豊かたり。

然るに、少かに心赦るせば、獅子身中の蟲に犯さるあり。吾等は自から蝦夷として世慾に外せるも、策たり。依て下之系譜を以て表とし、その肝心を明さず今上に至るなり。安倍氏は秘中に在り、表を飾らず、領民の生命を一義に大事とせるを要とし、吾が一族の血に、人の上に人を造らず亦、人の下に人を造るなし、と祖来の道とせり。人の生命危ふしたるに金藏を開くなり。

依て上の系図ぞ、代々にして見つるなかりき。黄金を以て築費せるも、砂土に埋る十三湊の如く、その世襲に於てぞ荒ぶる己心に自放し、黄金を湯水の如く費するは、貧苦の報復あるは必如なり。吾が領は湊あり。その往来を異土に望みたる故に降りかかる國賛に断固たり。

寶永二年七月二日
秋田實季

倭國移住跡

丑寅日本國之民に、志して倭に移れる民あり。陸奥より伊予・筑紫・和泉・攝津・筑後・日向・土佐・出雲に神亀二年より延暦十九年に至れる間なり。是れに出羽の民を併せて、二千四百人と曰ふなり。彼の移民が倭に為せるは、荒覇吐神を倭に布したる跡ありて、出雲の荒覇吐大社・奈古の荒覇吐神社そして筑紫の宇佐荒覇吐宮・國東の大元荒覇吐神社・日向の岩戸荒覇吐神社なり。

此の他、南海道・山陰・山陽にそれあり。拝禮に四拍を以てなせるは、荒覇吐神への禮拝なり。今にして倭神に神替にあれども、かかる古習の遺りきは、志摩の伊勢神宮とてその行禮を今に遺しぬ。

文政七年五月十六日
田口兵衛

律令下蝦夷記

大寶律令とは一千五百條から成りぬ。卽ち、律五百條・令一千條なり。然るにや此の條文、何れを行文に讀めども蝦夷たるの行を見るに當らざるなり。

依て化外なる國・まつわぬ夷人とて、倭國の境外亦は外番と曰ふ意にして、丑寅日本國は唐國・新羅國より睦みを欠くる國とぞ意趣に在り。堕羅舎衛よりはるかに下践に心得たる故なり。卽ち、蝦夷とは朝聘の徒に非らずと曰ふなり。

倭史に行書なせる丑寅への事は倭史・日本書紀の如く史に造りたる架空の天皇・神武天皇紀に曰く、

愛瀰詩烏毗儾利毛毛那比苔破易陪逎毛多牟伽毗毛勢儒

と記ありぬ。
是ぞや笑止千萬なる愚逑なり。世に在位を百歳に越したる神代より継ぎける人皇として、その一世の天皇が既にして蝦夷を知るべきは後記の附話なり。日本書紀なる景行紀に曰くを更に審せば、世に三百年も生々せる竹内宿禰なる蝦夷地巡見奏上文中には、

東の夷の中に日髙見國あり。その國の人、男女並に椎結け身を文けて為人勇み悍し。これを總べて蝦夷と曰ふ。亦、國土沃壤えて曠し撃て取るべし、

と記逑あり。更には景行天皇が小碓命に詔したるは、次の如く宣したり。

其の東の夷は識性暴び強し凌犯を宗とす。村に長無く邑に首勿し。各封堺を貧りて並に相盗略む。亦、山に邪しき神有り、郊に姦しき鬼有り、衢に遮り径を塞ぐ、多に人を苦びしむ。其の夷の中に蝦夷は是尤だ強し。男女交り居りて父子別無し。冬は穴に宿り、夏は樔に住む。毛を衣き血を飲みて昆弟相疑ふ。山に登ること飛ぶとりの如く、草を行ること走ぐる獣の如し。恩を承けては忘る。怨を見ては必ず報ゆ。是を以て箭を頭髻に藏し、刀を衣の中に佩く。或は黨類を聚めて辺堺を犯す。或は農桑を伺ひて人民を略む。撃てば草に隠る、追へば山に入る。故、往古より以来未だ王化に染はず云々、

とありぬ。是れぞ吾が丑寅日本國を知らざる想考の架空文なり。依て、律令なる記逑もみちのくに當るはなし。

寛政六年二月二日
秋田孝季

山靼馬之渡来

山靼馬の大型なるはアルタイ馬にて、小型なるはモンゴル馬なり。何れも名馬にて寒地に適生せる馬系なり。古代より騎馬民の手に依れる産馬なり。古代丑寅に馬を倶に渡来せるシキタイ族・モンゴル族の遺産馬なりき。

モンゴル及びシキタイの騎馬民、世襲に衰ふとき大挙して吾が日本國に、流鬼・渡島・東日流へと筏渡りしものなり。なかんずくシキタイ民にては、ヘラクレスを守護神として、己が死しては用ふる馬をも倶に埋葬せし古習にありぬ。亦、モンゴル民は馬を去精せる手術法を傳へたる民なり。依て種馬、秀なるを遺しき改良に向上せしむ丑寅日本の名馬を産ぜるに至りぬ。

安日彦王の代に古代カルデア人の移住にて吾が國に馬の住むる寒立馬、宇曽利に渡りて野馬となり、糠部駒たるに至りぬ。馬を飼ふるに至るは、何れも山靼との人祖移住ともに定着せりと傳ふなり。倭に在りては馬になる歴史ぞ浅く、丑寅にては馬史をして四千年の過却に遡るなり。

寛政七年八月六日
秋田平内

倭民之惡計史

丑寅に住むる倭人、その地位・人住むる邑を倭朝に送文をなせるだけなるを巧みに祐筆に遺せるを史に綴り、倭の化にある如く丑寅の地域にかかる住人を隠密せり。依て、その征夷もなきに政庁を置きたる如く、律令及ばざるに及したるが如く倭史は綴られたり。依て、今になる往事の律令戸籍帳なるは一行の記逑も遺るなく、偽史になる祐筆史耳遺るなり。

倭史の奥州古代なるは、何事の實相にぞ當るはなかりき。然るに草入れたる倭人をして丑寅の邑長を記し、さもありきに巧書さるは、征夷たるに記逑さる惡計をこらしたるは實践せる如く今に遺れる倭史の綴りたり。倭人の草入多きは、丑寅日本國主の在所に多く、安日川・日髙見川の支流域に多し。岩手・西根・太田・矢巾・熊堂・江釣子・金ヶ崎・膽澤・華泉にたむろせり。何れもなる倭人の住家河辺にあり。遁落脱に便なるを選びたり。

老人遺言葉帳に曰く、
倭人集いては惡計を盡し地民の財を掠む。依て捕ふれば倭王の密使たりと白上す。依て断罪せるその數、餘多なり。
倭人を奥州挙げて討伐せしは、寶亀五年に始りて三十八年に及べりと曰ふ。

文化二年七月二日
千葉瑞覚

渡島住民往来

渡島住民の日本國往来を自在とせしは、東日流・宇曽利・糠部・火内・荷薩體・飽田・鹿角・仙北・庄内・閉伊に多し。依て渡島住民の名付たる地名ぞ多し。クリル語にて山靼に通用せし古代先住民に相續せる言語なり。

依て、安倍氏の築城になれる城柵の名に於てもクリル語になれるは多し。外濱なるシリハチ城・宇曽利なるカッチョチャシ・糠部なるポロチャシ・東日流なるシリツカリチャシ・秋田なるオボナイチャシ・荷薩體なるヘライチャシ・マベツチャシ・トマベチチャシ・閉伊なるトウベチチャシ・ウベチチャシ・ヨロベチチャシ・コロベツシヤシ等多し。

安倍氏は民族をして人の種を嫌はず。平等一義に交流なせるは、祖来の染なりと曰ふ。山靼通商を以て為せる湊は、渡島にてはマツオマナイ及びワシロケシ・エサシにして、東日流にてはイマベツ・トサケシ、外濱にてはヨウテイケシ・ウトウケシなり。古来クリル族の言葉になるはシャモは倭人にして、丑寅日本に住む人をツカリと稱しぬ。

文化二年八月十七日
加東玄馬

荒覇吐信仰之事

古く丑寅日本耳不為至倭信仰の弘布を果したる荒覇吐神とは如何なる神通力加持にあるや、今に知る人ぞ少なし。古代オリエントに頂を為したるエジプト・ギリシア・シュメイルの神々も現世にその信仰を保つ者はなし。吾が國耳はかたくなにその渡来信仰を今に法灯を絶せるなきは、祖血の累代に相通ぜる靈力遺傳の直活縁因の故なり。

尚亦、源になる古代シュメイルのカルデア人にて創むる宇宙の原理そして地の原理・水の原理を眞にわきまえて崇拝せる信仰に、その全能なる神通力の必得に易きが故なり。アラハバキカムイとてクリル民に於てもイシカホノリガコカムイとて今にヌササンをカムイノミにエカシがイオマンテ及びエチャルバをして崇拝せるは、遠祖傳来に神の傳法に改む事なかりけるが故に永保せり。アラハバキカムイとは宇宙・大地・水の一切に萬物の種源ありとて生ある總てを、アラハバキの世に顯れたるに依り叶いたりと曰ふなり。

抑々アラハバキ神の世に誕生せしは、大聖なる光りと熱を以て本来、暗黒冷々たる無界に日月星を生ましめたると曰ふ哲理を以て説ける信仰の基なり。世に無なるを、光と熱に動化せる宇宙の誕生以来、世に億兆の星、陸海に萬物の蘇生は、生死を以て種性を進化に遺せる推移は、光と熱に誕生せるアラハバキ神の源理と曰ふなり。萬物は神の種源より生死の轉生を以て子孫を永代に遺す為に、各々生存を進化に求め、過去・現在・未来に種生を遺さむとて如何なる萬物にありとも生進と進化を自得す。

是ぞアラハバキ神なる信仰の主旨にして、世に生々せる萬物とその生々の故に連鎖を以て生存をぞ獲得せん。生命生存をして如何にその類なせる草木藻菌蟲魚貝鳥獣との萬物生命と和解ありや。人をして智得を理非に以て萬物の生々を妨ぐるなきを自生に悟りて相互なる救世にアラハバキ神ありと信仰せりと曰ふなり。

寛政五年十月三日
秋田孝季

聖譜

求めて聖に心を満さむと欲し、それに精進せるを逑ぶる言葉を求道と曰ふなり。信仰は心にそのしるべを覚らしむなり。信仰とて師に習ふもあり、自からの獨明あり。亦、誘信あり迷信ありて、對像・教理に支派ありて、本願を惑はせる多し。

荒覇吐神信仰の行願に於て易きの餘り心轉せば救いに會難し。求道を説く論師、神佛をして外道の諸行あり。世襲にその行願も亦、本願を外行に堕ゆありぬ。卽ち人心は轉易く安きを求むが故に尚、堕易きなり。誠なる求道は心不轉動にして、聖なる一心不乱の行に他閉し、自得當達に至るを念じべし。

その故に行願ありぬ。先ず以て心を無我に、神に三禮して天地水の一切に四拍を以て誓ふべし。一歩去りて一禮し、一歩進みて祭文を唱ふべし。
 アラハバキイシカホノリガコカムイ
是の祭文を心してくり返し、ただ唱ふべし。神に祈るは聲にいださず、腹言にて神に告ぐるべし。了りて供物を下して永供をするべからず。是の如くただこれだけになる行願の他あらざるなり。

荒覇吐神を拝對に欲する者は板に・と記し○△―と書きて神なる像と覚つべし。自身、如何なる處にありともその祈りき行願は神への通達、神社に參詣得ざる身體に障りある者・病在ありし者とて、その場に祈る者を神は救ひ給ふなり。供物あるもなきも神の欲せるは露もなかりき。

寛政五年正月一日
和田壱岐

為逆報聖者惡

荒覇吐神信仰に於てをや、人ぞ死に赴く如く心に諸慾を断て、不轉不乱に荒覇吐神を唱名する耳になる他、信仰の上ぞなかりき。人ぞ求道に欲しるとも、満つては欠くるが如き月の如く、信仰に入りても世襲に心轉倒し、他行の信仰に脱却せる多し。人心は眞理に賴みがたく、聖道を去り易く、流行の奇辨にぞ誘れ易きなり。

依て如何なる信仰も萬世に渡るなく、エジプト・メソポタミヤ・ギリシアの如く神殿の崩壊、復すを叶ふるなし。何れも世襲に去りて無常なり。然るに天地水は、何事に移るとも変らざる永きに在り、萬物は盡きるなし。荒覇吐神とて世襲にその信仰も風前に消灯危ふきにありけるも、吾が丑寅日本國に證跡を絶ゆむなかりき。人をして造りきは天地水の法則に優るなく、神を祭る築殿と世襲に久遠を念じて建つるとも、果は砂と砕て遺るは天然の地殼に埋りて歸土に化す。

依て荒覇吐神は天なる宇宙にその一星とて、地水を以て成れるこそ、神なれば久遠に絶ゆむことなかりきなり。依て人に造れる信仰の像、その伽藍に心惑ふべからず。心身みなながら、天地水の哲理とその化縁に己が信仰を委ぬべし。神は全能にして不滅なれば、人は如何に聖言をして神を造り信仰を化度せるも所詮は空にして、生々眞理の實相を覚つことあたはざるなり。心せよ、死は何れ来るなり。来たるとも心轉倒する勿れ。荒覇吐神は浂の魂を新生の生命に甦す、全能の神通力に在り。

文政五年九月十九日
和田長三郎

陸奧歌枕百選

〽生保内の
  花にうつらふ
   山吹の
  神も交はる
   心知られば

〽老隠る
  しばふる人の
   下り月
  こもる心は
   想いうちより

〽やごとなき
  一枝の花を
   なれために
  たをる今日こそ
   散らぬ先にと

〽駒嶽の
  山みな染むる
   白銀の
  朝立ち添ふる
   息も白吹く

〽みちのくの
  旅に行き會ふ
   おばこには
  面ざし妹に
   似見てまどろふ

〽目かれせず
  夕ぐれなゐの
   仙北路
  のどけき心
   はてはありけり

〽木がくれの
  佛寺を仰ぎ
   苔を踏む
  はろばろ至る
   なき母の墓

〽あはれとも
  いかにいはんや
   夫の死を
  時に別れて
   常はさむらふ

〽汲とれど
  手に取りがたし
   水月は
  親しきだにも
   今はまぼろし

〽山草に
  げにも啼きつる
   秋の虫
  心そらなる
   月さえ渡る

〽白百合の
  思ひの露は
   涙色
  米代川の
   霞湧くたび

〽外濱の
  春を隔つる
   波音に
  中山峯の
   霞浮なむ

〽惡しかれ
  今さらさこそ
   心だに
  あからさまさま
   ありしにかへる

〽わくらばの
  枯葉に苔も
   霜しのぐ
  羽賀寺かせき
   古へ見馴れし

〽かねことも
  人目をつゝむ
   手向身に
  笠も見苦し
   厨川辺ぞ

〽見る度に
  目もくれ消えて
   夜もすがら
  うつる夢こそ
   打つ引くを見る

〽戀しくば
  柳の舘に
   立寄れよ
  都のうさは
   たづき変らぬ

〽月に散る
  渡るかりがね
   夜をこめて
  なづとも盡きぬ
   聲なあやなす

〽一樹植え
  跡のしるしと
   日に向ふ
  身の秋既に
   うらぶれ乍ら

〽行くへをも
  命つれなく
   郷しぐれ
  心空なる
   牛を打たばや

〽はてぬ世を
  まぼろし追ふて
   老の波
  我がありがひを
   船道に賭け

〽八月がしら
  浪に浮寝の
   よしなかる
  山靼往来
   水馴れ舵に

〽朝ぼらけ
  炊事の煙り
   里なめて
  霞と併せ
   山を浮かせむ

〽神さびの
  宜禰のすゞしめ
   かけまくも
  打鼓のひゞき
   荒覇吐神

〽名のみして
  宿かるものは
   月ばかり
  旅ゆく異國
   當をはるかに

〽行き暮れて
  道こそかはれ
   山靼の
  ゆかりき人を
   しかるべくはと

〽そそぞろに
  山は松風
   かしましく
  假寝の夢は
   よしありもせず

〽安日嶽の
  山路谷水
   荒けなく
  耳たてつれど
   浂が聲得ず

〽荒覇吐
  昼な夜なにも
   見みゐしに
  神とは覚へず
   水もなく見え

〽けふ見ずば
  百度にまゐる
   願懸けも
  空しと思ふ
   あきめくらかな

〽名にぞ知る
  衣の川の
   二股に
  巌を楯に
   遺る舘跡

〽櫻川
  水を渡りて
   鐘の音は
  三寺きそえ
   明け暮れに鳴る

〽三春とは
  春三箇月
   咲き移る
  花のかんばせ
   うちつけに香し

〽花木陰
  見る人もなき
   みちのくの
  山吹かほる
   栗駒の杣道

〽白神の
  山源に
   流れつる
  大澤小澤の
   丈々の橅

〽神鎭む
  中山峰の
   あすなろは
  谷も地平に
   繁り満ぬる

〽巌鬼なる
  赤藏澤の
   鬼神は
  天狗だふしの
   力あらます

〽鬼澤の
  霞たなびく
   果てつ海
  煙波滄波に
   上磯は大漁

〽寒き國
  藻を干し編みて
   夜具とせし
  こや日の本の
   習ひうらみじ

〽磯松の
  靄山巌鬼
   洗い磯
  神は鎭まり
   荒覇吐神

〽渡島には
  おかむいさきの
   すゞしめに
  いよまんてぞと
   熊贄捧ぐ

〽鹿角弓
  古き渡りの
   山靼に
  習へて今も
   的な外れず

〽鳴る神と
  龍巻く神の
   海渡り
  船も道ある
   流鬼の海峽

〽荒覇吐
  天開け地固の
   太古より
  神は渡りて
   日本ぞ成る

〽あまつさへ
  億百歳に
   誕生し
  日月星を
   生まし給へき

〽神産みの
  光りと熱に
   闇明けて
  宇宙は成りける
   億兆の星

〽倭の人の
  知りつを遁ぐる
   山靼の
  進むる暮し
   鬼畜と曰はむ

〽生馬の
  睾丸抜くを
   倭の人は
  鬼なる習へ
   蝦夷は鬼とぞ

〽日の本の
  蘆刈る野づら
   東日流をば
  稻田拓らけく
   千惠穂稻架く

〽月の笠
  雨の兆と
   引水に
  堰泥握りて
   旱魃おそる

〽わだつみの
  濱の眞砂は
   波ことに
  洗い清むる
   洗磯之宮

〽蘆火焚く
  蘆家の炊事
   河辺野に
  住居て育つ
   童すこやか

〽秋稔る
  げにや祈りつ
   こや年の
  妹背は野良に
   鍬打振りぬ

〽秋の水
  夏どきあれば
   憂いなく
  集いて留る
   堤み池なす

〽逝くだけの
  若かき身もがな
   誇らへよ
  老いては心
   若けく保て

〽生花を
  たをりて飾る
   事よりも
  植えつ眺むる
   心持なん

〽童をば
  大事と育て
   鞭打つも
  身心ともがら
   親の大慈悲

〽露の世に
  命のみこそ
   逝きにける
  涙いとなき
   袖の上かな

〽草衣
  生きてある身は
   安しきなく
  未だに望む
   年や月日を

〽矢は叫び
  討刃血を塗り
   灾りて
  人馬は屍
   修羅のはせ跡

〽くつばみを
  骨馬となりて
   草むせど
  尚起つ如く
   戦跡見ゆ

〽肉は去り
  骨屍いと
   討物を
  身支度乍ら
   厨の野辺に

〽天ぎりて
  雪の降りける
   衣川
  関は落にし
   もる我さえに

〽古河のべに
  江刺の月は
   映れども
  逝きにし人の
   影もなかりき

〽戦跡
  螢みだれつ
   鳴子川
  うらさび渡る
   湯気をのこして

〽よるべなき
  黄海の戦は
   恥塗りて
  いづくはあれど
   遁つさすらふ

〽風もくれ
  月だにすまで
   影青く
  雪を廻らす
   陸奥は冬入る

〽尋ねゆく
  我がまだ知らぬ
   東日流野を
  伴ひ申し
   君を立つらめ

〽藤崎に
  名をも隠さで
   國越しぬ
  阿倍の髙星
   日の本を継ぐ

〽すわこその
  弓馬の騒ぎ
   おさまりて
  東日流に帆立つ
   船は海征く

〽十三湊
  うろくづすなどり
   藻鹽焼く
  山靼船の
   幸は市なす

〽往来河
  藤崎通ふ
   川舟の
  ごめはともする
   白鳥の舘

〽うたてやな
  心しあらん
   雪吹きて
  白鳥ばかり
   水けりとびぬ

〽流鬼岬
  渡島の果に
   望むとも
  流れし氷
   船行を閉ず

〽死なれざる
  弓は三物
   心得て
  君あらばこそ
   生残るかも

〽草壁の
  藁屋に住みて
   生保内の
  湧湯に命
   永らむるかな

〽いぶせくも
  年を忘れて
   さながらに
  愚痴の吾等は
   手束弓離さず

〽稱ふれば
  荒覇吐神
   成道の
  攝取の光明
   心にぞ見ゆ

〽うつゝ無き
  神を祈りて
   ありがひの
  とてもの浮身
   糸もてつなぐ

〽こりずまの
  覚むる心は
   いづくにか
  彼岸に到る
   秋風ぞ吹く

〽草枕
  假寝の夢に
   人が果
  濡れて干す
   心の白衣

〽よるべ水
  老な隔てそ
   朽根にも
  芽を吹く桐の
   盛りなくれそ

〽片富士の
  巌手の山に
   稱へたる
  荒覇吐神
   こや日の本ぞ

〽朝まだき
  心すみにし
   早地根の
  石神詣で
   今日に果しぬ

〽一樹宿
  しののめ發つて
   姫神の
  人を待たざる
   峰にむら雲

〽いづくにも
  山はあれども
   戸来山
  石は神なり
   山は靈なり

〽いたづらに
  光陰空しく
   かきくらす
  夢幻の一睡
   夕露の命

〽もんだはず
  心なくれそ
   神垣に
  八千代をこめし
   荒覇吐神

〽かげろふの
  春路にもゆる
   草いきれ
  わづかに生きる
   物見なりなり

〽五月雨
  山は苔路の
   尚盛り
  戸来三嶽の
   石な苔衣

〽ねむやらず
  心うつろふ
   秋の宵
  隙行く駒の
   冬は近らむ

〽ほの見えて
  沖立つ白帆
   追風に
  宇曽利湊は
   濱人だかり

〽波静か
  淨土が浦の
   さざ波も
  いつくる津浪
   ありてこそ知る

〽山圍む
  遠野は擴き
   道芝の
  かげろふもゆる
   山を揺ぎて

〽外山に
  雲とぞ見しは
   白妙の
  あたら櫻の
   花霞かな

〽散ぬれば
  我も夢なる
   草の下
  誘ふごさめれ
   浮き雲憐れ

〽藏王岳
  雪のしがらみ
   樹はまとひ
  種々とりどりに
   神の御相と

〽鳥海の
  山を降るる
   靈水は
  出羽の神水
   海な清むる

〽五葉山
  名にし流れの
   なまめける
  暫し岩根に
   たゝね睦言

〽危ふきも
  老に賴まぬ
   手束弓
  手に立つ敵の
   寄せにもどかし

〽眞しからぬ
  倭人の言は
   蓑の代も
  隠す刀に
   首を欠かるゝ

〽落道を
  明しかねたる
   夜もすがら
  重ねて問はゞ
   忍ぶもぢずり

〽時めきて
  さこそ心は
   よしなくも
  程だにありし
   鹿の起臥

〽修羅太鼓
  貝吹く音に
   散る敵を
  黄海の戦は
   君の仇討

〽雄物川
  北に流て
   歴史あり
  南に流るゝ
   日川と倶に

〽踏みしだき
  袴かなぐり
   うちかづき
  敵寄せ告げる
   男おかしき

〽また春の
  櫻を見むや
   此の戦
  月下の宴
   花片盃

〽誰そやら
  心もとなと
   まぎれある
  あたりをとへば
   人家遙かに

〽散りぢりに
  ここを先途と
   夜討がけ
  咲き散る花の
   命みずかし

〽あらましは
  いつをいつまで
   心得ど
  千秋御影
   山も動ぜず

〽かたしきに
  心を染みし
   神のぬさ
  神と人との
   非體給はず

〽幻ろしの
  生死長夜は
   一つ世の
  大事の渡り
   かまえてくらせ

〽露もまた
  心にくしや
   汐じまぬ
  草もありける
   そよやござれめ

〽たばかりて
  ゆうこざかしき
   草入の
  心つくさせ
   反きあらばや

〽きのふの花
  日影まつまの
   けふの夢
  われ人のため
   老ぞつらけれ

〽うしの小屋
  森の下露
   みなながら
  身の置き所
   今はなかりき

〽消えかえり
  しのぶ時節の
   陸奥嵐
  ものはかなしや
   忍び忍びに

〽夕露に
  かかるべきとは
   さながらに
  乘りも習はぬ
   見うす身を知る

〽ほの見えて
  身もがな二つ
   なけれども
  よしわれのみか
   帆をひきつれん

〽音に立て
  うつろふものは
   逝かねども
  とよりかくより
   戦の地鳴

〽年の矢は
  還るあてなし
   しらま弓
  ありつる人の
   友を忍ばむ

〽つくもがみ
  神のしめゆう
   かつさきを
  眞如朽せず
   出雲八重垣

〽北斗の
  杓子五倍
   頭計し
  極星見付く
   舵は征く

〽われらゆえ
  末こそ久し
   つぎさくら
  日の本祝ひ
   君を讃へん

〽わたがみの
  かけずたまらず
   草摺を
  めくりて走る
   矢向ひの敵

〽つゝ支ヘ
  黒革おどし
   袖をとり
  手に立つ敵を
   斬るに身輕き

〽かかる身を
  なからん跡に
   子はいづく
  授くる術を
   今に遺して

〽とことはに
  安かるあるまじ
   歎き世の
  石は砂塵と
   砕け逝きぬる

〽いたづらに
  思はぬ人を
   色に染む
  色こそ変れ
   人は人なり

〽おぼつかな
  花の行くへは
   しほれしを
  あいてたをるる
   人心かな

〽あはれ知れ
  粒ひと粒に
   生命在り
  食は常々
   他生を喰む

〽朝の雲
  夕の雨に
   草木の
  緑り生々
   げにわれもまた

〽あけがらし
  大平山の
   あさぼらけ
  稔る稻田に
   風打つ鳴子

〽そよ風に
  稻穂の波は
   黄金色
  空澄み渡る
   秋田の野づら

〽馬走る
  陸奥は牧場の
   馬どころ
  いななく駒は
   いざ國護る

〽山靼の
  傳へしただら
   陸奥黄金
  海を道なし
   歴史栄あれ

〽象泻の
  西松島と
   讃へなば
  潮去り逝て
   今は稻波

〽寄せ来るに
  ゆひがひなく
   髪乱し
  手束弓とる
   衣川関

〽雨の脚
  埴生の小屋を
   雨漏りて
  刀研ぐ水
   滴り奏で

〽山路なき
  國を越ゆるも
   敵誘の
  謀りて的は
   外れもせずに

〽颶風なり
  灾る野火は
   敵散らし
  川辺にかまへ
   箭い討取りぬ

〽戦とて
  駒に罪なし
   敵馬とて
  飼葉与ふる
   陸奥の駒人

〽月青く
  なじともつきぬ
   影めぐり
  忍ぶもぢずり
   こともおろそか

〽わぎも子が
  あめはゝこぎて
   上わらは
  討つ引く謀り
   後にぞ立たず

〽たまさかに
  さゝの一夜を
   妹背たる
  世にぞ名残りて
   明日は陣發つぬ

〽さゝめごと
  とふにつらさも
   枯れ枯れて
  そことしありか
   風も暮れ逝く

〽うらさびて
  よるべもいづく
   あてもなし
  月だにすまで
   月のみ満てる

〽しをりつる
  岩もる水の
   泻しては
  苔も落なん
   武家の庭跡

〽丑寅の
  北に峩々たる
   やま神の
  峯を連ねそ
   楯もなかりき

〽夏旅に
  薄水踏むる
   みちのくの
  なきかげいざや
   君墓荒し

〽東日流には
  それわが山の
   秘密あり
  ありしにかへる
   安倍の陵跡

〽わが家には
  云ひもあへざる
   掟あり
  世捨の世話も
   我は知るなり

〽幾星霜
  げにや祈りつ
   菩提をば
  家貧に耐えて
   いつまでかなし

〽たよたよと
  目にぞ見やらぬ
   鬼どもの
  安倍なる古寶
   盗み探らむ

〽あだ人の
  偽すゑ知らでは
   破らるる
  衣の役は
   今も故なす

〽東日流山
  外濱近く
   倭に遠し
  安倍のねぶりを
   覚むる事なし

〽外濱の
  心空なる
   善知鳥うとうどり
  うとうやすかた
   いかにいはんや

〽かけよかし
  日之本の碑を
   海底の
  潮に洗ひし
   石もて造れ

〽峯の風
  谷の水音
   聞こゆ地に
  我を埋むめ
   賴良の言

〽東日流への
  死出に集むる
   一族の
  末期の望
   石塔山へ

〽參道も
  人目に造る
   石塔山
  ただ荒覇吐
   峯入り断つぬ

〽和田神と
  知る人ぞ知る
   世隠れの
  神行今に
   遺す一族

〽黄金も
  敵手に得れば
   尚詮す
  なべて大秘の
   秋田様かな

〽幾百年
  安倍のゆかりを
   探しめど
  大秘にあつく
   解くを得られず

〽みやびたる
  華に溺るる
   藤原の
  果つ紅蓮は
   己が手火なり

〽木がくれの
  日本ありき
   みちのくの
  山海諸々
   今はねむりき

〽白川の
  なれ知る柵は
   ゆかりなく
  日本境は
   安倍川なりき

〽富士の西
  安倍と糸魚の
   西東
  山川海の
   北ぞ日之本

〽丑寅の
  遺りき史書の
   あらばやと
  世々に探むる
   ものぞたれある

〽白鳥の
  往来住國
   山靼の
  國こそ祖世の
   故里なりき

〽山さびの
  方丈住居
   望み住み
  荒覇吐とぞ
   今こそ覚つ

〽峯つ風
  湲の瀬音や
   みなながら
  吾が荒覇吐
   こもり知るらん

〽いづくあれ
  日月ともに
   ありながら
  神のしずすめ
   心にぞなし

〽われはしも
  安倍にゆかりて
   あればこそ
  氏姓に改め
   世に忍ぶらん

〽われをして
  花に辛きは
   人見なり
  道こそかはれ
   心花なり

〽花は根に
  断つてはしぼむ
   知りつゝも
  神よ佛と
   人はたむけむ

〽灯りとは
  目のある者の
   用ゆなり
  吾れはめくらぞ
   見ずして見ゆ

〽あさましや
  吾れ益なきも
   人あるを
  邪推にかへて
   罪なす罪を

〽名をつきて
  子を育むるに
   世習へも
  戦起りて
   身無しぞあわれ

〽戦をば
  好みて起すは
   なかるべし
  くらしを犯す
   鬼道ありてそ

〽とこしなヘ
  荒覇吐をば
   唯一に
  神垣作り
   救い祈りて

〽日之本は
  丑寅こそに
   鎭まりぬ
  神ははろばろ
   渡りて坐すむ

〽待ち恨み
  骨をも砕く
   執念を
  神は受けずや
   唯だ祈らめよ

〽秋の風
  袖ふれつゞく
   旅行きの
  かつさきそむる
   華も了りて

〽千代八千代
  石より固き
   君が代も
  時の世襲に
   秋風ぞ吹く

〽秋の野に
  いつまで草の
   野菊咲き
  長夜の露に
   蟲を宿らせ

〽九首龍は
  己が蛇體を
   踏みにして
  天にもあがる
   事の由々

〽大三輪の
  神は山ぞや
   昔より
  おゝものぬしの
   住むる神山

〽いかにせん
  天つ地水の
   神なれば
  捨てもならずや
   門神と置き

〽今上の
  神も佛も
   みなながら
  錢を先立て
   祈り異なる

〽たがためぞ
  神を鎭むる
   社なして
  邑に祭りの
   祖を遺しぬ

〽さればにや
  よつぴきやう
   ささらにて
  神楽を舞ふる
   歌拍子なん

〽春盛り
  花に下臥す
   鶯の
  啼く音に霞む
   里の昼どき

〽拝みうち
  戦乍らも
   むごかりし
  屍は井戸に
   詰めて墓なす

〽夕映えも
  戦の跡は
   血染見ゆ
  神は非らずと
   遺る者泣く

〽明けやせん
  かゝるべきとは
   露しらず
  憂き世の旅に
   いでし當なき

〽つとなきに
  かまえて今日の
   心して
  ゆゝしく明日
   は心つくさせ

〽道に入る
  四苦諦求道
   おしなべて
  心のはてに
   法を修めん

〽ほととぎす
  霞みに啼けと
   題目を
  鶯唱へ
   佛法僧も

〽八重咲きの
  櫻も憂ふ
   春嵐
  散りて實の無き
   山吹あはれ

以上、右以て百選なり。全また詠人知らず。時代・地處の意また知るを難し。依て茲に百選とて綴りたり。詠人は何れも俗人にして、學ある名作ならざるも、古来より荒覇吐神祀りき出雲に流行たる歌體の流れなり。
その一節に曰く、

〽八雲立つ
  出雲八重垣
   妻籠に
  八重垣作る
   其の八重垣を

三十一文字になせる五七五七七なる歌文に詩をなせる歌體なりせば、陸奥をして大いに流行りぬと封内風土記にありぬ。名作なるはなけれども、かく歌の民に至るる。基より小野小町なる如き歌人ぞ殿上の雲居に名を遺せるぞいでたり。

歌をして秀愚の讃あるべからず。歌は世につれなせる歴史のさまなれば、徒らにして是を存外にすべからざるなる。以て詩人に黙禮して畢んぬ。

寛政五年春四月廿日
秋田孝季

日髙史談

抑々丑寅なる日本國は、倭國とは總て史の構造を異にせる源を以て雲泥の相違あり。國の創めに神話なく、人の祖を人として成れり。神を信仰せるもまた然りなり。人をして神ならず、神を宇宙とし大地とし、大海と水の一切を萬物の種元誕生の生命と倶なふるものとせり。人を人とし、神を神として、信仰に人を神と造りき故因を創より区を分つたり。

此の國に人の渡来を明らかに山靼と定め、その故因をも明らかに綴り遺せり。古代カルデア人の習ひに依りて語り印たるを遺しけるは語部なり。古代より一糸乱れぬ實相を語り継ぎ、今上に至る。依て木に竹をつぐる如き倭史の神話の歴史に加ふるはなかりき。なかなかに丑寅日本國は造話作説の故因、露も是れなく國の王とて神を祖とせず、奇談も亦なかりき。人の渡りを以てその故因あり。吾等が祖先をして渡り来たるより國の創むる實相をして何をか作り事なきを以て倭史の障りとなりければ、永くその證たるを障りありと抹消の限りを盡せり。

古くは田道將軍の蝦夷征伐、阿部比羅夫、坂上田村麻呂。源賴義に創まる源氏の侵略は、遂にして日本將軍を討伐に果しける。然るに安倍の宗家たる厨川太夫貞任の次子・安東髙星丸をして再興を東日流に興しける。十三湊に安東船をして異土との流通を掌中に益をなし、世襲に逆らはず茲に亦、日本將軍を復したり。然るにや興國の大津波に依りて振興せず、東日流を放棄なして治領の天地を渡島・秋田に移したり。それより一族をして波乱ありきも、秋田實季の代を以て茲に東軍方大名と相成りしも、國替と謀策され宍戸、亦三春にぞ轉封のよぎなく、今上に到りぬ。代々大名とてその君坐を泰平として三春藩を以て國替のあるべくもなし。

ただ藩主實季にのみ伊勢朝熊に蟄居と相成りきは幕政の謀にして、その子・俊季をして藩主とせり。おもふるに秋田氏を湊ある治領に置くは、虎を飼って噛まれるを目安あつての國替と蟄居たり。代々をして大名の座安泰たるは、世襲に反かざる風柳の策を旨とせる、さはらぬ神にたたりなく、今に尚、安泰たり。おしむらくは天明の大火をして安倍・安東・秋田に一系とせる萬端の文献多く失ひり。依て茲に、縁れる諸家に藏せるを集編す。

文久二年五月六日
佐藤玄部

北斗抄之事

本巻北斗抄は、全廿三巻を以て成れり。集資料なりて時代不順・事録多重にして、何れが實相なりや是を定め難く集書皆、記と相成れり。然るに以て私考の一筆も加へたるなく、加ふ可算段も是なかりけり。安倍一族の傳は六十余州各所に遺りて、その説雑多なり。依て皆記をなして、眞偽の判断をば後世に委ね置くものなり。能く是を審して選抜せるは後世の聖者になる他、非らざるなり。

集史の壮大なること一萬状にも及び、茲に一状落なく綴り置たるのみならず。いつの世にか世陽に當らむを念じ乍ら㝍し書たり。あゝ無常なりとても書置かでは實相も世に出ざるなり。茲に吾が生涯をかけ諸國を廻りて綴りたるは、一重に秋田家累代の實相を世に認めたく、記逑に労々せり。

寛政六年一月三日
生田貞介

北斗抄は多彩なり。然るに拙者、老に盡しあと幾ばくの再筆成れるやと自からを案じ乍ら先は此の一巻を了りぬ。

大正二年十月一日
末吉

和田末吉