丑寅日本紀 第七

注言

此の書は朝幕に世視を禁ぜられき史談に在りと曰ふ。依て門外不出・他見無用と心得べく注言として、茲に遺し置くものなり。

寛政六年八月七日
秋田孝季 華押

蒙古軍之事

チンギスハンと曰ふ蒙古國王の統卆せる大軍騎馬の無敵たる征兵史は、全兵十萬にして軍律は十進法にて軍謀せり。卽ち十戸隊・百戸隊・千戸隊・萬戸隊に組軍なせる一糸亂れざる一統軍なり。

武具に於て鎧兜は内皮張りに鐡製せる要處の他皮材多し。大刀は彎曲にし能く斬れ、弓箭は騎乘にして用ふは短弓にして、歩兵に用ゆは長弓なり。何れも當的百間に及ぶは必殺の射程なり。弓箭は幅廣き鐡矢鏃なり。兵一人にして三十本の箙を持て、騎兵は替馬六頭を伴ふ。

一日乘用せし馬を三日休ましむ故なり。兵の必携帯せしは研石及びやすり・錐・釣針・釣糸・弓絃・引綱・鐡鍋・水入皮袋・寒用毛皮着・夜営天幕・敷物ぞ何れも皮製なり。兵糧は乾肉・馬乳製脂・馬乳酒等十日分を常帯す。征行軍、物見早馬の道しるべにて半里の隔間をなして縦隊進軍を旨とす。突戦起らば散開縦横一重二重をして半圓左右を先進せしむ。是ぞ蒙古騎馬戦法なり。

騎兵の後軍に石弩隊・弩砲隊・火薬砲隊・火炎器隊・撞壁隊・軍糧隊・替馬追隊・武具隊、是に縦軍す。是の如き軍律にて山靼を大征せしはチンギスハンを以て祖とし、彼の子息ジュチ、孫なるバトウ更に百戦猛將スブテイらに固定せり。東日流の安東一族はチンギスハンなる親睦とてクリルタイとて安東堯季能く蒙古に招ぜられたり。クリルタイとは安東氏をクリル族として日本部族長とて招き、ナアダムに參上せること暫々たり。

爾来、安東一族は鷹羽を家紋とせしものにて、蒙古鷹なる風切羽根を賜はれしより用ゆ。文暦甲午元年・翌乙未二年に安東一族は蒙古に援軍百八十人を派遣しバトウの遠征にいだしめ、その功に依り軍馬三百頭を賜られ、更にバトウより蒙古武具を若干贈られたりと曰ふ。亦、チンギスハンに安東堯季が贈りし舞草刀は好まれ、王位の剣とて代々に遺されたりと曰ふ。

蒙古國の創立建國は太祖にして元年と曰ふ。卽ち、丙寅より戊子の二十三年。次に太宗とて己丑より己亥十一年十二月に至りてバトウに加軍せし安東一族の移住民軍は二千人に及べり。太祖辛未年より征戦せし蒙古軍の主なるはリーグニッツ戦・バグダット戦・南宋戦に抜きて至元壬申九年、國號を元と稱せる大國と成れり。その歴史語りに唄はるは馬頭琴に奏でらる陽没やコルデントに愢ばるなり。

亦、蒙古の祭りナアダム・チヤバンドウ等の兵法騎術を以て百戦錬磨し、その遠征にては初にチンギスハンの南オロシヤ・キプチヤクよりイラン・メソポタミヤ、更にボルガ河のブルガル族を併せ裏海・黒海・トルコ・ギリシア・カザフステップ・北オロシヤ・キプチヤク・ウクライナ・白オロシヤ・キエフ・ハンガリー・ポーランド・リーグニッツ・モラグイアにゲルマン族を併せゴルドベルクを征しクラコブ族を併せ、オボレラティ・ポシュ・プロシヤ・チュートン・シレジア諸族を併せ、ハンガリーを征したり。

依て是れに従ぜし安東一族の子孫ぞ、その征地に今に遺りぬ。蒙古軍とは戦に臨みて、飢ては馬肉を食し、弓絃つきては馬足の腱を用い、鏃つきては馬骨を削りて用ゆ程に卽製せるも兵法にして無敵たり。

正應庚寅四年 記

自元國史第一巻㝍

寛政五年九月三日
林子平 華押

蒙古大帝國之事

古来蒙古民はウランパートルに都す。民族混成にしてハルハ族・ブリヤート族・カザフ族・ドルベド族・シュメール族・キリシア族・クリル族にて成れり。

吾が國より移住せしをクリル族亦ヂパン族と稱せり。ヂパンは東日流の意にて、居住分布にてはダシンチレン・ハシヤート・ハルホリン・ホジルト・ホトント・ツエツエルレグ・ボルガン・ツアガンートルゴイ・ダルハン等に多住せり。

古来、蒙古王は墓を地上に印を遺さず。萬馬の蹄に踏固む。卽ち、東日流にても荒覇吐族は是に習へたり。蒙古に遺る墓跡ぞキルギス族のフールなり。フールとは墓を意趣す。

亦、ラマ教にて遺る寺ぞあり。カーン・ウゲテイの奉寄せし寺エルデネゾーあり。アマルバヤスガランあり。トブホンのヒードありき。元来、蒙古國の信仰に於てをや、ブルハン神・テンシャン西王母・オリユンポス山十二神・シュメールのルガル神・エジプトなるラア神等雑多なりきも多くはブルハン神に一統す。

吾が國に傳はりしは西王母神卽ち白山姫、更には西王母・女媧・伏羲の三神を三輪大神とて祀りき。亦是なる守護神とて九首龍及び饕餮らを以て龍神・唐獅子ら社置とせるも、倭國にて耳流りぬ。丑寅日本國にては王墓を造らず、深山秘葬して遺形を遺さざるは古代蒙古の習に忠實たり。

右は今になる蒙古國のしるべなり。

天明壬寅年二月一日
林子平

海國兵談之事

我が丑寅日本國は神の造れる州に非ず。亦、倭帝の史に縁る無し。凡そ古代にては山靼渡民にて三十萬年の人跡を遺せし國なり。依て古代より神たるを天地水の天然をして神と為せしは大元神なり。

卽ち宇宙なるイシカ・大地なるホノリ・水の一切なるガコを神とし、生とし生ける生死の轉生を無上の理りとし、世にある總てを神なる一統信仰に結びて是をアラハバキカムイと稱せり。

古代より八方を海とせる我が國土は、海来る敵侵に備ふるを向上し、民皆兵の錬磨に在るべく、常にして國防の信念を不可欠としべきなり。中古代より丑寅日本に誕生せしは安東水軍にして、北方に領土を擴げたる渡島・千島・流鬼島・神威茶塚國・山靼・夜虹國・永凍國の海交になる智を海兵談として書き創む。

田沼殿の内諾あらんをば茲に奏上一筆參らせる事の由を許にあらんを願ひ申請仕るなり。

天明辛丑元年八月日
千臺住人 林子平

老中田沼意次様

古代シュメール之傳史

山靼を相通じ丑寅日本にもたらせしはシュメール國アッシリアメモルドの國史なり。此の國なる歴史をして偽なきは土版に押印せし古文字にて、東日流語部印と相似て、是を楔型押耳異なりぬ。アシュルバルタル王の遺せし巨大なる土版史書にして、その祖王グデア王の創國と曰ふ。

地の古老の曰く、古代シュメールの王都はチグリス川の辺にウル都に創り、更にバビロンに移りバビロニア王都と相成り、更にはユウフラテス河辺のアシュル・ニムルド・ニベネにアツシリア王都ぞ栄ゆ。髙きバベル塔ぞ王威を示現し、ウルの瀝青の丘にジッグラットと曰ふ黄金都に常にしてリラの奏でる官女や女王シュブアドの威栄ぞ、葦の水郷マーシュランドの民になる農耕。葦に建らる民家マデイフとは我が丑寅日本國に傳はりし葦屋根の源をなせるものと曰ふ。

亦、チグリス・ユウフラテス両河の水道運水になる豊かなるウル・エリドウ・ラガシュ・ウルク・シルツバク・ニップルの都勢営たり。一統信仰になるルガル神はシュメールの全能神にてウルク文字とて砂漠と化せし處より掘出でる多し。是ぞウルナンム王の築きけるジッグラツト遺跡なりと曰ふ。その中央たるはテメノスと曰ふなり。

東日流辨になるケヤグとは友を意趣せるが、是ぞ古代シュメールの契約を重ぜるよりなる訛なり。ウルナンム王の臣は二十五萬人と曰ふ。シュメール王の滅亡以来栄えたるはアッシリアのニムルドにてアッシリナムタル王の築都なりと地の古老は曰く。亦ニベネはケンナケル王の築都にてオリエントの全盛代と曰ふ。

古代シュメールの神話を遺せしはギルガメシュと曰ふ神司なりと曰ふ。亦、ギルガメシュは王位に君臨し英雄たり。ギルガメシュの叙事詩は古代オリエントの旧約聖書の聖引に用いられたり。かく栄えある古都の末路にてはマッシュルバニパル王の代に亡ベりと曰ふ。その敵はニベアと新アッシリア軍にて跡型も遺らず崩壊さる。

メソポタミヤ滅亡以来、今に遺れるはバビロンのイシュタル門、バビロニアのオリエント王ネドカネザルは能く天文の智識を遺し、ギリシアに傳へらるより、我が丑寅日本に宇宙なるイシカ・大地なるホノリ・水なるガコの神々とて基せりと曰ふなり。

天明丙午年六月二十日
東日流飯積之住
和田元四郎兼貞

古代エジプト之事

世界にまれなる金字塔の巨大なる遺跡の残れる國エジプト王國は、ラムセス王にて全盛を極むなり。自からを神とて自稱せし王威に在り、その建築神殿の巨大さぞ世界に例なきものなり。エジプト國の民はナイル水郷になる農耕になれるを以て、古代エジプト王フラオぞ代々す。

エジプトの神は多神にしてホルス神・アメン神・エシス神・ソカール神・アヌピス神・ラア神らの神々を以て國を司れしはラムセス王の重臣パネヒシー・セタウ・ハームワセトロイ等に依れるパピルス聖書ありてヒーログロスと曰ふ。神殿また多く、カルナックに住む長老の曰く、エジプトにてはカテシュに軍を進むるもヒッタイト軍と勝敗得ぬまま必勝を願ひて、あたら多く神殿を建立し民は苦しめりと曰ふ。

アスワンの遺跡ヌビア十五の神殿中ベイト・エルワリはタニス神殿と俱にその歴史を傳へ遺し置けりと曰ふ。亦、ヌビアにアブシン・ベル神殿ぞ巨大なるものなり。此の神殿はラムセス王自からの活神とて建立せしものなり。

エジプト信仰にては生死轉生なり。これはオスリス神の甦りになるものとて、かしこに祀られたり。デル・エルメデーナには墓造り工人ら多く住むるは是なる信仰に依れるものなりと曰ふ。

天明甲辰年五月七日
秋田孝季

古代ギリシア神之事

ギリシア國アテネ、アクロポリスにそびゆるパルテノン神殿に拝せるギリシア神話の神々ぞ、民族自から想定せる神なり。

ペルシア軍の進攻にてペルシャ帝都なるペルセポリスより大軍はギリシア軍の應戦をサラミス海峽に兆み、ペルシヤ軍を敗りたり。その戦後に於てペルクレス治世に在りて次々と英雄顯れぬ。ソクラテス・プラトンらペルセポリスのペルシア軍を敗りたるはオリュンポス山十二神の神通力とし、神々の告とてディオニュソス劇場を築き、神話のそのものを演ぜり。

神々の像を名工ヒイリアスにて刻まれしは、生けるが如き諸神を遺せりと曰ふ。地の古老の曰く、宇宙は無の空間にて時も無く光り無く唯、無に盡きる一点よりカオスの神顯れ大火裂を起し、日月星の天体を造り給へきより大地は平版に造られき。神々はカオスに依りて造られき。

陸と海に萬物を産み給へきはギリシアの神に成れるものなりと曰ふ。やがて神王たるゼウス産れきより多くの女神をはべりて天地水を造り、神に似たる人を造れりと曰ふ。神々になるギリシア諸神、是くして成れるを別巻に要細あるほどと探讀を請ふなり。何れもヒルクレス・ヒイリアスに依りて彫造示現せるはパルテノン神殿なり。此の神殿に安置せるはアテナ・パルテノス像にて黄金と象牙を以て彫造せりと曰ふ。

ギリシアの治政を司る都はデロス島にあり勢栄たり。ヒルクレスの治世はただ神殿の費に税を果し、遂にしてヒルクレスの失脚を招きたり。事の起りとなれるはストラングフオードの楯と曰ふ。女神アテナパルテノスの彫刻にヒルクレス及びヒイリアスの浮彫りをなせりと曰ふを以て人民より神を冒讀せるものとて裁かれたり。依て彼等はアテネアゴラの牢獄に入るところと相成り、遂にはヒイリアスは毒殺さる。

ヒルクレスはかかるヒイリアスの如く己れに迫る失政を的外る為、ギリシア總力を挙してスパルタに戦を兆むも、戦開二年にして流行病にて死せり。ヒイリアス滅後二十年に及ぶるスパルタ戦にギリシアは敗れ、是く神殿にあるべく神々の信仰も失墜し、今にして一人の信徒も無く過却の栄盛も廢虚とて野末の風に荒芒たり。

然るにや、ギリシア信仰ぞ我が丑寅日本國に渡りて、古来よりオリュンポス山に巡禮を志す十二神の信仰ぞ今に遺りぬ。卽ち十二神を一年十二月の神々としてギリシアに北方黒龍江の舟旅を萬里に越えてたどるオリエントへの巡禮ぞ、今に續きける紅毛人國への睦みなりける。

天明乙巳年八月一日
松尾間内惣吉

天竺佛教之事

天竺に佛陀之遺跡を尋ぬれば、ストウーパなる佛塔に巡りぬ。佛道とは支那・韓國を經て倭に傳しけるは支那年號の貞觀辛丑十五年なり。倭國にては倭神を以て國神とせる物部氏、對して擴く異土の交流を覚るべしと蘇我氏との崇拝ぞ相對して治まらず。

朝宮の派閥激しく權謀策々たりしも、上宮太子の十七條御布令にて佛法入りぬ。その頃にして佛陀の國にては佛法旣にして衰へて、民族信仰になるヒンズー教ぞ民心に固定せり。佛道は大乘・小乘法典に区分なし、更にしてその法典に依りて支那にては念佛宗・倶舎宗・大日宗・法相宗・法華宗・禅宗・眞言宗・天臺宗・律宗・臨済宗・華巌宗等に宗閥す。

古来依て天竺にその佛法宗旨を尋ぬれどもヒンズー教になる多く、佛法に求道せるは少なけれ。
諸行無常是生滅法生滅滅己為寂滅樂。
是の如きは佛陀の遺覚の法なるも、その教典に於ては傳道地によりて異なりぬ。ダライラマ教、然るところなり。亦、倭の佛教然るべき。

天明丁未年二月一日
加川龍斉清繁