丑寅日本記 第十
孝季
奥州陸羽之史證
みちのくを旅して歩くは夏にして海辺、秋にして山郷、冬にして宿場、春にして落々と續きける川添の邑々を巡脚して旅情ひとしほなり。史跡ありき處は隠れ郷・廢虚の城跡・わびに遺れる古寺廢寺にして、草苔に埋む古墓の跡に苔むせる石佛、過却のことを聞くは地の長老に尋ぬるこそよけれ。
公史になき想はざる實相史談に遭遇せん悦びぞ、言もせやらぬに聞き入りぬ。旅のしぐれもまた風流にて、思はず筆に留むありき。津輕の上磯は海濱にて、下磯とは大里なり。此の地は安東一族の史傳に満るところなり。
卽ち前九年になる戦敗れし安倍一族の御大將・日本將軍安倍厨川太夫貞任の次男髙星丸が幼児にして、多勢の近臣や重臣及び一族の領民等と落着せしは、東日流下磯平川藤崎の地にて、成育し成人に及びて氏姓を改め東日流君安東十郎髙星と稱せり。姓を安藤と稱せしは、古祖にして此の地にあり耶靡堆國崩滅を荒覇吐王安東大將軍とて再挙せし安日彦王・長髄彦王の故地に地稱されし東日流六郡の古稱卽ち、安東浦方卽ち、東日流大里の地稱を姓とせしものなり。
安東一族に縁れる靈峰岩木山・西関越の白神山・南関越なる阿闍羅山・東日流中山連峯・都母堺の八甲田山・宇曽利なる恐山・糠部なる名久井山・戸来の三嶽山三山に縁る安東一族の史傳多し。太古より山靼よりの開化になれる暮しの営岐ありて人ぞ豊けくも、倭人の渡り来たるよりその営利を犯されき諸傳ぞ丑寅に満々たり。
倭人の営利に犯さんと欲するは産金牧馬の地攻にして、次には飽田に湧ける地湧油なり。地湧油とは火箭・狼火・火爆弾を造れき武材にて丑寅軍の忍術戦法の強威なる武材なり。依て倭人是を制ふるが故に羽州に草入る多し。丑寅日本國にては古来より山靼の紅毛人より諸岐を習へて國治の営達に成長せしを横奪せしは倭人なり。
世々をして侵入せし隠謀術數にて、遂には康平五年を一期にして丑寅の巨星は地に没するも、若き昂の如き安東一族は東日流に再挙を遂げり。人を制裁せるは戦に非ず。生々安らけき民族各々の睦なり。吾ら一族の血には神をして人種を創り給ふより、人の上に人を造らず亦、人の下に人を造り給ふなしとて國人の睦を一義とし、民族の異國にあるを嫌はず地産物交の商易を流通せり。
安東一族の商易ぞ海を商道として造船の岐を山靼人に習へて修得し、東日流十三湊・上磯諸濱に船寄場を築き、越湊は一の湊・矢部二の湊・糸魚湊三の湊・大泻四の湊・佐土両津五の湊・新泻六の湊・羽湊七の湊・砂泻八の湊・象泻九の湊・土崎十の湊・北浦十一の湊・米代十二の湊・吹浦十三の湊・土砂十四の湊・安泻十五の湊・能戸地十六の湊・牛首十七の湊・糠部東一の湊・亘理二の湊・七濱三の湊・月浦四の湊・追波五の湊・大島六の湊・多賀田七の湊・大船八の湊・釜石九の湊・大槌十の湊・内岸十一の湊・外岸十二の湊・耶麻陀十四の湊・宮古十五の湊・久慈にして丑寅三十二湊と曰ふ。
寬政六年五月二日
越後屋仁兵衛
光陰卽生滅
東方に日輪昇りて四方の暗を照らす。その光り當りし生々萬物の影は西方にさして、日輪は夕日となりて影は東にさして洛日暗に入りて光は消え、四方は暗黒に閉ぬ。卽ち人の生死も是の如し。
生死は光陰の輪廻に依りて生成し過却・現在・末代の三界は相通じて眞實の歴史は時元に遺りぬ。依て時元は萬物生々の遺證にして如何なる人をして是を造話作説に改歴せども、眞實なるは一にして二の非ざるなり。倭史に以て丑寅日本國を無史無能の蝦夷とて忌みけるも、是ぞ己が祖先を冒讀にせる行為にてその生死流轉に安しきことぞなし。人心をして天地水を自在に叶ふなく、智に乘ぜば堕に滅し、無智に耐ゆれば開に抜くる。
人は脳の輪廻ありとぞ覚つべし。太古より人脳にして神を全能なるものとて天なる宇宙・地なる大自然・水なる一切の生命起源を神にかりて諸行諸法を造りて遂には神をも造り、權据の者は己が人身をもかえりみず活神とて世襲に君臨し、架空無虚の幻想に論説を創りて人心を制ふる無虚の存續を以て大衆生を従がはしめんとて是を學位門閥に人の階級を創り、平等なる天地水の法則を欠くるの世襲を創りぬ。
然るにや、人の平等を欠くるの權力・權政の續行は復恨を人心に潜伏せしめ、天運はめぐりて報復さるるも人世輪廻なり。丑寅日本國になる荒覇吐神の信仰は是の如き一切の輪廻を不滅なるものとして、人をして人の上に人を造らず。人の下に人を造りき、三世の法則に逆らふべき因縁を断じて行ふべからざるものとて、その信仰を護持しきたるが故に國、侵敵に据さるともその眞理に以て荒覇吐神なる信仰は今にして諸國に遺りけるものなり。
寛政六年八月十七日
和田長三郎吉次
天皇記行抄
一、
倭史になる古事記・日本書紀の筆頭行記に戴るる天皇の累代は、天皇記に記行なかりけり。神代亦、然なりき。
抑々天皇記に創まれる記行の筆頭にありては耶靡堆國・筑紫國・琉球國・南海道國・淡志國・那古國・越國・出雲國・髙嶋國・日本國・日髙國・流鬼國・千嶋國・佐土國・對島國・伊治島國・隠岐國・壹木國・坂東國・髙砂國の二十國なり。此の國々・島國を治むる國主の基に二百七十八主の族長ありて各々睦りぬ。
卽ち族長の基になる民は海部・狩部・稻部・織部・工部・式部・卜部・船部・杣部・河部あり。その他、馬飼・鵜飼・犬飼・鷹飼・魚飼・鶏飼あり。更に塩造・玉造・器造・木造・土造・橋造・酒造・車造・鞍造・荷造・網造・炭造・石造・糸造・皮造・鍬造らあり。是を部の民・造の民とて営を譜代せり。防人は民皆兵として急挙に臨めり。討物は常にして各々備へたり。
弓箭・牟・腰刀・楯ら士気に委せて工風に造り砦・物見・見告攻防は族長にして指揮せり。主系の累代を定むるは長老の選にて位し、衆に引導秀ならざる者は舊王の子息とて廢せり。世移にして國主・族主併合し、坂東より丑寅を日本國とし、赤間に至るを耶靡堆國とせり。
亦、筑紫を耶馬壹國とて三王國にて併せしも、耶靡堆は木國・那古國・越國・出雲國・浪速國・髙島國・南海道とて分岐し、筑紫にては奴國・熊襲國・日向國・薩陽國・隼人國に相分岐して常に攻防をくりかえせり。丑寅にありき日本國耳治安し民の生々能く富めり。
(原漢書、天皇記)
正平六年十月二日
三河住 橘秀継
二、
凡そ倭國に天皇の創めて卽位せしは古事記・日本書紀に記行せるより史實相違せるは明白なり。
天皇とは、支那天皇氏を風聞にして號したるは百済聖明王が佛法を傳へしより添書に日本天皇とて當たるに創りぬ。その以前をして號せるは倭王氏・明日香氏・蘇我氏・葛城氏・春日氏・奴氏・日向王氏とぞ世襲に抜きたるを倭國王と卽位に選抜さるは諸權の力量にて任解されたり。
依て天皇記にては神代ぞ非ず。亦、神武天皇一世ぞあるべきもなかりけるなり。天皇記を記しけるは耶靡堆阿毎氏の崩滅より伊理足志氏・多利思氏・阿輩氏・和珥氏・春日氏・磯城氏・蘇我氏・明日香氏・大神氏・生奈氏・日向氏・越王氏・出雲氏・奈古氏等の出自に倭國王は成りて、萬世一系に非ざるなり。
諸氏、權謀術數にして空位無王の年を長じ、支那・三韓より偉を歸化せしめて成れる王ありき。依て是天皇記及び國記の巻ぞ、蘇我氏代々の掌中に秘藏さるに天皇氏、勢を為して國史帝事記を固定せるに當り是の如き天皇記・國記の旣存せるを障害として、蘇我氏に是を呈上せるを再々度に請令せど、時の蘇我蝦夷應ぜず。
中大兄王、船史惠尺に令し蘇我氏討伐の軍を差向けたりしも、蝦夷自刃して目當なる天皇記・國記の處在奪取ならず。甘橿宮に灾りて蝦夷旣築の陵をことごとく土除きて石室玄棺を壊砕して探せど見付くるなし。是の至は旣にして蝦夷心得て坂東の和銅山に移封にして密々に人の知る能はざるなり。
風聞、天皇氏に達して東國丑寅に密使を以て探求し亦、征夷として要處を略す。然るに得る事能はざれば、諸々轉々安倍氏に在りとて倭朝挙げて丑寅を攻め抜き、前九年の役をして抜けども當らざるは天皇記・國記の行方にて、源氏は是の密令を代々に奉じ、平泉の役をして藤原氏を落せども當らざりき。
(原漢書、抜天皇記)
正平六年十月二日
三河住人 橘秀継
丑寅日本久遠山河
安日山の峯を源に三筋の流れ、末清きは西に流れ西海に水戸口とせる米代川、東に流れ糠部の東海にそそぐ澗淵川、南に陸羽を割りて流れるみちのくの母なる大河日髙見川。
景勝陸前の海に濤々と流る丑寅の血脈たる流れに太古なる歴史ありて絶水なく流るる川辺に咲く冬の猫柳、春の白百合、夏の野あじさい、秋の萩。淀みに白鳥冬に越し、水鳥萬羽四季毎に啼く。のどけき三筋の大河は古祖になる安日彦王を名付たる山源を發し諸支流を集めて大河となり、往古を物語るなり。
古くは阿毎氏の耶靡堆王に創りて、みちのくの地・丑寅日本國と
古土層より出づる古き世の神像。素焼なる荒覇吐神。更に古けき石神ぞ今に以て祀らる。古習になるイタコ・ゴミソ・オシラの神司三法にて今に尚、人の吉凶を判断す。亦天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコらの神の神源を尋ぬれば、山靼を更に越ゆ紅毛人國の神より發起す。
卽ちギリシアなるカオス神・シュメールなるルガル神・エジプトなるラーアメン神・その北になる國のオーデン神・支那になる西王母・天竺のシブア神・ヤクシー女神・山靼になるブルハン神に修成神格せるは吾が古代神アラハバキカムイの神なりき。古き歴史に渉る吾が丑寅の國を倭史に曰ふ蝦夷國とは何事ぞや。祖人の聖なる全能神を冒讀仕る惡稱なるぞ。萬物一祖の身に心して神の報復ぞ必ず降る也。
正應二年五月二日
正田邦貴
良照入道之説法
世にある事の候は二相二運にて過ぎ逝き候。善と惡・富と貧・生と死・戦と泰平・光と影の如く候儀は時にして襲い候。かかる無有一方に望み候事は叶ふ術なく候。
道に行無くば至り候はず、己心亦変り易く候は生老病死の身逝故なり。生世して父母に育まれ候は幸なり。自から求めて道に勤行つくす候も世襲に急なれば修羅に遁げ通る術もなく候間、求めざるに身に鎧を装着し、降りてやまざる火粉に不動たる叶はず。是を払い候故に身護の利剣を振い候。
神佛の救へ候事の儀は十戒と誰ぞも覚つ乍破戒し、己が心身の程を自戒に制ふ候事能ざるなり。死を怖し候は弓家に育つ候程に想候はねど、入道に身を呈したる己が心弱き候事、今更に恥居り候。生保内に隠居を築き候は佛寺ならざる城柵なり。是ぞ厨川・妪の二柵、火急に候時、臣下・老人・女子・童等の救済に望候故なりと茲に断言仕り候。
道に外れ申して寄辺なき余の儀に候事は滅後に極楽地獄ありて候とせば、余の逝く道程は地獄に堕ゆく他非らざるなり。何事以てか悔及ばざる可く候は、敵な朝に湧くを討つ候は佛戒に背く故候はいみずく覚つ候も、志無意に了り候も詮無きなり。源軍は對して十年余に候も憶して降るならず。死すとも侵魔の輩を討候と染め置き候。
康平五年四月三日
安倍入道良照