丑寅日本記 第四

孝季

東日流之上磯

東日流上磯とは外三郡なり。亦、東日流下磯とは内三郡なり。亦、外濱の彼方は宇曽利と糠部にて渡島に半島す。

東日流はその先端少かに去って、渡島との海峽に突出す。双島俱に火山地境にして本州の先端にありて太古の歴史を遺せり。語部録に曰はしむれば東日流大里は大古にして入海なりて、大浦乃至行丘に至る處、皆々波濤たり。

今になる岩木山未だ世に無ける時、山靼より氷雪を渉りて此の地に定着せし民あり。地湧湯出づる此の地をアソベと稱しける。平やかなる森たりしも、究むる湯泉ぞ火山帯にて、その住居を眞冬なるさなか大震起り、地割れて爆裂し、火泥住人を焼埋めり。はるか一萬年前なる出来事なり。

永きに渡りて火吐きし、この山を巌鬼山と名付けしは、今なる岩木山なり。山靼より渡り来たる海の上には、その煙火ぞ目の標となりて来る多く、岩木山に續きて八甲田山、宇曽利山噴火なしけるにて、その天災あれどもその故に東日流入海は大里と相成り、島たる宇曽利は糠部と陸土に續きたり。

上磯とは海になせる濱辺にして、下磯とは海たる旧事の濱を稱しける名稱の起りなり。

寬延庚午年八月三日
平野金右衛門

立正史談

古代より奥州に倭國朝より遁生し来たる皇族及び官人・武家・學人等多し。是を審議なし、その居住を賛否せるは郡主にして、必ず五王の議に決せらるなり。是を地住戸籍吟味と曰ふ。是等の居住せる處は出羽に多くその系に累ぜる多し。

古にして遁生せるは耶靡堆王系一挙に落着し、亦支那より晋の群公子一族大挙して漂着し農耕をもたらし、山靼より敗國の民多く来着せるも亦多し。かるが故に古に進みたるはるか紅毛國の歸化人も多し。亦東海千里の彼方より渡り来たるあり。吾が丑寅の國は世界東西の事を知るべく智識ありて、人の種を嫌はず今上に至るなり。

倭國にては人の種を嫌いその交りを閉し、國内になる權謀術數にて永く世界の進歩におくれたり。ただ奥州を蝦夷とし討伐を試みては敗れ、和睦とて関を開かせては攻め入り、永くその攻防をくりかえし、遂にして康平五年をして國主を討てども、常にして内安からず戦國の世を防ぐに餘りてなれるは倭の始末なり。

享禄庚寅年二月七日
南部伊織

紫光魁北史

世界諸國に於て北斗の魁を神とせざる國はなかりき。

支那の易断を始め星占をなせるは古代オリエントになる大王國の跡跡にその求拝せし遺物遺跡を以て明らかなり。紫光に輝く北斗の魁星、天動不動にして宇宙に在り。その神秘たるや古人の心に崇拝の念を断つ事なく諸信仰の當的たり。亦、日輪も然なり。不動たる大地とて地震あり。噴火ありて火吐く地底の謎ぞ知らず、地獄を想定せり。

生死の生々流轉に己が魂を天に安らぎを求め天國を北斗の魁星に想定し、極楽世界を紫光に輝く此の星に往生を願いたるは人間總て求道の安心立命を信仰に以て運命の法則を悟るとは生老病死の四苦諦なり。

寶水甲申年十一月一日
和田壹岐

石塔山靈鎭之記

吾れ若し死したるとき屍を東日流石塔山の渓流の瀬音絶えず聞こゆ處に埋めよ、とて息絶えたる安倍日本將軍賴良の遺言に奉り、康平二年七月十三日、東日流石塔山に淨法寺より洗骨埋葬せり。大光院慈覚法印にて挙式、葬列に皆鎧を着して壮厳たり。

以来石塔山にては安倍一族鎧着装にて年毎の鎭靈とせり。天正十七年より和田壹岐に依りて神職を継ぎ、爾来今上に至るなり。

寛政五年七月三日
和田長三郎吉次

海航之創起

引田臣阿部比羅夫、越より軍船挙航し羽州の濱岸を掠め、東日流有澗の濱に上陸せんとするを、荒覇吐五王の有澗武王、是を向討つて撃退せしめてより陸羽に大船建造の岐、支那より傳はりぬ。

亦、山靼より歸化せる者にて紅毛人國になる造船作造法また得たりぬ。陸戦なれば満達及び蒙古の騎馬法、既に覚得せるも海船に於てはハタと曰ふ刻おくれなる丸太彫りになるになかりき。

比羅夫との海戦に勝抜たるは飽田の地湧油にて、有澗濱の合戦・外濱後泻の合戦に破りたるも、大なる軍船にて海兵も亦國護に不可欠なるものとて起りぬ。世に戦非ずば是を商船とて海の外なる國に通商を得むとて造りきより創りぬ。

天文二年四月廿日
安藤三郎義清

間宮状

昨今、拙者御地に幕用御座候て訪れべく候。
秋田孝季殿・白井秀雄殿御両所にまかり渡島及び流鬼、更には大明山丹と申す黒龍水戸になる風土巡検に候。
依て秋田殿の北方廻遊の諸紅毛人國及びオロシアの世情をうかがえ度く一筆參らせ候。
田沼様ことのほか北領に執心に候へば、道しるべ土人と通釋に御同道下され度く候。
是、政道の特許なりて御用の筋何事の障り御坐無く候。
右之條、御用意下さるべく御請願仕り候。

壬寅年六月廿日
間宮林藏

秋田孝季
白井秀雄 御両所殿

西行旅譜

西國に平氏、坂東に源氏、陸奥に藤原氏を世襲とせる日之本の行末を易に才無く拙僧の巡脚は御佛の導くまま今奥州平泉にたどりぬ。

此の地は弥陀の本誓願金剛胎藏両界中尊の寺閣能く備はり、朝夕に水を渡る櫻川衣堀に水鳥を驚かす諸寺の梵鐘に飛交ふ東山の月冴えゆ彼方に、かりがねの鳴く道奥の佛都ぞおぼほゆ今年は文治二年の神無月なり。

錦織なせる四週山々束稻山の紅葉・金鶏山・鐘岳・塔山の老杉老松の間々にまだら銀杏の黄葉・楓の紅葉を背に毛越寺の大泉池を鏡に映す絶景。

〽何事のおはしますかは
   知らねども
 忝けなさに涙こぼるる

伊勢にて詠にしを再感す。武者小路に居並ぶ武家邸、河辺太郎・新田冠者・樋爪太郎・金剛別當・北爪五郎・栗原六郎・河北冠者・太郎冠者の衆邸に護らる平泉舘内になる二の丸・柳御所・伽羅御所・髙舘と京師の風に見ゆかしむ。

柳櫻を堀端に殖しむ侍町・衆徒町や寺小路・泉ヶ城途に昔、日本將軍安倍賴良が發願建立せし佛頂寺跡に建立せし中尊寺・薬師堂・釋迦堂・荒吐神社・藏王堂等荘厳なり。

明日の暁に此の國なる主君藤原秀衡殿の參面許なりて今宵毛越寺に宿す。

丙午年十月二日
西行

琥珀王位珠玉之事

坂東より丑寅にて出づる琥珀あり。山丹歸化人にて見付かるものなり。

紅毛人國にては太古より貴寶とせるものにて、丑寅日本國にては渡島なる聚富・糠部なる久慈・坂東なる銚子の地より産堀さる。用いられきは荒覇吐五王及び郡主・縣主らにその任象とせりと荷薩體記に曰く。

貞享乙丑年二月一日
奥村三平

日積寺勧進帳

三世界に遇ふる人の一生は萬代に一瞬の生にして、顯れ消ゆるうたかたの如し。

その一瞬の生々に遺せる罪障ぞ千代に消難き造惡を子孫に残り、末法の世となりては神の加護・佛の救済も是無く衆生は求道の方處を失い、長時の責苦・阿鼻叫喚にあえぎ心身は阿修羅の法罰に解脱を得られず、六道の輪廻徒らに速轉し、神佛の本誓願に離れ逝く耳なり。

依て茲に佛法僧發願道場を飽田の聖地に開きて本願に歸依、道しるべの法灯を照し末法の暗を十方法界に光明を屆かしむ道場とて、日積寺建立を勧進せん。施主の衆生に約せるは大日如来・薬師如来・阿弥陀如来・阿閦如来・釋迦如来、伍佛の本願の救済あらんをば明白なり。

抑々吾等安東一族の代々にして安しき事の無かりきは四障の故なりせば、住むる郷に佛寺を以て降魔諸障を降伏し、一族の信仰心深きを以て成就仕るものなり。

嘉吉癸亥年七月十三日
發願

安東康季
廣瀨信繁
安東義季
潮方征季

總代施主

御寿九十二歲 安倍大納言 盛季
下國兼季
藤崎教季
大内玄馬貞綱

右連名日積寺臺頭以如件。
亀像山書簡

寬政五年八月十日
秋田孝季

東日流中山之由来

山頂に至る繁木、羅漢柏・雑木の老樹に山面を幽閉せる仙境を梵珠山・馬神山・魔岳・壷化山・石塔山、更に眺望山・源八山・大倉岳・鍋越山・木無岳・増川岳と連峯せる全山を東日流中山とぞ稱しける。

此の山麓になる古跡多く亦、佛寺神社の古社跡ぞ今に遺す。現存無けれども正中山梵場寺を中山千坊とし、山根道下ノ切卽ち、下磯より上磯に至る道盡きる處に十三湊あり。その近山を十三千坊と曰ふ。

東日流中山とは丑寅日本國領の中央たるの意なり。古きより海峽を越えて至る玄武之國領に渡島・千島・神威茶塚國・流鬼國・夜虹國・角陽國ら坂東乃至東日流間より尚數倍の固定國領を丑寅日本國と曰ふなり。何れも海幸山幸の國領にて地人多く山丹になる大祖の地住民なれども、能く睦み来たるなり。

東日流中山を東西に麓の開ける處に古代信仰なる荒覇吐神社跡の數々、亦役小角開山になる大光院、石神之史跡や古城跡、名を挙ぐれば二千年にさかのぼる事久しき歴史にありける多し。不可思儀なるは浮島の漂ふ天池とその傳説、梵珠山に天降る光り物なる謎とその傳説、大倉山に深き洞穴など、東日流語部の夜話になる話題多し。

史實に於て不動なるは石塔山にして、六千年の古事に證跡あり。驚くべくは、はるか山靼國に越えて紅毛人國への往来になる實證なり。亦十三湊及び合浦外濱の飛鳥山の歴史に倭人の落北人を愢ばしむ。

丑寅日本國、これぞ古代國號なり。吾が國の祖傳は創國より人の睦みを以て國治とし、吾等一族の血累にありて人の上に人を造らず亦、人の下に人を造ることなかりける。是ある如く、東日流中山石塔山にて第一世の王卽位より衆にあるべくを誓いし王國なれども、神なる天秤を輕んずる事ぞ代々に非ざる也。

東日流中山の栄ある歴史にあるべく安倍一族に累代せる者、年毎に參拝ぞ欠くべからず。遠かる者は此の山の境内石を頂き祀るべし、果報あらん。

寛政六年九月十九日
和田長三郎吉次

金剛不壊摩訶如来之事

古来、石塔山に祀らる佛像あり。金剛不壊摩訶如来と稱す。

是れ役小角が大寶辛丑年、金剛藏王權現の本地尊とて感得せしものなり。五智の寶冠をいただき、御手印は金胎曼荼羅を顯し、中尊両界印なる結印なりと曰ふ。御足は半迦踏坐にて蓮下獅子龍坐にて金剛藏王の本垂相を併顯す。加之像にては天竺・支那にての佛典に記載非らず。役小角が石塔山に入峯し、荒覇吐神の威靈にて感得せしものなり。

依て役小角の遺靈須く寵りしものなれば、是を疑心以て輕ずるべからず。亦これを輕笑せる者はたちまちにして神佛の報復あらんをば恐れ敬ふ可。右、戒言如件。

正平甲辰九月十九日
安倍信季