丑寅日本雑記全

和田末吉


(明治写本)

書頭戒

此之書門外不出、他見用借禁可。

寛政五年正月元日
秋田孝季
和田長三郎吉次

寛政五年一月元日書言

抑々、丑寅之日本國史は國體をして頭部に當れる處なり。人の住むる先人の草分ありて道は今に遺り、衣食住の人は営みを覚いたり。思ふに易き事なれど世襲は人の意ならず、大平なる平水にも怒濤逆巻くが如く、暮しぞ常に安しきこと保つ難し。相互に生々を譲るが故に國を創り、智能を敬發するが故に學を進め、民族相保つが故に掟を作り、破るものをして法を執行し法のもとに裁かる。

然るに人は望慾限り無ければ、法また天秤の計を斜向す。權は人を護るが故に古き世に導主を立つるは國主なれど、長にあるべく者、權を爭いば民を扇動して戦に命血を散す。若し是を否従せる者は、權法を以て罪科とし刑に處す。

人は神を心に求めて信仰す。是れ基なるは生老病死の理りを安らぐ為の求道なれど、權者は是を己が一途の為に掌据せんとす。凡そ歴史の根源になるものは是の如くして遺れる多し。

寛政七年正月元旦
秋田孝季

渡峽史解

自山靼至流鬼國、更自流鬼國至渡嶋北岬、自渡嶋南崎至東日流渡峽、古代陸海道也。是稱宇津化志之渡。

抑々開是陸海道者、安倍日本將軍安東也。亦海道耳以為航路、其乃至處、自東日流十三湊至山靼黒龍江河口湊。

抑々前路自古代、後路延喜丁卯年也。此年契丹立國年也。依契丹國號神開丁丑年、伴安倍安東臣百四十七人渡山靼、彼國王大祖帝貢日本國領不可侵之條、相互和睦交決以是玄武之為定。安倍安東之交流爾来永續、我丑寅國稱日本國也。

永祚己丑年七月二日
髙清水之住
物部昭麻呂

みちのくとはに

このくには、うしとらのひのもとなりて、あずまなるひのいてませるくになり。みちのくは、あらはばきのくににて、ひこのなりませふるききみのたつるところなり。

ひとのくらし、やま・かわ・いそ・うみにゆたけく、やちよにいやさかなり。うしとらにさむけるしろきくに、みなわたりてすむる、おやひとのおなじゆせるひとのくになり。

あらはばきのかみ、いつきおろがむは、ことなるしようめようとても、かみのもとなるは、ふることにおなしく、ひのもとのほくそらにうこかさるほしの、かみくたりのちところなり。

ちょうほとらのよねん
なかわよとはる

奥陸探抄 鮮卑書抜解

支那に於て、最も古き世に髙祖帝あり。これを前漢と曰ふ。十二年在位をして惠帝在位七年、少帝泰在位四年、文帝の在位十六年に年號を用い後元元年戊寅を以て創むなり。

ときに我が丑寅日本にてはこの國を知らずと曰ふことなし。語部に曰はしむれば亞耶國と曰ふ。流通に於は中元丙申年、山靼より唐金を具と持て来たるあり。炭釜を造り鑛を見付けて銅制具を刃物とせる創りと曰ふ。

亦、武帝の大初庚辰年頃、阿蘇辺森大爆噴し、地に住むる人多く災死せしと曰ふ。宣帝の五鳳丁卯年、阿蘇辺族・津保化族、相睦みて耶靡堆族と農耕に外るものなしとも曰ふ。元帝の永光戊寅年、流鬼國に國長を定め將契を臨君せり。亦同年、渡嶋國長・摩牙を立君せむ。成帝の河平乙未年、千島國長・嘉陀虫を立君せしむ。

孺子嬰居戊辰年、前漢了りて新興り王莽の己巳年を以て始建國とす。天鳳丁丑年、荒覇吐髙倉閉伊に移りぬ。准陽王の更治甲申年、新了りて後漢興りぬ。

光武帝の建武癸丑年、荒覇吐髙倉、更に陸前宮澤に移りて陸羽五十四郡に区したり。明帝の永平十年、長安に白馬寺建って佛法支那に宣布さる。同壬申年、荒覇吐神の神社を坂東に移し、是を今に大宮と曰ふ。章帝の元和丙戌年、荒覇吐髙倉武藏に移しめ坂東三十八郡に区す。

和帝の永元壬寅年、坂東の富士山見ゆ東海辺に荒覇吐髙倉移り、今に安倍川と曰ふ。桓帝の延熹壬寅年、荒覇吐神事を出雲に催す。献帝の延康庚子年、後漢了る。魏起りて文帝立つるは黄初元年庚子なり。同辛丑年、蜀起り昭烈帝立って章武と年號を別改す。同年亦、呉起りて大帝立つ、年號を改め黄武と稱す。支那明帝の青龍甲寅年、荒覇吐王兵を挙し故地耶靡堆を奪回一統し、根子彦を西王とす。

魏元帝甲申年、魏、濁を併せ、西晋起って武帝立君し年號を泰始と改む。太康元年、呉滅びぬ。東晋・孝武帝の太元丙戌年、北魏起り道武帝立つ。此の年、出雲の荒覇吐神處廢さるる。東晋・安帝の元興甲寅年、耶靡堆に稚根子彦、倭國を建國し天皇たる。荒覇吐王を離脱せる國を創りて立君す。

支那にては東晋滅び、宋起り武帝立つて年號を永初庚申と改む。時に北魏にては我が丑寅日本に安東大將軍を荒覇吐王に賜す。讃美彦とはその時なる荒覇吐王也。我が丑寅日之本國の支那國交をなせる創と曰ふ。支那に斉起り髙帝立つるも二十二年にして亡び、武帝立つて梁國を起す。同帝の大監癸巳年、我が丑寅の日本國に境堺を定む。坂東安倍川より越州糸魚川に至る峽谷を以て國境となせり。

梁の中大通庚戌年より北魏大いに乱れ、同甲寅年遂にして西魏・東魏と相分列せり。大清己巳年、東魏亡び北斉起り、大平丙子に梁亡び西魏また亡びぬ。翌年陳起り北周起る。我が國にしては越王、倭に入りて天皇の位に立つて旧朝亡ぶ。陳の丁酉年に北周は北斉を降し併合せるも、大建庚子年北周亡び隋立つ。文帝の開皇庚戌年、陳亡び、和交倭國と相通ぜり。丑寅日本國もまた山靼に相通ず。

延長癸未年十月七日
竹内加茂

右原漢文也。

寛政癸丑年二月七日
秋田孝季

非理法權天

天地水は萬物のなかに人を創りける。その人は神を想定し、生々のなかに己が運命なる多幸あれかしと祈りを欠くなし。然るにや、人の交りに人は法を造り救済と罪罰を以て裁くるも、法なる天秤は權に依りて平等ならず横行すとも、天なる裁きに理も法も權も何事の人智をして抜くを得ざるなり。

天地水は創造の神なるも、破懐なる神なり。人にして神を自在にその神通力を得ること難く、如何なる信仰道にて奉請せるとも叶ふる術なし。神とは宇宙日月星地空の自然にて、何とて永遠無限なるはなし。人とは神の賜りし生命體を得乍ら、萬物に和解せるものなく常に十惡五逆の罪を犯しける。

神を利して己富に暮す者、亦己が心を神なる告とて人を惑はす者、隠誅にして大衆を奇辨に誘惑し迷信に従卆して、戦の修羅場に下敷とせる。政事なせる朝幕の輩、いつの日にか自謀に依れる報復に堕いるの日に遇はんや。心して世襲のあやまてる諸行諸法を神の天秤に平等たれ。

人心は困難に避し、安楽に限りなく欲するが故因に殺伐を正統なるものとて權者は歴史を造るなり、偽乍ら。

寛政五年三月二日
秋田孝季

古抄録

利尻山は荒き山面をなしける流鬼・渡嶋に望む島山なりて、北面なる荒覇吐神なる山なり。亦、羊蹄山をして祀らる安倍國東が建立なる荒覇吐神をして、後人は是を比羅夫神社と號けむは世襲のさまなり。

渡島なる古き傳説多く、渡嶋白老のエカシぞ曰く。古話に依りけるは遠き昔の事や愢ぶらん。昔氷害に続きける想ふにも數え難き過却の世に、人は海に川に野山に狩漁し、暮しの餌をなして生々せし世のことなり。人は山靼より渡り来たりて流鬼・千島・渡嶋に住着きて、山海なる幸に豊けき暮しぞ永けるも、人住子孫の相渡れるに狩漁なく、神にメノコの生にえ、亦は熊・狐などを献げたる習あり。

なかんずく人の子なるメノコの選抜あるときに於ては、何處のコタンに於ても娘ある親の苦怖におののきたり。この惡習を改めたるは白老のエカシにてオショロコマなり。彼のエカシは生あるものを生にえにするは神の思し召に非ずとて、先づ己れが生にえとなりて神に奏上を請ふとて、石狩川に入水せり。ときにこのエカシは𩹷の相となりて、この川の主となりぬ。いまにオショロコマと曰ふは𩹷を曰ふなり。

更に古語あり。千島なるエカシの曰ふ神の常住せる國ぞ、北の果てと南の果てに在り。その相はゆらら動ける夜虹なりと曰ふ。神なる國は常夜・白夜の一日にして、人の暦にては一年の期に當るると曰ふ。神は人にカムイノミの起すを傳へ、水を凍らしめ、人を新地に渡らしめたりと曰ふ。

神は常にして氷雪の天空に常住せるは、汚れなき白に満たる、寒に物の腐れ難き寒凍の極に降臨すと曰ふ。神の使者とて白熊・白鳥・白鯨をして常に下界の空地水を見まわせ給ふとも曰ふ。

寛政五年三月七日
秋田孝季

舞草錬法鍛冶

永承戊子年、安倍日本將軍賴良、世情にわかに急を告ぐ、討物馬具、三萬騎を領職に布令す。舞草と曰ふ刀鍛冶ありて、安倍氏代々の刀工なり。

祖は金氏の胤にて代々を襲名し、きんのともひさと稱したり。依て、刀銘に寶壽を刻むなり。陸羽の鍛冶五十六郡に渉りてその造刀、己己に秘法あり。古来より金氏八法鍛と曰ふは山靼錬刀法・韓鍛錬法あり。授傳の證は銘に以て明白なり。


寶𪤳、寳𡔽、寶□、金一、金□□、寳夀、上一、寶□、師宗、𣏶房、犮長、安房、閉峯、王有、丸房、秀安、鬼王丸、行重、伏見、有正、雄安、基高、杙里馬、月山、


諷誦、丗女、支□、武吉、正廣、法花太郎、實次、秀衡影丸、文寿、東日流丸、親法、閉伊仙人、日之本丸、国東、安國、安日

右の似字銘なる太刀・長刀・脇差、多し。亦古きは毛抜なる太刀あり。何れも無銘にして拵飾り秀なり。

長享戊申年
月山貞龍

厨川女子武者

永承壬辰年、秋田生保内に北浦六郎、生保内城を築く。是は厨川柵に事あるべきに、雄勝の領民を脱難せしむ隠柵にして、川辺の要害を利して建固なる山城なり。澤と斜面に利せる城邸の内を柵段を施したるは、ポロチャシなる跡に築城せり。

城道澤にして道を造らず、隠城の人視及ぶべからず。馬千頭の放舎、人二千を籠らしむに可なり。城邸に泉あり、かくまかなふに豊なり。古き世のチャシ跡なれば、居住の圓基跡ぞかしこにあり。

古きより城邸の備へあり。護りて眼下に開け、攻めて討入り難し。依て厨川落なる傷兵・老者・女子・童を皆兵とす。厨川女子武者の出でたるは、此の城に練磨せるものにて北浦六郎・安倍良照が練師たりと曰ふ。荒覇吐神社あり、古きこと二千年の苔香にむす。山頂に鎭守し、石神を以て神靈とす。

此の地は龍神湖あり、その傳説に平將門の遺姫の哀しき物語ぞ今に遺り、その姫塚存す。

寛政五年三月七日
秋田孝季

天内山抄

渡嶋なる余市の邑に天内山あり、名稱正しくは天眞名井山なり。

文明壬寅年、天眞名井宮行幸なせる地にて、この湊に軍船を造れるためなる水軍をなせる要湊を築き、此の山に城を築きけん企ぞ志したるも、コシャマインエカシの乱起り、多く殉じて志ならざるところなりと曰ふ傳へあり。

寛政五年三月七日
秋田孝季

兵法陣取之事

弓箭は底より髙きに射るは射程弱し。風に向へて亦、然り。弓箭の陣は髙きより底きに敵を誘へて討つべし。亦、弓箭の陣は敵を風下に向へて討べし。馬乘弓は林中に用いざる事とあるも、走馬弓とただ馬乘弓とは異りぬ。

走馬弓は追撃によし、走馬弓は向撃によし。楯垣弓は敵近くしてよろしきも、矢継三段のかまえにて連射ぞ叶ふ。楯垣の陣は逆茂木を十間前に施し、材縄は十五間に張るべし。囮陣も亦誘敵によろしくも、鳴物吹き打く者と旗差物にて敵視に見誘ふの事おこたるべからず。

敵に物見の装は木葉・枝亦は草を着るべし。狼火は狼糞亦は杉檜松葉を發煙に用ふべし。騎馬に攻むは笠形散攻にして歩徒の兵を後にすべし。安倍兵法通常戦如件。

文保丁巳年八月六日
豊田勝利

阿吽寺緣起轉末

中尊本願道場湊迎山阿吽寺之開山、日下將軍安倍大納言盛季が落慶せり。亦此の年、藤崎平等教院も安東教季に依り再建さる。時に康暦己未年なり。

興國庚辰年の津浪よりにはかに佛法を入れ、東日流に於ては三千坊を以て六郡に相渡りぬ。十三湊に在りし安東船二百八十七艘・その船乘人達、寄辺なき廢湊を却りて諸國の津に居を着して歸らず。領民亦多く渡島・秋田の地に移りて新地を開き、残るる民は浪災なける邑人耳にて少なし。

依て阿吽寺成れりとて法灯貧しく、年毎に風雪に朽逝くに修理固なく、應永丁丑年に禪林寺潰れ、嘉吉辛酉年に南部勢に堂棟残らず灰となりぬ。依て本尊を奉りて盛季、渡嶋に渡りて阿吽寺を再興せるは今になる處なり。

寛政五年三月七日
秋田孝季

(注)阿雲、阿吽、十三宗、山王坊とも書かれし古書ありぬ。

大陸羽史探抄

花にうつらふ大陸羽の山河、荒覇吐神の交はる彩も香も名にし負へる埋木の年ふれば他生の緣栞して尋ぬる山賎の山吹散りもせず、やごとなき東日流の中山に春宵一刻のぼりての世に眠れる古塚の諸法實相、安日彦王よりはるけずは峰の嵐や谷瀬音、定なき世の暦哉。

石塔山の無相眞如の跡、法の場に一枝の花をたむけなん。いづくんぞ露の身は花はあらし朝立つ添ふるはてはありけり。丑寅の神明佛陀の成等正覚ぞあらめ、いかにいはんや阿毎氏・安倍氏・安東氏と姓を改め渉り覇にあることの隠笠隠蓑の地ぞ、石塔山なり。

寛正壬午年八月一日
法印明済

神変大菩薩

九重曼荼羅阿吽乃太初太終願卽身卽神佛奉請唵阿毘羅吽欠廬舎那佛、天竺唐土渉来之法、三輪山大神結修成。

役小角行者、得金剛藏王權現之感應、是為垂地尊。小角更求道基本地求行道諸國靈仙不得、欲大唐五臺山渡。自肥前平土船出、不天運漂海嵐着若狹小濱。依靈夢向奥州、至東日流石化崎。

石塔山入𡶶、茲金剛藏王權現垂地尊之本地金剛不壞摩訶如来感得。降世小角、自光格天皇賜神変大菩薩之佛號、爾来如件。

寛政五年五月四日
大光院住 智覚法印

大光院法訓

天命なる生死は天地水の法則なり。身心志して道に求むるも身は美食浪楽を心に責む。依て行願轉倒し無常の木阿弥に堕なん。

神は神乍ら佛は佛乍ら道に求めて本来空なるも、信仰をして散財の因を自他俱に作る勿れ。亦金銭をして貸借を以て恨復の因を造る勿れ。生々安しきこと少なけれども、信仰を一途に家運の運幸を的とする勿れ。

神佛への信仰とは諸行諸法への智覚道にして、生々の己れに及ぶ渡世の安らぎにて、是を己が心に以て人生を渉る善惡の識學なり、生命の哲理なり。諸行諸法は古来、人の創りしものにて眞になるはなく、常にして生命は時に従って終焉に進む耳なり。

生命の光陰移る事速ければ、空しく刻を渡る勿れと代々して古人の戒む處なり。信仰は迷信に堕易く、心して信行の的を外るる勿れとも曰ふ。
大光院の法則に曰く、

寛政五年五月四日
大光院 智覚

石塔山荒覇吐神社由来

寬政五年三月七日
和田長三郎

厨川柵落之談

康平五年、厨川柵落って地民の多く秋田生保内城に脱し、安倍重任が地の豪士・由利賴母・小野寺美作・浅利出羽・田口廣信・二階堂伊賴・中畑友幸・佐藤義行らの七勇士に東日流・鹿角・火内・庄内・越後・渡島・糠部への安住を先達せしめたり。

生保内城は北浦六郎が、是ある非常に築きたる城邸にて、源氏の知る由もなき隠城なりき。亦、安倍良照も安倍一族の武者を出羽に落しめ、羽黒山伏たる入道僧兵にせるあり。亦、坂東利根郡・信州志賀川郡に邑を開きて地の豪士となりき者多し。

寬政五年三月七日
秋田孝季

安倍親族改姓録

一、東日流上磯下磯定住
安東氏、安田氏、安保氏、安藤氏、安部氏、阿部氏、平山氏、安倍氏、藤井氏、朝夷氏、鈴木氏、田澤氏
二、糠部宇曾利都母定住
安藤氏、向井氏、止馬別氏、相川氏、佐藤氏、舘山氏
三、閉伊淨法寺西法寺定住
豊間根氏、米内山氏、菊地氏、髙山氏、宇部氏、大田氏
四、鹿角火内秋田生保内定住
二階堂氏、和田氏、安東氏、三浦氏、北畠氏、田口氏、佐藤氏、川辺氏、中畑氏
五、出羽庄内定住
津田氏、由利氏、髙田氏、天藤氏、安曽氏、近藤氏、北原氏、大久保氏、沖田氏、飯田氏、桑原氏、米田氏

寛政五年三月八日
和田長三郎

覚明説法之事

人の生きざまに生死をして運命の一切を觀ずるに、人心ほど怖しきものはなかりけり。人の殺生に於て、親をして子を間引く者、財遺を爭いて親子とての殺生、兄弟姉妹にての殺生あり。

神佛の世にあるまじやとぞ嘆くほどに、病貧に自殺せる者、權威慾望、突差の論爭、金銭貸借、忠言に逆らふて犯す殺生の數々、古来より盡るなし。人が人を殺生せるは、如何なるあらふとも罪なりきとて、人はまた人を刑に殺生す。

然るに法は神の裁くる天秤ならず、裁きを片見し無實なるを責めて惡人と處刑せるありきは、法また神なる戒に非ず、人の作れるものなればなり。依て世に生々せる者は皆一日とて他生を殺生せざるはなし。

一食の中に死せる數々の生物、火に焚く草木、衣に着るすべて、みなながら殺生の中に生あるを覚つ。罪なき者なかるべし、とその諸靈に念じべきなり。

寛政五年五月七日
覚明

陸羽王物語

御祖を安日彦王・長髄彦王に累代し、安倍氏の宗家にありては代々をして日之本將軍亦は安東將軍とて世嗣す。

往古にして耶靡堆王阿毎氏なれども、書にあるは旧新なる唐書に證遣りぬ。安倍氏累代の事にありては康平癸卯年、源太郎義家がことあらうに安倍氏に緣る一切の書付文巻の奪取焼却にて、遺るを失せり。

時に髙畑越中と日す貞任幕下の重臣あり。主・貞任の命にて次子髙星丸を東日流に落しむに安倍家累代に遺れる古巻にて題書を耶靡堆阿毎氏之累細二巻を俱なはしめたり。その古巻にあるべきを書き記し置きて、安倍氏の累代ぞ諸史に遺りぬ。上古にして次の如く記あるを知るべし。

耶靡堆阿每氏之事

祖之氏號阿毎氏、熟速日子之系也。始祖在加賀大三輪山九首龍、大物主也。神西王母・女媧・伏羲奉斉、是號白山毗咩神・大三輪神祀、子孫代々四辺之國々併耶靡堆國。

始宮建出雲、後宮建阿鹿。茲奈古國・越國・木國・熊國・難波國・鳳國・出雲國・淡之島・南海道・秋國・筑紫國・薩陽國、一統之為國主稱阿每氏。初一世號耶靡止彦自加之一世代々久耶靡堆王曰倭王改氏安日彦王代也。

起筑紫日向勢、髙砂之佐怒王也、南藩渡民之長也。筑紫王猿田彦討従、更薩陽王速人王討従、攻耶靡堆國主安日彦王敗十年之戦、故地放棄、遁東國更落丑寅東日流落着、茲併土民興荒覇吐國、號子孫安倍氏為日之本王給
ふなりと曰ふは古巻の要旨にして安倍一族の今に至れる要なり。

天承辛亥年三月日
髙畑越中

安倍氏遺歌集 一、

〽年を經て一樹の陰に忘れ水
 われも夢なる鉢の老松

〽なつかしみ衣の舘に面忘れ
 花のしがらみ風も憐れみ

〽たたねなり陸奥に嵐の戦場に
 後髪引くわがみどりこを

〽名ばかりは遺して果るみちのくの
 暫し岩根にたそやなまめけ

〽白露のあはれ馴るる草の袂
 移せむ身をも芭蕉に落つ

〽修羅太鼓厨の柵に髙鳴りて
 明しかねたる下とし上に

〽あしびきのすぎ間風吹くかりがねの
 廻りあふべき程だにありき

〽黄昏に春雨降るはぬれもせで
 共にあくがれ心もとなと

〽夜討がけこゝを先途と衣川
 咲き散る花のいつをいつまで

〽限りなく夏の草のみくさいきれ
 幾関々にかげろう燃えたつ

〽さる程に八大龍馬わくらはに
 露もたまらん安比山に立つ

〽夜もすがらえいじもおどる事の由
 今一かへり心つくさせ

〽月の盃不覚の涙怨みても
 逝きにし人は瑜伽法水

〽梓弓われ人のためつらければ
 千戸萬戸に身うず身を知る

〽夷の國と薄くも濃くも今めかし
 貢先なる倭の古狸

〽白河の関にまたるる道せばき
 楷老同穴いもせ通りぬ

保延丁巳年八月一日
藤井道任

安倍氏遺歌集 二、

〽天つ風身の程隔て露もなく
 うつろふ長夜有為に吹く

〽もののふの定なる命さればにや
 神のしめゆふかつさきそむる

〽朝もよい山は苔路姫神の
 石に組建つ荒覇吐神

〽生保内のいこまの山に國見して
 田澤の山湖天池とみる

〽武家の子はならはぬ業をつぎ櫻
 身の果て更に散りて孝たり

〽松竹は継ぐを結ばぬこととても
 梅檀植添へて人は好むる

〽寅の子は舊里をいでて道を知る
 萬里に征きて郷に歸らむ

〽水にあり水をはぶくる苔草の
 いわおにつきて尚美しき哉

〽斬ればとて手に立つ敵もなかりなば
 革のおどしも草摺寒し

〽戦場を弓手馬手に業かけの
 はした者のあなどりぞ欠く

〽あだ夢に汗染む宵の草枕
 物見なりなりいでて覚しぬ

〽とこしなへ八千代をこめし安倍城の
 たつか弓しる心なくれそ

〽和賀山になびく嵐の吹かばとて
 川辺左衛門死賭けの護り

〽明けゆくや戦の跡のなまぐさを
 涙も色にひげをしたたる

〽尋ね来し味方の墓に先逝し
 戦の跡に涙こぼるる

〽あわれ知れ心離れぬ友の墓
 今降る時雨心すみにし

保延丁巳年八月一日
安東髙星

陸羽信仰之儀

一、ゴミソ

古来ゴミソとは山靼語にて狩漁占師を言ふことなり。神を祀るとて神殿なく、狩人・漁士の轉住する處に追って占ふ。

卽刻に人形なるを造り、張皮の屋内に供へて一枚太岥及弓刻を鳴して舞をなし乍ら、神なる告をせるをコーミルソーと曰ふ。祖来の傳法にて狩人・漁士、その占に信じて行く處、狩猟あり漁ありぬ。

死者をして葬ずるは、立木の髙枝に棺を縛りて風葬せる後、角塚に埋むなり。亦蒙古に入りては、氷土深く埋室を作て葬むるあり。葬處を馬蹄に固む、無標とせるあり。亦石置を圓重に墓標せるありき。墓中に葬者生前の持物總て副葬す。魂の甦りに便乘せし馬をも埋むあり。これをパイ葬とて白き馬を添葬す。

是の如き信仰の渉れる陸羽の今に残遺せるにゴミソあり。メゴとデゴのコケシは彼の國なる狩漁場にて卽刻なる紅化神卽ちコウケジンなり。山靼にては部族各々稱號を異にせるも、信仰なる意趣はわが郷のコケシと何事も同じなり。

二、オシラの事

古来より馬群・牛群・鹿群を飼ふる人の神なるをオシラと曰ふ。是れなるも山靼渡来なる信仰なり。萬物は雌雄のマグワイにて産る。是を司る神、オシラと曰ふなり。

わが國にては道祖神・金精神・オシラ神・シュンメイとも、稱名地々に異なるなり。古き世にては男女初に結ぶるとき、神の社にマグワイ處に夫婦床を作りて、神に初マグワイを献ぜる習、是在りぬ。

オシラを司る祈禱師は、良き種に馬を産するが故に不良駄馬なる雄を去精す。羊・鹿・牛何れも二才にて切術せり。依てオシラぞ薬師にして、人も牛馬も病を治したりと曰ふ。

三、イタコの事

イタコとは我が里の古代からなる靈媒法にて、生れ乍ら盲目になるを黄泉の亡者を招靈して靈話せるをイタコと曰ふなり。古歌に曰く、

〽人はみな魂黄去りて冥暗を
 五體無きしおイタコに媒す

〽のならひに事もおろかやいたこ女に
 こや日の本の去り人に聞く

〽やごとなくやたけの人に生れきて
 めくらなりける姫はいたこに

〽千早ふるよみより呼ぶるいたこ告ぐ
 親の仰せに涙したたる

かくある如く士農工商を問はず、東日流にては三千坊なる法場、宇曽利にては恐山に靈媒の祭祀を行ぜり。

イタコなる神はなけれども、靈媒法ありてイタコ是を珠に數ふる。當り珠間に加ふる熊爪・牛角・鹿角亦は虎爪の手さわりにて祭文す。靈告は緣りに生ある如く諸事生前のうらめしき事々を告げ、亦末々の及ぶる事々を告ぐなり。

享禄庚寅年七月十三日
今泉邑 いさイタコ

河童物語

陸羽に河童の傳説多く、川沼に各々古語ありて今に語部の話題三百話に越ゆるなり。地に依りては伊治權現亦水公様など神に祀らるあり。

はたして河童とは如何なる相のものなるや。淵に見たりとぞ曰ふ人の多く不可思儀なる生物と曰ふなり。背丈三尺三寸三分、背に亀甲あり、手足脂間水かきあり。目は金色、耳立って口ぞ烏口にして頭髪菊華つづれに、頭に三寸三分の水皿ありて、水に上りて力無きも、水中にありては馬をも引込む力量ありと曰ふ。

妖術千種を用い、雷に乘りて飛遊すとも曰ふなり。昔より子供の水遊に戒しむは、深淵に河童住むあり童のしりこ玉を取るとぞ曰ふも、親なる童の水難に戒しむ架相なる生物たるべし。河童傳の多くは猿石川河童・伊津沼河童・最上川河童・米代川河童・雄物川河童・阿武隈川河童・北上川河童・岩木川河童・安比川河童など他多し。


奉納、遠野邑 伊三郎

寛政庚戌年六月一日
秋田孝季

陸羽諸翁聞取帳

一、序に曰く

津輕と渡島、秋田と南部、最上と宮城、越と磐城、これに坂東を加へて日之本國と曰く古代なる國號なり。山靼より渡来せる民の累代にして、此の國に住み付きたる最初になるは、傳に依ること三十萬年の古事なりとも曰ふ。

抑々倭國にては皇紀とて二千四百年なる建國と曰ふも、その上を神代ぞと曰ふ、神をぞ人祖となせる。その上を髙天原なる國より子孫が降臨せしと曰ふ、眞に遠ける神話を歴史に引用せるは、史實を自から欠する編纂なり。

亦、筑紫邪馬壹國王朝も無是は尚以て上史の芯を欠き、大野安麻呂・稗田阿禮なる語部の倭朝への犬尾振ふの史作なり。亦、陸羽の事は史實に尚遠く、蝦夷たる外の國事に不化决除にして記逑ありぬ。
我が國髙祖の遺歌に曰く(安倍氏詞集)、

〽古き世の顯はし衣他力船
 西吹く風は實に妄執

〽しかるべく國な古事記に影もなく
 神のる大野安麻呂

〽日之本は昔よりより丑寅に
 國を號けしすゞしめの國

〽春駒を糸もてつなぐ日本紀
 神代七代今皇に挙ぐ

〽うつゝ無き神をしるべに史を説て
 秋津州なる國はあだ浪

〽稗田阿禮けしたる古事の二つぎぬ
 わが日之本の國名盗りてそ

〽ふりにける日之本保るあらはばき
 教へあまたにわすれそあらめ

〽神とはに人は心に枕ゆふ
 常世の國を夢なわすれそ

神代より世にある事を記置なせり。日本書紀なぞ片そばぞかし、とは紫式部が源氏物語序頭の一行なり。

明正甲戌年八月一日
安東伊勢守忠胤

二、邪馬壹國

古来より陸羽の史になる古書中にいでくるは筑紫なる邪馬壹國なる史傳なり。亦、國東なる宇佐に東日流古代語印のあるべき石くれ多し。更にして大元神社の如きは三春藩城下にも鎭守せる、くしき神緣の程にかんがみて、事の知る限りを記し置くものなり。

抑々わが陸羽の國は古代よりつゝがなく神は荒覇吐神を以て一統信仰となせり。筑紫に近き大社にては出雲大社な祖神にて、今は客大明神と門神に配されきも荒神谷に祀られたる地祖なる大神なり。安倍國東のとき、荒覇吐神を大元帥神亦は大元神とて稱號せし在り。

東日流語部、諸國に走りて正傳せるとき安倍日本將軍、筑紫に赴きたるあり。語印を遺けるあり、己が長宿の地を國東とて號け遺したる事ありぬ。爾来、彼の地に國東たる地名ぞ遺りぬ。亦、大元神社のありきは東日流安倍氏遺歌集にも左の如く遺りぬ。

〽谷の戸に法のしるしや石神の
 宇佐にかかれるあらばきの神

〽千代八千代神は大元あらばきの
 風も寅吹く名こそとどめん

〽朧月北に峩々たる邪馬壹の
 卑弥呼の教へあかりだに無し

〽磐井族陸奥に賴むる鐡刃がね
 石の人馬に名残り遺して

〽筑紫風日向の嵐邪馬壹の
 翁に舞ふる國こそあらめ

〽國東と號くる安倍の一族は
 王たる群の古塚跡々

〽世々毎の歴史に祈らる邪馬壹の
 薄水踏むる筑紫彦山

かくの如く遺るるを如何に想はんや。東北なる日之本に遺るるイタコとは卑弥呼に授けにし靈媒たりと曰ふ。筑紫なる邪馬壹王ぞ代々に女帝を継がしむるの習あり。

支那西王母の桃源境を衆に説き、パイシャンペクトの神々を以て神旨とし、その神示を耶靡堆及びクヤカン更に遠く東日流までも通宣すと曰ふ。安倍氏歌集に曰くは左の如くなり。

〽神事のありしにかへるやまたいの
 云ひもあへねば卑弥乎を想ふ

〽世の中をかだみて魚はよもためじ
 妹背を圓居卑弥乎説く

〽うけがたき人界とはに神がけて
 天開け地固に孫子栄へむ

〽かほよ鳥卑弥乎に似たる思い露
 げにも盡きせぬ親しきだにも

〽八代の下に五代の髙千穗を
 逆鉾がけて人は迷らむ

〽神とはに天津日嗣は王に無く
 いかにいはんや倭の神々を

是の如く詠みにける安倍一族との交はりを今更に知るべし。

康暦己未年五月廿日
安倍鹿季

三、群公子一族稻作傳ふ

〽旅ゆきて東日流を問はば稻架と
 巌木根のもと黄金浪立つ

〽富士見ても富士とは云はむ道奥の
 岩木お山の雪のあけぼの

〽田舎をば大根子神に祀りしを
 尋ねて問はば稻架神なり

〽稻種をカムイの丘に年こそと
 祈らむ人の稻田拓けむ

安倍氏歌集に遺るる古き世の稻造りに想ふなり。稻を此の國に傳へしは支那の群公子一族なりて、二千年前の事なりと曰ふ。時、ややおくれ耶靡堆より阿毎氏は日向佐怒王に敗れ、故地放棄なして来たる。

安日彦及び長髄彦王の主従大挙して敗北せる事態なり。茲に於て安日彦王は支那郡公子親族と力勢併合なし、更に地民の諸族を束合せり。この國を日本國と號け、東日流大里の葦原を刈り稻田を拓きて民族宗合の神一統信仰をも成就せり。卽ち、荒覇吐神なり。

子孫一系の代々は聖なる石塔山に世嗣を卽位なしたるの明細ぞ、語部に史の基とし、國治五王の司に陸羽は開けたり。

〽豊き葦稻田に開く大里の
 玉苗植る唄は日之本

〽睦し民併せて擴む稻作の
 豊つ丑寅こは日之本ぞ

〽温水に稔る稻穗を米代と
 河に名遺し秋田惠國

〽阿武隈の三春櫻は千歳に
 わが日の本のにしきなりける

〽川風をいだきて咲くや白百合の
 北上川に俵積唄

〽日之本は東日流に起り西さして
 稻田は擴む陸奥の山里

しめくくる安倍氏古歌集の一説なり。

寛正辛巳年十月二日
由理伊豆守正直

注 諸翁聞取帳は漢文なり
孝季

安倍寺社録

荒覇吐神社は中尊他五佛寺の跡に金剛藏王權現の尊堂及び毘沙門堂を建つる跡ぞ見る。神社佛閣を建つるところ、人の參拝に道の便を施さず、深山幽谷に設せり。

寺社の聖なる地を選ぶるは時な宗主にて定むるも、祖来より掟ありて四方の景・流水・日進の方角を一義とす。山は髙からず、頂に至るまで森林の厚く繁る處を的地とす。卽ち東に神山あり西に神山あり、この山を水流に結ぶ渓ぞ東より西に流る水惠瀧あり。南北に開けたる處卽ち日輪・北極星の望む山間。東山にのぼり海を望み、西にのぼりて海を望む。二つ山頂、南天の日輪・北天の北極星に望むる四方山𡶶に包まる處ぞ、無上なる靈域なり。その例跡ぞ石塔なり。是の故は生々に日輪、寂滅には北極星を魂の甦る神とて崇むる故也。

抑々安倍一族の城なす處ぞ、海辺・河辺をして築き、聖な寺社のあるは是の地條にて築かるるなり。一族の墓地は祖来より東山本殿、西山本殿の南面に設し、後孫の地住便に謀らず、宗家にして石塔山に集葬さる習へなり。依て後菩提を永世に聖處は人禁の地にして守護さるるなり。古き安倍氏の靈寂地は隠密にして知る人ぞなし。

弘治丙辰七月十三日
大光院 了戒

筑紫邪馬臺王系

鎭神


糸背振宇利多岐、豊初庄、斉阿摩宇利津岐、都宇佐、能多加呼乎―邦三鹿乎、杵飯牟乎─塩岐嬉牟乎、鳥栖美乎─三輪邪馬乎、金部邪馬臺乎─耶摩加乎卑弥乎─比奴美麻志流、耶馬八面─布加耶馬彦、

正應壬辰年七月二日
大元神社講

伊治沼之議談

天喜元年安倍賴良、伊治沼に陣せる源賴義に面談せり。双方對せる兵馬、源氏方六千騎・阿倍方六千騎。相應にして伊治沼の中央に屋形舟をいだし相談合せり。
賴義曰く、

説貞のことは以後に語るも、過却にして睦に障り是なく、御門にぞ坂東諸士並に賦貢を納め、官管の郷藏を東日流までも建立し防人を駐ましむ程に相交し朝位に入らむを請願ふものなり。

賴良曰く、

陸羽の地は丑寅に候を異にし賦貢一切、民より取らば國挙げにして陸羽は染血せむ。依てこの年も末代も一切の無賦貢とせでは冬越す糧も貧しく、奪税に強せば陸羽の民飢えむ。依て、後十年他産益に成ずるまでを以て答ふとも、今をしていわれなき賦貢の儀ぞ、應ぜまず。亦我れ何事の益なき官位ぞ欲すべく心ぞ露も御坐らぬ由を断言仕る。

賴義曰く、

一天に陰陽日月はひとつに晝夜を廻りて三界を造れり。奥州耳は未だ萬上の君に皇化たまはらず、化外にして久しければ、速やかに従ふべき。

賴良曰く、

なれ主は萬上の君たるか。我は日本將軍とて今にあり、祖に遠く一系なり。依て我は當方言分聞屆くなき、なれらの皇化に蒙むるいわれなかりき。

賴義曰く、

賦貢の禮なきは、一天の皇土に住て朝敵なり。速やかに柵を開きて降るこそ忠なり。

賴良曰く、

一天の皇土とは何事ぞ。祖来日之本の國創むるは、我が祖先地住の民なり。倭朝は外侵の敵にて、我が故土耶靡堆王阿毎氏を討って得たる名も無き外民の輩なり。

賴義曰く、

戦の常は勝者を以て君とす。敗者の理は古今をしてまかり通りきは皆無なり。賴義口上以て和睦をすすむるは、他意なき大御心を奉じての事故、しかと承るこそ得策なり。

賴良曰く、

これはしたり。戦に敗るとは心なり。武威大なれば小敗れしとも、心のかまえ次に復して起つは武人の習へなり。我ら祖来にして心敗れたる験しなく、陸羽を興したり。

賴義曰く、

詮もなし。我も主命なれば是如きを奏上奉り、軍勢を以て次に會はん。

右、語部の曰ふ一説なり。

寶暦丙子八月三日
帶川太夫治郎

陸羽雑記帳

一、

古来より山岳に入りて神に行ずるの者多く、方丈の草堂に三昧す。如何で山なるかは下界に髙き法場にして宇宙の靈気に近からん故なり。古人より、天を仰ぎ神を天になりませるものとて、日月星の運行を常に目に計り、暦を作り刻を作りて、人の運勢をも占し、季の候も覚りたり。

宇宙に起る怪異、地に起る地震と噴火、海に起る干満潮と津浪や龍巻なる驚異。人の生々ぞ常にして死と背を合せし、安しきことなき渡世なり。是の如き世の仕起る業ぞ、天地水の神なる業とて神を想定なし、諸行諸法を發起せり。創なるは天地水一切のものを神と崇むより、代々に降りて神なる像を造りて神とせるは、土中に掘り出づる石神素焼像のたぐいなり。

古人は宇宙をして光りと暗ふたつの神になるものとて、これ型に顯はしたるは神像の工程なり。石神は人の工を加へず神とて安置し、大小なる石積むる石塔・巨石を建なして神とせるものより、川に海辺に神とぞ想はる石をも神とせるは今世にても遺りける石神信仰なり。

古代に女人にして土をねりて器を造り、童にたむける笛・馬・人形を造り焼固めしより、神をも造りきは神像の創めなり。男は石を割作せし狩漁の石器、強けき木皮を採して縄亦網を造りぬ。老人は獸物の毛皮をなめし衣を造り、亦縫合せしトナリ卽ち舟や住家なるカッチョ卽ち張り幕を造りて移家とせり。死者あらば、この幕に包みて埋むを習へとし、鳥獣の骨も諸具に造りきも古代なる暮しなり。

太古に支那の郡公子の民、大船を連らね東日流に漂着し大里の葦原を刈開きて稻田を拓し、越冬に安かる糧を得てより東日流は稻作に轉じ、國たるを治むオテナやエカシの治司になるコタンぞ諸々に邑造られたり。依て東日流は日本の創國立主の國なり。

二、

東日流の三方海辺を上磯と曰ふ。東日流大里を下磯と曰ふは古代にして大里は入江なる稱名なり。中央に流るる河を行来川と稱し、十三湊に水戸ありて陸海の便をなしける。亦支流なる川辺に稻田の拓けしは二千年前、否その以前より農耕せる者多く、耶靡堆より大挙にして移住し来たる人々にて、更に拓きて遂には荒覇吐王國の建國を得たり。

陸羽の大川支川の暖土を拓きて稻田を擴め、更には山靼人の渡来にて金銀銅鐡の鑛産、馬ぞ渡りきて産馬唯一の國となりにける。國富める處に貧賎集まるとは今昔に通せるも、茲に倭王の國奪なる征夷たるの侵領起りぬ。

陸羽に治む國主は阿毎氏に始りて安倍氏に至りては國は擴く、坂東・越州は固き領域たり。亦荒覇吐神とて一統信仰に在り諸國に渉りぬ。東日流より坂東まで日本國と號し、王位にあるべくを安東大將軍と稱せり。山靼との流通多くして地産なる鑛を以て金銀銅鐡を得たるより、人の多けく住みける。亦牛馬の飼育、山野に満つて倭人の潜り住むこと多ければ、以来地民との爭騒動かしこに起りぬ。

是れを救ふたる理由にて田道將軍、倭王の勅を奉じて攻めきたるも、伊治水門にて残らず討死せりと傳説今に遺りぬ。亦、倭武と曰ふも坂東に攻め来たるも敗退せる古話ありきも、是れ倭作の傳なり。倭史に曰ふ天孫降臨とは、下野なる降神山の神話なり。慶安庚寅年よりこの山を庚申山と改名せしは倭朝の宣令と曰ふ。この連𡶶にては安倍國東が至り、山湖の多きに西王母山・女媧山・伏羲山・天池・神鏡池・神足洗池と名付たるありと曰ふ。然るに世襲にして是を改め、陸羽になる國境に押して今に無かりけるぞ哀しきなり。

寶永甲申年六月七日
羽後之住 酒田長賴

降神山神話

坂東に神山と天池多くあり。燧ヶ岳に尾瀬湖あり。白根山に菅沼及丸沼あり。赤城山に大沼あり。降神山・男神山・女神山・子神を水源に金精湖ありて是を神遊辺の連峯と曰ふ。古神は西王母・女媧・伏羲・東王父の神が降神山に天降りマグワイをなせる處と曰ふ。

千年に一度實を結ぶる桃生ゆ天山の天池に住むる女神・西王母、黄河の水源・星海に住む、人を造れし女神・女過、常に宇宙に在りし伏羲、北極星に常住せる東王父の逢ふる山ぞ降神山なり。神の足跡に咲きける降神草ぞ葉摘みて湯に漬けなして肌を洗ふれば萬病を治しと曰ふなり。

亦この山に銅鑛あり。これにて神剣を造り出雲にもつゆきて献ぜば無敵たる武運に成達得るとて、古代に人の參拝しきりなりたり。

寛政丁巳年七月二日
和田壹岐

神器鷲羽鶴羽白鳥羽

一、鷲羽之事

日髙は北見・天塩・根室・釧路・石狩・十勝・日髙・膽振・後志・渡嶋をして日髙國十郡とせり。是れに千島・三十島・禮文・利尻・奥尻・大島・小島・焼尻・天賣・大黒島・輪流利島・九島を以て日髙國亦は渡島とぞ總稱す。

安東船の寄湊に定むる處は羅臼・聲問・余市・岩内・福山・江差・志海苔らにて、千島にては國後・択捉・波羅牟志留なり。地住の民はクリル族にて、信仰深くして尾白鷲亦は大鷲を神鳥とせり。

陸神の神鳥を鶴とし、海神を神鳥とせしは白鳥なり。なかんずく鷲羽をひろいては幸の神授とし、是を髪結に差留どむれば戦にいでても不死なりと頂寶せり。古来より鷲を狩るを禁じたり。

二、鶴羽之事

古来より鶴を神鳥とせるは多く古話あれど、鶴は長寿の鳥とて日之本の國鳥とて狩を禁じたり。

古に東日流大里に飛来せしも、地民是を密に猟し、亦興國の津浪後一羽の飛来もなかりき。今になる東日流に鶴田・鶴泊の地名ありき處、その名残りなり。

鶴は羽を白黒になして明暗を顯し、頭上一点に日輪の赤冠をなせる日之本鳥なり。鶴の白羽をひろいたるは福寿にして人、貴人となる傳へあり。神前に鶴舞を奉納せり。

三、白鳥羽之事

古来より白鳥は夜虹に生れ、吾が國に冬越す神鳥とせり。古傳多きも亦白鳥なり。白山神・白山姫神の使鳥にして白鳥を祀る社多し。

白鳥明神亦白鳥塚をなせる飛来地に遺跡多し。水湖に白鳥の羽をひろふ者は天運に惠まると曰ふ。

安倍一族の城柵ぞ川辺・海辺に築きけるを白鳥舘と號くるは古来よりの信仰深きに依れる者也。

寛政甲申年六月七日
酒田長賴

陸羽白山神信仰之事

丑寅日之本國に白山神・白神山・白山姫・白鳥神・白神ら多けれども、元なる神は支那泰嶺渭河にそびゆ太白山卽ちタイパイシャン、陝西に起れる神に發し朝鮮白頭山ペクトサンに渡り、更に大白山卽ちテーベクサンら山岳信仰と相成り、朝鮮安東邑にありき日之本民が傳へしは加賀なる白山信仰に渡り、西海辺を北に相渉りたり。

飽田白神山信仰にて渡島に渡り、白神信仰大いに振ふ。白山神とは女神にして、天白の天女卽ち西王母及び女媧を禮拝せる多し。倭にては木葉咲耶子、筑紫にては卑弥乎を祀ると曰ふ。

永禄己未年八月二日
本居嘉兵衛

石塔山に佛法入るの事

夫れ三界諸々の事ある歴史に遺る實相は世にありにくきは世襲に依れるものなり。茲に奥州石塔山大史にありき實相また然なり。

日之本の國創むる前なる神聖域とて津保化族が築きし石塔にまつはれる歴史に解かるは、宇宙觀に神なる源点を想定せるものなり。宇宙の創を大なる光熱に成れる大爆烈にて億兆の星生ると信じ日輪はその残球とし、燃え盡たるは月界とぞ思いとりたり。地界は天地水なる調和よき處にあり、日輪を巡り、空風雨に候をてきぎになせるに依りて萬物生命誕生しけるとぞ。

古代より子々孫々に傳ふる大要にて、神なるは是なさしめたる天運・地運・水運にての通力を神とせり。神とは無限の暗黒に爆烈の光熱を起して宇宙を創りたりと原則となせり。依て神なる相を人像に造らざるは石塔山なる古代創立の一念に築きたる神なる塔なり。

石塔山な築塔の史は三萬年前の事なりて、わが日之本に神なる崇拝なけるときなる創築なり。古人は是をアラハバキイシカホノリガコカムイとぞ稱號せり。古代にして此の神なる思想に渉るは、倭に筑紫までに及ぶるなり。然るに世の移るや、神を人像に創り權なせる者は人間をして神となせるにや、世の歴史また曲折せり。

日本書紀・古事記なる神代記ぞ實に架空夢幻なれど、衆に盲信たれば萬歳に遺りたり。然かるに石塔山をしてかかる新興に起れるを、外に障り無く今に信仰を欠かざるは、神たるの創原に異る故なり。神を人像に創らず天然をして神とし、宇宙の運行を神通力せし根本に在る理趣は、人の為せる諸行諸法ぞ何如きの神通力もなく、人の造れる神像とて何事の靈験なしとて、固き信念に崇拝さるる祖来なる教への固きに不動たる在影ぞ今に遺せり。

かゝる石塔山に佛法の入りたる創めなるは大寶辛丑年、役小角がなせるなり。卽ち、役小角が金剛藏王權現の本地を求め、その感得の地を石塔山に死を賭けなして荒行三昧し、雪吹く十二月遂に金剛不壊摩訶如来を感得せり。役小角が老身に全魂を盡したる荒行にて此の月に入寂しけるも、弟子なる唐小摩坊、是を本地尊に成就せしめ、茲に天竺・支那にもなかりける法喜大菩薩・金剛藏王權現そして金剛不壊摩訶如来を石塔山に遺したる故緣にて佛教ぞ石塔山に遺れるも、現にあるべく渡来佛教と異り役小角が自から感得せし佛にて、天竺・支那なる佛典に無かりける東日流耳の法典なり。

奥州に藏王信仰の残影あるはこの故なりと覚つ可。役小角が終焉の際までも正覚得ざる本地の理想境ぞ石塔山荒覇吐神にて、心眼を開かせ給ふは宇宙なる創とその運行を人心造創に却って一切の靈験にあるは天然の三界に事起る運行に以て眞理の信仰なる相とて、金剛不壊摩訶如来を感得に至りぬ。石塔山入佛之要如件。

文政五年八月十三日
和田長三郎吉次

陸羽之天地水

丑寅なる日之本の國、山靼より人祖の草分たる人住創めなる地。古稱にてはツパンと曰ふ地稱にて號けらる。

民族三種にして渡来を史に異なる故にての稱なり。ツカル族・アラ族・ニギ族にして坂東・越州に相渉れり。丑寅には更にして渡嶋・千島・流鬼・神威茶塚をして日之本國領なり。氷雪極なれど丑寅ほどに海幸多く、住人ぞ富めり。流鬼は山靼に近ければ、紅毛人ら渡来せる多く、陸羽の天地水に鑛産・馬産の益を満しめたり。

亦、西の支那より郡公氏一族移着し稻作土着し、陸羽民族一変して王國成れり。安日彦王なる遺訓に依れるは、古代よりの戒とて子々孫々に遺りぬ。此の國は日本國と號く。東海・北海・西海に幸あり。住人相睦み國を創むより民な舊来を却りて荒覇吐神一統信仰を心に學ばしむに、三萬年前なる民族傳統の良きを選びて成せるは日之本國なる大要たり。

常にして山靼往来し、紅毛國の岐を入れたるは王國創立の速進たり。神をぞ信仰せるも倭の神話なるはなく、神をして奇想天外に造るなく、學に極むるを一義とせり。永き歴史の傳統にあやまらず、道を三界に遺したるは日之本王國の大要にて、人をして上下を造らず富貧を造らず、一糸乱れざる治司を保てり。

寛政丙辰年六月一日
秋田孝季

筑紫松浦黨之事

厨川太夫貞任の舎弟・鳥海弥三郎宗任は康平丁酉年、貞任に追刃せむとせしに貞任怒って是をとどむ。宗任詮なく義家に降りけるは、貞任の遺言に依れるものなり。親父の残念は吾等子孫の行方なり。祖来より命脈を絶するは神佛への反きにて、苦しくも生々し一族の觀念を計りて安らぎを與ふべしとて、宗任降りぬ。

手に、兄なる首その子なる千代童丸の首を貝桶に塩漬として持參し、従ふ者は會津賴茂・藤田甲斐・眞田加茂・田村七郎景通・今井金之介・堀田義安・中畑丹左衛門七人なり。亦正任に従ふもの生保次郎康定一人にして、家任に従ふは和賀左兵衛・松浦利一の二人なり。

京師に貞任・千代童丸の首を西獄門にさらしたる後、この首を安倍良照に下渡し陸奥に歸さむ。良照、淨法寺入道の度牒入戒にある身の沙汰なりと曰ふ。宗任以下をして伊予に流罪せしも、村組の倭寇ら宗任らを首領とせんありて治暦丁未年、筑紫太宰府に配流さるるも、更に長崎大島に配流さるも獄囚に非らざれば、地の長老・後本輝清の女子を室として三人の子息を得たり。

長子は松浦に住みて安倍松浦太夫貞宗とて松浦黨の祖主と相成り、次子は薩摩に住みて島津左京太夫安倍宗賴とて島津家祖と相成り、三男は父宗任のもとに在りて後島三郎安倍季任とて松浦水軍の主とて瀬戸内なる村上・塩飽・池田・大島らの税主と相成り、倭寇船をして支那海及び髙砂海までも海の覇を掌据せり。

正任は承暦己未年、歸郷せるも閉伊に籠り、家任は沙弥良増と俱に秋田生保内城に入りて隠居せしは應徳乙丑年なり。沙弥良増は寛治己巳年、赤淵に幽居し両人とも子孫は東日流藤崎に安東髙星丸と十三湊・吹浦湊・羽の能代湊・北浦湊・土浦崎湊に安東船を以て筑紫松浦水軍と大商易せり。

永仁甲午年七月一日
安藤髙任

宗任大聞

安倍鳥海弥三郎宗任の一生は筑紫國東に居を長じたり。
彼の巡脚記に曰く。

筑土日向地は祖恨の敵、佐怒王がいでにし國なり。我れ國敗れて此の地に至る。國東より望む髙千穗に何事の神やあらん、

と曰へり。宗任、船にて薩摩に巡遊し亦、瀬戸内に村組・池田・塩飽の海賊に食客し、北宗・契丹・三韓の商船を襲ふる八幡船に大島にて草入の報をして富を得たりと曰ふ。東日流十三湊に嘉保乙亥年、松浦船二十艘を白取八郎則任に献じてより、安東船誕生す。

保延丁巳年五月廿日
西園寺忠長

筑紫藤崎神社之事

肥後能本なる白川の辺に藤崎神社あり。安倍宗任が年毎に奉寄をなせる宮なり。是ぞ國東の大元神社、豊後の宇佐八幡宮と、三社への祈願處と決めて廻船を髙田湊及び中島湊に寄せたり。

藤崎神社はことのほか參數多く、飽田の邑に方丈を建て、不知火海なる不知火の遊覧を楽しめりと曰ふなり。飽田邑は康平壬寅年に羽州飽田北浦より此の地に海路を落にし飽田与右衛門なる落人に依りて開きたる邑なり。もとより宗任の臣たれば、藤崎神社なる氏子なれ。

藤崎と社稱せし此の神社は、古代に卑弥乎の建立せし熊岳神の祀る處なりしに社朽て久しきを、東日流藤崎城の隆興を鎭西より祈りたるは、宗任の安倍一族の再興を如實にせるところなり。今にして此の神社は緣起ことごとく改へにして、社神も元ならず。幸いにして社稱耳、藤崎神社と今に遺りけむ。

明應甲寅年六月七日
大垣彦次郎

宗任雑記

厨川落柵以来にして宗任、兄・貞任末最の際に遺言せしを心に誓ふ。

生きて一族の子孫となれかし、生きて残るるは死すより辛きとも、生命を自から断は髙祖安日・長髄彦の代より禁ぜる行為なれど、我は一人だに一族の自刃を赦しまづ。俱・千代童丸一人で冥路のたどりとす。依て汝等、夢々余の遺し言葉を越て我があとに殉ずるを赦しまづ。特と護り仕るべし

とて貞任、子息・千代童丸と二の樓に果たり。宗任心得て生を捕身の恥を一族共に耐ゆために、兄貞任・子息千代童丸の首級を携へて源陣太郎義家に推參して捕はるなり。

天治丁未八月十二日
松本秀則

賴義策略不為

朝廷の隠宣を得て賴義、陸羽を反忠に企て安倍氏に仲介の役とて、平永衡及藤原經清に安倍賴良が女子二人を腰入すべく緣談、清原武則を通し成れり。

依て平永衡、飽田に入らしめ、藤原經清を賴良卽近に仕はせて安倍氏の内情を探らしむも、両人その任なきとて先に永衡慘さるる。

次に經清に及ぶるを、經清是を逆手に謀りて賴義をたばかって、賴良の陣に遁け入りて事無きを得たり。

永治辛四年七月一日
小野寺志摩

貞任宗任異談

古き安倍一族の史跡亦緣るる人々を諸國に尋ねて巡るに、諸定なる史傳に抜けなして傳ふる異談ありきに戸惑ふなり。

羽黒祭文にいでくる黒百合姫・白玉御前・香澄姫・萬徳御前、由利十二党の大江大膳・仁賀保大和・赤尾津孫九郎・子吉兵部・芹田伊予・打越左近・石澤次郎・小笠原右兵衛・泻保雙斉・鮎川筑前・下村彦次郎・小笠原信濃になる傳と、安倍五郎満安らありとも、安倍武鑑に無けるに付き加筆せざるなり。亦、千代川邑の宗任神社・八束脛明神の貞任傳らぞ、昔話なりせば史に執らざるなり。

寛政五年五月七日
秋田孝季

未来に戒言

一、

我國を一統せる朝幕の政は世界に心眼をもたず。自から貝蓋を閉ざすは、末代に貧土・世盲の國と相成り、内に國民の反乱起るるは必如なり。

民をして士農工商をして人の貧富の差在り。官職自益に依れる定法の天秤は、神なる平等攝取を欠き、ただ苦しむるは國民なり。諸圧制に依りて救明なくば非理法權天自ら國民の心眼、憂國新政に開くを制へ得る事難し。

世界は我が國を貝蓋に開らかむとて北領にオロシヤ、幕政にメリケン・フランス・イギリスら際國に迫りける。既にしてオロシヤは古代より領土たる樺太・千島・神威茶塚に異帝土の旗立つるを知るべし。

朝幕をして未だ陸羽古来なる蝦夷觀念に存る限り、自から亡國の失政を招かむ。あやまてる創國史は火宅の爭いにて、世の明けを知らざる愚考なりと戒言す。

寛政五年六月一日
秋田孝季

二、

人の王たるも人なり。權政を獨りにほしいままとせるに渉らば、自からを神とし、祖を神の一系にせむ。活神とまで民の生命を下敷に國を危ふく堕しなむ。

國窮しれば巧なせる者を神格し、人の階級雲泥の差に造り、乱兆を招因す。忠言は入れず、己が死極の際に追詰るるまでにあがきぬ。法も曲折、政事は獨占。令々強制たれば忠臣をも反忠せしむ。

心せよ、今なるまゝなれば亡政し、自守民權起らん。

寛政五年六月二日
秋田孝季

書写後記

虫喰書、雨漏りにて固結せる巻、紙煤けたる書。亦朽ちてぼろなる書巻の再書にかかり、明治己巳年より庚戌年に至る四十二年間をして、東京往来二十七回。三春様に召されしに有難き生涯を今に保つ乍ら政府の要人・學界の秀に対面せども、我が一族の書を以て明すは障りあり。

福澤殿に序章一巻一説を用いらる耳にて、私写全書何處の世にかいでむらんを神祈に、是を久遠に閉蓋し置くものなり。

必ずや人世救済、夢覚の書たらん。辭書とならん。人の世襲は學ぶ者に得られむ時ぞ、得む事の至るは必至にして、その立志を為さん。思ふれば我が一生、先代の遺したる古書再生に費したる耳なれど、是また前世の約束事なり。紙を節約し古帳に記したる本巻の讀にくさ、甚々以て申わけ御坐らぬ處為乍ら、此の一巻を筆了仕る。

明治庚戌年八月廿日
和田長三郎末吉

和田家藏書