丑寅日本記 全

戒言

此の書は他見無用門外不出と心得ふべし。

寬政五年八月廿日
秋田孝季
和田長三郎

集史篇第五
秋田孝季編
自寬政五年八月、至寬政七年十月 之記

古紙裏に記逑の読難きを心謝す。 末吉

再筆 和田末吉

序章

本書は丑寅日之本國の歴史を奥州六十七郡の他、渡島・千島・流鬼島らの領土を古史にある事を明細に記し置ける者也。

歴上人物をして世に歴史を遺し、丑寅の國を創むるより氷雪の過却を移しける間に、國の民その司者をして倭史の北侵に染まるより白雪は實史を防ぐるを欠き、いまに遺れる架空無為の北史となり世にあらざる史傳に遺れり。

丑寅なる日の本の國こそ、人の祖来を先としその史跡史談の多し。茲に東日流語部をして世にある事の史實を末代の為に記し置き久遠に史証を失なはず。為に本書の再写をして遺し置く者也。
右心得て本書の意趣を前置す。

寬政五年八月廿日
秋田孝季編

第一章 荒霸吐王之事

荒覇吐神は日之本國神なり。依て倭の神道要典に要旨を欠かるること世代に制拝さること、西藩なるパテレン及びキリシタンの如く、諸國の社に門神とて遺る多し。荒覇吐神はかく世にありにくきは、康平の乱に日之本將軍安倍厨川太夫貞任の敗死以来なりと曰ふ。

安倍氏は、元その祖先を耶靡堆の國に君臨せし阿毎氏の胤流にして二千貮百余年前、日向に起りし佐怒王の東征に敗れ、此の丑寅に敗北して地民を一國總稱して荒覇吐族と結し、國を合せて一稱せり。亦、一族の神とては荒覇吐イシカホノリガコ神とて、天地水の天然を神と祀り斉きぬ。

此の神の成れる根源に審せば、山靼なるブルハン神、天山なる天池信仰にして祀れる西王母なり。更に加へてオリンポスの十二神、他オリエントの神々を修成一尊として是、白神山神と祀りぬ。依て是を祭文せるは、紅毛人のヒブライ語にして唱へたり。糖部なる戸来邑なる三嶽神社に奉ぜる祀祭文は未だにして奉行せるありて、世の例なき昔習なり。古来より能く丑寅に渡り来たれる紅毛人多く、その渡来地に名付くる地名に紅毛崎・渡来邑などありて、今に異土の名残りぞ深し。

人國記に曰くが如く、古きに於いて陸羽の各所に青き眼・肌白き人の居住しき書事は事實なり。地民は赤髪なる髪のつゞれたる児の産るを鬼児と稱し、女児なれば白山姫の申し子とて神なる巫女となれる多し。亦男子なれば山師となりて山に金鑛を掘りてタダラを設け、千萬長者となりしは羽州のダンブリ長者あり。

彼れは鬼神を祀りたりと曰ふ。その孫にして小野小町は世に不可思議なる美女にして、都に人をして召つれらるに、その学才殿中女人を抜きたると曰ふも彼の身、血に紅毛人なる祖血にありき故なりと曰ふ。丑寅日之本國の祖代に混ずる血肉は山靼人、そして紅毛人の血緣にあるを恥るべからず。祖来、荒覇吐族は山靼奥なるオリンポス山に参拝巡禮の長旅をせる多く、彼の山なる石をもちきたりて神守とせる習いあり。三年往復の年費と三貫の砂金を費とせる長旅なり。オシラとは、オリンポスの神テガサスとスフインクスの古事傳になるものとも曰ふ。

満月夜に飛ぶテガサス、人の智を試すスフインクスに己が生来に請護すれば必ず靈験あり子孫に惠まれ多幸に永代すと曰ふ。亦、紅毛國に至らずともブルハン湖亦は天山の天池に拝して歸る巡禮にも、ブルハン神亦西王母が女媧や伏羲を相告げて救はしむと曰ふ。西王母は信仰の衆生をして敵なす者を饕餮とうてつを遣して、悪なすすべてのものを喰いつくすとも曰ふ。

衆生をして救いの者は白鳥・白鶴に化身して救ふと曰ふ。依て吾が丑寅に飛来せども、心なき狩人好みてこれを射て喰ふが故に、白髭の大津浪起り亦、山は火を噴き大地を震はしむ災を起してより、悔いて白鳥・白鶴を神と祀りたり。

荒覇吐神は、かく一切を集合せる神に依りて祀らるるに至りぬ。三輪大神は、大物主の神にして大蛇神なり、蛇なるブルハンの神なり。ブルハンの神とは七変化にして水を住居とする故に水の一切を司る。吾が國は海をゆあみて育つる民の暮しなれば、海に起れる龍巻をブルハンの神とて拝し是に酒を造りて神に供ふるより三輪大神を酒神とも祀る風、是ありぬ。とかく荒覇吐神とて諸國に渉りたり。

然るに倭神たる造の神、諸國に流駐してより今にして知るべくなく、由来不詳の神と大神を失いて、その門神に鎭座せる耳なり。古代は却りにけるも未た草深き廢社に根強く信仰を得たるありきに、涙拝せるは我耳ならざるなり。

古代なる丑寅の日之本國は、倭史を以って片そばに造りし古事記・日本書紀らの偽作者稗田阿禮や大野安麻呂らにて歴史の彼方に丑寅日之本史を追やるまま今にして世浴に當らねど、必ず至る荒覇吐史の示現せる世の至らむを末代に念ずる餘り、余の筆なす今なる心境なり。謹んで本書に往古東日流より諸國に渉りし古代に想いつゝ、何をかならんやと。

第二章 丑寅日之本國の天上影

秋田之生保内仙北の地亦、庄内に渉る荒覇吐社の改稱鎭神の入替を巡脚して訪ぬれば、今にして信仰なきギリシアの神々と歴史の運命ありきも、その天上影下に總滅せるはなかりける。オリンピアの諸技、宇宙なる星座の稱名みなながら古代オリンポスの神稱なり。我が國の荒覇吐神亦、残影あり。

丑寅に坂東に近畿に越に亦、山陰・山陽にそして畿内に南海道に筑紫に、古き世の神その稱名ぞ変れども神楽祭習に遺りぬ。有難や、未だにアラハバキ神を祀るる社ありて、丑寅耳ならざるを知る。

人ぞ稲を造るより、人に爭い起り富貧の相違、人をして崇む信仰の多宗起りぬ。辨師・論師をして説ける神佛の諸行・諸法なりきも、金銭を先としその祭神佛の大小伽藍及び造像神佛の造作に人心を惑はしむなり。更にして是に權相加ふれば更に雲泥の相違をなして、人の意に神佛また人をして級を造り階を造るなり。然るにや天地水の法則を自在たる信仰のあるべからず、全能なるはなし。かたくなに荒覇吐神を今に信仰せる者にや貧しかりけるはなかりけるこそ不可思議なり。

庄内の荒覇吐神を邸に祀れる金崎兵九郎と曰す者の験に曰せば、荒覇吐神とは祀る者の供へたる坐に靈を降すと曰ふなり。
彼の兵九郎、神佛の弘布に諸處を誘行せしに、何事にても金銭の納施を先とせる耳にして己が願望の叶ふなし、辞して去りては祟りありとておどかしむ。兵九郎、一切を無信仰となりて、或る日に古き社跡に山菜を採りしとき亡き父に聞ける荒覇吐神の神石を今にして廢社のままになしけるをこの石神に心をこめて祈り、名主よりこの社跡を買入れたり。彼の兵九郎、この社を邸となしこの石をいつしか父なる如く片語りに話しかくる毎日となりぬ。

兵九郎、父に習いし山師にて今日も今日とて山にいでたり。昔より山師と黄金の鑛に當るるはまれなりきも、この神を祀り斉きてより彼のゆくところ不可思議にもその鑛に當りぬ。鑛の走脈、地底に走らず露天に走りて、𢭐々困難なく溶鑛二萬両を得たり。是ぞ荒覇吐神なる靈力とてこの神石を棚に囲みて社を建つるに、藩役寺社奉行来たりて屆けなき神社の造事を罪ありとて兵九郎が財を召上げ、佐渡金山労役とて送られたり。寝耳に水なるこの裁きに恨める兵九郎、罪人船より海に身を投じ、折しも荒れ跡なる余波髙く兵九郎、怒濤のうたかたに消え、役人是を逃死とて兵九郎を帳滅せり。

然あるに彼の兵九郎、流木に浪々し越中鳥海山を見ゆ濱に九死に一生を得て漂着し、濱の漁見張り小屋に地の漁士らに救はる。兵九郎、郷庄内に歸れず名を弥七と改め秋田なる尾去澤の金山に労役せり。ときに、金脈坑道にその筋を當たる者は坑番頭となる山掟の定めあるも、弥七は七本の坑筋を當たる功あるも、坑番頭を辞して労夫に勤めたり。依つて他夫より過分に労料をいただき山を降らむとき東に一点の光放を見たる弥七は、それを求め山川の嶮を登りぬ。荷薩體なる安比山に弥七は立つてより、光り物を失せり。

安比山は太古に安日彦王が辺地の國見を為せるために登りし山にて、以来以て安日山と稱しけるに南部氏陸奥守となりにし應永十七年より安日山・安日川を改ため安比山・安比川と稱したりと曰ふ。弥七は心に父より教はりし荒覇吐神への祭文を唱へたり。アラハバキイシカホノリガコカムイとぞ幾辺も幾辺にも唱へたり。弥七は山を東に降り、安日川辺の淨法寺に今は天台寺となりき古寺となりき古寺に参拝し、荒覇吐神なる本山、東日流外濱上磯の中山なる石塔山に登りて参ぜり。

原生の大立木の他、先ゆ見えざる苔むす山面に苔むす石塔、歴代安倍一族の頭主なる古墓ありきも、此の山は入るを禁じたる聖地なり。はるか庄内の地より出で六年の歳月なり。彼はありしきりの竹筒に込む酒を、安倍一族の墓と覚しき土盛に建立せる五輪塔と寶篋印塔を草苔に見てそそぎたり。此の山に至るるも何をかの緣念なりやと、己が運命の境遇に救済を念じ、なつかしける庄内の里に歸りて己が邸に忍びたどれば、あにはからんや、弥七を無事實の罪に落しける朋友らと役人との共謀なる悪計なりと覚えたり。

弥七の財を得るためなる弥七を罪に落しける十二人の暮しや、家遊に更け今にしては邑の長者となりしきりたるを弥七は怒り、報復せむに荒れたる己が建立せし荒覇吐の神社に神石を拝してこれを神室山なる麓金山に氏神とて祀りぬ。かくして後、弥七は神出鬼没にして十二人の一族にその終世に至るまで報復し、皆な生地獄の責苦を受けたりといふなり。

弥七の終世は和賀に金山を起し、享保二年に没すと曰ふ。遺したる金塊一萬一千貫を秋田なる皆瀬の郷に秘藏せしとも、今にして定かなるはなかりける。弥七の遺しける荒覇吐神石は亦、旧所に歸り今に地の崇拝を受くなり。金神權現とは、彼の金崎兵九郎こと弥七なる祭祀なりと曰ふ。是の如き事の語り、丑寅日之本の天上影のもと、かしこに遺りぬ。

第三章 日髙見川辺の遺跡

古き世より安比岳を分水嶺に發し、日髙見川は陸羽溝帯の如く今に流る。川添へに遺るる詩情とはに名所古跡の多きは荒覇吐、世の名残りなり。

北上川とて今世に流るる川・日髙見川添辺なる古跡、また米代川・安日川(馬淵川)・雄物川・最上川・岩木川・閉伊川・阿武隈川・鳴瀬川・子吉川・名取川・小本川・久慈川・奥入瀬川・夏井川・鮫川・赤川らを以て陸羽の主流とせしも、北上を主流にして流るその落合に姫神川・七時雨川・雫石川・猿ヶ石川・和賀川・衣川・膽澤川・磐井川・阿久里川・迫川・江合川あり。

その川口に遺跡の多きは、知る人ぞ知れるところなりき。古人は如何なる川にも、人を生命につなぐる命脈としガコカムイとせり。安倍賴良が遺言に曰く、
我が遺骸を埋む處は渓の水瀬絶えざる處に葬むるべし、と言へり。

荒覇吐の世よりその司所は川辺にして城柵も然なり。依て川辺の史跡はあるべくして遺りたり。日髙見川とは古代に日川と稱され、古人は暮しの道に不可欠なる海の幸・陸の幸を登り降りして人の営む往来とせり。依て川辺に人の世襲になる史跡ぞ今に遺れり。堀野・浮島・谷助平・蝦夷盛・狄森・白澤・熊堂・江釣子・長沼・五條丸・猫谷地・八幡・西根・膽澤に連ね古墓と覚しきあり。古き舘跡ボロチャシ亦はカッチョチャシのありき處四十七ヶ所に及べり。

亦、時代新らしきに於ては平泉・衣川あたりに存在す。そのあたりにいでる土中遺物亦多し。陸羽の大河なる河辺に是の如く實在せるに、古史を偲ぶるものなり。川湊・舟場・市場などその辺岸に多くして民家のありきは、田畑の開拓に跡々を鍬先に當るる土中の遺物にて物語れる實証なり。古代より海辺・川辺に存在せし古き世の人跡、また支流落合の平地・山間にも見付らるもあり。古事を語る語部に忠聞たれ。

封内風土記に記されし古事また、陸奥物語になる記事に信を得るべからず。その古事にあやまてる多く亦、造話にて記逑の多きを覚るべし。ひとつの物、見方に依りては四方上下に異なり、一方見聞にして之の眞相ぞ得る事ぞ難し。

陸羽郡史抄

大化丁未年八月
陸州日川にブヨウ大乱し、川筋に雲に吹ける雪の如く、川に流るる氷雪の如く、川魚亦死して岸に寄り留りて臭し。月光、血塗られし如く赤く妖しきなり。十二月大雪、日川を閉し、迫川落合に洪し桃生、水郷となりて潜る水に死す者數知れず。倭人の渡人、生残る者なく凍死せり。
白雉丁巳年
秋田郡北磯に、天空より火の玉落下し林五町を焼く。
朱鳥乙未年三月
下秋田郡火内・大阿仁・獨鈷・仁井田・田代・鷹巣・中野に異変あり。神隠しになる者六百八十人行方知れず。人無住邑、二十ヶ部落に及ぶると曰ふ。
大寶辛丑年
東日流に倭の葛城上郡茅原の住人、役小角来る。中山魔神岳に入り、入峰して終世し東日流に金剛藏王權現の本地なる金剛不壊摩訶如来を感得すと曰ふ。役小角墳、石塔山に在り。
慶雲乙巳年
出羽郡白岩・生保内・檜木内に空を飛ぶ白馬あり。人騒ぎ、寺神社に祈りぬ。白馬、神宮寺に降りたりと曰ふ。
和銅戊申年六月
平鹿郡御岳に天より青白き光り物降り、此の年生れし子ら盲目多し。
靈亀乙卯年
雄勝郡院内に人食熊あらはれ、マタギ二十人ことごとく死すと曰ふ。
養老庚申年
由利郡塩越に六貫メの大舞たけ採り、これを食せし者皆、百歳の長壽を得たりと曰ふ。
神亀乙丑年
河辺郡岩見に物部連、金を尾去澤に天掘す。
天平庚午年
山本郡二ツ井に白髪の仙人来り、老たる者を三人若者に還らしめて去りぬ。地民是を不老長壽神と祀る。
天平丁丑年
最上郡西邑に天より赤き雪降りて人騒々たり。
天平感寶、天平勝寶己丑年
田川郡加茂の里より、都の安倍天皇に献牛百頭を屆けぬ。
天平寶字壬寅年
荷薩體に行基、淨法寺を建立す。亦此の年、山村郡尾華澤に金鑛出づる。
神護景雲戊申年
置玉郡の鷲巣郷に二首一胴の馬生るるも十日にして死せり。亦此の年、閉伊郡に河童、猿石川にあらはれ群をなして日川に消ゆと曰ふ。
寶亀甲寅年
閉伊郡七時雨山に、毛白き熊出没す。地民是を白山神として狩を禁ぜしむに、鹿角のマタギこれを射留む。その名を祐九郎と稱す。熊皮と膽をとらんとて山刀をとるや、射留むと思いき白熊起きて、天空に叫ふや煙と消えたり。亦、マタギ祐九郎も行方知れずと曰ふ。
天應辛酉年
糖部種差濱に白鯨六頭、陸にあがりて死す。此の年凶作にて飢えたる濱人は鯨肉・油皮を塩漬として越冬の糧とせり。
延暦丁丑年
巌手郡姫神山に流星落下し、地民是を荒覇吐神とて祀りぬ。
大同戊子年
膽澤郡衣川郷になる山奥に黄金色の靈水湧きて、地民是を不老長壽の靈水とて、是を救命泉とて頂寶せしに、此の年の地震に不湧きたり。
弘仁甲午年
この年より磐井郡猊鼻渓に仙人住む。地民是を石ねまり仙人とて稱す。彼の仙人、地山の珍石を研きてこれを石神とて貧しき者に与ふるに、その貧家五年の内に富めり。亦、病疫なく長久せしと曰ふ。
天長丙午年
會津郡眞幌庭に古より湧ける湯泉あり。この湯泉に長髄彦、湯治し耶靡堆に受傷せしを治したりと。名泉なれど、ばんだい山火吹きてより湧かずと曰ふ。
承和丁已年
宮城郡秋保郷に湯泉湧きけるをマタギ、鹿を射遁して見付けたり。ときに彼の矢に傷受けし白鹿、脚の傷をいやしたるを見て、これ鹿養泉湯とて地民に用いられると曰ふ。
嘉祥己巳年
宇陀郡相馬の海辺に鐡なる火玉落下せり。地民是を龍神の寶珠とて相馬浦に祀るより、漁々盛んたり。
仁壽壬申年
磐城郡閼伽井岳に紫、雲の如くかかりて六十日山景をいださず。地民是を不可思議に想いとりて、これを見屆く為に登山しけるに、大龍か雲中にて子を産みけるさまに驚きて降り道ぐるも、これを見たる者、みな雷に打たれて死すと曰ふ。
貞觀庚寅年
陸奥東日流大里に蝗大群をなして、農耕田畑牧々皆無の喰害を受けたり。亦、此の年の秋、野ネズミ大群をなして人家までも襲ふて、これに策計ならず。大里なる古葦に、巣住む五里四方なる枯葦原に灾り。

寛水二年八月一日
天台寺記帳

山靼語印

享保元年十一月二日
河田長吉郎

奥州靈山河之詩

一、津輕、岩木山と岩木川

〽むかしより人住む郷に流れあり
  父母とぞ仰ぐ岩木山川

二、荷薩體、安比山と安比川

〽霧立つぬ閉伊の野づらを駒駆ける
  安比の神水三つに流るる

三、秋田、尾去澤金山と米代川

〽金山の白銀黄金洗ふ水
  米代川に歴史栄あれ

四、陸羽山脈と北上川

〽丑寅の國は日の本陸羽峰
  流れは清し北上の川

五、大平山と雄物川

〽末代に泰平あれと號く山
  海は荒ても雄物によどむ

六、山形と最上川

〽船入りを奥にぞ招く最上川
  山靼船の寶陸揚ぐ

七、福島と阿武隈川

〽暖水を稲田に流す阿武隈の
  流るる末は鯨吞み吹く

右よみ人知らず

明治三十三年二月一日
和田長三郎末吉

薬師抄(右に同記)

追而、東日流十三湊

〽逝く川の淀みに浮ぶうたかたを
  わが末々のありき運命と

〽白鳥の流れに水踏む發る日は
  雪解に速し北國の川

〽山靼を夢にいでゆむ寒月を
  十三の湊に入りてこそ見る

北辰鑑 一 (全八篇)

我が日之本國は流鬼・千島・神威茶塚・日髙渡島、自東日流越坂東を以て於古事領土也。住むる民祖を山靼に由来し、民相分住て族となせり。

古来倭國とは人の暮し異にして、住分の境を坂東より越に横断して堺とせり。世襲にして堺を押し戻せる攻防に人血をそそぎ、交を断って永代す。

西國異土の民と交流し、地産物を以て流通せるは山靼國なり。依て、西國之異土風習傳はりて馬産・採鑛の営先化す。亦、東に潮流交流し、東異土なる國、種差國とも交流し、彼の國人着くるを今に糠部種差とぞ地稱す事、昔になりけるは、歴史の彼方に却りて今に知る由もなく、只一重に口碑傳説に事を訪ぬるも、實相に以て甚々疑はしきなり。

依て、古に近き文献に便れども、世襲の權に作説の多く、選々的を得難し。倭史に遺れる丑寅の記は尚以て史實に遠し。依て、語部になる歴史談に求めたるは我等の史書なり。古代に於ては自倭史眞實なるが故なり。卽ち、陸羽の語部の曰ふ語、次の如く在り、稱語また倭史と大いなる相違に異りぬ。

仮へは宇宙なるはポロカントウベツと曰ふ。北斗七星をカントウイシカ、白鳥座をカントウチップ、天の神をカントウカムイ、地の神をヤンナリカムイ、山の神をキミタカムイ、水の神をアリカカムイ、海の神をアツイカムイ、州の神をシレトコカムイ、朝の神をタンネ、夜の神をタンネハ、昼の神をウノシテ、川の神をヘチ、池の神をトウ、虹の神をテヨ、霧の神をウラリ、霞の神をカバルウラリ、砂の神をラタ、日の神をチップ、月の神をツエップなど山靼語及び日髙語多く入る史に編せらるは、親しく山靼に親交あり、我ら祖先の相通ずる故緣なり。

チユコト民、ヤクト民、タイルミ民、エベンキ民、ヤマロネネツ民、ハンチマンシースク民、モンゴール民、オロチヨン民、チングース民、ギリヤーク民、エススキモー民ら相共通語に以てなせる故緣なり。亦、近きはクリール民の通語をして丑寅日之本國ならではの編史こそ古代の實相に近からんや。

今になるコケシも亦然なるところなり。コケシはクリール民のオソハイの祭りに用ゆ身代りの卽製なる木像、デコ男、メゴ女、コケ童の神とて祀り供へらるものなり。

寛政六年二月四日
秋田孝季

北辰鑑 二

山靼語にして東日流はチュブカと曰ふ。チユブカとは日の出づる國という意趣なり。古くの地稱にツパン、ツパングル、チユブカグル、ツカロ、ツカリ、ツガルと曰ふ語順に號けられたり。
古来、我が日之本國は宇宙を讃えて詩を遺したる野辺送の詩、

に消ゆ月よすばるの影よ
我れ逝く果にあおき光りを
迎へて照せカントウにとぶ
我がたましいはなれかどさして
果しなき旅さらばむくろよ
わがいきざまよ我は昴へ
蒼き宇宙へ鳴々ああ

我が國なる語に解しては、是の如く意趣せる野辺送りぞ山靼に遺りぬ。是れぞ古代イタコの祭文に用ゆあり。山靼より至るるはコルデント亦は陽洛の唄ぞ、我が國追分節に同じかるも、山靼より渉るるものなり。蒙古の帝王フビライハンの大騎馬軍、世に創めなる火薬を武具とし、元と曰ふ國號を以て支那及び山靼の紅毛國までも遠征行を遂げたり。時に倭の朝宮に於て元國といふ大國の存在も知らず、幕府は田楽などの浪楽に更け、國治は國内ばかりに執政し、海の外なる一大事なる世襲を知らず、ただ東日流なる安東水軍のみ是をつぶさに知りて流鬼の護りに備へたり。

ときに蒙古軍は山靼沿海より髙麗國全域を侵領し、開京に在りし髙麗王は江華島に遷都し、遂にして降れり。その條はフビライハンに服従し、倭國征討にしてその戦陣を令し、勝じては倭國を与ふると約せり。髙麗王は千八百艘になる軍船を造り、その乘船軍七割に當るるは髙麗軍にして、筑紫へと向へ、途中なる對馬を惨たる侵略行をなしたり。髙麗王とて、永年に渉り倭寇に商船を襲はれし耽羅島卽ち済州島に過却の報復心ぞ是在り、元王フビライハンに心を寄せたり。

然るに珍島に龍藏城と南桃石城をかまへて、蒙古軍に抵抗反撃せる韓人の英傑あり。その名を三別抄と日へり。元主は是の反忠者を討べく令を髙麗王に責めたるも、同族を討合ふは意ならずとてその應戦を脱却し、耽羅島に脱出せり。我が敵は蒙古ぞと、三別抄は急使を太宰府に達し、蒙古軍の筑紫攻めを告げたり。太宰府はその旨を急挙鎌倉に傳達せしに、執權北條時宗も是をあつかい難くこれも都にと京師にまかりて奏上奉る。

然るに朝廷御所の院評定にては次の如く答へたり。於蒙古國者不見經史、不詳之上難決者也と曰ふ。卽ち朝廷は、元と曰ふ國は支那史に非ざるが何事にも決し難きと曰ふ評定なり。髙麗王よりその後日、元王に降伏せる旨の親書至るも、朝幕いづれも無回答に伏したれば、茲に文永の役起れり。

元船来襲二度に渉り對馬・壹岐・博多を襲ふとき、我が丑寅の日之本國にては幕府への援軍及び流鬼國への出でむ水軍ぞ北辰に八十六艘、西に百十艘出でむ。流鬼なる黒龍江水戸口なる対岸山靼沖に駐まりて、いざ戦とぞ安東水軍是にかまえしに、蒙古軍和睦を入れて流鬼に余多の武具兵糧を置きて却れり。是、如何なる故とて訊ぬれば、揚州の治司官なる令なりとて、安東船なれば戦を交ふ不可との故なりと曰ふ。此の年、奥陸は凶作にて元軍より与へられし軍糧大いに救済となり、奥陸にてはフビライハン元主及び揚州治司官紅毛人マルコポーロを救世主と崇めたり。

然るに、筑紫にては朝幕挙げて神に祈り、兵を筑紫へ赴むかしめたるも、戦法異りて敵はざりき。折り能く大嵐起り、元船朝鮮に引き揚ぐる程に、脆船にて海に砕破せる多く、元軍戦ならず怒濤に遭難せる多し。亦、對馬にては島民を救ひし安東水軍、三度の赤間に往来せしに、全船を怒濤に巻かれにして歸らざるなり。

元船の素製なるは、彼の三別抄なる策にして、彼等戦になる闘法より元軍を故地に知らしむは、日本國及び倭國を攻む元船の素作にかけり。船工とて手抜きたる船作りに依れる計謀なり。是、神風ならぬ三別抄にて倭國は救はれたりとて、過言あるまづや。

倭にして是ぞ國難なれど奥陸にして元王は救世主とぞ相違せる史談實相ぞ、後日にして蒙古来襲神風を日蓮坊の法力とぞ曰ふあり。内海水軍の武勇傳とぞとか、國神の起したる神風とかに史談遺りぬ。依って、神代さり乍ら代々にして史は作説に實相は消ゆるなり。

寛政六年二月四日
秋田孝孝

北辰鑑 三

人の心理、世襲に依りて發起し亦衰退す。亦、善なるは悪となり、悪なるは善とぞなりぬ。神佛をして亦然なる處なり。

キリシタンパテレンの断罪、すべて主權に障るあるは布教に罰制せるは古今の歴史なり。まして古来より丑寅の地を倭族の敵とせるにや。荒覇吐の地ぞ化外とし、住むる民を蝦夷とぞせる永代の過却にぞ制へたるまゝ現世に至りぬ。

然れども、古代なる民心にあるべき荒覇吐神ぞ今に遺跡あり亦、崇の習續ありきは、異土渡来ならざる神信仰の故なり。然れども、代々に經て神なる故緣を曲折さるるまま山靼傳来の聖教も秘滅し、耶靡堆なる阿毎氏の王歴も消ゆるまま蝦夷征伐史とて、現は倭史の架空上代に、神代にて民心を一統せるに至りぬ。髙天原より天孫降臨説を筑紫髙千穂山に神聖とし、日輪より来たる天孫とて國王を神皇とて、代々天皇を萬世一系とて奉るも、世襲にては權者の血緣に結ぶる雑系となりぬるを活神天皇と奉りしは、倭なる現世に至れる歴史の實相なり。

爾来に丑寅の日之本國は皇宮の鬼門とて奥州にあらぬ討伐行理由とし、代々に征夷大將軍を存續しけるは古来國號になる日本國を丑寅とせざるの画策なり。我が陸羽の地ぞ、倭王の曰ふ蝦夷地に非らず、正統古號なる日本國なり。依て古事記・日本書紀なるは陸羽を皆目に知らざるの記なり。かかるが故に日本國たる國號を奪ふる策とて日髙見とや蝦夷國とに押稱せる倭朝の計略ぞ日本書紀なる倭の長史になりて、日髙見なるも不詳なるまま蝦夷耳に遺りぬ。

茲に例を挙ぐ諸史の抜抄にやあらん。奥州なる記逑にいでこすは次の如くなり。
古事記に曰く、荒覇吐信仰を荒夫流神を祀る麻都樓波奴人。日本書紀神武天皇記事に曰ふ、愛弥詩鳥比陀利毛毛那比苔比苔破易陪比毛多牟伽比毛勢儒とありきは、史實無根の事なり。丑寅なる日之本の國は北に限りなく領土あり。その東西に續く大國は人渡りて自在なる天地なり。山靼に渡りては、神なる山オリンポスに至る紅毛國、心に幾多の智覚を得る處より成れるは日之本國なり。

蝦夷とは何ぞや、化外地とはなんぞや。古きより日之本の國と號けしは、我らが陸羽なる故地なり。我らが祖は山靼なり。神は天地水にして、人の造れるものならず。天然一切なり。依て宇宙を神とし萬物一切の母なる大地なるを神とし、陸海一切の水ぞ生命なる神とし、古来より今に祖傳せる崇髙なる英智に在り。倭人の曰ふあらぶる鬼神とは彼らが自身なる、大麻に犯す妖術とは信仰に迷信ぞなかりけるなり。

寛政六年二月五日
秋田孝季

北辰鑑 四 通記

大化三年
淳足柵・磐舟柵を築きけるも、朱鳥元年に焼失す。是、朱鳥の乱にて起る。
斉明天皇四年
都岐砂羅柵成れるも、此の年に焼却さる。
和銅二年
出羽柵、築中破廢す。是、日之本王の攻に依る。
天平五年
飽田寺内柵、天平寶字元年に焼却さる。天平寶字二年、桃生柵築きて移る。
天平九年
多賀柵・新田柵・色麻柵・玉造柵成れるも、延暦二十年攻破さる。平民の自挙なり。
天平寶字二年
桃生柵小勝成れるも、人無住にして自壊す。
神護景雲元年
伊治柵成れるも自壊す。
寶亀十一年
覚鷺柵成れるも築中破棟し、依て多賀柵を再築し同年に飽田城・由利城を築けるも、延暦二十年焼却さる。
延暦二十三年
膽澤城・志波城・中山柵成れるも弘仁四年に攻落し、同五年に徳丹城急築せるも築中にして攻滅す。

倭史と異なるは右の史實なり。丑寅の日之本に荒覇吐王累代し、大化の改新とて倭人陸羽に来たるも倭朝公使に非ず。倭商の者多くして住むる小舘を集築せる處を、倭史に倭軍進駐の築柵・築城たるに記逑あり永代に営む如く記さむも、右の如く許もなく建つるは睦むものをして認む居住にて、軍を以て地民を司るあらば速誅さるる世の丑寅は無敵なる日之本國なりと曰ふ。以上なるべく史實を語部に遺りて、いささかも相違なかるべし。

寛政六年五月十日
秋田孝季

北辰鑑 五

華麗なる平泉の藤原三代の夢のあとは、その先になる安倍氏の歴史を知らずしてあり得ざる事なり。

倭宮を想はしむ寝殿造りの舘、通稱柳の御所、その一帯に金銀玉朱の彩どりし佛閣、曲水の宴に奏でる楽の音。北都の栄華を極めたる藤原氏その血緣をたどりては、安倍氏の胤にて前九年なる役より尚古き安倍氏の永代に造りし産金・貢馬の遺産にまかなふものなり。藤原三代とて賴良になる孫にして、源氏に知れざる黄金の遺産ありて成れり。

陸羽は西に黄金、東に鐡と曰ふただら鑛産ありて、安倍氏代々に富ましめたり。厨川柵に安倍一族敗れて四散しけるも、その産金・貢馬の営ぞ地民をして絶せず、その資ぞ東日流に安東氏とて再興し、藤原氏とてその資に興れり。

清原氏は安倍氏の財を掌中にせんとせしに、如何なる責にも秘寶の所在を明さぬ賴良の息女一の前に聞くを得ずして、後三年の役にて源氏に討るるに依って、秀衡の手に母とて一の前より得たるものなり。安倍一族の遺したる遺産にて平泉は栄え、藤原氏は背に安東氏あるを心して、子息の秀栄を安東貞季の息女に養子入れなして十三湊藤原氏と相成れり。

十三湊に来船せる唐船・山靼船の交易にて、平泉なる北都ぞ大いに隆盛す。中尊寺・毛越寺他八十八棟の伽藍は金色に内を飾り、大朱彩に創立せるは神社佛閣亦、外濱までも卒塔姿を建立せるは、中山千坊なる石塔山靈所に眠る安倍賴時の菩提と報恩の故なりと曰ふなり。

寛政六年二月五日
秋田孝季

北辰鑑 六

流鬼・渡島に祖来は留着せず東日流に移着せるは、山靼に於ては既に民族・狩猟集族相成りて、三萬年前の民族混成に依れる小衆族の終結せるありて王國なる創始の世に芽生えたり。

是如き集成に不従なる者は更に新地を求めて渉り、我が祖人はこの國に来りぬ。通稱、阿曽辺族也。人の渡来はその以前をして渡着せるありきも、その来歴ぞ遠くして十萬年更に二十萬年の先世に至るも、人跡定かに遺るは難く筆舌に難し。依て大挙して此の國に人跡を遺したる人祖をして史証とせるなり。

阿曽辺族をして先渡民とて定むるは、東日流語部録に固定せる諸事の傳遺りたる故緣たり。次に大挙して渡り来たる津保化族ありて、人踏の史を濃刻せり。先住渡民の多くぞ天変地変に起れる寒候・噴火・津波・洪水・自然火災に死滅せる多く、残れる少數をして津保化族に併合せるに依りて、我が國なる日の本國は創まりぬ。

集衆せる王國の創まれるは三萬年前にして、人未だ石刃の暮しなる世の遺物多く、石神なる信仰遺跡の遺れるに覚ゆ。此の時代なる信仰にして天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコを以て神と祀り、神を天然とし拝象として石神を祀りたるこそ今に遺れる石塔山なる巨石塔なり。

次世人是に習へて神を想像し、土形にて焼作れるは六千年前に創まれることなり。津保化族を祖にして我が國陸羽を更に西南に住み分けせるを以て、この國に陸續き狭峽を渡りて分布せしを總じて幾多の集衆なる民國創まりて、遂に攻防の対決なる史証の事変を人の歴史に遺すことと相なりぬ。

寛政六年二月七日
秋田孝季

北辰鑑 七

今を去ること二千三百年、東日流に大挙して海を渡り来たる支那晋氏、大船八艘を連らねて東日流有澗濱に漂着す。故地に乱起り、追手屆かざる海遁にて潮の流藻を水先とて、日の國卽ち我が丑寅の日之本國東日流に来着せし者也。

その數、男女三百六十八人と曰ふ。稲を耕せん民なり。水温き内三郡の地に拓田しイガトウと稱せる稲種を耕作し、畑にホコネを植しめて暮せり。その民三年を定着せしとき稲田広く地民に渉り耕作田地盛んたり。

折に、耶靡堆より大挙して移り来たる阿毎氏一族あり。その主を安日彦王・長髄彦王ら二主にして彼ら亦、筑紫に起りける日向王佐怒に敗れ故地を放棄なして移り来たる國主及び従臣らなり。茲に、支那流民及び地民津保化族・阿曽辺族らを併せて國を創りぬ、號けて日本國たり。

諸々の古老に選ぶる一世の王を安日彦王とし、その副王を長髄王と定む。亦、隔地にして東西南北に更に四主の副王を立君せしめ、中央本宮の治世に援司せり。亦信仰を一新し、晋民なる西王母の他彼の諸神、地民なるイシカホノリガコカムイ、それに阿毎氏の荒覇吐神を併せてその信仰を一統に成れるは、アラハバキイシカホノリガコカムイと稱唱せるに依りて決せり。

とき折りにして山靼よりの渡来人あり。亦人多く至りてその住分を南に移しめ、王居も亦移りたり。是を荒覇吐王とて代々に襲名し、日之本王安國の代に安倍氏とて改むなり。是卽ち日之本將軍の始にて、亦の名を安東將軍とも稱せり。

寛政六年二月七日
秋田孝季

北辰鑑 八

蝦夷は蝦夷を以て討つと曰ふ策謀は、古来倭朝の画策なり。武内宿彌なる者の曰ふ、

東の夷の中に日髙見國あり。その國になる人、男女並に椎結け身を文けて為人勇み悍し。撃ちて取つべし。

とぞ奏上しければ倭朝は小碓命に蝦夷討伐勅して曰く、

東の夷は識性暴び強し、凌ぎ犯すを宗とす。村に長無く邑首勿し、各封界を貧りて並に相盗略む。亦山に邪しき神有り、郊に姦しき鬼有り、ちまたに遮り經を塞ぐ多に人を苦しむ。其の東の夷の中に蝦夷は尤強し、男女交り居りて父子別無し。冬は穴に宿、夏は巣に住む。毛を衣き血を飲みて昆弟相疑ふ。山に登ること飛鳥の如く、草を走ること走獣の如し。思を以て矢を頭髪に藏し刀を衣の中に佩く。或いは、農桑を伺ひて人民を略む。撃ては草に隠る、追へば山に入り、故往古より以来未だ王化に染はず。

と曰ふなり。亦、伊吉博徳、難波男人の曰ふは、

蝦夷の國は丑寅にあり。類は三種にして遠きは都加呂亦は津加留、次には麁、近くは熟蝦夷あり。五穀なく肉を喰ひ、血を飲みて深山に住む

と曰ふ。坂上田村麻呂は曰く、

蝦夷は蝦夷なり、質性は倭人と雲泥に異りぬ、化外民なり。

と曰ふ。源賴義の曰く、

蝦夷の長・安倍氏を討つての策は非道仁義は無用にして、征く途にさまたぐあらば胎児童とて世に残しまづ。

と曰ふ。倭朝なる征夷とは、まさに修羅道の鬼心にして人を人と思はざる討伐行を陸羽になせる非道に在りき悪鬼なり。とかく藤原道長の詩にありき如く、

〽この世をば我が世とぞ思ふもち月の
  欠けたるときぞ無きと想いば

と言ふが如く倭人の髙殿にありきものの心こそ、雪深き陸羽の民なぞ人とぞ想はざる心理とて、是に抗ぜるは日之本將軍安倍賴良の我が日之本國なる護國の英雄たり。非理法權天はかかる歴史の眞實に甦る世襲の至らむ世の来るを念ぜる者也。記了敬白。

寛政六年二月七日
秋田孝季

了記 末吉追而

華やかにして人は歴史に遺り難し。わが丑寅の日本國に歴史を遺せし人はみな波乱萬丈にして、散り染めた命と血に遺されきは、陸羽の山河なり。征夷と曰ふ古き的は倭人に外されるなく、近くは會津討伐・函舘討伐に睦みなき戦を挑發せしは倭人たる古き世の因緣にて、あまねく丑寅の日本民族を歴史の實証も被疑に葬り今、明治の世は創りぬ。

恐れ多くも今上陛下におかせられましては五ヶ條の御誓文に説き示めさる自由民權の大志も、薩長土肥の官職因緣の錆は大御心をなやませ奉り、天下の治世を私にせむは幕藩政に尚まさるる悪政なり。

陸羽は尚蝦夷意識に被むり、維新に参道せし吾らとてこの忿怒やるかたなきを、白河以北一山百文に忍べむや。

明治二十年十月二日
和田長三郎末吉


北辰鑑、寛政六年二月七日記にして、元著は秋田孝季なり。

陸羽今昔抄

一、

日之本將軍・安倍賴時、中尊を深く信じ奉るも己が建立せし施主堂に安置さるは中尊ならず全堂、毘沙門天像なり。賴時の念願にあるは、日之本國の泰平耳なり。中尊四方五佛への本願は倭との睦みを先とし、己れも相手にも一切の邪見なく陸羽の安泰を請い願ふたり。

亦、祖来なる荒覇吐神を第一義に斉き祀りぬ。毘沙門天を祭祀する賴時の心には、常にして安らぎのなき世襲に遭遇しける故なり。賴時の寄進になる佛閣は極楽寺・佛頂寺・淨法寺・西法寺にして今に遺るは少なし。常に戦陣にありては、毘沙門天自作像及び荒覇吐像を持参せりと曰ふ。

二、

安東貞季の曰く、我が日之本之國は海國にして子孫永々に海國をして海藩の國と交易を流通せしむ、の訓。海航技を覚ゆが故に次男以下、支那安東邑に渡学をなして海航技及び造船技を修む者多く、安東船の海に潮走多船、海交の基を成らしめたり。

安東海の征海に於ては、北海の山靼往来・千島往来あり、更に韓王國往来・支那揚州往来を果したり。商を第一義とせるに、流鬼・渡島・千島の住民能く海産を採し干工塩漬なる商品の豊なる事、その往来を盛んならしめたり。安東船は北海の海産をして支那に於て黄金となりぬ。

物交にして、南藩及び紅毛國の珍品とて香木・ナツメグ・チョウジ・漢方諸薬・佛像・佛画に至る往復、荷に多大なる益を得たり。十三湊・糠部湊・能代湊・北浦湊・土崎湊・砂泻湊をして地産の荷ぞ、安東船に依りて交易せる商道ぞ、今にして幻なり。

三、

地司主權者に君坐せる、平泉の藤原氏。潮路に命を賭けにし安東船の主將・安東太郎貞季は、商道交易に一族をより富ましめたり。かたや藤原氏、宮美なる栄華の限りを浪費し平泉を京師もどき柳の御所及び寺社に消費せり。

安東一族は、世襲を商にて利せり。祖をして源氏に心よしとせず、平氏を立てて資を援じ、源氏崩亡に祖恨を晴らしめたり。平氏は天下の頂に至る間、十三湊をして陸羽の諸湊の通航及びその市場を牛耳たり。

莫大なる商利の安東一族も十三山王に十三宗寺を築き京師管領たる官位に賜り、源平の權の及ばざる海道商法を以て一族の護法を得たり。

然るに平泉な藤原氏は賴朝が二十五萬騎を以て平泉を灰塵とせるは、東日流に安東一族の加勢に怖れての挙兵なりと曰ふ。

四、

秋田系図訂正前之巻物 上

人王第八代孝元天皇
―開化天皇
―大毘古命
安倍將軍安倍氏元祖
―建沼河別命
阿每氏累代耶靡堆王之胤
―安日彦王・長髄彦王
安東大將軍之祖
無世人皇始有安日長髓、賦性勇猛智計過人□弓矢、乘黄牛出行中州、住止攝州膽駒獄。主君宇麻志摩治命、而領中州年尚矣。宇麻志摩治命者、地神第二御未速日命之御子也。母者安日長髓之妹也。安日彦王住止故三輪山蘇我之箸鄉。阿每氏宫、云一條院御宇實方中將撰日本名寄時以易磯城宮。亦長髓彦王住止故北膽駒獄之辺富雄白谷郷安倍野。日向佐怒王、始從日向國東征、欲入中國。於斯安日彦王・長髓相議云、中州者我宇麻志摩治命之國也。奚有他主君哉、攴膽駒防戦十余年矣。日向王佐怒終打勝、治中州矣。長髄彦王流矢肩負傷、兄安日彦王援、茲安日彦王以下阿每氏丑寅日本國經坂東人會津湯治、更北海濱東日流卒止濱安東浦等是也。

中略

安國
安日子孫
安東
長髄子孫
致東
奥州日下將軍
長國
天平寶字之比、惠美大臣仲丸遣价使於奥州、偽云、我本為汝同姓、我辞帝都、行汝國不知許否。長國不信之、使討殺价使。後經數年、達叡聞、帝太御感賜賞禄。
髙丸
一説家麻呂
継人
安堯―國東―頻良―
賴良
後改賴時、安東太郎日本將軍。
井殿
盲目、極楽寺阿闍梨。
良宗
早世、安東嵯峨江冠者。
貞任
厨川羽州雄勝郡厨川舘主。
永𣴎五年源賴義、稟後冷泉勅□大將軍之、卽征貞任。天喜五年、貞任卒四千余騎、却討源氏。卽征貞任時、宇曾利之反忠、阿部富忠亦羽州清原氏同反。賴義・義家及軍士、纔為七騎云々。康平五年、貞任楯籠衣川城、源兵攻之。貞任兵屈、矢盡敗北。義家追之、僅十余步。義家戯云、衣ノ舘ハ綻ロビニケリ。貞任迴馬云、年ヲ經シ糸ノ乱レノ苦シキニ。義家感其秀句、弛弓絃捨矢、云□降我達叡聞赦死罪。貞任云命在天義在前、何可乞降哉。雖然今感君之志、解太刀授。与義家遂戦死、以彼太刀施与醍醐顯實上。貞任亡魂、又為建精舎、號耳納寺、國人每年祀其神荒覇吐神社。
宗任
鳥海弥三郎鳥海舘主。
賴義虜宗任、歸帝為叡覧彼形容、召宗任於禁庭。公卿百官以為北國寒気甚烈無見梅花手乃携一枝、問宗任。笑云我里是梅花、不知都云何。我ガ國ノ梅花トハ見タレド大宮人ハ何ト云ラン公卿百官皆感之、因宥死罪、放流筑紫。宗任後胤、松浦水軍、子孫渉薩陽山陰陽。宗任女子、出羽御舘五郎基衡室。
家任
剃髮、號官照。
重任
北浦六郎、与貞任一所戦死。
正任
黒澤尻五郎、子息賴嗣黒澤五郎。
則任
白鳥八郎、東日流十三湊白鳥舘城主。
法任
苅田十郎、生保内城主。
阿里加一之前
散位藤原經清室。
奈加一之前
髙星
貞任二子。三歲時、乳母懐而遁東日流藤崎。後為藤崎白鳥舘城主、改姓氏安東十郎貞賴。
堯恒
安東太郎藤崎及六郡總支配。—子孫五十余年不詳。此間十三湊白鳥八郎無世継、平泉自鎭守府殿之舎弟・藤原權守左衛門尉秀榮仰養子。則任名改安藤氏季、養子秀榮養。父姓不継、藤原氏姓。後世、秀壽―秀元—秀直。四代継君時、攻藤崎城、敗萩野臺戦。渡島余市配流。依十三湊安東貞秀二城主相成。
貞秀
安東太郎。従貞秀以来、以安東太郎為當家之假名。有父祖貞任風儀、勇敢猛將也。建久之比、依功見召後鳥羽院朝。于時従朝鮮國献上奇異鷲羽。上皇載比羽両枚於檜扇上、賜貞秀、貞秀謹頂戴之。古来當家紋者、獅子牡丹也。此時改易、檜扇盡眞羽以為家紋、廉子者檜扇盡鷹羽。
堯秀
安東五郎、此間七十年不詳。
愛秀
安東太郎、十三湊福島髙舘城主。
次代弟季久継時、掟安東一族三年毎城交、定藤崎十三湊替住。反季久十三湊不動時、長男季長別稱堯勢、茲起十川落合、於洪河長期之両軍挙兵。是稱洪河之乱曰、此間五十年不詳。
堯秀
安東太郎。正和年中、辜負鎌倉殿在國、元弘年中。合心于義貞、於奧州挙兵。
貞季
安東日下將軍。
弟能季・庶季・照季・成季
盛季
安倍大納言、日之本將軍。
弟廉季、次豐國、次道貞、次教季、次家季、次鹿季、次兼季。

五、

秋田系図訂正前之巻物 下

十三湊福島城主・安倍大納言盛季、稱安東太郎、母者陸羽國司北晶中納言顯家御女也。亦盛季室、萬里小路中納言藤原藤房之二女也。應永十七年、南部守行陸奧守、奉任東日流櫻庭駐留、犯藤崎領主安東教季、戦交二十年之乱。嘉吉三年十二月、安東一族拳領民移渡島十二舘、更飽田檜山及土崎湊、東日流放棄。弟廉季西関安東二郎、應永十年兵以二百余騎、伐秋田湊。是湊家之祖也。子孫、成季—惟季—昭季—宗季—宣季—定季—友季—堯季。止継累及豊國、稱橫木安東三郎、號下野守道貞、潮泻安東四郎尻鉢城主也。子孫、重季—政季—家季、止継累及教季、藤崎城主安東五郎子孫襲六代、遺累家季、安東六郎子孫不詳。

康季
日之本將軍下國、安東太郎十三湊唐川城主。永享八年、後花園院御宇、依勅命、再興若州羽賀寺。此寺者、行基菩薩草建、村上天皇御願寺也。詳見于羽賀寺緣起。子孫義季以下永代現継尚萬歲也。
義季
東日流欲故地奪回、謀潮泻政季、狼倉舘・尻鉢舘両籠兵拳、事破中途、両城共落城。義季遁槍山城、捕政季救浅虫切通於嶮蛎崎藏人。南部攻失策、共遁渡島。義季北畠氏依、招藤崎城主、相成檜山城政季養子入。然不家臣従暗殺、依義秀之子義景之妹天眞名井宮室、長子忠季、檜山城主入給也。依茲、安東正系、為永代在續、次之如萬歲也。
忠季
稱安東太郎日下將軍。
尋季
稱東海將軍。
棟季
下國安東太郎。
舜季
下國安東太郎。廉季九代後孫、堯季之聟子息愛季—春季—茂季—道季—季堅等五人也。
愛季
稱下國安東太郎、任従五位上侍従。
子息業季—實季—英季—季行—季房。
當家者、従先祖以来、代久無出仕之例、只使家臣献上土産耳。故愛季亦準先例、使家臣分内平左衛門尉南部縫殿助献上或馬或鷹於信長公。後来每年如斯、信長公感其遼遠之志、每□賜御書簡并或御太刀行平或刀貞宗切刃作或綾羅等。至實季、代行平太刀者献上大將軍秀忠公、有御感號秋田行平備御物之數。天正十年壬午、明智日向守惟任叛之時、使家臣通秀吉。秀吉感其忠志。信長公御自害之事并安藝毛利退治之事委細記賜書簡。
茂季
稱安東九郎。
愛季母者湊堯季之娘也。堯季無嗣子、故養二郎春季継湊家。春季早世矣。無幾堯季亦逝去故湊家□已絶。於斯愛季相議□令茂季継湊家、此時湊家臣豊嶋休心・下刈右京・川尻中務等叛逆、囲茂季之舘□殺害之。愛季遣軍士、追散逆徒、茂季兌萬死一生之難。於斯茂季感愛季之厚思、而自退去豊嶋之舘、請愛季為湊城主。自此時一統湊□檜山之両地、愛季領之。
道季
稱九郎左衛門尉殿。舎弟在政季孫十郎、愛季逝去後、相継實季行國政無幾、郡内舘主等同、心于道季叛逆實季。實季以小勢楯籠檜山城、道季駆催援兵、於仙之北浦之舘主等、就中戸澤九郎祖于道季以多勢囲之。實季于時十三歲、自帶甲胄執鋒。家臣波岡弾正少弼・下國相模神成播磨□田河内等、湊同名竹鼻伊予中津川駿河長岡越前等、励軍功賊徒并戸澤九郎等悉敗北矣。道季出奔仙之北浦、歴數十年後降實季。
實季
子息俊季—季次—季信—季長—季則等也。
下國安東太郎、左兵衛督。母者備中守清信之女子。後稟釣命號秋田城之介、為秋田名字始于實季。文禄二年、青蓮院尊親王召實季、云若州羽賀寺者郷先祖奥州日下將軍康季再興之地也。令己及廢壊準先祖之例修造之可乎。實季領𣴎之。依之改此寺、古来之伊予法眼筆跡之緣起賜陽光院太上天皇宸翰之一軸、實季謹而拝之励修造之志。于時住持法印卽眞通言親王云、願於此一軸之後、以今上皇帝之勅筆、見載下實季名字可為彼家規模。親王以此言見達叡聞、上皇曰無官之姓氏見染勅筆曽無其例、然則準父愛季昇殿之例、實季亦有可任侍従之勅許、卽賜侍従任以實季之名字辱見染勅筆、今若州羽賀寺有之。慶長五年、石田治部少輔御誅伐之後、東國北國叛逆之族徒盡處罪科。其時依最上出羽守義光、讒々言實季殆乎、□及罪科。依大相國家康公之釣、命於大久保相模守、亭令實季□義光尖対論。實季言上□景勝族徒楯籠由利郡八島庄自然古城賊徒等百余人實季討取之、又雄勝郡小野寺遠江守舎弟大森孫五郎居城、實季攻取之。是豈不忠功乎、義光云實季始雖□逆徒、粗聴石田敗亡而後励此、両陣然則非是忠功也。家康公再命云、右二條之軍功□石田敗亡考前後日時可尖其實否。實季云、石田敗亡九月也、伐自然古城八月也、又攻伐大森城九月五日也。義光於斯言屆矣。家康公信實季忠勤無所疑、賜常州萩城郡宍戸庄五萬石地。慶長十九年冬、奉従台駕。發向大坂陣。翌年春又奉従台駕向大坂為天王寺表先師、五月七日懸合森豊前守勢討取四十三騎献首於大將軍軍営。後於武州江城陣中事御僉議之時、右條子細言上、蒙大樹御感。

以下省略仕る。

寬政六年八月二日
秋田孝季

此之系図歴代に空白ありて別巻阿毎氏之系図にて補ふべし。

孝季

日之本之残影

國は朝幕の私にせるものならず、山川草木みなながら住むる人のものなればなり。

國破れて山河あり、城春にして草木深し。吾が丑寅の日之本國は倭侵に諸々の古事を崩滅さるるとも、山靼渡来の先人より三十萬年の人跡創めなる信仰、創めなる國造り、そして荒覇吐王統の一系に渉る古事の傳統、阿毎氏より安倍氏そして安東氏から秋田氏に至りて、三春藩に現君を今に在續す。

正に太古より一系に通じて今にあるは天皇の系譜にもありまずや。現にある丑寅日之本の諸藩にあるべく大名とて、戦國運幾に乘じたるその出自ぞ、のぶせりの輩なり。三十萬年前より丑寅日本國に住むる民、石を神と、石を刃物とし、石を刻みて古証を子孫に遺し、侵統に黙示せること千年を過却して未だ陽光を古代乍らに仰げざる化外の蝦夷なり。

然るにや、心轉倒すべからず。移世に待たば、子孫に必や至るべく陽光の輝きを想ふべし。

寬政七年正月日
秋田孝季

康季状

勅願道場若州遠敷郡本淨山羽賀寺再興之奉行、自執奥州十三之湊起戦反本願人世。茲崇十一面觀世音菩薩垂之神通力、念彼觀音力、百度参拝、伏泰平奉願仕東日流山王之阿吽寺・石塔山荒霸吐神社、相合掌。奉我念願、今朝今夕拝伏仕居事、本状屆奉尊父亦己子義季、何事命断之不決断余光明就生祈者也。

永享六年八月三日
康季

羽賀寺文書抜抄

貞享三年十二月二日
法印慈惠

陸羽史跡巡遊記

降るとも見えざる春雨に、しと濡れ乍ら千年の樹令になるひばの原生林に古林道をたどりて東日流中山なる古史になる遺跡を巡り、先づ梵珠山より杖を突く。古寺梵場寺跡、雲を抜くひばの立木ぞ霞の上に立つ神秘境を思はせる。西行法師の詩に、

〽ほろほろと啼く山鳥の声聞けば
  父かと想ふ母かとぞ想ふ

峰路を北に笹山・魔神山・魔ノ岳・壺化山・石塔山・大藏山を經て木無岳に至り十三千坊の佛場に至るも、山道は草木に幽閉さるまま歩くに難行す。阿闍羅山連峰また然なり。然るにこの東日流三千坊靈跡を歩きて、大樹の根方に仮寝するの夢にいでこしは、幼な頃なる父母のありし日の想い出に、涙に目のうるむる。

〽何事のおはすますかは知らねども
  忝けなさに涙こぼるる

陸羽の神秘境は多く亦、靈験を覚ゆる處ぞ仙境に入りてこそ身心に感應す。古代に神聖たる神場の定む處ぞ、人参ずるに嶮岨にて絶景なる處なり。神場ぞ山頂に限らざるなり。地の底なる宮殿、海の底なる水宮、飛泉玉を砕け散らせる瀧などの一点に神場が在す。人の建つる神社佛閣は神より人の便を先とせる故に、靈験の獲ること遠くして當ること少なし。陸奥に太古にぞ人なる便をかえりみず、人をして神に親近せるに依りて得られたり。

依て茲に神を人の自在にせざるを戒むものなり。神なるは相是れなく天地水の精なれば、その常住しき處は神の意に人の及ばざるものなり。依て如何なる殿堂大社を建立したとて靈降あるべからざるなり。抑々、神の宿靈せる處とは人をして便ずる工程を施してはならざるなり。神の念、怒に當りて生涯に浮ぶるせもなき七難八苦の神罰あるものと心に銘じべし。

陸羽を巡脚しその神秘は東日流に二處、宇曽利に一處、飽田三ヶ所なり。亦、荷薩體二處、閉伊に六處、庄内に二處、會津に三ヶ處、宮城に八ケ所あり。何れも人の参敬なき仙境の奥にて、古なる荒覇吐神なる聖域なり。地處を曰はざるは、人をして心の七轉八倒のある故なり。

神に接したる者は己を飾らず、言はず語らず、諸行を見るなく、宣布論師に耳をかたむけるなし。神を知らざる者ほどに神理を説きけるも、何事の救済もなくただ底無き泥沼に沈み逝くばかりなり。神をして人間の言葉なる祭文に降靈あるべくなし。佛道・諸教、亦然なり。人が呪詛をして相手の誅滅あるべきもなく、悪運が幸運になるべきもなし。神に親近を得る者は、無我無欲に身心に無疑なる心理を保たでは、得ることなけん。

寛政七年二月六日
秋田孝季

糠部濤史

糠部駒の太祖ぞ、北メリケンなる國より暖寒の親潮を往来しける波濤千里の彼方より渡来しけるものなりと曰ふ。日出づる國ぞ山靼をして吾が國を曰ふも、吾らが東に見ゆ海の彼方に吾らと祖血を同じうせる民族の居住せる國こそ東の日出づる國なり。

此の國ぞ、萬年の巨木の茂る大森國と曰ふ。此の國をアメリカンとも曰ふ。住むる人ぞ先住なる民ぞ吾らと同じゆうせる累血民なるも、この國に紅毛人渉りて先住民を鐡砲に射殺し惨たるものなりと曰ふ。自然、群馬駆し野牛突走するさま見事と曰ふ。

糠部の太古になれる史に曰く、此の國はヌカンヌップ亦は津保・都母とぞ呼稱さる。宇曽利と續くる古代史証に於て成れる人跡は古きなり。

淨法寺及び西法寺の建立、閉伊に國分寺の佛跡今に残影なし。慈覚法師の巡脚に遺る恐山靈場、安倍一族が鐡を採せる安倍城、前九年の役にて日本將軍賴良を討ったる宇曽利冠者・安倍富忠らの憤起、南部守行が應永十七年に糠部に根城をかまへて成せる糠部武士の威勢ぞ、東日流に無敵たる安東一族を渡島・飽田に故地放棄をなさしむ歴史の遺せる果断武勇の甲州源氏の流胤、誠に以て天晴なり。

津保化族發祥の地なれば古史太古にして石神の遺跡、數々に秘める日出づる東海の地濱より外濱なる内海に、糠部水軍なる小湊の安東一族の日本將軍・安倍國東は、糠部の景に號けたる氏名と曰ふなり。

圓空坊阿闍梨の遺文に曰く、

丑寅之日本國、為脚赴至糠部、望平々大草原、遊自在駒群、昇東海旭日、拝中尊曼茶羅両界、如觀赴巡脚。更丑寅宇曽利山卽恐山之異景、黄泉赴諸靈、此之山相集、在娑婆界生々在可之、残念迷冥、南無阿彌陀佛之攝取不捨、是救済淨門押開定佛場茲。

壬申三年
圓空

是の如く遺したる円空の心まゝなる文ぞ淨法寺に遺りき。亦近きは、

國基なる舞草刀工の恐山参拝文に曰く、

本願乃至十念を心に入りて糠部路を宇曽利山にたどる。外濱に打つ波の寄せ退く潮騒を耳にして濱辺道をたどり、多那部なる邑に宿り地民に古話を聞く。地民の曰く、此の地は都母にして太古に馬尾毛に縄をして丸太をしばり多數なる人馬渡り来たるは丑寅湖なりと曰ふ。宇曽利・糠部の人祖はツボケ族とて、一萬年前にして駒に乘りて駆くると曰ふなり。名久井山は神なる山にてホノリカムイを祀り、人の生は髙舘に居りて死しては糠塚なる處に埋むと曰ふ。その魂ぞ石となりて出るは久慈濱にありきとぞ曰ふなり。重ねて問へければ、この國ぞ西も東も黄金の出る國とも曰ふに、吾れ宇曽利に赴きて舞草にあるべく鐡を得たり。

天文二年関之住人
関之長光

是之如く糠部の地に探ぐりては、古期密々の史証ぞいでくるなり。東日流を一統し津輕藩をなせしは久慈兵藏にして大浦為信と曰ふ。卽ち糠部根城にかまえたる南部陸奥守源守行が末胤なり。

寛政七年三月一日
秋田日和見山之住
秋田孝季

糠部之史抄

名久井の山に日本中央とぞ都母の國碑卽ち國標を建つるは、安倍日之本將軍・國東の巡國碑なり。渡島・流鬼・千島・神威茶塚・北海に広大せる國々を日本國たる識智にせる故なり。海幸・陸幸は自然に備はり、土民は千古変らざる猟漁の暮しを今に傳統す。

我が國は古より山靼との流通に久しく、彼の國に住むる土民との通辨に達して親睦せり。北幸は得難き南の民に流通せば相互に栄ゆの兆ありとて、海運流通をなせるは安東船なり。始なるは、渡島になる土民のポロハタと稱す縛り胴式なる船にて山靼往来せしを、支那揚州船を工程に加へたるは安東船なり。

二重張・船胴蛇腹仕切・直立帆柱、風切斜柱帆の二柱に三十五反の帆を張りて海速より速くしてより孫々に栄運せり。卽ち風の吹力にて航ずる船なりき。糠部に湊ありきも東海なれば山靼に向かへて海路に遠かる故に、古人は親潮の流れを覚りはるかなるメリケン北アメリカンにぞ往来す。

太古にして丸太を馬尾綱にて縛りし、大筏にて地産の馬をも運び来たる傳説ぞ亦眞にありき事なりと、古老は曰く。

寛政七年七月四日
秋田孝季

糠部陸海異変之事

東海の濱、古代より海に津浪起り地震また多し。古人は是を海神の寝返りとぞ、濱イチャルバをなしてウンジャミを行ぜり。卽ち神へのイザイホーなり。地の古語にしてイチャルバとは供物をそなへ、ウンジャミとは祭壇を作り、イザイホーとは神事なり。

海神は、海を住居とし常に泳遊して時には天にも舞上がる、とも曰ふ。潮の満退きは海神の息の吐き汲ふるものとし、地震・津浪は陸川より出でたる泥汚の水を清むる神體の寝返りて起るものとぞ想いたり。これを事前に知るためなる月の満欠、年の暦をぞ知るべく要あり。

古き代より傳はりし、メリケンのアメリカン流民より傳はりしメクラ暦を、図に画きて天運を計り日輪の斜光・北斗星の天位に計り、十字の組立を地に立つる位間に計りて海平なる異常の上下あらば、イザイホーをなせる昔習なり。古人は是をチツエンと曰ふ暦をして津浪地震の事前に知るを得たりと曰ふ。

傳に曰く、糖部の地は東西に走るる神なる天道・地道・水道あり。是を名久井に祀るこそ除難をなせる神事とて牟琴・土笛・石笛を造りて祭事に奏でたりと曰ふ。古人は常にして七色織のカッペタを造り是く祭事に着用なしけるとは今に絶えたれども、田畑より鍬先に掘らる古き世の神器ぞ見らること暫々なり。

糠部を古期にしてヌカンヌップたるより至る地稱なり。亦、神なる名久井岳はナンクイカムイホノリより名付く山と曰ふ。何れとて古語なれば此の地に人跡古き世の歴史深きを偲ぶるなり。南部駒とは古来より野馬にして、あるべき地産馬に北アメリカンより渡り来たる種馬にて成れる名馬とぞ覚つべし。

寬政七年三月七日
秋田孝季