陸奥史風土記
第一巻
北辰は神威茶塚・角陽國・流鬼國・千島・日髙渡島國より津輕に至れるを日之本國と曰ふ。津輕は日之本中央にして是を意趣なし、津輕半島を中山と號けたり。抑々、奥州は古代より人跡あり。阿蘇部族を先祖とし、津保化族を中祖となしける古事十萬年の歴史を秘むる人の土着に世襲あり。史に傳へざる来歴ありて、語部是を密事に傳へむを陸奥史風土記とて八巻に綴り置く者なり。
鮮卑書に曰く、
東の日辺に日之本國あり。波濤千里の大海より日の出づる國故に日之本または日髙見國と稱し、我が國(鮮卑之國)にては是を安東國とて史書に遺りぬ。
とぞ曰ふなり。
日之本國の中央を東日流と稱し、東西南北の土着民族を併せたる百八十國、是を荒覇吐王國とて國の創とす。建國の初代王を安日彦と曰し、その副王を長髄彦王と曰ふ。王政の司は中央髙倉に王と副王を鎭守し、その東西南北に分倉王を配しぬ。是を荒覇吐五王政とて、北辰の領に配したりと曰ふ。その間、領域広ければ県柵、郡柵を連らねて能く渡らしめたり。かく王國に信仰あり。荒覇吐神とぞ曰ふ。是れ天地水の三神にてイシカカムイ・ホノリカムイ・ガコカムイの稱號にて自然天然みなながら神とせり。
二千五百年前、耶馬臺國に爭乱あり。支那國にても群公子の國敗れて東海に難を脱し、東日流に漂着せし民多し。耶馬臺國より落来たる民また多くして、その長を安日彦王その舎弟を長髄彦王と稱しける。支那流民、稲を耕しける民にて、東日流大里なる葦原を刈開き農を営むに、併せたる民ぞ耶馬臺國の落人なり。稲能く稔りて、地民等しく是に併せ、茲に支那國法に習へて、荒覇吐王を立君せしめ中山なる石塔山に卽位せしめたりと曰ふ。
石塔山は津保化族の聖地にて、古来より石神を祀りて久しく、是のときより荒覇吐神とて改むなり。要細せば先土民の神イシカホノリガコの三神に、落人たちのアラハバキ神、支那民の西王母・伏義・女禍の三神を併せたるものにしてその意義ぞ深し。わが國にて白山・三輪山を神とて祀りしは、支那より渡りたる故緣なりと曰ふ。これを一神に修理固成なせしは安日彦王にて、支那に饕餮と曰ふあり。悪なすもの總てを喰いつくすと曰ふを荒覇吐神とて號くと、今に傳はるなり。
奥州の古事かくなる史實ありてこそ、日之本國と曰ふなり。耶馬臺國之故地ぞ荒覇吐王挙げて奪いけるも、荒覇吐王系よりいでなむ根子彦二代を故地なる耶馬臺國の倭王と相成れり。孝元天皇・開化天皇とて君臨せしも、後胤崇神天皇の卽位にて恨離す。荒覇吐王領ぞ坂東の安倍川より越の糸生川に横断なして、西を倭領とし東を日髙見領とせしは、古王國二領の史實なり。支那史書なる史記及び山海經に載るる西王母神なるは荒覇吐神たる大要なりせば、古きこと日髙見國東日流を瑞穂の國とて覚つべし。今に遺る稲架郷(田舎)根子神神社に傳ふるは本巻の要傳なり。
寛政六年八月二日
和田長三郎吉次
秋田次郎孝季
菅江眞澄
上申 秋田倩季殿
第二巻
國を護り民を救済せるは、古代より安倍日之本將軍代々の君座にあるものをして至髙の儀なり。
安倍安國、安東將軍とて伊治水門に髙倉をなせるとき上毛野田道將軍、二萬の兵を挙し陸奥深く侵軍せしも、伊治沼に戦いて敗れ討死せり。以来征討の軍、陸奥に入る倭軍に非ざるも、安部引田臣比羅夫、奥羽の海辺を北辰討伐にいでなむも、東日流宇澗濱にて東日流北分倉王馬武、是を向へて應戦せり。飽田なる地湧油を海面に焚きて敵船百艘燃え沈みけるに、比羅夫降りて宇澗濱にて和睦の宴し敗退せり。その次年に韓の軍船を率いて東日流外濱に襲い来るを宇曽利の青荷ら應戦す。湾に浮木張綱をして、敵船舵を不自在とせり。依て、比羅夫再度捕はれて大波澗の獄に六十日間苦悶されし後追放されたり。爾来、倭の奥州征伐行ぞ絶えたり。
倭の奥州侵領の一義には、金銀銅鐡の採鑛せしを賦貢とせんが為なり。然れども奥州に髙倉及び分倉五王ありて、倭人の侵領を坂東より入れず、倭之武と曰す將軍とて敗死せり。荒覇吐王は武藏に永く在りて代々を經たる間、坂上田村麿の侵領あり。ときに日之本將軍安倍安東王たり。
田村麿、軍絡に非ざれば、連れ来たる僧侶や織女・諸職人を以て地民に傳へしなれば、田村麿の駐在たるを黙認せり。然れども安倍の臣下これを心よしとせず、田村麿を追放せり。倭史に曰はしむれば田村麿、奥州にありて蝦夷征伐華々しく記逑あるも、かく史實なればなりける。
世になかりける神武天皇を倭朝の一世とし、世に三百歳も生存せしと曰ふ竹内宿祢また然なり。倭史に記ある奥州史談、末世に造話作説せる諸史偽傳たりと心得べし。髙天原たる神國とて、天界のあるべきもなく天降る天孫のあるべきもなし。まして皇祖とて八百萬神、國創造伊邪那岐二尊、天照大神とて實在非ず。是筑紫に侵領せし髙砂族なる佐怒王の作為なりと曰ふは、鮮卑書に遺りけるこそ史實なりけり。凡そ日本國史に神代は非ざるなり。
神なる傳へ事は世界諸國にあれども、先人の幻想に依る事多くして、子孫に戒むる法の手段に神なる架空聖説を遺したるものとぞ覚つべし。人の心常に邪に赴き善成り難ければ、衆に子孫に人の界を越えたる神を全能の神通力とし、掟とし戒とし信仰とせしは神なる傳統の行事にて、人世界に實在せる史傳と異に思考すべきなり。陸奥の史傳に、かかる迷信の史はなかりけるこそよけれ。古代荒覇吐の古事より、天なる無限の宇宙を神と成し、萬物生命を世に産みなせる大地を神となし、生命を久遠に保つ水の活生、生死輪廻を以て統続せむを神とせしは、人心の生々流轉に修むべき教導の傳へなり。依て神を偶像に造らず、天然總てを神とし、是を崇むる身心の錬磨なるは信仰にして人の移り、過却の出来事を記したるを歴史と曰ふも、世襲に權政横行せば世に無きをも史傳とせる。
例にたどれば古事記・日本書紀みなながらかくなれば、紫式部の曰ふ片そばそかしにつき曰ふす處なり。神傳は人の身心に行う律を保つべく法典にして、人の過却史に非ざるなり。
東日流語部覚書に曰ふ。人の生命とて神なる天然より天秤に計りては、萬物のなかなる一命に生きぬるものにて、萬物に優るなし。天に日輪の光熱ありて昼となし、星光月光の無熱光ありて夜とし、萬物是に適生あるこそ神なる惠なり。一日の生命を保つが為に他生を生殺なして糧とせるも、生死の輪廻にして世に生命の不老不死はなかりき。世に萬代不死不老なるは天然なり。生滅輪廻なる生命なり。依て是を號けてアラハバキイシカホノリガコカムイと稱へむ。過去に現在に来世に是の理りを傳へて戒を犯すべからず。世に遺るもののために祈るべし。貧しかるもの、富めるもの、武威あるもの、智謀なる偽善のもの、破戒せる悪人といはれるもの、總ては自然の神子にして特生なし。
人は律を作りて人を裁くは罪なり。人を捕へて労使にせること、また然なり。鮮卑書に曰く、世の勝者は非理法權天なりと。是の如く遺せし教典ぞ東日流語部録にて、日之本國の聖典なり。能く是を保つべし。
寛政六年七月一日
秋田次郎孝季
和田長三郎吉次
菅江眞澄
第三巻
世に傳ふる西國の史に、陸奥國を蝦夷と稱し、化外なる藩民とて卑しむ。西國に襲ふなく、また彼の史に傳ふる逆きたる蝦夷とは何事の事件なるや。
奥州は太古より日之本國と國稱なし、國を治める荒覇吐王の累代あり。東日流の都母を日之本國中央と為し、北辰は常雪國に至るまで國領とせし王國なり。東北に白夜常昼國ありて大陸にして、夜虹・角陽の神業を見ゆ、神威茶塚國の東西に列する島あり。西なるを千島と稱し、東なるを久利流島と稱し、その東國を群鹿牛國と號く。北辰海に海獣魚群の幸多くして、渡島の北に流鬼國あり。その西に大陸大河あり。天竺・支那・朝鮮まても続きけると曰ふなり。
太古に吾等が祖先の渡り来たる道しるべありて住むる民みな乍ら面立、吾等と同じなり。言語異なるも、半年同居せば相通じて古きより往来す。羊・牛・馬群多くして東日流に渡りきは五千年前なりと曰ふ。また東海はるかなる國より、まだら毛なる馬を渡らせ来たるは津保化族にて、南部の都母郷はその故地なりと曰ふ。
陸奥の國稱は日之本國、日髙見國とて東西に区し、その郡郷百八十を以て奥州とせり。渡島は日髙國・北見國に南北に区し、その郡郷二百二十を以て渡島國とせり。北見國の北辰に流鬼國あり。後世に是を樺太と國稱し、荒覇吐國領とて併したり。依て東日流を日本中央とせしは、日之本將軍安倍安國が宣號なり。支那に元國起りて、この領域を元領とせむも、住人是に従ふなく安倍日之本將軍保護領とて地のオテナ及びエカシらの定を交したり。
是を日之本國領式目とて鮮卑國王に宣書をなし不可侵を約したるは、支那満達黒龍江碑に遺りきと曰ふ。上図はその通府の推移にありき跡図なり。明細なるは鮮卑書に読むべし。吾が國は國土せまき故に人の満たる地より此の異土地に移り住はせしは、此の宣約より移住せしめたりと曰ふなり。
日之本は彼の國にては安東國と稱したり。そのときにあたりて、西國は倭國とて國領爭いて安しきなく、民を捕へて王墓を築かしむこと朝鮮王・支那王に似習なして苦しめたり。筑紫なる邪馬壹國の亡ぶる故もかく因習の久しきにありて、奥州に船漂なして土着せる民多し。是を救済しける日本將軍ぞ安倍國東なりて、筑紫にてはかく救済地の湊を國東と號け大元神社・姫島神社を建立なして遺せりと曰ふ。後世に田村麿將軍、此の神を奥州の田村郡に分靈なして祀りきは、三春大元神社なりと正傳す。
支那史書とて、吾國の史傳を記し置きける諸書に於て眞に価あるべきは少なし。本居宣長氏に曰はしむれば、倭人傳なぞは信ずるに足らずとぞ一蹴に伏しつるなり。然れども、西國の史家ぞ奥州をも史に蝦夷とて化外民とて無史空白の非践に伏し置きける多し。依て茲に日之本史を覇東幕の掟に背くれども、遺し置かざれば久遠に生滅せむが故に、本巻に是の如きを記逑し置ぬ。
鮮卑原書に曰く、日本國東日流自中央至北辰諸國主之管書と曰ふ長題文書に次の如く遺りける。
日之本將軍安倍安國王之宣布書
- 東方大國白夜常夜國主
- オテナキムリル
- 東方久利流列島國主
- エカシフマカシ
- 北方神威茶塚國主
- オテナカシムリ
- 北方千島國列島主
- オテナキリエカシ
エカシフリガヤ - 北方流鬼國主
- オテナオキシリ
エカシタタカマ - 北見國百郡主
- オテナタルシヤム
エカシウルシカ - 日髙國百郡主
- オテナフルシヤマエン
エカシケシシヤマエン
- 渡島十二舘主
- 安倍髙賴
髙畑信親
火内賴母
比井時忠
村山權悟
安倍國任
亘左京太夫
玉置權之介
柴田賴継
黒川次郎作
和賀猿之介
雄勝太郎光繁 - 代主流鬼舘
- 田村賴廣
- 代主千島舘
- 稗貫十左衛門
- 代主神威茶塚舘
- 膽澤三郎太
右之武家日之本將軍名代とて北辰に重任せり。
- 外三郡東日流
- 藤井作之進
- 北之部宇曾利
- 迫亥八郎
- 檜山郡火内
- 日河次郎
- 安代郡鹿角
- 豊島成繁
- 髙清水飽田
- 川辺甚悟
- 宮澤郡伊津
- 菊池貞一
- 猿ヶ石郡閉伊
- 鹿鳴玄馬
右之武家を以て安倍軍將如件。
天正三年豊間根帳御屆文書
寛政六年七月二日
秋田孝季
三春倩季殿
第四巻
東日流之古老話説に曰く、昔安日川の水源なせる處に白髪の翁住居りき。安日川東に流れつる處糠部にて、都母の民ぞ住み馬を飼にし古き代の馬族なり。玉寶をも好みて玉造あり、金を採鑛なせるタダラ師・海に航せる海人・山に木を伐る杣夫あり。互に暮しの物を交し睦みて相住分居りぬ。
安日川の水源なせる山を安日岳と稱し、荒覇吐神を祀りき聖處ありて、そこより西に米代川、南に日髙見川ぞ分水せる靈山なりき。傳説にては此の山に白神姫住みて天なる神イシカ・地なる神ホノリ・水なる神ガコに仕へ居りぬと曰ふ。白神姫の令命は知る者なく、その相ぞ見當たるもの非ず。冬に至りては素足跡ぞ雪に踏残せるを見たりと曰ふも、定かなるを知らざる風説なり。
ある日の吹雪強ける日、この翁の外戸をたたきし女人の声ぞありて、翁この女人を入りければ、顔相若きけれど髪のみ白髪にして、鳥の白羽を衣となし首肌に勾玉重けく數に飾り居りぬ。彼の女人曰く、吾は安日岳の姫神なれど使ふる熊、傷負いて難儀せり。依て汝老翁に採干たる薬草あり、とて神告あり。施を得むとて山降り来ぬるなりとて哀願なせり。
老翁、心に薬草採せる覚え無ければ、その薬なる干草ぞ吾が家にあらむやと問いければ、姫神答へぬ。汝れが家の飼馬草に量多ければ分つ下されたしと曰ふなり。はてさて馬草のなかに薬草ありやと老翁、もどろなれば姫神、馬小屋に立ち入りて選ぶる薬なる干草、百種に多し。安日岳の神なる安日彦命・弟なる長髄彦命の矢傷をこの草にて治したる傳へあり、イシカホノリガコカムイの御告ぞあり、使の熊を救はむ。とて姫神、取急ぎて百種の干薬を鍋にせんじたり。
能き湯香に黄金の如き湯色になりしを、マタギに射られし矢傷七矢を引抜きてかけぬれば、血のいでむは止まり肉皮の傷、見る内に閉ぎたり。老翁驚きて、是なる薬法の造作ぞ姫神に請ふれば、一巻の書を置きてその相、消えゆきたり。これぞ安日岳妙薬秘傳にて、今に遺りける百草丸なりと曰ふ。
史に曰はしむれば、太古に安日彦命、耶馬臺國より北辰に行かれよとぞ天に導光あり。地に草なびき水を渡るも難非らず。此の岳に来りと曰ふ。此の山に土着せし神ぞ三神にして西座に西王母、東座に伏羲、南座に女媧の神祀り、かく神座を護りたるは白神姫にてそれなる子孫に姫神・白山神・黒姫・白鳥・白鹿・白鶴・白馬・月輪熊・白蛇・白龍・白鷺・白鷹の十二神、諸國に渡りぬと曰ふ。
安日彦命、この山頂に石神を靈塔に築きて東の北の十二神とて神なる祈念をなしければ、山渓至る處に百薬草華盛りて地人の病を治したりと傳ふ。亦、安日岳に源泉あり。地湧湯ありて今に湯治の人登りゆく道を末代道と傳へむなり。
安日岳を東西南北に金銀銅鐡の鑛あり。荒覇吐王の資たり。安倍一族をしてこの山を護り淨法寺・西法寺を東に建立なし、奥州泰平を祈りて飽田の山を泰平山と號けたりと曰ふ。長蛇の如き日髙見川、奥州金山の秘をなして流れ出づる泰平、海も東の護りとこしへたれ。奥州之五龍神とは青龍安日川・白龍米代川・黒龍雄物川・金龍日髙見川・銀龍最上川を曰ふなり。
東日流語部録十八巻に曰く。もとより古代奥州の神は阿蘇部族・津保化族に創まれる神にてイシカホノリガコカムイの他に神は非らず。亦、石土を用いて造れる神像もなし。天なるイシカは昼と夜を司り、冷と湿を配して地なるホノリに降らしむ。ホノリ是の光熱を受けにして水なるガコと精を結びて生種萬物に生命を芽したり。依て生々萬物みなながらイシカホノリガコカムイの化を平等に授かりし由緣・故緣にあるべき。
荒覇吐神とは支那天山天池に起りき神にて、西王母黄河の辺に起り、女媧・伏羲の神ぞ渡り、太白山信仰にて朝鮮白頭山信仰と相成り、金剛山・太白山信仰より吾が國なる加賀に渡りて白山神・三輪大神に信仰を成さしめ、耶馬臺國の三輪山・膽駒山に祀らるは耶馬臺王の信仰故なり。荒覇吐神とは、かくの如き三神を一如とし崇むる後稱なり。
寛政六年七月二日
秋田孝季
藤井信親
第五巻
ヒノモトハツヨコソサカユアラハバキノカムイソナリマスヤマタイノオオモノヌシノカムイシラヤマヒメカムイナリマセテアヒヒコノキミトミノナカスネヒコノキミマツルツホケノカムイイシカホノリカコカムイトマオス
ヒキノモノノへ
右、羽州飽田物部家文書。
奥州氏神系譜
- 白山毗咩神之系累
- 天山天池桃源境之神西王母
- 宇宙創造之神伏羲
- 人産之神女媧
- 悪性生滅之神饕餮
- 生死司神喰人虎九首龍
右、加賀犀川郷三輪山白山神社文書。
石切神之系譜
- 振部五鈴姬 熟速灾之命
- 物部氏神
- 富雄眞弓 膽駒白谷
- 祀主長髄彦
- 蘇我明日香姬 大物主之神
- 祀主安日彦
- 大鴉那智命 熊野尾崎姫
- 祀主磯城
- 朝熊伊勢命 志麻五十鈴姫
- 祀主蘇我氏
右、紀州尾崎氏文献。
筑紫邪馬壹系譜
(※図をご覧下さい。テキストは参考用に表示しています。)
桂川系 宇佐明神 森・姫島・来縄 安東
寄藻川系 石原神 石原・宇佐 耶馬壹
向野川系 大元神 御許山・大藏山 安東
驛舘川系
赤塚神―安東髙倉―廟守邪馬壹―丸盛安東—勝伏盛—面芽台—車坂―女鹿―野口—桶志利―宇伊陀―芽加―髙井―凶首―身幡―宇井原―井原―奈加川―上宇羅―別府―伊那利—稲架—和尚山—妙見—髙並—江羅川—津房川—下毛—新鄉—津間蠣社山—笙野具地—深見川—龍王—鳥越台—砂陀—米神山—京石—山倉—雲獄—砂陀川—廣谷
右邪馬壹王領也
伊呂葉川神系
筑紫熊襲—京徳—和陀—伊戸口—加津原—小倉池(天池)—稲地見—犬丸川—五十石川 日向猿田彦之領
右、大元神社文献也。
享保二年八月
緒形彦次郎写
耶馬臺國大系
(倭國王は後世なり)
耶馬臺神傳
占術
- 従震動身血脈感覚法
- 晋断 震正
異時 震熱
死 無 - 横震心脳神靈感覚法
- 晋断 欲感
異時 幻感
死 無感 - 感覚法具
- 糸張 坐震 計尺
- 腹震
- 計尺
古き世に人體にかかはる一切の罪障・怨靈・降魔諸病の卜法とせる祈禱法具にて用ゆ。
病古血吸除法
- 蛭虫吸血法
- しま蛭よし
- 火入壺吸血法
- 針にて血出し火灰残らざる燃火を壺入なし針突ける肌に素早く壺口を當つべし。油台より
- 熱石當法
- 肌よき円平なる石を、熱湯また火に熱たるを布に包みて、五體の疫部に當つべし。
飲草薬法
- 萬年草
- 胃によし
- とき草
- 心臓によし
- 犬庇草
- 内眼全てよし
- またたび
- つかれによし
- 丸葉ねぎ
- 毒消によし
- にが草
- 胃痛腹痛によし
薬虫貝鳥獣用法
- まむし(干)
- まごたろうむし(干)
- たまくらみみず(干)
- だんぶり(干)
- さわかに(焼干)
- なめくじ(生)
- ほや具(生)
- なましずみ(生)
- ほたて貝(干生)
- はまうに(生)
- あわび(生)
- さざえ(生)
- 鳥卵(生)
- 鳥油(焼取)
- 熊川(干)
- 鹿角(刻)
- べと土(生)
- わかめ(干)
右は干物・生物・分つて食飲、是鮮卑國之医法也。
物部氏薬学書
筑紫磐井王之事
筑紫磐井王之系は祖、邪馬壹王之系にして太祖は髙麗の血流なり。彼の一族ぞ東の耶馬臺王の分倉王なれど、日向の髙砂王東征に勝じてより彼の臣に従ふなり。日之本將軍安倍國東、筑紫宇佐を日向王より奪領せしより古に復せり。
代降り前九年の役にて安倍鳥海三郎宗任、鎭西に配流さるを契に安倍・磐井之緣族併せ、松浦水軍とならむ。倭朝是を怖れなし都度の討征をなしけるも滅亡なく、後世に安東水軍をも北辰に起せむ水軍祖なり。
肥前平戸松浦氏古書
寛政六年十二月
秋田孝季
三春倩季殿
第六巻
日之本國領図
安東船廻航図略 東日流十三湊三吉築堤番
文治元年八月一日製図
安倍次郎兼任
安東水軍記
自古代於東日流國開海路、異土無人國為日之本領、宣支那・朝鮮國帝認印賜、奉征航萬里自日之本中央國東日流十三湊、征北辰新天地山海、建國標記國、地図是日之本國荒霸吐王累代之領國、以為諸藩國宣達給者也。
文治二年八月十六日
日髙見東日流國
日之本將軍
安東太郎貞季 花押
右、宇曽利阿吽寺藏写。
荷薩丁諸傳
奥州荷薩丁郷は糠部より日髙民移り住たり。水利便よき河辺・里谷を拓田なし、稲作北上大河(日河とも曰ふ)大里を南に住居を広げむ。是、日之本將軍安倍累代主の大慈悲なればなり。
荷薩丁に淨法寺・西法寺の中尊法場を建立せしは渡島に漂着せし韓僧瑞覚なり。彼の僧は心身永住を正命し、佛寺建立を時の安倍日之本將軍頻東に請願しければ許され、淨法寺を荷薩丁に西法寺を閉伊に建立なし、更には飽田に日積寺、生保内に石尊寺、羽前に白鷹寺、和賀に極楽寺、平泉に佛頂寺、陸前に栗原寺、岩代に一切經寺らを建立せり。
然るに、倭にては是を外道邪宗門とて、羽黒山伏らに目安をして灾たること暫々たり。然るに倭僧の慈覚坊及び大峰行者役小角仙人ら、是を援けて成達開山せしむ。日之本將軍安倍頻東とは安倍安國がことなり。(原漢文)
文明十一年五月一日
羽州飽田之住
由利貞賴
平將門遺姫楓之哀傳
天慶の乱にて將門討死せる後、一族難を奥州に脱す。ときに將門に楓と曰ふ遺姫あり。藤原秀郷、豊田の里に楓姫の行方を自から探追せるも、見付くる能わず。忍の者をして奥州に探求をやまざるなり。楓姫、父平將門、母安倍國東が二女辰子の間に生れし姫なり。將門、坂東の八平氏の系にて少年の頃膽澤にまかりし頃より末を誓し仲にて辰子を豊田につれゆきぬ。
然れども將門に正室あり、身重なる辰子を日毎に妬きて、辰子奥州に歸りたるに、將門是れを哀れみて辰子を尋ぬるもその行方知れず、詮なく歸りけるも正室に子無ければ、辰子の生みける子を探しける。ときに辰子、生保内郷にあり。世を忍びて石尊寺に住みて楓姫を生みける。然るに楓姫、生れ乍らにて病弱にて十三歳にして生死をさまよう重病たりしに、母辰子是を田澤湖石神に祀らる青龍に娘楓の延命を祈願しければ、湖より白髪の仙人顯れ辰子の身を生贄に望みて叶ふると告げたれば卽座に辰子、田澤湖に身を投じたり。
ときに生保内に床伏せし楓姫、身體強健と相成りしも母の行方知らず、降るほどの緣談も断って日夜神佛に母の行方を祈願せしに母、幻に顯れて曰ふ。
姫よ、汝が父は平將門なりと覚へよ。逆賊とて討たるれど、汝は門閥髙き安倍氏・平氏の血累を授にし身なれば徒らに母恋しとてただ日送りしは、われ竜神に生贄たる甲斐もなし。母死なずば汝は死すとて、われ田澤湖の深く清けき辰宮に歸ざる宮仕へたるも、將門を神皇ならしむ一念と次に汝を末よき緣に惠まれて終生長命に幸あれかしと祈らむを忘れまず、
とて却りぬ。夢とや、楓姫それより豊田郷に父將門の遺髪を得て生保内に歸り、田澤湖の母逝きにし湖底に沈めたり。然れども豊田郷より殺客あり、楓姫、春まだ浅き宵に生保内郷に果てたり。歳十九の娘盛りを血に染めて里人達、楓姫を涙に葬りたり。
塚に山吹芽え桜咲きぬるを誰ぞ詠みにしか歌遺りぬ。
〽山吹の華にも似たり將門の
遺姫はねむる生保内の郷
〽子を想ふ母の命は水月の
神に献げむ田澤湖哀史
寛政六年七月十三日
秋田次郎孝季
第七巻
東日流の創めを一萬年と人祖の歴史を傳ふる史書あり。是ぞ石に刻むる古代なる遺物なり。東日流にて田畑を拓く地所より出づる古代なる器・石片・岩版なるものに遺りぬ。
東日流にては、是を語部の傳へとぞ曰ふなり。十腰内と曰ふ邑より出でたる石の遺物に左の如き印を刻みたるを見る。東日流吹浦日和山より出でたるるもの左の如し。東日流林崎畠より出たる壺左図の如し。東日流舘岡邑より出づる神像如きもの左図の如し。東日流平賀邑より出でたる童足型左図の加し。東日流行丘邑より出でたる石の道具左図の如し。十三邑三吉砂山より出でたる石神如きもの左図の如し。
是の如き○印△印―印なるは古き神にて、一萬年前なるより創むと傳ふなり。
文化三年八月一日
語邑 越後屋惣兵衛
東日流語部之事
王たるの持続は、民の賴れる先達の威に身心を保たるに在り。理を重じ法に平等を欠かず、權を私にせず、己れを天命に立命を安ずる王こそ聖者と仰がるるなり。
民をして徒らに私利に欲し、他人を下敷になし、是に反感を向へくるを殺生などの戒を犯したるものは、如何なる財に富めるとも罪の消滅はその富力にても免罪脱がれ難しと覚るべし。亦、王をして財ある者、權力にある者耳を近臣重臣とせば、ほぞを噛むあり。民、反乱ありせば王權にしばらくは留むれども、永代の持続叶はざるなり。
茲に、陸奥日之本の國に荒覇吐王の掟あり。是の故に如何なる世襲に難をこうむるとも主従の契ぞ崩壊ぞなし。時には地領を侵さるとも、王たるは民を先として難を免がしめ、王城焼かるとも城を枕に殉ずるを策とせず、一兵の命脈も難に退かしめ、戦利ありて誅滅をなしければ名主なり。城は焼くるとも建つれば建つる、人身人命失えば歸らず、久遠の消滅なりと戒しめぬ。
安倍賴良をして陸奥の王光は消と見えて消ゆるなく、東日流の地に安東一族とて再挙なし、徳川の大名とて三春に在藩大名とて今に累代せし秋田氏。浮沈の過却あれど古来より荒覇吐之神はわれら一族を常にして日輪を眼とし、月を鏡とし、星の光明を以て三界の運勢とし、風の接触を以て守護し奉り久遠の遺命にわれらを甦せる、全能なる神通力の故緣なり。
依て安倍・安東・秋田に氏姓を轉じたるも、かれら一族の血累は緣るものをして救済なきと、能ざる今上に嘆く切れ。心身淨かに安心立命なし、己れを天命に安じべし。荒覇吐神は、天地創造よりの神なり。如何なる氏姓にありて現在にありとも一族をして神に忠實たれ。
寛政五年十月
和田長三郎
第八巻
日髙の東海に冬至りて、神威茶塚より飛来せる大鷲、千島より飛来せる尾白鷲は白神の使者にして鯨群・海狸・とどの群ぞこれみな神なる使者にて、住む人の飢を満せる施なりと狩りぬ。鷲羽・海獣肉皮を寒干なして安東船に物交せるは、冬期の明けたる海氷の去り逝く初春に商ふなり。
陸にては鹿・熊など毛皮、鹿角を物交とす。この荷總て支那・朝鮮に陸揚りて金銀絹織の物交商と相成り、十三湊に入り交ふ船ぞ多し。干鰊・干鰯・干鱈・干鯖・干貝・昆布等なる海産にある市のあるべき濱明神問屋のにぎはふ異人の言葉に仲立人として語を通達せる者、多くは手足の芸に決りて商ぞ成りける。
安東船に五種あり。一は軍船にて二は荷船、三は速船なり。四は河船にて五は漁船なり。多くは荷船にてその造同じかるなし。安東船とて異土に海航せしは引田臣比羅夫、津輕を侵したる後なり。宇澗之濱にて和睦の宴をなしたるは武運利非らず、宇澗之武に軍船を五十六艘を奪はれたる談議の宴とぞ曰ふ。宇澗之武は荒覇吐分倉王にて、降りたる比羅夫は誰なく三十艘の残船に詰乘りて歸軍せりと曰ふなり。荒覇吐族に大船を得たるは是のときよりと傳へむ。
ときなる語部録に曰ふは次の如くなり。
吹浦濱集荒霸吐之軍人七百余人、以波陀舟燃海黒油流。時倭船九十二艘焼沈、降首船敵有將稱引田比羅夫。茲為談議、船積之荷一品不残、生傷之者百七十二人為將臣三十艘詰乘追放。船頭・船工六十人捕残。爾来船航・船造起、津輕寄船造湊、成荒霸吐水軍、是安東水軍創也。
永禄二年九月五日
語邑越後屋
写 濱明神帳二巻
寛政五年八月
吉次
第九巻
百獣の王饕餮といえども、飢ては力出でざるなり。生々の法は先づ以て飢ざるを先とす。荒覇吐の民は古代より、死を賭けて護る攻むるの生生をせず。護るに利ありては護り、利非らざれば放棄して退き、生命の安全たるを先として一族の天地を諸方に備ふ。依て北辰の未知國を知り支那・朝鮮の交和に協め、一族に危急ありせば先づ以て領民を避難に及ばしむ。
次に糧と財を残さず、馬一頭・鶴一羽・穀物一粒も敵侵に奪はれたるなし。柵は焼け家棟は残らずとも人に生命安全たれば復さるるとし、死を以て戦に殉ずとは講釈談よけれとも實益に非らず遺るものなし。依て荒覇吐族は古来より、寄せ討つ退去る海潮の如く、代々に一族和合を暮しの常とせむは、荒覇吐國の倭に侵ざる化外とぞ蝦夷民とぞ史に遺らむも、倭史に於ては古今に通じて史實に當る陸奥史は無し。
世々の權襲倭史に独さるは、倭史如き既版の陸奥に非らず、荒覇吐國の一行すら無き記逑を信ずるに足らざるなり。世に無き人・皇人・武人・師を以て作説せしは講談にして、史實に非らず。陸奥史の語る倭史ぞ、ただ古今を通じ征夷の因緣付たる正統造りに用いたる民心への偽証なり。律令五百條・千條の戸籍の奥州に至るとは偽証も甚々しく、倭軍柵の陸奥に設さる和交賦貢の納税あるが如き多賀城・膽澤柵・秋田柵など何故以ての倭人城柵ぞ、茲に断言す。
康平五年厨川柵に敗らる安倍一族の代まで、奥州は白河以北領ぞ日之本國にして倭の國に非らず。依て官軍たる源氏の重なる奥州攻めは、前九年の役・後三年の役・平泉の乱・甲斐源氏の奥州侵駐は、津輕・南部を藩主に流胤せるは未だに征夷の絶しざる朝幕策なりと心得べし。
是ぞ末代ならず、いつ代にか朝幕の亡ぶる世に至るまで、我ら荒覇吐の血肉を末代に發起せむを子々孫々に傳ふは史實の他に非らざるなり。天命は平等なり。我等なに故の売國、なに故の夷人ぞや。奥州は日之本國にして古来十萬年の歴史に通じ世界に渡りて生々せる荒覇吐の血累ぞ、世に睦ぶるの日ぞ遠きにぞ非らざるるなり。
慶應元年三月
秋田城之介種季
右之状、原漢書にして焼失す。
依て茲に明治四十二年八月二日田村三春藩書より和田末吉写す
渡島之太古史
白神岬より大千軒岳・乙部岳を惠山岬より駒岳に東西を海濱に進むを號けて東を湖海道、西を神威岬道と曰ふ。更に進むる東を日髙道、西を留萌道と稱し、更に進むる西は流鬼國に至る。東は千島・神成茶塚に至るも、東西の間に北見道あり大國なり。中央に大雪山ありて渡島國の中央とす。
此の國は古代より海幸・山幸を豊かにし海に山に居住せる世に、是を歴史に神代また國の創とて明らかなるはなし。事多きはすべて傳説に属し傳ふること一統せる史に遠く、ただ神なる語り草につきるなり。然れどもかく語り草に一統せるは、人祖の創めを天地水の三要を説けるは、わが日之本國と相通ける多し。
神とはカムイと通ずる如く、アイヌとて人の種を異にすべきに非ず。祖は同じ乍らも流通に代を隔てたるが故のためなり。村ひとつ離れて変る天が下、と諺にありけるが如し。渡島の太古に相通ずるは信仰にして、イオマンテヌササンの祈りは荒覇吐神なるイシカホノリガコカムイと稱ふる意趣ぞ異なるはなし。
寬政六年十一月
秋田次郎孝季
倩季殿
陸奥史風土記 第十
注言
此の書は他見無用にして門外不出とせよ。
和田長三郎吉次
明治己已年
和田末吉再書
つがるのしるべ
菅井眞澄の事
寛政五年六月二十七日、白井英二津輕飯積に来たり、髙楯城跡に安東一族の遺跡紀行に訪れむ。髙楯城跡を七日に渉りて調べ書くの間、石田坂村間山甚四郎家に食客なし髙楯城史傳、筆頭に詠じたる歌ありぬ。
〽もののへの かけしよろいかふつなみか
よせてをまたて あわときえけむ
永保元年に髙畑越中、築ける。安東髙星丸の重臣とて平川郡淵崎城を築くが故に奥法郡要堺に砦を成し中山より檜材を奉行として伐し、その運材一切をなせにし飽田之豪士にて、日之本將軍安倍厨川太夫貞任の重臣にて、貞任が遺児髙星を護りて厨川落城以前にして来るものなり。
乳母・中一前は越中の妻女にて康平三年、己が乳児を失いしより髙星丸の乳母たり。髙畑越中、寛治二年の春この地に役自し、永保元年に淵崎城を落慶せしめたる功にて玄武砦を領せり。後世にては萬里小路中納言、是を髙楯城と改む。もとより護攻要害の城なれば天正十六年、大浦為信の津輕一統の野望に塞がって十有余年に渉って抗したり。
ときの城主朝日左衛門尉藤原行安、自から城を焼きて一族郎党自刃して果たる歴史のありけるを白井英二、涙にこめて書遺せしは津輕藩によろしからずとて、白井殿が日誌より奪除せりと曰ふ。
寛政七年六月十六日
田口与右衛門
神兆
赤き雪降ることあり。赤き月光照らすあり。赤き海潮の流るあり。是れ何事の前兆なりや。古人是を神なる血涙とて家口に鳥獣の血を塗りたり。
古傳に曰く、天地水の神とて生死あり。その起れるとき血涙ありと曰ふ。ときに夜をして霧ぞ生物の如く人の住家を襲いて魂なる無き人を造ると曰ふ。卽ち人と生れ、人たる生々を得ざるものなり。依て茲に諸々の神兆を説かむ。神なる事傳、多くは諸書に於て荒唐夢幻に想はる多し。依て神なる報復を受くるなり。
人の創れる神にては何事の靈験顯はるるなし。神なるは相なく、神通力は雷電・地震・噴火・洪水・津浪・龍巻・神風・流疫・旱伐・流星・極寒・飢餓らを以て顯はす。神なる救い・罰の眼ぞ昼夜に無休なりせば、如何世視に己が造悪を隠せしも免れ難し。
古代より神なる救済と誅伐の古話遺りぬ。人に生るる者に聖なく、神司なさむ者とて神なる神示の見るものぞ少なし。神に神示を授くは、求道に不惜身命なる行者に耳覚らるなり。古来、神行を人の便利に謀りて如何なる道場を造りて集むるも、神なる降臨のあるべきもなし。
神なる鎭座にあるは、宇宙自在に山川自在に水中とて自在にして常住なりせば、その神通力全能にして不滅なり。萬物を生死に以て轉生せしむは、神なる裁きを免がること能はず。人に生れ智謀に更け罪障のものは、神なる裁きに依りてその甦を人體に得難し。造悪にして悔ゆなき人生ぞ、救はれざるなり。然らば如何に求道の行を為して救済さるるや。
無常に人生を想ふるも救はれず。亦、神をも無とせるも救済に遇ふなし。神は天然にして地境異なる候に在るとも、適生萬物、神の化に依りて生命を授くものなり。然るにや生命を保つにや、諸々にしてその生命を食はずして保たれず。その故に萬物は生々をして罪にあり。生死を以て轉生の裁きを受くなり。
人にして神の授けたる自體を、ただ魂に弱く體欲に角くる多ければ造悪とならむ。常にして體欲を制へむ心の強けくありにしては、善行にして萬物のなかに人身を末代に失ふるなし。神は天然自然總てなりと心得て、行にアラハバキイシカホノリガコカムイと稱名をなして生々せよ。
寛政五年九月十九日
和田長三郎吉次
神事極秘帳
神木ジャラとは三股の千年木を曰ふ。神靈天地水の宿鎭せるヌササン、卽ち神祭場なり。櫛無き聖木を以て左図の如く施工なせるを祭壇とせり。
是の如く祭場を為せるは古来なる、天なるイシカ・地なるホノリ・水なるガコのカムイを請迎せる習へにて久しき祖傳なり。
次には三輪を葦にて造りヌササンに入る神門とせり。左図の如きをイザイホーまたはイシヤホーと稱す。中門をカムイの入る門とて人は通れざるなり。右門は女人、左門は男人の門とし是の如く施工せり。次にイオマンテに備ふるものとてウタキの聖水、ウンビスの聖水、ベツの聖水を供ふるなり。卽ち海水・湖水・川水のことなり。
水汲の行事にては、オテナ及びエカシの定めたる聖なる處より幾里の遠きにあるべきも汲取りてヌササンに供ふるまで地に置てはならざるなり。また道中に器に汲みたる聖水を蓋取りてのぞくるも禁じたり。イオマンテに魂なる使者とて、イシカに捧ぐる鳥・ホノリに捧ぐる獣・ガコに捧ぐる魚をばオテナ及びエカシの仕留の矢またはマギリに依りて奉行に至るまで活したるものとせり。
寬政七年八月三日
和田壹岐
葬禮之事
人の死せる遺骸をダミと曰ふ。死しては頭を北にて寝かしめ、顔面に紅を塗つべく習あり。埋む可き處に石室を積組めり。左図の如きは、古きより傳ふるものなり。是の如く埋むは、荒覇吐の葬なり。
寛政五年十月一日
秋田孝季
老骸寂滅魂魄新甦
世に形あるは壊れ、生あるは死す。永世に金剛不壊なるは無し。然れども魂魄耳は不滅にして、その相無けれども不死なり。生命は相あれども老易く、また一刻を過ぎ逝く毎に至れるは死なり。死の至るは刻を定むるなく、明日・今日逝くとも是く覚ること能はざるは世の常なり。
世に生を授けにして久遠に非ざるを覚りつも、人は明日を永続に夢追て寂し。その生涯をたぐりては空しき耳、遺るもせず、遺族にて建つる墓だにも無きあり。欲してやまざる人生も、己が受く果は無常なり。人をして世の末までも名を遺すあるも萬過に少なく、維新は古きを省みる無ぞ多し。
日之本の國とて元なせるも倭に號を奪はれたる如く、征者は賛美を遺して偽を余り、敗者は彼の呼ばるるまま蝦夷たる化外の民とや。今尚にして底きにあるべくやも、世襲は末代ならず、勝者のおごりもいつ世にか敗者の報復を受けむは世の常なりき。
生死は是くあだるさま、逝く水の泡の如し。人の生死も無より生じ、無に逝く往来なり。萬物に生をなせども、總て生死の輪廻ぞ駐まらず。日輪の朝夕の如し。生々流轉し雨水の如く雲より降りて、渓を流れ川となり海となりて雲と昇るは見ゆねども雨となり、その輪廻は絶ゆむ無し。
寛政六年七月二十日
秋田孝季